デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
9款 市立名古屋商業学校付商友会
■綱文

第44巻 p.459-466(DK440098k) ページ画像

大正3年3月15日(1914年)

是日、当校創立三十年記念祝典挙行セラル。栄一、十四日東京ヲ発シテ之ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK440098k-0001)
第44巻 p.459 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年         (渋沢子爵家所蔵)
三月十四日 雨 寒気強クシテ厳冬ノ如シ
○上略 午前七時四十分家ヲ発シ名古屋ニ赴ク、新橋マテ自働車ニテ八時三十分同所発ノ汽車ニ搭ス、郷隆三郎・図師民嘉・成瀬隆蔵・中島久万吉ノ数氏同行ス、車中安川敬一郎氏帰国スル為メ同行ス、車中雨天ニテ殊ニ寂蓼ヲ覚フ午後四時名古屋着、迎ノ為メ来ル者頗ル多シ○中略 午後五時商業会議所ニ抵リ名古屋経済会ノ主催ニ係ル歓迎会ニ出席ス食卓上一場ノ経済ニ関スル意見ヲ演説ス、○下略
三月十五日 快晴 風強シ
○上略 午前十時郷隆三郎氏等ト共ニ名古屋商業学校ニ抵リ祝典ニ列ス、○中略 市村校長式辞ノ後各種ノ祝文等アリ、後余ハ一場ノ祝辞ヲ述フ、其趣旨ハ実業教育発展ノ沿革及教師生徒ノ関係、道徳ト殖益ノ一致等ニ付詳細ノ意見ヲ述フ○下略


竜門雑誌 第三一〇号・第九四頁 大正三年三月 青淵先生の名古屋行(DK440098k-0002)
第44巻 p.459 ページ画像

竜門雑誌 第三一〇号・第九四頁 大正三年三月
○青淵先生の名古屋行 青淵先生には名古屋市立商業学校々友会の懇請に応じ、三月十四日午前八時半新橋発の汽車にて出発せられたるが同夜は名古屋経済会の招待会に臨まれ、翌十五日は市立商業学校創立三十年紀念祝典式場に臨みて一場の演説を為され、同夜出発十六日朝帰京せられたり。


市村先生語集 山崎増二 杉浦太三郎 伊藤惣次郎 編 附録・第九頁 大正一五年一二月再版刊(DK440098k-0003)
第44巻 p.459-460 ページ画像

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市村先生語集 山崎増二 杉浦太三郎 伊藤惣次郎 編 附録・第一〇―一七頁 大正一五年一二月再版刊 【○第三 名古屋商業学校創立三十年祝典 (三)渋沢男爵祝辞】(DK440098k-0004)
第44巻 p.460-465 ページ画像

市村先生語集 山崎増二 杉浦太三郎 伊藤惣次郎 編 附録・第一〇―一七頁 大正一五年一二月再版刊
 ○第三 名古屋商業学校創立三十年祝典
    (三)渋沢男爵祝辞
校長、臨場の閣下、満場の諸君。此最も祝すべき盛典に参列致しまして、斯く御多数の最も末頼母しき青年諸君に会見致しまするのは、私の欣喜に堪へぬ所であります。
今日の三十年の祝典は、昨日東京を出ます時には或は雨若くは風甚だ心配を致して出たのでござりますが、西洋の諺にあると思ひました、温良勤勉な船長は良き航海日和を得ると云ふことがあります。丁度此校長若くは此学校が温良であり勤勉であつて、世界の風浪に十分堪へる所の航海者である故に斯様な良い日和を得たのは、即ち西洋の古諺が我を欺かざることを喜ぶのであります。私共も其余慶に均霑して、此喜ぶべき祝典に参列致しましたのを深く感謝致します。(拍手起る)今日の祝典は独り本校の三十年を賀するのみならず、商業教育の始まつて以来四十年又全国に百有余の学校が出来ましたが、是等を併せて祝する意味を含んで居るやうに承知致します。勿論本校の三十年を祝する価値十分でありますけれども、進んで右様に祝意を拡めたと云ふ事は最も其宜しきを得た事と深く感謝致します。(拍手起る)其事に関しては聊か関係致して居りまする私故に斯かる祝典には甚だ管々しい繰言でありますけれども、所謂温古知新と云ふ今の市長の論語の御言葉に因んで少し古い事を申して私の満腔の喜びを呈したいと思ふ。唯だ残念なことは老人で声が徹らぬから、遠方の方には何を謂つて居るか判らぬかも知れませぬが、是は私が悪るいのでない、私の年を取つたのが悪るいのである。(拍手笑声起る)
元来此商業教育と云ふものは我が帝国の始には無かつたもので、今市村校長の式辞中に、商業教育のみは天降りでなくて陽炎のやうに下から発達したものである。天から降つた雨でなく地から生じた霧の如きものであると云はれたが、是は事実であります。其関係を玆で御話するは、昔を知らぬ御方には多少の興味になるかと思ふのであります。明治初年の教育と云ふものは、殆ど役人にすると云ふ教育ならではなかつたのであります。夫れも其筈で、明治維新と云ふものはどう云ふ
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働きから成立つたかと云ふと、諸藩の其頃の教育は、今の教育と比べて見ますと、甚だ単純なもの又浅薄なものである。多くは漢学であつて第一に尊王攘夷とか、細かに学んだ所で歴史地理位のものである。而して貞観政要であるとか、十八史略に依て少し政治の事を噛つて、夫れが天下を取つたと云ふことは穏当でないが幕府を倒したのである而して国家は此儘ではいかぬから、所謂欧羅巴に模倣した政治を我帝国に布かねばならぬことになつた。之を布くには全国を統一したから役人が多数要る其役人を拵へねばならぬ。所謂時代の要求で種々なる方法を設けて政治に従事する人を造るを急とした。既に政治に従事すると云ふ中には、人民を治めるのみならず外国の事情も知らねばならぬ、従つて外国の教育制度を模倣して制度を立てた。大学で云ふならば修身斉家を抜いて半分切て、治国平天下を教へると云ふ教育法が流行した、流行した所でない全国皆な然り。是が天降り教育と云ふものである。故に此場合には身を修め国を富ますと云ふやうな教育に心を傾けて居るものは一人もなかつたのであります。而して其時分に国の富をなす筋のものはどう云ふ人であつたかと云ふと、先づ百姓、然らざれば町人、或は工業家である。其百姓は今日とは大分違ひますけれども、商売人は悪るく申すと競売買、工芸は手内職であつた。故に常に私は申して居りますが、商業に対する教育は商売往来・塵劫記此二つで立てゝ居つた。商と云ひ農と云ふものには教育は全くなかつたのである。然るに一方には既に漢学の素養も多少行はれて居る人間が、維新以後海外の教育を加へて政治の教育は盛に進で居つたが、実業に対する教育と云ふものは未だ嘗て誰も論ずることがなかつたのである明治七年に故森有礼君が、亜米利加で此実業教育の事を深く考へて、私は英語を能く解しませぬが、其時分に聞き覚えて居る「ビジネス・スクール」がなければならぬことを感じたが、誰も耳を傾けるものがなかつた。東京府知事に乞うて、力を添へて呉れと云ふことで、試みに「ホウイツトニー」と云ふ亜米利加人を雇うて来たのであります。其時の東京府知事は大久保一翁と云ふ人でありましたが、至極其考を是認して、どうかして力を添へたいと云ふので、東京に共有金と云うて、租税に依て組立られぬ所の金がありました。其共有金は維新以前から積立てゝあつた金だに依つて、幾らか重立た人々を集めて評議して使ふやうにしたら宜からうと云ふので、東京府知事が二十人ばかりの総代的の人を選んで、会所と云ふ名を附けて集めて居つた。其人々に其金を使ふことを相談した。今の森君の請求に対して丁度一年に八千円ばかりの金を助力せねばならぬ。此金を使ふが善いか悪いかと云ふ案を出したのが、実業教育を東京に開く始めでありました。私がなぜ夫れに参列したかと云ふと、丁度其頃今の共有金の取締と云ふものを東京府知事から申付けられて居つたに付て、其取締と云ふ位地から其事に参与致して居りました。今日こそ実業教育に就て聊か苦心した人であるとか、貢献した人であるとか賞讚を受けますけれども、斯様に申すと大層自慢らしいやうだが、其の時には何も判りませなんだ。商業教育と云ふものはどれ程値打のあるものか、「ビジネス・スクール」と云ふ事を始めて聞いたから善いも悪るいも判らなかつた。漠然
 - 第44巻 p.462 -ページ画像 
とさう云ふ事を云はれたから、是は考ふべきものであらうと云ふだけで、大久保府知事の諮問に同意して、さうして八千円の金で森有礼さんに助力するが宜からうと評議が決したのが抑も始めでござります。軈て「ホイットニー」の経営で築地に其学校が開かれた。此所に成瀬隆蔵君が居らつしやいますが、成瀬隆蔵君は其商法講習所の始めての生徒と御なりなすつて間もなく卒業せられた人であるから、成瀬君は御若く見えますが、決して御若くはない。(笑声起る)所が其翌々年の明治九年に、森君が支那へ公使として行かれるに付て、此学校を是非東京府のものとして呉れるが宜からうと云ふことに相成つて、其間に参与して森君と屡々交渉して、其学校を東京府に買取つて、始めて東京府立学校と相成つたのである。府立と云うても今日の制度のやうなものでないが、共有金で始終其費用を支弁して居りました。名古屋は明治十七年に県立で商業学校が立ちました。名古屋の方々の眼よりは、其時分の東京府会議員の眼が大変劣つて居つたと見えまして、丁度明治十六年か十七年に、今の東京府の共有金で成立つて居る東京商法講習所廃止の決議をしたから、其学校が中にさまよつた。下から起つたものであるから、上から御助がなく、真中で止めようと云ふから中にさまよつた訳である。私共は丁度そこで苦心経営をしました。是に於て今式辞に当校長が御述べになりました矢野二郎君を思ひ出さゞるを得ないのである。其時に矢野君は森君と懇意で此校長に任じて居つた所が、不幸にして中段で梯子を引かれたやうな風で、潰すか残念立てるか金がないと云ふやうな頗る悲運に際会して、其時に際して私共聊か矢野君に助力しました。始めは漠然として商業教育は判らなかつたけれども、其時分には成程斯くすれば商人に地位を与へ、商売人の知識が進み、材能が伸びることを稍や知悉しました。同時に又私は官を辞して商売人になりました時で、日本の将来はどうしても国富を増さねばならぬ。国富を増すには今の有様では真正なる富を保つ事は出来ない。偶々相場をして金を儲けても其人一人の事である、五人あれば五人に止まる。真正なる国富は安全なる人民に依らねば継続するものでない。故にどうしても商売人の位置を進めねばならぬ。之を進めるには学問を盛んにしなければならぬと云ふ事を深く思うて居りました。故に此商業教育と云ふものに就ては段々に興味を覚え、頗る必要なるものと感じました。然るに明治十六年に、東京府会が折角ある唯一の商業教育を不必要なり廃すると云ふに至ては、如何に愚昧であるか、如何に残酷であるか、是はどうしても己れの独力でも保存せねばならんと考へた、併し斯かる教育の事柄は、勿論私は微力であるから左様な施設をし得る力はありませぬ。仮令力ある人があつたとしても、個人でやると云ふことは全体の利益とはいかない。私の常に申します国家と云ふものは、一人の富を以て国家の富とは云へない、五人三人でもいかない。国民全体が富むと云ふ事でなければ、真の国富にならぬと云ふ主義を持つて居ります故に、今の学校を或一人に属せしむると云ふ事を深く悲んで、終に之をどうかして共有的に保続したいと云ふ事に苦心惨憺したのであります。其時分の矢野君の苦みは実に思ひ遣られる程でありました、私共之を頻りに賛同して、俗に申す影
 - 第44巻 p.463 -ページ画像 
になり日向になり世話をして、明治十八年に農商務省が費用を補助して此学校を持続し、続いて明治二十一年でありましたか、時は慥かに覚えませぬが、文部省に移つて後に唯今の高等商業学校となつたのであります。是が即ち東京の商業教育の初めである。
次に商業教育が追々進歩して、国家も必要と見、世間も甚だ必要と見るやうに相成つたる階段でござりますが、此間に尚ほ挟んで申上げますが、世間が夫程重んじなかつた一例を申上げると、明治十六年であつたかと思ひますが、未だ学校を廃止せぬ前でありました。唯今数千万の資本を以て、東京唯一の会社になつて居る瓦斯事業を東京府に於て経営せられる時分に、私に瓦斯局の局長と云ふ事務を持てと云うて東京府から嘱託せられて、日勤はしなかつたが瓦斯経営の世話をして居りました。其頃外国人のみを雇うて経営するから、どうか日本人にやらせたいと云うて、大学に相談して一人の技師を入れました。此技師が愈々職に就く時に、結局此瓦斯局は何になるかと云ふから、結局は民業になるものだと云ふと、技師が私は今迄立派な役人にならうと云ふ事を期してやつと理学士になつたが、此瓦斯が民業になると云ふと、矢張り野に下らんならん理窟になるから、夫は私は甚だ遺憾である。故に一旦約束をしましたけれども嫌やであると言ひ出した。私は実に異様の感に打たれて慨歎に堪へなかつた。其時に天降り教育は怪しからぬものだと思ひました。(拍手起る)其学ぶ所は何であるかと云ふと応用化学である。応用化学を学んで民業に就く精神がなかつた此処にござる皆さんはそんな判らぬ人は一人もなからうが、明治十六年には大学を卒業した人にさう云ふ人があつたと云ふことは、三十年前の日本は余程古くあつたと云ふ事が判かる。其人も未だ存在して居ります。其時の大学総長は加藤弘之さんで、応用化学の先生は高松豊吉さんでありました。私は大いに驚いた。斯う云ふ有様で学問した人間が役に立つものがありますか、勿論政治学をした人が役人になる事は尤であるが、応用化学をやつた人が役人になると云へば、何をさせる積りで教育をするのでありますか、此位い判らない話はない。教師は教はる人があるから教師でありませう、残らず教師になると云ふ事は出来ない。斯かる謬見を以て教育すると云ふ事はどう云ふ事であるかと云うて、頻りに私は嘆息の言葉を発した事があります。是は唯だ実業教育が、其頃如何にまだ世の中に貫徹して居らなかつたと云ふ事の一例であります。三年立てば三つになる、四十年立てば四十になる惑はぬ世の中になつたと見えて、斯の如く商業教育が全国に普及して百以上の学校を見るやうに相成りましたのは、誠に御同様の大慶である。殊に当名古屋市は明治十七年から県立で此の学校を創立し、加ふるに市村君の如き良い校長を得て、段々其学校が進み進んで三千人以上の卒業生を御出しなされ、且つ其学校の主義が、吾々の最も理想とする所を実現せらるゝやうに思はれて深く喜びます。商業教育が四十年の歳月を経て進歩しました、其歴史は今申上げるやうであるが、玆に更にもう一つ申上げたいのは教育の仕方であります。教育の仕方と云ふのは、唯だ私は実業教育のみを申すのでござりませぬけれども、丁度商業教育の事に付て今矢野君の昔を偲びましたが、此矢野君は誠
 - 第44巻 p.464 -ページ画像 
に教育に付ては専心唯だ其事あるを知て他の事を知らぬと云ふ趣味を以て教育をしました。而して其頃段々出来て来る学生が或は自家に職業を執り或は他の銀行会社に職を執る、是等に就て未だ使ふ人も使はれる人も一向経験がない、習慣が生ぜぬ。此間に矢野氏は其学生の性質又は弱点或は癖抔を能く知悉して、悪るい所は直し善い所を伸ばし何か事があると相談をし、而して一方に於ては銀行会社各商店に就て能く其性質を詳かにして、此人を使つたらかうなると云ふ風に痒い所へ手の届くやうに心配をせられました。殆ど校長として二十年に近い歳月、日も亦足らず一心に其れをやられた。殊に専心的に商業教育に就て力を尽すのみならず、今申すやうな世話をやりましたから校長と学生の間は殆ど真実の父子も啻ならぬやうになり、温かい情愛を以て此世話が届きましてござります。斯かる有様を見て居る私には、其以後学問が段々発達して、商業教育のみならず総ての教育に於て、続々学校が出来続々学生が殖えて行くが、其教育の有様を通観しますると殊に中学抔の有様は私は頻る不快な感を抱く。偶々中学抔の様子を聞きますと、先生の講義を聴くのは、丁度寄席で極く下手な講談を聴くが如き有様で聴いて居る。此処にござる学生諸君はさう云ふ人はあるまいが、若し斯の如くありましたならば師弟の間の感化薫陶と云ふことは三里も十里も隔つて何の効能もない、此師弟の間の薫陶と云ふものは、教育上最も必要なものだと、私共は昔教育だから思つて居るが今日の教育は殆ど打て変つて、丁度前に申す寄席式の教育である。即ち学問の切り売りをすると云ふ事は、成程尤だと迄私をして信ぜしむるのは実に情けないものであります。(拍手起る)此教育の風習は、どうしても多数の教育をする以上は免れぬものでありませうけれども併し斯の如くして尚ほ是なりとするならば殆ど教育の弊害のみを積んで利益は薄らぐやうになるから、東京と云はず各地と云はず此弊風は直さんならん。之を直すと云ふならば校長若くは教員は能く自覚せねばならぬ。同時に学生一同も深く之を省みんならんと云ふ事は私の常に言つて居る所である、然るに当学校は全く其弊風のござりませぬ事を私は深く喜ぶのでござります。(拍手起る)唯今市村校長の式辞として述べられた御言葉の中にもありましたが、是非日本主義を主張して、出来る生徒をしてどこ迄も家族の心を以て、吾が息子を婿にやるが如き考へを以て、末始終此学校と其生徒と因みを繋ぎ其生徒も母校と聯絡して、一人の過失があれば母校も痛み、一人が仕合せすれば母校も賀し、相賀し相助けて行くと云ふ事で親切なる薫陶が出来る。斯の如くして学校と教員、又師弟の間が所謂親子兄弟の如くなるのであらう。是こそ真の美風と私は深く喜ぶのであります、昔日東京高等商業学校で矢野氏の苦心せられた所は足らぬ所がありますが、更に之に道徳的の事を市村君は御加へになつて、其宣言書抔を見ても吾々の理想とする所を事実に行ひなさるやうに深く讚嘆致します。明治十七年に名古屋に於て商業教育の基礎をなし、又其発達が今日ある事を致しましたのは喜びに堪へぬのであります。今一つ私は申添へて諸君に御注意を乞ひたいと思ふのであります。斯様に商業教育が進んで行くが此商業教育は何を意味するかと云へば、国の富を意味するものである
 - 第44巻 p.465 -ページ画像 
所謂物質的のものである。物質設備を完全にし又其仕事を拡張する事を努めるものである。富を増すと云ふ事は勿論国家として甚だ必要である。夫れでこそ世界各国海の東西を問はず、相争うて之に附帯する弊害も甚だ多い事を忘れてはならぬ。昔は商業に対しては悪徳が随伴するものだと云うて居る。「富をなせば仁ならず仁をなせば富まず」と支那でも言はれて居る。「富まうと思へば仁義を後にせんならんと言はれて居る、又西洋でも「アルストートル」と云ふ人の言葉と聞きましたが「総て商業は罪悪なり」と云うて居る。是は怪しからぬ話で満場の諸君は罪悪を作り、此学校は罪悪の教育場であると云はねばならぬ。さう云ふ事迄あるからして、此富と云ふものと罪悪と云ふものは、相聯絡し易いものだと云ふ事は心懸けんならんが、若し果して富が罪悪であるならば、国家は如何なる事を以て護つて行くか、国は如何なる事を以て力を増し政治を続けて行くか、富は決して罪悪と親類でも何でもないと云ふ事を能く考へねばならぬ。私は不肖ながら幸に自から富まぬから、罪悪は出来ぬと云ふ事だけを申上げれば夫れで善いかも知らぬが、私は罪悪に依らずして富む事が出来る富は全く道徳に依らねば維持する事は出来ぬと云ふ事を信ずるものである。(拍手起る)真正な富は道理に適ひ徳義を重んじた富でなければ、永続するものでないと云ふ事を、深く理解して御貰ひしたいと思ふのであります。世の中の現在の有様は斯様に申上げても兎角に政治と云ふものは唯だ力を以て人を圧伏するもの、富と云ふものは金を以て人を引き付けるものと云ふ風に流れ易いものである。現在の有様を見て時々「アリストートル」の言葉を思ひ出さゞるを得ぬ事は、私ばかりでない諸君も能くあるに相違ない。併し其れは世の中の間違ひである。真正な富は決して道理と背馳するものでないと云ふ事を深く御考へなさるやうに致したい。否な考へなさるのでなく、自身から其位置に立て富を作るやうになさらねばならぬと云ふ事を御忠告申して置きます。(拍手起る)国家は甚だ憂慮すべき場合が多いのであります。是は名古屋で申上げる言葉でなく、天下一般に言ひたい事であるが、斯かる多数の御集りであるから、此憂慮の情をば諸君に向つて申上げて置きますが、富をなすのは是非仁義道徳に依らねばならぬと云ふ事を、呉々も御忘却なきやうに希望致すのであります。
商業教育の成立、又師弟の関係、人事と生産との心掛は斯くありたいと云ふ、平生の所感を陳べて今日の祝辞に代へます。(拍手大に起る)
                   (文責在編者)
                   男爵 渋沢栄一



〔参考〕竜門雑誌 第三一一号・第一七―一八頁 大正三年四月 ○学問と社会 青淵先生(DK440098k-0005)
第44巻 p.465-466 ページ画像

竜門雑誌 第三一一号・第一七―一八頁 大正三年四月
    ○学問と社会
                      青淵先生
○上略
 畢竟今日は尚ほ過渡の時代で国家社会の内容が充分に整はず、只々先進国の長所を適用する事に苦心して居た結果、机上の学問を尊ぶに過ぎ修学の目的は単に他人に使はるゝに限るといふ傾向があつたが、
 - 第44巻 p.466 -ページ画像 
此の傾向は社会の進歩と共に次第に改まる事と思ふ、如何しても人各天稟の能力が有る筈だからよくよく自分の才能境遇を考察して、普通教育以上の学問は、自分に適当したるものを選んで自己の為めに研究せねばならぬ。
 此の点に就いては故矢野二郎氏の如きは深い注意を払つてなかなか行き届いたものである。久しい間東京高等商業学校で模範校長と言はれた程で学生との関係は親子兄弟の如きものであつた、然して平常学生と親みて赤誠を以て薫陶感化し其の間に各学生の性格才能を知悉し卒業後適処に就くに於ても行届いた世話をしたものである、寧ろ干渉と思はれた位であつた、学生は何程其の恩情に浴したか知れぬ。
 現名古屋商業学校長市村芳樹氏も其の学生の一人で、矢野氏の薫陶を受けた人である、此の師にして此の弟子ありで、私は先日其三十年紀念祝典に招待されて親しく其の実況を視察したが、実に就職以来今日に到るまで氏が二十年間の苦心は、遂に今日の名古屋商業学校をして、彼の婬靡なる土地に在りながら模範的学校の名を得る如にした、創立以来三十年間に卒業した三千三百人の学生が到る処に真面目な活動をして居るのを聴いて実に頼母しいものであると思ふた、市村氏の教育法は即ち矢野氏の如き周到なる注意に加へて、更に一歩文明的に進められたものである。
 其の師弟間の情誼の温かい事は言ふ迄もなく、全校を一大家庭の如くにして生きた教育を施しつゝある、教育勅語の如きも単に形式に止めずして赤心より奉読すると共に、真に其の精神を体得せしむるに努めると言ふ如な有様である、又其学科の如きも前申した地図の例の如く努めて実際に遠ざからぬ様に、少からず苦心して居るから随つて卒業生の就職先も、銀行会社の雇人となるものは少なくして多数は其家庭で家業を励み、或は独立の準備を為すと言ふ如な有様であるから、学問と社会との関係が都合よく行はれてゐるのである。
 蓋し一校の事は一律に出来るものでは無いが、何れの学校に学び何れの学科を修めらるゝ人にしても、前に述べた事共を参考として十分なる注意を払はれ且完全に勉強せられむことを望む。(雑誌向上掲載)