デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
2節 中央社会事業協会其他
1款 中央慈善協会
■綱文

第30巻 p.490-494(DK300054k) ページ画像

大正4年6月11日(1915年)

是日、神田ノ基督教青年会館ニ於テ当協会ノ例会開催セラル。栄一之ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK300054k-0001)
第30巻 p.490 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 雨
○上略 六時青年会館ニ抵リ、鈴木文治氏ノ米国行ヲ中央慈善協会々員ト共ニ送別ス、食卓上一場ノ演説ヲ為ス、畢テ岡山孤児院ノ幻灯説明アリ、夜十時半散会 ○下略


慈善 第七編第一号・第一〇五頁 大正四年七月 本会例会(DK300054k-0002)
第30巻 p.490 ページ画像

慈善  第七編第一号・第一〇五頁 大正四年七月
○本会例会 同日 ○六月一一日午後七時より例会を開き、上京中なる岡山孤児院感謝報告隊の主任小野田鉄弥氏に同院の現況に関する幻灯の説明を乞ひ、終りて二・三の質問応答ありて、閉会したるは十時過なりき同幻灯説明は極めて明晰に同院の現状を示し、故石井院長が殆んど三十年間の久しき自己の生命を賭して奮戦せられたるの跡を偲ばれて、感激の情禁じ難きものありき(小野田主任の説明大部は別項雑録に在り)同夜の出席者は前記数十名の外、尚二十名内外を加へ近来稀に見る盛会なりき。



〔参考〕慈善 第七編第一号・第九〇―九六頁 大正四年七月 岡山孤児院感謝報告会(小野田鉄弥)(DK300054k-0003)
第30巻 p.490-494 ページ画像

慈善  第七編第一号・第九〇―九六頁 大正四年七月
    岡山孤児院感謝報告会 (小野田鉄弥)
 岡山孤児院は優渥なる神の御恩恵と天下の有志者諸君の深き御同情とに由りて今日迄進んで参つたのであります、夫れ故石井院長は永眠に先ち、院の職員に対して「神様を信しなさい、さらは何の懼るゝことはない」と励まし、且つ自分に代て篤く天下の御同情者方に御礼を申上けて呉れる様にと遺命致しました、其遺命を実行せんか為め、此度私共は幻灯を携へ広く全国を巡りて、感謝報告の会を開く次第であります。
 過去二十九年間岡山孤児院に於て苦心致しました重なる問題は
 一幼児収容問題
 二養育と教育と労働の調和問題
 三悪染児童の感化問題
 四出身者処分問題
 五職員採用問題
 - 第30巻 p.491 -ページ画像 
 六維持法問題
の六であります、併レ乍ら此第二の養育と教育と労働との調和か完全に出来、孤児教養の目的か充分に達せられますれは、第三の悪染児童の感化や、第四の出身者処分の両問題の大部分は、自然に解決せられますれは、問題は四つと申してよいと思ひます。
 現今岡山孤児院は大原弥三郎氏を院長とし、岡山に本部を置き、日向と大阪に分院を置て居ります。岡山本部に於ては院全体に関する事務と、重もに学齢未満の幼児の世話を致して居ります。其数か九十四名、日向の分院は茶臼原孤児院と称し、石井未亡人か其院長で学齢以上の男女三百三十五名の教育場となつて居ります。大阪分院は同地方に於ける少数の男女の商工業若くは家庭見習生の監督と、貧児の保育及不就学児童の教育を致して居ります。
 第一の幼児収容に付きましては、孤児院の出来ます前、院長か一医学生の身を以て世話致しました三人の子供の内、第二番目に参りましたのは三才の幼児でありました、夜になりますと母を慕ふて泣きますので、石井夫人は之を負ふて戸外に出て殆と徹夜して之をすかし、其のなれます迄二十四・五日も掛りました、此子は幸に成長し、今は米国へ参て居りますか、院創立後子供の数の殖えますに従ひ、其様には中々手が届きません。年少者程健康状態か不良でありまして、第一に死亡致しましたのも幼児でありました。夫れ故院長は入院児の年齢を六才以上に制限致しましたか、申込んで参る事情を聞ては実に苦しい思をしなから断つて居つたのであります。然るに或時断るにも断れない様な行掛りになり、入院を許しました一人の孤児を、試みに子供のない或家庭に預けました処か、意外の好成績を得ましたので次々に試みました、成績の良いことが確実になりましたので、多年の懸案になつて居りました幼児収容問題は解決致しまして、今は乳児迄引受けるのであります。現在岡山本部に属する九十四名の男女児は、皆里子に預けて居るのであります。
里子制度 本院に於て里子に出しますのは、乳児より学齢に達する迄の幼児でありますが、身体の虚弱な子供は充分強壮になる迄、数年間継続して預けて居るのもあります。
 子供を預けますには人情の良い健康地を選びますか、預児は子供のない農家で一家に一人宛預けます、毎月一回宛事務員か巡回して、其世話が能く届くや否やを視察し、体重を量つて返ります、其成績の良い所には其月の手当を渡し続て依託し、良くない所からは何時でも引戻すことになつて居ります、手当は一ケ月平均四円であります、学齢に達した健康なる子供は、日向の分院に移して教育を致します。
第二養育と教育と学働の調和 之は設立以来の問題で、目下其解決を試みつゝあるのであります、格別に皆様の御忠告を仰ぎたいのも此点にあります。
一、養育の沿革 家族的より寄宿舎風(軍隊式)になり、夫より家族的に復帰致しました、最初小数の間は子供等は全く院長の家族として養育されましたが、百名以上になりて寄宿舎風に致し、大なる家を各室に分ち一室を一組十人と致し、之に一人の組長を置き、之を曹長と
 - 第30巻 p.492 -ページ画像 
名づけました、女子部の組織も之に準しましたが、女子の曹長・伍長など名称には一の温味なく、格別に其欠陥を感じましたのは女子部でありまして、幾多の小家族に分つを、即ち現今の制度を採用致しました。併し乍ら岡山にては土地狭く、周囲より児童の自由を圧迫せらるる感がありましたが、自然を開拓し自然に開拓さるゝ日向に移りましてから、児童は心に大なる自由を感じて居る様子であります。之と共に新鮮の空気、淡泊なれども満腹の食物の為め、健康状態は改善致し大抵の悪染児童は感化さるゝのであります。
二、労働問題 農業は親さへ共に出づれば、学齢以上なれば、小さい子供でも遊戯の如く楽しく出来る仕事があります。
 各家庭経済上に於ても、殆ど独立の状態でありますから、子供等皆自分のものとして自働的に働きます、以前岡山時代の活版部などは、充分監督致しませんと、出来る丈怠る様な傾向がありまして、之が石井前院長を非常に苦しめたのであります。
三、教育問題 之に関しては松本農学士の報告が其の要を摘んで居ります故に、左に掲ぐる事に致します。
△院児の教育 茶臼原移住の当初に於ては、生活即教育てふ見地より院児等に勤勉よく労をなさしめ、自助独立の精神を鼓吹したりしかば今や院児等の中心思想を支配するに至れりと雖も、一面に於て学課教育に対し一種軽侮の念を萌すに至りぬ、されど開墾事業は一期を劃し、現在の人員に対し必要なる畑地の開墾は略成就の状態に到達したれば、学課教育に力を注ぐことを得るに至り、昨年来勉学も亦忽にすべからざること院児の脳裡に刻まれつゝあり、されば今後は実業と学課との並行したる訓練をなすと共に、基督教的信仰を根拠としたる精神上の訓練を施す方針を以て院児等に接しつゝあり。
  小学教育=学校は毎日四時間づゝにして、たゞ尋常一・二年生は二時間乃至三時間づゝを課し、教室に於て授業すると同時に、季節によりて林間に於て自然と接しつゝ授業をなす、日曜日は午前九時より会堂に於て日曜学校をひらき、宗教的訓練を施し、或は各自好む所に従て遊戯にふけり、嘻々として楽しめども、残りの半日は多く平日の放課後に於けると同じく、或者は田に畑に体躯を労し、或者はまた野に山に林に薪を拾ひ草を刈り、或者は家庭にありて主妻を扶けて水汲をなし、或者は踏臼によりて米を搗き、特に年少病弱等のものは竈に或は風呂場に火焚をなし、彼等の筋骨発達の度に応じ智鈍巧拙の差によりて各其分を尽しつゝ、生活即教育てふ本院の教育方針は自ら行はれつゝあるなり。
  農業見習生=義務教育を了りたる後、院内にて一・二年の補習教育をうけたるものにして、農業に適するものは暫らく附近の農業見習として奉公せしむ、現在附近に奉公中の見習生男子百四十八人、女子五十四人、合計二百二名にして、二郡十二箇町村に亘れり、事務員の内見習生係あり、時々巡廻して其の成績をしらべ、適当なる注意を与ふ、かくして見習生が見習中に得たる給金の内、必要なる入費を引去りたる残額は之を貯金せしめ、将来独立の資金に備へしめつゝあり。
 - 第30巻 p.493 -ページ画像 
  農場学校=見習生の内、男子は三年以内の見習期を経たるものを再び帰院せしめて入学せしむるため、農場学校を設け本年四月より開始せり、今年は見習生中より十四名を選抜してその準備をなさしめつゝあり、農場学校の本旨とする所は生徒数を一級十五名以内に限り、修業年限を二箇年とし、実地農業に従事するものに必要なる農業上の学理を平易に学ばしめ、之と共に基督教的信念に立脚して精神的教育の仕上をなすにあり。
  裁縫塾=男子の農場学校に対するものにして、年長女児に農家に適する家事の実習訓練を施すにあり、将来は農業家政学校と称すべき教育機関たらしめんことを期しつゝあり。
四、出身者処分 出身者は三百三十五名にて、目下同窓会を組織して居ります、今日重もに農業殖民となす傾向になつて居ります。
五、職員採用 一にも人物、二にも人物、事業は総て人物に由て死活の別を生じます。特に孤児救済事業の如き、金の為めに集る様な人物に由ては、決して好い成績を挙ぐることは出来ません、今日岡山孤児院が無事に進んで参りまするのは、幾多の職員が薄給に甘んじ、人知らぬ苦労をしながら無心に働いて居る結果であります。
 各家庭の主婦などの働きは、実際其局に当つた者でなければ想像のできない程の労があります、其労を口にすることもなく喜んで働いて居ります。之は石井前院長が一片の私心なく、心身を全く院に献げて居りましたので、何時とはなしに皆其感化を受けたのであります。現院長の苦心の存する所は実に此点にあります。此活る精神を殺さずに前院長の遺図を全ふしたいといふのが其希望で、たとひ其形式は完成しましても、精神が失せましては事業は死んだのでありますから、其職責を全ふすることは実に容易なことではないのであります。
六、維持法 孤児院設立の当時は会員組織で、会員は毎月一定の額を寄附し、其収入の許す範囲で、子供を収容することになつて居りました、然るに石井院長が断然医学を廃し、全身を此事業に投ずることになりましてから、全部臨時寄附を以て之を維持し、収容すべき児童は無制限に収容致すことに変更致しました。其後実業部を設くるに当り其収入も加はりましたが、二十八年三月子供に独立の精神を養はんが為、全然寄附金を謝絶し、実業部の収入のみを以て院の維持を計りました、当時の実業は男子に活版、女子に機業の両部でありました、別に六十名の男子を以て日向に開墾を試み、当時之を独立戦争と名づけました。乍併之は岡山に於けるコレラ病の流行、石井先夫人の永眠等の為めに大頓挫を来し、日向の開墾も其後中止の止むなきに至りました。而して院長も全然寄附を拒絶するの不可能なるを覚り、再之を受くることになりました。
 設立以来の十年間は非負債主義にして、且進んで寄附を募ることも致しませなんだから、数々断食せねばならぬこともありました。明治三十年院長は始めて音楽隊を率ひて日本全国を巡り、孤児救済の必要を訴へ、合せて寄附を募集致しました、間もなく毎月十銭、若くは毎年壱円寄附の賛助員募集を初めましたが、後集金の都合上毎年壱円以上に限りました、一時大に基本金募集の計画を立てましたが、之は考
 - 第30巻 p.494 -ページ画像 
ふる所がありまして中止致しました。明治三十九年男子の一部を日向に移し再び開墾に着手し、漸次歩を進め、明治四十四年迄に学齢以上の男女全部を日向に移し、農業的独立を目的として邁進し、今日に至つたのであります。勿論子供の労働に由て全部独立することは不可能でありますから、各家庭に於て衣食する丈の物が得らるれば満足せねばなりません。目下の所、事務費・教育費は別にして、一人に対し毎月平均壱円の補助になつて居ります。但し此壱円の補助も直接に衣食を補助するのではなく、種子代・肥料代等で、児童は労働に由て其必要なものを得て居るのであります。
 現在の岡山孤児院全体の維持法は、内務省助成金本年は六百円、岡山県の二百五十円、宮崎県の三百円、大阪府の二百円の補助金と、賛助員の寄附と、臨時寄附と実業収入とに由て居りますが、賛助員の数は約一万人であります。
 昨年は諸整理の結果八千余円の不足を生じましたが、本年は農事の改良と共に財政状態も改善せられ、且つ新たに賛助員に加名せらるゝ同情者も月々大分にありますから、前途は悲観すべきではないと存じます、皇恩優渥、往年日露戦争の起りまして間もなく、畏くも皇室より一時に二千円御下賜の恩命を拝し、其翌年より向ふ十ケ年間年々千円御下賜の御沙汰を頂き、昨年を以て其期が満ちましたが、更に本年より向ふ五ケ年間年々同額御下賜の御沙汰書を拝受致しました。皇恩の優渥なる、職員一同唯感謝の外なく、何れも奮つて其職責を全ふしたいと励んで居る次第であります。