デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 5. 大倉喜八郎
■綱文

第57巻 p.441-444(DK570199k) ページ画像

大正4年4月15日(1915年)

是日栄一、向島大倉喜八郎別邸ノ感涙会ニ出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK570199k-0001)
第57巻 p.442 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
四月十五日 晴
○上略 午後三時大倉氏向島邸ニ抵リ素人芸ヲ聴問《(聞)》ス、又揮毫ノ事アリ、六時春樹街ニ抵リ夜飧ス、夜九時帰宿後新聞紙ヲ読ミ且書類ヲ点撿ス一時ニ至リテ寝ニ就ク


中外商業新報 第一〇四一二号 大正四年四月一六日 ○感涙会 向島大倉村荘 大小天狗の鼻比べ(DK570199k-0002)
第57巻 p.442-443 ページ画像

中外商業新報  第一〇四一二号 大正四年四月一六日
    ○感涙会
      向島大倉村荘
      大小天狗の鼻比べ
春既に酣々して江東の花今を盛りに咲き誇り、十里の長堤行楽の人に埋もれる十五日、向島なる大倉村荘に例の感涙会は催されぬ、村荘の内外は塵一つ留めず清箒せられ、門内左右の塀に段々羅の幔幕打ち廻したるのみにて、殊更に何の装飾をも施さゞれど、処は名にしおふ夢香島、荘は数奇を凝せし蔵春閣なり
△春色四囲を繞り 春光堂に満ちて春の香そゞろに人をそゝる、午前十一時と云ふに東より西より走せ参ずる風流界の大小天狗宛ら織るが如く、感涙を流さんとてや、又た流させんとてや、何れも鹿爪らしく設の広間に座を占めて開演遅しと待ち受けつ、軈て十一時二十分主公鶴彦翁、都一中のつれ一秀の絃にて得意の一中節翁三番叟を演じて口上に代ゆれば、座中先づどよめき渡りて感涙の準備に取り懸る、次に本職の沢村長十郎・市川米蔵・助高屋高丸の絃にて外記猿の一節を唄ひ出せば、流石の大小天狗の面々も聊か拗ぐらるゝ心地せしにや、鼻撫で顔見合せて一句もなかりしが、之にて暫時休憩、食堂を開いて午餐を饗し終つて、玆に
△帝劇幹部総出 の勧進帳てふ天下一品の出し物となりぬ、此日帝劇幹部俳優の面々は律子・房子・浪子なんどの女優等と共に来賓として招かれ参集しけるが、開会前より今日丈は何の用意もなければと辞を構へて逃廻りしも、一度此会に列りし以上は唯は帰さぬ憲法なりと強硬なる交渉となり、遂に山本専務・伊坂幕内主任の調停となり、否応なし惣出の勧進帳とは決したるなりき、緞帳きりきりと上れば袴羽織の梅幸・幸四郎・宗十郎・小団次・松助、之に長十郎も参加して(絃米蔵・高丸)舞台狭しとづらりと居並べる様
△此処ならでは 全く見られぬ図なり、先づ長十郎の音頭にて初まり梅幸の富樫、幸四郎の弁慶、宗十郎の義経の掛合は流石に満場を唸らせしも、畠違ひの松助が唯唇頭を動かすのみにて間誤つく様には満堂大喝采にて何れも感涙に咽び合へり、次の鈴木松夢太夫(宗兵衛氏《(摠兵衛氏)》絃鶴沢豊松の浄瑠璃中将姫雪責の段は危なげ少なく終りて、益田紅艶氏の忠信物語吉野山の舞となりしが、振は全く紅艶氏の新発見のものにや、日本には殆ど類なきものなりとて満場破るゝが如き大喝采、腹を抱へ眼を赤らめて
△感涙に咽び 座に耐へずして逃げ出せし人も少なからず、これぞ正に当日の白眉なりと衆評一決し、鶴彦翁も「芸の腕如何にもつよきしころ引、悪七兵衛は見物の口」と讚したるは目出度かりける事どもな
 - 第57巻 p.443 -ページ画像 
り、是より呼吸つく暇もなく岩崎桜州(武一郎氏)の河東節頼光山入中内蝶二・太田橋南・古賀善坊(絃杵屋六四郎・同和三郎)の長唄紀文大尽、支那公使館員王・張両氏の詩と横笛との合奏、高橋箒庵氏の東明節月、野間五造氏の新内真夢、諸井恒平氏の浄瑠璃吉田屋、関頤長氏の河東節江戸紫など
△何れ劣らぬ 天狗振り、満座漸く感涙の源泉も涸れ果てんとする頃手塚猛昌氏の義太夫朗読(?)に至りて全く涙の種切れとはなりぬ、時は刻々進み、春の日も何時しか暮れて電灯眩く照り輝けば、更らに愈々興趣湧き、大川平三郎氏の歌沢、曾和嘉一郎氏の義太夫ありて六時食堂を開く、晩餐は吉例とありて八百膳の苦心に成れる美事の折詰め、酒あり、麦酒あり、此間に新橋の奇麗処や婆妓斡旋して到れり尽せる待遇振に、来賓始めて命拾ひを祝し合へるも可笑しかりき、晩餐終りて再び開演
△番数進みて 渡辺勝三郎氏の狂言宗論、其角堂機一氏の同素袍落目出度終りて花柳連のすみだ川、最後に伊坂梅雪氏大一座の河東節助六ありて、散会せるは十二時を過ぐる頃なりき、辞して荘を出づれば天も感応ましましたるか、糸の如き春雨切りに降りつ、当日の来賓は前記の外山県公夫人・同令嬢を始め左の諸氏にして無慮二百余名なりき
 土方・松浦・柳沢の各伯、伊東・末松の各子、渋沢・後藤・阪谷・高木・中島久万吉の各男、股野琢・高崎親章・浅田徳則・下条正雄早川千吉郎・安田善次郎・杉山茂丸・藤山雷太・村井吉兵衛・同貞之助・岡山高蔭・角田真平・湯原元一・中橋徳五郎・下郷伝平・増田義一・山本悌二郎・福沢桃介・佐竹作太郎・植村澄三郎・林愛作諸氏
尚ほ鶴彦翁の即興三・四を記せば如左
  (手塚氏の本蔵下屋敷を聞きて)
 また年もわかさの介の下やしき
      情に涙流す加古川
  (鈴木氏の中将姫)
 年をふり日数もつもる稽古とて
      客を泣せる雪責の段
  (王・張両氏の横笛)
 梁の塵も飛かと怪しまれ
      すみた川原に淀む笛の音
  (帝劇幹部の勧進帳)
 春の宵価千両役者連
      勧進帳も時の即興
  (伊坂氏の助六)
 蛇の目傘流石にうまき座敷芸
      骨を見せたる助六の所作
 助六の出場に地震の河東節
      ふるへた声も交る簾月


鶴翁余影 鶴友会編 第一一五―一一六頁 昭和四年三月刊 【歌人鶴彦 法学博士 下村海南】(DK570199k-0003)
第57巻 p.443-444 ページ画像

鶴翁余影 鶴友会編  第一一五―一一六頁 昭和四年三月刊
 - 第57巻 p.444 -ページ画像 
    歌人鶴彦
                  法学博士 下村海南
○上略
        感涙会と牡丹社
○中略 筆者はこの感涙会に招かれるに多少の宿縁があつた。といふのは此感涙会は釈尊降誕の佳辰を卜し、朝より夜に入り斯道の鞍馬天狗が独り免許の妙技をたてつゞけて感涙を強制する。向島別邸の年中行事になつてゐたが、そのおこりといへば、遠く明治七年の春征台の役に発してる。
 明治七年台湾征討の廟議決したが、軍用の雑貨と人夫の御用には誰一人応ずるものがない。翁は敢然と引うけたが、蕃界征伐には生還は期しがたい。一生の見納めといふので横浜から駕を飛ばして向島の桜花に別れを告げたなどは馬鹿に嬉しい心意気である。その折
  この花にいとま申さん翌年の春をちぎらん我身ならねば
 これが軍さ人なら、義家の勿来の関、忠度の滋賀の里、喜八郎の向島の堤と三指に折られるわけだが、これがそもそも後日感涙会とぞなつたのである。
○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570199k-0004)
第57巻 p.444 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
五月八日 半晴
○上略 午後六時向島大倉氏宅ニ抵リ、井上・久米・阪谷・三上・徳富氏等ト支那ニ於ル経学講習ノ事ヲ談ス、夜十時頃帰宿 ○下略


竜門雑誌 第三二五号・第六九頁 大正四年六月 ○大倉鶴彦翁の狂歌(DK570199k-0005)
第57巻 p.444 ページ画像

竜門雑誌  第三二五号・第六九頁 大正四年六月
○大倉鶴彦翁の狂歌 日光の東照宮三百年祭には鶴彦翁大倉喜八郎氏も参拝せられたる由にて、帰京後各新聞記者に対し「渋沢男は東照宮三百年祭奉斎会々長といふ資格で、勅使の栃木県知事・徳川家達公、其他御一門と一所に衣冠束帯姿で参拝せられたが、私は男の衣冠束帯姿を初めて見た、中々立派なものであつたとて、左の狂歌を詠まれしとなん。
    奉斎会長渋沢男三位の衣冠にて祭典の庭に進みけるを見て、戯れに五色をよみいれて
 紅白の重ねに黒の直衣着て
      青淵うしのもてる黄の笏


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570199k-0006)
第57巻 p.444 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
六月四日 曇
○上略 昨日大倉氏ヨリ五色ヲ読ミ入レタル一首ノ和歌ヲ送ラレタレハ、返シ歌ヲ贈リ遣ス ○下略
   ○栄一ノ返歌ヲ欠ク。