デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.344-351(DK440078k) ページ画像

昭和6年12月10日(1931年)

是日、如水会、栄一ノ追悼会ヲ同会館大講堂ニ於テ催ス。嫡孫敬三遺族ヲ代表シテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

如水会々報 青淵先生追悼号・第一一―一八頁昭和六年一二月 青淵先生追悼会 昭和六年十二月十日午後四時 於本会大講堂(DK440078k-0001)
第44巻 p.344-350 ページ画像

如水会々報 青淵先生追悼号・第一一―一八頁昭和六年一二月
    青淵先生追悼会
      昭和六年十二月十日午後四時 於本会大講堂
 本会名誉社員子爵渋沢青淵先生の薨去は世を挙げて痛惜措く能はざる処であつたが、本会に於ても亦其悲之に加ふるもの無く先生生前の御鴻恩を偲び、在天の英霊を慰めん為、去十二月十日午後四時本会大講堂に於て御遺族、御近親の御列席を乞ひ、盛大なる追悼法会を開催した。
 当日午後、風稍々強く、天候も好ましからざるに、渋沢家に於ては老未亡人令孫敬三氏始め、令息篤二氏、武之助氏同夫人、正雄氏同夫人、御近親よりは明石照男氏同夫人、穂積重遠男爵等多数御列席下されたのは我々の深く感激する処である。
 本会に於ては藤村理事長を始め役員、評議員、一般社員を併せて約五百名の参列あり、母校側より佐野学長、上田教授以下多数職員及学生代表も参列、地方各支部代表として大阪・横浜・神戸・京都・名古屋等より、夫々片岡音吾君・石川敬蔵君・古川虎三郎君・大塚常吉君小尾悦太郎君等遥々来会し弔辞の朗読ありたる他香港・門司・京城・大連・長岡・台北・上海・洞海の各支部よりは弔電を寄せられ、荘重厳粛裡に盛会を極め、真に我等が慈父渋沢青淵先生の御鴻恩を追慕するに相応しきものがあつた。
      ○
 式場には二階大講堂之に当てられ、内側には黒白の幌幕を運らし、正面高く祭壇を設け、その上段に白き花環に埋もれ、黒リボンに縁取られたる先生の遺影飾られ、その温容は恰も生けるが如く、その下に鮮果芳花を盛り左右両側には霊灯ゆらめき、香華燻ゆり、人をしてそゞろ幽明相通ずるを思はしむ。
 午後四時二十分振鈴の合図により一同入場着席するや、先窪田常務理事司会の許に式は左記順序により開始せらる。
 一、司会の辞 窪田四郎君
 一、弔辞朗読
  本部代表 藤村理事長
  大阪支部代読 岡田完二郎君
  京都支部代表 大塚常吉君
 一、弔電朗読 鹿村美久君
 一、追悼の辞 堀越善重郎君
 一、焼香 御遺族、御近親、敬三子以下順次焼香
 一、焼香 社員焼香 代表者 成瀬隆蔵君
 - 第44巻 p.345 -ページ画像 
 一、遺族代表 敬三氏御挨拶(挿絵○略ス は渋沢新子爵の御挨拶)
 一、閉会の辞 窪田四郎君
 右終つて一同礼拝し六時散会。
  窪田四郎君司会の辞
 我如水会の産みの親であり、名付け親であり、育ての親である故青淵先生逝いて、既に一ケ月に垂んと致します処、本会々員に於ては誰云ふといふことなしに、先生を御慕ひする自然の情が表はれて今夕玆に先生の追悼法会を営むことゝなり、御遺族、御近親に御列席を御願ひしました処皆様には尚御悲しみの涙も乾きも敢へず、且非常に御取込みの中を特に御都合下さいまして多数御列席下さいました事は、誠に感謝に堪えない次第であります。厚く御礼申上げます。又社員諸君も、東京在住の諸君のみならず、大阪・横浜・神戸・京都・名古屋各地支部より遥々御列席あり、司会者として私共誠に喜びに堪えませぬが、之も一に故青淵先生の御遺徳の然らしむる処で深く感銘いたす次第であります。云々。
      如水会弔辞
  敬愛欽慕措ク能ハザル吾等ノ渋沢青淵先生溘焉トシテ長逝セラル哀哉、先生ガ明治維新以来我国産業ノ建設者トシテ、財界ノ指導者トシテ、国運ノ進展ニ寄与セラルヽ所絶大ナリシハ、今更喋々言ヲ要セズ、加フルニ各般ノ教育事業、社会事業ノ為メ、又国際平和ノ促進ノ為メ、熱心尽瘁セラレタルコト挙ゲテ数フベカラズ、是ヲ以テ先生ノ高徳ヲ欽慕スルモノ今日悲訃ニ接シ哀悼ノ情ヲ捧ゲザルモノナシ、況ンヤ吾等同人ノ先生ヲ敬愛シ、先生ヲ惋惜スルノ至情ハ更ニ深クシテ且ツ切ナルモノアリ、蓋シ先生ハ実ニ我商業教育ノ元勲ニシテ吾等ノ母黌一橋学園ノ大恩人ナリ、明治ノ初メ商法講習所ノ昔ヨリ東京商科大学ノ今日ニ至ルマデ五十有余年ノ久シキニ亘リ先生ハ終始一貫シテ母黌ノ発展ヲ援助セラレ、其間学園ノ将ニ廃絶ニ帰セントスルヲ救ハレタルコト一再ニシテ止マラズ、我ガ同窓ノ出身者及ビ現在ノ学生ハ斉シク先生ヲ慈父トシテ慕ヒ、恩師トシテ仰ギ、其ノ高邁ナル人格ニ私淑親炙セザルモノナシ
  大正三年十一月同窓ノ団結成ルヤ、先生ハ君子之交淡如水ノ古語ヲ取リ如水会ト命名セラレ、爾来本会ノ啓発誘導ニ任セラレタルハ吾等ノ永久ニ諼ルヽ能ハザルモノナリ、曩ニ昭和四年六月先生ノ為メニ九秩ノ寿讌ヲ如水会館ニ開催スルヤ、欣然トシテ先ヲ争ヒ列スルモノ実ニ五百余人、児孫ノ慈父ニ於ケルガ如ク、膝ヲ環リ相擁シテ先生ノ長寿ヲ祝シ、更ニ其ノ百歳ノ寿福ヲ祈レリ、当日先生ガ満堂ノ拍手ヲ浴ビテ矍鑠トシテ壇上ニ起タレタル其ノ温和春風ノ如キ風貌今猶ホ吾等ノ眼中ニ存ス、而シテ先生今ヤ亡シ、万感交々胸中ニ集リ、悲涙潸々トシテ復タ多ク言フ能ハズ、玆ニ八千ノ会員ヲ代表シ謹ンデ追慕敬悼ノ至悼ヲ披瀝ス、嗚呼哀哉
  昭和六年十二月十日
           社団法人如水会理事長 藤村義苗
      如水会大阪支部弔辞
  本会名誉社員子爵渋沢栄一閣下、昭和六年十一月十一日九十二年
 - 第44巻 p.346 -ページ画像 
ノ長寿ヲ以テ安カニ薨去セラル、嗚呼悲ヒ哉、熟ラ惟ルニ子爵ハ我国実業文化ノ先覚者ニシテ、其功績ハ炳トシテ史上ニ赫々タル敢テ玆ニ呶々ヲ要セス、其各般ニ渉ル偉大ナル鴻業ト盛名ハ世界人士ノ斉シク識ル所ナリ、而シテ子爵ハ我母校ノ慈父トシテ終始多大ノ賢慮ヲ示サレ、苟モ商業教育ニ関スル限リ子爵ノ撫育ハ専ラ吾人一橋同窓者之ヲ擅ニシタル観アリ、之レ実ニ吾人ノ牢記シテ忘ル可カラザル所ナリ、我同窓者一同斉シク子爵ヲ敬慕シテ熄マザリシニ、今ヤ幽明遠ク隔リテ再ビ子爵ノ指導ニ接スルニ由ナシ、嗚呼悲ヒ哉
  玆ニ子爵ノ長逝ヲ悼ミ、生前ノ鴻恩ヲ忍ビ、在天ノ英霊ヲ慰メン為、支部ヲ代表シテ恭シク追悼ノ意ヲ表ス
   昭和六年十二月十日
        社団法人如水会 大阪支部代表 前田忠
      如水会京都支部弔辞
  維時昭和六年十一月十一日本会名誉会員
  子爵渋沢栄一翁溘焉トシテ長逝セラル、嗚呼哀哉、惟ルニ翁ハ啻ニ帝国産業界ノ柱石タルノミナラズ実ニ我国文化ノ達成ニ貢献セラレタル大恩人タリ、維新ノ当初ヨリ今日ニ至ル迄六十年ノ公生涯出テハ国際親交ノ為メニ心ヲ尽シ、入リテハ殖産興業ノ為メニ力ヲ致シ、ソノ功挙ゲテ数フ可カラズ、ソノ玉成ノ人格ハ或ハ述作ニ著ハレ、或ハ率先躬行以テ天下後進ノ為メニ処世ノ指針ヲ示サレ給フ、又商業教育ニ関シテモ夙ニソノ振興ニ尽瘁セラレ、誠ニ我一橋今日ノ大ヲナス所以ノモノ翁ニ負フ所甚大ナリト謂フベシ、一朝ニシテ斯ノ高士ヲ失フハ邦家ノ為メ痛嘆ニ堪ヘザル所ニシテ宛モ闇夜ニ灯火ヲ失ヒタルガ如シ、悲痛哀悼何ゾ勝ヘン、玆ニ謹而蕪辞ヲ陳ネ翁ノ英霊ヲ弔ス
   昭和六年十二月十日
      社団法人如水会 京都支部代表幹事 大塚常吉
(凸版)
       青淵翁      (特に本誌に寄せられたる月斗俳人の追悼句)
    歴々と菊
    大輪の白さ哉
        月斗(印)
      追悼の辞
        ――追悼会席上――     堀越善重郎
 我国財界の偉人渋沢青淵先生は去十一月十一日を以て永眠せられ、最早親しく其温容を拝し、其謦咳に接して高教を仰ぐの望なく、玆に恭しく追悼の礼を行ふに至りました事は誠に痛恨の次第であります。
 先生は該博の識見と英邁の卓見とを以て明治維新の復興を賛け、経国済民の業を大成せられたるのみならず、大正・昭和の隆運を図られたれば其為されたる偉業は、頗る広汎に亘りて枚挙に遑あらず。只吾吾は吾人に最も密接の関係ある先生の広く後進の為めに実業教育を施し、以て我国商人の地位を高めんとするに熱中せられたる事情の一端を述べて、其鴻恩を謝せんと欲するものであります。
 抑も青淵先生が我商人の地位を高めんとせられたるは遠く其洋行時
 - 第44巻 p.347 -ページ画像 
代に端を発せしものゝ如く、曾て先生が慶応三年徳川民部公子に随つて仏国に使し、亜で欧洲各国を周遊せられたる当時に始りしとの事であります、民部公子は当時の仏帝奈翁三世に謁見し、更に其隣国白耳義に至りレオポルド国王に謁見せられた時、外交上の儀礼を終るや、王は直に民部公子に向つて個様なことを申されました、即ち『鉄は産業の基礎である、産業を起さんとすれば勢ひ鉄を買はさるべからず、而して白耳義の鉄は其品質他国産に優るを以て鉄を買ふなら白耳義の物を御買なさるが利益なるべし云々』と申されたそうであります、公子に陪従せる青淵先生は此言を聞き且王の為す所を見て少からず驚き且感奮せられたそうであります、何となれば当時の日本は士農工商の階級制度で而かも商は其最下級に属するに、白耳義に於ては国王自ら其国産の売込を試みらるゝが如きは実に意外にして、先生は特に驚歎せられ、帰国の後は是非産業を起して商業を盛にせんと深く心に期せられ商売は決して賤劣のものにあらず、欧洲各国にては商は寧ろ其社会的地位に於て他の階級に優るものあるを洞察し、我国にも早く此風を養成し度しとの感を深からしめたと度々の御話でありました。
 斯る印象を持たれたる先生が、御帰朝の時は徳川幕府は既に倒れて明治維新となり、将軍慶喜公は静岡に隠遁せられたれば先生も亦静岡に転居して公に仕へ、其間同地に産業を起して只管徳川家の為め利殖の道を拓き其子孫の繁栄に尽さんと欲し、同地の物産を収用すべき倉庫を建設し、為替会社と称する銀行に類する金融機関を造りて地方の産業を補助しつゝありましたる所、偶々明治政府は維新の皇謨に基き広く天下の衆智を集め、人材を網羅して国家隆昌の基を開かんとせる折柄なれば欧洲の新しき文物を視察研究せる先生を永く地方に蟄居隠遁せしむべきにあらずと為し、政府は屡々使を遣はして先生の出仕を求むるに急なるものあり、先生も亦飽くまで之を固辞するに忍びず、遂に官途に使ひられたる次第でありまして、是実に明治二年であります、然れども官途にあるは素より其志にあらざるを以て明治五年官を辞して民間に下り第一銀行を主管する事と相成りまして爾来卓絶せる識見と其材幹とを実業界に分たれたる次第で、明治年間に興りし新事業で先生の後援と其指導を仰がざるものは殆んど無しと称するも過言でないと存じます。
 先生以為らく商人の地位を高むるには先須らく其後進の薫陶を要すと、其教育方法を案ずるに方り偶々故森有礼子爵の創立せられたる東京商法講習所より先生の後援を求められたれば、先生は是より終始一貫時の校長矢野二郎を助けられ、終に先生の御尽力を以て学校は東京府の所管に移り、追々発展の気運に向ひましたが後年東京府会は商業教育の必要を認めず、斯の如きは無用の長物なりとして其予算を否決したれば、学校は玆に閉鎖せざるべからざる運命に陥り当時の在学生たる私の如きは特に非常なる迷惑を蒙り、狼狽為す所を知らず甚しき苦境に陥りました、是は明治十四年頃の事と記憶致します、何故私が特に困りしかと申すに、私が東京に留学したる学資は地方有志の救助に依るものでありまして、其学資を借りる条件として商業学校に入りて卒業の後は外国貿易に従事すべしとの約束でありました、而して当
 - 第44巻 p.348 -ページ画像 
時外国語を授け西洋式の商法を教ふる所は唯一の東京商法講習所あるのみで、若し此学校が閉鎖せば私は中道にして得る所なく空しく郷里に帰らざるを得ず、為に日夜憂慮措く能はず終に広尾に矢野校長を訪ね語るに右の事情を以てしました、其時矢野校長曰く、君そんなに心配するな此学校は渋沢さん等の有力者の後援がある、たとへ府会が潰すとも是等の人は決して潰すやうな事をする気遣はないから安心して勉強しろと申されました、私は未だ青淵先生の謦咳に接せざる時でありましたが、此時から先生の傑出したる、偉人であると感じて居りました。
 玆に於て先生は学校の維持を寄附金に仰いて一時の急を救はんとし府下の富豪に事情を告げて其賛助を求め、自身亦巨額の出金を為して他の同情を惹き、資金の募集を為されしも、比較的智識階級の集団なる府会すら商業教育の無用を論じて其支出を拒絶せし位の当時の民情なるが故、有志富豪に訴へても其醵出を得る事、実に容易ならざりしも先生は能く之に堪え、辛うじて一・二年校費を支ふるの資金を得ましたが、畢竟寄附金の頼むに足らざるを慮り、政府に許へて之を農商務省の管轄に移し更に文部省に転じ商業学校より高等商業学校となりし後、今日の商科大学に昇格した次第であります、此間高等商業より之を大学に進めんとするに方り商議員中にも賛否両論に分れ、世論又囂然たりしも先生の目的は飽くまで商人の地位を高めんとするにありしを以て無論大学程度に進級は素より其欲する所でありました、当時先生が私に話されたるは、農に農科大学あり工に工科大学あるに何故独り商科大学の創設に反対し、以て商人の向上を妨ぐるや非理も甚しく実に其意のある所を知るに苦しむと憤慨されたことであります。
 吾々の先生に負ふ所斯の如く大なり、然れども先生の労や空しからず、今や我如水会より高材逸士の徒続出し、国の内外を通じて我経済界の枢機を握るに至りたるは全く先生の賜でありまして、吾等の感激措く能はざる所であります。
 目下国事多難先生の御指導を仰ぐべきもの尚多きに際し溘焉として長逝せられたるは実に千秋の恨事であります。
      遺族代表者渋沢敬三子御挨拶
 本日は私の祖父の為に斯くも荘重にして心情の籠つた追悼会をお開き下され、且私達遺族を御招き下されましたことは、私の感謝に堪えない処であります。
 私は如水会には或は商大五十年記念とか、祖父の除幕式とかその他之迄に前後六回近くも御邪魔致して居ります。そして其中幾度か祖父のお伴して参りましたが、今日玆に遺族として皆様の御招きをうけようとは思ひませんでした。
 祖父は老人のことでありましたが、十月十四日腸の手術を致しましてから、数日間は経過も良く斯る結果を来そうと思ひませんでしたが天命如何ともなし難く、去十一月十一日に亡くなりました。其間病気看護中の感想と致しましては、私から申すのも憚りますが、「平生から死際だけは安かにしたい」と申して居りました位で、実に従容として死に就いたといふ外御座居ません。十一月八日に色々のことを云ひ
 - 第44巻 p.349 -ページ画像 
残し、九日より危篤となり、十一日に亡くなりましたが、その死は実に安かで日頃念願して居た通りであつたことは私共のせめてもの慰めで御座ゐます。
 如水会と祖父との関係については、先程堀越さんの御話通り切つても切れない関係であり、商法講習所の昔より引続き祖父もよく力を尽されたかも知れませぬが、祖父は生前如水会の皆様からは、自分が如水会の為に尽した以上大きく酬ひらるゝ様に感じて居られたのでありまして、私共も祖父の労少く其酬ひらるゝ処大なるに恐縮して居つたのでありますが、今日又斯る盛大なる追悼会を催し下さいまして一層其感を強ふする次第であります。若し祖父が此席にあつたなら、どんなにか皆様の御心尽しを喜ばれる事でありませう、祖父は日頃実業の発展、実業教育の進展、人格の向上について常に心を傾けて居られそれ等についての報告等を喜んで居ります。
 そして自分は死んでも自分の心は何処迄も実業界の皆様と共に暮し度いと申して居りましたのでありますから、祖父は死んでも、必ずや祖父の霊は皆様と共に永くこの世にあることゝ信ずるのであります。
 遺族を代表して玆に厚く皆様の御心情に感謝する次第であります。
云々

  窪田四郎君閉会の辞
 皆様多数の御列席を得まして今日の催の意義を深からしめたことを感謝いたします。又唯今は鄭重なる御挨拶があり却つて恐縮に堪えない次第であります、何卒将来とも渋沢家と如水会との関係は益々深く且今後に於ても各方面に於て御指導を願度いのであります、尚最後に本日母校教授・学生・支部代表諸君等多数見えました事を深謝し、玆に本日の会を閉づる事と致します。(以上文責者千吉良)
      白耳義大使バツソンピエール男よりの来簡
        十二月十五日本会に於て青淵先生追悼会開催するに当り、同じく本会名誉社員たる白耳義大使に御参列願つた処、大使には当日止むを得ざる先約あり、久我氏を通じて左の通り書状を以て追悼の情を披瀝せられた。
 私は飯高秘書より来る十日午後四時故渋沢子爵の追悼会が如水会に於て催さるゝ事を聴きたるも、其時既に他に延期し難き約束ありて追悼会に出席し能はざるを甚だ遺憾に思ふのである、私は此の万人を超越せる偉大なる実業家渋沢子爵を追憶し敬慕する私の誠意を披瀝すべき他日の機会を与へられん事を切望する次第であります。
  昭和六年十二月九日
      各地支部弔電
香港支部
 本日吾等の偉大なる恩人故渋沢子の追悼会に当り香港支部は遥かに深甚なる弔意を表し謹んで英霊の安からん事を祈り奉る
門司支部
 渋沢子爵追悼会に際し謹みて哀悼の意を表し奉る
京城支部
 - 第44巻 p.350 -ページ画像 
 謹みて哀悼の意を表す
大連支部
 謹みて哀悼の意を表す
長岡支部
 遥に霊を拝し謹んで遺訓を体せんことを期す
台北支部
 故渋沢青淵先生追悼会に当り御高恩を追慕し遥に御英霊を拝し奉る
上海支部
 渋沢子の遺徳を追慕し謹みて追悼の意を表す
洞海支部
 渋沢子爵追悼会に際し、謹んで哀悼の意を表す
台北高等商業学校長切田太郎
 故渋沢青淵先生追悼会に当り遥に御英霊を拝し奉る


竜門雑誌 第五一九号・第九二―九九頁 昭和六年一二月 如水会催青淵先生追悼式(十二月十日午後四時より如水会館に於て)(DK440078k-0002)
第44巻 p.350-351 ページ画像

竜門雑誌 第五一九号・第九二―九九頁 昭和六年一二月
    如水会催青淵先生追悼式
      (十二月十日午後四時より如水会館に於て)
 暮るゝに早い冬の陽は既に影ををさめ、薄灰色の夕闇が一つ橋の如水会館をそつと包んで居る。
 定刻となると陸続と自動車が横付けにされて、玄関正面の受付が雑沓して来る。会員の控室に宛てられた倶楽部室や図書室が次第に賑かになる。階上の式場には正面に鯨幕をはりその中央に白布で覆つた祭壇をしつらへ、祭壇の上に黒い縁をとつた青淵先生の写真を掲げ、その写真の周囲を花環が取りまいて居る。祭壇にゆらめくローソクの両側に壱対の花が活けられ、その活花の両側に雪洞がうすい光りをうつして居る。午後四時半合図の鈴が鳴らされると参列者約五百名が入場する。次いで青淵先生令夫人を先頭に御遺族の方々が左側の設けられた席に着かれる。
 一同が着席すると鹿村美久氏の紹介で司会者窪田四郎氏が祭壇の左側に進んで開会の辞を述べられる。
 「これより我が如水会並に我々母校の生みの親であり、育ての親で御座いました故渋沢子爵閣下の追悼会を催します。
 子爵閣下の御逝去は我々如水会々員一同にとりまして、まことに痛嘆に堪へない次第であります。その情の表れとしまして、何人が言ひ出すともなく、又何人が先きに立つともなく自然の情としまして期せずして追悼会を催し度いといふ事になりまして、本日皆様方の御列席を願ふに至つた次第で御座います。
 子爵閣下が御逝去なされまして日尚浅く哀しみの涙も御かはきになる暇もあらせず、尚色々と御取込みの折柄であらせられるにも不拘御繰合せ下さいまして御出席下さいました渋沢家御遺族の御方々に司会者として厚く御礼申上げます。唯今より追悼の式を行ふ事に致します。」
司会者の挨拶が終ると如水会理事長藤村義苗がさびた荘重な口調で長文の弔辞を読まれる。
 - 第44巻 p.351 -ページ画像 
    弔辞○前掲ニツキ略ス
藤村理事長の弔辞が済むと左の如く大阪支部・京都支部の弔辞が各代表者によつて読まれた。
  大阪支部弔辞○前掲ニツキ略ス
  京都支部弔辞○前掲ニツキ略ス
 尚次で名古屋・神戸・横浜・門司・大連・京城等各支部よりの弔辞が祭壇に供へられる。
 弔辞披露が終ると、堀越善重郎氏が祭壇の左側に立つて、悲痛な面持ちで追悼の辞○前掲ニツキ略ス を約二十分に亘つて述べられる。
○中略
 深い感銘の裡に氏の追悼の辞が終れば、子爵渋沢敬三氏をまつ先きに青淵先生令夫人・渋沢篤二氏・渋沢武之助氏・同令夫人・渋沢正雄氏・同令夫人・明石照男氏・同令夫人・穂積男爵の順序にて御遺族の焼香がある。次いで会員の焼香となりて、如水会を代表して成瀬隆蔵氏、東京商科大学を代表して佐野善作氏、学生を代表して石川清一氏が焼香される。その間一同は起立して敬礼する。代表者の焼香が終れば、子爵渋沢敬三氏が遺族席から祭壇の右側近く迄進まれて、謹厳なる態度にて次の謝辞○前掲ニツキ略ス を述べられる。
○中略
 挨拶が終つて席にもどれば、司会者窪田四郎が立つて
 「本日は御多忙中にも不拘御列席下さいました渋沢家御遺族の方々に一同を代表して厚く御礼申上げます。又唯今は御叮寧なる御挨拶を受けまして恐縮致しました。どうか今後も本会と渋沢家との関係が益々深くなります様に各方面に御指導を願ひ度いと存じます。
 本日はこれをもつて閉会と致します。」
と結び、厳粛と荘重との中に午後五時二十分に閉会した。会の終了後一般参列者が並んで交る交るに焼香する。
 黙々として香を捧げて居るこの人達から、この人達がその業に一歩を印した時から今迄、その上に光り、輝き、そして不断の教示を与へて来たその大いなる力が、永久に失はれて仕舞つたのだ。
 淋しい事であらう。然しその大いなる力は己れの生み、育んだこの人達の今心からなる追慕と景仰とに、限り知れぬ満足とよろこびとを感ぜられて、その行く手を更にどこ迄もぢつと見守つて行かれる事であらう。
 夜のとばりは静に下りて、縷々として渦巻く香煙の中にローソクの光りが一際明るく揺れて居る。