デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.307-324(DK010021k) ページ画像

元治元年甲子五月(1864年)

渋沢喜作ト共ニ人撰御用ノ為関東ニ下リ、武州・総州及ビ野州ノ一橋領ヲ巡回スルコト百余日、壮士約五十人ヲ募リ、九月之ヲ率ヰテ京都ニ帰ル。

此行江戸ニ於テ尾高長七郎ノ救解ヲ講ジテ成ラズ、又郷里ニ帰省セントシテ果サズ、密ニ父及ビ妻子ニ会セシノミ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第三一―三六丁〔明治二〇年〕(DK010021k-0001)
第1巻 p.307-309 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第三一―三六丁〔明治二〇年〕
○上略 其以前に、自分等から平岡に申述べた事がある、其れは既に我々を御召抱へになる以上は、広く天下の志士を抱へられるが好からう、就ては関東の友人中にも、相当な人物があるから、其人選の為めに自分等を関東へ差遣はされたいと請求して置たことである、平岡も十分に其言を信用して、余り高禄高官を望まずに一橋家に仕へる量見のものがあらうかといふことを、時々尋ねられたから、其れは必らずあらうと答へて置た、其れといふのも、自分等が一橋家に奉公する以上は成るべく同志のものを多人数召抱へられたいとの望みもあり、又一旦関東へ帰つて、尾高長七郎を救ひ出す工夫を運らしたく思ふ矢先でもあり、かたがた此の平岡の推問は、所謂追風に帆といふ様な機会だと思ふたから、若し有志輩を御召抱へになる御詮議であるなら、其人選御用は、是非共私共に仰せ付られたいといふことを頼んで置た事であつたが、大阪出張の留守中に、此の有志召抱への議も行届いたものと見えて、ある日の事、平岡が両人への内話には、愈ヨ以て足下等を関東の人選御用として遣りたいと思ふが、屹度見込があると思ふなら、使命を果して来い、併し凡そ如何いふ風にして連れて来る積りであるかとの尋たから、両人は屹度たしかにとも申されませぬが、先ッ撃剣家或は漢学書生などの中で、共に事を談ずるに足るといふ、所謂慷慨の志気に富みて、苟も貪る心のないもの、又は義の在る所は死を視ること鴻毛の如しといふ、敢為の気魄あるものを、合せて三十人や四十人位は連れて来る考へでありますと返答した、平岡は欣然として、其れは誠によからう、随分使ひ道があるから、早々召連れて来るがよいといわれたから、両人は委細畏りましたと請けをして、人選御用をいひ付られた、丁度それは五月の末か、六月の初めであつたと覚えて居ます。
そこで両人は、公然と人選御用を蒙つて、関東へ下つて来た、其目的は先ツ第一は従前友達にした人などを勧誘して、是非同行しやうといふ考へと、第二には、長七郎等の幽囚を救ふ便宜を求めやうといふ私情も伴つて居たから、心配の中にも余程張合があつた、偖て両人は江
 - 第1巻 p.308 -ページ画像 
戸へ着して一橋の館へ出頭し、御用の次第を其筋の役々へ申述べた上小石川の御代官屋敷へいつて、御領地村々の巡回手続きなどを打合せて、夫れ等の用向も果てたから、そこで尾高救出しの一条にかゝつて種々其筋へも頼み込むで見たけれども、尾高の捕縛せられた原因といふは、江戸へ出る途中、戸田の原に於て、誤て行人を傷けた所から、遂に板橋宿で多勢の人に取巻かれて、捕縛されたとの事で、如何にも現行犯の罪人だから、一寸の事ではなかなか行はれぬ、曩に京都にて一橋の御用人黒川嘉兵衛に内情を話して、江戸に在て其頃幕府の御勘定組頭を勤めし小田又蔵といふ人へ添書を貰つて、面会の上で、種々相談もしたけれども、容易に救ひ出す方便にありつくことが出来なかつたから、追て時節を待つことゝして、是から専ら人選御用の方に取掛つて、夫々奔走をしたが、頼みに思つて来た千葉の塾生などは、多く水戸の騒動にいつたといふことで、考へが外れて仕舞つた、此の水戸の騒動といふのは、水戸の家中が二ツに分かれて、書生連とか天狗組とかいふ党争の破裂したので、勿論是までにも度々兄弟牆に鬩ぐといふ有様であつたが、此の度水戸家の支族松平大炊頭が、水戸侯の命を奉じて、説諭に下つた所が、遂にかの書生連に擁されて、那珂の港に於て切腹する、又天狗組は筑波山に立籠つて、幕府の討手と戦争するなど、中々の騒動であつたから、江戸の友人も大抵四方へ離散して其所在も分らず、又昨年暴挙を企てたときに加担した人々も、奮て出掛やうといふものは少ないから、先づ一橋の領地内を一ト廻りしてみると、仮令小禄でもよいから、一橋家ならば奉公したいといふものが三四十人程出来た、其外に江戸に於て撃剣家が八九人、漢学生が二人あつて、都合十人ばかりの人が出来たから、其人々を同道して、中山道から京都へゆかうといふ相談に極めた、所で自分の旧領主の陣屋が岡部にあるから、中山道をゆくときには、此の岡部を通らねばならぬ、又故郷へも立寄つて、久々で父母にも面会したいといふ考へもあつたから、尾高惇忠の方へ使を遣つて、江戸へ出て来て貰ひたいといはせた処が、岡部の領主が尾高を捕へて、牢内に繋ぐといふ始末で、其面会も出来ず、殊に岡部の陣屋の役人共は、自分等両人の者を大謀反人の如く思つて、悪い奴だと睨むで居るとの事であつたから、故郷へ立寄ることは先づ見合せにして、妻沼といふ処で父に密会して、九月の初に、右の五十人ばかりの人数を連れて、中山道を京都へと志し、深谷宿に一泊した時に、宿根といふ処で、歌子がまだ二歳で、母に抱かれて来て、一見したのを能く覚えて居る、其時に岡部の陣屋では、渋沢両人は元ト岡部領の百姓であるから差留るといふことで、其手配りをした趣であつたが、此方は一橋の家来といふので、堂々と鎗も持たせれば、刀も佩びて居るから、若し理不尽に差留るものがあつたら、斬払つて通行するといふ威勢だから、陣屋の前を通行の時も、陣屋の人は別に手出しもせす、只岡部の村外れの処へ、藩士が両人来て、此の御同勢の中に、当領分の百姓があるから、何卒意見して戻して呉れといふことを、同行の人に頼むだ、処が其人の答には、御頼みの趣は申伝へますが、今此処で急に渋沢両人に村方へ帰られては、一同が困ります、到底出来得ぬ事と思ひますといつて、別れた位のことであつた、
 - 第1巻 p.309 -ページ画像 
只々自分等が大いに驚愕歎息を極めたのは、関東滞在中、六月十七日の夜、京都表に於て、平岡円四郎が不幸にも、水戸藩士の為めに、一橋邸の傍らで暗殺された一事であります、此の凶報の関東へ聞えたのは六月の末か七月の始めであつたが、田舎の旅行中であつたから、十四五日も経て、初めて其事を承知しました、自分等が昨年京都に着してから、一橋家へ仕官するに付ては、別して懇切の世話になり、杖とも柱とも頼んで居る人が、サウいふ不慮の災難をうけたことであるから、其凶報を聞いた時には、実に失望極まつた、
折角一橋へ足を留めたけれども、未だ仕官して間もない中に、頼みに思ふ人が暗殺に逢ふて死むだといふは、偖も心細い不運の境涯であると、幾たびか歎息して居たが、サリトテ空しく止むべきことではない命ぜられたことは何処までも果さぬければならぬから、九月の中頃に集めた人数を引連れて、京都へ上つて見た。 ○下略
  ○右ノ談話ニハ関東ヘ下リタルハ、五月ノ末カ六月ノ初トアレドモ、川村恵十郎日記ニヨレバ五月ノ初旬ナリシ如シ。


渋沢成一郎 渋沢篤太夫 持触(DK010021k-0002)
第1巻 p.309 ページ画像

渋沢成一郎 渋沢篤太夫  持触      (川村久輔氏所蔵)

  (上包)
持触 壱通
                      (六三×二三)
(栄一筆)
       覚
一此者       壱人

右者
一橋御用ニ付今十六日御領知武州高麗郡下畑村出立、京都御旅舘御用談所迄差遣候間、足痛難渋等有之候節は人馬等差出し御定之賃銭受取之無差支継立可申候、尤も渡船川越等有之場合は前後宿村申合是又同様取計可申候、且又休泊之儀は当人路次之都合ニ而可申談候間是又無差支様可被致候、以上
             御領知
             武州高麗都下畑村
               御用先
(元治元年)子六月十六日     渋沢成一郎
                 渋沢篤太夫
                 武州高麗郡
                    飯能村より
                 中山道
                 上州
                   倉野宿
                夫より
                   大津宿迄
                    宿々村々
                     問屋
                        中
                     役人
 - 第1巻 p.310 -ページ画像 

雨夜譚会談話筆記 下・第八三一―八三四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010021k-0003)
第1巻 p.310 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第八三一―八三四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
小田又蔵氏との御関係に就て
先生「小田又蔵は幕府の御勘定吟味役を勤めてゐた人である。御勘定吟味役と云ふのは、勘定奉行の一段低い役目で、監察力を持つてゐたものだ。私が此人を知るやうになつたのは、尾高長七郎の事が動機であつた。京都で一ツ橋家に仕へて間もなく元治元年の六月に、平岡円四郎の命で人選御用の役目を以て関東へ下つた時の事である其前に尾高長七郎は、江戸へ出る道中で人を斬つた廉で捕縛されてゐた。それで私はどうか長七郎が放免になる工夫はないものかと、平岡円四郎及び同じ用人の黒川嘉兵衛に頼んで見た。すると黒川は江戸にゐる小田又蔵を紹介して呉れて、『小田氏に願つて見たら、何かいゝ考もあるだらう』との事であつた。丁度私も人選御用の命を帯びて江戸へ行つた時だつたから、喜作と二人で、小田氏を二、三度訪ねた。何でも今の小石川水道町に住居があつたと記憶してゐる。こんな動機で私は小田氏を知つてゐるのである。それから信樹と云ふのは又蔵の子であると思ふが、これが十勝開墾会社に働いてゐる時、私は北海道への旅行の際、其処で会つた事がある。』


黒川嘉兵衛 書翰(小田又蔵宛)(元治元年五月四日)(DK010021k-0004)
第1巻 p.310-311 ページ画像

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渋沢栄一伝稿本 第四章・第九九―一〇四頁〔大正八―一二年〕(DK010021k-0005)
第1巻 p.311-312 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第九九―一〇四頁〔大正八―一二年〕
先生等が一橋家に禄仕の際、広く人材を募りて登用の道を開くべきよしの意見書を呈出せるは、上文にいへるが如し。此意見は終始一貫して変らざりしかば、屡平岡円四郎に説くに其意を以てし「既に余等を御召抱になりたる上は、尚又天下の志士をも家中に招致すること肝要なるべし、関東には余等の知人朋友も尠からねば、人撰御用として同地方へ派遣せられたし」といへるに、円四郎うなづきて「高禄を望まず、賤しき地位にても甘んずる者ありや」など、頻に尋ねたれば、「必ず之あるべし」と答へて、切に其実行を促したることあり。然るに先生の大阪出張中、漸く橋府の決議を経たるものゝ如く、帰京後幾もなく円四郎は先生等を招きて「足下等の意見を採用し、人撰御用として、近々の中関東に遣はさるべきが、屹度其見込ありや」と問ふ。乃ち之に答へて「撃剣家・漢学書生を始め、気節に富める者三四十人は、伴ひ帰ること必ずしも困難ならず」といへるに、円四郎いたく喜びしが同年五月に至り公然両人に対して、「関東に出張し、一橋家領其他附近の諸村より、身元慥に人物堅固なる者を召抱へ来るべし」との命令あり。先生が人撰のさまで困難ならずと答へしは、千葉・海保・両塾の知己あり、又挙兵に同意せる人々もあれば、専らこれらを誘引せんとの志なりしが、なほ此機に乗じて長七郎の幽囚を救解せんとの私情をも含めりといふ。
かくて先生は人撰御用によりて渋沢喜作と共に京都を発するの日、平岡円四郎は近郊散策と称して山科蹴上に先著し、先生等の到著を待ち受けて午餐を饗し、且懇に関東巡回の心得を諭したり。当時の慣例として、円四郎の如き重臣は、軽輩なる先生等の旅行を公然見送ること能はざるが故に、散策に託して首途を壮にせるものなれば、先生等の感激尋常ならず、知己に酬いんとするの感益深かりしといふ。先生等は江戸に著して後、一橋家の目付兼大砲銃隊調練頭取榎本亨造の浅草堀田原の家に寓し、先づ一橋邸に赴きて留守の重役に帰府の用件を具申し、又小石川原町なる地方役所に至り、代官等と会見して、巡回の行程を協議などしけるが、此際入牢中なる長七郎を救はんとて、幕府の勘定奉行都筑駿河守峰暉勘定吟味役小田又蔵信贛等に就き尽力せしも、嫌疑容易に解け難かりしかば、暫く之を他日に譲りて、先づ人撰の事に著手せり。
一橋家の領地の大部分は関西に散在し、関東にては、武蔵国埼玉・高麗・葛飾の三郡、下総国葛飾・結城の二郡、下野国芳賀・塩谷の二郡に分れて、二万三千余石の地あるのみなりしが、先生等は縁故の地なるが為に、関西を後にして関東を先にせるなり。かくて先生等は埼玉
 - 第1巻 p.312 -ページ画像 
郡の東部より、葛飾郡を経て野州に至り、下総を過ぎて再び埼玉郡に入り、其西部を巡回し、最後に高麗郡を訪ふべき予定にて、六月下旬江戸を発したるが、折しも水戸の藤田小四郎等筑波の挙ありて、予期したる千葉・海保・両塾の知人、各地少壮の輩等は、多く其地に走り残れる者は概ね無事を喜ぶの人々なり、剰へ藍香は浪士と通じたりとの嫌疑により、岡部藩庁に捕はれたるなどの事ありて、六月五日捕縛、十三日赦免、なほ下文にいふべし徴募意の如くならざる上に、七月下旬には平岡円四郎が刺客の手に斃れたりとの京報至れり。先生等は円四郎の庇護によりて一橋家に仕へ、今回の募兵も其指揮に出でたることなれば、今や倚拠する所を失ひ、両人相顧みて茫然たりしが、京都の形勢心にかゝれば、ともかくも速に巡回を了へて帰京せんと、其行程を急ぐに決したり。初は此便りに郷里を過ぎて父母を省し、藍香にも面会すべき志ありて、其意を通じ置きたれども、今は前途を急ぐが上に、かねてより岡部藩の猜疑を受くる身の、帰省によりて思はぬ累を父母妻子に及ぼさんも心ならずとて、之を中止し、密に武蔵国男衾郡なる妻沼《メヌマ》いま大里郡に属すに於て、父君晩香翁及び伯父にして喜作の父なる渋沢文左衛門と会見したる後、八月四日江戸に著したり。
先生は著府の後、再び尾高長七郎を救解せんとせしが、折しも蛤門の変報江戸に伝はりて、形勢のたゞならぬに、久しく留り難く、急ぎ募集の人々を率ゐて西上せんとす。此時先生等の募集したるは、江戸にて剣客間中集太・儒生白井慎太郎等十余人、郡村に於て農民四十余人に過ぎず、嘗て共に国事に奔走せる宇都宮藩士岡田真吾・下野真岡の郷士川連虎一郎等と会して、之を伴はんとしたれども、皆故障ありて行はれず、一行中に於て後にやゝ名を知られしは、水戸の人なる穂積亮之介と、先生の姻族なる須永於莵之輔等なりき。かくて先生等は九月の初、此五十余名を引率して江戸を発し、中山道を上京せしが、深谷宿に著するに及び密に藍香と会見し、更に其隣村宿根《シクネ》といへる所に親族のありしを尋ねて、夫人尾高氏が二歳の歌子穂積男爵夫人を抱きながら待ち合せたるに対面し、暫しの別れを惜しみたる後、岡部陣屋の前を通行するや、同藩が先生等を抑留せんとするよしの風聞ありて、いたく戒心したれども、さすがに一橋家の威光を憚りしにや、何事もなくして通過し、其京都に帰著せるは九月十八日なりき。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第六―七丁 「明治三三年」(DK010021k-0006)
第1巻 p.312-313 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第六―七丁 「明治三三年」
其年○元治元年の夏五月の頃。大人と成一郎ぬしとは。一橋家の公用にて東に下り給ひ、長七郎君を獄よりすくひ出さんとてさまざま力を尽し給ひければ有司の人々もさすがに其情にやうごかされけん。ゆるしこそはせざりしかど。いとからかりしとりあつかひもこれよりやうやうゆるびもて行きけり。其秋九月なかばの頃。かへさの道は中仙道に依らせ給ひければ。家にも立寄らせ給ふべかりけるに。さまざまの妨ありてそれすらかなはせ給はず。わづかに宿根なる親族の家に立よらせ給ひけり。これより先に祖父君は妻沼と云ふ所に行きましてひそかに大人に対面せさせ給ひければ。こたびは母君に妾をいだかせ。叔母君(貞子君)をもともに宿根なる親族がりやらせ給ひけり、此所の御対面
 - 第1巻 p.313 -ページ画像 
は只束の間なりければ。かたみに恙無かりける面わ見かはし給ひけるがせめての心やりにて。うさをかたらひなぐさめ給ふ暇もなく。やがて立別れ給ひけり。この時岡部なる陣屋の役人ども大人等が一橋家に仕ふることを心よからず思ひて。しひてさへぎり留めまくせしかど。事成らざりける心やりに。腹あしうも逢ひにまかりつる家族をとらへて耻見すべしなど云ふ由ほの聞えければ。其あけの朝まだいと暗きに母君はわらはをかきいだき、叔母君と共に畔とも云はず。畑ともいはずひた走りにはしりて家に帰らせ給ひけりとぞ。


(川村恵十郎) 公私雑簿 三 〔元治元年朔日ヨリ同年一一月二四日マデ〕(DK010021k-0007)
第1巻 p.313 ページ画像

(川村恵十郎) 公私雑簿 三 〔元治元年朔日ヨリ同年一一月二四日マデ〕
                     (川村久輔氏所蔵)
元治元年五月朔
○上略
一公方様去廿日一切御委任、御政事一途ニ帰り候様被蒙仰候ニ付、為御欣惣出仕有之
一中納言殿紫野舟岡山上加茂辺巡見有之候積之処、御登城ニ付御延引有之、内実右ニ付黒川自分田中渋沢等路先に罷越、大徳寺并夫々江相達置候処、御延引ニ付、尚又断致し、鹿苑寺より等持院竜安寺小室等之地勢一覧之金閣寺南之方究竟之勝地《(御)》あり、右等見分畢而七ツ半時頃帰邸
○下略
三日 ○元治元年五月
○上略
一戸田能登守殿御○○ニ付為欣行馳走ニ成
 ○渋沢両人弥明日出立と相定
○下略
四日 ○元治元年五月
一渋沢両人弥今日出立ニ付書面相認且駒木野江金子差送候事書面同断
○中略


横井氏日記控(DK010021k-0008)
第1巻 p.313-314 ページ画像

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渋沢栄一渋沢喜作 書翰 (尾高惇忠宛) (元治元年)七月二一日(DK010021k-0009)
第1巻 p.314-316 ページ画像

渋沢栄一渋沢喜作 書翰 (尾高惇忠宛) (元治元年)七月二一日
                      (尾高定四郎氏所蔵)
  下高@村辺滞在《(マヽ)》ハ当月廿八九日迄に候積ニ候其中御配慮御周旋是祈
年光如下坂丸既に秋冷と相成申候、益御健勝之条奉寿上候㒒《(僕)》等も無事奔走仕候、是高慮易思召可被下候
過日は川越山田家来野浦と申者来出候由、右ニ付格別心配之事同人書面より委細承知、誠以不容易事件乍然色々思慮仕候処、是ハ何共真訛不分明ニ候、所以ハ右等之事に候ハゝ、畢竟在京同盟より一書被送候ハてハ不相成、殊ニ日数も経申事、是等第一之事ニ候、旁先々訛言と被存候、其上彼生浮薄之人物二而諚《(聢)》と聴留候儀哉是以不相分縦真に然とも致方も無之次第、固目的は
納言殿ニ候得は是ニ而断念ニ相成候義ニ候ハゝ所詮尽す処も有之間敷左候得は㒒《(僕)》等之心事ハ更に懸念にも不相成候、乍然弥実事ニ候ハゝ誠以歎慨無此上事御察可被下候、其中文帰着委細相分可申其時可申上候却説波山之義も段々其筋に承及候処、殊之外之勢本月七日并九日払暁
 - 第1巻 p.315 -ページ画像 
寄手と取合之一条、誠以奇計而巳総而出人意表之処置殆手を取申候様子ニ候、田中源蔵と申者は余程之過激輩之よし、実ニ不可当之人之様子ニ候、当時之処先総督ハ藤田小四郎に候由、人数ハ凡七百人斗、しかし当今之処は大後悔幕吏に被欺弄候を別段奮激致候由、是ハ川連生ニ邂逅委細承知致候、夫ニ付少々奇策有之候、他日御分可申候、至而持重策ニ候間御案事被下間敷候、其上未必定相成候哉難計存候、生も大ニ老練用ゆる処有之人物に相成申候、余程此際も周旋致候由承及候而は驚歎之至候ニ、平之事如何にも実ニ候ハゝ㒒《(僕)》等決意も而至宜敷、疑ふ処ハ無之候間安心此際に処し申候、所詮此勢ニ而は離乱瓦解より外有之間敷、誠以長大息之次第ニ候
諸生操出し方之義は、如何取計御都合宜御座候哉、此方ニ而は何に而も宜候間被仰聞度候、尤も平子ハ登り候節突然同行と致度存候、直ハ様子により駒大人江門迄御連之存寄ニ候由、其他其地に遅速之差支無之輩ハ支度ハ兎も角も先御領知迄御遣し被下度奉存候、左様候ハゝ色色好き手段有之候場処ハ下高 村《(マヽ)》ニ候間、右御取計被下度候
根岸文も是非西上為致候方可然、しかし当人如何存被候哉、御問合被遊度奉希候、相望候義にも候ハゝ幸甚左右御報之義誰か御見立被下御遣し被下度、是又御配慮被下度候
高橋木村抔へは夫々手筈申遣候、如何相成候哉、此義は嫌疑旁大兄之御配慮は無之方と存し取計申候
吉岡為江は宜御致声被下度候、是ハ脱家も致し兼可申候間、先残し置候方可然存候也、其替り相成丈家事骨折申候様被仰聞度候、広助江も宜御伝語被下度候、其他同盟中丁寧御鶴声是祈、大兄之義も㝡早御免に相成可申、何れ信州へは御発ニ相成可申候間、其前御免と御察申候若御免に候ハゝ南方廻と唱当月中迄に是非壱度拝眉相願度候、御配慮迄申上候
実に当今之時情、聞度事ニ歎息而巳天之
神州を佑さる所以哉 公之成敗崖山滔海に候間、夫を期限に周旋致斃而巳より外有之間敷候《○此間発明関左》に諸藩之今日間に至り有志輩を縛し候は何共捧腹之次第、藤天山之文章野鄙之地は伝遷之迂遠なるものと言事、真然々々しかしその伝遷ニ而就縛候は痘病痲疹抔と同様之事所謂はやり犬に被喰に比し候喩尤妙也、呉々御自愛被成度候、委細難申尽候間、大略右申上候、何卒壱人使者御左右被仰聞度候、頓首敬白
 (元治元年)七月廿一日

                            蘆青 再拝

     藍大兄
       貴下
宇都宮ニ而児島之細君操烈婦に逢、色々談話且周旋為致候、実に稀有之人物ニ候、是非上京尽力致度由被申候得共、直様ニ而は困り入候間其中周旋致置候様申聞置候、同人妹両人有之、長十七若十五何れも気節有之候由、是非真丈夫に嫁し申度由、相成ハ良人には一夜合歓は無之位之人物に致度よし、右ニ付是非両人にもらい呉候様被申候間、もらい受申候、此段御含置被下度候、余程婦人も我輩には孌着之容子《(マヽ)》ニ候、乍然他之孌着《(マヽ)》とは少々事替り申候、呵々、御母堂えは丁寧御致声
 - 第1巻 p.316 -ページ画像 
奉祈候容子により上京之途中夜中立寄申候抔申候、如何相成候哉も不相分候間、右御頷被下度候、荊妻えは大兄御母堂ニ而委細御説示被下置候様御願申上候、右婦人之事抔談柄迄申上候、其外稀有之事而巳万緒御座候得蛇足之義《(共脱カ)》は不申上候、草々


渋沢栄一 書翰 (尾高惇忠宛)(元治元年)七月二六日(DK010021k-0010)
第1巻 p.316-318 ページ画像

渋沢栄一 書翰 (尾高惇忠宛)(元治元年)七月二六日
               (尾高定四郎氏所蔵)
  着込は是非此度持参致度候、よろしき分御見分被下、五六人分御遣し被下度候、是ハ矢張家へ申遣候品と同様に御出被下候ハゝ便利ニ候、梅田具足価は如何程に候哉、㒒《(僕)》相弁可申候、是段家大人江被仰通候様奉願候、よろしく奉願上候、不宣
兎角残炎難去何分煩悶之候、弥御健剛可被為在奉南山候、㒒《(僕)》も無事消光是又御高慮易思召可被下候
野州筋御用向意外ニ手間取、其故定而彼是御配意可有之、然急速に弁候而も文帰着無之候而は不都合之場合、旁如斯等閑に打過候、弥昨廿五日文帰着不取敢
京地之情実承及、誠以驚難之至如何とも心事切迫此事ニ御座候、尤も過日川越野浦生者より書状右警報、其時ニ御尊書も御添来略心痛之次第には候得共、未信訛不分明、かゝる時節もしや訛言ト半は安じ候処右次第実に胸中如熱御憐察可被下候、且川村猪飼之書状等御披見被成候而は御承知も可被在京師も右之通此上何ニ而尽し可申哉、殊ニ此度之儀は川村儀色々建言仕候得共、乍血涙御止之よし、且急速帰京之義
 御内命之よし、誠以至方も無之次第、如何とも心事定在無之候、尤も右ニ付ニ而は極急速取調帰京致、其上心事相決可申存慮ニ候、就而は平直等其外諸有志之義も先見合可然宜御取計可被下候、乍然平直抔は㝡早家に居有用も有之間敷、心胆を練候には空く家に安居も如何とも存候間、是等御高慮次第宜御取可被下候、偖平岡一件弥実事ニ付色色苦慮仕候処、固㒒《(僕)》目し候通奸猾の侫邪のと申人物には決而無之候得共、全以亢竜之悔、此後英雄之所宜鑑也、結《(詰)》る処当夏家老職に転任し満かゝる損を招き候に相違無之候、誠可恐之至ニ候
壱 弐
此間少し申上候通、弥右次第に付而は㒒心事《(僕心事)》も是非此間に決し可申奉存候、仔細ハ固去冬御同様一死報国㝡早かゝる濁世に安居も義士之恥す《(つ)》る処と深く決心之至、只々東寧之所論正気鼓舞致兼、殊ニ流賊之名可恐との場合、無拠先小々見合迄之事《(少)》、因而空々過候事にも不相成、遂に西上@@《(マヽ)》場合に相成申候、段々 納言殿并平岡心事深く見留、先必死周旋挽回之小口にもと存、今日迄に相成、尚又かゝる顛躓に及候得は、㝡早此度こそ濁世に立かたく実に世波之浮沈飽迄見尽し申候、因而此度西上、是非大義を府中丈に知らしめんとそんし、色々苦念之上漸決心仕候、尤も他奇策有之候儀には無之、唯以死極諫申包胥七日哭此間に必し可申、偏ニ感激仕候、被仰越候御論、逐一拝誦、益出益奇妙々、乍然当時㒒《(僕)》之心事抔は極窮策只憤死人之骨髄に徹し申候丈之事迚も高大正明之論は可謂不可行結《(詰)》り空論に陥り候而巳ならず、却而人
 - 第1巻 p.317 -ページ画像 
心感起も有之間敷、されは当今之処憤死して君を正に致し候哉、不成は徒らに狂名を留候迄、畢竟狂名に安し施し可申心事に決定仕候、是ハ両人之大義、敢而大兄迚も身処相違に候得は、御同様には難申依之心事逐次申上、只祈御高評候迄、深く御配意御高論伺度奉存候、尤も㒒《(僕)》にハ深く相決し候得共、只々此際に至、心事不申上は如何とそんし候間、御心得迄申上候迄之積ニ候、尚他年真之挽回は何処迄も御依頼申上候、乍然㒒《(僕)》此度之事も敢而必死と申儀にも有之間敷、只先其地に処し、激し不申候而は至方有之間敷存、右決心仕候、実ニ京師之騒擾波山之動揺、神州之命脉不日に断滅可仕候、此度御受に相成候攘夷因循に候得ハ、かく相成候ハ必然とは乍申実に手のつけ処ハ無之候
公をして此儘安閑と居しめ候而は如何にも心外之至、因而右決断仕候実に世事難逆知とは乍申、此日迄本筋に而徳川をして攘夷と存候得共㝡早其場は断念可宜也、乍然其処に一死を尽し候は、一旦本筋と存候処より無拠右に成行申候、乍仮初
君と仰き候
納言殿、極諫不用ハ必然機を見るハ蘇子の范増論之通に可致、しかし夫ニ而は大義とハ難申、況や我
日本士の為す処にも有之間敷、因而只狂と被呼覚悟に相成申候、実に御憐察可被下候、万縷申上度事難尽候得共、大略書残申候
家大人江は書状不投候間、宜御致声、御老母様并家母江も呉々よろしく御願申上候、荊妻も定而一度ハ逢度、乍然無詮事先は其儘上京之積ニ候間呉々丁寧被仰聞度候、先達而は様子により登り掛可立寄抔気安め申候得共何か未練ヶ間しく被存候間、先不立寄候実に呉々御願申上候先は右申上度、不図例之長文に相成申候、実に㒒《(僕)》心事之所決等閑に御読過無之様、偏ニ奉希候、頓首々々
(元治元)七月廿六日灯下認
                              青淵拝具
     藍香大兄
        貴下
二白㒒《(僕)》此度之事、狂死自分とハ不敢成敗毀誉苟就人所評而動静則不違殆稀されはとて暴激を好にも無之候得共唯独立より外当時之処無之候
高教 公をして
天裁を得せしむる之策、正々堂々尤妙、乍然左候ハゝ目前靖難之事也臣として不可謂也、されは先当春受候攘夷之儀
幕府江相迫り、右ニ打過候ハゝ
公は踏東海抔ニ決心為致候ハゝ、実以重畳之至ニ候、尤も辞職候而臣事可尽かとの過激論も有之候得共、先は差当之論能々時務勘校候ハゝ矢張何処迄も 烈公様之被成候より外所処有之間敷奉存候、是則臣子之大義と奉存候、しかし夫さへ必成と中々存兼、然況正々堂々之事乎此義篤と御推考可被下候
乍然、弥 公をして右ニ決定ニ候ハゝ、並々之辞職とは相違可致、所詮京師は瓦解可致、左候得は幕《(府脱カ)》ニ而も右之処置ハ致間敷、されは吾公をして右ニ決心、幕府を助け候大一策と奉存候、偏ニ御熟考可被下候
 - 第1巻 p.318 -ページ画像 
関宿ニ而川連に逢小々議論《(少)》も有之候、是は紙筆に申上様も無之候、数々申上置度事可有之、前後朦朧申残候余は御推憐可被下候
三白、右ニ付而は是非拝眉致度存候得共、大兄義も何分嫌忌之よし、致方も無之候、乍然もし何れに致候ハゝ拝眉可相成哉又ハ不相称御配慮被仰越度候《(候哉脱カ)》、御指揮次第周旋可仕候


渋沢栄一渋沢喜作 書翰 (尾高惇忠宛) (元治元年)八月八日(DK010021k-0011)
第1巻 p.318-319 ページ画像

渋沢栄一渋沢喜作 書翰 (尾高惇忠宛) (元治元年)八月八日
                       (尾高定四郎氏所蔵)

尾高様 両人より
当秋は残暑殊之外強く候而難凌候処、御全家様御揃御清寧可有之奉南山候
過日は文江御尊書御恵投忝拝誦、且寅御遣被下是又御配慮之段難有奉存候、寅は兎も角も上京致度被申候、如何致候而宜候哉御見計之上被仰越度、右之趣同人江も申聞置候
偖今般両生之用向も京師より申越候通りも難相成、因而取調に相成候丈召連之心意ニ而其旨御通達も申上置候、其上縦御領知に無之とも、従来之知己此度是非西上之義申候者は、自分策略ニ而同行之心意、是も前以御承知之義ニ可有之、且又両生心事は先頃書中申上候通、此時に決し可申所詮再東下とは難存、乍然万一微諒御採用に候ハゝ、堂々たる東下、されは題柱之時とも可申哉、かゝる必死之場合見届度被申候者は、同行不致も本意を背き候事とそんし、右決意致候次第に候西上発途之義府着直に取極近々と存候処、府中色々混雑且又右之義ニ付此間京師に伺を立候事も有之、右伺済迄は発途にも難相成、畢竟当月中旬にも可相成奉存候、十日頃には中山道通行と申候処、右之次第宜御頷可被下候、何も別而嫌忌等には無之候間、此段御安意可被下候右に候得は必定之時日は後便可申上候間、御取計被下度候
却説府着《成は二日着、篤ハ四日着也》以后諸有志にも相逢探索致候処、誠に奸勢之行とゞき候を驚歎致候迄実に此際に至り尽し方ハ無之候、京師も如何相成候哉、何共苦心此事に御座候
京師長之挙も重々奸勢に陥り候義、深く探索致候処、六月中より福原越後国司信濃益田右衛門尉勅勘御免之義哭訴致居候処、其処置余り過激に渉り候故会津彦根抔別而心配
皇居を彦城江移度策略致候よし、それを橋府ニ而差留置候よしに候、然処長人聴及別而激怒、遂に十九日之変事と相成、今は逆賊之名を公然と受候場合に相成申候、因而 天朝之命令ニ而二十一藩に討滅之沙汰有之、且大樹公も近々浪華迄御発ニ而御指揮被為在候由、尤も是には色々説之有之事詰り奸吏一時之策略と被存候、誠以正義之者ハ飽迄陥り申候時勢如何とも尽力も無之候、所詮私共之心事ハ滅長も救長も無之、只々攘夷之義、今一度もり返し、公をして死地に入り周旋被遊候様之処、且は一旦因循も致候 納言公此度凛然之御処置無之候而は烈公様御遺志御継述とは難申段、必死建白斃而止候迄と奉存候、筑山之事も長の失計と大抵同様に陥り候処、此度松平大炊頭殿発行鎮撫に
 - 第1巻 p.319 -ページ画像 
相成候間、先安意仕候、其次第ハ是迄奸勢を逞ふし候結城党先頃不首尾、国に謹被申付候処、波山党其外水国正議と合し此際に討戮と存し発砲致候、遂に其戦に打負寄手大将木村又蔵、千種太郎討死、七月廿五日之事也、夫より奸党奮激謹中押而出仕
烈公様御簾中様を強而相奉し正議之者専ら誅伐致二十一人迄死罪申付候よし、因而又々正党相発し大混雑と相成申候、夫ニ付彼大炊公御発に相成申候訳に候間、先は此一挙ハ誠以大盛事、所詮右大炊公国奸を押付候は申迄も無之、其勢に乗し、乍浦《(マヽ)》掩襲も可有之相楽申候、殊ニ府下に潜匿之有志輩百人斗強而附属に相成、御供致候間、何か面白き事仕出し可申、先々日を数相待申候時勢、大概右之通御心得迄申上候、尚後便可申上候
二白、幽囚一条も色々心配致候処、歎願書も両人同様ニ而も如何、右ニ付未タ差出不申、尤も篤太夫義八月七日奉行所江参り、雲州には不快故逢不申、公用人に面会、色々談話、尚近々雲州に面会万事相願可申存候、殊ニ川越周三子も出府旁是へも相談よき手段も可有之存候、近々作略可致候間、右御承知可被下候
囚中より度々黄円申来候、先少々ツヽ送入候、向に駒大人とも御相談申候、右之段申上置候間、御含置可被下候、先は大略右之通、余は他日可申述候、頓首々々、敬白
(元治元)八月八日認
                            成一郎
                            篤太夫
     藍香大兄
       玉案下
  今日長州下屋敷御取払に相成申候、中々幕勢之盛なるには驚入候


渋沢栄一渋沢喜作 書翰 尾高惇忠宛 (元治元年八月三〇日)(DK010021k-0012)
第1巻 p.319-320 ページ画像

渋沢栄一渋沢喜作 書翰 尾高惇忠宛 (元治元年八月三〇日)
                      (尾高定四郎氏所蔵)
  朔日江門発三日深谷泊と相成申候、是非拝眉相願度候、御操合被下度候
過日文帰郷為致候節、御恵投之華翰并逢源論壱冊難有拝読名論感腹、偖其後世情も色々探索候処殊之外変遷、長も大奮起ニ而石州辺暴行致候よし外夷との戦争も勝敗は聢承及不申候得共必有之事ニ御座候、道路之説ニ而勢窮して外夷と和候と申唱候、是横浜新聞紙中之説定而彼之虚誕反間と存候
大樹公御発征長之事も弥御発途に相成可申候、然処京師ニ而因備阿州共御断申候よし土州も大に議論致候由ニ候、四家共趣意は先後順逆を論し逆意を助候事ハ寧ロ 天朝に背き候とも出来不申と申立候由、何共愉快之次第夫ニ付只可憂は
公之英断無之事而巳実に心事斯而巳必死挽回仕度覚悟致居候、就而水国之義何共可悲之至、此間色々探索大機密承届、幕奸の計策時勢之成行、併而長大息仕候、余程曲折之有之事委細は拝眉ならてハ申上兼候実ニ東西共只々落涙之事而巳周旋も尽力も無之候、乍併万一此際に尽力験相立候ハヽ男児之大幸此上は有之間敷、所詮頽敗之気運余り痛心
 - 第1巻 p.320 -ページ画像 
致候も微生之諒とも可申候、只大名分を掲け人之気骨に凛然たらしむる事有之候ハゝ、夫ニ而男児之所為は済可申、此間ハ平ニ怒気も無之候
平九子事、先御見合之よし、御高案之義今更申上候事も有之間敷、乍去能々御勘考被下度候、仮令嫌疑とは申候得共、夫は一時之事既に成人にも可相成、所詮蓬蕎之下ニ安居と申義にも相成間敷、されは一日不勤は一日之責と申義も可有之、まして小生共も進退斯に決し候時節全備を求候様に相成可申、固英気之発逸する処より自然窮居相成兼場合、是非此度抔極上之機会と奉存候、全備を期し候は因循之名不免候何も領主之嫌とは乍申大兄とは事替り平子脱家致候とも左程之事有之可申哉、かゝる危難之時節大兄之窮居被成候さへ、諸有司は彼是御評被申候、まして今発逸之壮生空々居候は如何之義と存候様に相成可申畢竟自分之全を求め国ニ尽す事薄き抔被申候とも、先は説無之とも難申、是非御勘考之上御指揮被成度候、半造も同様脱家為致候ハゝ、容易之事と奉存候、乍併何も強而申上候事にも無之候、只心事丈申上候間、深々御熟慮可被下候
虒ハ是非上京と被申、色々諭示致候とも何分承引不仕、然は一先帰省直様発可申、説示候処已ニ決心斯に至り、帰家之上愚俗之鄙説を聞候は実に難堪、其上幾度も脱家致度候而又々帰り候而は、自ら己に恥候場合、強而被申候間、任せ其意候、宜御取斗可被下候
委細拝眉申上度存候得共、夫も難図候間、大略申上候、余は御配慮之上万端御指揮奉祈候、謹白
(元治元)八月卅日
                       蘆陰青淵 拝白

    藍香大兄
      玉按下
尾高新五郎様 梧下 渋沢成一郎篤太夫
子八月卅日認


安政五年品々願書控(DK010021k-0013)
第1巻 p.320-321 ページ画像

安政五年品々願書控             (渋沢治太郎所蔵)
 乍恐以書付奉申上候
御領分血洗島村名主為三郎組頭保右衛門両人一同奉申上候、名主見習渋沢市郎右衛門忰栄一郎、組頭文左衛門忰喜作両人儀去ル六月中 一橋様御抱入ニ相成、関東筋御領知人撰御用被仰付罷下リ江戸
御屋敷様江御届有之、右市郎右衛門文左衛門両人御呼出之上御理解被仰聞候ニ付、親類共差遣し 御屋敷様御理解之趣右両人江申聞、其上
 御領分筋江立入申間敷旨申渡候段委細及承候儀ニ御座候、然処今般人数召連上京ニ而深谷宿止宿之趣及承、左候而は市郎右衛門文左衛門
 - 第1巻 p.321 -ページ画像 
両人儀縦令承知無之共 御屋敷様へ対し相済申間敷と存し、保右衛門江申談示差留候心得ニ而昨六日朝両人ニ而罷越候処、深谷宿出立ニ相成、大勢通行故遅々罷在候中 御出役様之御呼出ニ相成 御役所様へ罷出、右始末申上候処直様罷越差留可申旨被仰付、早速走行追欠候得共もはや過去間ニ合不申誠以申訳も無之奉恐入候次第ニ御座候、此段御届奉申上候
                          御領分血洗島村
 元治元甲子八月                      名主
                               為三郎
                              組頭
                               保右衛門
 岡部
  御役所様


渋沢栄一 書翰 (千代子夫人宛) (元治元年)(DK010021k-0014)
第1巻 p.321-322 ページ画像

渋沢栄一 書翰 (千代子夫人宛) (元治元年)
                (男爵穂積重遠氏所蔵)
   ○(十月五日)
先頃は宿根ニ而久々相逢、さそさそ残り多き事とそんじ候、此方にも同様之事也、さて永永之留守中、父上母さまへ孝養いたされ候段、あさからすそんじ候、尚此後もひといにたのみ入候、うた事ハ大切ニ可被成候、品により京都へよひのぼせ候事も可有之哉、其時ハ永別之礼申候事も可有之そんじ候、とかく父上母様には乍御ほねおりすいぶん孝行致候様たのみ申候、いつか又あふ事も可有之、それをたのしみにいたし、くれくれしんほふいたし候様、かへすかへすもたのみ入申候、申越度事ハ山々に候得共あらあら書残しまいらせ候、めてたくかしく
  十月五日書
                        篤太夫
   おちよとのえ
 尚々何か気のもめる事ある時ハ、手許之あにさんにそふたんいたし可申、さよふいたし候ハヽよきふんへつ出可申、相わかれ候よりハ一度も婦人くるい等も不致全くくに之事のみしんはいいたし居申候間、おまへにもすいふんしんほう之程ひとへにたのみ申候、かしく
   ○(十月十七日)
其後はうちたへ候処、ますます御たつ者ニ可有之存候、せん日はまことにさふさふにて別段申聞候事出来不申、残りお□《(しカ)》き事ニ候、その後書状□《(不明)》越候間、定而御とゞき可申そんし候、留守中万事不都合に可有之、何とも頼入申候、御両親さまへ別而孝行被致候様たのみ入存候
今月十三日
中納言様に御目見致候、品々被 仰聞候、御よろこび可被成候、何事も気をもまぬよう可被成候、気をつかゐ候は大どくニ御座候、明年になり候ハゝ京都江相のぼせ可申候、御待可被成候、もし又此方江戸え帰り候ハゝ、さふさく江戸江、呼可申候、うたは大切に可被成候、男之子無之候はまことにざんねんにそんじ候、万事壱人ニ而は不自由ニ而、女房之難有と申事別而承知致候、是非今壱人仕込致置候ハゝよき事とそんじ候、其事ばかりハ人代をたのみ申事にも相成間敷存候、何れ来年は呼のぼせ申か、江戸に帰り申か、かならす一処になり可申候
 - 第1巻 p.322 -ページ画像 
それ迄ハ孝行大切にたのみ入申候、尚又この次に申越候、あらあらめてたくかしく
  十月十七日夜認
                        篤太夫
    お千代とのえ


市河晴子筆記(DK010021k-0015)
第1巻 p.322 ページ画像

市河晴子筆記                 (市河晴子氏所蔵)
   ○藤田小四郎について
東湖には会はずじまいでしたよ。安政の地震の時には血洗島は大した事なくて、江戸があんなとは思ひませんでしたね。でその子の小四郎には会ひましたよ。
 もともと水戸は激派鎮派にわかれて烈公と慶喜公をかついだり、すれずれだつたんですがね、その激派の方の竹田光雲斎《(武田耕雲斎)》が筑波へたてこもる様な騒ぎになつて、藤田小四郎もその仲間で、私が二十五、人選御用で下つて来た時関戸であいました。幾分自分の方へさそつてゞも見られるかの下心があつたのかも知れないが、会つて見るとまるで望みがなさそうと見てとつたか、別にこれつて話もしませんでしたが、敏活そうな人でした。この人や光雲斎《(耕雲斎)》の仲間が後にむじつを京都の慶喜公にうつたえると云つて、七百人から福井金沢あつちを通つて京都へ来るつて云うので、総督として慶喜公が出馬され民部様も十二で出かけられましたつけ。私たちも賤ヶ岳辺まで行つてね、ところがそんなのだから竹田《(武田)》はじめ手向ひはしないで、すぐ降参したんだが、それを幕府へ引きわたしたから皆殺されてしまつた。で肥後の高崎□太郎、上田久兵衛なんて連中に「何だ貴様『うちの君公は』と自慢するがあのざまは何だ」つて云はれてね、口惜くつてしようがないけれど、マ一言もなくて、で、つくづく何しろ御手元に兵力がなくちや何と思つても何も出来ないと思つて、歩兵募集のことにやつきになりはじめたのさ。


東湖会講演集 第三―五頁〔大正一三年一〇月一日〕 【併し時勢は私の如き者にも…】(DK010021k-0016)
第1巻 p.322-324 ページ画像

東湖会講演集 第三―五頁〔大正一三年一〇月一日〕
○上略 併し時勢は私の如き者にも郷土に晏居して居ることを許さず、終に二十四歳の冬、意を決して自分の家を出て、所謂浪人境遇になつて京都に遊び、続いて水戸に縁故ある一橋慶喜公、即ち烈公第八番目のお子様で一橋家を相続為さつた方の家来となりました。夫れは元治元年の二月のことであります。時恰も世間が騒然として或は兵を養ひ、兵器を備ふるの必要を生じ、私は関東に趣き志士を募つて一橋家に推薦すると云ふ内命を受け其の人選の御用を帯びて関東へ下りました。
夫れが元治元年の六月頃でありました。其時に東湖先生の四男藤田小四郎君に面会せむと希望しましたけれども、同君は既に水戸藩を脱走した後でありました。但し私が藤田小四郎君に会ふたのは是れより先きに、私が浪人にて未だ京都へ上らぬ前、即ち文久三年の秋頃一度会見しました。夫れは竈河岸《へつついがし》の宮和田又左衛門と云ふ撃剣家の紹介であつた、続いて春日町辺の割烹店でも会ひました。小四郎氏は私よりも二歳の年下でありました。故に私が当時二十四歳であつたから、氏は
 - 第1巻 p.323 -ページ画像 
二十二歳であつたと思ひます。年少なれども才気煥発で、実に愉快な畏友であると思ひました。其時の談話に私は頻りに尊王攘夷を唱へて水戸藩の人々を寧ろ鼓舞刺激する了見で、吾々農民が別に縁故の無い身柄でありながらも、国家の大事と思ふて斯くの如く身を捨て事に当らうといふ赤誠を有して居るのに、水戸は代々勤王を唱へ、大義名分の明かなる藩風でありながら、殊に東湖先生の如き巨人もある、而して貴下は其の御子である。然るに何も為さずに単に議論ばかりして居ては、相済まぬではないか――と云ふやうなことを論じたのであります。併し此の会談は決して攻撃的の議論ではなく、共に世を憂へ時を慨する酒間の時事談であつた。小四郎氏は其時既に筑波挙兵の下心はあつたかどうか、兎に角未だ確定せられなかつたやうな感覚が私に残つて居ります。
 種々の談話の末、小四郎氏は私に対して、君方は吾々を水戸藩だから何か為せるだらうと容易く希望せらるゝけれども君方が民間に在つて為せぬと同様に、水戸藩士だと云つても天下の大事を左様に軽易に為せる筈はない。と云つたやうな弁解的の言辞があつたやうに覚えて居ります。併し他日必ず何か発表するから見給へ、国家の為め必ず報ゐる事あるべしと云ふやうな、堅い決心が酒間談笑の裏に蔵せられてあつたやうに思ひます。
 右様なる関係から私は其の翌年一橋の家来となつて人選の為め京都から遥る遥る江戸へ下つて来た時に、何うかして小四郎氏と会ひたいと思ひ、其の消息を尋ねましたけれども、当時同氏は既に筑波山へ行かれた時であつた。其頃穂積亮之助と云ふ人がありました。是は常陸の人で神職であつた。又関宿領内の真弓《まゆみ》と云ふ所に川連小一郎と云ふ人がありまして、小四郎氏と大分懇意にして居られて、筑波挙兵以後の景状を詳細に私に話されて、自分も終には共に死なねば成らぬと言ひました。其の人が筑波に往復して、私が関宿在なる一橋の領地巡回の際に、小四郎氏の消息を齎らして、私にも筑波に来れと言つて寄来《よこ》したこともありましたが、私は一橋の家来だから、遽かに脱走隊に這入る訳には行かぬ故に残念ながら其の招集に応ずることは出来ぬと断つたのであります。其年(元治元年)の夏小四郎氏は筑波を発して水戸方面に向ひ、各所に転戦の後其の冬遂に中仙道に出て漸次越前敦賀に向つた時に、一橋は幕命に依つて、水戸浪士の京都へ這入ることを差留めねばならぬ位置に立ちて、そこで小四郎氏が武田部隊の兵を率ゐて京都に入るを防ぐために、其年の十二月一橋慶喜公は、民部公子を先鋒として江州海津迄進発されました。是等の事共は前後錯雑して明瞭に私の記憶には残りませぬが、要するに当時敦賀表へ押し寄せたのは、武田耕雲斎、藤田小四郎、其他の諸隊で総勢七八百人許りの人数でありましたらう。而して是等諸隊の兵は沿道の各藩に沮まれ、或は北国名物の積雪に悩まされ、殊に長日の遠征疲憊した後に一橋の軍隊から喰留められたので、之に敵対も致し難い所から、已むなく其の軍門に降服されました。
 此の降服後の処分がよもや其時の虐殺的斬罪に処せられる抔のことは無からうと思ひましたが、実に意外の厳罰を受けたのを私共は驚嘆
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しました。又一橋公に在つても私情に於ては万々助けたかつたのではありましたらうが、幕府より田沼玄蕃頭が来つて、右は幕命によりて一橋より田沼の手へ移され、主なる者三百五十余名は皆敦賀で斬られて従なる者四百六十余人は流刑又は追放となりました。其際私は一橋家の重役であつた黒川嘉兵衛と事《(云)》ふ人の秘書役の位置で従軍したから小四郎氏を助けたいと、蔭ながら頻りに心配は致して見たが、実際上何等力の施しやうもなくして、恨を呑んで傍観したので、終に小四郎氏と幽明相隔つることに成つたのであります。 ○下略
   ○右ハ栄一ガ大正十一年十一月二十五日東京会館ニ開カレタル東湖先生記念会主催記念講演会ニ於テ「開会の辞」トシテ試ミタル講演ノ一節ナリ。
   ○藤田小四郎ニ会見ノコトニ関スル栄一ノ此談話ハ市河晴子筆記ノ分ト異ナリ、何レガ真ナリヤ明カナラズ。


雨夜譚会談話筆記 下・第四四〇―四四二頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010021k-0017)
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雨夜譚会談話筆記 下・第四四〇―四四二頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
一、石川清之助無理切腹の事に就て
敬「先日帝劇で忠臣蔵を御覧の時、勘平腹切の場で、祖父様が石川清之助と云ふ者に切腹をお勧めになつた事をお話になりましたが……」
先生「今から思つても気持の悪い事であつた。あれは私が切腹させたのではありません。真仲速太《マナカ》(?)と云ふのがやつた。そして私と喜作とが立会つたのです。其原因は私が人選御用を仰せ付かり関東から集めて来た中に、忍の藩士であつた石川清之助と云ふ者があり、それが強盗をしたと云ふ事が知れて、斯様な者が居ては、私達の面目が立たぬと思ひ、よくよく聞き質して見たら詳しく白状した。そこで私が「死ね」と云つたら、決心し兼ねて逃げそうになつたから、真仲と云ふのが縊り殺して置いて石川の腹を切つて自殺したことにしたのです。また潔よく自刃した様に見せかける為に書置を書かして置いた。」
穂積母堂「其頃は偉い人でもどしどし斬られた時代だつたので御座いますから、そんな人が斬られるのは致し方は御座いませんでせう。」