デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

2章 栄誉
4節 参内・伺候
■綱文

第57巻 p.249-256(DK570132k) ページ画像

大正15年7月1日(1926年)

是年六月三十日、皇后陛下ヨリ栄一ニ御下賜品アリ、是日栄一、御礼ノタメ参内シ、拝謁ス。


■資料

東京市養育院月報 第三〇〇号・第一―二頁 大正一五年七月 皇后陛下御使を以て真綿及絹布を渋沢子爵に賜ひ 御礼参内の節特に賜謁、令旨養育院の事に及ばせ給ふ(DK570132k-0001)
第57巻 p.249-250 ページ画像

東京市養育院月報  第三〇〇号・第一―二頁 大正一五年七月
  皇后陛下御使を以て真綿及絹布を渋沢子爵に賜ひ
    御礼参内の節特に賜謁、令旨養育院の事に及ばせ給ふ
 大正十五年六月三十日午前大森皇后宮大夫は畏くも 皇后陛下の思召を奉じて渋沢子爵を飛鳥山の邸に訪問せられ、陛下の有難き御諚と共に宮中紅葉山なる御養蚕所にて出来したる真綿一包と絹布一巻とを伝達せられたり、此の有難き恩賜を拝したる老子爵は感激禁ずる能はず、翌七月一日直ちに御礼言上の為め参内したる処、 皇后陛下におかせられては特に拝謁を賜ふ旨仰せ出だされ、御前に咫尺したる子爵に対し親しく御懇の御言葉を賜ひ、其間大震災後に於ける養育院安房分院の復旧を深く喜ばせ給ふ旨の仰せさへあり、賜謁約三十分にして子爵は聖恩の辱けなさに感泣しつゝ御前を退下せり
 抑も 陛下が右の如き恩賜を老子爵に下だし置かれたるは、其因由遠く数年《(十脱)》の昔に在り、即ち 陛下が尚ほ東宮妃殿下にて在はしませし明治四十一年中に、赤坂離宮内に於て御養蚕のことを始めさせ給ひしより十五年目、即ち大正十一年《(十三年)》に 陛下は『養蚕』なる題を賜ひて御付の女官、御歌所の寄人、蚕糸同業組合中央会の役員達に詠進方を仰
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せ出だされ、其際集りたる和歌四十有余首に及び、我渋沢老子爵も当時同じく 陛下の仰せを畏みて
  かしこしや玉のみけしの御袖にも
        こかひの桑の露をかけます
てふ一首を詠進せられたるに因るものにして、其後 陛下の思召にて右数十首の詠進歌もて貼交ぜの屏風を作らせられ、之れを御養蚕所休憩室の御調度品とせられ、尚ほ又た其写真を当時の詠進者全部に頒ち給へるが、渋沢子爵にも前記大森大夫往訪の際之れをも賜はりたるものにて、是等のことは以て如何に 皇后陛下が我邦産業のことに御心を廻らし給へるかを拝察するに難からず
 尚ほ漏れ承はる処に依れば 陛下には老体の渋沢子爵を殊更に召さるゝも気の毒なりとの思召にて、序の折に伝達するやうにとて、親しく真綿・絹布を大森大夫に御交付相成り、斯くて右の如く大夫の老子爵訪問となりたるものゝ由、老齢の功臣を労はらせ給ふ 陛下の深き御仁愛の程誰か感涙なきを得べき、しかして単なる御礼言上の参内者に謁を賜はりしことも実に破格の御寵遇にて、之れ蓋し維新前後の刻苦精励時代より明治・大正にかけて実業界の中心となり、絶へず国利民福の為めに奮闘活躍して倦まざりし渋沢老子爵の功労、かねては五十有余年来其経営の為めに努力する我東京市養育院の事業及び其他幾多の社会事業に対する熱心尽瘁の程を平素 陛下に於て御認識遊ばさるゝが為めにして、思召の程畏こしとも亦た畏こしとこそ申すべけれ


竜門雑誌 第四五四号・第一―六頁 大正一五年七月 御仁慈に浴して 青淵先生(DK570132k-0002)
第57巻 p.250-253 ページ画像

竜門雑誌  第四五四号・第一―六頁 大正一五年七月
    御仁慈に浴して
                      青淵先生
 我国に於ける養蚕製糸の事業は、世界独特のものと云へますが、皇室におかせられましても、予て此の事業に深く御注意になり、明治時代には昭憲皇太后陛下が熱心に遊ばされ、次でまた皇后陛下にも御手づから養蚕製糸に御親み遊ばさるゝのでございます。最近には非常に御熟練遊ばされ、御研究も行届き、殆んど本職の如くに、立派な糸を製出遊ばされるやうになつて居るので御座います。
 ところが先月 ○六月三十日の朝大森皇后宮大夫が突然来訪され、何事かと思ふと『今日御訪ねしようと思ひましたところ、陛下から若し渋沢を訪ふならば、曩に養蚕に熟練した人々から蚕の歌を詠進せしめ、之等の集つた歌を以て屏風を作つたが、其の写しが出来たから、詠進した人々に遣はしたいと思ふて居るが、恰度よい折だから持つて居つて呉れとの仰せで参上致しました』と云ふ口上で、右の屏風の写しの外、陛下御自ら遊ばした生糸で製した織物一反及び渋沢は老人であるから寒い折に用ひるやうにと、同じく宮中で出来た真綿を賜はりました。実に私としては有難い思召を賜つたもので、殊に老人であるから温かにするやうにと仰せられ、真綿を下賜せられたることは、只々感泣するばかりでございます。大森男爵とは従来から懇意な間柄でありますから、特に同氏を選ばれたことゝ思はれますが、それが少しも重重しくなく極く自然なので、私は殊の外有難く存し上げるのでありま
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す。当日大森男爵と養蚕に関する御話を致し、又宮中の有様などを承りまして、斯うした私自身に対する厚いお思召を感佩致すのみならず国民の一人として君恩の辱けなさをつくづく感じた次第であります。そして生糸は我貿易品中の大宗の一で、其の輸出量の如何はよく我が貿易の収支に大変な変化を与へます。故にその経営は何処までも安全を期する要があるに拘らず、事実それまでに到らぬ状況にあるのは遺憾の極みと申さなければなりませぬ。而して宮中に於て斯の如く養蚕と製糸とに御注意遊ばされることは有難いことであります。などと話したやうな次第でありました。
 其翌日即ち一昨日午前十時頃、私は皇后職へ御礼の為め参上しました。恰度其時大森大夫も出勤せられましたから、お礼を申上げて、雑談を致して居りますと、大森男爵は『一寸待つてくれ』とて鳥渡席を起ち、暫らくして帰られ『陛下に貴方の見えたことを申上げましたところ、折角参られたことであるから、会はふと仰せられます』とのことであります。私は拝謁を願つた訳ではありませぬが、特に会はふとの御言葉で、思ひかけなく玉顔を拝することを得ました。以前二度ばかり参上したことのあるお室で、老人をお労《いたは》り下さる為めでございませう、椅子を賜はり、陛下は少し高い処に座を占められ、親しく悠々《ゆるゆる》とお話の出来るやうに仕向けられ、お茶やお菓子を下さいました。私が謹んで御礼を言上致しましたし処、陛下には
 『お前は永年養蚕のことに付て心配して居ると聞くが、此方でも親しく取扱つて見ると中々面白く、沢山よく出来たので心嬉しく思つて居る』
と仰せ下さいました。大森男爵が
 『渋沢は今日では自身扱ひませぬが、養蚕・製糸に就ては農・工・商三方面から研究した趣で御座います』と申上げましたので 陛下には『斯かる事業は各方面に関係があるであらう』とて説明を求められる御様子に拝しましたから、私は
 『事々しく申上げる程ではありませんが、一体養蚕は、古い時代には農家の副業で、主婦が専ら事に当ると云ふ風でありました。今日でこそ主人が先にたつて、一家揃つて養蚕を致しますけれど、私達の子供の頃には母が専任者で御座いましたから、母について養蚕のことを知らねばならなかつたので御座います。私共はよく叱られながら手伝つて居りましたから、稚蚕《ちさん》の時からの飼育方法を覚え、寒い時には温度を加へるとか、暖か過ぎる時には空気を抜くとか、或は桑葉の手入とか、色々気を使つて蚕を育て、繭を作らせたので御座います。以上申上げました仕事が農業であります。それから第二段になりまして、糸にとりますことは工業でございます。此の製糸の方法が、昔は疎漏でありましたから、糸にむらがあつたり、長さは同じでも糸の太さが揃はなかつたり、節があつたり、色が違つたりしたので御座います。かくの如く日本のものは其のやり方が拙劣でありましたが、西洋のは学理的に精密で、製糸の方法も巧みでありましたから、明治初年大蔵省に居りました時、富岡へ製糸場を置き、西洋流に経営することになり、役人中では、私が其の創設に就
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て専任者となり、経営に関しても私が適当な担当者を使つてやつたのであります。今日では此富岡の製糸場は個人のものとなりましたが、当時は政府自ら工業上のことをやりました。それが現在では技術の進歩を見まして、旺んに外国へ売れて行く様になりました。第三には外国へ輸出すると云ふことで即ち商業になります。生糸は欧洲へも売れますが、多くは米国へ輸出せられます。其間に一般経済界の景気の消長がございますから、深甚の注意を以て適当に経営せねばなりませぬ。これは商業上の仕事で御座います。右申上げました農業・工業・商業の三つが甘く参りませぬと好結果を得ることが出来ませぬ』
とごく簡単ではあるが申上げました。すると
 『面倒なものであるのに、よく心得て居る』
との御言葉があり、尚ほ
 『昨年から病気して居たと聞いて居たので弱つて居るかと思ひの外、その様に元気であるのは結構なことである。その有様では別に老人がることもあるまい。それにつけても養育院の方はどうであるか、船形の分院も、出来て嬉しく思ふであらう。今何人位居るのであるか』
と誠に御懇篤な仰せでありましたので、『船形の方には百五十人位居ります』と御答へしますと、『本院には』と更に御訊ねになりますので
 『人数は定つて居りませず変化致しますが、大体四百五・六十人で昨今は他へ五十人程出て居ります。然し船形のは別でございます。時々入れかへまして、健康がよくなければ転地療養を致させます。小学校程度のものゝ健康は悪くありませぬから、困難な問題も起らず世話をいたして居ります。それから東京市の不良少年を精密に調査しましたならば千を以て数へませうが、約百四・五十人、少い時で百二・三十人の不良少年を矢張り養育院の経営にかゝる井の頭学校に収容致し居ります。然るに不良少年は屡々逃げ出したりするので其扱ひに困難を感じて居ります。然し中には役に立つやうになる者もあります。小さい者は乳児と幼稚園児童と小学校生徒との三通りに分け、乳児は里子に出して居ります』
と申上げました。このお話はつけたりで、お尋ねがありましたから申上げたやうな次第でありまして、約三十分ばかりして引取りました。真に斯うしたことにまで御注意になつて居られるかと思へば私達臣民としては、只管感佩し畏多いと申さずには居られませぬ。
 右につけて想起すのは、嘗て協調会で震災後施療病院をつくつた折の事で御座います。勿論協調会としては斯様な仕事は其本旨ではないけれども、場合が場合であつたので一時的に設けたのでありました。当時後藤子爵が内務大臣として救護局を設けて色々救護に尽されたに対し、民間では徳川公爵や粕谷衆議院議長や私など相寄つて相談し、大震災善後会なるものを起し、各方面から寄附を募つて、救護に努めました。其の一つとして曩に申した様に臨時に協調会に施療病院を開いたやうな訳で、其年即ち大正十二年十一月三十日に 皇后陛下には
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行啓あらせられたのであります。其時協調会の主脳者から此の臨時施療院のことを陳情した方がよからう、それには徳川公爵より副会長の渋沢の方が詳しいから、渋沢から申上げた方がよからうと云ふことで、施療病院の成立から、各方面救護の状況、協調会としては職分以外のことであるが、応急の為め実施して居る旨を御説明申上げ、それから病院を親しく御覧遊ばされたのでありました。処が御巡覧後大森男爵から、急に陛下の御召と承り、私は早速伺候致しますと
 『変つた事を尋ねるが、地震で養育院はどうもなかつたか』
との畏多いお尋ねでありました。私は恐懼致しまして
 『本院は無事でございましたが、船形分院の方が五棟倒壊致しました。収容者は百五・六十人で其内十人ばかり圧死致しました』
と赤裸々に申上げました処
 『そのことを新聞で見て心配であつたから聞いたのであるが、現場は恢復の見込はあるのか』
との仰せでありました。依て
 『実は私達で組織致しました大震災善後会から、東京市に指定寄附を致しまして、分院の恢復には差支へないことになつて居ります』
と申上げ、陛下には
 『それだけになつて居れば結構である。然し弱い子供が出来ねばよいが、どうかと思ふ』
とのお言葉でありました。深く斯う云ふことに御心を留めさせられる有難さに感泣致した次第で御座います。
 養育院のことに就ては、大正六年の正月十六日であつたと思ひますが、大森男爵が突然其時分の本院であつた大塚の養育院を視察に見えました。其時に大塚の本院を御覧に入れ、更に巣鴨分院の方に案内しました。恰度其日は藪入で子供等が宿入りをし、何れも愉快気に催物等を見て喜んで居りましたが、大森大夫は之を見て『お祭りで子供が喜んで居る。 陛下に此事を申上げたら御喜びであらう』と申して居られたのでありました。私は翌々十八日にお礼に参上致したが、この事は『戴恩の記』に詳しく書いて置きました。此時にも叮嚀に種々の御下問があり、それに応じてお答申上げたのでございますが、
 『養育院の子供達は非常に喜んで遊んで居たさうだが、それも親切にしてやるからで、よく行届いて居ると云ふことを聞いて喜んで居る何時から経営して居るか』
と御問ひになりましたから『明治七年からで五十年になります』と御答へ申上げました処、『渋沢は本年幾つになると申されるので、七十八歳で御座いますと申上げますと
 『まだ若いと思つて居たが思の外高齢である。然しこれから永く働けるであらうから、充分に勉強なさい』
と仰せられましたことなど、只今この御聖恩に対して鮮かに想出されるのであります。(七月三日朝談話)


(ディー・ビー・シュネーダー)書翰 渋沢栄一宛 大正一五年七月七日(DK570132k-0003)
第57巻 p.253-254 ページ画像

(ディー・ビー・シュネーダー)書翰  渋沢栄一宛 大正一五年七月七日
                     (渋沢子爵家所蔵)
 - 第57巻 p.254 -ページ画像 
To His Excellency
  Viscount Eiichi Shibusawa
   Takigawa,Tokyo.
Dear Viscount Shibusawa,
  It is with the utmost joy that I and my wife join with Your Excellency's numberless friends in congratulating Your Excellency on the peculiarly exalted and beautiful honor accorded by Her Majesty, the Empress. The congratulations of all will be doubly joyous because of the fact that the honor is so eminently deserved.
  I myself as an American count it to be one of the rare privileges of my life that I have had the honor of becoming acquainted with Your Excellency, and being helped in my work through Your Excellency's beneficence. Finally. in reference to Your Excellency's passionate and noble desire for the full restoration of Japanese-American friendship,I again pledge my utmost endeavor so long as I have life and health toward the great end we both have in view.
  With abiding prayer for Your Excellency's continued health and strength,I remain, with profound respect,
               Yours gratefully
                   D.B.Schneder.
  Sendai July.7.15.
(右訳文)
                 十五年七月二十日一覧《(栄一鉛筆)》
              相当之謝状を作り発送可致事
 東京市
  子爵 渋沢栄一閣下           (七月八日入手)
               仙台、一九二六年七月七日
                 デイ・ビー・シュネーダー
拝啓 閣下には皇后陛下より特に喜ぶべき立派なる名誉を忝うせられ候由にて、小生と荊妻とは閣下の無数の御友人諸氏と共に謹んで御祝詞申述べ候、此名誉は当然之れを受くべき人に与へられたる事なれば一層歓喜の情を深うする次第に候
小生が閣下と御親交の栄を与へられ、又小生の事業にも多大の御援助を忝うする事を得るは、米国人として小生生涯の栄誉とする次第に御座候、最後に日米親善を従前の通り恢復せんとの御熱心なる崇高の御志に対しては、小生の生命ある限り、健康の許す限り、此の私共の大目的の為めに最上の努力を試むべき事を御保証申上候
引続き、閣下には御健康の程を祈り上げ、尚ほ謹んで敬意を奉表候
                           敬具


青淵渋沢栄一翁写真伝 野依秀市編 第九二―九四頁 昭和一六年十二月刊(DK570132k-0004)
第57巻 p.254-256 ページ画像

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