デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.183-192(DK010007k) ページ画像

安政三年丙辰(1856年)

父ニ代リ領主安部摂津守ノ岡部ノ陣屋ニ到リテ、用金ノ命ヲ受ク。代官某倨傲ニシテ、栄一ヲ侮蔑ス。栄一其ノ圧制ヲ痛憤シ、封建ノ弊ニ対シ強烈ナル反感ヲ懐クニ至ル。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一一―一四丁〔明治二〇年〕(DK010007k-0001)
第1巻 p.183-184 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)   巻之一・第一一―一四丁〔明治二〇年〕
○上略 自分が十六七才の頃よりして、前にも話した通り、頻りに家業に勉強したから、家道も追々と繁昌になつて来ました、殊に父は常に家業を大切に、丹精を尽されたから、村の中では相応の財産家と謂はれる程になつて、第一は宗助が物持ちで、其次は市郎右衛門だと近郷近在の評判であつた、商業の外に、少しは質も取り金も貸すといふ業体も取扱ました、全体、此血洗島村の領主は、安部摂津守といふ小サな諸侯で、村方から一里ばかりも隔つた、岡部といふ村に其陣屋があつたが、此の領主から御用達といふことを命ぜられて居ました、固より小大名のことだから、大した金を借りる事はないが、只一時、御姫様が御嫁入だとか、若殿様が御乗り出しだとか、又は先祖の御法会だとかいふ事があると、武州の領分では二千両、参州の両分では五百両といふ振合に、御用金を命ぜられるので、血洗島村で宗助が千両、市郎右衛門が五百両、何某が幾何《いくら》といふ割合に、銘々へ言ひ付られることであつたが、自分が十六七才の時までに、度々調達した金が二千両余りになつて居た、ソコデ自分が十七才の時であつたと覚えて居るが此の用金を自分の村方へ千両であつたか、千五百両であつたか、言ひ付られて、宗助は千両を引受、自分の家でも五百両引受なければならぬ訳であつた、其時、父は自身で代官所へ行くことが差支るから、自分が父の名代となつて、近村で用金を言付けられた連中二人と、自分と都合三人連立て、岡部の陣屋へ出頭した、其時の代官は若森とかいふ人であつた、其人に面会して、父の名代として御用伺ひの為に罷り出たといつた処が、同行の二人は何れも一家の当主であるから、御用金を承知いたしましたといつて、調達を引受た、然るに自分は、只御用
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の趣を聞て来いと父から云ひ付けられたまでだから、御用金の高は畏りましたが、一応父に申聞けて、更に御受に罷り出ますといつた、スルト此の代官中々如才ない人で、其うへ人を軽蔑する様な風の人だから嘲弄半分に、貴様は幾才《いくつ》になるか、ヘイ私は十七才で御座ります、十七にもなつて居るなら、モウ女郎でも買ふであらう、シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと、殊に御用を達せば、追々身柄も好くなり、世間に対して名目にもなることだ、父に申聞けるなどゝソンナわからぬことはない、其方の身代で五百両位はなむでもない筈だ、一旦帰つて又来るといふ様な緩慢《てぬる》な事は承知せぬ、万一、父が不承知だといふなら、何とでも此方から分疏《いひわけ》をするから、直に承知したといふ挨拶をしろ、と切迫に強ひられた、なれども自分は、父から只御用を伺つて来いと申付られた計りだから、甚だ恐入る義であるが、今ここで直に御請をすることは出来ませぬ、委細承つて帰つた上、其趣を父に申聞けて、御請を致すといふことならば、更に出て申上ませう、イヤそんな訳の分らぬことはない、貴様は詰らぬ男だ、とヒドク代官に、叱られたり嘲弄されたりしたけれども、自分は是非ともさう願ひますといつて、岡部の陣屋を出たが、帰つて来る途中で、篤と考へて見ると、其時始めて幕府の政治が善くないといふ感じが起りました、何故かといふに、人は其財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、又人の世に交際する上には、智愚賢不肖に因りて、尊卑の差別も生ずべき筈である、故に賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるゝのは必然のことで、苟も稍々智能を有する限りは、誰れにも会得の出来る、極めて睹易い道理である、然るに今岡部の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を附けて取り立てゝ、其上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返す様に、命示するといふ道理は、抑も何処から生じたものであらうか、察するに彼の代官は、言語といひ動作といひ、決して知識のある人とは思はれぬ、斯様な人物が人を軽蔑するといふのは、一体すべて官を世々するといふ、徳川政治から左様なつたので、最早弊政の極度に陥つたのであると思つたに付て、深く考へて見ると、自分も此先き今日のやうに百姓をして居ると、彼等のやうな、謂はゞ先づ虫螻蛄同様《むしけら》の、智恵分別もないものに、軽蔑せられねばならぬ、さてさて残念千万なことである、是は何でも百姓は罷めたい、余りといへば馬鹿馬鹿敷イ話しだ、といふことが心に浮むだのは、即ち此代官所から帰りがけに、自問自答した話しで、今でも能く覚えて居ります、去りながら夫れは只心に其兆しを発した丈けの事で、家に帰つて、御代官が我儘をいつて叱りましたから、斯様斯様に申しました、と父に話すと、父のいはれるは、其れが即ち泣く児と地頭で仕方がないから、受けて来るが宜しいとのことだから、翌日、金を持つていつた様に覚えて居るが、夫れから後は、事に触れ物にじ応て、益々其念慮が胸中に蟠かまつて来ました、


竜門雑誌 第三〇九号・第五二―五五頁〔大正三年二月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010007k-0002)
第1巻 p.184-187 ページ画像

竜門雑誌  第三〇九号・第五二―五五頁〔大正三年二月〕
○上略
▲御用金調達の命令 其の頃血洗島の領主は、安部摂津守といふ小さ
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な譜代大名で、三河国半原に藩があり、血洗島から一里許り隔つた岡部村に陣屋があつて岡部附近五六町村八千石を支配してゐた、ところが昔はよくあつたもので、この岡部侯から時々御用金の調達を命ぜられてゐた、固より小大名の事であるから、大した金を申付ける事はないが、時偶には御姫様が御嫁入だとか、若殿様が御乗出しだとか、或は先祖の御法会だとかいふ事がある、その場合には、武州の領分では二千両、参州の領分では五百両といふ振合の御用金を命ぜられるのが常であつた、この命令が下ると、血洗島では宗助が千両、市郎右衛門が八百両、何某が幾何と云ふやうな割合に、各身分相応に言付られたのが、私の家では私が十六七才の時までに調達した金が既に二千両余りでした。
 幾才の年か明確な事は断言し能はぬが、たしか十七才の時であつたと覚えてゐる、何かの費目で血洗島へ御用金千五百両ばかり申付けられた、それで宗助は千両を引受け、自分の家でも五百両ばかり引受けねばならぬ訳であつた、その時父は風邪か何かで行かれぬので、自分は父の名代となり、隣村で用金を言付けられた町田村の今井紋七、矢島村(今の大寄村)の小暮磯右衛門と云ふ何れも父と同輩年の二人、都合三人岡部の代官所へ出掛けて行つた、代官に面会すると、早速用金調達を申付けたが、同行の二人は孰れも一家の主人であるから一も二もなく承知の旨を答へたが、自分は唯御用の趣を聞いて来いと命ぜられたまゝであるから「御用金調達の事は畏りましたが、一応父に申聞けて更にお請に罷り出ます」と言つた、すると代官は「其方の身代で五百両や千両は何でもない、殊に御用を達せば追々身柄もよくなり、世間に対して面目をも施すと云ふものだ、父に申聞けるなどゝ开麼面倒な事はせぬがよい、一旦帰つて又来るといふやうな手緩い事は承知罷成ならぬ、今すぐに承知したといふ挨拶をしろ」と切迫に強ひられた。
▲徳川末期の秕政 真向からの非道圧迫を受けて、さらぬだに予が性来の不負魂は、肚裡磊塊の不平となつてコミ上げて来た。
 「父からは唯御用を伺つて来いと申付けられた許りである、甚だ恐れ入る儀ではあるが、今此処で直に御請をする事は出来ませぬ、委細承つて帰つた上其の趣を父に申聞けて、お請を致すといふ事なれば、その時更に出頭して申上げましよう。」
怯まず臆せずキツパリ申入れると、今井と小暮の二人は顔の色を変へて頻りに言ふな言ふなと自分の袖を牽いた、代官はまた此奴強情と見て取つて「开麼訳の分らぬことはない、貴様は詰らぬ男だ、何が何でもこの場で即答せ」と激しく叱られたり嘲笑されたりしたが、自分は一歩も譲らず「是非とも左様いふやうに願ひます。」と言つて、此の侮辱に憤慨しながら岡部の代官所を出た。
 秋晴の麗らかな四方の景色も眼には入らず、空に風あり、燃ゆる心頭の恚を吹きて、二里の田舎路にこぼれた三人の肩を、夕方の日は寂しく照らした。
 士農工商と、武士が四民の上に立てられたのは、封建時代何処も同じ慣ひであつたとは言へ、農工商の徒は武家の傘下に縋らねば立ち行
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く瀬もなし、庶民の生命は実に塵紙一枚の相場であつた。
 自分は帰つて来る途中様々に考へて見たが、この時始めて幕府の政治が善くないのだと云ふ感が起つた、何故かといふに人は其の財産を各自々身で守るべきは勿論の事、又人の世に交際する上には、智愚賢不肖に因りて尊卑の差別を生ずべきである。故に賢者は人に尊敬せられ不肖者は卑下せられるゝのは必然の結果で苟も稍々智能を有する限り、誰にも会得の出来る極て睹易い道理である、然るに今岡部の領主は、当然の年貢を取ながら返済もせぬ金員を用金とか何とか勝手な名をつけて取立て、その上人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返すやうに命令するといふ道理は、抑々何処から生じたものであらうか、察する処彼の代官は言語と云ひ挙動と云ひ、決して学問ありて知識の勝れた人とは思はれぬ、斯様な人物が人を軽蔑するといふのは、一体官を世々にするといふ徳川政治から左様なつたので、最早弊政の極度に陥つたものであると憤慨した。
 当時百姓の小忰に対する代官の態度はこの位が当然で、普通の人ならば別段それを何とも思はなかつたであらうが、自分は漢学を学んで一通りの道理だけは呑込んでゐた為めに、徒らに夫の代官如きに盲従することが出来なかつた。
▲胸中蟠屈の初一念渡辺崋山が発憤して志を立てたのは十二才の時であつた、彼江戸藩邸にあつて日本橋を通行の際、備前藩主池田侯の先供に突当つた、先供にあつた武士は突如崋山を足蹴にかけ剰さへ散散に打擲した、血に滲む額を押へて屹度行列の後を見送つた崋山は、無念遣る方なき胸をさすつて家路に就いた、池田侯は自分と同年配でありながら、彼は厳めしき行列の下に、意気揚々大衆を率ゐて横行し理不尽にも人を辱かしめて顧る処がない。自分とても何か一つ志を立てゝ大業を成し、驥足を伸ばさずに置くものか、斯う自問自答して遂に「急にしては親の貧を助け、緩にしては天下第一等の画工と相成可申、一事に思ひを定め」(自叙伝なる退役願文中)廿七才当時学芸の出世場たりし長崎に奔らんと企て、廃嫡願を父母に捧げ、慨然として左の一詩を賦した。
 莫嗤鷦鷯試鵬雲。決起槍楡初見分。
 游子固知風木歎。花朝月夕何忘君。
 斯くして彼は決然志を行はんとしたが、病める父憂ふる母を見捨て行くべくもない、竟に其の志を果すの機会なく、抂げて蛟竜の蟄潜に居り草間に蜿蜒したのであつた、但だ彼の志は屈せず、他年の名声は当初発憤の情を充すに充分であつた。
 崋山のこの発憤の情は、自分の其日の発憤とは不思議にも一致する処があつた。
 何故に武士と百姓とは人類に等差があるか、この点が第一に腑に落ちぬ、それより今の世の中の有様を考慮して見ると既に政記、外史、日本史等を読んで自分は、王朝より武人の手に政権の移れることの有様を知つてゐたから、それが益々不快で堪らず、更らに我身の上の先先をも考へられた、それは自分も此の先今日のやうに百姓をしてゐると、彼等の如く、謂ば裃を着た人形同様の、智慧分別もないものに軽
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蔑されねばならぬ、返す返すも口惜い、残念千万な事ではないか、これは何でも百姓を罷めて武士となるより外はない、余りと云へば馬鹿馬鹿しい次第だといふ事が心に浮んだ。
 此時の事は今でも歴々と昨日の事の様に記憶してゐる、けれども百姓を罷めて武士に成りたいと云ふ事は、此時唯心に其兆を発したゞけの事で、直に之を決行する程の勇気はなかつた、それ故家に帰つて「御代官が理不尽な事を言つて斯様々々に申しました」と父に話すと「それが即ち泣く児と地頭で仕方がない、どうせ請けねばならぬものだから請けて来るが宜しい。」との事で翌日金を持つて行つた。
 併しそれから後は事に触れ物に応じて益々その念慮が胸中に蟠屈して来た。
  ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第四三七号・第六八頁〔大正一四年二月〕 【私の経歴】(DK010007k-0003)
第1巻 p.187 ページ画像

竜門雑誌  第四三七号・第六八頁〔大正一四年二月〕
○上略 其時私は、世の中といふものはかういう訳のものかと考へた、即ちデモクラシーの観念を其時起したと言うてよいでせう。私は深く心に問ひ、心に思うた。今私を叱る殿様はそれほど人格的にえらい人と思はぬ。其行動といひ、其経歴といひ、其知識といひ、それほどえらいとは思はぬ。然るに申さば唯人の労力を削り取るに過ぎぬ用金であるのに、親の名代に行つたものを侮蔑的に翻弄するといふのは何たることでありませうか。是は天下が封建時代で、武家政治の弊害であると考へて、実は其時に百姓を止めやうといふ考を起したのです。○下略
   ○右ハ栄一ガ大正一三年十月二十日埼玉県商工会聯合会開催ノ講演会ニ於テ『私の経歴』ト題シ試ミタル講演ノ一節ナリ。


雨夜譚会談話筆記 下・第八六六―八六七頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010007k-0004)
第1巻 p.187 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第八六六―八六七頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
御立腹の有無に就て
先生「あります。大いに怒つた事があります。あの岡部の代官屋敷へ行つた時、代官のからかひ方があんまり人を見縊びつた仕方で、如何にも馬鹿にしきつたやうな事を云ふので真に情なくなつた。あの時ばかりは悔しさの余り私は震へました。代官の名は若林権六《(若森権六カ)》とか云つた。何でも私の外に二人行つた。今もよく覚えてゐるが、代官屋敷では階段を上ると格子があつて、その中に畳が敷いてあつた。私は年少者であつたから他の二人が上座に坐つた。実際親が無かつたなら、擲り飛ばして出奔したかも知れぬ。其外に個人に対して怒つた事は、いくらかあるかも知れない。人が不信な事をしたりすると、どうも私の性質として厭で、そんな時は怒りました。」


渋沢栄一伝稿本 第二章・第三二―三五頁〔大正八―一二年〕(DK010007k-0005)
第1巻 p.187-188 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第二章・第三二―三五頁〔大正八―一二年〕
○上略 血洗島の領主なる安部侯は、其地参河半原と武蔵とに分れて、陣屋を岡部に置く、よりて岡部藩と称せり。当時の習慣として、藩主の家庭に吉凶禍福の事あり、又藩府に臨時の支出ある時は、御用金と唱へ、領内の資産家に其費用を賦課す、此慣例は、幕府を始め大小名よ
 - 第1巻 p.188 -ページ画像 
り旗下の士に至るまで皆然らざるはなく、之が為に百姓・町人等の苦しめること大方ならざりき。晩香翁既に産を起し、又御用達となりたれば従来其命に応じたること屡にして、其額既に二千余両に及べり。然るに先生十七才の時、更に千五百両の御用金を血洗島に命ぜられ隣村にも亦それぞれ賦課せらる。かくて晩香翁は五百両、翁の実家なる宗助は千両を引受くるのを已むを得ざるに至りしが、折しも翁病あり、先生翁の名代となり、町田村の今井紋七、矢島村いま大寄村の小暮磯右衛門と共に、岡部の代官所に赴けり。代官某先生等を引見して御用金調達の事を伝へたるに、他の二人は皆一家の主人なれば、即座に承知の旨を答へしに、先生は只用向を承り来るべしと命ぜられし旨を告げ、父に申聞けたる上にて御請に及ぶべしといへるに、代官は之を許さず、其方の身代にて五百両・千両を出すは容易の業なり、殊に御用を達せば追々に身柄もよくなり、世上の面目ともなれば、父に相談するまでもなく御請して然るべしなどいひ 殊に先生の年少なるを侮り、強ひて屈服せんと試みたれども、先生も亦生来の不負魂にて抗言するより、隣村の二人は顔色を変じ、密に先生の袖を引いて注意したれど、先生固く拒み、再び父の命を受け来るにあらざれば、断じて諾否を明言する能はずと述べ、毅然として権勢に屈せざりしかば、代官も漸く其意に任せたり。かくて先生家に帰りて復命するや、翁は世の諺に泣く子と地頭といへることあり、争ふも無益なれば御請して来るべしといふにぞ、先生は翌日代官所に赴きて請書を呈出せり、されど此事件はいたく先生の心頭を刺撃し、他日先生をして奮起せしむるの端緒となれり。
初め先生が御用金調達の命を受けて帰途に就くや、慨然として思へらく「人は賢愚によりてこそ尊卑の別を生ずるなれ、又其財産は各自之を守るべきものなり、然るに岡部の領主は既に経常の年貢を徴収せるが上に、臨時に御用金と称して取立つるのみならず、其代官の如きは恰も貸したるものを催促するが如き態度にて命令せり、而して金を徴する者は傲然として下に臨み、之を出す者は却て低頭平身せざるを得ず、天下豈此の如き矛盾あらんや、況や彼の代官の言語動作を見るに決して思慮あり分別ある者にあらず、かゝる人々に軽蔑せらるゝは口惜しき次第なり。これ全く彼は武士たり己は百姓たるが故のみ、此上は己も亦百姓を罷めて武士となるの外はあるべからず」と。此時に於ける此感憤は、唯先生の胸底に其芽を発したるまでにて、未だ直に之を実行する程の決心にはあらざりしが、爾来事に触れ物に応じて、此心の萌芽の次第に長大せるは怪しむに足らず、幾もなく先生が身を志士・浪人の群に投じて、世態の変更を促さんと企図せるもの、亦偶然にあらずといふべし。思ふにかの代官某の挙動は、特に先生のみを侮辱せるものにあらず、官尊民卑の世、士農の階級に著しき相違ある時代に於ては、百姓の伜に対する態度は、概ね此の如くならざるはなかりき。されば並々の人ならんには、別に感憤し刺撃せらるゝことあるまじきに、先生は和漢の書を読みてやゝ事理に通ぜしが故に、代官に盲従する能はざりしなり。

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竜門雑誌 第四二五号・第二一頁〔大正一三年二月〕 【余の少年時代】(DK010007k-0006)
第1巻 p.189 ページ画像

竜門雑誌  第四二五号・第二一頁〔大正一三年二月〕
○上略 私の村は安部摂津守といふ小大名の領分で、岡部といふ処に陣屋(役所)があつて代官がゐましたが、たしか私が十一の時その岡部の役人が来て、父が役人の申出に不同意を表したといふので恐ろしく叱かられてゐるのを見かけたことがあります。父は無理だとは知りながら涙を呑んで服従した光景が子供心にも非常にくやしいと感じたことがあるが、私が百姓をやめた動機はそれであつたと思ひます。
 十七の時私は父の名代として、矢島村の磯右衛門、町田村の紋七と一緒に御用金 殿様へ用立てるお金のこと のことで岡部の役所へ行つたことがあります。二人は戸主のことですから直ぐお受けしましたが、私は
 『名代で来たのですから帰宅してからお返事を申上げます。』
 かういふと、
 『お前は学問もあるし、立派な考も持つてゐるさうだ、男らしくお受けしたらどうだ。』
と代官はそれから意気地なしだといつてせめつけましたが、私は頑としてきかなかつた。あとで代官は恐ろしい剛情者だといつたさうですが、その時にも前に父が役人から無理な服従を強ひられたくやしさが心に残つてゐたのであります。
   ○右ハ雑誌『少年』第二四四号ニ『余の少年時代』ト題シ掲ゲラレタル栄一ノ談話ノ一節ナリ。
   ○十一才ノ時ノコトハ『雨夜譚』ニ語ラレザルコトナレドモ、此事ト関連セシメテ考フレバ、御用金一件ノ意義一層明カナリ。



〔参考〕渋沢子爵家所蔵文書 【明治二巳年十一月…】(DK010007k-0007)
第1巻 p.189-190 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
 明治二巳年十一月
一金千弐百四拾弐両弐分     (朱書)但無利足
     内金六拾弐両弐朱         明治二年巳十二月元入
    残金千百八拾両壱分弐朱
 右者《大元(朱書)》文久二戌年十二月二条御定番ニ付金弐百両慶応元丑年日光御法会ニ付金弐百両同二寅年九月御月賄金三百九拾弐両弐分同三卯年十一月御上京ニ付金三百両明治元辰年五月御月賄金百五拾両合金千弐百四拾弐両弐分半原県江調達致シ其後《候処(朱書)》明治二巳十一月《中(朱書)》無利足弐拾ケ年賦証文ニ相成本行之通相違無御座候御調ニ付此段奉申上候以上
  但 証書写可差出之御布令は明治四年十二月二日承知仕同月六日
    岡部御出張所江証書写差出申右之通相違無御座候
  明治六年五月十日     武蔵国榛沢郡
                 血洗島村
                    渋沢市郎(印)《(黒印)》
入間県
  御庁
(別紙)
      借用金証文之事
一金千弐百四拾弐両弐分也
 右者御勝手方就御入用書面之金子追々借用今般一紙ニ書替申処実正也返済之儀は当巳より無利足弐拾ケ年賦割済一ケ年金六拾弐両弐朱ツ
 - 第1巻 p.190 -ページ画像 
ツ毎暮無相違可致返済候為後証仍如件
  明治二巳十一月          望月次郎左衛門印
                   若森正作印
渋沢市郎殿
   ○右ハ安政三年ノ御用金事件ニ関スルモノニアラズシテ、其後ノモノノミナレドモ参考ノタメニ掲グ。


〔参考〕竜門雑誌 第四六三号・八一―八二頁〔昭和二年四月〕 □大蔵省から商界へ(DK010007k-0008)
第1巻 p.190 ページ画像

竜門雑誌  第四六三号・八一―八二頁〔昭和二年四月〕
      □大蔵省から商界へ
 そのころ商人と役人との社会的階級の相違は甚しかつたもので、役人と商人とは大概同席で談話はしなかつた。換言すれば商人は役人に対し、殆ど人類の交際はされなかつたものである。江戸ではさうまででなかつたかも知れぬが、私の郷里なぞでは別して甚しかつた。殊に小藩主の代官なぞは限りなく威張りちらし、通行の時は百姓町人は土下座をさせられた。○下略
   ○右ハ栄一ノ談話ノ一節ナリ。「そのころ」トハ幕末ヲ指ス。


〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第六九九―七〇〇頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010007k-0009)
第1巻 p.190 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六九九―七〇〇頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
白石「お料理には大分通じてゐらつしやるやうでございますネ」
先生「若いとき、よく給仕をさせられたからだ。宗助の家で、代官が来たときなどよく手伝させられて、目録も書かされてゐた。目録書きと云ふのは難かしいものだつた。献立によつて二の膳、三の膳がつき、もつと鄭重なものになると五の膳となる。茶の方になると全然風が違って、簡略で而もこつたものだった。それから会席料理の方は、余り食はないやうにするが、茶の方は成るべく食はなくちやいかぬ。」
   ○コノ談話ニヨレバ岡部藩ノ代官ニシテ渋沢宗助ノ家ニ来リ饗応ヲ受ケタルモノモアリシナリ。即チ代官ト豪家トノ間ニハ私的交際アリシモノモアリタルナリ。


〔参考〕岡部陣屋事蹟(DK010007k-0010)
第1巻 p.190-192 ページ画像

岡部陣屋事蹟
 岡部陣屋は埼玉県大里郡岡部村にあり。代々安部子爵家の在所なり。徳川幕府三百諸侯には領内に住宅あり、其の家格に依り之を城と云ひ在所と云ふ。岡部陣屋は其の在所なるものなり。其の創設の年月は判明せざるも、同家に於て岡部領高六千石を領有したるは天正十八年十二月なり。其前は遠州樽井山城に居住したるも徳川家康駿遠三甲信より関東に移封せらるゝと同時に安部家も岡部に移りたるものならむ。同年十二月に薨去せられし藩祖安部大蔵元真の奥方白蓮院の同村白蓮寺に埋葬しあるを見れば之を証するに足らん。其後三河国半原を在所とし再び岡部に移したるものならむ。徳川幕府大武鑑に安部家在所武蔵岡部とあり。宝永二年三河国半原より移るとあり。半原に現存する墳墓等により考ふる時は在所としたることありしは疑ひを容れず。明治維新の際更に半原を在所とし、江戸邸に居住したる安部家の家族同邸に居住したる家臣を挙て同所に移し、爾後藩名半原としたるなり。
 - 第1巻 p.191 -ページ画像 
維新前後には岡部藩なりしなり。
 安部家は岡部領高六千石の外三河国八名郡に高七千石、摂津国豊島川辺能勢有馬郡に高一万石と丹波国河鹿天田郡に高弐千石、合高弐万五千石、表高弐万弐百五十石なり。同家は海野小太郎幸氏の後にして滋野姓なり。宗族といふは真田伯爵家なり。徳川氏には武功ありし家筋なり。維新前後にも人に語るを得る武功あり。
 同家七代信賢時代(宝永年間)の分限帳と唱ふる家臣の名簿には家老朝倉只之進高四百石、同神谷又左衛門高四百石、同菊池安兵衛高弐百五十石、同島井森平高弐百石を筆頭とし、高百石以上の家臣弐拾壱人同以下士分以上九十五人、士分以下四十五人、徒二十人、足軽組頭三人、足軽六十人、下目付足軽四人、附人足軽弐人、馬丁拾六人、仲間百三十三人、合四百人なり。
 江戸永田馬場(今麹町区永田町)に上屋敷あり。四谷右馬殿横丁(今四谷右京町)に下屋敷あり。上屋敷は岡部を距る十九里十八町なり。
 岡部陣屋の所在地岡部村の東端と普済寺村の西端に桝形なる土手あり。之を喰ひ違ひと云う。仲仙道往還此以内を岡部領なるを知らしむ。
 明治維新後陣屋の杉樅などの大木を伐採す。その根株を見るに三百年以上の星霜を経たりと断言するを得べし。
 陣屋の街道に面する処に追手門あり。其の左右に土手を築き土塀を以て囲ひ、他の三面には空隍を周らし土手を築き木柵を土塀に替へ之を囲ひたり。追手の外通行門と裏門とあり外部に通ず。陣屋の内部は二廓に区劃す。城の名なきも城と異なる処なし。一を上屋敷と云ひ一を地方と云う。上屋敷地方共に土塀を以て囲ひ、他へ通ずる門あり。上屋敷には中央に安部家の住宅あり(御殿)、其周囲に家臣の住宅散在す。此の御殿なるものは藩主幕府の許可を得て、毎年八月十二月の間休養する処とす。之を在邑と云ふ。○中略 地方廓には中央に民政役所あり。民刑裁判租税徴収を取扱ふ所とす。其の左右に郡代々官の役宅あり。裏に米倉あり、其の傍に貯材所あり。役所表には下役の住宅より仲間部屋あり、炊事場あり(有時に兵糧を作るところ)○中略
 上屋敷に住居する家臣は士分以上の家なり。以下足軽等は概ね土着のものを採用す。陣屋外に自分の家屋あり、概ね中以上の農家なり、相当の田畑を所有す。世に足軽と云はば形計りの大小を帯び、物の用に立たざる由なりしが、岡部の足軽は之に異なり、大小も士分に劣らぬ品を帯び、武術の心得あるもの多し。殊に砲術に長じたるもの数人あり。
○中略
 而して岡部領と称する各村の村名草高は武蔵国榛沢郡(大里郡)に於ては高五百三十三石岡部村、高七百六十石普済寺村岡部新田、高二百六十二石伊勢方村、高九百七十八石矢島村、高三百十五石町田村、高百八十二石阿賀野村、高三百八石血洗島村、高二百八石上手計村、高六百六十七石下手計村、高二百二石大塚村、計高四千四百十九石、上野国新田郡に於ては高七百八十八石中根村、高百八十二石細谷村、高三十三石米沢村(細谷村米沢村は岡部領と称する部分にして全村にあらず 高六百四十九石岩松村、計高壱千六百五十二石、合計高六千七十一石なり。
 - 第1巻 p.192 -ページ画像 
○中略
 而して岡部陣屋の遺蹟は概ね畑地となり、旧藩士の住居点々残留し一見普通農家部落と異なるなきも、藩政当時には叙上の如し。○下略
   ○『岡部陣屋事蹟』ハ大正二年ニ編述サレタル謄写版刷ノ小冊子ナリ。