デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 美術
1款 財団法人大倉集古館
■綱文

第47巻 p.457-460(DK470118k) ページ画像

昭和3年1月20日(1928年)

是ヨリ先、大正十二年九月一日ノ関東大震火災ニヨリ当館類焼、同十五年三月新築起工、昭和二年八月竣工ス。是日栄一、東京会館ニ於ケル当館評議員会ニ出席シテ要務ヲ議決ス。


■資料

鶴彦翁回顧録 大倉高等商業学校編 第四六〇―四六三頁昭和一五年一〇月刊(DK470118k-0001)
第47巻 p.457-459 ページ画像

鶴彦翁回顧録 大倉高等商業学校編 第四六〇―四六三頁昭和一五年一〇月刊
 ○事業沿革及び現況
    大倉集古館の沿革及び現況
 - 第47巻 p.458 -ページ画像 
○上略
 然るに大正十二年九月一日の大震火災の襲ふ所となり、完全なる防火設備を有したる本館も、水道幹線の断水に依て如何とも為すことを得ず、遂に各館共火災の厄に遭ひ、如上幾多の貴重品を烏有に帰したることは、実に東洋美術の一大損失にして惜みても尚余りあることである。唯不幸中の幸とも云ふ可きは、現在陳列中の或るものは倉庫内に在りて災厄を免れ、或ものは猛火の裡を辛うじて搬出し得たもので是れこそ実に本館復興の基礎を為したるものである。
 大倉鶴彦翁は、集古館の建物及陳列品の焼失したることを深く惜しみ、直に之を復興せんと決意せられて、新に再建築資金を寄附せられた。是に於て工学博士伊東忠太氏に建築設計を、又大倉土木株式会社に工事施行方を委嘱し、大正十五年三月工を起し、一年有半年を経て昭和二年八月竣工、昭和三年十月開館するに至つたのであるが、鶴彦翁薨去の後は相続者男爵大倉喜七郎氏が翁の遺志を継ぎ、大正十一年《(昭和)》の集古館二十周年記念に当り、三重塔増築計画を発表し、其の資金を寄附せられた。尤も之が着手は日支事変関係の為め延期せられてゐるが、其他現代美術館の計画等、建築並に陳列品の充実・完整を期せらるゝ方針で居られる。而して現在の其建築概要は左の通りである。
 構造は全部鉄筋コンクリート造、屋根は鉄骨銅葺である、窓は鋼鉄製、本館には完全なる防火扉を備へた。この建築の様式は「支那風」である、彩色の強烈なる対比、屋根飾りの異様なる動物、室内装飾の怪奇なる味ひ等皆この「支那風」の現れである。建築の配置は、崖上の本館、崖下の別館、これを連ぬる廊下と六角堂とより成るものであるが、其の形本館は重厚に別館は奇巧に、其の間の六角堂は軽快の趣を持して両館の連鎖をなして居る。
 本館は二階建にして階上階下とも陳列室に使用し、別館は事務室となつてゐる。本館二階廊下よりは大東京を一眸の中に瞰下し得るのみならず、遥に東京湾を距てゝ房総の連山を望見する事が出来る。
 現に陳列する美術品は震災火災の難を免れたるもの、又後に購入したるものであるが、其内に国宝・重要美術品が相当多数ある。此の内日本物では、木彫普賢菩薩・長生殿蒔絵手箱・則重銘刀剣・男山八幡曼荼羅・聖徳太子勝鬘経讚図・愛染明王図・阿弥陀三尊来迎図・探幽筆縮図、梵芳筆図・宗裕筆花鳥・文晁筆山水双幅・一蝶筆画帳・宗達筆扇面流屏風・長亀筆観桜納涼図屏風・大黒長左衛門筆文昌物語・応挙筆関羽図・為恭筆山越阿弥陀図・仏頂尊勝陀羅尼神明仏陀降臨曼荼羅図、殷元良筆鶉図等を初め、支那其の他のものでは秦時代夾紵大鑑六朝大石仏・石獅子・宋画十六羅漢・宋代青瓷香炉・新羅塔・李朝画釈尊説法図等は内外に知られた優品である。其他にも能衣装、大橋新太郎氏寄贈の各種の能面等を合せて、所有美術品は総数二千六百余点を数ふ。又宋元明槧及旧鈔本其他各種の古版本及び浄瑠璃本等合計壱万五千冊と云ふ多数を所有してゐる。
 現在の役員及事務員は次記の通りである。
   理事長 男爵 阪谷芳郎
   理事  男爵 大倉喜七郎 大倉粂男
 - 第47巻 p.459 -ページ画像 
   監事  大橋新太郎     本宿家全
   評議員 子爵 石黒忠悳   男爵 阪谷芳郎
       徳富猪一郎     幸田成行
       子爵 渋沢敬三   大倉粂馬
       男爵 大倉喜七郎  門野重九郎
       杉栄三郎      大倉喜六郎
   館長 斎藤忠郎
   書記 諸岡利雄  今村竜一  近藤延太郎
   嘱託 溝口三郎  松井房太郎
   守衛 七名 其他
                       (昭和十五年九月)


集会日時通知表 昭和三年(DK470118k-0002)
第47巻 p.459 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年           (渋沢子爵家所蔵)
一月二十日 金 午前十一時 大倉集古館評議員会(東京会館)


渋沢栄一 日記 昭和三年(DK470118k-0003)
第47巻 p.459 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和三年           (渋沢子爵家所蔵)
一月二十日 晴 寒気平常
○上略 東京会館ニ抵リ、阪谷・大倉氏ト共ニ大倉集古館ノ評議員会ヲ開キ、要務ヲ議決ス○下略



〔参考〕中外商業新報 第一五一五九号昭和三年四月二九日 集古館の前で大倉翁告別式 供へられた花環約一千生前の栄を偲ぶ其盛儀(DK470118k-0004)
第47巻 p.459-460 ページ画像

中外商業新報 第一五一五九号昭和三年四月二九日
    集古館の前で大倉翁告別式
      供へられた花環約一千生前の栄を偲ぶ其盛儀
大倉鶴彦翁の告別式は廿八日午後一時から赤坂葵町の自邸で行はれた式場は集古館の朱塗の玄関の柱や灯籠を利用して前庭に六十坪の白木造りで設へられ、中央に「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」なる翁の戒名を掲げた霊柩を安置し、霊前には天皇陛下御下賜の御祭資料を始め久邇宮・東久邇宮・昌徳宮より御供物を供へ、左右には田中首相外各国務大臣を始め浜口・若槻・床次・三井・岩崎・安田その他政界実業界の名士からおくられた花環を以て所狭きまで飾られ、また
 両側には張作霖・憑玉章[馮玉祥]・蒋介石・段棋瑞・張学良・徐世昌・曹錕梁土詒・楊宇霜を始め支那南北の名士から贈られた旛が吊られ、式場から表門までの約二丁の急造廊下も、両側に各方面からの花環が連ねられ、その数約一千の多きに達してゐる、午前九時半、喪主の喜七郎男夫妻・未亡人徳子・高橋つる子・久米□氏夫妻、その他大倉一家、及び生前
 翁と親交あつた渋沢・石黒両子をはじめ、清浦子・浅野・馬越、宮内次官の関屋の諸氏など居ならび、寛永寺権大僧正大多喜守忍師を導師として、寛永寺・護国寺の衆約四十名の読経裡に焼香があり、次いで、午後一時から一般の告別式に入り、田中首相を始め各国務大臣は折柄開会中の議会の中から時を割いて焼香告別し、午後三時までには朝野各方面の知友を始め同郷縁故、学校関係者等約一万人の焼香があつた
 - 第47巻 p.460 -ページ画像 
   ○右ニ参列者中ニ渋沢トアルハ栄一代理ナルベシ。是月二十一日以後病臥静養中ナリ。(「竜門雑誌」昭和三年五月、第四七六号ニヨル)



〔参考〕集会日時通知表 昭和五年(DK470118k-0005)
第47巻 p.460 ページ画像

集会日時通知表 昭和五年         (渋沢子爵家所蔵)
二月一日 土 正午 大倉集古館評議員会(帝国ホテル)