デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.277-292(DK010018k) ページ画像

元治元年甲子二月八日(1864年)

是ヨリ先、尾高長七郎、栄一及ビ渋沢喜作ノ攘夷計画ヲ記セル書翰ヲ懐中シテ縛ニ就ケル旨ヲ報ジ、栄一等ヲ警ム。栄一喜作ト共ニ苦心焦慮後図ヲ謀ル。平岡円四郎栄一等ヲ救ハントシ推挙セルヲ以テ、栄一喜作ト共ニ一橋家ニ仕フ。栄一ハ是日奥口番・御用談所下役出役ヲ命ゼラレ、尋イデ四月中旬御徒士ニ進ム。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第九―二四丁〔明治二〇年〕(DK010018k-0001)
第1巻 p.277-284 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第九―二四丁〔明治二〇年〕
○上略 偖て其珍事といふのは、二月初旬の事であつたが、尾高長七郎の手紙が江戸から届いた一件であります、今其一件を話しする前に、自分等両人が其頃の境界を微しばかり述べて置んければならぬことがあります、其れは外の事ではない、先頃京都へ来てから後に、始終滞留して居た処は、三条小橋脇の茶屋久四郎の家で、即ち茶久と云ふ上等の旅籠屋でありました、最初は上等の旅籠で泊つたけれども、伊勢参宮をするに付て、夫れまでの旅籠代を先づ一回勘定してみると、メツキリ懐中がさびしくなつた、ソコデ自分は喜作に相談して此姿では御互に一身の斃れるまで生活の維持が出来さうもないから、此で一つ旅宿に掛合つて、今少し安価で止宿の出来る様にせざなるまいといつて、軈て主人を呼んで、食事は何でも宜いから、些と安く泊る工夫はないかといつたら、到頭、食事は朝晩二度と定めて、昼食は食はぬ筈で、一日一人の旅籠代を四百文に負けやうといふ事になつた、此四百文は、今から見ると安いけれども、其時分には是れでも上等の御客であつた、普通の旅籠は概して二百五十文位の処へ四百文だから、決してまだ窮迫の場合とは謂はれぬのだが、併し斯様に永滞留する積りなら、最初から下宿屋に投ずれば便利であつたものを、何分新前の書生だから、其辺の勘定などは、頓と心附きがなかつたのであります、
偖て江戸から到着した手紙は、何事であらうと、取る手も遅く思はれたが、所謂一読愕然、実《げ》に思ひも寄らぬ大変でありました、其仔細といふは長七郎が中村三平と福田滋助の両人を連れて、江戸へ出る途中に於て、何か事の間違ひから、捕縛せられて遂に入牢したといふ一件で、其獄中から出した書状であるから、之を見た両人は、互に顔を見合せた計りで、暫くは一言もなかつた、実は其遭難の前に両人から長七郎へ書状を送つて、京都は有志の人も多いから、貴兄も京都へ来て共々に尽力するがよい、兼て見込んだ通り、幕府は攘夷鎖港の談判の為めに潰れるに違ひない、我々が国家の為めに力を尽すのは此秋であるか
 - 第1巻 p.278 -ページ画像 
ら、其れには京都へ来て居る方が好からう、といふ趣意を申して遣つたが、長七郎は其手紙を懐中しながら縛られた、といふことが来状の中に書いてある、そこで其晩に両人は、猶又来状を再三再四繰り返して読んで見たが、杖とも柱とも頼む大切の尾高、又死生存亡を共にしやうと誓つた中村福田、何れも伝馬町の牢獄に繋がれて、生命も覚束ない、斯うなる事であつたなら、寧ろ当初の計画通り、十一月に事を挙げた方が、却て縲紲の辱かしめを見ることはなかつたであらう、抔と愚痴と悲憤とで、両人ともに詞もなく、手紙を見ては扼腕切歯する計りで、狭い量見ならば、腹でも切るより外に仕方がないといふまでに、分別が迫つた、スルト同姓の喜作は発言して、明日直に出立して江戸へ帰らう、長七郎の一行を聊の間違から縛るなどゝは不埒千万な幕吏である、といつて威張つたが、自分はこれを熟考して、兎も角も八百万石を領して居る幕府だから、不埒だといつて、一人や二人威張つても仕方がない、好シ又、今から両人が江戸へ下つた処が、万一誤て長七郎と同じく縛られでもしたならば、最早誰一人不埒だといつて呉れるものもないから、ソンナ事は出来ない、偖て如何したらよからうと思案に余つて、斯ういふ工風はと一人がいへば、イヤそれは危いといふ、夫れよりは斯うしやうと、又一人が立案すれば、イヤそれはいけぬといふので、中々相談が纒らぬ、果ては長七郎を救ふよりも、前にいふ書状の関係から、両人の身も明日にも捕縛の掛念があるから、寧そ長州の多賀屋勇でも手寄て行かうか、あの男は、曾て江戸でも、又自分の故郷へ遊歴して来た時にも、一二回の面識もあるから、都合がよからう、イヤ長州といつても、多賀屋は何処に居るかも知れぬ、其生死すら分明でない人を便りに、遥々長州へ出奔したからといつて容易に国境の内へ入れることさへ覚束ない、怪しい奴だ、幕府の廻はしものだから、首を切れといふかも知れない、シテ見れば、これも上策とはいはれぬ、サテ如何したならよからうと進退実に谷まつた、今此席で話すと一ツの笑ひ話しだけれども、其時の苦心といふものは、身にしみて、なかなか高崎の城を乗ツ取らうといつた時の威勢とは、雲泥の相違でありました、其訳は、全体暴挙などゝいふものは、過激な事柄であるが、詰り事が成就せむで失敗した処が、死ぬ迄の事である、其頃は、死ぬことを一ツの楽みとして、芝居でも見るのと似たものゝ様に考へて居たが、今度の事はそれと違つて、十分頼みに思つて居た親友知己が縛られて、現在獄中に吟呻して居る、其間違の原因は何事であるか詳かに分らぬけれども、我々から送つた手紙が、一旦幕吏の手に入つたといふ日には、猶其悪みを深くする道理にて、我々に於ても、端的連累嫌疑を免かれることは出来ない場合だから、実に胸中は双方の心配で埋められて、其晩は到頭思案に一夜を明かしました、翌朝になつてみると、平岡の処から手紙が来た、一寸相談したい事があるから、直に来て呉れといふことが書てある、何事の相談か知れぬが、まづ行て来やうといつて、両人して平岡の処へ出掛けていつた、行つてみると、平岡は平生とかはつて、殊更に別席に通して、少し足下等に話して見たい事があつて呼んだのだが、是まで江戸で何か計画した事があるなら、包まずに語れといふ、卒爾の尋ねだから、両人は
 - 第1巻 p.279 -ページ画像 
イヤ何も別に計画した事は御坐らぬといつたら、平岡は更らに口を開いて、ケレドモ何ぞ仔細があるであらう、外の事でもないが、足下等の事に付て、幕府から一橋へ掛合が来た、僕も足下等とは別段に懇意の間であり、足下等の気質も十分知つて居るから、必ず悪くは計らはぬ、何事も包まずに話しをして呉れといひました、元ト此の平岡は幕吏中の志士で、我々が頼みに思つて居た人であるから、此の人ならば別に包み隠すには及ばぬと思つて、両人更に語を続けて、左様仰しやれば私共少し心に当ることがあります、私共の親友中で両三人の者が何か罪科を犯して、幕府の手に捕はれて、獄に繋がれたといふ手紙を昨夜得ました、(平)それは如何いふすじの友達であるか、(両人)其友達と申のは我々と志を共にして、攘夷鎖港の主義を抱持して居る男で、其中の一人は撃剣の師匠を致す者で、栄次郎の妻の兄に当る男であります(平)併し夫れ丈けではあるまい、何か外に仔細があるではないか、(両人)イヤ別に何も御坐りませぬが、其男の処へ両人から手紙を送つた事が御坐ります、其手紙を懐中して居て縛られたと申して来ましたから、唯今仰せの幕府から一橋家へ照会といふことは、多分夫れ等に関係した事と考へます、(平)其手紙にはドンナ事が書てあつたか、(両人)其手紙には頗る幕府の嫌疑になるやうな事も書いた様に覚えて居ます、元来私共は、幕府が政を失つて居るから、只今の幕政で天下を支配する間は、到底日本国が行き立つ見認めはないといふ処から、早くこれを顛覆せむければ、御国の衰微を増長させるに違ひないといふ持論でありますから、其持論の意味を書て送りました、是れは幕府に対しては、最も禁物の手紙であらうと心得ます、(平)それではそんな事であらう、併し慷慨家などいふものは、一身上の挙動が随分荒々しいものだが、足下等はマサカに人を殺して人の財物を取つたことなどはあるまいが、若しあつたなら、あつたと謂て呉れ、有ることを無いと思つて居ては困るから、と如何にも淡泊の尋ねだから、(両人)イヤそれは決して御坐りませぬ、成程殺さうと思つたことは度々御坐りました、去れども生憎とまだ殺す機会に出会ひませぬ、尤も怨みに付て人を殺すとか、又は物を取る為めに人を殺さうと思つたことなどは、毛頭御坐りませぬ、只義の為めに殺さうとか、或は彼は奸物だ、捨置けぬなどゝいふ考へは致したこともありますが、夫れもまだ手を下したことはありませぬ、(平)然らばたしかになからうか、(両人)決して御坐りませぬ、(平)其れならそれで宜しい。
此の問答が済んでから、平岡は更に言を発して、それで其事の仔細は明白に分つたが足下等は是から如何する積りだといふから、両人は如何するといつて、実は思案に尽きて居ります、元来貴君を頼みに御家来分になつて京都まで来は来ましたが、固より一橋家に仕官の望みがあつて来たのでは有ませぬ、一書生の躯を以て、天下の事を憂慮するといふのも烏滸がましいが、斯く故郷を離れて心からの浪々をするのも、何か国家に尽す機会があつたなら、只今にも一命を捨ることは聊か厭ひませぬが、何分是ぞといふ目的もない所へ、不幸にも志を合せて死生を共にしやうと約束した者が江戸で捕縛され、今更郷里へ帰ることも出来ず、殆ど進退に窮しました、(平)成程さうであらう、察し
 - 第1巻 p.280 -ページ画像 
入る、就ては此の際足下等は志を変じ節を屈して、一橋の家来になつては如何だ、随分此の一橋といふ家は諸藩と違つて、所謂御賄料で暮しを立てゝ居る、謂はゞ御寄人同様な御身柄で、重立つた役人とても皆幕府からの附人で、斯くいふ拙者も、小身ながら幕府の人、近頃一橋家へ附られた様な訳であるから、人を抱へるの浪士を雇ふのといふことは、随分六つかしい話しだけれども、若し足下等が、当家へ仕官しやうと思ふならば、平生の志が面白いから、拙者は十分に心配して見やうと思ふが如何だ、勿論差向き好い位地を望んでも、其れは決して出来ぬ、何れ当分は、下士軽輩で辛抱する考へで居なければならぬ、足下等が今日徒らに国家の為めだといつて、一命を抛つた所が、真に国家の為めになる訳であるまい、足下等も兼て聞て居るではあらうが此一橋の君公といふは、所謂有為の君であるから、仮令幕府が悪いといつても、一橋は又おのづから少し差別もあることだから、此前途有為の君公に仕へるのなら草履取をしても、聊か志を慰むる処があらうじやないか、節を屈して仕ふる気があるなら、拙者飽まで尽力して周旋しやう、(両人)段々御親切の御諭し、実に感佩の至りであります、御見かけ通り素寒貧の一書生ではありますが、苟も出処進退に関係のある事で、只今軽卒に御返答も仕兼ますから、猶篤と相談の上で、否応の御請けを致すことに願ひます、といつて其日は分れて帰宿しました、両人は宿に帰つて、直に相談を始めた、喜作が先づ発言して、(喜)是まで幕府を潰すといふことを目的に奔走しながら、今日になつて其支流の一橋に仕官するといふことになれば、到頭活路が尽きて、糊口の工夫を設けたと謂はれるであらう、又人の知る知らぬは姑く措て、我心に愧る訳ではないか、(栄)成程其通りに違ひない、ダガモウ一歩を進めて考へて見ると、外に好い工夫もない、首を縊つて死だ所が妙でもない、我々は高山彦九郎や蒲生君平のやうに、気節のみ高くて、現在に功能のない行為で一身を終るのは、感心が出来ない、成程潔よいといふ褒辞は下るであらうけれども、世の中に対して少しも利益がない、仮令志ある人だといはれても、世の為めに効がなくば何にもならぬ、マゴマゴして居れば、縛られて獄屋に繋がれる虞れもあり、第一直に生活に困る、愈よ生活に困れば終に大行は細瑾を顧みずといふ理窟を附けて、人に寄食したり、又は人の物を奪ふ様な悪徒になるより外に仕方がない、実は此の際好い便宜があるなら、薩摩か長州へ行くが上分別だけれども、差当り一身を託す程の親友知己もないことだから、是も仕方がない、仮令今日卑屈と謂はれても、糊口の為めに節を抂げたと謂はれても、其から先きは自身の行為を以て、赤心を表白するといふ意念を堅めて置て、先ツ此の焼眉の場合だ、試みに一橋家へ奉公と出掛けて見やうじやないか、(喜)イヤ何でも江戸へ帰る、帰て獄に下つた人々を引出さむければならぬ、(栄)仮令引出さうと思つても、我々がいつてオイそれと出せる位なら、幕吏も始から牢に入れやしない、其友人を救ひ出す上に付ても、今此処で我々が一橋家へ仕へたら、目下の寒酸浪人と違つて、軽士賤吏ながらも、表面上に於ては一橋家の士といふ立派な身分が出来る、さうなれば幕府の嫌疑もおのづから消滅して、其辺からして或は救ひ出す方便が生ずるかも知れぬ、
 - 第1巻 p.281 -ページ画像 
此の際になつて敢て一身の安楽を謀る次第ではないが、今日目前の急に処するには、一橋家へ仕官の一案は、随分一挙両得の上策であらうと思はれる、(喜)如何さま左様いへば、さういふ道理もある、然らば節を屈して一橋に仕へることにしやう。
偖て仕官論も漸く決議したから、両人は更らに相談して、痩せ我慢が強いやうだけれども、今更食ふことが出来ませぬ、居所がありませぬから、御召抱へを願ひますといふのは残念だから、一ト理窟を附けて志願しやうじやないか、ソレハよからう、其れでは明日は斯ういふ話しにしやう、と相談して翌朝また両人で平岡の処へ往て、さていふには昨日段々の御教示に付まして、両人とも篤と相談を致しましたが御沙汰通り私共は窮途に彷徨して居ますもの、然るに今般仕官の周旋をして遣らうといふ御沙汰は、実に存じも寄らぬ御好意であります、併しながら我々両人は、農民風情から成立つた人間ではありますが、一個の志士を以て自ら任じて居ます、其故、義に依つて捨る命なら鴻毛よりも軽い、事あるの日には、水火の中も厭はぬ、といふ気節を磨励して居ながら、此の窮阨の極点に陥つたからと申して、初志を翻ひして食禄を希ふといふことは、甚だ好みませぬ、去ながら若し一橋公に於て、当世に志あるものを召抱へて、而して若し一朝天下に事のあつた時には、其志士を任用して、御現任の禁裏守衛総督の職掌を御尽しなされたい、といふ御思召の在る訳ならば、我々は仮令鎗持でも草履取でも、其役目の高下は毫も厭ひませぬ、若又これに反対の御趣意なら、恐れながら如何様立派な官職に任ぜられましても、甘んじて御奉公は出来ませぬ、果して前段の御趣意であるならば、私共両人に於ても、聊か愚説もありますから、其れを建言致した上で、御召抱へといふことにして戴きたいものであります、といつた所が、平岡は其れは至極面白い、何なりとも見込書を出すがよいといはれたから、予じめ懐中して居た意見書を平岡に渡しました、今は其草稿も散逸したが、見込の要領といふは、詰り国家有事の時に方り、御三卿の御身を以て、京都の守衛総督に任ぜられ給ひしは、実に古今未曾有の御盛事ながら、申さば非常の時勢が此の非常の御任命を生み出しゝ次第なれば、此の御大任を全うせらるゝには、亦非常の御英断なくては不相成事、而して其御英断を希望するの第一着は、人才登用の道を開いて、天下の人物を幕下に網羅し、各其才に任ずるを急務とする、云々の大意であつたやうに記憶して居ます、」平岡は其書付を一読して、宣い、然らば之を御覧に入れるやうに致さうといつたから、両人は又平岡に向つて、偖てモウ一ツ御願ひがあります、愈よ前陳の趣意で御召抱へになることなら、是までの先例にあるかないか知れませぬが、一度君公に拝謁を仰付けられまして、仮令丁寧な御意がなくとも、一言直に申上て後に、御召抱へを願ひたいといつたら、(平)否、其れは例がないから六かしい、(両人)例の有無を仰しやるなら、農民を直に御召抱へになる例もありますまい、(平)否、そんなに理窟をいつたとて、左様は往かぬ、(両人)それが往かぬと仰しやる日には、私共は此の儘にて死ぬとも生るとも、此の御奉公は御免を蒙るより外に仕方がありませぬ(平)ドウも困つた強情をいつたものだ、先づ兎も角も評議をして見やう、
 - 第1巻 p.282 -ページ画像 
此の問答がすむで一日二日たつと、平岡の話しに、ドウカ拝謁の工夫が附たやうだ、併し見ず知らずの者に、拝謁を許す訳にはゆかぬから一度遠見なりとも、彼れが何某で御座ると、御見掛けになる様な工夫をせむければならぬ、所が元々家来でないから、好い都合がないが、両三日中に松ヶ崎へ御乗切りがあるから、其途中へ出て居て、御見掛けになる工夫をするがよい、けれども夫れには乗馬だから、駈んければならぬといふことであつた、是には自分も大に困却した、なぜといふに、自分の身体は其頃から肥満して居り、殊に脊も低いから、駈あるく事は極めて難義であつた、されども其当日は一橋公の御馬が見えるとすぐに、下加茂辺から山鼻まで、行程十町余りの処を一生懸命でひたばしりに駈けて御供をしたことでありました。
其後一両日たつて、内御目見を仰せ付られたから、其時には前の建言の趣意を以て、無遠慮に御話し申上げた、其趣意は、君公には賢明なる水戸烈公の御子にましまして、殊に御三卿の貴い御身を以て、此の京都守衛総督といふ要職に御就任遊ばされた上は、恐ながら如何にも深遠の御思召が在らせられての事と存じます、今日は幕府の命脉も既に滅絶したと申上てもよい有様であります、故に今なまじひに幕府の潰れるのを御弥縫なされやうと思召ときは、一橋の御家も亦諸共に潰れますから、真に御宗家を存せんと思召ならば、遠く離れて助けるより外に計策はないと考へます、其れゆゑ君公には、天下の志士を徐々に幕下に御集め遊ばすことに、御注意が願はしう存じます、凡そ政府の紀綱が弛むで、普く号令も行はれぬといふやうな、天下多事の時に方つては、天下を治めやうとする人もあり又天下を乱さうとする人もありませうが、其天下を乱す人こそは、即ち他日天下を治める人でありますから、能々天下を乱す程の力量ある人物を、悉く御館に集めたならば、他に乱すものがなくなつて、治めるものが出ます、所謂英雄が天下を掌に回らすといふは、此処であらうと考へます、是等の辺に御深慮がなくば、此の要職に御任じ遊ばす甲斐もないことゝ存じます、併しながら以上申上た通り、天下の有志輩が往々御館に集つて、姑息の旧弊も次第に改まり、諸事快活の御取扱振りが行はるゝといふ場合になりますると、幕府の嫌疑は目前の事で、詰る処は一橋征討などいふ論も出るでありませう、万々一さうなつた時には、已むを得ず兵力を以て抵抗するも差支はありますまい、申さば天武大友の乱のやうなもので、敢て好む事では御座りませぬが、社稷の重きには替へられぬと存じます、畢竟幕府を潰すのは、徳川家を中興する基ひであります、能々熟考してみれば、此の事は全く道理に当るといふことが、理会し得らるゝ様になります、と腹蔵なく申上た所が、一橋公は只フンフンと聞て居らるゝ丈けで一言の御意もなかつたけれども、自分の考へた所では、稍や此の建言に注意して、御聴取になつた様に思つた。
此の拝謁も首尾よく済むで初めて一橋家に奉公したのは、明瞭には記憶せぬが、二月の十二三日頃かと覚えて居ます、其時に召出された身分は、奥口番と云ふ役名で、奥の口の番人であつた、偖て其の奥口番に同役があるからといつて、掛りの役人が両人を連れて、其詰所までいつた、いつて見ると、其詰所といふのは、畳がスツカリ切れて居て
 - 第1巻 p.283 -ページ画像 
蚤と籔蚊の外は居ることの出来ぬと思ふばかり、誠に不潔の所であつた、其処に老耄したと見える程の老人が二人詰めて居て、これが同役であるといふから、両人共、礼儀も作法も知らぬ書生だに依つて、何の頓着もなく、いきなり座つて挨拶をすると、其老耄先生が自分を咎めて、足下は御心得が御座らぬか、其処に坐つては成りませぬ、といふのは畳の目が筆頭の人より上になつて居るからの事で、第一番に御小言を頂戴した、其時に自分は、こんな畳の目の分らぬやうな詰所に、一級半級の差別があるといふは偖て偖て馬鹿な事だと思つたけれども何分様子を知らぬから、大きに失礼をしましたと詑びをしました、偖て此の奥口番といふは、両人の身分に属する役名で、其頃一橋家には御用談所といふものが出来て居て、丁度諸藩でいふ留守居役所の様なものであつたが、両人ながら其御用談所下役に出役を命ぜられて、辛くも奥口の詰番を免かれたのは誠に幸福であつた、其れから御用談所の脇の一室を借りて、両人共、其処に同居することになりました、両人が其時の俸禄といふは、僅かに四石二人扶持の御宛行で、外に京都滞在中の月手当が金四両一分であつた、是れが自分の給金の貰ひ始めであります、実は仕官の身といふのも、何か気恥かしい訳だけれどもさうなつて見ると、又相応な慾望も自惚も出るから、随て楽しみも生じて来る訳だが、初進の中は別して謙遜して勉強せんければならぬといふ考へで、両人申合せて昼夜精勤しました。
偖てこゝで一寸活計上の話しを致しませう、自分が家を出るとき、父から恵まれた百両の金は、江戸で使ひ道中で使ひ、又、伊勢参宮で使ひ、京都滞在中二箇月余りの旅籠代を払ひなどして、此の歳の二月頃からは、殆ど貯ひが尽き果てたから、一橋家に勤仕して居る一二の知人から、或は三両或は五両と借入れて、詰り両人で二十五両程の借財が出来ました、然るに此の度始めて四石二人扶持、月俸四両一分の身分になつたから、飽まで節倹にして、此の借財を払はんければならぬと考へて、月々に請取る四両一分の金を大切にして、無益の事には一銭たりとも使用せずに置きました、借用した一室といふのは八畳二タ間に勝手の附た長屋だから、素より存分の暮しをすることは出来ない朝夕の食事も、汁の実や沢庵を自分で買出しにいつて、時々竹の皮包みに牛肉などを買つて来た、其れが最上の奢りであつた、又飯の炊き方も、其時に覚えたが始めの中は粥のやうなものが出来るかと思ふと、又其次は硬い飯が出来て、両人でいつも苦情があつたが、段々慣れて見ると、全く釜をかけて、研ぎ上げた米を仕かけ、其米の上にソツト手を置て、少し水の乗る位にすれば、好い工合に出来るといふことを覚えた、其れから味噌汁を摺ることは、以前から知つて居たから自身で豆腐汁、又は菜の汁などを拵へたこともあつた、又京都では夜具といふものがなくて、蒲団ばかりだから、二人で銘々に借りるのは費用が増すといつて、蒲団三枚を借りて、其中に二人が背中合せになつて寝るやうな始末でありました、其の内に只今申した二十五両の借金を返さむければならぬことであつたが、兼て両人共、故郷から金を取寄せるといふことは、死むでも為まじと誓約してあるから、是非とも月手当の四両一分の中から返すより仕方がない、けれども四両一分の中
 - 第1巻 p.284 -ページ画像 
を節約して、二十五両を返さうといふのは、実に容易な事でないから非常の大節倹を実行して、到頭四五箇月の間に、此の借金を返して仕舞ました。
前に申した御用談所の上は役といふのは、一橋家の用人物頭又は目附などの中で、外交の事務を司さどる人々であつて、御用談所は即ち其人々の集会所であります、此の役所で取扱ふ事柄の重なるものは、禁裏御所に対する接待向から、堂上との交際、諸藩の引合筋の事であるから、下役の賤しい身分ではあるが、両人に於ては、稍や枢要の立場に居る様な心持ちがしました。 ○下略


雨夜譚 巻之二・第三七丁(DK010018k-0002)
第1巻 p.284 ページ画像

雨夜譚 巻之二・第三七丁
○上略 其歳九月の末に、微しく身分が進むで、御徒士になつた、御徒士といふのは、奥口番より一級上で、今一級進むときは、御目見以上となるのである、御徒士の食禄は八石二人扶持で、滞京中の月俸が金六両であつたと覚えて居ます、


竜門雑誌 第三四五号・第一八―二〇頁 〔大正六年二月〕 ◎実験論語処世談(廿一)(青淵先生)(DK010018k-0003)
第1巻 p.284-286 ページ画像

竜門雑誌 第三四五号・第一八―二〇頁〔大正六年二月〕
 ◎実験論語処世談(廿一) (青淵先生)
○上略
      ▲廿五両を貸した猪飼翁
 私は親類の渋沢喜作と一緒になつて、二十四才の文久亥三年十一月の二三日頃、江戸から京都へ発足した時には「当座の入費に使ふがよい」と父から百両の金子を貰ひ受けたものだから、内二十四五両ばかりは江戸に居る間に使つてしまつたにしろ、京都へ着いた当座は、まだまだ相当に懐中が温かかつたのである。然し十一月二十五日京都へ着いてから、頼復次郎を尋ねるとか、其他当時名高い慷慨家を訪問するとか、或は又勤王の藩から出京して居た周旋方(当時の外交掛)に面会するとかいふことで東奔西走したり、伊勢大廟参拝の為めに旅行したりしたので、そのうち所持金も追々手薄になつて来たのである。
 当時、私と喜作との止宿して居つた旅館は、三条小橋脇の茶屋久四郎方で、俗に「茶久」と呼ばれた高等旅館であつたのである。その頃の普通旅籠賃は一泊二百五十文位であつたところを、私共は特別に負けてもらつて猶ほ四百文で茶久に宿泊して居つたのだから、茶久が当時の高等旅館であつたことは、略々察せられるだらうと思ふが、何分まだ世故に慣れぬ書生の事とて、前後の勘定も無く、そんな高等旅館に止宿して居つたので、経費も自づと多く懸り翌元治元年二月に至り平岡円四郎の勧告を入れて一橋家へ奉公するやうになつた際には、住む家だけは御長屋を当てがはれたので、別に不自由を感じなかつたが之に住んで自炊をしやうにも、鍋釜を買ふ金子の無いほどに窮乏してしまつたのである。
 これでは仕様がないといふので、喜作と私と額を鳩めて相談して見たが、旨い勘考も浮ば無い。結局誰からか金子を一時借れるやうにするより分別がつかなくなつたので、誰れか彼かと借してくれさうな人の名を挙げて話し合つてるうちに、一橋家の御側用人で番頭を勤めて居た猪飼正為といふ人ならば、二三度遇つたこともあるが、情深さう
 - 第1巻 p.285 -ページ画像 
に見へる人故、事情を打明けて頼み込んだら、或は快く金子を貸してくれるやも知れぬといふことにより、両人にて猪飼の宅に出向き、金子の借入方を依頼に及ぶと、予期の如く快諾してくれたのである。漸く其れで鍋釜を買ひ、一橋家の長屋に引移れることになつたのであるが、一度借りた丈けの金額では間に合はず、前後三回ばかりに総計二十五両を借りたやうに記憶する。その頃の二十五両は之を今日の貨幣に換算すれば、二三百円にも当るので可なりの大金である。
       ▲猪飼翁私の見舞を悦ぶ
 この猪飼正為といはれる方は、今なほ丈夫で存生して居られるが、私よりも少しばかり年長な筈である。この方は、一橋家でも武官出身の人で、番頭といふ役は武官である。元は御小姓を勤められ、それで武官の方に這入られたものだから、番頭で御側用人をも兼ねられて居つたのであるが、その息子さんは、現に大蔵省に奉職して居られる。
 さて、喜作と私とが、一橋家に仕へた時に受けた給料は、役手当が四両一分で、扶持が四石二人扶持といふものであつたから、猪飼氏から借りた二十五両を返金するのにも、却々骨の折れたもので、毎月一両づゝ返したのであるが、そのうち私は大阪に出張することになつたりなぞし、多少の余裕をも生ずるに至り、その年内に二十五両を皆済してしまつたのである。私たちが、斯く几帳面に借金を返済するのを見、猪飼氏は私たちを堅い人物だといふて、非常に賞めてくれたものである。賞められる丈けそれだけ私たちは苦しかつたのだが、自分で市中に買ひ出しに出かけて、店頭に下げてある牛の肉を買つて帰り、之に葱を切つて入れ一緒に自分たちで、煮て食つたりなどして、当時は其日を送つたものである。そは兎も角もとして、当時私たちが自炊ながらも其日を凌げるやうになれたのは、全く猪飼正為氏が私たちの窮境を憐れんで、二十五両を貸して下されたお蔭によることだと思ふので、私は今日に至るまで、この旧恩を忘れず、同氏の息子さんは大蔵省に奉職して居つても、まだ至つて薄禄のこと故、御恩返へしのつもりで、及ばずながら彼是れと御力になるやうに致して居る。
 猪飼氏の息子さんは、大抵毎日曜日に私の宅を訪はれるが、猪飼老人も私が旧恩を忘れず些かでもお尽くし申しあげるのを、非常に悦ばれて居るさうで、息子さんの話によれば「おれには渋沢が付いてるから安心だ」と甚く力んで居られ、昨年の夏病気に罹られた時なぞ、私から見舞に菓子折を差上げたのだが「これは渋沢から己れに呉れたのだから他の人には決して食はせぬ、己れ一人で食ふ」なぞと言はれて御自分一人で菓子折を大事にして食べられたさうである。私とても、斯ういふ話を聞けば、又満足を覚えぬでも無い。単に猪飼氏のみならず、曾つて一橋家に在られた方々に対しては旧恩を思ふて及ばずながら御世話申上ることに致して居る。
 平岡円四郎氏《(マヽ)》は明治二十七年に歿くなられ本所の菩提寺に葬られてあるが、一昨年遺族の方々によつて二十年忌の法事が営まれ、私も之に招かれたので出席し、本所の御寺へも参つて御墓を拝んで来たが、長男は東京に居住し、次男は信州で裁判官を勤めて居られる。然し御両人とも少し変人であるので、私の宅を御訪ね下さることなぞは滅多
 - 第1巻 p.286 -ページ画像 
に無いが、私は平岡氏より受けた旧恩を未だに忘れぬやうに致し、思ひ起しては感謝して居る。


竜門雑誌 第三〇七号・第一八―一九頁〔大正二年一二月〕 ▲老公の洋癖(DK010018k-0004)
第1巻 p.286 ページ画像

竜門雑誌 第三〇七号・第一八―一九頁〔大正二年一二月〕
▲老公の洋癖 予が老公○慶喜公に初めて拝謁してから数へれば本年で正に五十年、元治元年の二月予が用人平岡円四郎氏に推挙されて参邸したのは京都三条の若狭屋敷で当時老公は一橋侯として禁裡守衛総督といふ要職に在られたに拘らず、拝謁の場所は小さな御書斎で、老公は徹頭徹尾節倹質素であつた、その時その御部屋に写真の掲げてあるのを見て、攘夷論者たる予は老公の洋癖を苦々しく思つた。その後は折にふれて幕府の維持の六かしい事、天皇の尊ぶべき事、薩長両藩の勢力に就て愚説を申し上げたが、老公は常に無言のまゝ傾聴して居られた。 ○下略
   ○右ハ大正二年十一月二十二日徳川慶喜公薨去ノ直後、栄一ガ読売新聞記者ノ求ニヨリ慶喜公ニツキ談話セルモノノ一節ナリ。


渋沢栄一伝稿本 第四章・第八六―九七頁〔大正八―一二年〕(DK010018k-0005)
第1巻 p.286-289 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第八六―九七頁〔大正八―一二年〕
○上略 明くれば元治元年の春、居を三条小橋なる茶久といへる旅宿に転じたり、これ慶喜公を始め家中の人々も、三条なる若州の藩邸に移転せるが故に、往来の便を図れるなりとぞ。此時尾高長七郎就縛の飛報を接手したるは、これ先生が将来の運命に一転機をなせる大事件なりき。
先生の京都に来りて形勢を探るや、今こそ政界無事なれども、近き将来には必ず大変革の生ずべきを暁り、志士の国家に尽すは正に此際にありと覚悟せしかば、喜作と共に情状を藍香に報じ、又切に尾高長七郎の西上を促したり。長七郎も亦出遊の志ありしかば、元治元年正月中村三平及び先生の縁家たる福田滋之進を伴ひて江戸視察の途に就き武蔵国足立郡なる戸田の原に差しかゝりたる時、いかにしけん俄に精神錯乱して、往来の者を殺傷せるにより、幕吏の捕縛する所となりて江戸伝馬町の牢獄に繋がれたり。長七郎は亢奮せる精神の鎮まりて後いたく之を悔いたれども既に及ばず、殺傷事件は一時の発作に出でたるものなれども、浪人の挙動に深く注意せる幕府は、猜忌の眼を以て長七郎を監視し、容易に赦免せざるのみならず、其懐中せる先生の書信には、幕府の忌憚に触るゝことをも記しありしを、獄吏に没収せられしかば、嫌疑は引いて京都なる先生等の身の上にも及ばんとす。よりて長七郎は獄中より密に書を認めて先生等に贈り、其警戒を求めたり。長七郎の書信の到達せるは其の年の二月初旬なりしが、先生等の驚愕は譬ふるに物なく、鳩首して謀議を重ね、江戸に赴きて長七郎を救はんか、或は長州に走りて、多賀屋勇に拠らんかなど語合ひしが、孰れも最良の手段ならざれば、先生議を立つれば喜作之を駁し、喜作意見を陳ぶれば先生之を難じ、思案の間に数日を送れるのみ、頗る進退に苦しめり。
かく苦心焦慮の際に、思ひもかけず平岡円四郎より両人の来邸を促せり。乃ち此に赴けるに、円四郎の態度平常と同じからず、殊更に別室
 - 第1巻 p.287 -ページ画像 
に誘ひ、儼然として問ひて曰く、「今日は足下等の身の上につきて尋ねたきことありて招き寄せたり、何事も包まず語り明かされよ、足下等とは年来の交誼あり、又ほぼ気質をも承知し居れば、決して悪しくは計らふまじ、実は此度足下等の事に関して、幕府より一橋家へ懸合ひ来れる子細あり、江戸に於て陰謀など企てたるにはあらずや」と。
先生等扨はと驚きしが、色に表はさず、又此人ならば一通りは打明けて語り置くこと然るべしと考へたれば、乃ち長七郎就縛の始未、并に幕府の忌憚に触るゝが如き書簡を同人に贈れることなどを告げて、「懸合といふは定めて此件なるべし」といへるに、円四郎の曰く、「其書簡には何事をか認めたる」、答へて曰く、「余輩は今日の如く頽廃を極めて失政百出せる幕府の運命の、到底永く持続し難きを知り、寧ろ早く之を顛覆して、善後策を講ずることの急務なるを信ずる者なれば、其意を通じたるのみ」。円四郎聴きも終はらず、話頭を転じて曰く、「足下等の持論を聴かんと欲するにあらず、たゞ世の志士浪人と称する者は、其挙動往々にして粗暴過激に流るゝの弊あり、されど足下等は、よもや人を殺傷し、貨財を奪ふなどの事はあらざるべしとは信ずれども、万一さる事あらば承りたし」といふ。此に於て先生等は端然として容を改め、「否々、義の為に奸物を除かんと思ひしことはあれども、未だ手を下すに及ばず、況や故なくして人を殺傷し貨財を奪ふに於てをや、余等は神かけて其必無を断言す」と答ふるに及び、円四郎始めて心を安んじたるものゝ如くなりしが、「段々の陳述にて委細分明せり、されど幕府は足下等を疑ふこと深く、前に語れる懸合といふも、実は足下等と一橋家とは如何なる関係ありやとの尋問なり、思ふに、次第によりては捕縛せんとの意なるべし。足下等仮令心中に疚しきことなくともかく幕府の嫉視を招きては、将来の安全は期し難からん、寧ろ一橋家に奉仕しては如何。今や幕府多難の時なれども、慶喜公は不世出の英主にましませば、身を託するに足るのみならず、一橋家に奉仕して其家中とならば、幕吏も妄に追捕の手を下し難からん、これ明哲の身を保つ所以にあらずや、足下等若し其志あらば、余は周旋の労を取るべし」と、熱心に説き諭したり。此時慶喜公は幕府を代表して京都に駐在すれども、三卿の地位にして藩士なく、兵力を有せざるが故に、不便を感ずること尠からず、円四郎之を憂ひて漸次浪人を召抱へんとする際なりしかば、先生等が有為の青年たるを察し、之を家中に招致して、ゆくゆく君の股肱と頼まんと思へるなるべし。然れども先生等は「一生の運命に関係せる大事なれば、熟考の上にて答ふべし」とて辞去し、旅宿に帰りて討論せしが、結局、「かく進退に窮せる今日、一橋家の庇護を承くるにあらざれば、到底縲絏を免かるゝこと能はず、一事をも為し得ずして徒に縛に就くは、終生の遺憾なり、暫く平岡の意に従ふより外に手段なかるべし」と決したる時、川村恵十郎来り訪ひて、懇切に仕官の事を促しければ、先生等遂に意を決し、次日円四郎に就いて述べて曰く、「閣下、余輩の窮境にあるを憐み、仕官の周旋を辱くす、好意謝するに余りあり。余輩微々たる農民より出づといへども、なほ天下の志士を以て自ら任ずる者なり、今一旦の窮境を免れんとして、徒に膝を五斗米に屈するは屑しとせざる所なれども、若し一
 - 第1巻 p.288 -ページ画像 
橋公にして当世有為の士を召抱へ、一朝事あるに際して、其用を為さしめんとの思召ならば、希くは微忠を竭して閣下の知遇に報い奉らんされば先づ余輩の思ふ所を言上し、嘉納せらるゝに及びて後、命を拝するも晩かるまじ」といふ。円四郎いたく此言を壮なりとし、「何なりとも思ふ所あらば言上せよ」との事なりしかば、乃ち懐中せる二人連署の意見書を呈出せり。其大要は、「国家多事の秋に当り、三卿の尊貴を以て後見の重任を帯ばせ給ふは、古今未曾有の盛事なりといへども此大任を完くせんと思召さば、非常の英断を以て人才登用の道を開き天下の俊傑を幕下に網羅し、人々をして其才能を尽さしむるこそ目下の急務なれ」といふにありき。円四郎一見の後之を御前に捧ぐべき旨答へしかば、両人更に言を改めて、「陳述する所皆閣下の採納を得たり真に余輩の光栄なり、乃ち喜びて一橋家の家中たるべし、然れども命を拝するに先だち、一たび君公に謁見して、親しく言上することを許されよ」といへるに、「そは先例なき所にて困難なる次第なれども、ともかくも計らふべし」とて、其日の会見を畢へたり。
此会見ありて後数日、慶喜公松ヶ崎山城国愛宕郡にて加茂の附近なりに出遊の事あり、両人乃ち円四郎の周旋により、途上密に公を拝す、当時之を遠見と称す、非公式に謁見を賜ふの儀にて、未見の輩を直に引見するは、制度の許さゞる所なれば、先づ此形式を借りて拝謁の階段を作れるなり。かくて数日の後始めて内謁見を許さる、両人言上して曰く、「臣等密に天下の形勢を按ずるに、幕府の運命誠に累卵の如し、此時に当り宗家の御為を思召されんには、大に一橋家の勢力を張り、其勢力を以て宗家を擁護せらるべし、一橋家の勢力を張るには、広く天下有為の士を招致すること第一の急務なり」とて、前日平岡円四郎によりて呈出せる連署の意見書を敷衍して言上したるに、公は之を黙聴せる後、「誠に履霜堅氷至ともいふべき時勢なり」など仰せられし態度応対の明敏には、両人共に深く感じたりといふ。思ふに其頃公は幾多の事情によりて、幕府有司の猜忌を一身に集め、進退自由ならず、之が為に苦しまれたる場合なれば、橋府の勢力を張らんとするが如きは、更に猜忌を深からしむる所以にして、公言するをだに憚るべき所なれども、先生は未だそれらの事情に通ぜず、たゞ思ふ所を遠慮なく述べたるものなるが、公は其勇気をや感じ給ひけん。其才器をや愛し給ひけん、程なく両人は橋府に登庸せらるゝに至れり。
元治元年二月九日先生は渋沢喜作と共に、芸術心掛け宜しとの故を以て、一橋家の小人使之者へ新規抱入の命を拝し、四石一人半扶持を賜ひ、即日奥口番過人を命ぜられて、御用談所調方下役出役となり、又別に出役中二人扶持を賜ふ。一橋家記録所載の辞令に拠るに、二人共に安部摂津守家来と肩書せり、農民を直に召抱ふることは不便の事情ありて、特に藩士の待遇をなせるものか、思ふに平岡円四郎が臨機の取計なるべし。尋で又在京中の月手当として、四両一分の下賜あり、四月十七日奥口番より御徒に進む、御用談所調方下役に出役すること故の如し。出役とは、本職は只資格のみにして、専ら出役を命ぜられたる職務に従事するをいふ。奥口番となり御徒となれるは、本職なれども此身分を定むるのみにて、其事に従ふにあらず、専務とする所は
 - 第1巻 p.289 -ページ画像 
御用談所調方下役なりしなり。此御用談所といへるは、一橋家の政庁にして、用人・物頭・目付等が集会して、朝廷・幕府・諸藩等に関係せる事務を処理する処にて、諸藩の留守居役所と同じ。先生等は其属吏たるに過ぎざれども、掌る所は孰れも枢要の政務なれば、此に始めて驥足を伸ぶるの端緒を得たり。此頃先生通称を栄一郎より篤太夫と改む、平岡円四郎の命ずる所なり。
抑先生等、初め幕府の末路に瀕するを見て、社会変革の兆既に現はれしを察し、身を志士の群に投じたるに、今や却て幕府の一族たる一橋家の家臣となりて士籍に列せるは、宿志と矛盾するの感なきにあらずといへども、熟ら当時の形勢を考ふれば、亦其故なきにあらず。蓋し幕末に於て浪人なる者が、縦横策を講じ、或は公卿・諸大名と結び、或は同志を団結して、朝廷・幕府を威脅せるは、安政四五年の交より文久三年に至るの期間にありて、就中文久二・三年を以て其頂上とす。
然るに文久三年八月十八日の政変起りて、彼等の盟主となせる在朝の三条実美等も、之を後援せる長藩も、浪人組の牛耳を執れる真木和泉等も、皆一斉に失脚して、其根拠地たりし京都は、公武合体派の天下となり、地方に起れる生野・五条の挙兵も忽に瓦解して、奏効の望なきを証明したれば、今は烏合の志士浪人が事を為すの機会は既に経過し去り、藩といへる大傘下に集まりて、統一ある行動を企つべき時勢に推移れるなり。されば先生等仮令尾高長七郎に連座せず、幕府の捕縛に罹らずとも、京都にありて宿志を貫徹せんことは、望既に絶えたり、若し其志を成さんとせば、必ず大藩の傘下に集まらざるべからず、先生等の禄仕するに至れるも、亦此自然の大勢に導かれたるのみ。而して先生が一橋家を択びたるは、身を委ぬるに所を得たるものなるのみならず、一橋家も亦先生を得て幸福なりしは、後に至りて知られたり。
先生は関左に生れて水戸学の感化を受け、其知己交遊は多く関東に存す、若し一橋家に仕へずば、再び東帰して水藩の志士と連衡し、或は筑波に籠り、或は敦賀に走らんも亦知るべからず。然るに幸にして平岡円四郎なる保護者によりて遂に一橋家中の士となれり。一橋家は僅に十万石の領地を有し、将軍の一家族たるに過ぎざれども、慶喜公は賢名夙に天下に高く、今や幕府を輦轂の下に代表して内外の政務関知せざるものなし、此の如き好地位を有する人を主君と仰ぐに至れるは、実に先生の幸運なりしなり。先生の新しき生涯はこれより開展す。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一三五頁〔昭和五―六年〕(DK010018k-0006)
第1巻 p.289 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一三五頁〔昭和五―六年〕
篤太夫と名を改めたに就て仰。「それは平岡がつけて呉れたのだ。平岡がね、『君は地味さうな男だから篤太夫がよからう』と云つてくれたので、『篤太夫は何だか親父のやうな名前でどうも少し……』と云つたのだが、『それがよい』といふのでまアさうした。篤行を以て人を教へよとのつもりである。」


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七二頁〔昭和五―六年〕(DK010018k-0007)
第1巻 p.289-290 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七二頁〔昭和五―六年〕
○上略
問。「愛山の評伝中にも平岡と江戸でどんなお話をなすつたかを子爵の
 - 第1巻 p.290 -ページ画像 
口から聞くを得ざるは残念と書いてをりましたが。」
御答。(御微笑にて)「それはね、慶喜公のなさることに注文したのだ。慶喜公が鎖港攘夷等をとなへて単に浪人に阿るのみで、自分のお考へをくらましておいでなさるのはよろしくない。公の御自身の働をどうするがよいといふ事を評論的に云うたのだよ。平岡の心持としては今日の御行動に就て親切に物言ふは、とにかく聞いておいてやらうといふのであつたと思ふ。」


省斎文稿 写本省斎文稿記(DK010018k-0008)
第1巻 p.290 ページ画像

省斎文稿
写本省斎文稿記
斯稿者。余亡斎弟。弘忠之遺物也。弘忠。初名弘毅。後更弘孝。又弘忠。省斎其号。又別号東寧。自幼好文。余力読書試剣。遊江戸。学于海浦漁村之門。結交於天下之談士。唱尊攘之説。四五年間。奔走四方。屡謀義挙不成。誤下江戸獄。四年余。明治元年。逢赦帰家。無幾病歿。其為友者。幾十数人。若長門。多賀谷勇。久阪玄瑞。薩摩。中井弘。伊牟田正平。肥前。中野方造。下野。河野顕三。児嶋強介。松本暢。安積五郎。出羽。清川八郎。常陸。原市之進。小山重遠。江戸。大橋順等其選也。因無復遺文。僅存斯稿。足以為紀念。余毎憶東寧。吟誦斯詩文。以換一捻香。一日。出示穂積夫人。夫人。一覧揮涕曰。嗟乎是叔舅之手沢。豈不貴哉。乃使人写一本。以擬東寧之影。其至情有不勝言者。余亦揮涙而跋焉。
    明治廿六年二月八日                      尾高惇忠書□□


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第六丁〔明治三三年〕(DK010018k-0009)
第1巻 p.290 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第六丁〔明治三三年〕
○上略 翌くる元治元年の始つかた江戸へまかり給ひける道の程。ゆくりかなる事の過よりともなひける二人の人々と共に幕府の有司に捕へられ。終に伝馬町のひとやにこめられ給ふ事となりければ。手計。血洗島ふた村なる人々の為には世の中も狭うなりたる心地して。いと物わびしきにつけても。此時京都にましましける大人等が御身の上いかならんといと気遣はしく。只いたづらに御心をなやますばかりにぞおはしける。


御番頭御用人 日記 〔文久四子年二月〕(DK010018k-0010)
第1巻 p.290 ページ画像

御番頭御用人 日記 〔文久四子年二月〕 (伯爵 徳川宗敬氏所蔵)
二月十九日
一安部摂津守家来渋沢喜作渋沢栄一郎芸術心掛宜候に付御小人使之者江新規御抱入直ニ奥口番過人并右両人
 御在京中御用談所調方下役出役申渡候旨京地より申越候間心得として此段御日付え相達之


支配向被仰渡 御書付留 〔文久四子年御目付方〕(DK010018k-0011)
第1巻 p.290-291 ページ画像

支配向被仰渡 御書付留 〔文久四子年御目付方〕 (伯爵 徳川宗敬氏所蔵)
二月廿日                      安部摂津守家来
                              渋沢喜作
                              渋沢栄一郎
 右芸術心掛宜候に付御小人使之者江新規御抱入御宛行四石壱人半扶
 - 第1巻 p.291 -ページ画像 
持被下直ニ奥口番過人申渡之。勤候内御宛行並之通御足被下之
                          奥口番過人
                              渋沢喜作
                              渋沢栄一郎

御在京中御用談取調方下役出役申渡之、出役中御扶持方弐人扶持被下之
右二月八日京都於御旅舘被申渡候
  二月八日          京都御旅舘
                   御目付
     一橋御屋形御目付中


(川村恵十郎)御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕(DK010018k-0012)
第1巻 p.291-292 ページ画像

 (川村恵十郎)御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕
                                (川村久輔氏所蔵)
廿四日 ○文久四年正月
○上略
一小田井倉太今日着之由渋沢申来帰宿難相成ニ付書面為持庄七計相返ス
廿八日 ○文久四年正月
一渋沢来同人共之儀平岡相談
○下略
(二月)
九日 ○文久四年二月 晴
○中略
一渋沢喜八同栄一郎今日奥口番被仰付夫《(渋沢喜作)》より御用談所調方下役出役被仰付目付方より引渡有之ニ付受取御書付左之通
   ○御書付写ナク空白。
十日 ○文久四年二月 晴
一渋沢両人引越来御用談所入同居之積
○下略
十四日 ○文久四年二月
○上略
        此度江戸表ニ而被召捕候者
               浮浪人

   川越大川           榛沢七郎
   平兵衛妻ノ弟         実名
  実は武州榛沢郡           尾高長七郎
  下手計村                二十七
   名主新五郎弟

   紀州水野家来         富田三郎
   野中昌庵甥           実名
                    中村三平
                     二十二

   駒井山城守知行所       治助
   上州那波郡           実名
   前川原村             福田治助
   名主彦四郎忰            二十二


  七郎三郎両人は無宿之旨申立、治助は神田小柳町三丁目慎之助方
 - 第1巻 p.292 -ページ画像 
へ止宿致居候由申立
 右正月廿三日夕刻安藤森川人数板橋宿固罷在召捕候由 ○下略


(川村恵十郎)御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕(DK010018k-0013)
第1巻 p.292 ページ画像

 (川村恵十郎)御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕
                          (川村久輔氏所蔵)
○上略
十八日 ○元治元年四月 雨
○中略
渋沢両人御徒士被仰付之
○下略
   ○栄一ノ御徒士ニ進メルヲ雨夜譚ハ九月トス。記憶違ナルベシ。