デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.495-498(DK460128k) ページ画像

大正3年2月24日(1914年)

是日栄一、上野精養軒ニ於ケル当協会例会ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正三年(DK460128k-0001)
第46巻 p.495 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正三年            (渋沢子爵家所蔵)
一月十日 曇 寒強シ
○上略 午後二時事務所ニ抵リ○中略 帰一協会ノ幹事モ来会ス○下略


帰一協会記事 一(DK460128k-0002)
第46巻 p.495-498 ページ画像

帰一協会記事 一                (竹園賢了氏所蔵)
    二月例会
二十四日○大正三年二月 午後五時上野精養軒に於て開会。当日は都合ありて始めに会食し、七時より左の講演ありたり。
 拈華微笑             釈宗演氏
講演の要旨は書記神代氏筆記せられたるが故に玆には省略すべし。宗演氏は講演後今一つの他の集会に出席せらるゝ約ありし為めに直ちに辞し去られたれども、会員各自の間に意見続出し、甚だ盛んなりき。村井氏先づ曰く
 余は常に禅に対して趣味を覚ゆ、基督の内に驚くべき程多くの禅味あるを信ず、今晩はコーツ氏の如く東洋思想に対して多大の興味を有せらるゝ宣教師も出席せらる、余はコーツ氏始め基督教信者諸氏
 - 第46巻 p.496 -ページ画像 
に対して、少しく愚見を陳述して御批評を仰がん。
 吾人が基督教の事を論ずる場合には、吾人は須らく西洋人の解釈せる基督教を脱却せざる可らず、吾人は赤子の心を以て新に基督教を観ざる可らず、基督は「爾曹此殿堂を毀て、我れ三日に之を建つべし」といへり。西洋人之を解釈して、基督の死後三日にして復活するを意味すとなす。余は断じて然らずと思ふ、そは須らく禅的に解釈すべき也。基督は曰く「信仰は山をも移す」と。芥子粒に須弥山を蔵むる禅味と同一轍ならずや。基督は理屈を曰はず、説明せず、常に比喩を用ひたり。基督は比喩を借りて宗教の精髄と生命とを伝へたり。然るに西洋人は常に器械的説明を試むるが故に動もすれば生命を殺す。基督は「天国は爾曹の衷に在り」「人新に生れずんば神の国に入る事能はず、風は何処より来り何処へ行くを知らず、凡て神に依りて生るゝ者も亦斯の如し」と曰へり。斯の如きは到底西洋人の解釈し得ざる所に属す。斯の如きは正に禅宗に所謂大悟の境也。基督の宗教の極致は「我父に在り、父我に在る」の境也「我は萄葡樹、汝等は其枝也」の境也。是れ宗演氏の所謂「我は筆也、筆は我也」と一轍也。要するに余は基督教のリインタープレテーシヨンの可能を信ぜんとする者也、而して是れ帰一協会の事業となすべき者なりと信ず。基督は東洋人也、東洋人に依りて真にインタープリートせらるべき者に非ずや。余はクリスチヤンと自称せず、西洋人の解釈せる基督教の信者と誤解せらるゝが故也。宗演氏の所説は悉く耶蘇教の中に在り。仏教は本来一也、妥協にあらず、此根本的一致を自覚するの必要あり Concordia の意義即ち玆に存す。
コーツ氏即ち起つて曰く
 余は禅宗よりも浄土宗を研究中なるが、今晩の講演を聞きて、余は深く思ふ事あり、即ち仏教の根本義は、吾人基督教の経験に一致すてふ一事也。余は宗演氏の話し振り及び容貌に対して甚だ愉快に感ぜり。偖村井氏の所説は真理なきにあらず。余は東洋・西洋の相違点は、其共通点有も少き事を益々感じつゝあり。吾人西洋人と雖も「神の国は爾曹の内に在り」の霊的意味を解せざるにあらず。現にパウロは「神の国は義と和と聖霊によれる喜び也」といへり。若し仏教と基督教とを区別すれば、義の一点なるが如し。今晩の講演にも和と霊との方面は説かれたれども、義の方面は多少閑却せられたるが如し。基督教の長所は其道徳的方面に存す。而してそは人格神を信ずるの結果也。釈迦の経験を深く研究する時は、或は吾人クリスチヤンと一致するやも知れずと雖も、大体に於て仏教に於ては人格神の信仰欠如せるが如し云々
村井氏再び起つて曰く
 基督の神は人格神なりや否、西洋人が「天の父」てふ語に拘泥して唯然く解するに過ぎざるにあらずや。余を以て見れば、決して基督教は人格神を信ずと謂ふべきにあらず。基督は Ye are Gods と曰へり、基督はやむを得ず父なる語を用ひたるのみ。
井上氏起つて曰く
 コーツ氏は基仏両教の相違を人格神の有無に発見せんとせらる。然
 - 第46巻 p.497 -ページ画像 
れども仏教亦人格神の思想を有す。由来仏教はバラモン教と共に両方面を有す、即真諦門及俗諦門是也、而して前者にありては凡神論なれども、後者に於ては世界の実在を人格化す、浄土門は其適例也加之仏陀が一大人格也、彼はもと普通の人間なりしも、開悟せる仏陀は世界の本体と一致せり、而して終に神となれる也、基督教に所謂ゴツドとなれる也、此仏陀には過現未なし、即ち永久不滅の人格也。
中島氏曰く
 村井氏の言甚だ面白し。成程西洋人は器械的なれども、同時に其は西洋文明の長所なる事を認めざる可らず、而して商売人の基督教観が器械的なるは当然のみ。吾人は決して商売人の基督教観を以て西洋人全体の基督教観と思ふ可らず。日本には多く斯様の基督教輸入されたり。中世の神秘派及び現代の偉大なる宗教家等は決して斯る器械的基督教観を抱くものにあらず。
 基督の神観は今日の西洋人の神観と同一にあらず。されど基督の神は猶太教より来りし者なるが故に、其歴史に通ぜざる可らず、猶太教では神を嫉みの神と云ひ、宛ら土方の神の如く考へたるが故に、如何にしても人格的なるを免れず。而して西洋人の人格観念は羅馬の法律思想より来れる者也、而して此法律的人格観を神に応用せるが故に誤謬生ずる也。勿論西洋人の宗教観より全然人格思想を取り去る事能はざれども、行為は大に変化せざる可らず、而して窮極如何なるべきやは明言し得ざる所なれども、東西思想は今後大に相接近すべき者なるを信ず。
内ケ崎氏起つて曰く
 余が嘗て余の教会に於て試みたる説教を聞きたる、一禅僧批評して曰く「禅を耶蘇教の形式に於て説きつゝあり」と。余も村井氏と同じく今晩の宗演氏の講演に対しては或点までは極めて同感也。人格非人格、一神凡神の区別は名前の区別に過ぎず。但し人が reality を考ふる時は如何にしても人間的なるを免れず、神を人格的なりといふは唯此意味に於てのみ也。余は常に生きんとする力を浄めさへすれば神を信ずるといふ事になると説く、而して此れ必しも余一個の愚見に止まらずして、キヤンベル氏・モダーニスト・ユニテリアン諸派の等しく称道する所也。猶エリオツト博士は先般「第二十世紀の基督教」てふ論文を発表して大に物議を醸しつゝあり。余を以て観れば、村井氏は余りに早く基督教に断念せられたり、今日の基督教は決して村井氏の信ぜらるゝが如き者にあらず、吾人は何故に基督教会に属するやといふに、我国に於ては既に仏教・儒教あり、然るに未だ基督教なし、故に之を我国に普及して、大に我国の文化を豊富にせざる可らず、此れ吾人が自らクリスチヤンを以て標榜する所以也。
コーツ氏は再び起つて所感を述べらる。
 井上氏は仏教には宗教的方面及び哲学的方面の両面あるかの如く説かれたり。然れども基督教に在りてはかゝる区別なし、両者は全然一致せり。而して吾人は相対的の意味に於ける人格性を神に附する
 - 第46巻 p.498 -ページ画像 
ものにあらず、吾人の所謂神の人格性なるものは絶対的意味に於てなり。日本の学者の基督教神観に於ける人格性に対する観察には誤解あるが如し。
談論容易に尽きず。十時散会。蓋し近来の盛会なりき。当日の出席者左の如し。
 釈宗演氏      内ケ崎作三郎氏
 中島力造氏     村井知至氏
 麻生正蔵氏     五代竜作氏
 筧克彦氏     コーツ氏
 加藤正義氏    山内繁雄氏
 岸本能武太氏   矢野茂氏
 片山国嘉氏    服部宇之吉氏
 石橋甫氏     成瀬仁蔵氏
 川島令次郎氏   渋沢栄一氏
 井上哲次郎氏   佐々木勇之助氏
 福岡秀猪氏    浮田和民氏
 塩沢昌貞氏    鎌田栄吉氏
 マコーレー氏   吉川重吉氏
 床次竹二郎氏    以上二十七名
猶当夜評議員会に於て左の通り決定
 ウエンテ氏より来状あり(別紙参考○略ス)万国宗教大会を都合によりては一年延期する事差支なきや、又名称を変更すべきや否やについて問合せ来りたるが、之に対して一年延期の事差支なし、名称は従前の通り万国宗教大会とすべき事に決定
次に左の通り新入会員候補者として推薦ありたり
  井上雅二氏(浮田・成瀬両氏紹介)