デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
2款 財団法人埼玉学生誘掖会
■綱文

第45巻 p.198-202(DK450065k) ページ画像

大正元年10月6日(1912年)

是日栄一、当会第二回評議員会・第三回維持員会ニ出席、終ツテ第八回寄宿舎記念祝賀式ニ臨ム。次イデ十一月二日、当会茶話会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第九七頁大正三年一〇月刊(DK450065k-0001)
第45巻 p.198-199 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第九七頁大正三年一〇月刊
 ○第一篇 埼玉学生誘掖会史
    第二期 財団法人組織時代
○上略 十月六日○大正元年第二回評議員会を開き、前年度の会務並に会計の報告をなし、更に維持員会を開き、大正二年度本会経費予算案を議了す。次て理事の補欠選挙を行ひしに、斎藤阿具氏之に当選せり○中略当日の出席者は渋沢会頭・理事諸井四郎・監事大川平三郎・諸井恒平・本多静六・田島竹之助、維持員斎藤阿具・長島隆二・松崎伊三郎・指
 - 第45巻 p.199 -ページ画像 
田義雄・志方鍜・福田又一・滝沢吉三郎・渋沢市郎・太田元章、評議員堀越寛介・平治源一郎の諸氏なり。此日や同時に寄宿舎第八回紀念式及茶話会を開催したるに前記諸氏引続き列席せられしを以て、舎生は多数の先輩に親炙するの機会を得頗る喜色ありたり。○下略
  ○維持員会ハ第三回ナリ。(「埼玉学生誘掖会十年史」所収「年表」ニヨル)


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一五〇―一五一頁大正三年一〇月刊(DK450065k-0002)
第45巻 p.199 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一五〇―一五一頁大正三年一〇月刊
 ○第二篇 寄宿舎史
    一、寮史
○上略
十一月二日○大正元年、午後七時よりホールに於て茶話会を催す。○中略最後に渋沢男爵には「人の道」と題し、深刻なる御教訓を与へられたり会は其れより余興に入つて一同十二分の歓を尽し十一時散会。
○下略


委員日誌(二)(DK450065k-0003)
第45巻 p.199 ページ画像

委員日誌(二)           (埼玉学生誘掖会所蔵)
十一月二日○大正元年
  茶話会を開く
 男爵渋沢閣下御来会あり、午後七時始まる
○下略


竜門雑誌 第二九四号・第七三―七六頁大正元年一一月 ○埼玉学生誘掖会茶話会(DK450065k-0004)
第45巻 p.199-202 ページ画像

竜門雑誌  第二九四号・第七三―七六頁大正元年一一月
○埼玉学生誘掖会茶話会 青淵先生を会頭に戴ける埼玉学生誘掖会に於ては、去る十一月二日午後六時より同会に於て茶話会を開かれたるが、青淵先生にも出席の上左の演説を試みられたり。
 今夕の茶話会に参上して、諸君の名論卓説を拝聴することを、愉快と致します。
 昨夜は上野精養軒に於て、知名諸学者の哲学的演説会がありました此れは私も関係して居る帰一協会々員の集合であります。其の席上で浮田和民氏が「東西思想界の変遷と宗教の関係」に就て長い御話をなされ、日本の道徳はグリーキの道徳に似て居ると云はれ更に其変遷の有様を君主・人民・子弟・及経済上・美術・商工業等に迄論及されて一時間にも亘りましたが、その細目は只今此処で申上られません。参会者の井上哲次郎氏・阪谷芳郎氏、アメリカ人ギユリツク氏・内ケ崎作三郎氏・姉崎正治氏などいふ方々が批評された此批評に対して答弁に対する批評などありて、多少討論向いた会合でありました。私は聴聞者の一人で余り論弁は致しませんでしたが、何しろ造詣深い方々の御話でありましたから大さう面白くありましたけれどもそれより寧ろ今日の演説の方が私の身体には面白く私の耳には愉快に感じました。先刻山口君より「蛮風論」と題して元気を鼓吹された壮快なる御話がありましたが、私は蛮風に基く元気に就いては余り感心しませぬ。固より精神に於ては山口君に賛しますが蛮々と申しますと形式上誤解を生じ易く、聊か矯角殺牛の感なくんばあらずでありますから御一同御注意を願ひます。さて私の云ふ元
 - 第45巻 p.200 -ページ画像 
気は蛮にあらずして、全然之と相対するものであつて、所謂孟子の王道と云ひ、又欲軽之於尭舜之道者、大貉小貉也。欲重之於尭舜之道者、大傑小傑也。と云ふ元気であります。蛮の字は南蛮より来たのでありますが、然し其の王道から来たにもせよ、何れにせよその精神は蛮でないのであります。私はこの席で此と似た様な事を御話しやうとしましたが、只今山口君に先鞭を越されました。然し今更自分の考をかへる事は出来ませんからそれに似たことを申上ます。私は元気に就いては青年の元気に関して、これを旺盛ならしむる工夫を申上ます。元気は国の元気或は時代の元気を申しますれば、此は少し漠然たる言葉であるから、解釈すれば色々の説がありませうが、私は先づ国家の元気を旺盛にすることに関して申上ます。而して元気は若きうちには欠くべからざるものであるが、老人とても無くて宜敷しいかと云ふに、否尚更欠くべからざるものであります。又人間の集りたる社会には尚必要でありまして、之は即ち国の元気であります。青年のみ元気であつても老人が元気でなければ、国は旺盛ではありません。それ故私共は元気ならざるべからずであります。而して元気を旺盛ならしむるには如何にするかと云ふに、此に答ふるに、私は向上心の旺盛は元気の基なりと答へます。
 元気を旺盛ならしむるには其他種々なる事が相集つて盛ならしむるのでありますから、平素の心掛が必要であります。孟子の吾善養浩然之気。敢問謂何浩然之気、曰難言。其気哉至大至剛、以直養而無害則塞乎天地之間。と云ふはまことに立派なる証拠であります。此点より考ふるに山口君の心配なされし如く満場の諸君は別として、青年には世間一般を見渡すと元気が乏しいと云ふの嫌がどうしてもある。学問は独り智を磨くものではないが、智を磨くが学問の本旨であります。誠に「大学」を読むでも、結局は知を致すにあつて、学問を真に活用するには、知を充分に応用するに依つて始めて得らるゝのであります。単に書物に依るのみが学問であるといふのは誤である。かの父母に孝に、兄弟に友に、朋友相信ずるが如き諸徳を実践するは此れ学問であります。此の如きは独り西洋のみならず支那の学問も然りであつて、殊に文物進みたる近代に於ては、物理・化学・工学に於ても総て進歩して居りますから、勢宇内に雄飛して他の民種を征服し得る所以は学問に俟つこと多大なのであります。我帝国も王政復古より知識を世界に求めよとの御旨意は誠に有りがたい御叡旨であつたから、進歩せる西洋諸国より知識をとつて今日を至したのであります。其の間に於て山口君の云はれし如く、軟弱を来し、微弱に陥るは免れぬもので、今日青年が真に元気旺盛なるかと云ふに旺盛と云ふを得ません、此は誠に青年の為に憂ふる所であるのみならず、老人に就きていふも憂ふる所であつて、御互埼玉県人は大に内省一番、元気を出すべきであると信じます。
 扨て簡単に元気養成の方法を御話します。即ち向上と道理ある欲望とが此れであります。然し此処に云ふ欲望は邪慾・私慾の如きものではありません。而して向上すると云ふは其の間に正しき道理を要し誠実なる事が必要でありまして孟子の以直養而無害則塞乎天地間
 - 第45巻 p.201 -ページ画像 
であります。殊に青年諸君は元気を養成するに当つて精神を其の処する事物に集注することが必要である。此れを忘れざらむことを望みます。凡そ今日の学問に対しては私共の様な現代の学問なきものの兎や角批評するは烏滸がましいけれども、余りに課程が多過ぎる為に気が散り易くなるのでありませう、然し課程全部に精神を集注すればよからうが此は難事にして多くは皆忘れる、故に荘子の所謂「多岐忘年」の結果に至るのは是非ないことです。勿論これは制度の罪で一概に学生を非難することは出来ませんが、然し現制度の下にては此れ又精神の集注なきの致す所と申されても致方がありません。知識許働かしても精神を集注せざる人は如斯なるので其の人は元気なりとは決して云ふを得ません。若し果して国がこうならばその国は貧弱となり甚しきは亡国となる。彼の近頃我国へ合併された或国の如きは元気なきに起因するといふは何人も異論なき処であります。今日の人として、又学問ある人殊に青年として学問に就ける人は別して元気の衰弱に陥らざらむことを要します。其の第一の手段は向上と欲望である。此れは道理正しき欲望即邪慾・私慾なき慾望である。次に何事に就ても精神を集注する事である。書物を読むにしても遊戯をするにしても或は家庭・社会・旅行に於ても然りであつて、而して諸君が書物を読むに第一必要なるは記憶にして、王荊公の所謂「好書は心に記す」であります。学問の必要はその応用の事実を心に止むる事であつて、例へば我国の歴史を読むでも、八大家の文章を読むでも、よく記憶せざれば何の利益もありません。学びて而して記憶せずば、所謂論語読みの論語知らずとなる。
 関ケ原の戦を読むでも、年代は慶長五年であり、一方は徳川家康で他方は石田三成である事等を記憶せねば何にもなりませぬ。要するに事実を知るに就いては精神の集注に依るのであります。而して若し諸君が記憶せんとせば元気を旺盛ならしめねばならぬ。元気旺盛ならんには仮令露西亜が七十五師団あるも、アメリカが如何に大なる軍艦を建造するも何かあらむ。諸君が学問を学ぶに当り、元気旺盛ならむ事を修養せば得る処必ず大ならむと思ひます。只今榎本君が「薩州偉人輩出の理由」といふ御話の中に、艱難汝を玉にすとか殺伐の風が精神を陶冶したが、今日に於ては漸次軟化し始めたと言はれましたが、此は薩摩の蛮風が元気を作れりと云ふのではなくして薩摩人の気風がそうであつたのであります。近日中に武蔵武士と云ふ書物が出版されますが、その中には源平時代の畠山重忠・熊ケ谷直実・岡部六弥太等の事蹟があります。斯様に当時の武蔵武士の雄飛したのは元気旺盛に依るのであります。而して此れは七百年の昔にして文明の加味せぬ元気旺盛でありました。今日に於ては吾人は蛮風に反して文明的元気旺盛を要し野蛮ならざるを要するのであります。孟子の浩然の気は即此れであります。山口君の精神は大いに善いが蛮風的元気でなくして文明的元気でありたいのであります蛮風が元気を養ふと云ふは、悪くすると誤つて猛獣的に陥るのであつて、かの封建が郡県となつた様に制度は右より左に移るが今更の通弊なる様であります。毒を以て癒やしたる病気はたとへ病は癒ゆ
 - 第45巻 p.202 -ページ画像 
るとも反つて其の毒に苦しむと云ひます。其の毒の為に誤る事が有るが如く蛮風的元気は動もすれば矯角殺牛的になるのであります。要するに元気を旺盛ならしむるには向上の念慮を盛ならしむるにあり、而して此れを為すに至つては精神の集注にあります。此れ有れば倦む心を生ぜずして愉快に勉強する事が出来、更に此を大にしては我国のみならず更に世界各国を通じて元気旺盛ならしむるを得るのであります。
                     (文責在記者)
                   舎生三沢亀二岡木弥市速記