デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

3章 賀寿
2節 喜寿
■綱文

第57巻 p.300-302(DK570152k) ページ画像

大正6年5月1日(1917年)

是日栄一、飛鳥山邸ニ於テ、喜寿祝賀答礼宴ヲ催ス。


■資料

竜門雑誌 第三四八号・第七七―七八頁 大正六年五月 ○青淵先生喜寿の饗筵(DK570152k-0001)
第57巻 p.300-302 ページ画像

竜門雑誌  第三四八号・第七七―七八頁 大正六年五月
    ○青淵先生喜寿の饗筵
 青淵先生には昨年喜寿に躋られたるに当り、特に祝意を表せられたる百有余名の諸氏を、五月一日午後一時より飛鳥山別邸に招待して答礼の饗筵を開かれたり。例刻別邸常設の舞台を開かれて、柳屋小さんの落語、松尾太夫一座の常盤津「関の扉」、同一座の踊「三保の松」、吉原芸妓の「木やり」等余興の催しあり、折柄一天俄に掻雲りて霹靂一声、雷雨将さに到らんかと気遣はれしが、幸にも濛々たる黒雲は俄然方向を転じて、何くにか逸走し去りて、村荘附近には只ポツポツと粒雨を降らせるのみ、一天カラリと霽れたるにぞ、青淵先生には吉原芸妓の「木やり」の余興了るや否や、来賓諸氏に向はれ
 今日来賓諸君が陰暗常ならぬ空をも厭はれず、折角御光来を辱ふしたるは誠に感謝に堪へざる次第なり。余興最中空合ひがいと怪しうなりしゆへ、今にも雷雨の襲来あらんと気遣ひたるに、叉手は吉原
 - 第57巻 p.301 -ページ画像 
芸妓「木やり」の功徳か、幸よくも雷雨の襲来を免かれたるは、切めてもの慰めにこそ、軈て雷避け御守は吉原のさだより売出さるゝならん。
 と当意即妙の諧譃一番、満坐手を拍つて笑ひ崩れぬ。引続きて午後五時食堂に移り、軈てデザート・コースに入るや、青淵先生には
 私は年々歳々馬齢を加へましたが、自分では左程に老人になつたとも感じませなんだ。然るに昨年喜寿に当り皆様より御祝を頂戴して始めて年を取つたやうな感じが致しました。但し尚ほ心丈夫に思ひますのは、此席上に八十余歳の男爵大倉鶴彦翁が矍鑠として居られますので、年下の私は余程若いやうな気が致します。叉手私は今尚ほ壮健でありますが、皮膚が甚だ弱く時々風を引きます。蓋し是れは我母親が余りに私を可愛がり過ぎて、私に着物を一枚余計に着せて下さつた賜ものであると深く母の慈悲を感謝して居る次第で御座います。
 夫れから廿四五歳の時は病の外の病で、屡々死生の巷に出入したれども、幸に難を危機一髪の間に免かれ、又明治二十八年には癌を患ひて、此病には名医も匙も投げられしが、不思議にも全快いたし、夫れから三十七年には肺炎に罹り、是れ又甚だ危かりしが、夫れも免れて、爾来頑健年々歳々年齢を加へて、昨年七十七歳に達して、始めて老人になつたやうな感じが起つたので御座ります。因つて喜寿を機会として、第一銀行頭取を辞して、全然実業界より隠退致したので御座ります。今後の余生は主として精神界に尽し、又社会事業及国際上にも充分努力して国民たるの本分を尽す存念で御座ります云々。
 と述べ了ると同時に、盃を挙げて来賓諸氏の健康を祝し、之れに対し高田前文相は来賓を代表して感謝の辞を述べ、男爵大倉鶴彦翁又起ちて
 私共の先輩たる渋沢男爵が、従来数十年間社会国家の為めに尽されたる功労の顕著なることは、国家万民の具瞻渇仰する所で御座ります。実に渋沢男爵は我日本帝国の国宝であります、此国宝は日本国民の上下挙て尊崇する処でありますが、男爵に於ても今後尚ほ長く其余生を社会国家の為めに尽されんことを希望致します。
 是れにて宴を終り、一同帰途に就かれたるは午後六時過なりき、当日の来賓諸氏は即ち左の如し。
      来賓(次第不同)
  男爵 三井八郎次郎  男爵 三井八郎右衛門
     三井源右衛門     三井養之助
  男爵 穂積陳重       同令夫人
  男爵 阪谷芳郎       同令夫人
  男爵 大倉喜八郎   男爵 古河虎之助
     佐々木勇之助     佐々木慎思郎
     田中源太郎      土岐僙
     広瀬市三郎      中沢彦太郎
     加賀谷真一      大沢正道
 - 第57巻 p.302 -ページ画像 
     本多静六       山中隣之助
     久米良作       矢作栄蔵
     高田早苗       諸井四郎
     斎藤阿具       滝沢吉三郎
     山川弘毅       犬塚信太郎
     土肥修策       藤村義苗
  男爵 中島久万吉      成瀬隆蔵
     秋田宗四郎      佐野善作
○下略