デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

3章 国際親善
5節 外賓接待
15款 其他ノ外国人接待
■綱文

第39巻 p.74-79(DK390020k) ページ画像

明治44年10月2日(1911年)

是日栄一、アメリカ合衆国ニュー・ヨーク日本協会会長リンゼー・ラッセル夫妻及ビインデペンダント誌主筆ハミルトン・ホールト夫妻ヲ案内シテ、日本女子大学校及ビ東京市養育院ヲ参観セシメ、次イデ飛鳥山邸ニ招キテ午餐会ヲ催ス。是ヨリ先九月二十五日、徳川家達等ト共ニ両人夫妻歓迎晩餐会ヲ帝国ホテルニ開キ、栄一出席シテ主催者側ヲ代表シテ挨拶ヲ述ブ。此前後屡々両人ト会見ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK390020k-0001)
第39巻 p.75-76 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年 (渋沢子爵家所蔵)
九月十六日 晴 暑
○上略
日本銀行員小野友次郎、横浜正金銀行副頭取井上準之助二氏来リ、近日渡来スヘキ米国人ロツスル及ホルト二氏歓迎ノ事ヲ談話ス
○下略
   ○中略。
九月二十三日 晴 冷
○上略 二時過再ヒ事務所ニ抵リ○中略 井上準之助氏来話ス、明後日米国人招宴ノ事ニ付種々ノ協議ヲ為ス○下略
九月二十四日 晴 冷
○上略
米国人ラツセル、ホルト二氏、今西兼二氏同伴来訪セラル、蓋シ二氏ハ昨日天津丸ニテ日本ニ渡来シタルナリ、種々ノ談話ヲ為シテ帰去ス
○下略
九月二十五日 雨 冷
○上略 午後五時帝国ホテルニ抵リ、此日米国人招宴ノ事ニ付其準備ヲ為ス、六時ヨリ来会スル者続々来ル、七時食堂ヲ開キ徳川公爵ト共ニ主人側ノ総代トナリ、食卓上一場ノ挨拶ヲ為ス、来賓二名及一米人ノ演説アリ、主人トシテハ公爵ト余ト挨拶ヲ陳ヘ、外ニ石井・神田二氏ノ演説アリ、賓主歓ヲ尽シ、夜十一時散会ス
九月二十六日 雨 冷
○上略 午前十一時事務所ニ抵リ○中略 来月二日ト九日トニ米国人招宴ノ事アリテ、其手続ヲ増田ニ指示ス○下略
   ○九日ノ招宴ハジヨルダンニ対スルモノナリ。
   ○中略。
九月二十八日 曇 冷
○上略 午後六時木挽町山口楼ニ抵リ、塩原又策氏ノ開催スル米国人ラツセル、ホルト二氏招宴ニ列席ス、金子子爵・浅野総一郎氏等来会ス、種々余興アリ、賓主歓ヲ尽シテ夜十一時散会帰宿ス
   ○中略。
十月二日 曇 冷
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後二・三ノ来人ニ接ス、十時女子大学ニ抵リ、米人ラツセル、ホルト夫妻ヲ案内シテ学校ヲ一覧セシム、成瀬・麻生氏等同伴ス、晩香寮ニ抵リテ茶菓ヲ供シ、且学校ノ沿革等ヲ談話ス、畢テ大塚養育院ニ抵リ、安達氏ノ案内ニテ、各室ヲ見セシム、更ニ巣鴨分院ニ抵リテ、高田氏誘引シテ教場及居室等ヲ一覧セシム、午後一時曖依村荘ニ抵リ、他ノ来客ニ紹介シ直ニ午飧会ヲ開ク、余興トシテ日本ト西洋トノ歌曲ヲ演ス、食事畢テ愛蓮堂ニテ談話ス、婦人ハ茶室ニテ点茶ス、夕方五時頃散会ス○下略
(欄外記事)
 [米国人招宴ニ付陪賓トシテ来会者二十人許リナリ
十月三日 曇 冷
○上略 帝国劇場ニ抵リ、米国人ト共ニ観劇ス、但昨日来訪ノ時ニ観覧ヲ
 - 第39巻 p.76 -ページ画像 
勧誘セシ為メナリ、十一時過閉場シテ帰宿ス
   ○中略。
十一月九日 晴 寒
○上略 午前九時半、事務所ニ抵リ書類ヲ調査ス、米国人ホルト氏・小野英二郎氏来訪、日米親交ニ関スル種々ノ談話ヲ為ス○下略
○中略。
十一月十一日 晴 寒
○上略 午前十時半帝国ホテルニ抵リ、米国人ラツセル、ホルト二氏ト会話ス、小野英二郎・福井菊三郎・今西兼二三氏来会ス、談話ハ主トシテ日米ノ政事及商工業ノ親睦ニアリ、共ニ胸襟ヲ披キテ談論ヲ尽シ、且送別ノ意ヲ以テ其夫人等ヲモ会シテ午飧ヲ共ニス○下略


竜門雑誌 第二八一号・第四一―四二頁明治四四年一〇月 ○米国名士歓迎会(DK390020k-0002)
第39巻 p.76-77 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第四一―四二頁明治四四年一〇月
    ○米国名士歓迎会
 紐育日本人協会会頭フッセル及インデペンデント雑誌主筆ホールト両氏の歓迎会は、九月廿五日夜六時半より徳川家達公及び青淵先生等主催の下に帝国ホテルに於て開かれたり、テーブルの中央には徳川公、公の右手にはホールト氏、左手には米国代理公使スカイラー氏あり、公と相対して青淵先生座席を占め、先生の右手にラッセル氏座せり、会は徳川公の発言に係るラッセル、ホールト両氏の健康を祝するの乾杯を以て開かれ、公は英文にて両氏歓迎の辞を朗読し、日米の好関係に言及する処あり、終つてラッセル氏立つて左の如き一場の演説を試みたり。
 千九百七年五月、黒木大将は貴国陸軍を、伊集院中将は貴国海軍を代表して紐育を訪へり、恰も其の時に当つて日本人協会の設立せられたるは亦妙ならずや、抑々日米両国政府の関係は常に友誼的にして且つ懇篤なり、然れども予が一言したきことは即ち米国にて貴国の言語を解するものは極めて少数なり、従つて貴国の歴史及び制度に就て研究したるものも亦比較的稀れなり、日本を訪問せし多数の米国人は日本の実情の研究をば閑却し、唯風光を見物せるのみなること是れなり、然るに頭本元貞君は紐育に東洋評論を創刊し、日本の事情を米国に紹介せられたるが如き、種々の方法を以て日本協会と気脈を相通じて、新日本の精神をも米国人に教へ込まるゝに至りしは頗る快心の好挙たり、今や図書館等にての読者の百人中其の九十五人までは日本の国情文学風景を知悉せんとするものあり、予は今回貴国の土地を踏み、今夜斯の如き懇篤なる歓迎を受くるは予の深謝して止まざる処なり、云々
ラッセル氏の演説終るや、ホールト氏立て朗読演説を試たり、其大要に曰く、
 米国平和協会は千八百十五年の設立に係り、世界に於ける最も古き平和協会なり、其会頭には米国上院の一議員を戴き、一ケ年約四万円の収入あり、紐育平和協会はカーネギー氏会頭となり、毎年三万円を費し居れり、世界平和基金会はエドウン・ギン氏の創設に係るものなり、而して貴国を訪問中なるジヨルダン博士と予は共に此の
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基金会の名誉理事なり、而してカーネギー氏の寄附になる七千万円の金額は平和と云ふ海軍の最初の『ドレッドノート』に外ならず、大統領タフト氏は目下仲裁裁判条約を英国及び仏国と締結の談判中なるが、米国上院は最近の会期にては未だ之れを批准せざるを以て該条約は事実上死し居るものなりといふものあれど、是は誤まれる見解にして上院は来会期に之れが批准を与ふ可しと信ずるなり、左すれば世界の平和に大なる貢献を為すこととなる可し、予は日本も右の暁には米国と仲裁裁判条約談判を行はんことを望む、さすれば日米の関係は益々以て良好となる可し云々。
右終つて青淵先生の演説あり、頭本ジヤパン・タイムス主筆之を英訳せり、先生の演説も亦日米関係の研究には三方面より之を為すを要す即ち歴史的研究、貿易関係の研究、及び国情の研究是れなりと述べたり、次いで米国「紐育サン」記者スイフト、石井次官及び神田男の演説あり、而して歓迎会は和気靄々の裡に午後十時を以て無事閉会を告げたり、来賓の重なるもの左の如し。
 (来賓)石井菊次郎、徳富猪一郎、尾崎行雄、大川平三郎、金子堅太郎、樺山愛輔、鎌田栄吉、高橋是清、高田慎蔵、田中国重、谷口尚真、添田寿一、長崎省吾、永井松三、黒木為禎、松方巌、松井慶四郎、テニソン、青木周蔵、浅野総一郎、阪井徳太郎、サムマン、三島弥太郎、水町袈裟六、志村源太郎、シマイロオア、スイフト。
 (主人側)青淵先生、今西兼二、岩原謙三、井上準之助、原嘉道、原林之助、堀越善重郎、徳川家達、大谷嘉兵衛、小野英二郎、小川平吉、神田乃武、財部彪、頭本元貞、根津嘉一郎、馬越恭平、福井菊三郎、小池国三、佐竹作太郎、木越安綱、木村清四郎、宮岡恒次郎、日比谷平左衛門


竜門雑誌 第二八一号・第四五頁明治四四年一〇月 ○青淵先生の米賓招待(DK390020k-0003)
第39巻 p.77 ページ画像

竜門雑誌 第二八一号・第四五頁明治四四年一〇月
○青淵先生の米賓招待 青淵先生には目下滞京中の米国紐育日本協会会長ラッセル氏、同夫人及紐育インデペンデント雑誌社長ホールト氏同夫人を九月三十日飛鳥山邸《(十月二日)》に招待して午餐会を催ふされたり、当日朝先生には両氏夫妻を案内して日本女子大学校及東京市養育院を参観せしめ、午後一時飛鳥山邸に誘引し、他の賓客松井慶四郎・同夫人・阪井徳太郎・近藤廉平男・添田寿一・豊川良平・早川千吉郎・浅野総一郎・日下義雄・加藤正義・福井菊三郎・同夫人・頭本元貞・今西夫人・小野英二郎・塩原又策・佐藤毅の諸氏と共に日本料理を饗応せられ、席上柴田環女史の独唱及芸妓の手踊数番の余興あり、饗終りたる後紀念の撮影を為し、先生及同夫人には賓客一同を愛蓮堂に導き、茶菓を侑め、夫れより青淵先生夫人には賓客婦人を誘ふて庭園を逍遥し又抹茶を進め、先生には両氏及賓客と共に愛蓮堂に於て談論し、午後五時散会せりとなり。
   ○中外商業新報第九一三〇号(明治四十四年九月三十日)ニ「渋沢男ラ、ホ氏招待」ナル記事アリ。略ス。


桜楓会通信 第三九明治四四年一〇月 母校及び本部彙報 ラッセル氏一行の来校(DK390020k-0004)
第39巻 p.77-78 ページ画像

桜楓会通信 第三九明治四四年一〇月
    母校及び本部彙報
 - 第39巻 p.78 -ページ画像 
○ラッセル氏一行の来校 紐育に於ける日本協会の会頭なるラッセル氏夫妻及びインデペンデントの主筆兼平和協会々長なるホールト氏夫妻の一行十月二日午前来校、校内を参観せられたり。


東京市養育院月報 第一二八号・第一三頁明治四四年一〇月 米紳士の来院(DK390020k-0005)
第39巻 p.78 ページ画像

東京市養育院月報 第一二八号・第一三頁明治四四年一〇月
○米紳士の来院 十月二日米国ニユー・ヨルク市日本協会々頭ラツセル氏、同令夫人、同市「インデペンデンド」雑誌社々長ホルト氏、同令夫人は渋沢院長の案内にて来院あり、安達幹事特に各収容室を案内せらるゝと共に一々委細に説明し、併せて救済の方法を述べられしかば、ラツセル氏一行は深く院の事業に同情せられ、十ケ年賦の約束にて金五千円寄附の義を申込まれたり。



〔参考〕(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正三年(DK390020k-0006)
第39巻 p.78 ページ画像

(阪谷芳郎) 大日本平和協会日記 大正三年
                   (阪谷子爵家所蔵)
○二月二十三日受 A Final Solution of the Japanese
 Problem by Dr Hamilton Holt―
 January 1914 American Association
 for Inter. Conciliaton
 (太字ハ朱書)
 有益ノ論文
 二月二十四日礼状ヲF. P. Keppel氏ヘ発ス、セクレタリーナリ
   ○中略。
○六月二十日
 渋沢男ヨリSydney《(Lindsay)》 Russel's letter of April 27, 1914ヲ示サル同氏ハ紐育日本協会長ナリ
   ○ニュー・ヨーク日本協会及ビニュー・ヨーク日本協会協賛会ニ就イテハ本資料第三十五巻所収「ニユー・ヨーク日本協会協賛会」参照。



〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第一四五頁昭和七年二月刊(DK390020k-0007)
第39巻 p.78 ページ画像

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〔参考〕日米外交史 川島伊佐美著 第三五七頁昭和七年二月刊(DK390020k-0008)
第39巻 p.78-79 ページ画像

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