デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
2節 米国加州日本移民排斥問題
2款 日米同志会
■綱文

第33巻 p.448-451(DK330030k) ページ画像

大正3年1月8日(1914年)

是ヨリ先、アメリカ合衆国カリフォルニア州ニ於ケル排日思想研究ノ目的ヲ以テ渡米シタル法学博士末広重雄帰朝シ、是日、東京商業会議所ニ於テ視察ノ結果ヲ報告ス。栄一出席シテ之ヲ聴取ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK330030k-0001)
第33巻 p.448 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年           (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 快晴 寒強シ
○上略 十一時半東京商業会議所ニ抵リ、中野・添田氏等ト共ニ、末広重雄氏ノ米国ヨリ帰朝セシ旅行談ヲ聞ク、畢テ午飧ヲ食ス○下略
一月九日 快晴 風寒シ
○上略 午後二時東京商業会議所ニ於テ、中野氏ト米国ニ於テ啓発運動ニ付外務省ノ意見ニ関スル協議ヲ為ス○下略


竜門雑誌 第三〇八号・第八五―八六頁 大正三年一月 ○末広博士の報告(DK330030k-0002)
第33巻 p.448 ページ画像

竜門雑誌 第三〇八号・第八五―八六頁 大正三年一月
○末広博士の報告 去秋カリホルニヤ排日思想研究の為め渡米せし末広法学博士は、過日帰朝せしにより、一月八日午前十時より東京商業会議所に於て、日米同志会々頭青淵先生・同副会頭中野武営氏、及び添田博士と会合し、視察の顛末を報告し、三時散会したりといふ


末広重雄談話筆記(DK330030k-0003)
第33巻 p.448-450 ページ画像

末広重雄談話筆記            (財団法人 竜門社所蔵)
                   昭和十二年四月三日、於同氏邸、編纂員太田慶一聴取
   ○大正三年一月八日東京商業会議所に於て為したる帰朝報告の概要
加州土地法に拠れば、米国市民たるを得ざる日本人は土地を取得することは出来ぬが、米国生れの日本人、所謂第二世の日本人はこの禁制外に立つてゐる、と云ふのは、米国は同国憲法の増補及修正条項第十
 - 第33巻 p.449 -ページ画像 
四条第一項によつて、人の国籍を定める為に、出生地主義をとつてゐるのであるから、親は日本人でも、米国に生れたるその子は、米国の国法上米国人である。即ち立派な米国の市民であるから、加州土地法はこれら米国生れの日本人には適用がない、従つて同法実施後に於ても日本人は米国生れの子の名義で土地を取得することが出来るから、同土地法の為に日本人は農業上加州に於て、土地を取得する機会を失ふ様になつたけれど、米国生れの日本人は当時既に年々増加する傾向があつたから、同土地法によつて日本人の勢力が全滅する様な虞は先づありさうになかつた。況や同土地法の下においても、日本人は米国市民(米国生れの日本人を含む)又は米国市民たるを得る外国人と共に、土地会社をつくつて、そして市民たるを得ざる日本人が株主の半数以下であり、その発行株式の半数以下を所有する様にしさへすれば土地を取得して農業上発展する余地があるのであるから、同土地法がより以上日本人に不利になるやう改正せられざる限、甚しく悲観するには及ばないと観察した。
当時、加州のみでなく、程度の差こそあれ、太平洋沿岸の、オレゴン(Oregon)・ウオシントン(Washington)二州においては勿論のこと、その他の州でも、日本人が多数居住してゐる所では排日の空気が漸次濃厚になりつゝあつて、実際油断の出来ぬ形勢であつた。そこで米国における日本人の地位を改善して、彼等にとつて米国を安住の地とする為には何うしたらよいかといふ問題に直面した結果、在米日本人会が起したのは所謂啓発運動(Educational Campaign)であつた。即ち米国における排日は、我国に対する認識が不足して、我国を誤解することに基くところが少くなかつたのであるから、米国人に対して我国の真相を紹介し、誤解を解き、偏見を除去して、そして日本人に白人と平等の待遇をなすべきことを主張すると同時に、白人と伍して、恥かしからぬ様、在米日本人の生活状態を改善し、その品位の向上を鼓吹することを目的とする対外的対内的の運動が、啓発運動である。所で此の運動を充分実行するには、中々資金を要することで、在米日本人の力だけでは不充分であるから、内地人の助力を必要とするといふことを子爵に説いたのである。
当時問題となつてゐたサンフランシスコ大博覧会には、米国に於ける排日に対する反感から、参加に反対する者があつたけれども、排日対応策としても参加すべきことや、場合によつてはメキシコ移住の計画を立てる必要のあることなども報告した。
   ○故子爵観―特に日米親善問題に就て
私は単に日米問題に関して、子爵を識るの光栄を有するに過ぎなかつたが、私の知る限りでは、子爵は御自身の利益のことなどは考へられず、全く国家の為に、日米問題に就て非常な御心配をなされ、此問題の為に大に尽力された。今日我国の実業界には人材は雲の如くあるであらう、実業家としての手腕では子爵以上の人は尠くないかも知れぬが、子爵の如く国家を憂ふる人は蓋し稀であると思ふ。子爵は徹底せる日米平和論者であつて、心から日米問題の平和的解決を希望せられて、日米戦争には絶対に反対して居られた。時は忘れたが、或る日飛
 - 第33巻 p.450 -ページ画像 
鳥山の子爵邸にて子爵にお眼にかゝり、日米問題の話をした時に、私が米国が日本人に対してその門戸を閉鎖する(排日)と同時に、満洲において日本の発展の邪魔をするならば、これは恰も薬缶の口をふさいで火にかける様なもので、日米関係は軈ては破裂するかもしれぬ、我々日本人は生きる為には或は米国と戦はざるを得ざるに至るやも計り難いと云ふと、子爵はあくまで日米平和を欲せられ、あらゆる手段によつて日米戦争を避けねばならぬことを、力強く主張された。その時子爵の真剣さには、私は全く頭の下るのを覚えた。



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第二七五―二八三頁 昭和七年二月刊(DK330030k-0004)
第33巻 p.450-451 ページ画像

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