デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.331-335(DK010023k) ページ画像

元治元年甲子十二月(1864年)

筑波挙兵ノ徒武田耕雲斎等、路ヲ北国ニ取リテ京師ニ入ラントス。一橋慶喜鎮撫ノ命ヲ奉ジ、兵ヲ率ヰテ先ヅ大津ニ、更ニ進ンデ海津ニ到ル。栄一渋沢喜作ト共ニ之ニ随フ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第三九―四一丁〔明治二〇年〕(DK010023k-0001)
第1巻 p.331-332 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第三九―四一丁〔明治二〇年〕
○上略 此の歳十二月の初めに、かの常野脱走の水戸浪士が、北国筋から西上するといふ騒ぎで、一橋公には御自身兵隊を引連られて、不取敢まづ大津駅へ出陣になつたが、追々の注進によつて、浪士共の挙動も悉しく知れたから、更に路を湖西に取つて、堅田今津を経て、海津まで進まれた、此の時に喜作は他の御用で中国辺へ旅行して居た様に覚えて居るが、自分は此の出兵の御供に加はつて、常に黒川に随従して、陣中の秘書記を担任して居ました、全体此の水戸浪士が西上する原因といふのは、先程其端緒を述べた通り、藩中党争の破裂から起つたことで、其巨魁の武田耕雲斎・藤田小四郎などいふ人々は、是まで同藩ながら、他の党派とは氷炭相容れずといふ勢で、常に仇敵のやうな有様であつた、処で此の歳の春、武田派の人々に、何か暴激の挙動があつたのを口実として、他の一党、即ち書生連の市川派が、頻りに幕府に請願して、これに賊名を負せて追討するといふ騒ぎになつた、武田派の天狗組は、何れも鎖攘主義の壮士輩が団結したのであるから、自然幕府が近来の措置に心服することが出来ずに、終に筑波大平等の嶮要に立籠つて、数回幕府の討手を悩ましたけれども、詰る処は衆寡敵せず、武田藤田は其残兵を引率して、路を中山道に取つて京都に上り、其党の寃を一橋公に訴へて、正邪曲直の判定を乞ふといふ趣旨であつた、故に其表面の挙動は兎も角も、其衷情を察して見れば、憐むべき所が少なからむやうに思はれました、
されども幕府は、既にこれを賊として、田沼玄蕃頭の手で追撃の軍兵
 - 第1巻 p.332 -ページ画像 
を差向けたから、沿道の諸藩に於ても、皆兵隊を繰り出して、これを防止するといふ現状になつた、それゆゑ一橋公も傍観することは出来ぬ、已むを得ず朝廷へ御願ひの上、自から軍兵を総督して、御出馬になつたので、其先鋒の大将には、其頃京都に滞在中の水戸の民部公子が向はれた、全体此の御出馬は、浪士の来路を偵察して置て、途中でこれを鎮圧して仕舞つて、決して禁闕の下を騒擾させないといふ神算であつた、処が公が海津まで進まれた日に、浪士共は越前の今庄で、加賀の隊長永原甚七郎といふ人の手へ降服の事を申入れた、永原は早速其処置を一橋公へ伺ひ出たに依て、公は其降人の兵器を取上げ、加賀藩に於てこれを警固して、不日、更に田沼玄蕃頭の手へ引渡すべき旨を命ぜられて、まづ其一段落が附たから、十二月の末に京都へ御帰陣になりました、偖て田沼玄蕃頭は、降服の浪士を加州藩から受取つたが、篤と其邪正曲直を審判するでもなく、一概に賊徒といふ罪名を以て、巨魁の武田・藤田は勿論、総計百三十人余りの同勢を、敦賀港に於て、悉く斬罪に処して仕舞つたが、其時纔かに死を免れて、放逐されたものは、人夫体の卑賤なもの計りであつたとの事だが、随分酸鼻な話しではありませむか、其跡で京都の有志家中には、一橋公として水戸浪士が軍門に降服したのを、直に幕府へ引渡すといふは、幕府を畏敬するに過ぎて、人情を酌量せぬ処置であるといふ評論もあつた趣だが、是れは只其難きを公にせむるといふものであらうと考へます。
  ○此事件ノ詳細ハ「徳川慶喜公伝」巻三、第十七章、「筑波勢の西上と公の海津出陣ニ叙セラレタリ。


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一〇八―一一五頁〔大正八―一二年〕(DK010023k-0002)
第1巻 p.332-334 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一〇八―一一五頁〔大正八―一二年〕
○上略 数日を経て慶喜公は特に先生を召して、関東出張中の事どもを下問せられる。両人は水藩志士の意向、筑波浪士の進退、追討諸隊の近状などを述べたるに、公はいたく喜び給へりとぞ。此際先生は攘夷の決行につきても、公に進言する所ありしが如し。先生が当時なほ攘夷論者にして、之を以て公に期待せることは、藍香への書簡に、幕府が攘夷の勅命を拝しながら、因循して之を奉ぜざるを慨き、「此度西上是非大義を府中丈に知らしめんと存じ、色々苦念之上、漸決心仕候」といへるにて明なるが、八月八日の書簡にも、長藩の京都襲来より、追討の勅命ありしことなどを書したる後、「私共之心事は、滅長も救長も無之、唯々攘夷之儀今一度もり返し、公をして死地に入り周旋被遊候様之処、且は一旦因循も致候納言公、此度澟然之御処置無之候而は烈公様御遺志御継述とは難申段、必死建白、斃而止候迄と奉存候」とあり、又十月五日の書簡にも「天下之事も、日陥於一日、段々一層ツツ重り候勢、所詮尽力《マヽ》も無之候。且は今更切迫致、死力を用候も大に裨候事も有之間敷、乍然傍観は固より難相成候間、兼而申上候 水□《ママ》時情抔、并当今之幕府逐一書取建白仕候上《ママ》にも、格別御配慮も被為在候場合、右之書取抔には、格別御厚き被仰聞も有之、其上黒川始有志輩も、精々配慮被致候、旁先少々意を安し候。乍然勢之所使然、卑見には、最早近々瓦解之極に至り可申奉存候。建白書時勢書取、当今之模様、逐一申上度存候得共、何分嫌疑之時勢大機密に関係致候儀、旁何れ確便次第奉呈と存候間、右御頷置可被下候《ママ》」といひ、十月二十日の
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書簡にも、「時勢之義委細申上度候得共、別而異説も無之候間、先は其中可申上候、建白も大人江申越候丈尽《(マゝ)》し申候、総而御採用に而、近々御処置可被下候、其中書取さし上可申候」など見えたるによれば、当時先生は攘夷論を以て慶喜公に説き、其奮起を促さんと欲したるが如し。されば公に謁見の際、それらの意見をも言上せしならんが、今之を詳にすること能はず、此書簡に記せる上書、建白も未だ其草本を得ず。
かゝる折しも、水藩の浪士武田耕雲斎・藤田小四郎等、所謂筑波の一党、兵を擁して中山道より京都に上り、一橋慶喜公に訴ふる所あらんとするよし聞えたり。事の起りを尋ぬるに、水藩には文化・文政の頃より、革新派と保守派との争ありて、革新派は保守派を奸党と呼び、保守派は革新派を天狗と称して、内訌常に絶えず。烈公の藩主となるに及び、軋轢益甚しかりしが、藤田東湖・戸田蓬軒等の没したる後、革新派は其中心を失ひて勢力振はず、保守派の領袖たる、市川三左衛門・佐藤図書・朝比奈弥太郎等事を用ひ、鎮派と呼ばれたる中立党も之に加担しければ、革新派の志を得ざること年久しかりき。慶喜公が幕府の後見職となりし後、水藩の政事に干渉し、一時保守派の勢を殺ぎたれども、幾もなく旧に復し、革新派の失意は依然たりき。よりて革新派中の少壮者藤田小四郎は密に長州と策応し、長藩の京都に襲来すると同時に関東にも事を起して、天下の形勢を一変せんとし、元治元年の春、田丸稲之右衛門を首領と仰ぎ、兵を筑波山に挙げ、常野の地を横行せしが、長藩は京都に敗れて本国に遁げ帰りしかば、其頼む所を失ひ、剰へ水藩における反対派は幕府に攀援し、幕府は檄を諸藩に飛ばして追討の軍を発したれば、小四郎等は忽ち窮地に陥れり。武田耕雲斎は東湖等の没後、革新派の首領たりしが、小四郎等を救はんとして成らず、却て其徒に推されて筑波勢の総帥となる。然れども孤軍にして幕府・諸藩の大兵に抗すべくもあらず、常州なる那珂湊・平磯等の戦に連敗して、進退に窮したれば、かくなる上は徒死は無益なり一たび慶喜公に謁して心情を訴へんと、十月の末、手兵八百余人を提げて、中山道より北陸路を京都に向ひしに、沿道の諸藩概ね之に同情し、強ひて進路を遮らざりしかば、十二月中旬には越前新保駅に到達せり。
武田・藤田等が西上せるは、慶喜公の救解を求むるにありしが、不幸にして公の境遇は之を許さゞりき。抑も公は水藩に生れ、革新派の人により教育せられしのみならず、文久二年以来、耕雲斎並に其同志を帷幄に参与せしめたれば、救解の意は素より十分なれども、之を為すこと能はざるは自ら其故あり。原来水藩は烈公の時、藤田東湖等を任用して、尊王攘夷の説を唱へ、大に藩政を改革したるに、幕府は之を喜ばず、幕府・水藩の間漸く乖離を生じたり。烈公の子なる慶喜公も嘗て将軍継嗣問題について家茂公の競争者たりしことあり、此事公の与せざる所なれども、家茂公が将軍就任の後に於て、幕府の反感は已むを得ざる情勢なりとす。況や公は文久二年朝旨によりて将軍の後見となり、幕閣の上首に班せしは、既に幕府の意趣にあらず、三年以後幕府を代表し京都に滞在するに及びては、臨機の処分多くして、事毎に
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幕府と相容れざりき。かゝれば幕府は耕雲斎の挙も、公の通謀を疑へる程なれば、若し公にして耕雲斎を救はんとせば、幕府・橋府の間に溝渠を造りて、遂に関東の内訌を生ぜんも知るべからず。此に於て公は耕雲斎等を救解する能はざるのみならず、却て之を追討せざるべからざるの窮境に陥れるなり。
耕雲斎等が美濃路を経て西上せんとするよし京都に聞えしは、十一月の末なりしが、慶喜公は之を聞き、直に朝廷に奏して、「此度常野浮浪の徒、多人数中山道を罷登り、容易ならざる模様と聞ゆ、此上万一帝都に迫るが如きことあらんには、職掌上恐懼に堪へざるのみならず、此中には実家 水戸藩をいふ の家来も加はり居るよしにて、別して相済まざる次第なれば、速に江州路まで出張して追討致したし」と請へり。やがて勅許ありければ、命を近畿・北陸の諸藩に伝へて兵を徴し、十二月三日橋府の手兵及び幕府より附属せられたる諸隊を率ゐて征途に上り暫く本営を近江海津に定めたり。先生は此時黒川嘉兵衛の手に属して出張し、軍中の秘書を掌れり。耕雲斎等は美濃路より転じて越前に向ひ、新保駅に達せしに、諸藩の兵既に其前後を固めて、慶喜公征討使たりと聞えしかば、心算全く齟齬し、加州藩によりて公の軍門に降る。公は同藩に命じて、暫く耕雲斎等を監視せしめ、十二月二十六日京都に凱旋す、先生も亦之に従へり。幾もなく幕府は若年寄田沼意尊を上京せしめて、耕雲斎等を引取り、慶応元年二月何等の審問を行ふことなく、直に耕雲斎以下三百五十余人を越前敦賀に斬り、其他を追放・流罪等に処し、刑罰は延いて其妻子に及び、頗る惨酷を極めたれば、天下挙りて処罰の当を得ざるを非難し、更に公が其手に処分せずして、幕府に交付せるをも非難する者ありき。
初め耕雲斎等の兵を挙ぐるや、先生が旧同志の人々にして之に加担せる者尠からず、彼等は密に来りて藍香を誘ふ者もありしが、藍香は其挙兵の意義なく、全く水藩の内肛戦なるを見て、固く拒みて応ぜざりき。されど藍香の行動に注目せる岡部藩の吏員は、耕雲斎等との通謀を疑ひ、元治元年六月五日藍香を引致して牢獄に投じ、其弟平九郎 平九郎の事は後に至りて詳にいふべし をも手錠・宿預に処したりしが、幾もなく并に赦免せられたり。此時先生の生家も亦取調を受けたりしが、其訊問は藍香に対するとは異りて、いたく寛容なりしは、思ふに先生出郷後の事なればなるべし。藍香は従来水藩の革新派と同じく攘夷論者にして、先生も亦同志の人なれば、先生が耕雲斎等に同情せるは勿論なり、今や幕府の処分について、異議ありしは推測に難からざれども、さて之を救ふこと能はざるは、亦慶喜公と同じ事情なるべし。されば先生が後年公の為に詳伝を編纂上梓するや、公の境遇を闡明し、世論の誤解を正したるも亦此苦衷に出づ。


御出陣中御書付留(DK010023k-0003)
第1巻 p.334-335 ページ画像

御出陣中御書付留           (伯爵徳川宗敬氏所蔵)
 御出陣ニ付 思召を以御手当被下左之通。
同八両宛
小普請方 御勘定 御用談所調役 渋沢成一郎 渋沢篤太夫 後徒目付組頭 穂積寛之輔
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 右之通得貴意匆々可被相渡候
  子十二月


渋沢栄一 書朝[渋沢栄一 書翰か?](川村恵十郎宛)〔元治元年〕一二月一七日(DK010023k-0004)
第1巻 p.335 ページ画像

 渋沢栄一 書朝[渋沢栄一 書翰](川村恵十郎宛)〔元治元年〕一二月一七日
                 (川村久輔氏所蔵)
恵十郎様 篤太夫
  尚々、本文認済候処、梅沢孫太郎より書状到来、是同断之趣旨且又成一郎よりも書状到来、御小人目付壱人立帰申候、是も同断之由に候為念申上候
御途中深雪嘸々御煩労御察申上候、弥御勇健御登京可被為在奉欣賀候随而嘉兵衛始小子迄無事罷在候、是高慮易思召可被下候、今津駅より黒川江の御状到着慥に披見致候由に候、然処御出立候哉否枡屋源蔵亮之介書状持参に而到着、則別紙差上候通に而、賊徒弥降服之模様に候、尚又引続き織田市蔵より播州への書状、是又同断之模様に候、其後七ツ頃加州より使者到着、別紙申上候通是又同断、就而は弥以実正降服に相違無之被存候、右に付大監察始参政局之議論も色々紛冗、先者寄手諸藩へ分配御預、其上
公辺之御裁判を受候義公平と評議有之候、乍併未タ何れとも確定者不仕候、小生輩之愚存も先者其間に有之候、加州之取計呉々も感服、武士道之真意を貫き候義と奉存候、しかし黒川抔之論者さまても無之候右模様に候得は先々不日に落着仕候儀と奉存候、乍然此上之御処置により如何とも難測奉存候、宜御熟慮其地御周旋有之候様奉希上候、右之段申上度、余者拝面万縷可申上候、頓首敬白
(元治元年)十二月十七日夜認メ
                       篤太夫
                         拝拝《マヽ》
     恵十郎様
追啓、別紙二通壱通は水島氏より之御書状、御帰を御持申上度存候得共《(待)》もし急用にもとそんし候間さし上申候、且又肥藩吉田鳩太郎書状今日七ツ頃到来、乍失敬箱入之処開封致差上可申存候処、中に書状壱封外ニ縁頭鐺共三品有之候、折節黒川居合遂ニ取揚申候、敢而小生之所作には無之候間、不悪御承諾可被下候、右御断迄申上候
将又密呈壱封極秘ニ候間、偏ニ御熟考被下度奉存候、早々以上
三白、別紙黒川より二通且又御披見可被下候《(是カ)》