デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.317-322(DK450126k) ページ画像

大正2年10月17日(1913年)

是日、当大学ニ於テ創立三十年記念式挙行セラル。栄一出席シテ、基金管理委員長トシテ報告演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三〇五号・第六一―六二頁大正二年一〇月 ○早稲田大学創立三十年記念会(DK450126k-0001)
第45巻 p.317-319 ページ画像

竜門雑誌 第三〇五号・第六一―六二頁大正二年一〇月
○早稲田大学創立三十年記念会 青淵先生の基金管理委員長として多年尽力せらるゝ早稲田大学に於ては、本月十七日を卜し、創立三十年記念祝典を挙行せられたるが、青淵先生にも列席の上、学長高田早苗博士の式辞に次で、基金管理委員長として基金会計に関する詳細の報告を為されたり。
当日の祝典は我国学界空前の盛事なるを以て、参考の為め本月十八日発行の国民新聞記事を左に転載す。
    早稲田一帯の満飾
 十月十七日午前十時、数発の煙火は秋雨煙る城北早稲田の天を揺がして轟きつ、光栄ある今日の盛典を祝する最初の烽火は揚れり、是より先き式場並に内外の準備装飾万端係員によつて遺憾なく整へられ、大学正門並に高等予科正門前には、同校建築科の考案に成れるセセツシヨン式の緑葉薫しき大緑門を設け、是に『粛迎』の二字を現はせり、而して学校近き鶴巻町一帯の各商戸は、軒頭に国旗・提灯を掲げ、且彩旗を蜘蛛手に張り連ぬ、要所々々には『祝早稲田大学三十年記念祝典』と記せる大行灯を掲げて祝意を表し、馬場下方面に於ても同葉緑門行灯を連ぬ、特に夜に入りては電飾を施すの装置を見たるが、就中学校附近の関係ある商家は高島・安井等の洋服店始め、何れも店頭満飾を凝して一斉に祝意を表し居れり。
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    雨中の大雑沓
当日の来賓は約一万と註せられたるが、早きは午前十一時頃より折柄の雨を冒して、人車又は自動車を駆りて集るもの陸続として絶えず、大講堂を始め数ケ所の教室に設けたる休憩室は、フロツクコート・紋服の来賓紳士を以て満たされ、然らぬだに道幅狭き大学附近の道路は、簇がる車馬に埋め尽され非常なる雑沓を極めたり。
    式場の光景
斯くて午後一時、来賓一同は接伴の教職員に導かれて式場に臨む、式場入口には同じくセセツシヨン式大緑門を建て、五百坪の大天幕と千五百坪の補助天幕とは、来賓一万・校友一万・学生一万を悉く収容して余りあり、場の中央一段高き所に演壇を設け、四辺に建てたる柱は紅白段々幕を巻付け、上に紫幔幕の引絞れるを繞らし、壇上には緑色濃き橄欖樹二鉢を置き並べ、場の周囲も亦一様に紅白段段の幕を張つて諸般の準備全く整頓せり。
    荘重なる行列
軈て来賓・校友の席定まるや、接伴の教職員二百余名は一度び式場を退きて運動場の東隅なる柔道場に参集し、何れも打揃うて今回新に制定されたる黒色のガウンを着し、白羅沙マントに赤き土耳古帽を被れる橘学長秘書が雄々し気に捧げたる、赤地錦に金糸を以て同大学の紋章を縫ひたる新校旗を先頭に、眼覚むる如き緋のガウンを着たる大隈総長之に次ぎ、高田学長・渋沢男爵の順序にて以下の教職員一同之に従ひ、荘重なる行列を作りて軍楽隊の奏する勇壮なる進行曲に歩調を合せつゝ隊伍堂々入場するや、満場の来賓・学生は一時に拍手喝采して之を迎へ、歓呼の声早稲田の森を揺がすばかりなりき、忽ち嚠喨たる君が代の奏楽は天幕の一隅に起れり、時に一時三十分荘厳なる祝典は愈々玆に始れり。
    大隈伯の宣言
先づ学長高田博士の式辞に次で、基金管理委員長たる渋沢男爵の第一期・第二期基金募集に関する詳細なる報告あり、次に総長大隈伯は無限の歓喜に面を輝かしつゝ、例の快弁を揮ひて「早稲田大学の発展は之即ち国家の発展なるべき」を説き、併せて大学教育の方針を明にする為め左の如き「教旨」を朗読して一種の宣言をなせり。
    早稲田大学教旨
 早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、模範国民を造就するをもつて建学の本旨と為す。
 早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て之が自由討究を主とし、常に独創の研鑽に力め以て世界の学問に稗補せん事を期す。
 早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ、以て時世の進運に資せんことを期す。
 早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、立憲帝国の忠良なる臣民として、個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界に活動すべき人格を養成せん事を期す。
次で松平頼寿伯は校友学生総代代表として、総長並に学長に対する
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頌辞を朗読し、夫より直に来賓演説に移りしが、各国大学代表者として英国倫敦大学を代表せる菊池大麓男、並に米国プリンストン大学を代表せるウイリアム、イムブリー両氏の祝辞あり、次で山本首相(代理山内内閣書記官長)奥田文相(代理福原次官)徳川家達公阪谷市長(代理宮川助役)中野東京商業会議所会頭の祝辞あり、之にて閉会を告げ校歌「都の西北」合唱裡に式は滞りなく結了せり。
    伯爵邸の園遊会
 午後三時半式典全く終るや、来賓一同は更に招かれて大隈伯邸内に於ける園遊会に望みたるが、会場は同邸の後庭に約数千人を容るゝ大天幕を張り、食卓を設けて立食の饗応を為し、宴半にして大隈伯爵の一同に対する懇切なる挨拶あり、是れに対し来賓たる仏国大使の讃辞あり、之に対し亦大隈伯の感謝の答辞あり、来賓一同麦酒の盃を挙げて早稲田大学並に大隈総長の万歳を祝し、五時歓を尽して散会せり、当日来賓の重なる者には、前記の外徳川達孝伯・加藤高明男・川村子爵・岡部子爵・浜尾男・石黒男・久保田男・肝付男・目賀田男・安楽兼道・三井高保・安田善三郎・村井吉兵衛・大橋新太郎・大石正巳・島田三郎・箕浦勝人、其他各国大公使始め知名の士無数なりし。


早稲田学報 第二二五号大正二年一一月 基金管理委員長トシテノ報告演説(DK450126k-0002)
第45巻 p.319-321 ページ画像

早稲田学報 第二二五号大正二年一一月
    基金管理委員長トシテノ報告演説
私ハ早稲田大学ノ基金管理委員ト致シマシテ、玆ニ基金ノ有様ヲ御報告スルノ光栄ヲ担ヒマス、学校ノ起リ、又今日ノ盛況ヲ致シタ理由ハ只今学長ヨリ詳細演説ガ御座イマシタカラ、諸君十分ニ御諒知下サツタデアラウト思フ、玆ニ創業録ヲ差出シテ御座イマスデ、ソレニ依ツテ詳細ハ御承知アルダラウト存シマス、斯ル席ニ私ガ参上ヲ致シテ一言ヲ述ベル資格ハ殆ド御座イマセヌ、又知識モナイ、去リナガラ基金管理ノコトニ就キマシテ大学ヨリ厚イ委托ヲ蒙リマシテ、管理委員諸君ト共ニ其職ヲ執ツテ居リマス為ニ、此処ニ斯ル衣装ヲ着テ、甚ダ不似合ナル有様デ参上致シタ次第デアリマス(笑声拍手起ル)
先ヅ基金ノ有様ヲ是ヨリ陳上致シマスガ、明治四十年ノ第二期計画発表ト共ニ、此基金ニ対スル規定ヲ作リマシタ、ソノ基金ノ総テハ基金管理委員ガ保管スルト云フコトニ相成リマシテ御座イマス、即チ是ガ私ノ基金管理委員ノ一人ト相成ツタニ就イテ、此処ニ参上シテ諸君ニ奇異ノ感ヲ与ヘ私ハ又大ナル面目ヲ得ル所ノ理由デ御座イマス(拍手喝采)。基金管理委員ノ成立ハ森村市左衛門君・中野武営君・安田善三郎君・大橋新太郎君・村井吉兵衛君・原富太郎君、私ヲ加ヘテ都合七名、而シテ誤ツテ私ガ其委員長ト相成ツタ訳デアリマス、先ヅ第一ニ申上ゲネバナラヌノハ、基金ハ恩賜金ノ三万円ト各殿下ノ御下賜金ノ壱千円ヲ別トニシマシテ、其初メ故伊藤公ガ二十五年ノ祝典当日ニ朝鮮カラ電報ヲ以ツテ寄贈サレタノガ第一番ノ基金ノ初メデアリマスソレカラ爾来六ケ年ノ間ニ、会計シマスト九十一万六百七十四円七十八銭九厘ト云フ額ガ出マシタ、之ニ第一期ノ差引四万四千十二円四十五銭七厘ト云フ繰越ヲ加ヘマスト、其会計ガ九十五万四千六百八十七
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円二十四銭六厘ト相成リマス、創業録ニ掲ゲマシタ計算トハ時日ガ違ヒマス為ニ少差ガ御座イマスノデ之ヲ御諒承ヲ願ヒマス、此中ニハ年賦約束ノモノモ御座イマスカラ、実収シマシタ総額ハ五十三万二千八円五十二銭、未収入ガ四十二万千八百七十八円七十四銭ト相成リマス其集リマシタ金額カラ支出シマシタ額ヲ何程ト問ヒマスト、金四十六万五千三百五十八円六十八銭三厘ト相成リマス、其内訳ガ三十九万七千六百八十六円七十三銭八厘ハ理工科並ニ種々ノ建築及設備ニ対スル総テノ工費デ御座イマス、尚六万七千六百七十七円九十五銭三厘ハ土地ニ係ル諸費デアル、差引キマシテ六万八千九百二十四円十五銭ト云フモノガ、総体ノ費用カラ差引イテ残ルノヲ後ニ繰越シ得ル金額ニ相成ツテ居リマス、是等ノ支出ニ対シマシテ、管理委員ノ管理スル状況ヲ玆ニ申上ゲルナラバ、或ル経営ノ必要ヲ生シマシテ、ソレニ対シテ是丈ケノ支出ヲセネバナラヌト云フ場合ニ、学長若クハ其他ノ職員カラソレソレ数字ヲ具シテ管理委員会ヲ開キマス、管理委員会ニ於テハ其当否ヲ一応監査致シマシテ、適当ト考ヘマシテ同意ヲ表シテ之ヲ支出スルト云フ方法ニ相成ツテ居リマスデ、是等ノ支出ニ対シテ殆ド細目迄モ其当ヲ得タト云フコトハ、私共玆ニ証明シテ申上ゲルコトガ出来ルノデゴザイマス、斯ノ如ク総額ノ寄附ハ、ドウ云フ原因カラ成立ツタモノカト申シマスト、寄附者総体ノ人員ガ二千六百八十名、唯今学長カラモ演説ニナリマシタ通リデアリマス、大キイ金高デハ五万円小サイ金額デハ二円、二円ヨリシテ五万円ニ依ツテ斯ノ如キ数字ガ成立ツタト申上ゲテ宜シウ御座イマス、其中一期二期続イテ寄附サレタ御人ガ四百二十九名、校友会中ノ応募者ノ数ガ千五百八十名、其金額二十四万二千百四円ト云フ高ニ上ツテ居リマス、是等ハ殆ド学校其物ガ、自身デ心配シテ自身デ大ナル寄附ヲ得タト云フ訳デアルカラ、申サバ自分ノ畠カラ茄子ガ出来テ、ソレデ御馳走ガ出来ルト同様ト申シテ宜シウゴザイマス(拍手喝采)。
序ナガラ一言添ヘマスノハ、基金募集ノ費用及今月ノ祝典ノ費用、之ハ今申上ゲマシタ基金カラハ支出致シマセヌデ、特志ノ寄附及経常費ヨリ一部分ヲ割イテ繰入レテ、其費途ニ充テヽゴザイマスカラ、即チ基金ハ全ク学事ニ対スル極ク必要的ノ費途ニ供サレテアルト云フコトヲ申上ゲ得ルノデゴザイマス、私ノ基金ニ就テノ報告ハ是デ終リマシタガ、更ニ一言ヲ添ヘテ申上ゲ置キタイト思フノハ、此程京都ニ旅行ヲ致シマシテ叡山ノ慈覚大師ノ千五十年ノ遠忌ニ参列致シマシタ、慈覚ノ大師遠忌ニ参列シタノハ此学校ニ何ノ因縁ガアルカト諸君ハ深ク御疑デゴザイマセウガ、大隈総長ハ常々学校ハ御寺ト同シモノデアルト云フコトヲ申サレ、二十五年ノ記念ノ際ニモソウ云フ御説ガアツタヤウニ記憶シテ居リマス、果シテ然ラバ延暦寺ノ有様ガ早稲田大学ト余リ没交渉デハナイト申上ゲラレルカモ知リマセヌ、僧最澄ト云フ人ガ、仏法渡来後殆ド二百年余リ、段々進ンデ往ツテ弊害ノ生ジタ有様殊ニ奈良朝仏法ノ最モ政治ト密着シ過ギタ有様ニ深ク感シテ、遂ニ一種ノ仏法ヲ開カレマシテ、丁度延暦ノ五年カラ七年ニ掛ケテ一寺院ヲ創立シタノガ即チ延暦寺デアリマス、其初メハ頗ル微々タルモノデアツタ、併シ折モ折延暦十三年ニ桓武帝ノ還都ガアツタ、其初メハ長岡
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デアツタガ、遂ニ平安遷都ト相成ツタ、此平安遷都ハ延暦寺ト密接ナ関係ヲ生シテ、遂ニ仏法ヲ再興セシメタト申シテ宜シイ様ニ思ヒマス定メテ此延暦寺ノ段々ニ進歩シテ往キ、拡大サレテ往ク時ニモ基金管理委員ガアツタダラウト思ヒマスガ、其時ノ管理委員長ハ誰デアツタカ、ツイ聞キハグレマシタケレドモ(大笑)、必ズ其間ニ矢張リ力ヲ尽シタモノガアルデアラウト思フノデアリマス、兎角吾々ノ従事スル所ハ、甚ダ華美ナ事デハゴザイマセヌケレドモ、何レ物事ニハ花モアリ実モアリ、又幹モアリ枝モアリ、総テガアツテ、自ラ社会ニ発展ヲ為スモノト考ヘマスデ、其延暦寺ノ此学校ト因ミアルコトヲ私ハ深ク感ズルノデゴザイマス、唯私ガ此学校ノ未来ニ就イテ今学長ノ述ベラレタコトヲ如何ニモ左様アリタイト希望シマス、唯今申ス延暦寺ハ、僧最澄即チ伝教大師ヨリ更ニ慈覚大師、智証大師ト追々ニ進ンデ参ツタ結果カラ、最初ノ伝教大師ノ希望以上ニ走ツタ為ニ、遂ニ兵燹ヲ受クルト云フコトニナツテ、玆ニ延暦寺ノ一頓挫ヲ来シタト云フコトハ延暦寺トシテ甚ダ憂フベキコトデアル、蓋シ物盛ナレバ必ズ衰ヘルト云フ事ハ免レナカツタト見エルノデアリマス、此学校モ漸進主義ヲ執ツテ、延暦寺ノ覆轍ハ履マザルヤウニ深ク期待シテ居ルノデゴザイマスガ、丁度延暦寺ヲ見テ参ツタ折柄、大隈総長ガ常ニ学校ハ御寺ダト仰シヤル御言葉ヲ思ヒ出シマシテ、玆ニ基金ノ管理ニ就イテ一言御報告致スト共ニ愚存ヲ陳上致シタ次第デゴザイマス(拍手大喝采)
                          以上


半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第二七四―二七六頁昭和七年一〇月刊(DK450126k-0003)
第45巻 p.321-322 ページ画像

半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第二七四―二七六頁昭和七年一〇月刊
 ○第一篇 第四章 拡充期
    第五節 創立三十年記念祝典
 学園の第二次拡張事業が終了して理工科の教場設備も完成したので六月一日には京浜間の校賓・賛助員及び重なる寄附者を招いて披露の宴を開き、教室・実験室などの縦覧を請うたが、他方二十七日には校友会幹事会を開いて、創立三十年記念祝典に関する決議をなし、九月十日には祝典準備委員会を会議室に開いて、委員の分担と祝典の順序とを協議し、挙式期日を十月十七日乃至二十二日と定めた。
 十月十五日、総長大隈は先づ参内上奏して聖恩を拝謝し、『創業録』及び写真帳を奉献して、祝典挙行の事を天聴に達し奉つた。
 超えて十七日午後一時三十分、運動場に大天幕を張つてしつらへた式場には、来賓・校友二千二百二十余名、学生約一万名が次々に入場し、それぞれの席を占めると、新たに制定せられた式服を着けて、高田学長以下教職員三百余名は行列を作つて粛々と入場し、拍手、喝采歓呼の声が目白台に反響した後は、しばらくの間森厳なる沈黙が続いた。其沈黙を破つて学長高田は演説を試み、基金監理委員長渋沢栄一の報告があつた後、総長大隈が起つて早稲田大学教旨を宣し、次ぎに校友学生総代として松平頼寿が祝辞を朗読した。引続き英国諸大学を代表して菊地大麓、北米合衆国諸大学を代表してウイリヤム・イムブリイ、山本首相、奥田文相の祝詞代読、貴族院議長徳川家達・東京市長阪谷芳郎・商業会議所会頭中野武営らの祝辞があり、午後四時式を
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終つて順次退散した。
 此日欧米各国の諸大学からは遥々祝辞・祝電を寄せたものが多く、独逸帝国ではベルリン大学外十一校、北米合衆国ではエール大学外十九校、英国ではロンドン大学外十七校、仏国ではパリ大学外五校、墺匈国ではプラーグ大学外四校、白耳義ではブラッセル大学外三校、伊太利ではボローニヤ大学、和蘭ではウトレヒト大学外一校、露国ではオデッサ大学外一校、瑞典ではストックホルム大学外二校、瑞西ではベルン大学外二校、合計七十六校の多きに達した。
 式典後総長邸に於いて大園遊会が開かれ、仏・露・伊・独・英・米の各大使、白・瑞・支の各公使、各大学代表者二十八名を初めとして数千人の来賓が潮の如く押し寄せて、天幕内に設けられた食卓に就き嚠喨たる奏楽の裡に立食の饗応を享けた。
 午後四時四十分からは提灯行列に移り、校友・学生・教職員から編制せられた十五団体は、手に手に提灯を挙げて運動場を出発し、九段神田・日本橋・数寄屋橋を経て二重橋前に進み、九時三十分奏楽裡に大隈総長が聖上の万歳を三唱し、一同が之に和して解散した。
○下略