デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.292-302(DK010019k) ページ画像

元治元年甲子二月(1864年)

平岡円四郎ノ密旨ヲ承ケテ大阪ニ赴キ、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵ノ門ニ入ル。四月帰京ス。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第二四―三一丁〔明治二〇年〕(DK010019k-0001)
第1巻 p.292-295 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之二・第二四―三一丁〔明治二〇年〕
○上略 軈て春暖の頃になると、諸藩士が追々京都に集つて来て、中にも有志慷慨家などゝ唱ふる人々は、頻りに攘夷鎖港を唱へる所から、終に摂海防禦といふ一問題が起つて来た、これは兵庫開港の論よりして若し外国と戦争をする時には、大阪の海防が必要であるといふ訳であつたのであります、其頃、薩摩の家来で折田要蔵(今は年秀といつて湊川の神主である)といふ人が、築城学に長ずるといふことで、終に幕府から百人扶持を給して、摂海防禦砲台築造御用掛といふことを命ぜられました、全体此の折田といふ人は、今日から見れば、左までの兵学者でもないが、其頃は大言を吐くことが上手で、其上弁舌に巧みである所から、完全な築城学者と見做されて、此の命も下つたのでありませう、是より以前に、大阪開市といふ事に付て、堂上にも種々の説があつて、島津三郎も上京して建議したとのことでありましたが、彼の摂海防禦の問題となつて、或る日の事、二条の城へ折田を召されて、一橋公を始めとして、幕府の板倉閣老、其他の諸有司に至るまで、打揃つて折田の意見を聴問せられた事があつた、其時に折田は独り摂海防禦の事ばかりでなく、天下到る処必要の港湾は悉く取調べて置たものと見えて、江戸湾はしかじか、大阪の海はかくかく、何処と何処とは船の数がどのくらい、何処から何処への距離は、丁度大砲の着発に適当であるなどゝいふことまで、懸河の弁を振つて説き立てゝ、而して摂海防禦の必要は、安治川口天保山、又これに対する島屋新田は勿論、木津川口にも数ヶ所の要所があつて、都合十五ヶ所ばかり台場を築かむければならぬといふことを建言したさうであるが、其中には随分出放題の大法螺もあつたでありませう、併し身元が当時有力の薩摩藩士であつて、時の急務を都合よく演説したから、幕府でも終に百人扶持を給して、御台場築造掛といふ名義で、大阪に居て砲台を築く指図をすることにな
 - 第1巻 p.293 -ページ画像 
つたのであります、
其時自分が考へた所では、何でも幕府の失政を機会にして、天下に事を起さんとするものは、長か薩かの二藩であると思つた、併し是等の事は直接に度々君公へ言上することも出来ないから、平岡円四郎へ忠告して、薩藩の挙動に注目せねばならぬ、之を知らむければ京都を警衛することは出来ませぬと申入れた所が、平岡も至極同感で、自分に内話するには、今度折田要蔵が砲台御用掛りで大阪へ行くことになつたが、何とか伝手を求めて、折田の弟子になつて薩摩人の内幕に這入る工夫はあるまいか、其れが出来たら面白からうといふから、それは至極面白い、私が一番遣つて見ませう、其れには斯ういふ懇意もあるから、私の心から出たやうにして、修学の為めに塾生にして呉れろと申込だら、必らず否とは申しますまい、一橋家から頼む時には、却て鄭重になつて、嫌疑の種子となるかも測られぬから、寧ろ内弟子になりたいといふことにしたら、事情を探るには極めて都合よからうと考へます、然らば頼む、宜い、畏りましたといふもので、今の川村正平氏(其頃は恵十郎といつた)の友人に小田井蔵太といふ人があつて、折田とは別懇であつたから其人から折田に頼むで築城修行の為めに内弟子になりたいと謂はせると、同時に一橋家からも亦彼れは当家の家来だから、掛念なく教授をして呉れ、と一言の声掛りをして貰つて、愈よ折田の塾生になつて大阪へ下つて其れが四月の初めで、自分が漸く奉公住をしてから二箇月ばかり立つた時のことである、固より此の折田とても規則立つた学問があるではなし、殊に台場築造抔といふは、実地の事業であるから、其稽古といふものも、順序のある稽古ではない、只僅に下絵図を作れとか、書類を謄写しろとかいふこと計りで、自分は図を引く稽古などは、此まで曾て仕たことがないから、墨色に濃淡が出来たり、線が屈曲したりして、思ふやうには引けなかつた、併し塾に這入つた以上は仕方がない、書類の写しものは稍や出来たけれども、絵図は反古ばかり拵へるから、毎度叱られて閉口しましたが、夫れでも漸くの事で、粗末の図が出来る様になつて来た、全体此の折田といふ人は、薩藩では左まで身分のよい人ではないけれども幕府からの御用といふので、俄かに其宿所に紫の幕を張つて、容体ぶるといふ様な風であつたが、其従者は総て純粋の鹿児島言葉であるから、他郷の人には頓と話しが分らぬ、処で自分は稍や鹿児島言葉も、又江戸の言葉も分かるから、他方へ使者の用事などは、いつでも折田から自分へ命じて、大阪町奉行所まで行けとか、又は勘定奉行に逢つて、何を打合せて来いとか、又は御目附へいつて、此の事を引合つて、来いとか、種々な応接をいひつけられて、謹直に働いて居たが、其れも余り長い間ではなかつた、僅か四月一ぱいで、五月の八日に京都へ帰つて来た、畢竟此の稽古といふも内実は間諜の為めに行つたので、稍や其要領を得たによつて、モウ此の位でよからうと平岡へ通ずると、然らば呼び戻さうといふことで、京都へ帰つて来た、玆に一ツの笑ひ話しがあります、此の時折田要蔵は、大阪土佐堀の松屋といふ家に下宿して居たが、其玄関には、紫の幕を張つて、而して看板には、摂海防禦御台場築造御用掛折田要蔵と、如何にも筆太に大きな字を書いて掲て居たから、
 - 第1巻 p.294 -ページ画像 
誰でも能く目がついた、同じ薩藩の連中で、常に此処へ遊びに来たのは、今の警視総監の三島通庸、前海軍卿の河村純義、日本鉄道会社々長の奈良原繁、それから中原直助だの、海江田信義、内田正風、高崎五六などの人々であつたが、其中でも最も多く遊びに来たのは河村と三島で、是両人は藩から附属の様な役で、松屋の隣りに矢張下宿を取つて居た、然るに此の折田は、頗る容体を飾つて立派な様子をする、所謂殿様然とする事を好む人であるのに、河村と三島は、全くこれと反対で、真率粗豪の気質だから、平日の交際も意気相投ずるといふ様には見えなかつた、其頃松屋におミきといふ娘があつたが、折田が其れを寵愛して居たのを、河村と三島とは、兼てから心悪く思つて居た様子であつたが、自分が一橋家から命令があつて、京都へ帰るといふ前晩に、河村と三島が来て、送別の為めに雑魚場の茶屋で酒を飲むから、一緒にゆけといふから、自分は其趣を折田に話して、許可を受けた上で、雑魚場の料理屋へいつた、そこで三人鼎坐して、飲むだり、歌つたり、何れも熟酔の上、夜の十一時頃、自分は松屋へ帰つて来た、其前に三島は席を立つて帰つたが、何故先へ帰つたかと思つた丈けで、別に仔細があらうとは思はなかつたが、松屋へ帰つて折田に、只今帰りましたといつて、其席をみると、席上は盃盤が微塵に打割つてあるし、殊に松屋の娘は、眉間に微傷を受けて、鉢巻をして寝て居り、折田は茫然として、割れた盃盤の間に座つて居るから、自分も興が覚めて、先生、是れは一体如何したのでありますかと尋ねて見ると、折田は満面に怒気を含むで、今三島が来て、此の通りの乱暴を働いて帰つた、(渋)イヤ其れは以の外の事だが、全体何の原因で、(折)聞けば足下が京都へ帰るに付て、送別の為に、酒宴を催したといふことだナ、(渋)其通りであります、夫故先刻先生に御話し申して出ました、(折)其離盃に熟酔して来て、三島めが此の通りの乱暴をしたのは、察するに其席上に於て、乃公の身の上に就て、讒謗罵詈を極めた上の事であらう、左すれば足下とても三島の同類と見做すといふから、自分は怒つた、実に怒つた、殊には酒に酔つても居たし、尚更憤激に堪えぬから、折田の顔を睨み詰めて、膝を立直した、(渋)今私を同類と仰しやるのは、先生の推量のみであるか、又は三島が其通りの事をいひましたか、実に奇怪千万のことを承ります、私は先生を師として教授を受て居る身分であります、仮令如何様な事があらうとも、陰で先生を誹謗するといふ様な、卑しい心は持ちませぬ、実に思ひも寄らぬ事だ、若し三島がそんなことをいつたなら、恐くは自分の挙動を人に藉りていつたので、実に卑怯千万な奴だ、其分には差置きませぬ、三島を此処へ連れて来て、刺し殺して仕舞ますといひ捨てゝ、直に三島を殺さうといふ心で、追ツ取刀で隣の家へ駈付て、聞てみると、三島は二階に寝て居るといふから、イキナリ二階へ飛び上つて、既に其寝間へ躍り込まうとする機みに、河村が自分を抱き止めて、先づ待て、何をするのだといふから、三島に意趣がある、連れていつて斬殺すのだと、河村と押合つて居る処へ、折田から、兎も角も一旦松屋へ帰つて呉れといつて来た、三島は酔つて寝たから、チツトモ此の騒ぎを知らない、河村は少しも手を放さぬ、折田の使は強て引戻さうとする、已むを得
 - 第1巻 p.295 -ページ画像 
ないから、其儘松屋へ帰つて来ると、折田は向キの立腹にも似ず、誠に失言をして済まない、足下が立腹するのは尤の事であるが、前にいつた言葉は、全く乃公が一旦の怒に乗じて発したので、決して三島がソンナ事をいつた訳ではない、只足下の送別会で、三島が酔て此の乱暴を働いたから、ツヒ疑惑心から出た失言であつた、併し足下に対しては、毫も疑念はない、乃公は平に今の失言を謝するから、納得して呉れ、(渋)さう先生が仰しやれば、別に強て彼是申す訳はありませぬ其れでは最早愈よ疑念は御坐りませぬナ、(折)イヤモウ決して疑念はない、サウ足下に立腹されて、三島と争論しられては、却て困るとあやまり入つた様子であつたから、そんならよろしう御坐りますといつて、其事が済みました、
折田に就て居るうちにも、折田から島津三郎へ建言したこと、又は西郷隆盛に意見書を出した事なども探り得たから、内々平岡まで通じたこともありました、元来一橋公は、品によつては折田を召抱へる思召で、其人物を能く調べて見ろといふことを、平岡まで御内命になつて居た趣だが、自分が五月の始めに京都へ帰つて、平岡に面談した時に熟ら折田の人となりを視察したが、左まで非凡の人才とは思はれぬ、西郷隆盛とは時々文通することもあるが、其言が充分に信ぜられやうとは思はれぬ、詰り折田は外面の形容程には実力のない人と断定することを憚らぬと、自分が、日常の挙動言語までにも気を附けて、親しく見聞した上から話しをした処が、平岡は頻りに点頭《うなづき》て、それで能く事情が分つたといつて、大きに下阪中の勤労を褒められました、
  ○雨夜譚ニハ入門セルヲ四月初トシ、帰京セルヲ五月八日トスレドモ、二月中旬入門シ、四月中ニ帰京セルコトハ後掲(川村恵十郎)御用留ニヨリ明カナリ。


市河晴子筆記(DK010019k-0002)
第1巻 p.295-296 ページ画像

市河晴子筆記              (市河晴子氏所蔵)
 私が折田の御話を伺つた時は、丁度御食事(御ひるをあがらないから十時半頃朝食)の時で祖父様は黄八丈の御どてらを召していらしつた、祖父様のアブラヤさんをかけたところが写真にのこしたい、御襟の後でそのひもをむすんで上げると、いつまでも「ふさふさ」と云つていゝ程に厚い御たぼのところの御髪と、どてらの衿の間にひもが見えなくなつてしまう、それほど御首がみじかくてころころ丸くふとつてゐらつしやる。
 そしてオートミールに牛乳をたつぷりかけて、もぐもぐとめし上る今は入れ歯をはづしていらつしやるので、御口もとだけやつと御年よりらしい。
 そして「間者に入つたつて云うと、何だかこすい様でいやだがね」(折田に築城法をならうと云つて入門された故)とおつしやる。「でもいゝじやございませんか城つくりとなつて入り込みしはなんて洒落て居りますね」と申し上げたら、御砂糖壷へのばしかけた御手を止めて「ウン?」ておつしやるから「そら二十四孝の勝頼が、そんな様なことを申すでございましよ、菊つくりとなつて……つて」というと
 御笑ひになつて「ウン、だがね、どうしてあんな八重垣姫どころか薩摩つぽの中へ飛び込んで行くのだもの、あんなきれいなのならいゝ
 - 第1巻 p.296 -ページ画像 
が、皆一つ間違つたら、切つてしまへつて様な連中のよりあいだからね。後々皆が昵懇になつてから、中原直助つて云うのがゐるだろ、今の話の中にその人が『イヤ実はあの頃どうも渋沢はまはしもんじやあるまいか、切つてしまはうかつて話が出て、切るなら私が切る役にきまつたのだが、まあそれ程にすることもあるまいつて云つたのだよ』と話されたが、そんな荒つぽい中にも薩摩の人たちは、どつかそつ直で親しめるたのもしい所があつたよ、大久保さんは別だがね、大西郷が第一そうだし、三島、河村……その中原も面白い男だつたがね、西郷さんのなんで死にましたよ」
 まーこう云つたお話ぶりだつた、そしてその口惜しところになると「ほんとに殺つちまえと思つてね」とおつしやるやうな時には、きつと二三度激しくまたゝきをなさる、決して御まぶちの線に厳つい角を生じることはない、只御眼光が若々しくかゞやく
 よく老成な人が、わが昔を談る時にする若げでこんな馬鹿もしました、も一度私が又あの年に生れたら、あゝはせまいにと云ふ様な、自から嘲つた様な、あの表情はなさらない、おかしくつて堪らない中にも又あの年にたちもどり、あの場合に出合へば、やるともやるのが当然さと云う若い御意気込みだ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七一頁〔昭和五―六年〕(DK010019k-0003)
第1巻 p.296 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七一頁〔昭和五―六年〕
平岡の人となり 御話。「平岡は磊落豪放な人で、単に俗務の出来るといふ計りではなく、大人物の趣があつた。私を薩摩へ使にやる時なぞ『ひよつとすると、やられるかも知れないよ。』などと戯言に云はれる。私は『やられてもいゝぢやありませんかお国の為にならうと思つて働いてゐるのにやられた所がそれは本望といふものです。』と云ふと『それそれ、その気象が好きなんだ』と云つてね。予々殺される位の事は覚悟してゐられたやうであつた。『人間一遍死ねば二度とは死なん』などと云つてね。」


御口授青淵生生諸伝記正誤控 第一四頁〔昭和五―六年〕(DK010019k-0004)
第1巻 p.296 ページ画像

御口授青淵生生諸伝記正誤控 第一四頁〔昭和五―六年〕
折田の扶持「百人」扶持を「六十人」に御訂正。
   ○白石喜太郎氏著「渋沢栄一翁」第二二頁ハ六十人扶持ヲ採ル。


竜門雑誌 第四四四号・第六―七頁〔大正一四年九月〕 【諸々の回顧】(DK010019k-0005)
第1巻 p.296 ページ画像

竜門雑誌 第四四四号・第六―七頁〔大正一四年九月〕
○上略 幕府の待遇も布衣以上で、立派な人物との評判で、その時分としては好評嘖々と云ふ有様であつたから、平岡は若し人物であるならば手なづけたいとの希望もあり、旁々親しく探索する為め、私は其処へ内弟子になつて這入り込むことになつた。 ○中略 その間私の見た折田と云ふ人物は、それ程望みのある人ではなかつたから、その意味や、また隠密のやうな仕事ではあるが、島津侯の意見とか、西郷、大久保と云ふ人達の勢力などを知つて、これを平岡氏の処へ通告したりなどしたのである。 ○下略
   ○右ハ「諸々の回顧」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。雨夜譚ト幾分異ナル所アリ。
 - 第1巻 p.297 -ページ画像 

渋沢栄一伝稿本 第四章・第九七―九九頁〔大正八―一二年〕(DK010019k-0006)
第1巻 p.297 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第九七―九九頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生既に一橋家に仕へて御用談所に出役し、平岡円四郎・黒川嘉兵衛等の命を承けて、庶務に鞅掌せること月余に及びし時、元治元年三月二十日、慶喜公は後見職を罷め、禁裏御守衛総督に任じて摂海防禦指揮を帯せられたり。公が禁裏御守衛総督となれるは、幕府尊王の大義を実行するにありといへども、其真因は寧ろ確実に幕府の勢力を上国に代表すべき基礎を堅むるにありき。蓋し家茂将軍年歯既に長じたれば、公の後見職は早晩廃止せらるべく、公は更に責任ある地位に就くを要すればなり。又摂海防禦の職は、其初め外患によりて京都の警衛を厳にせんが為に、其関門なる摂海の防備を講ぜんとせし折しも長藩が下ノ関に於て外船を砲撃して外交問題を惹起し、今年に及び英米仏蘭四国の聯合艦隊同藩を襲撃せんとする風聞さへありて、摂海の防禦愈急を告ぐ。当時長藩と並馳せる薩藩の島津久光は、早くも藩士折田要蔵に命じて防備の設計をなさしめ、自ら其任に当らんと企てたれば、之を伝聞せる幕府方の人々は、これ薩藩が天下を覬覦する階梯なりと危虞し、朝廷に入説して公の就職を謀り、公も亦大任を外藩に委ぬるを欲せず、遂に自ら進みて命を拝せられしなり。
公の此任に就かるゝや、一日折田要蔵を二条城に召して、老中以下の諸有司と共に摂海防禦に関する意見を聴取れり。此時要蔵は詳に其方策を陳べ、全国の沿岸防禦までも辞巧に演述したれば、公等深く感動し遂に御台場築造掛を嘱託し、特に百人扶持を賜ふ、此に於て要蔵は大阪に下り、先づ安治川口なる天保山に砲塁を築造せんとす。此時先生は諸藩士と交りて、ほゞ天下の形勢に通じ、将来国家の大事を生ぜん者は薩長二藩なりと感じ居たるが、長藩は去年八月の政変に敗れて本国に伏したれども、薩藩は公武合体を標榜して朝幕の間に周旋し、且つ島津久光は慶喜公と親密の関係なりしかば、先生は深く同藩の態度に注意し、屡平岡円四郎にも其意を述べたることありき。折田要蔵の台場築造の事を命ぜらるゝや、円四郎は密に先生を招き、要蔵に入門して台場築造の術を学び、旁ら要蔵の人物薩藩の内情をも探るべしと内命せり。此に於て先生は四月初旬、築城学修業を名として大阪に下り要蔵の塾生となり、要蔵の旅宿なる土佐堀の松屋に寄寓して意を偵察に注ぎしが、同藩士河村純義・海江田信義・三島通庸・髙崎五六・奈良原繁・内田政風等、屡折田を来訪せるによりて、薩藩の藩情を知るの便宜を得たれば、五月の初め其塾を辞して京都に帰り、之を円四郎に復命せり。


(川村恵十郎) 御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕(DK010019k-0007)
第1巻 p.297-302 ページ画像

(川村恵十郎) 御用留 〔文久三年十二月十九日ヨリ元治元年四月廿四日マデ〕
                     (川村久輔氏所蔵)
十五日 ○元治元年二月 晴
○中略
一平岡行今日薩人を呼、明日三藩会合之積談判
一栄一郎を薩州折田江今日八半時頃来候様申遣ス
○中略
十九日
○元治元年二月 晴
 - 第1巻 p.298 -ページ画像 
一薩州行折田髙崎面会万々相話し、且入門之儀相頼候事
○中略
廿四日 ○元治元年二月
一早朝新渡戸江罷越候心得之処、黒田山城信濃来ニ付渋沢両人ニ後刻罷出候旨断申遣し候事
○中略
廿五日 ○元治元年二月
一薩州折田江渋沢栄一郎同道為致入門候事、尤直様供同様ニ摂海見分ニも行候積
○中略
廿六日 ○元治元年二月 雨
一渋沢栄一郎儀、今日折田要蔵摂海見分として罷越候ニ付、要蔵供為致遣し候事
一右ニ付入用金拾両為持遣し候事
一平岡ニ而万々申聞暇乞云々事
○中略
廿七日 ○元治元年二月 晴
○中略
一渋沢領主江懸合之儀示談
○中略
一渋沢之儀ニ付安部江懸合之草按
  以剪紙致啓上候、然は其許様御領分武州榛沢郡血洗島村百姓文左衛門忰喜作、市郎右衛門忰栄一郎儀、昨年中薄々及御懸合候処、此度右両人共御用談所調役下役江抱入候様
  中納言殿被存候間此段及御断候、尤両人共親共も有之趣ニ付、時宜ニ寄御領内江差支生候儀も可有之候間、是又御含置可被下候
  右之段宜可得御意旨
  中納言殿被申付如此御座候、以上

                       酒井伯耆守
    安部摂津守殿             戸田能登守


○中略
二日 ○元治元年三月 晴
○中略
一 敬三養子ニ遣ス 敬三召連渋沢同道小田井行今日遣し候事平岡黒川江も相談
○中略
六日 ○元治元年三月 晴
○中略
一黒川松浦榎本猪飼川村渋沢供七人都合十三人ニ而嵐山桜花見ニ行、申後より罷出候ニ付、着夕刻、食物更ニ無之、天竜寺より清涼寺行、夫より鳴滝より広沢江出、小室より岡山江出、北野江来、同所ニ而壱杯、亥後帰来臥
九日 ○元治元年三月 快晴
 - 第1巻 p.299 -ページ画像 
一平岡平野猪飼川村四人ニ而渋沢召連、舞楽拝見行
○中略
十五日 ○元治元年三月
○中略
一帰来平黒松榎川渋集会、長云々之事等義論
十八日 ○元治元年三月 陰雨
○中略
一夜五ツ時頃帰来
一渋沢栄一郎一寸帰来、摂海台場絵図並書類持参
一平岡ニ而色々談判有之候よし、不行
十九日 ○元治元年三月 雨
一栄一郎召連、午時迄平岡ニ而談判、夫より小屋ニ而栄一と相話ス
○中略
一渋沢栄一郎暇乞、小遣金拾両之事、是ハ平岡より出ス、依之明日出立尚又大阪行之積
一渋沢両人親類□《(原本欠字)》昨日京着之由尋来
○中略
廿日 ○元治元年三月 雨
一渋沢栄一郎大坂出立
○中略
一渋沢家来今日より差置候積、尤亨造勝三郎等江談判之上云々之積
○中略
廿二日 ○元治元年三月 快晴
○中略
一喜作を丸山会江出ス、諸藩二十人程も出候よし
○中略
廿三日 ○元治元年三月 快晴
○中略
一喜作を浅井新九郎江断ニ遣ス
○中略
廿四日 ○元治元年三月 雨
○中略
一朝中根勒負来前同断実以疲弊ニ不堪由、摂海台場云々之儀は何分ニも致し方無之、海軍総督も是又同様、何卒無実御暇国元台場築造等致し度趣、懇切ニ話し有之、且又守護職献進云々示談之処、七時頃帳面壱冊達越之
  但喜作ニ為写
○中略
廿六日 ○元治元年三月 晴
○中略
一平岡行、礼申之且松浦榎本新村并川村田中渋沢等行、壱杯大盛会各快愉之事、後無断罷帰臥
 - 第1巻 p.300 -ページ画像 
○中略
廿八日 ○元治元年三月 晴陰
○中略
一午後坊城家江贈物、野宮飛鳥井同断云々談判、御吏者相務渋沢栄一郎同道為引合置候事《(使カ)》
○中略
廿九日 ○元治元年三月 晴
○中略
一栄一郎大坂より帰来、尤折田同行之由
廿九日《(三十日カ)》 ○元治元年三月 晴
○中略
一喜作を東辻下野守方江遣ス、帰路深谷半左衛門方此間之途中間違一条ニ付遣ス
○中略
一栄一郎尚又明日下坂之積
○中略
四月朔日 ○元治元年
一渋沢栄一郎今暁尚又可致下坂候事
○中略
一喜作秦行
○中略
三日 ○元治元年四月 晴
○中略
一今日より喜作を二条殿御用伺に差出始ム
一水嶋幸蔵今日より御用談所調役被仰付、拙者江引渡相成候事
○中略
五日 ○元治元年四月 陰雨
○中略
一夜水島引越ニ付振舞有之
 平岡 黒川 松浦 猪飼 榎本 内川 山岸 新村 荒井 田中 木村 水島 渋沢 川村なり盛会有之
○中略
八日 ○元治元年四月
○中略
一黒川渋沢両人、四王天竹田等城の御茶や行、悉く拝見、御庭絶景御殿奥探幽次尚信いつれも金地黒画《(墨)》、行幸間座敷遠州之好、金物後藤裕乗并花鳥之作絶品多し、御庭御茶や七ツ有之
○中略
九日 ○元治元年四月 快晴
○中略
一八ツ時より栄一郎召連徳大寺行、明後十一日参上之儀申述候処、明 《(日脱カ)》姓名を被廻候様被申
 - 第1巻 p.301 -ページ画像 
一二条殿行、藤木甲斐守面会、別ニ御用向無之旨
一野宮行、木下申
 ○今日、来十八日桂宮江公方様御招請之儀被仰出、中納言様ニも御随従之旨被仰出候由
 ○桂殿御礼参上之儀
 ○一橋殿桂行之節之先番家老用人之名前記し候様
一飛鳥井行、本多左京面会
 ○備前塩悪島書面返却之儀云々
一坊城行浅野主膳面会明日来候由
一尹宮行、用部屋ニ而酒近藤大学ニ面会
一山階宮行、用人中面会、是より栄一郎を返ス
○中略
十日 ○元治元年四月
○中略
一田中渋栄見分ニ出ス
○中略
十一日 ○元治元年四月
○中略
 ○昨日より所々要害見分ニ出ス
 ○十日田中源蔵、渋沢栄一郎鞍馬口より千束辺迄見ニ出ス
 ○今日栄一ハ八瀬村大原口より粟田迄廻ル
 ○黒川川村跡上《(蹴カ)》より渋谷江廻ル
 ○源蔵大井川辺江出ス
一徳大寺殿行、黒川川村水島渋沢弐人拝謁、御酒御菓子被下之、平岡多用ニ付不参
○中略
十二日 ○元治元年四月 快晴
○中略
一黒川自分栄一三人ニ而粟田口南禅寺永観堂若王寺《(子)》より鹿ヶ谷江出、如意ヶ岳越山中迄登り、中腹ニ而小休、夫ニて相尋候処、未湖水之見え候迄ハ半道余も可参趣ニ付、無拠罷下り浄土寺より法然寺慈照寺より銀閣寺江出、夫より白川村出、番所通行、先此処ハ是迄ニ致し将軍地蔵山此山吉田山共一箇之岩地なり、一乗寺村より修学寺《(修学院)》寺《(衍)》村御茶屋之前通行、赤山口より左ニ横山と云あり、松ヶ崎と相対す崖江出下加茂御領明神《(加茂御霊明神)》行幸を拝す、頼又次郎ニ逢、上加茂行大宮通より帰ル、夜ニ入
○中略
十二日《(十三日)》 ○元治元年四月 朝陰晴
○中略
一黒川栄一自分三人ニ而大仏より辷石越江出、西ノ山より勧修寺大石良雄幽栖あり、所持之品十種あり、勧修寺ニて昼食
一小野より醍後石田より六地蔵木幡より黄檗山行、三宝行、夫より宇治平等院扇芝辺ニ而小休、槙の島上の島下の島向島より豊後橋を渡伏見□《(不明)》橋手前ハリや庄九郎方泊
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十七日 ○元治元年四月
○中略
一川越行、山田ニ而聊相話し、同人四王天等同道、東本願寺行
 東照宮拝礼、祈無異成功後御斎被出之、夫より渉成園行見物、黒川川村水島内川渋沢弐人なり
○中略
十八日 ○元治元年四月 雨
○中略
一渋沢両人御徒士被仰付之
廿日
○中略
七日出役 黒川嘉兵衛川村恵十郎渋沢栄一郎七日出役御用被仰付、尤御書付御渡有之
  ○右ノ日記ニハ折田ノ門ヨリ出デテ門弟タルコトヲ止メタル日時ハ明カナラザレドモ、恐ラク四月上旬ニハ止メタルモノナラン。