デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

2章 栄誉
4節 参内・伺候
■綱文

第57巻 p.244-248(DK570128k) ページ画像

大正11年3月8日(1922年)

是日栄一、東宮御所ニ伺候シ、皇太子殿下ニ拝謁ノ上、日米問題ニ関シテ言上シ、十三日、東宮御所ニ召サレ賜餐ノ栄ニ浴ス。


■資料

竜門雑誌 第四〇六号・第五四頁 大正一一年三月 ○青淵先生の東宮御所に於ける渡米談(DK570128k-0001)
第57巻 p.244-245 ページ画像

竜門雑誌  第四〇六号・第五四頁 大正一一年三月
○青淵先生の東宮御所に於ける渡米談 青淵先生には東宮殿下の御思召に依り、三月八日午後四時東宮御所に伺候、拝謁の上、閑院宮殿下牧野宮相・珍田東宮大夫・入江侍従長並に閑院宮殿下の副官二名陪席の席上に於て、約二時間に亘り米国旅行談を申上げられたり。
 当日の御模様を承るに、東宮殿下には先生に椅子を与へられ、卓を挟みて極めて平易の御態度にて傾聴あらせられたる趣なり。先生言上の要旨は、日米問題の為めに多年尽力せらるゝ所以より説き起し、東京及び桑港の日米関係委員会の組織並に経過に及び、尚ほ近頃米国民一般は日本に対し好感を寄せつゝあるにも拘はらず、加州に於ける排
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日問題が今尚ほ依然として争議せらるゝは、洵に聖代の遺憾なる次第を陳べ、尚ほ此の問題に付ては是非円満の解決を告げしむべく国民として努力を怠らざる旨を縷々説述せられたりと云ふ。
 超えて三月十三日午後六時、青淵先生には再び東宮殿下の御召に依り、東宮御所に於て晩餐を賜はられたる由なり。


要用書類往復(四) 【(印刷物) 御進講録編纂上必要有之候ニ付 天皇陛下 東宮時代ニ於ケル貴殿御進講ノ草案御保存有之候ハヽ…】(DK570128k-0002)
第57巻 p.245 ページ画像

要用書類往復(四)            (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
御進講録編纂上必要有之候ニ付
天皇陛下 東宮時代ニ於ケル貴殿御進講ノ草案御保存有之候ハヽ御差出相成候様致度、此段得貴意候
  昭和二年七月三十日
                侍従長 伯爵 珍田捨巳
    子爵 渋沢栄一殿《(宛名手書)》
 追テ訂正増補ノ箇所有之候モ差支無之、為念申添候


竜門雑誌 第四八二号・第一―七頁 昭和三年一一月 御大典を祝し奉る 青淵先生(DK570128k-0003)
第57巻 p.245-248 ページ画像

竜門雑誌  第四八二号・第一―七頁 昭和三年一一月
    御大典を祝し奉る
                      青淵先生
 玆に 聖上陛下御即位の大典を寿くに当りまして、私は八十九歳の長寿を保ちました関係から、孝明・明治・大正・今上、四代の陛下の御治世に在るを得た訳で、感慨殊の外深いものがございます。
 聖上陛下に対して奉り、我々臣下の者がかれこれ申上げるのは、畏多い極みでありますが、世界無比の御大礼に際し 陛下が内万民の上を厚く心にかけさせられると共に、外世界の友邦との修好に深く思ひを馳せらるゝを拝察して、誠に有難く感ぜざるを得ないのであります特に外交に関しては摂政にましました頃から、御研鑽になつて居られましたので、恰度私が華盛頓会議の折、会議の関係者としてゞなく、日米関係委員会の一員として渡米し、帰朝致しました時に、御召を受けまして「日米関係に就て」御聴きに達したことがありました。私は由来政治的な外交に携つたことはありませぬが、国民の一員として、対米・対支等の問題に聊か微力を尽して居りますので、陛下には斯様に私如き者からまで、日米の関係に就てお聞き遊ばされようとなさるる程、外交問題に御熱心であらせられるのであります。
 大正十一年三月の某日、珍田伯爵が来訪せられ「摂政宮殿下は海外よりお帰りになつてから、外国の事情に、深甚の注意を払つて居られる。就ては貴下は早くから日米の関係を心配せられ、華盛頓会議へも公にでなく赴かれた程であるから、平素からのお考へなり、また外部から見た華盛頓会議の事情を詳しく殿下に申上げてくれるように」との御言葉がありました。私としましては、御聴取願へるならば有難い幸と存じ、御受け致しました。其処で同八日東宮御所へ伺候したのであります。お席には摂政宮及び珍田伯爵・御附武官など僅かな人数でごく内輪のやうに拝察されました。
 先づ珍田さんから「渋沢は外交のことを職分とする者ではありませ
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ぬが、長い間日米両国の関係を心配して居るので、米国実業家を招待したり、又渋沢が多数の人々と共に米国各地を歴訪したこともあり、常に米人と外交的交際をして居ります。斯様な訳で、華盛頓会議へ正式の日本代表としてゞはなく、別動隊として参りました。斯く深い関係がありますから、日米問題の経過と華盛頓会議に就ての感想を陳述してもらう訳であります。同人の述べる点を御参考におとめさせられるよう御願致します」と申上げ、尚私に対して「どうか形式に流れず御遠慮なく悠りとお聴に達せられるように御話下さい」と注意がありました。
 其処で私は「抑も米国に関しては少年の時分から深い感触を持つて農民ながら心配して居りました。嘉永六年米国からコモンドル・ペリーが渡来し、更にタウンセンド・ハリスが公使として著任して以来、総て日米の間柄は順調に進展したのであります。殊に米国は先進国として何かと親切に日本を導いて呉れました。先づハリスが安政三年日米条約を締結したのが、英仏その他との条約締結の基準となり、又長州が外艦へ発砲した際の償金事件も米国の主張から円滑に解決しました。尚ほ特別関税の取扱とか、治外法権の撤廃等も、常に米国が率先して賛成してくれましたので、海外関係は米国の好意から改善せられて来たと申してよろしく、国交は最初から厚いのであります」と古いことから陳述し初めて、余す処なく申上げたのであります。即ち「其後は貿易の状況なども年と共に進み、我国産品たる生糸の如き、大部分を米国に於て需要する有様で、米国からは棉花を始め輸入品が多く日本の対外貿易額中輸出入とも米国が第一となり、交誼も深くなるばかりでありましたが、不幸にも物議の種が、加州方面の移民から起つて参りました。由来此の地方は土地が広いのに人が少いから、自然移民が多数になり、日本からも出稼人の渡航する者が漸く増しまして、不足する労力を供給したのであります。然し或る場合には感情の行違を生ずることもあり、お互の希望を達し得ないやうなこともありまして、遂に所謂移民問題を生ずるに至りました。其の最もよくなかつたのは、明治三十七・八年の日露戦争に就て米国大統領ルーズベルトが仲に入り、ポーツマウス媾和条約を結びましたが、此時日本人としては日清戦争の前例を考へて、償金が取れるものと思つて居たのに、それが取れなかつた関係から、一種の不平を持ちました。そして媾和全権大使であつた小村さんが帰朝しても歓迎しようとしませんでしたから、これが米国へ響きました。加之、加州方面の移民労働者が、露国と戦つて勝つた日本は強いと云ふ自負から、幾分ともに威張るやうになつた為め一層悪感情を煽りました。一方米国としては、建国後相当の年月を経過して居るので、どうかして国民の愛国心を強くしたいと考へ、種々方法を講じて居りましたが、移民中の日本人は同化し難い傾がありました。知識もあり、辛抱もし、又働きもありますが、此の同化すると云ふ観念がありませぬ。殊に日本労働者は出稼であつて、真正の移民でないから、勢い物議の原因が多かつたのであります。其上米国の労働者にしても、欧洲からの移民にしても、日本移民の歓迎されることを喜ばぬどころではなく、寧ろ之を排斥する傾向になつて
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参りましたので、政治家が其の歓心を得ようとして、之を政治問題とするまでになつて来たので、移民問題は相当重大化して参りました。斯様なことで漸次面倒になりまして、小村侯が外務大臣であつた明治四十年に所謂紳士協約が締結せられ、日本移民の制限をすると云ふことになり、これで一時問題は静まりましたが、其後も加州の政治に野心のある人々が彼是云ひ出して問題を起しました。極言すればジヨンソンでも、エンマンでも、マクラツチーでも、又シヤレンベルグでもさうした傾向の人々であつたと申し得ると思ひます。此の紳士協約の成立した時、小村さんが此の様な問題は単に政府と政府との政治的外交のみでは、堅くなり勝で円満に行かない。これには国民的の話合が必要である、と云ふことでありましたから、私達が我国民の義務として力を尽して見ようと云ふことになつたのであります。其様なことから明治四十一年に米国太平洋沿岸の八商業会議所の代表者を招待し、歓迎懇談を重ね、翌四十二には渡米実業団を組織して渡米し、各地を歴訪しました。又千九百十三年に加州土地法が制定せられようとした際には添田寿一博士等を赴かせ、大正四年パナマ開通記念博覧会が桑港で開催されましたが、此時には欧洲戦争中でしたから欧洲方面からの出品が少ない関係から、時の大隈内閣の大浦農商務大臣などが特に慫慂して日本から多数を出品しましたが、私共は日本の実業界を代表して渡米しました。勿論これは地方的の博覧会でありましたけれども日本よりの出品も多く、私達の渡米なども非常に好感を与へました。そして桑港商業会議所会頭のアレキサンダー、博覧会の主脳者モーアなどと云ふ日米間の問題を心配する人々と懇談を重ねました結果、日米問題の調査を行ひ、政府や国民に注意する意味の団体として、日米関係委員会を組織することになりました。此の時此等商業会議所関係の人々を中心として、私の意見を聞くと申しますので、喜んで出席し大要次のやうに述べました。
  私達は世界人文の進歩の上から太平洋間に物議を起さぬやうに努力する義務があると思ひます。人が多い処から少い処へ赴くのは自然の理であると考へられます。果して然らば、日本の移民が米国に参るのは当然であつて、之等の人々に対し米国で差別待遇をすることは、天意にもとるものであらうと思ひます。斯様な点から移民問題はお考へを願ひ度いのであります。加之、今渡米して居る日本移民は米国の方で呼んだものであります。それを後に到つて気に入らぬからとて追い返さうとするのは、人道上の問題としても面白くないと思います。若し此様な待遇を米国人が受けたとしたらどうでありませうか。米国の方々は恐らく快しとしないだらうと思ひます。「己の欲せざる処、人に施す勿れ」で、日本人を特別に扱ふのは頗る好くないと思ひます。たゞ移民が多過ぎると云ふならば、国として制限したらどうかと考へられます。今日までの日米の円満な国交を移民問題にふり代へるのはお互いに気持の悪いことであります。申すまでもなく日本移民の心得違ひは注意して匡正せしめるよう努力致しませう。只今アレキサンダー君は日本の輿論が聞きたいとのお話であつたが、不幸にも此説は輿論と申し上げられぬかと思ひま
 - 第57巻 p.248 -ページ画像 
す。何となれば単に渋沢一個の意見であるからであります。然し信じて述べることは輿論となると先哲も教へられました。善い事なら日本でも米国でも輿論となりませう。故に私は日本に於ける未来の輿論となることを、此処に申上げるのであります。
 斯様にして、只今では東京・桑港並に紐育に同じ目的を持つ日米関係委員会が組織され、常に連絡を保つて日米問題の解決に尽して居ります。
 昨年華盛頓会議の折に又渡米致しましたが、同会議は米国主唱の軍備縮少会議でありまして、移民問題などは議題とならなかつたのでありますが、私としては日米関係に深い関係があるから、此の会議へ移民問題が提議されるやうなことでもあればと、時の原総理大臣の意向を聞きますと、米国側で同意すればよいであらうと云ふので、日本全権にも事情を話して老人ながら参つたのでした。そして私は両国の間に高等委員会を組織して、委員の間に問題が評議されるやうになればよいと望んで居たのであります。然るに同会議では四国協約と、海軍軍備五・五・三の比率とが定つたのでありますが、私の希望した移民問題の協議もされなければ、高等委員の組織も空想に終りました。けれども私はハーヂング大統領を初め、国務卿ヒユーズ、華盛頓会議全権ルート、前大統領タフト等と会見して、私の移民問題に対する衷情を披瀝したのであります。要するに私は小村侯の国民的外交説に共鳴してから、引続いて微力を日米問題に尽して居ります」と大体斯様に陳述致しました処「大変心配なものだ」と仰せられました。尚「支那との関係を面倒にしては不可である」と私が加藤・徳川両全権に話したこと、又日英同盟の解除せられたに就ての会議の有様が遺憾であつたこと、即ち四国協約の成立と共に日英同盟が解除せられたので、英国全権バルフオーアは、日英同盟の効果として、それが太平洋の平和に大いに貢献した、と堂々と述べたに対して、我が全権は僅かに義理一片の挨拶を述べたに過ぎぬ有様などをも種々と申上げました。それが終つてから御疑問に就て、珍田さんへ御下問があり、それぞれお答へ致しました。
 それから二日後再び御召を拝受し賜餐の光栄に浴しましたが、誠に御親しく「老人であるが疲れはしないか」とか、「渋沢はシンガポールにゴム園を持つて居るね、欧洲から帰る時珍田とシンガポールに上陸したが、和田と云ふ者が色々世話をしてくれた」などと仰せられましたので、「ゴム園は私個人のものでなく、株式会社であります。仰せの和田と云ふ者は引続いて働いて居ります」などと御答へした次第で、畏多くも有難い極みでありました。
 陛下が摂政宮にましました時、国民の一員としての私が、日米関係や華盛頓会議に就て陳上した事柄を、記憶のまゝ述べますれば右の如くでありますが、只今御大典の盛儀に際しまして、斯様なお話の出来るのは、私の身にとり此上ない栄誉であると存じます。(十一月十四日談話)