デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.302-307(DK010020k) ページ画像

元治元年甲子二・三月(1864年)

西郷隆盛ヲ其旅宿相国寺ニ訪ヒ、豚鍋ノ饗応ヲ受ケテ談論ス。


■資料

竜門雑誌 第四六一号・第八九―九〇頁〔昭和二年二月〕 西郷南洲 明治政府の中堅(DK010020k-0001)
第1巻 p.302-303 ページ画像

竜門雑誌 第四六一号・第八九―九〇頁〔昭和二年二月〕
     西郷南洲
      明治政府の中堅
 私が、京都で始めて西郷隆盛に会ふたのは、元治元年二三月の頃であつた。長州征伐の片がついて、征長総督徳川慶勝から、毛利敬親父子伏罪、防長鎮定の旨を奏上した。何でも、その前後である。
 西郷は、当時、相国寺に宿をとつてゐた、下宿ともつかず、自炊ともつかず、寺の厄介になつてゐた。西郷の名声は、当時早く諸藩の間に隆々たるもので、同藩大久保利通、土佐藩中岡慎太郎、筑前藩早川勇等と共に、長藩再征の不可を主張して居つた。その為、西郷の一挙手一投足は、天下の成敗に関係してゐたといつても差支へない。
 私は、一ツ橋徳川慶喜公の家臣として、西郷を相国寺にたづねた。
 私は、一ツ橋の周旋方であつた為、実をいへば西郷の存意を内偵しようといふのが、訪問の目的であつた。
 折柄、飯時であつた。
『何にもないが、一緒にやらぬか』
 さういふやうなことで、豚鍋をつゝいて、食事を共にした、といふよりも、陪食に与つたといふ方が適切かもしれない。
 その時、西郷は云つた。
『此くの如くに、天下が乱れては、上皇室に対し奉りまことに恐多いことである、よつて此際、一ツ橋家を中心として、雄藩会盟の上、そこで、国策をたてるより外に、今日のところ、収拾の方は厶るまい、一体、足下の御主人だが、一ツ橋公は腰が弱くていかん』
 - 第1巻 p.303 -ページ画像 
 それから私はいつた。
『それなら、西郷さん、あなたが、その中心人物となつては何うでありますか』
『いやそれはいかん、天下の事といふものは、さう簡単にゆくものでない、なかなか難かしいものだ』
 そんな訳でその日は別れた。帰つて慶喜公に報告した。
『いかにも、西郷の申すことは、尤もだ』
 公も、うなづかれてゐた。
 その後、一二度、同じやうな目的で、西郷をたづねた。だが、その中に私は民部公子について、巴里の博覧会へ差遣されてしまつた。
○下略
  ○「青淵先生説話集」ノ一節ナリ。
  ○西郷ヲ訪ヒタル年月ハコノ談話ニ依ル。


市河晴子筆記(DK010020k-0002)
第1巻 p.303-306 ページ画像

市河晴子筆記                  (市河晴子氏所蔵)
   南洲との交渉
 肌寒い比叡おろしは、閑寂な相国寺の庭を吹ぬけて、箒目美しい白沙の上に枯松葉を散す、こゝは寺中の一つの坊、西郷隆盛の旅宿にあてられてゐるので、女気は無いが、まめまめしい老僕の手で小ざつぱりと片づいてゐる、襖のむこうでは、さつきから主人公の腹の底から押し出すやうなの太い声と、若人の精悍な話し声とが絶えない、早手もとも薄暗い、台所では質朴な老僕が竈の下を焚きつけてゐる。
若党が手桶を下げてくる。
 「じいやさん水を汲んで来た」
 「これはかたじけない、それではこの芹を洗つてもらはうか」
 「これを皆洗うかね」
 「そうだ、又渋沢さんが来てゐなさるから、御飯が出るだろうと思つて」
 「あの御人には、この間も豚鍋の御馳走をしたのぢやないか、そんなに琉球豚が御気に入つたのかえ」
 「何そうでもないが、いつでも渋沢さんは、もう御暇する、もう御暇すると云つてゐなさる様子だから、油断してゐると、こつちの旦那が引きとめて、まあ食つて行けと云つて、すぐに飯にしろ、腹がへつては話に身が入らないと急きなさるから、塩出しのしてある豚と、芹をそのまゝ出して、煮ながら食べてもらう方が早くていゝ、だが話にばかり気をとられて、ろくろく煮えて居ないのでも何でも食べなさるから、傍でハラハラするよ、どれそろそろ申し上げやうかの」
と、老僕は敷居際にうづくまつて襖を開けて、手をつかへる。
 「旦那様、御膳の用意が調ひました」
 「まだ可か、まちなはれ」
と、ゆつくり見返つた主人公の西郷隆盛は、角力の様な偉大な体格、ギロリとした目、太いまみえ、広い額は豪気と決断と、熱烈な意気とを現はして、一見人を畏怖させる様でありながら、火鉢にかざしてゐ
 - 第1巻 p.304 -ページ画像 
る掌の中指も人指し指も薬指も、ろくろく長さの違はなくて、まるで野球のグローブの様な不細工なあんばいや、部厚で丸つこい膝の、赤ん坊をそのまゝ拡大したやうな趣等、その滑稽味が自から対する人の心をくつろがせ、又、主人公の素直なつくろはない性質を現はして慕はしい情愛を湧かせる、今、老僕を振り返つた時にも、短い首が巾広の肩につかえて、衿元にくびれが出来て窮屈そうだつたが、その面を再び正面の客の方へとゆるゆるともどして
 「じたいおはんは……」
と、話をつゞけた。
 客なる人は渋沢篤太夫、まだ二十七《(六?)》の張切つた精気が小柄な体に満ち満ちて、プリプリと弾力のある白い皮膚には、艶々と膏が乗つてゐて、話に身が入つて袴の上にしつかりと突張つた手の甲には、指のつけ根ごとに笑窪の様なくぼみが生じてゐる、いかにも色白で、きめの細い生き生きとした丸顔は、濃い髪の毛に映りはえ、これは又主人と反対に、まだ先に親しみを感じさせられ、その小いが光る眼、きつと結ばれた口元の一々を見て、どうして中々一癖も二癖もある若者と知らされ、一度その唇のほころびるや、火の様な論説が矢つぎ早に飛び出して相手は全く屈服させられてしまう。
 この順序は全く逆で、しかも同じく心ある人を心服愛慕せしめる器である、両者の対立は自然話の弾まざるを得ない。
 「じたいおはんは、この頃の政治の改革振りな、何と見とられるか」
 「この頃しきりに改革される様には見えましても、皆枝葉の点のみで、よしんばその一々が正鵠を失してゐないにしましても、老中政治と云ふ腐つた大根の上に茂る枝葉の二三が改つたとて、何になりましよう、禍根はも一つ深い根本の老中政治と云ふ政体にござりますから、それから堀り起してかゝりませんことには」
 「や、御同意でごわす、全然御同意でごわす、御はんな幕臣にしては目のつけどころの高い珍らしい意見を持つてゐなはるが、じたいどぎやんな経歴の御人でごわす、失礼ながら江戸の御人ではなかと見受けるが」
渋沢は頬にかすかな苦笑を浮べて
 「いや言葉は国の手形と云ひます、いかにも江戸から遠くはございませんが、外様小名の領内で名主をつとめる程の百姓の伜でございます、十四五の時から漠然国事を憂えて、十七八の頃には自から討幕の志士を以て任じ、よりより徒党を集めて親をも身をもかへりみず、ひたすら事をあげる日を待つて居りましたが、一味のうちで考もやゝ老成で京都の形勢をうかゞひに上京中の者が、ひろい世間の大勢を見てとつて、急遽馳かへつて今はまだとうていその時でない、今、事を発すればやみやみ犬死はおろかなこと只の暴挙乱離の人として汚名を屍の上にうけるのみ、それではあまり口惜しいでないかと切に止めました為、その挙は思ひ止りましたものゝ、国元には居りかねて同志の一人と共に家を出て、出京いたしました、左様な次第故、幕吏には目をつけられ、しだいに危険は加はつて遂には捕吏の手が身辺へせまつてまゐりました、その時に一橋公御家臣平
 - 第1巻 p.305 -ページ画像 
岡円四郎氏がいかなる見どころありと思はれましたか、われら両人を招がれ、今はたゞ一橋公御家臣となる外入牢をまぬがれる方法はない、有為の身を以て牢死しては一たんの義は立つとも、御国の為にもなるまいと懇切なる御訓誡をたまはりましたので、心外の至りながら、他に道もなく、又、私どもも国もとに居りました節よりはちと眼界も広くなつて居りました故、一橋公ならばとお受けいたして、□□年より臣下の列に加はりましたものでございます」
 「なる程、それでわかり申したが、そぎやん訳ではまだ直々に君公へゆつくり御話し申し上げるちゆう訳には行かんでごあしようなあいや実はおいどんもかねがねこの老中政治では土台なり申さぬと思つとつたでごあす、こりや何でもまるで新しくこの京都に政治の中心なうつし申して、薩藩はじめ有力な四つ五つの藩公、または重立つ人な集めて……いやまだ藩も人もはつきり選んで見たほどの出来上つた案ではなか、ほんの腹案でごあすが、只その中心人物は一橋公に出て頂かな締りがつき申さない、もしよかあんばいに一橋公を動かしえて、首脳部が締まれば、こいに議定官とでも名をつけて、その下には議定官には成れぬ程な身柄の者、さしあたりおいどんたちの意見なのべうる機関も無か成り申さぬ、まづそぎやんなことにでもせな、さしあたりこの外交方面の行づまりを切りひらくこと一つ出来なかと思つとるでごあす、そいでこりや中々幕臣どもにわかるはなしでごあせんが、幸、御はん如き卓見の御人な見出し申したで、もし御はんの口からでもこの事を一橋公御耳に入れ、そいに対する御意向な伺ひえたらと思つたでごあすが、今の御話ではそいはちとむつかしうごあしような」
 「さー、残念ながら私はまだその様な御話を申し上げうる身柄ではございません、よしんば押切つて申し上げて見たにしても、至つて口数のすくない君公のことゆへ、御意見を御もらしになることは全然ありえないと存じますが」
 「御もつともでごあす、一橋公の御寡言なおいどんも閉口し申す、どうも御胸中を忖度し得ないでなー、そいでこや御身近い人に伺うてもらう外無かと思つたでごあすが……」
 「さあ、誰か重臣の中に話のわかります人物が居りますとよろしいのでございますが、黒川等の面々は皆単なる俗吏に過ぎませんで……、せめて平岡氏でも生きて居られましたら」
いまさらながら所謂重臣たちの中に人のない憤慨と、身柄等の下らぬ束縛故に、かゝる重大事をも自由に言上の出来ぬしかも申し上げさへすれば十分理解される君公であるが故に、一層の焦慮とに渋沢の白い面には、薄蒔色《(時)》に血が上つて、手はおのづからにぎりしめられた。
 その若々しい意気を愛するやうに、又、慰めるやうに西郷は
 「いやたとへ一橋公がおはんの言葉を成程と聞かれたとし申しても今のこの幕府の有様ではなんとも成り申さぬわ」
と、偉大な掌を火鉢から引いて、がつしりと腕組みをした爛々たる西郷の大いなる目は上からおつかぶさる様に渋沢を見下す、小さくして炯々たる渋沢の瞳は奥深い西郷の太つぱらの底をも見抜かずには置か
 - 第1巻 p.306 -ページ画像 
じとかゞやく、「こいつ大物になりをるわい」とたのもしく西郷は思つた。「此の、時には粗豪にさへ見える力の人が、かくもわが君公の真価を知り、あたゝかい情をよせてくれてゐるのか」と、渋沢も心うれしく思つた。
 彼れも無言、これも無言、しかし「今の時勢はこりや老中政治だけ位掘り取つても、禍の根は抜けない、ふるき陋習の雑草が八方へ網の目の如く食ひ入り、搦みついて堅り切つた地面には、地雷火をしかけて底の底から鋤き返して、その上に新しい政体の種をまくより外はない、その為に多くの罪なき民草を傷けなければならない様なことが生じはしまいが、由緒ある大樹もたほさねばならない、しのびがたいことではあるが……、」その感慨は等しく両者の胸に登つて、二人の面は共に曇つた沈黙ははてしなくつゞく。
 火鉢の火はいつか白く灰をかぶつて、京都の底冷えはたゝみの下からにじみ浮んで来る。
 突然耳もと近く相国寺の鐘が鳴り出した、夕闇を震す暮れの鐘。
 主人も客もそれを数えはしない、只陰々たるその響をかたむき倒れんとする徳川幕府に対して、時の奏するヒユーネラルマーチとして茫然として耳をかたむけた。
 「やれ又いつもの長話だ、いつ御膳にさつしやるやら、めしも何も冷えてしもうだに」
と、つぶやきつぶやき煮えつまる豚鍋に、三度目の湯をさした。



〔参考〕竜門雑誌 第四四一号・第六三―六四頁〔大正一四年六月〕 大西郷と青淵先生(DK010020k-0003)
第1巻 p.306-307 ページ画像

竜門雑誌 第四四一号・第六三―六四頁〔大正一四年六月〕
   大西郷と青淵先生
  大西郷と青淵先生の関係に付ては、「大西郷と豚鍋をつゝく」と云ふ題の記事を、前々号本欄に転載したが、多少疑問の節がある為め、青淵先生に確めたところ、果して大部分が間違ひであつた、依て訂正旁更めて茲に書くことにした。
 大西郷と青淵先生との交渉は、先生が京都に出で未だ一橋家に仕へない頃からの事である。当時の青年の間では有名な人達を訪問して時事を論じ、意見を聞くことが流行であつて、先生も亦盛に此名士訪問をし、種々の人々と談論したのである。先生が大西郷と初めて会つたのも、此意味からであつた。初めての訪問の時は或は攘夷を語り、藩政改革を論じ、或は又幕政整理を談じたのであるが、大西郷は「中々面白い男ぢや、喰詰めての放浪でなく恒産あつて然も志を立てたのは感心ぢや、時々遊びに来るがよい。」などと云はれたとのことである。
此様な訳で先生は其後二三度訪問せられたが、大西郷は実に洒々落々で、一介の書生相手に豚鍋などをつゝいて談論したとのことである。
先生が一橋家に仕へてからも、此関係から大西郷を時々訪問し種々の談話をせられたことがあるが、大西郷は「老中政治ではいかぬ諸藩の俊秀を五・七名選んで、政府を造るやうにせねばならぬ。勿論一橋も之に這入り、其座長となるがよい。兎に角国政は根本から改革せねばならぬ。」と云ふ意見を持つて居たと云ふことである。此意見は先生か
 - 第1巻 p.307 -ページ画像 
ら一橋家の平岡円四郎に話したことがあるので、後に先生が薩藩の折田要蔵の内弟子となつたのも、亦此平岡の内命であつたのである。
   ○コノ談話ニヨレバ栄一ノ大西郷ヲ訪ヘルハ、コノ時ガ最初ニ非ズ、前後数次ニ及ブ。