デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

1章 社会事業
4節 保健団体及ビ医療施設
5款 救世軍病院
■綱文

第31巻 p.96-99(DK310014k) ページ画像

明治45年6月30日(1912年)

是ヨリ先救世軍総督ブース大将来朝ノ際、貧民病院建設ノ議起ル。栄一其発起人トシテ大隈重信・清浦奎吾等ト謀リ、明治四十四年六月以降前後二回貧民病院建設慈善観劇会ヲ催シ、ソノ利益金計八千余円ヲ寄附ス。是日同院、救世軍病院トシテ開院式ヲ挙行、栄一之ニ出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK310014k-0001)
第31巻 p.96 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月八日 晴 軽暖
○上略 午後三時帝国劇場ニ抵リ、救世軍ヨリノ依頼ニ係ル慈善観劇会ニ関スル協議会ヲ開キ、大隈伯・尾崎・島田諸氏来会ス ○下略


竜門雑誌 第二七七号・第七九―八〇頁 明治四四年六月 ○貧民病院建設慈善観劇会(DK310014k-0002)
第31巻 p.96-97 ページ画像

竜門雑誌  第二七七号・第七九―八〇頁 明治四四年六月
○貧民病院建設慈善観劇会 今回青淵先生・大隈伯・清浦子・千家男尾崎行雄・中野武営・豊川良平・江原素六・島田三郎諸氏の発起にて貧民病院建設慈善観劇会を組織せり、右は救世軍総督ブース大将より我国貧民救療の為め特殊病院建設費として此程英国篤志家より寄附を受けられたる金五万円を寄贈し来り、我国にても幾分の寄附金を募集する事の依頼に依り、帝国劇場に於ける六月一日より二十五日迄の興行中、右慈善観劇会にて売上げたる観覧券代金の内若干の寄附を受て建設資金の一部に充る計画にて、観劇料は普通観覧料と同額とし、事務所は市役所内記課及兜町渋沢事務所内に設けられたりと。
因に本会趣意は左の如し。
 拝啓、時下益御清適奉賀候、陳ば去明治四十年四月救世軍総督ブース大将来朝の際、我国に於ける貧民救療の為、特殊病院設立の件に付拙生等に対し懇談有之、爾来種々講究致候も未だ実行の運に不到候処、今般大将より右計画遂行の為め英国篤志者の寄贈金五万円を送り来り、東京に於ても幾分の寄附金募集し呉候様被申出候、我国人の為めに彼より斯く迄懇篤の志を寄せ来候に付、我国に於ても之に対する施設を実行し其好意に酬い申し度、且つ其実施の方法も東京救世軍本営に於て調査したる適切の方案出来候に付、此際去四十年懇談の結果として、一には貧民救療の実を挙げ、一には英人の好意に答度、拙生等協議之上、貧民病院建設慈善観劇会を組織し、帝国劇場会社へ依頼し、来六月一日より二十五日迄開場の演劇中、本会に於て売上たる観覧券価格の内若干之寄附を受けて之が資金の一部を得る事に致候間、何卒拙生等の冀望御援助被下、観覧券御購入被成下候様願上候、尚不日掛員為相伺候間予め御承知被下度候、先は拝顔迄如此御座候 敬具
 - 第31巻 p.97 -ページ画像 
  明治四十四年五月  日
            貧民病院建設慈善観劇会
                 発起人
                    伯爵 大隈重信
                    子爵 清浦奎吾
                    男爵 千家尊福
                    男爵 渋沢栄一
                       尾崎行雄
                       中野武営
                       豊川良平
                       江原素六
                       島田三郎


竜門雑誌 第二七九号・第六五―六六頁 明治四四年八月 ○貧民病院建設慈善観劇会(DK310014k-0003)
第31巻 p.97 ページ画像

竜門雑誌  第二七九号・第六五―六六頁 明治四四年八月
○貧民病院建設慈善観劇会 同会の組織に付ては去六月の本誌に記載したる処なるが、過日精算の上収支差引残金五千四百七拾七円弐拾九銭に左の書面を添へ、救世軍日本本営書記長官山室軍平氏に送附したりと云ふ。
 拝啓時下益御清栄奉敬賀候、然ば拙生義今般救世軍総督《(等カ)》ブース大将の我邦に於ける慈善病院建設の挙を賛し、貧民病院建設慈善観劇会を組織し、金五千四百七拾七円弐拾九銭を収入致し候間、別紙預金証書を以て御寄附致候、同建設費の一部に御差加へ被下候はゞ本懐の至りに御座候、此段得貴意度如此御座候 敬白
  七月二十二日
                    伯爵 大隈重信
                    子爵 清浦奎吾
                    男爵 千家尊福
                    男爵 渋沢栄一
                       尾崎行雄
                       中野武営
                       豊川良平
                       江原素六
                       島田三郎


竜門雑誌 第二九〇号・第七八頁 明治四五年七月 ○救世軍病院開院式(DK310014k-0004)
第31巻 p.97 ページ画像

竜門雑誌  第二九〇号・第七八頁 明治四五年七月
○救世軍病院開院式 昨年来青淵先生・大隈伯爵・尾崎行雄氏其他の諸氏が発起となり、前後二回慈善演劇を催し、金八千有余円の収入を得て其建築費中に寄送したる救世軍慈善病院は、昨年十二月下谷区仲徒町三丁目に建築中なりしが、此程落成したるを以て、六月三十日午後二時より開院式を挙行せり、青淵先生にも同軍山室大佐の懇請に依り当日出席の上一場の演説を試みられたり。
   ○栄一ノ演説筆記ヲ欠ク。


救世軍二十五年戦記 山室軍平著 第二七―二八頁 大正九年一一月刊(DK310014k-0005)
第31巻 p.97-98 ページ画像

救世軍二十五年戦記 山室軍平著  第二七―二八頁 大正九年一一月刊
 - 第31巻 p.98 -ページ画像 
 ○下巻 発展時代
    (三九) 救世軍病院成る
大将は前年日本に来朝の砌、我が救世軍中に一個の貧民病院を起したいと言ひ出され、其の為に金五万円を送つて来られたのであるが、此方では又大隈伯・渋沢男・中野武営氏・尾崎行雄氏・江原素六氏・島田三郎氏等の発起にて、其の為め二回の慈善観劇会を営み、金八千余円を寄附せられ、それに小林富次郎氏より寄贈の金五百円等を合せて地を下谷区仲徒町に買ひ入れ、そこに「救世軍病院」を開設したのが丁度大将昇天の五週間前であつた。前大将が逝れて後は、其の長子ブラムヱルが嗣ぎ、二代目の総督となられた。彼は軍隊の進歩と共に成長したる人にて、長い間参謀総長の要職にあり、此の場合、どちらから見ても、彼程総督の役目に適当の人はないと、万人から認められたのである。


愛の奉仕 山室軍平編 第二―四頁 昭和七年四月刊(DK310014k-0006)
第31巻 p.98-99 ページ画像

愛の奉仕 山室軍平編  第二―四頁 昭和七年四月刊
    一 渋沢子爵と救世軍(山室軍平)
○上略
 彼が、如何に理解ある救世軍の同情者であつたかは、左の一挿話によつても、これを知ることが出来るであらう。大将ウイリアム・ブースの帰朝に先だち、大将は子爵と他に八人の紳士 ○大隈・清浦・千家・尾崎・中野・豊川・江原・島田に宛て、将来、日本に於ける救世軍の為に尽瘁せられんことを求めた。それより数ケ月の後、日本の救世軍が、初めて貧民病院を起さんとする計画あり、子爵は前記八人の紳士と申合せ、帝国劇場に慈善観劇会を営み、其の収入を以て、之が計画を助けんことを企てられたのである。其の相談会の席上、私を呼出して、それに対する意見を徴せられた。これはこの種の有力者が、救世軍の事業に、何等かの援助を与へんことを思量せられた、最初の機会であつた。それゆゑ私は恐る恐る彼等に対うて言うたのである。「救世軍では平生、その仲間の者に、成るたけ観劇に行くな、と教へて居ります。然るをこの度に限り、救世軍の為であるから観に行けと言うたのでは、平生の主張と違ふ所があります。それ故甚だ失礼ではありますが、この度の御催に対し、私共救世軍の者は切符一枚売らず、又誰一人見物に参らぬことに願ひたいのでありますが、如何なものでせう」と申出ると、子爵は不思議さうな顔をして聞いて居られたが、やがて「それが若し君の主義なら、主義は大切に守られたが可からう。但しさうして作つた金は、受取らないといふかね」と尋ねられた。乃で私は答へた。「救世軍の創立者は、種々なる人々から贈られた金を、残らず寡婦と孤児との涙で洗うて使ふと言はれました。私共もその流儀で、あなた方が御作り下さる金を拝受すべく、それをどうして作られたか迄詮議する責任は無いかと存じます」と。この会見の結果は、二回計十数日に亘る慈善観劇会を、九人の方々の名儀にて催され、救世軍は何等之に関係する所無く、唯其の収入金を領収するに止つたのである。而して以来子爵の救世軍に対する信用と同情とは非常に厚くなり、何かの機会には喜んで之を援助するに至られたのである。
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○下略


大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第二巻・第七二二頁 大正一五年一二月刊(DK310014k-0007)
第31巻 p.99 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編  第二巻・第七二二頁 大正一五年一二月刊
 ○第八篇 第九章 各種の文化事業(下)
    (四) 救世軍及軍人後援事業に於ける助力
○上略 またブウス来朝の時、ブウスが計画した貧民病院設立について、君は渋沢栄一等と共に再度慈善演劇を催して、収入金を救世軍に贈つた。
○下略


救世軍書類 (一)(DK310014k-0008)
第31巻 p.99 ページ画像

救世軍書類 (一)            (渋沢子爵家所蔵)
    救世軍病院概要
一、明治四十五年六月三十日、下谷区仲徒町三丁目に救世軍病院を創設す。
一、大正十一年三月一日、隣地に高架鉄道敷設の関係上、右病院を改築す。
一、同年五月二十九日 国母陛下より御名代として皇后宮大夫大森男爵を御差遣あらせられ、又患者の為に金壱封を御下賜相成りたり
一、大正十二年九月一日大震火災の為に右病院を焼失、間もなく同地に仮診療所を設けて救療事業を継続す。
一、昭和三年九月浅草区北三筋町に仮診療所を移転す。
一、来る十一月十四日を以て開院せらるべき救世軍病院は、
   所在地  浅草区北三筋町一番地
   土地   六百五十三坪
   総建坪  七百〇二坪
   設立費  金四拾六万五千円也
  之に対しては内務省より金九万円、大震災善後会より金七万円の御補助あり。
  大正十五年末救世軍大将ブラムヱル・ブース来朝の砌、特別の思召を以て御下賜相成りたる金参千円は、又此の病院設立費の内へ拝受致すことに取計らはれたり。
一、之は各科の患者に対する貧民病院にて、支払の出来る人には実費を支払はせ、不能の者には施療を行ふ。
一、入院患者のベツドは四十あり、追々拡張の見込なり。
一、労働階級の為に昼間のみならず、夜間の診療をも行ふ。
一、尤も此の以外に別に府下和田堀町に結核患者の為の救世軍療養所あり、ベツド百七十を有す。大正五年十一月の設立にかゝる。