デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
14節 取引所
1款 東京株式取引所
■綱文

第53巻 p.455-459(DK530082k) ページ画像

昭和3年9月30日(1928年)

是日栄一、当取引所創立五十周年記念祝賀会ニ出席シ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

(増田明六) 日誌 昭和三年(DK530082k-0001)
第53巻 p.455 ページ画像

(増田明六) 日誌 昭和三年      (増田正純氏所蔵)
九月七日 金 晴                出勤
○上略
本日の来訪者は暑いのに六・七人に及んた、其中ニ就き
○中略
2平賀義典氏 東京株式取引所創立五十年記念会(九月三十日挙行)に子爵を案内の件
○下略


集会日時通知表 昭和三年(DK530082k-0002)
第53巻 p.455-456 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
九月三十日 日 午後○半時 東京株式取引所創立五十年記念祝賀会
              (同取引所)但三時頃御出席ニナレハ
 - 第53巻 p.456 -ページ画像 
ヨロシ


中外商業新報 第一五三一四号 昭和三年一〇月一日 首相の音頭で東株の万歳 創立満五十周年を迎へてきのふ盛大な祝賀宴(DK530082k-0003)
第53巻 p.456 ページ画像

中外商業新報 第一五三一四号 昭和三年一〇月一日
    首相の音頭で東株の万歳
      創立満五十周年を迎へて
        きのふ盛大な祝賀宴
「兜町商業会議所」が生れ出で今日の「東京株式取引所」になるまで財界のバロメータとなり、或は戦場となつて満五十周年を迎へた卅日と一日両日に亘つて、この取引所を中心に金にあかした祝賀会が催された、前夜来相にくの雨に見舞はれて、茅場町一帯は紅白の幕、取引所紋章入の提灯も雨そぼ濡れて景気も一寸そがれた形であつたが、お午近くにいたつて雨もあがつたので、新取引所裏手と茅場町角の野外舞台では丸一一座の茶番、お神楽、素人芝居と番組がくられて、年が年中お休みなしの取引所近傍の小僧さん達が大はしやぎでの見物、自動車がひつきりなしに旧市場入口(会場口)から茅場町へかけて数百台ズラリと並ぶ、午後一時半、交通巡査が右往左往して群集を整理し終ると、田中首相が乗込んで来る、中橋商相・小川鉄相など相ついで会場に姿を現す、新旧両市場はまん幕と緑葉に装飾され、舞台では午後一時からお能紅葉狩が始まつた、会場には三千余人の取引所関係者の人達が埋め、午後二時から始められた模擬店には全市からよりすぐつた三百人余りの紅裙連の接待で客を呼ぶ、猿之助の所作事「雷と船頭」が済むと、主人側を代表し岡崎理事長の挨拶があり、来賓として田中首相・中橋商相・渋沢子・馬越恭平諸氏の挨拶があつて後、田中首相の音頭で取引所万歳を三唱、終りに帝劇女優連の喜劇一幕を見せて午後五時閉会した


時事新報 昭和三年一〇月一日 大掛りな『東株』の祝賀会 今日まで二日の費用卅八万五千円 兜町に素晴しいお祭り気分(DK530082k-0004)
第53巻 p.456-457 ページ画像

時事新報 昭和三年一〇月一日
    大掛りな『東株』の祝賀会
      今日まで二日の費用卅八万五千円
        兜町に素晴しいお祭り気分
今春落成した東洋一の新市場を誇る東京株式取引所では、三十日華々しく創立満五十周年祝賀会第一日を開催した、今一日まで二日間の祝賀会で、此費用卅八万五千円を計上してゐる素晴らしく大掛りなもの会場に充てられた取引所を中心に、茅場町兜町一帯の表通りは紅白の幕に提灯を吊りお祭り気分である
 午前は九時より、多年営業してゐるもの或は二代に亘る取引員、勤続年数の多い市場代理人、店員等四百余名の表彰式を行ひ、午後一時から朝野の名士千六百名を招待して余興入りの祝賀会に移り、日頃儲けに血眼となつてゐる市場に珍らしい能舞台を設け、先づ野口政吉・松本謙三氏等の「紅葉狩」の寂びた演技を賞し、猿之助の所作事「雷と船頭」などに喝采した
かくて主人側として、岡崎国臣理事長が挨拶として財産の証券化、証券取引の民衆化を説き、株式取引所のご自慢話、来賓として田中首相の祝辞、中橋商相の演説に次いで渋沢子爵は取引所創立当初の経緯を
 - 第53巻 p.457 -ページ画像 
述べ、最後に大阪株式取引所の中村理事長代理の祝辞朗読があつた、帝劇女優連の喜劇「結婚反対倶楽部」に興を添へ模擬店を打喜び、六時過ぎ会を閉ぢた


竜門雑誌 第四八二号・第一一〇―一一四頁 昭和三年一一月 ○青淵先生説話集其他 東京株式取引所五十周年祝賀式祝辞(DK530082k-0005)
第53巻 p.457-459 ページ画像

竜門雑誌 第四八二号・第一一〇―一一四頁 昭和三年一一月
 ○青淵先生説話集其他
    東京株式取引所五十周年
    祝賀式祝辞
 斯の如き現代に於ける必要具たる当取引所の祝賀の御場所に、過去の人間である私が出て祝辞を申上げると云ふことは甚だ相応しからぬやうであります。さりながら総てに物は突然と出来るものではないと云ふことを考へますと、私の如き老人が参つて既往の御話をすると云ふことも無用とのみ御考へ下さらぬことゝ思ひます。今も申した通り凡そ物事は突如出来るものではなく、種々の関係で其大を致すと云ふことは、それこそ山川草木皆然りでございます。例へば雲を凌ぐ老松も、其初めの芽生えの時には隻手能く押へ得る程であつたらうと思ひます。又大河巨江も所謂萩の下露、蓬の滴と歌詠みが言つたやうに、極めて微々たる水が段々集つて大河巨江をなしたのであります。蓋し満場の諸君も御異存はないと思ひます。斯く考へますと此取引所も決して一朝にして斯くなつたものではないと云ふことも明かでございます。唯今理事長岡崎君がお述べになつた所を伺つても、実に容易ならぬお骨折で深く感佩せざるを得ぬのであります。而して此お骨折は、即ち国家の実力に対する関係を大いに裨補し、又其事業に従事する人は之に依つて大いに利益を得、両々相俟つて今日の盛大を致したことを考へますと、実に嬉しいことであります。併し斯かる盛大の場合に其起りがどうであつたかと云ふことを回顧するのは、決して無用ではなからうと思ふのであります。私が玆に一言を述べますのは年寄を誇るやうなことになつて誠に相済みませぬが、抑々明治十一年以前の我が帝国に於ては、斯かる業態に対して果してどういふ観察をして居たかと云ふことを申上げて、満場の諸君に一つ昔を回顧してお貰ひしたいと思ふのであります。私のやうな過去の人間も、創立五十年記念祭と云ふやうな場合には、或は何か昔を語る道具にはなるかと思ふのであります。
 明治維新早々に商社と云ふものがありました。先是大阪の堂島には米の先商ひと云ふものが殆ど公に許された如くであつたけれども、限月売買と云ふことに付いては、或は投機である、投機であるのみならず博奕であると、斯う云ふ観察を以て学者界も法律界も政治界も大いに之を疎んじたものであります。明治早々と申しましても五年頃銀行組織を調べました。そして国立銀行条例の発布されたのが、明治五年十一月であつたと記憶致します。其頃に此株式取引所のことも協議をし、英吉利のストツク・エツキスチエンジなどのことも翻訳して、あれ是れと政治家や学者間で持囃しましたけれども、前に申す様に或は博奕になりはせぬかと云ふ懸念から、多くは之を排斥したのであります。殊に此排斥の首脳は、名を指して申上げると、故人を誹謗するや
 - 第53巻 p.458 -ページ画像 
うになつて恐縮でございますが、玉乃世履と云ふ人であります。此人は後に大審院の院長になられました。私より少し年長者であつたが、併し時を同うする所の政府の役人の一人であります。此人が中々精密に日本の下情にも、青表紙にも、亦欧羅巴のそれぞれの事情にも通じて、且つ熱心な法律家でありました。此人が特に売買先約定と云ふものは、どうも博奕に相違ないと云ふ主張を以て、此株式取引所許可に付ても、仮令政府の其筋……大蔵省とか農商務省と云ふやうな向きにお願するとしても、一方に頑張つて居て中々許してくれぬと云ふ有様であつて、容易に其許可を得ることを難んじたのであります。明治五年の国立銀行条例は出ましたが、株式取引所の許可は決して出なかつたのであります。明治六年に井上さんが大蔵省を出まして、其後大隈侯爵が之に代はられたが、まだ七年八年頃には如何に望んでも、其許可を得ることは出来なかつたのであります。蓋し其趣意は博奕を助長するやうに相成つてはならぬ、投機に傾くことは、決して堅実な商業と言はれぬと云ふ、先づ道義心と申しますか……一方から見ると古風な観念を以て之を抑止せられたのであります。願うことは幾度も願ひましたけれども、何時も其筋が躊躇する為に所謂途中に停滞して、其目的を達することが出来なかつたのであります。
 然るに玆に或る一種の動機で此玉乃先生が、自分の考を全く誤なりと悔悟して、すつかり豹変したのは誠に偶然のことゝ言ふて宜しいのであります。多分明治九年であつたかと記憶しますが、私がまだ兜町に一つの借家をして居た頃でありました。玉乃先生とは株式取引所に関する議論では始終結んで解けず、相会すると論じ合ふた間柄でありますが、玉乃君は至つて謹直な人でありましたから、其事に付て他の方面で段々研究をした上、吾過てりとさとつて、遂に私に詫言に来たと云ふ珍談がございます。相対づくの話で、且つ或る説を闘はしたのに過ぎませぬから、何も特に詫に来ると云ふ必要はありませぬけれども、そこは玉乃君の玉乃君たる所でございます。突然と訪問せられて今日は特にお前に陳謝する為に来たのだから、丁寧に其事情を聞いてくれと云ふ前置でありました。そして何を述べられるかと云ふと、此株式取引所の所謂先商ひと云ふことに付てゞありました。ちょつと可笑しい話ですけれども、此問題に付ては玉乃君大いに考慮された末にあの説此説と研究したが、何分要領を得ないため、遂に民法学者で仏蘭西から聘ばれて居たボアソナードに質問したのです。すると、ボアソナードは開口一番、殆ど冷笑的に答へられた。例へば公債証書であれ、米であれ、かゝる品物が世の中にあるか、ないか、又それが運搬が出来るか、出来ないか、幾月の間にどう云ふものが出来ると云ふことが事実である以上、其人に富があるか、ないかと云ふことを鑑定して、それを商売してはならぬとか、其売買の契約をしてはらぬと云ふこと迄政府者が立入る権能があるかどうか、若し絶対に之を抑圧するならば、日本の商売と云ふものは決して繁昌しませぬ。それは中には投機に傾く弊害もありませう。ありませうけれども、米なり、公債証書なり、何時何日にどれだけ提供しようと云ふ時に、買手に金はないにしても、借りることが出来る。商品にしても日本にないとは言へな
 - 第53巻 p.459 -ページ画像 
い、世界にないとは言へない、果して然らば其売買は正当なものである。果して然らば徳義上からいかぬと云ふことは言へない、然るに政府は博奕と誤解して、立入ることが出来ると考へるかも知れないが、法律はさう云ふものではありませぬ。斯う申すと短い言葉で直ぐ解決されたやうに聴ゆるかも知れませぬが、玉乃君とボアソナードの討論は決して私が申上げた様に、簡単なものではなかつたと思ひます。併し討論の結果、玉乃君はボアソナードに対して言葉がなくなつて、成程自分の考は誤であつたと分り、偖てさうなつて見るとボアソナードに断りをしたゞけでは相済まぬ。此問題で結んで解けざる渋沢に一言挨拶しなければならぬと云ふので、詫言に来たと云はれた珍談があつたのであります。
 是は先商ひと云ふものが、正当の商売である、否左様でないと云ふ争ひに付て、私と玉乃君の両人の間に於て解決が著いたまでの話でありますけれども、玆に於て初めて司法官の有力な人々が此種取引は是なりと云ふ解釈を持つに至り、従つて他の政治に関係する向……其時分には多く大蔵省がお取扱になつたやうでございますが、大蔵大臣も是は許可しても宜いと云ふことになりまして、明治十一年に請願を致して許可を得るに至つたのでございます、長つたらしく既往のお話などを致しましても何の効能もございませぬけれども、前にも申上げる通りに、大河は何から出来るか、老松はどう云ふ物から成長するかと云ふことを考へるならば、此取引所の起りは斯う云ふやうな理由であると云ふことを申しても、決して無用の弁でなからうと思ふのであります。況や只今商工大臣の御演説の如く、此事業が段々に進み、且つ帝国の富が斯くあると云ふ、其富の進みは他の物価に付ても勿論さうでありますけれども、有価証券を以て其富を表示すると云ふことは、どうしても甚だ必要だらうと思ふのでございます。果して然らば株式取引所が今日の盛況を呈するまで到つたと云ふことは誠に喜ばしいことでありまして、而して其間の苦心経営は推察に余りがございます。
過去五十年の久しきに亘つて、斯くまで進歩発展したことを考へますれば、次の五十年の間には何十倍何百倍に進むか、其未来を祝福するに足ることゝ思ひます。私は過去の人間で現代に何の効果はございませぬけれども、明治十一年以前の有様を玆に申述べるのは、多少何かに御参考にならうと思ふ為に、押して参上して祝辞として申上げる次第でございます。(九月三十日東京株式取引所にて)



〔参考〕渋沢栄一 日記 昭和三年(DK530082k-0006)
第53巻 p.459 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和三年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二十日 晴 寒気平常
午前八時起床○中略 平賀義典氏来リ株式取引所ヨリ委嘱ノ揮毫ヲ為ス、高田利吉氏モ助力ス○下略