デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.450-485(DK010034k) ページ画像

慶応三年丁卯正月十一日(1867年)

徳川昭武ニ随ヒ、横浜ヨリ乗船シテ仏国ニ向フ。

上海《シヤンハイ》・香港《ホンコン》・柴棍《サイコン》・新嘉埠《シンガポール》・錫蘭《セイロン》・亜丁《アテン》・蘇士《スエス》・該禄《カイロ》・亜歴散大《アレキサンドリア》・馬塞里《マルセイユ》・黎昂《リヨン》等ヲ経テ、三月七日巴里ニ着シ、カプシンヌ街ノガランドホテルニ館ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二一―二四丁 〔明治二〇年〕(DK010034k-0001)
第1巻 p.450-451 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二一―二四丁 〔明治二〇年〕
○上略 偖て民部公子の一行が京都を出発したのは、十二月二十九日であつたから、慶応三年卯の歳の正月元日は、長鯨丸といふ船の中で祝つて、横浜へ着船したのは四日か五日の頃であつた、横浜の滞留が五六日許りで、其中に諸般の支度を整ひ、御勘定奉行小栗上野介外国奉行川勝近江守抔いふ人々にも面会をし、また語学の教師であつた仏人のビランといふ人に招宴せられたが、此の時始めて洋食の午餐をたべました、万端の都合も整頓して、愈ヨ正月十一日を以て仏国郵船アルヘー号といふのに乗込んで日本の地を離れたが、是れぞ西洋各国巡回の、行程
 - 第1巻 p.451 -ページ画像 
何万里といふ旅行の首途でありました、自分は勿論、水戸から随従した七人の扈従も、外国旅行は少しも様子が分らぬから、船中でも随分可笑しい様ナ話しもありましたが、夫等は要用ナ話しでないから略します、殊に此の旅行の日記は、曩きに自分と杉浦靄山といふ人と共に筆を取つて、航西日記といふ一書を編述したことがある、詳細の事は其書に記録してあるから、それに譲ることゝします、
偖て愈ヨ外国へ往くと決した以上は、是まで攘夷論を主張して、外国はすべて夷狄禽獣であると軽蔑して居たが、此の時には早く外国の言語を覚へ、外国書物が読めるやうにならなくちやいけないと思つた、其上自分も京都で歩兵組立の事を思ひ立て、其事に関係してからは、兵制とか医学とか、又は船舶器械とかいふことは、到底外国には叶はぬといふ考へが起つて、何でも彼方の好い処を取りたいといふ念慮が生じて居つたから、船中から専心に仏語の稽古をはじめて、彼の文法書などの教授を受けたけれども、元来船には弱し、且船中では規則立つた稽古も出来ぬから、自然と怠つて、詩作などをして日を送ることゝなりました、此の一行の中にも外国奉行の向山隼人正と同組頭の田辺太一、同調役の杉浦靄山などいふ人々は、相応に文学もあり、殊に向山は詩人ともいはれる程の上手であつたから、船中にても日々闘詩などをして無聊を慰めたことでありました、又一行の人数は都合二十八人許で、一船日本人で充満するといふ有様であつたが、さて長き航海も、極めて平穏無事にして、各地寄港の土地に於て、一両日の滞留もあつたが、丁度横浜を出帆してから、五十九日目、即ち二月二十九日に仏国の馬耳塞港に到著したことである、
夫れから仏国の首府巴里にいつて、此度の大博覧会の礼典に来会したといふ趣意を以て、当時の仏帝第三世拿破翁に国書を捧呈して返書を受取り、表向の礼式を済した、尤も此礼式に関する事は、外国奉行の手にて、調役抔が取扱ふから、自分は公子一身の事を取扱ひ、或は日本へ公信を発するといふ時には、筆を執て其信書を認め、又は山高はじめ公子専属の人々へ月給を支給したり、公子の為めに雑品を買入たりする時には、都て自分の手を以てこれを弁じて、恰も書記と会計とを兼ねての職掌であつたが、平常は至て閑散であつたから、其間に仏語を勉強する考で、一行中の両三人と申合せをして、教師を一人雇ふことにした、尤も公子及び外国奉行などは、巴里に於て有名なグランドホテルに止宿せられたが、自分等両三人は別に借屋をして、毎日教師を呼んで親切に教授を受けたから、一箇月程にして、簡易の日用語位は、片言なりとも出来るやうになつたに依て、買物にいつても、先づ半分は手真似で用が弁ずる程になつて来た。
   ○栄一ハ「民部公子の一行が京都を出発したのは十二月二十九日であつた」ト語リタレドモ、後掲御用日記其他ニヨレバ、栄一ハ正月三日京都ヲ出発シ、同月九日横浜ニ着シタルナリ。


渋沢栄一 御用日記(DK010034k-0002)
第1巻 p.451-462 ページ画像

渋沢栄一 御用日記 (渋沢子爵家所蔵)
慶応三丁卯年三月中 西洋千八百六十七年 第五月中 法郎西国都府巴里斯ニ而博覧会と唱へ、世界にあらゆる物産を集会する大挙あるにより、同盟之国々より
 - 第1巻 p.452 -ページ画像 
いつれも公使を出し其挙に赴かしむるによりて、忝しけなくも徳川民部大輔殿我大君殿下の台命を被為 蒙御名代として其会に被為赴、尤も会終り、御使命被為済候上は、同国江御留学可被成旨をも被為 任御附添には御作事奉行格御小性頭取山高石見守、彼地御用筋幹事として被仰付、御目付松浦越中守は黄賓港迄諸事取扱候様とて御供被仰付其他御医師高松凌雲、砲兵差図役頭取勤方木村宗三、俗事役御勘定格陸軍附調役渋沢篤太夫は御差添被召連、御扈従ハ菊池平八郎・井坂泉太郎頭取ニ而加治権三郎・皆川源吾・大井六郎左衛門・三輪端蔵・服部潤次郎七人、黄賓迄の御警衛は折節帰府いたし候遊撃隊之者ニ而相心得 松平肥後守殿家来横山主税、海老名郡治、仏国留学願済ニ付御同船、御供被差許 御支度も万端取調ひ、諸事御手順御行届ニ付、正月三日京都御出発と治定いたす
 正月三日 晴 西洋千八百六十七年二月七日
朝九字京都御旅館内なる御住居御出発、御乗切ニ而伏水御着、淀川筋御乗船、即夜大坂御着、同所西本願寺御旅館御供之向は石見守越中守高松凌雲、及御小性七人ニ而、木村宗三・渋沢篤太夫は御用荷物ニ附添、二時頃京地出立、伏水より夜船、翌暁七時着坂いたす
 正月四日 晴                  二月八日
暁六時御供揃ニ而御出立、西之宮御昼食 夕五時兵庫津御着 此日兵庫ニ而湊川のこなたなる楠公之墓碑江御参詣被遊 御本陣衣笠亦兵衛御旅館 此日公子ニは御乗馬ニ而御供方は歩行なれは一同疲労いたしぬ、俗事役渋沢篤太夫は坂地二而御買上品有之ニ付、同日九時同所出立、夜十時兵庫着いたす、此夜当地迄御供いたしぬる役々其外江御警衛骨折候ニ付銀子を被下
兵庫より横浜迄の御召船は長鯨丸といふ御船と兼而治定いたしぬれは朝七時為御船見分俗事役渋沢篤太夫罷越、船長并俗事之向江御乗組之手筈引合およひ、昼十二時御乗組 此日兵庫ニ而は公子の御乗組を見送り奉るとて長幼となく海岸に蟻集して拝しぬ 四時頃同所御出帆、此日今般仏行御附添之外国奉行向山隼人正、支配調役杉浦愛蔵とも急御用ニ而上京いたし、御用済直ニ御供いたすとて早追ニ而今朝当地江着しぬれは、直様御同船ニ而御供いたす
 正月六日 風雷暁軽雷              二月十日
昨夜より天気あしく、東南の風はけしく、雨を交ゐ、風濤殊にはけしく、暁にいたり紀州大島に船を繋き、風洋を見合せぬ、昼第二時頃雨歇ぬれとも、風尚つよけれハ出帆なく、大島村江御上陸、所々御遊歩蓮生寺と申寺院江被為入、暫時御休息ニ而御帰船
 正月七日 風雨                二月十一日
昨夜より風替り、西北の風いと烈しく、朝八時頃天気晴て追々風も穏かなるとて、昼第一時頃同所御出帆のところ、風斜に吹当り、船の揺動つよく、折ふしは風潮甲板の上をそゝきけれとも 公子は更に御いとひなく歩行し給ふ、夜に入て追々風洋よく、蒸気無弛、翌遠州灘にいたる、此日本船役々水士迄江為樽代金弐拾五両を被下、一同難有御礼申上る
 正月八日 晴夜雨               二月十二日
暁之頃富峰を東北に見る、次第に順風ニ而、船の揺動も少しく、夜に入り浦賀の沖にいたる、折ふし烟霧くらけれハ、暗礁の恐れありとて其夜は同所に錨を投しぬ、横浜迄の舟行日々の里数并東経北緯の度数
 - 第1巻 p.453 -ページ画像 
等は日本船ニ而知り難けれハ之を略す
 正月九日 晴                 二月十三日
朝八時黄賓御着船、即刻外国奉行川勝近江守・平山図書頭・栗本安芸守本船江罷出御機嫌を伺、十時頃仏国全権レヲンロセス同国水師提督とも御船迄罷出て御安着を祝す、引続て御老中小笠原壱岐守殿、若年寄立花出雲守殿・海軍奉行並大関肥後守・大目付滝川播磨守・御勘定奉行小栗上野介・神奈川奉行早川能登守・水野若狭守・御目付赤松左京御機嫌伺として罷出る、第一時 公子は小船ニ而仏国の軍艦を御訊問のところ彼国軍艦より二十一発の祝砲を打砲し、敬礼をなせるにより神奈川の砲台よりも同様の打砲して答礼せり、御訊問後 公子は修文館江被為入暫時御休息、御供之向は夫々手分ニ而御用物運輸又は諸事引合等精々行届きぬ 此日第二時後より石見守は支度取纏ニ而江戸表え罷越す 此夜七時仏国公使より御招待申上けれハ、夕七時頃より当地なる仏館江被為入御相伴は前の役々数員罷出、御饗応相済、修文館江御帰宿被遊
此夜仏国ミニストル江御土産大和錦二巻を被遣
 正月十日 晴                 二月十四日
此日は修文館御逗留、明十一日仏国飛脚船出帆の由なれは、夫是御用取扱御用意金為替方飛脚船各室割合其外御用荷物積込等、無手落果しぬ、公子には此夜も仏国公使の御招待ニ而前夜の刻限を以御越なされぬ、御相伴も前夜同様ニ而種々御饗応、夜十時頃御帰宿 此日夕五時頃石見守江戸表より罷帰る 是迄御警衛いたせし遊撃隊御用済ぬれは明日帰府可致申達し、為酒代金子七両弐分一同江被下
 正月十一日 曇朝微雪             二月十五日
朝七時飛脚船御乗組御附添役々も追々乗組たれハ、九時半横浜御出帆此日御老中壱岐守殿始諸向役々本船江罷出御見立申上候、仏国ミニストルも同様御見立として罷越す、御出帆後一行之役々外国奉行支配組頭田辺太一已下御目見被仰付 壱岐守殿家来尾崎俊蔵と申者も肥後守殿家来同様留学願済ニ而御同船御供いたす
    御附添役々名面左之通
                 御勘定奉行格外国奉行
                      向山隼人正
                 御作事奉行格御小性頭取
                      山高石見守
                 歩兵頭並
                      保科俊太郎
                 奥詰医師
                      高松凌雲
                 大御番格砲兵差図役頭取勤方
                      木村宗三
                 外国奉行支配組頭
                      田辺太一
                 御儒者次席同翻訳御用頭取
                      箕作貞一郎
 - 第1巻 p.454 -ページ画像 
                 小十人格砲兵差図役勤方
                      山内文次郎
                 外国奉行支配調役
                      日々野清作《(ママ)》
                 同
                      杉浦愛蔵
                 御勘定格陸軍附調役
                      渋沢篤太夫
                 外国奉行支配調役並出役
                      生島孫太郎
                 外国奉行支配通弁御用
                      山内六三郎
                 御雇民部大輔殿小性頭取
                      菊池平八郎
                      井坂泉太郎
                 同同中奥番
                      加治権三郎
                      大井六郎左衛門
                      皆川源吾
                      三輪端蔵
                      服部潤次郎
                 外
                      隼人正従者 壱人
                      石見守従者 壱人
                      小遣之者 三人
                 隼人正以下
                  総計人員弐拾五人
右を一行として、其他此度仏国より諸世話取扱として為附添候同国人シユレイ、独逸国ベーレーン人アレキサンドルフヲンシーボルト、是は本国帰省之処永々横浜表滞在、御邦言語にも相通せしにより、同行せしめ、右主従四人ニ而都合一行人数弐拾九人となりぬ
 正月十二日 晴風北 北緯三十二度五十五 東経百三十二度三十三 速三百里 二月十六日
  北緯東経並舟行の里数は其日之模様ニ而船中張出しなき日もあれは取次慥ならす
順風なれとも風故舟中揺動し、甚随意ならす、朝第九時紀の大島を過る、五六日前碇舶せしを思い出して蒸汽船の速なるを覚ゆ、第一時過土佐の地方を認る、本船より一里先に英国メール船の〓行を見る、夜に入り雨降出し風東となる、終日船の揺動は止まされとも一行のもの更に疲労の気色なし
 正月十三日 曇夕晴 北緯三十度五十六東経百三十度四十八 速 二月十七日
前宵より雨降り風西となる、第十一時頃土井崎に並ひて航し、第一時薩摩鹿児島港口を過る、此日は雲霧模糊として眺望随意ならす、薩摩大隅の地方辺処処雲間に見る、名にしおふ海門岳も雲靄ニ而半腹より見えす、追々船揺動せり
 - 第1巻 p.455 -ページ画像 
 正月十四日 曇又雨 北緯三十度五十東経百廿三度〇六 速二百八十里 二月十八日
暁より西風烈しく船の揺動甚しく、折ふしは風潮の甲板上を灑き、又は明り窓より各室に打入、或は餐盤上の器械を覆し抔して物すこき様なれは、公子にも終日船室にましまし一行の者ハ総而海疾に悩まされ各室に枕籍して甲板上もいと物淋しく餐盤に附し者は十に壱二なりし十五日の暁にいたり船楊子江に入りて漸揺動も静になり人々喜悦の色を顕はす
 正月十五日 曇 北緯東経           二月十九日
払暁より楊子江に入りぬれハ海色黄濁ニ而風波も高からす揚子江は支那第一の大河なる黄河の海に注く処ニ而両岸ともに眺望とゝかす、渺茫たるさま大洋に異ならす、やかて河はゞのせはまりしと見へて、遥に両岸の樹色を見る、第十一時呉淞江といふ枝流に遡りて投錨し、直ニ小船ニ而上海港御上陸、アストルハウスといふ西洋旅館江御旅館ましましぬ、一行のもの一同御供いたしぬ、暫くして当地在留仏国のコンシユルセ子ラール、引続て英国のコンシユル等罷出、御機嫌を伺ひ御安着を祝す、仏国コンシユルセ子ラールは明日御遊覧のため第十時に馬車を備御迎ひ申上度儀を申上る、此夕は揺動の憂もなけれハ 公子を始め奉り一同安眠いたす
 正月十六日 曇                二月二十日
朝来淡陰、微暖ニ而春めきたる趣をなす、第九時頃仏国軍艦プリモケーの提督ホシエー副将二員と共に御旅館に来り、御安着を祝す、呉淞江狭くして人家に近けれハ祝砲の式なしかたしとて、軍艦江御尋問は御断申上る、第十時昨日約束せし仏国コンシユル館江被為入、隼人正石見守其他役々御供して上海城辺処々御遊覧被成ぬ、昨日の御答礼とて英国コンシユル所江御立寄ニ而御帰館、御留守中英国東洋備の水師提督代任ハスエル御尋問申上る、御他出中なれハとて名刺を請取て是を返しぬ、仏国コンシユルより公 子の御名号漢文字ニ而伺度由申来たれハ、則日本大君親弟従四位下左近衛権少将徳川民部大輔源昭武と記し送り遣す、第二時頃当地道台支配向なる張秀芝・陳福勲といふ二人之者名刺を出して御起居を伺ふ、両人とも卑官なれハ面謁は乞はすとて、隼人正石見守其他数員の役々ニ而面会し、来意を謝す、両人共ニ恐縮の体ニ而鎮台の参上せさるを陳謝す、且相応の御用相勤度旨を申述る 此節の通弁はシーボルト并仏のコンシユル所の士官なり
此方よりも相当の答礼して差返しぬ、夜五字頃より公子并隼人正石見守通詞旁保科俊太郎とも御供して仏のコンシユル所江御越被成、種々御餐応申上船中御慰とて支那茶二函を献す、第八時頃御帰館
 正月十七日 晴 北緯三十一度十五東経百十九度〇九 二月廿一日
此日飛脚船出帆なれはとて朝より行李取おさめ、諸方の御答礼等取済し公子はハツテーラニ而本船江御乗組一行も追々乗組ぬれハ、第一時頃上海を御出帆、元と来りし揚子江を下り、洋中に出る、風穏かに波なくして、船中平寧なり、上海ニ而調へしと見へて夕饌に魚類を多く餐す、昨夜御饗応の御挨拶として緋縮緬壱疋を仏のコンシユルセネラール江被下 此日御邦江第一号の御用状差立る
上海は呉淞江に沿たる一街衢ニ而西洋諸国商人の出店も多くあれハ、
 - 第1巻 p.456 -ページ画像 
いと賑はしき土地なれとも、支那従来の街衢は狭隘ニ而甚汚穢を究む就中上海城といふ城中の市街は酒肆肉舗の類の多けれハ、臭気堪難し土人は陋劣ニ而然も浮薄の体あり、非人乞食の類多し、本邦の政態も一斑を見て推計るへきを覚ふ
 正月十八日 曇 北緯二十八度十一東経百十九度三十二 速二百六十五里香港迄五百七十五里 二月廿二日
洋中に出て稍過ぬれとも、黄河の余濁と見へて海水黄色あり、時々支那地方を西の方に見る、波濤静かに船穏やかなれハ一同釈然の想をなす
 正月十九日 曇 北緯廿四度十九東経百十六度二十八 速二百九十里香港迄二百八十五里 二月廿三日
朝より海色漸浅黄となりぬ、風和らかに時候長閑なり、船の右手支那地方に処々漁船の帆影を見る、夜に入ても船中穏やかなり
 正月廿日 晴                 二月廿四日
此日は快晴にて舟中揺動の憂なく、気候清温ニ而頗る春色を催す、支那地方の山々を見る、潮州辺にもありなんと想はる、第十時頃香港御着船 公子は本船のバツテーラニ而御上陸被成、同所旅店ホテルデフランスといふ客舎に御投宿、しはらくして香港英国の鎮台アジユダントをして御起居を伺ふ、此方よりも隼人正罷越して答礼す、御供の役役引分れ過半本船江罷帰る
 正月廿一日 晴                二月廿五日
此日同所御逗留、朝十時頃当地にある銀座御一覧、御帰途より隼人正英国軍艦フリンセスロヤル江罷越、水師提督を訊問す、午後第二時仏国之コンシユル御機嫌を伺ふ、第三時本地の英国獄舎を御一覧、夫より市街御遊覧、此日御同船せし瑞西商人の沓を献せしかは、御挨拶とし縮緬壱反を被下、此夜旅舎の夜餐に氷製の菓子を餐す、其味甚美なり香港は英領なれは、市街も多く欧洲にひとし、其中支那街衢もあれとも上海の比ならす、土人も上海にくらぶれハ其優を覚ゆ、英国獄舎の宏壮ニ而行届たる様、且其罪人に各其業を営ましむる処置等の遺漏なきに一同感し入りぬ、其一端を見ても本国の富強なる推て知るに足るへし
 正月廿二日 曇                二月廿六日
朝本地鎮府江御滞在中夫是配慮せし挨拶とて隼人正可罷越旨申遣せしに、鎮台の他出せし由ニ而陳謝あれは、同人は仏国のコンシユルを訊問し、第十一時公子はバツテイラニ而仏の飛脚船御乗組被成、尤是迄航来の飛船アルヘーは当地限ニ而昨日より同国飛船アンペラトリースといふ船に乗替ぬ、右はいと大なる船ニ而、然も壮麗を極めたり、仏国コンシユル為御見送本船迄罷越す、第二時御出帆、第四時頃海安地方を認る、夜に入りて船少し揺動せり、今朝御国江出状之便あれとも差向たる御用のなけれハ略しぬ
 正月廿三日 晴 北緯十八度四十東経百八度五十一寒暖計七十五度 速二百七十八里柴棍迄六百三十七里 二月廿七日
  昨日迄の寒暖は大概御国にひとしけれは度数を記することを略す濤路の追々熱帯に進めるにより、暑気増して御国四五月の候と覚ゆ、洋中は風冷にてさまてに難堪を覚えす、此日は順風ニ真帆打挂、舟行如意四方に認むる地方もなく甲板上の眺渺邈たり、昨日香港を発せしより今日第十二時迄二百七十八里を航し、是より柴棍迄尚六百三十里余
 - 第1巻 p.457 -ページ画像 
ありといゑり
 正月廿四日 晴 北緯十三度五十五東経百七度二十三寒暖計七十六度 速三百里柴棍迄三百三十七里 二月廿八日
昨夜より暑気稍増して航海の南移せしを覚ゆ、風波は殊に穏かに時々安南の小島を見る、第十一時、遥に帆前船の〓行するを見る
 正月廿五日 晴                 三月一日
朝より次第に地方近く、第十二時瀾滄江の入口なる灯明台山の麓にいたり、此辺より水先案内之者本船江乗組て川口江入りぬ、上流に遡ること凡六拾里計ニ而川幅も漸狭く、或ハ曲折せし処にては船を戻して楫を換へ、両岸とも切迫すれとも、水深しと見へて舟行隙り《(ママ)》なく、岸は 椰子ヤシ 又は榛の木様の雑木叢茂して緑葉繁鬱せり、夕六時柴棍の碇泊所に到る、日暮たれハ御上陸はなし、本地は安南地にて、四五年前より仏国の分取せし土地なりといふ、夜に入、鎮台の名代として使節の者本船江罷越、明日御上陸の時刻馬車御迎の手筈等申聞る、此夜は風冷しく気候秋の如く、両岸とも満緑の草木種々の虫声の澄わたりて聴えけれハ、殊更に幽情を催す
 正月廿六日 晴 北緯十度七東経百七度寒暖計八十三度 三月二日
朝七時御迎船来りけれハ、公子は直様御上陸、御供は隼人正石見守其他扈従の向陪従せり、御上陸の節、軍艦ニ而二十一発の祝砲を発す、騎兵半小隊程ニ而馬車の前後を警衛申上る、本地鎮台を御尋問のところ茶を奉り、武楽を奏す、且本国博覧会に傚へしとて様々の樹木禽獣抔取集めありしを御一覧、夫より市街御遊覧、第十時御帰船、暮五時より尚又鎮台より御招請申上けれハ、隼人正石見守其他御扈従向御供ニ而被為入、種々御饗応、当地在留の諸士官相つとへ、音楽を奏し、御旅況を慰む、夜十時御帰船
 正月廿七日 晴 寒暖計八十七度         三月三日
本船は飛船なれは朝より旅客の乗込ぬる事いと多く、中に婦人小児抔も見へ、又荷物を多く積ならへ甚鬱陶を覚ふ、昼十時御発船、瀾滄江を下り、四時頃川口なる灯明台山の麓に到る、先に乗組し水先案内は是より帰る、追々大洋に〓航す、片帆なれとも風追手なれハ舟脚早く甲板上も風故に暑気稍凌よし
 正月廿八日 晴 北緯六度二十一東経百三度五十六寒暖計八十二度 速二百四十七里新嘉埠迄三百四十一里 三月四日
風、前日に同しく、片帆真切二而舟行尤疾し、晩餐に御国白瓜様の菓を饗す、酸を加へて食す、味ひ美なり
 正月廿九日 晴 北緯一度四十五東経百二度十三寒暖計八十二度 速二百九十一里新迄五十二里 三月五日
朝島嶼二ツを右の方ニ見る、午後次第に地方近く、第二時頃新嘉埠港なる灯明台を行過る 此灯台は海中に突出せし岩に台を設けしなれは、然も荘厳なり、先年荷蘭船の風難に逢ふて右船に乗組し御国より伝習之ため渡海する士官困苦せし処なりと云ふ 夕六時頃、新嘉埠着、御碇泊間もなく仏国コンシユルセネラール本船に来りて御機嫌を伺、且明日当地御遊覧の手続を申聞る、夜に入り石炭を積入るとて尽く船窓を鎖したれは、夜熱殊ニ其酷しきを覚ゆ
 二月朔 晴 寒暖計八十三度           三月六日
朝六時御上陸、当港は海岸迄水底の深けれは港口へ浮波塘を拵置、船を挂たれは小船もて上陸する煩ひなし、御供は隼人正石見守其外御扈従向ニ而、先仏のコンシユール所江御訊問、夫より花園御遊覧あり、本
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港ハ他港と異なりて港口より街衢迄一里余もありぬれは馬車往還の眺望異俗田園の風情いと興を添ふ、土人は四時とも衣服を用へす、只紅なる布ニ而頭上と腰を纏ふ、面色極て黒し、港口碇泊之辺江村童の多くつとへ来て、瓜皮の如き小舟を浮めて旅客の投銭を乞ふ、たまたま銭を投すれハ、水底へ沈没してこれを拾ふ、其さま恰蛙の游泳する如し其興を慰む、夕五時頃発汀、順風に帆を捲揚ぬ、此日仏国コンシユールセネラール為御見送夫妻同行ニ而本船へ罷出る、御国江第二号御用状差出す
 二月二日 晴 北緯二度東経九十八度四十二寒暖計八十六度 速百九十九里錫蘭迄千三百五里 三月七日
風故暑気は少しく凌易きを覚ゆ、朝右手に麻刺加地方を見る、昨日も旅客の増加しぬれハ甲板上いと混雑せり
 二月三日 晴 北緯五度三十二東経九十五度十四寒暖計八十七度 速二百六十里錫迄千四十五里 三月八日
美晴軟風ニ而舟行は快けれとも暑気ハ甚酷し、第十一時左の方に小島を見る、帆前船の遥に〓行するを見る
 二月四日 晴 北緯五度五十四東経九十度十寒暖計八十五度 速三百里錫迄七百四十五里 三月九日
天気朗晴、軽風ニ而聊苦熱を忘る、風波も穏なれハとて、本日より公子并御附添とも仏語御稽古を初む
公子江は一行の留学生保科俊太郎御相手申上、御附添ハ山内文次郎より受へくとて朝夕両度の日課を定む
 二月五日 晴 北七度〇七東八十五度五十八暖八十五度 速二百四十八里錫迄四百九十七里 三月十日
昨夜蒸気器械の損せしとて、夜三字頃より〓行をとゞむ、暁五時頃修理せしとて発しぬ、其為に五六十里の航路を費せりといふ
 二月六日 晴 北六度十六東八十一度三十一暖八十二度 速二百七十里錫迄二百二十七里 三月十一日
今暁第四時頃、尚又機関の損せしと見へて〓行を止む、第九時頃にいたり再ひ修繕す、されとも順風なれハ、修覆中帆前ニ而一字間三四里程を進む
 二月七日 晴 寒暖計八十七度         三月十二日
朝七時錫蘭島の内ホヱントデガール御着、朝餐畢りて十一時頃御上陸ヲリヱンタルホテルといふ客舎江御投館、暫時御休息、御一時頃英国《(マヽ)》より在勤せるゴヲフルニウヱイシコン并陸軍士官とも来りて謁を乞ひ、御安着を祝す、且馬車を備へ市中御遊覧を申上る、午餐後市街御遊覧第七時夜飯おわりて御帰船、此地釈伽涅槃の旧寺院ありしか、公子は御間隙なけれは御越なく、一行之内ニ而相越せし者もあれと、いと寂寥たるさまにて別に記すへきことなし
此地土人は大概新嘉埠同種ニ而、風俗も稍同し、蝟毛鼈甲の細工物多く産す、地形三面とも海を帯て海岸ニハ処々礟台あり、往昔は阿蘭領なりしか、千八百年頃英国に侵掠せられしといふ
 二月八日 晴 寒暖計八十四度         三月十三日
朝十字ポエントデゴール御出帆、昨日より暑気弥増して一同堪兼ぬ、且旅客追々乗組たれハ、甲板上も混雑して甚た閙隘の想を為す、第一字頃洋中に鮫魚の多く躍り出るを見る、夕三時頃驟雨来る、又一抹の点雲空中にありしか、気の蒸熱せしと見へて、潮を捲上ること恰も陸地の驀風にひとしく、これなん所謂竜巻なりとて人々奇観の想をなす暫して雨歇て天気朗晴なり
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 二月九日 北七度十東七十三度廿九寒暖八十四度 速二百六十七里亜迄千八百六十八里 三月十四日
昨日の雨故にや暑気少し減して凌よし
 二月十日 晴 北八度〇四東六十九度十八暖同断 速二百五十七里亜迄千六百十一里 三月十五日
朝、海馬の波間に浮出するを見る、暑昨日と同し
 二月十一日 晴 北九度〇四東六十四度四十五暖八十度 速二百七十五里亜迄千三百三十六里 三月十六日
午餐に西瓜を食す、味甚淡泊なり
 二月十二日 晴 北緯十度十五東六十度〇六暖同断 速二百八十四里亜迄千〇五十六里 三月十七日
暑気昨日と同し
 二月十三日 晴 北十一度三東五十五度二十七暖七十八度 速二百八十二里亜迄七百七十四里 三月十八日
夕方より風歇て暑気酷し
 二月十四日 晴 北十一度五十一東五十度四十暖八十一度 速二百八十八里亜迄四百八十六里 三月十九日
午前より亜剌比亜地方にある島々を見る、夕方帆前船の〓行するを見る
 二月十五日 晴 北十二度二十九東四十五度五十二暖八十二度 速二百九十里亜迄百九十六里 三月廿日
風涼なく暑気尤酷烈なり、夕方より紅海に入りしと見へて時々島嶼を見る、午後、鯨魚の洋中に浮ふを見る
 二月十六日 曇 寒暖計八十四度        三月廿一日
朝第六時亜丁御着、直ニ御上陸、馬車ニ而御遊覧、当地は総而焼山ニ而絶而草木なし、水至而乏しく雨は両三年間に壱度位降るといふ、土人は色極て黒く、髪毛焼爛して恰も夜叉のことし、驢馬駱駄の類を多く産す、市街は海辺より壱里程もありと覚ゆ、陌頭と見へし処に大なる城門あり、山に倚て要害厳重なり、此日十時頃雨少しく降けれとも、乾燥の土地なれは更に湿はす、十一字頃御帰船、夕第三時発汀せり、此日御国江第三号の御用状差出す
 二月十七日 晴 北十五度五東三十九度五十一寒暖八十一度 速二百六十六里蘇士迄千四十二里 三月廿二日
朝、亜弗利加州北辺の島を西に見る、順風なれども烈しければ船頗る動揺せり
 二月十八日 晴 北十八度五十八東卅七度〇四暖八十三度 速二百八十四里蘇士迄七百五十八里 三月廿三日
暑気稍減し、聊苦熱を免かる
 二月十九日 晴 北二十二度五十八東卅四度五十五暖八十一度 速二百六十八里蘇迄四百九十里 三月廿四日
朝より西風烈しく船動揺せり、九時頃より逆風弥吹募り、怒濤甲板上に打揚る程なれは、散歩の人もいと稀なり、夕方にいたり稍静まる、伊太里蒸気船の蘇士より来りしを見る
 二月廿日 晴 北廿六度卅二東卅二度四十七暖七十八度 速二百五十里蘇迄二百四十里 三月廿五日
昨日より追々暑気を減す、夕仏国の軍艦〓行するを見る、左に亜弗利加地方、右に亜剌比亜地方を見る、風順にして船行静なり
 二月廿一日 晴 暖計七十八度         三月廿六日
順風ニ而舟行疾し、海湾の追々隘まると見へて漸両沿の山を見る、十二字頃蘇士着、川蒸気に御乗替、御着岸御上陸 同所客舎に御休息、御上陸之節仏国コンシユール警衛のもの差出し、御出迎申上る 夕餐後第七時蒸気車御乗組、第八時御発軔、同夜第一時核禄 埃及都府 にいたり暫時御休息、直に発軔 当地は旧地ニ而種々奇古の品有之地なるよしなれとも夜中なれは御遊覧はなし
 二月廿二日 晴 寒暖計七十七度         三月廿七日
今朝第十一時亜拉散大御着、蒸気車会所より馬車に御召替、同所客舎江御休息、無程仏のコンシユールセネラール罷出、御安着を伺、御招請
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之儀申上る、且居宅手広に付、御止宿之儀申上、隼人正石見守・保科俊太郎御扈従向御供ニ而夕二時頃より馬車にて市中御遊覧、夫より同所江御越、此夕コンシユール其外士官罷出、御饗応申上る、当港は埃及国の別都ニ而地中海より西洋渡海の湊なれハ、舟船輻輳して市街も頗る繁華なり 昨夜より暑気次第に減して御国四月頃の気候と覚ゆ
 二月廿三日 曇 寒暖計七十度         三月廿八日
地中海の飛脚船今朝十一時出帆之筈ニ付、公子は昨夜御止宿の仏館より直ニ御乗船の積なれは、一同役々も十時頃より荷物等取纏ひ、同船江乗組ぬ、無程仏国コンシユール警衛の者差出し、バツテーラニ而御送申上、第一時御乗組、五時頃出帆、此日空曇り風強く、時々は雨を交へ船揺動せり、御乗組ありしはサイドといふ飛脚船なり
 二月廿四日 晴                三月廿九日
風北にて〓行逆なれとも船動揺せす、終日山を見す
 二月廿五日 晴                三月三十日
風静に船穏にして〓行安寧なり
 二月廿六日 晴               三月三十一日
朝より風強く船少しく揺動せり、夕六時伊太里地なるメンイーナ港着此地より初而西洋の地なりといふ、夜に入たれハ御上陸はなし、第二時より同所御出帆風あしく船揺動せり
 二月廿七日 晴                 四月一日
朝より逆風ニ而船甚しく動揺せり、海疾にて食事に附く人いと少し
 二月廿八日 朝                 四月二日
船の揺動昨日と同しく、第九時頃コルシカ島サルジニー島の海狭を航す、いつれも仏国の属地なり、コルシカ島は仏国初代の那波烈翁誕生せし地なりといふ、此日風濤あしく、終夜船の動揺やます
 三月廿九日 曇                 四月三日
暁より西北風となり船の動弥増して甚し、第九時半仏国馬塞里港御着船、海岸ニ而二十一発の祝砲あり、暫くして御国コンシユールセネラールフロリヘラルト并御国士官の仏国に到着しある塩島浅吉・北村元四郎両人御出迎として罷出る、無程本地コンシユールセネラール御迎に罷越し、バツテーラニ而御上陸、御警衛は騎兵一小隊斗にて前後御守衛、同所なるヲテルデマルセール江御投館、此日同所鎮台并海軍惣督陸軍惣督市尹等礼服ニ而替る替る御機嫌を伺ふ、第三時馬車ニ而フロリヘラルトジユリー御案内申上、鎮台并陸軍惣督を御尋、夫より当所なる仏帝別宮其他市街を御遊覧、第六時御帰館、第八時より演劇御遊覧ニ而、第十一時御帰館
 二月晦日 晴                  四月四日
朝海軍惣督并コンシユルセネラール御尋問、夕刻より鎮台御招待ニ付隼人正・石見守・保科俊太郎御小姓四人御供ニ而御越、鎮台并附属士官等打寄御饗応申上る、夜田辺太一・木村宗三・高松凌雲・山内文次郎等為御迎罷越、第十一時頃御帰館
 三月朔 晴                   四月五日
朝御写真被為取、夫より本地之華園御越、奇禽怪獣御一覧、第二時御帰館
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此日為御迎罷出しフロリヘラルト、其他御国士官両人とも巴里へ罷帰る、尤当地御滞留ハ本月三日迄の積ニ付、四日リヨン御一泊ニ而五日巴里御着之積、申遣す
 三月二日 晴                  四月六日
今朝当地より三十里余東南なるツロンといふ所ニ而軍艦貯所其外諸器械等御一覧のため朝第七時御発ニ而御供向ハ隼人正・石見守・保科俊太郎・箕作貞一郎・渋沢篤太夫御小姓弐人ニ而御旅館より馬車ニ而蒸気車会所御越、夫より蒸気車ニ而九時半頃ツロン御着 此日美晴ニ而車中四顧の眺望十分の春色いと興を添ふ、田野には麦菜種其外名のしれぬ草木の多くありしより総て花盛りなり 兼而手筈のありけれハ、ツロンなる鎮台、夫々の役筋ニ而御出迎申上、歩兵半大隊斗御道固いたし、御着の節ハ奏楽して祝詞を呈す、無程小さき川蒸気ニ而港に碇泊せる軍艦江御案内申上、大砲其外蒸気の機関等御覧、終りに打砲調練をなし又御慰にとていと大なる炮に火薬を点して公子親ら御発砲、夫より他船三艘程御歴覧 右御越ありし船毎に十七発の祝砲を発す 第十二時鎮台の役所江御誘引、午餐を御饗応 此日御誘引に与りし士官美麗の装ニ而御相伴いたす 御饗応後尚又馬車ニ而製鉄所御越、鎔鉱炉、反射炉、其外種々器械御一覧 又銃砲の囲所御覧、終りニ人を水底に沈ましむるの伎を試ましむ、こは緻密なるゴムニ而衣服を拵、手足四股水のとふらぬ様にいたし置、頭には真銅ニ而丸く頭成に鋳立たる兜を着、耳・口の辺はギヤマンニ而張り 視聴自由ならしむ、頭上にゴムの管をとふして空気を通せしむ 此日沈没せしは水底も浅しとて凡四五ミニユト程なりしか右の空気さへ通せしめは何時ニ而も能堪るといふ 夕五時半頃先の役所江御返、事果ぬれハ暇を告、元の蒸気車会所江御越ニ而、直様発軔、夕七時御帰舘 此日御貯になりぬる紅縮緬壱疋に蒔絵の食籠壱器を当地の惣奉行え同縮緬壱疋蒔絵の香合壱ツを水師提督に被下
 三月三日 晴                  四月七日
朝第十一時より本地なる調兵場ニ而三兵調練を御覧 此日の調兵ハ歩兵三レジメンド騎兵八小隊砲兵一坐程なり尤行進而已ニ而運動はなし 此調練は去歳柬甫塞ニ而戦争之節有功之者江メダイルといふ功牌を与ふ為なりといゑり、右恩賞の式三兵を四方に布列ね中央にて稠人広坐の観望の属する処江当人を立しめ、惣督并軍監何れも、馬より下りて恩賞を申渡し、惣督手柄メダイルを襟に付け、挨拶して式終る、第一時頃御帰舘
明日当地御発之儀御都合ニ而御延引、六日御発之積、其段電信機ニ而巴里江申越す
 三月四日 晴                  四月八日
朝十時頃公子をはしめ御附添一同写真を被為取、夫より学校御一覧 精舎所ニ而種々精舎を試み、又顕微鏡ニ而細虫を写し、御覧に入る 学校奇宿所会食所部屋々々等悉く御覧、学校中寄宿の者凡五百人あり、修行料衣食料一切の費一歳九百仏なりといふ
 三月五日 晴                  四月九日
此日は終日御在館、御休息、尤隼人正并支配向とも本地コンシユールセネラール役所江罷越、一昨三日船中祝砲の数相違せしを掛合いたす事果されは《(マヽ)》巴里御着之上相談可及旨ニ而引取、此夜当地鎮台陸軍惣督コンシユールセネラール其外附役拾弐人を御招ニ而夜餐被下隼人正石見守支配向拾弐人相伴のため同盤に列る、夜十時一同退散いたす
 三月六日 晴                  四月十日
朝十一時御発、蒸気車会所ニ而蒸気車御乗組 鎮台并コンシユール其外とも為御送罷越す 夕七
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時リヨン御着、ホテルデヨーロツパ御投宿
 三月七日 晴                 四月十一日
朝七時蒸気車御乗組、直ニ発軔夕六時半巴里御着、ガランドホテル御投宿、此日巴里蒸気車会所迄御国ミニストル書記官カシヨン其外とも為御迎罷出る、尤フロリヘラルトハ要用有之旨ニ而代之者差越す
此夜、為御使魯西亜江罷越候小出大和守・石川駿河守支配向とも、同国御用済帰国の路次とて一昨夜当地着之趣ニ而罷越す、即刻御機嫌を伺ひ魯国に在し事共申上る
 三月八日 晴                 四月十二日
此間中取極置しにより、朝第七時一同御用取扱候役所江出席、御機嫌を伺ひ、夫より昨日御着之儀を当地事務大臣江申達する書翰の手続を取調、向後御滞在の規則を定む、夕六時御安着御祝として一同江御同案の夜餐被下、尤小出大和守・石川駿河守支配向をも御招ニ而同様被下
  右は京都御出発より、仏都御着日々ありし事共の概略を記せる而已ニ而、爾後の日録は旅行と異なれハ公務の条緒を摘書し置て、別に輯抄せんと欲す
   ○御用日記ハ栄一ガ徳川民部公子ニ随ヒ仏国ニ渡航セシ時ノ公務日記ナリ。栄一自筆ノ原本ハ大正十二年九月一日ノ震火災ニ灰燼ニ帰セシガ、維新史料編纂会嘗テ之ヲ謄写セルモノアリ。渋沢子爵家ニテハ更ニ之ヲ謄写セルモノヲ蔵ス。


航西日記 (渋沢栄一・杉浦愛蔵共著) 巻之一・第一―二九丁 〔明治四年〕(DK010034k-0003)
第1巻 p.462-471 ページ画像

航西日記 (渋沢栄一・杉浦愛蔵共著) 巻之一・第一―二九丁 〔明治四年〕
航西日記巻之一 青淵漁夫 靄山樵者 同録
慶応三丁卯年正月十一日 西洋千八百六十七年二月十五日 朝七時。武蔵国。久良岐郡《くらき》。横浜港《みなと》より。仏蘭西郵船《ゆうせん》《フランスヒキヤクフネ》 船号アルヘー へ乗組み。送別《そうべつ》の友人など。本船《ほんせん》まで来りしも多く。ねんごろにしばらくの別をつげ。且此の港に来住《ぢう》せる。諸州の人々の帰省《きせい》するもありて。次第《しだい》に乗組み。同九時に発せり。是一万里外。壮遊《そうゆう》の首途《はじめ》なり。折しも天晴《そらはれ》。風和《かぜやはら》き。海上穏静《をんせい》にて。伊豆七島も淡靄中《たんあいちう》に看過《みすぐ》し。遠江。伊勢。志摩など。見えて夜に入りぬ同十二日 西洋二月十六日 暁より北風にて。波高く。船動揺《どうよう》して遏《やま》ず。午前九時《ひるまい》。紀伊の大島を。右に見る。午後一時頃《ひるすぎ》。土佐の地方を望む。此の船の社長《しやちやう》なる。仏蘭人クレイといふ者。篤実《とくじゆつ》にて。諸事懇切《こんせつ》に。取扱《とりあつかひ》。簡便にて。事足り。且日耳曼《ゼルマン》の人シイボルト。といへるは。横浜に在りしが。事充《ことみ》て々。本国《ほんこく》へ帰省すとて。乗組けるが。御国《みくに》の語《ことば》に通暁《つうぎやう》し。専《もつぱ》ら通弁《つうべん》をなし。幸《さいはひ》ひに便利《べんり》を得たり
  郵船中にて。諸賄方の取扱極《きわ》めて。鄭重《ていちう》なり。凡毎朝七時頃《まいちやう》《ころ》。乗組の旅客《りよかく》。盥漱《かんそう》の済《すみ》しころ。ターブル 餐盤なり にて。茶を呑《のま》しむ。茶中必雪糖《かならずさとう》を和しパン菓子を出す。又豕の塩漬《しほづけ》などを出す。ブールと云。牛の乳の凝《こり》たるを。パンへぬりて。食せしむ。味甚美《あじはいはなのだび》なり。同十時頃に。いたり。朝餐《ちようさん》を食せしむ。器械《きかい》すべて陶皿《やきものさら》へ銀匙《ひ》。並《ならひに》。銀鉾《ほこ》。庖丁等《ほうてう》を添《そ》へ。菓子。蜜柑《みかん》。葡萄《ぶどう》。梨子《なし》。枇杷《びわ》。其他数種《ほかすしゆ》。盤上《ばん》に羅列し。随意《ずいゐ》に裁制《さい》し。食せしめ。又葡萄酒《しゆ》へ水を和《くわ》して飲しめ。魚鳥。豚《ぶた》。牛《うし》。牝羊《めひつじ》等の。肉を烹熟《じゆく》し。或《あるい》
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炙熟《しやじゆく》し。パンは。一食に。二三片。適宜《てきぎ》に任《まか》す。食後。カツフヘエー。といふ豆《まめ》を煎《せん》じたる湯を出す。砂糖。牛乳を和して之を飲む。頗る胸中《きやうちう》を爽《すこやか》にす。午後一時頃。又茶を呑しめ。菓類《くわるい》。塩肉《しほにく》。漬物《つけもの》を出す。大抵《てい》。朝と同様《どうよう》にて。又フイヨンといふ。獣肉。鶏肉などの煮汁を飲しむ。パンはなし。熱帯《ねつたい》の地に至れは。氷《こほり》を水に和して呑しむ。夕五時。或は六時頃。夕餐を出す。朝餐に比すれバ。頗る鄭重なり。凡肉汁よりして魚肉《ぎよ》の灸烹《しやほう》せし。各種の料理《りやうり》と山海《かい》の菓物《くわぶつ》。及びカステーラの類《たくひ》。或《あるひ》は糖《さとう》もて製《せい》せし冰漿《ひやうしやう》グラスヲクリームを食せしむ。夜八九時頃。又茶を点し出す。朝より夜までに。食は。二度。茶は。三度を常とし。其食する極めて寛裕《くわんゆう》を旨《むね》とし。尤烟草《もつと》《たばこ》など吸ふを禁ず。総て食事及び茶には。鐘《かね》を鳴《な》らして其期《き》《コロ》を報ず。鳴鐘《めいしやう》。凡二度。初度は旅客《りよかく》《タビヽト》を頓整《とんせい》《ソロヘル》し。再度は食盤《しよくばん》に就かしむるを常とす。若くは不食か。疾病あれば。医をして胗せしめ。其症に随て薬餌を加ふ。此等の微事《びじ》を戴《のす》るハ。贅語《せいご》《ヨケイ》なれとも。微密《びみつ》。丁寧《ていねい》。人生を養《やしな》ふ厚《あつ》き。感ずるに堪《たえ》たり。因《より》て其略《りやく》を玆《こゝ》に記載《きさい》せり
夕方。英国郵船《えいこく》《イギリス》の先発《せんぱつ》《マツイデ》して。波間《なみま》に駛行《しかう》《ハスル》せる。影《かけ》みえて夜に入り。雨風東に転《てん》《カハリ》ず。昨日《きのふ》発船より此日正午まで。三百里を航《かう》《ワタル》せり
同十三日 西洋二月十七日 雨。風西に転ず。午前十一時。土井ケ崎日向《ド》《サキ》を右手《めて》に見て。鹿児島湾薩摩《カゴシマ》《わん》を過ぐ。名にしおふ。海門岳《カイモンダケ》俗薩摩不二という も。煙霧中《えんむ》に靉靆《あいたい》《ボンヤリ》として。時々《をりをり》其一斑《はん》を望《のぞ》み。行々《ゆくゆく》。御国の影幽《かげかすか》にして見えずなりゆく。彼大船《かの》の纜《ともづな》きりはなちゆくといえる如く心雄々敷《ゆゝしく》《イサマシク》ありながら。いと余波《なごり》おしきやうに思はる
同十四日 西洋二月十八日 風烈《はけ》しく雨細し船の動揺《どうよう》甚しく折々風潮灑《をりをりふうてうそゝ》ぎ来りて甲板《かん》《フネノウヘ》を湿《うるほ》す。或は窓《まど》より各室に入れて器械など覆《こぼ》ち餐盤《さんばん》に就《つ》く者稀《まれ》なり。終日室《しうじつ》に入て枕藉《ちんせき》して《ヨリシキ》皆沈黙《ちんもく》せり。楊子江《やうすこう》の流末海面《りうまつ》に注《そゝ》ぎ
黄色渺々《くわしよくべうべう》たり。此の日二百八十里航せり
同十五日 西洋二月十九日 曇暁《くもりあけ》より楊子江に沂る 此の江海口に注ぐ極て広し河水溶々として昏濁緑黄色にて風濤洋中に異ならす 凡四十里許溯《はかりのぼ》りて左右に分流《ふんりう》《カワレ》し右は楊子江本流《ほんりう》《ホンセ》にて左を呉淞江《ごせうこう》といひて我淀河《わがよどがわ》に倍《ばい》する程《ほと》なり布帆蒲席《ふはんほせき》の支那船遠近《えんきん》に出没《しゆつもつ》せり

 随唐佳話《ずいとうかわ》に呉都松江《ゴトズンコウ》鱸魚《ろきよ》の膾《くわい》を献《けん》ずと云所謂晋《いわゆる》の張翰《ちようかん》の秋風《しふふう》に蓴鱸《しゆんろ》を思ひし所ならむ
流れ分岐《ふんき》せる所向《むか》ふ岸《きし》は砲台《はうだい》の蹟草樹生茂《あと》り故塁依然《こるいいぜん》と存せるのみ清の道光《年号》廿二年壬寅年我天保十三年西洋千八百四十二年 鴉片の乱《あへん》《らん》に大臣陣化成《たいしん》《ちんくわせい》の戦死せしも此のあたりなりといふ坐《そゞろ》に感慨《かんがい》の情《じやう》に堪《たへ》ずますます沂《のば》れば両岸楊柳《りやうがんやうりう》の春しり顔《かほ》に処々村落の見ゆるもいと風情あり漸《やうや》く帆檣《はんしやう》《ホバシラ》の影林の如く人烟《じんえん》《カマド》の稠《しげ》きを認《みと》め。なほす々みて。午前十一時頃。碇泊《ていはく》せり。少焉《しばらく》して支那《しな》人。朱塗《しゆぬり》に魚眼《きよがん》を舳《とも》に画《か》きたる小艇《こぶね》《バツテイラ》を。艣《こ》き来りて。乗合の旅客に。上陸をすゝむ。其一隻《ヒトツ》を雇《やと》ふて上海《サンハイ》港に上陸す。此の地 支那領なり我横浜より。海路千三十五里。通常程六日に至る 午後三時。同所に設《もう》けたる英国の旅舎《りよしや》に上《のぼ》り。英仏其他の人々并に本地の官人《くわんじん》《ヤクニン》来りて。安着《あんちやく》を賀し。英人嚮導《けうどう》《アンナイ》し。江に傍《ぞ》ひ遊歩《ゆうほ》するに陪《はい》せり。江岸は外国人の舘舎《くわんしや》《ヤクシヨ》連り。官邸《くわんてい》《ヤクヤシキ》には。其国々の旗を高く掲げ。各自便地《みつからべんち》を卜《し》めたり。其間に税舘《ぜい》 運上所 あり。江海北闕《こうかいほくけつ》といふ扁額《へんかく》《メジルシ》を掛《かゝ》け。門は江に面《めん》し。浮波戸場《はとば》ありて。家根を設け。
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鉄軌《てつき》を敷き。荷物陸揚《りくあげ》の便利とす。税務《ぜいむ》は 運上の事務 近年西洋人を雇ひて掌轄《せうかつ》《ツカサドル》せしめしより。氾濫《はんらん》《ミダリ》の遺利《いり》《スタリ》なく。旧来《きうらい》の弊《つゐへ》を改め歳入《さいにう》《ネング》の数《かず》も倍蓰《ばいし》《マシフエル》し。凡一歳五百万弗《どる》にいたれりといふ。我凡五百万両余に当る 物産の繁殖《はんしよか》《シゲクフエル》せる。東洋。天然《てんせん》の宝庫《ほうこ》《タカラグラ》にして。西洋人資《とつ》《タメニ》て外府《ぐわいぶ》《ソトクニ》に充《あつ》《ミツ》るなるベし。江岸は都て。瓦斯灯《がす》を 地中に石炭を焚き。樋を掛。其火光を。所々へ取るもの 設け。電線《でんせん》を 鉄線是を張り施し。越列機篤児の気力を以て遠方に音信を伝ふる。ものをいふなり。 施《ほとこ》し。佳木《かぼく》を栽《う》へ。道路平坦《へいたん》《タヒラ》にて。稍欧風《やゝをうふう》《サイヨウノフリ》の一斑《ばん》を視《み》る。夫《それ》より一里許にして城内に到りぬ。城の周囲《しうゐ》《メグリ》は。瓦《かわら》を以《もつ》て畳《たゝみ》みたる塀《へい》にて。廓門《く[わ]くもん》と思《おぼ》しき所に。兵器を 鉾の類 飾り。護兵《ごへい》《マモルモノ》といふ文字。衣《い》の脊《せ》に印《しる》したる。兵卒彳《へいそつたゞつ》めり。其辺《あたり》より辻売《つちうり》の商人《あき》。道路《とうろ》に食物器《しよくもつうつは》。翫物等《もてあそび》を鬻《ひさ》ぐ。市街《しがい》は往来《わうらい》の道幅隘《せま》く。各鄽《かくでん》。二階造《かいづくり》なれとも。簷低《のきひき》く。門狭《かどせま》し。各種。招牌《かんばん》《ヤウハイ》を掲《かゝ》げ。或は往来の上《うえ》に横截《わうさい》して挂けしもあり。牛《うし》。豕《ぶた》。鶏《にはとり》。鶩《あひる》。諸飲餐《もろもろいんさん》の店《たな》。見世先《みせさき》にて烹売《にうり》せる。故。各種の臭気《しうき》。混淆《こんかう》し。鼻《はな》を穿《うが》ち。路ハ石を敷《しき》き並《なら》べたれども。両頬《りようがは》の捨水汚湛《すてみづうたん》し。乾《かは》く間《ま》なし。諸商人。駕舁《かごかき》。薦者《ものこひ》。など声《こえ》々に呼《よばゝり》て群集《ぐんじゆ》の中を行通《ゆきかよ》ふさま。厭《いとふ》べきに似たり。古玩書肆《こぐわんしよし》。画家《ぐわか》などに至り見れども。尋常の品のみにて。奇品《きひん》なし。墨肆《ぼくし》。曹素功《そうそこう》。并に査二妙堂《さにめうどう》に行て。筆墨など購《か》ひしが。手拭《てぬぐひ》を湯に浸《ひた》し与《あた》へぬ。此は顔《かほ》をぬぐへとの事にて。茶に代《かへ》るもてなしなるベし。外諸店に至れども。烟草《たはこ》の火なく。求れハ太《ふと》き線香《せんこう》に点《てん》じて出せり。居民《きよみん》の富《とめ》る者は多くハ。駕籠《かご》に乗り往来す。貧《まづ》しきものは。衣服垢敝《こへい》《アカ》して臭気なるもの半《なかば》に過たり。城隍廟《じやうくわうびやう》に抵《いた》る。城中第一の香火の所と見ゆ。絵馬堂様の所あり。廟前の泉池に臨み八橋を架《わた》し。池心《いけのなか》一介の堂あり。礼拝香花を供する体。本邦に異ならず。社内に。覗《のぞ》き見せ物。突富《つきとみ》。売卜《ばいぼく》。錫笛《たうてき》《アメウリ》。曲芸などありて。其最寄料理割烹店等あり。いづれも簷低く。暖簾《のうれん》を掲げ。各客を迎へ。胡牀《こしせう》を借し。飲食を鬻ぐ。賓客此に群飲《ぐんいん》。合餐《がふさん》す。蓋此の日縁日ならむ。城外の市街は。寛濶《くわんくわつ》にて。往来道路も広く。朝々。魚市《うをいち》。蔬市《あをものいち》。等立て。鯉《こひ》。鱸《すゞき》。塩鯛《うくひ》の類。広東菜《かんとうな》。五升芋《ごしよういも》。其他の野菜等をならべ。何《いず》れも秤目に掛て売る。鯉鱸《こひすゞき》ハ三尺許なるも見ゆ其れより。江に傍ひて下り。一里余。新大橋と唱るあり。橋桁《はしげた》を揚卸《あげおろ》して舟行碍《さは》りなからしめ。橋銭を取る。是は兼て。宿にても切手を。売る事なり 其より先に英国。客舎も在り。其裏通に続《つゝ》き。土民の市街軒《のき》を並べたり。此の処にハ。青楼《せいらう》《アゲヤ》。演劇《えんげき》《シバイ》もありて。弦妓様《げんきやう》《ゲイコ》のものも。見へ。月琴《げつきん》などの音《おと》も聞へ。雅致《がち》あり。此の地髙官《かうくわん》の街衢《けいく》。往来を兵卒従僕《へいそつしゆうぼく》多く引率《いんそつ》して。巡邏《じゆんら》す。其行装《ぎやうそう》の整《とゝの》はざる。衣服の粗《そ》なる。恰《あたか》も児戯《しげ》にひとし。此の地仏国の教師《けうし》。支那の風体《ふうたい》となり。講堂《かうとう》を開き。教誘《かういふ》《オシヘスヽム》する者あり。亦欧人《オウ》《ひと》の支那学《かく》を研究《けんきう》する為め設し書院《しよいん》もありて。都《すべ》て欧人の東洋学《とうようがく》を修行《しゆきやう》する者。皆教法《みなけうほう》の人にて。其国の教法の由来《ゆらい》する所を推《を》し究《きは》め。考証《かうしやう》《カンガイシルス》の資《たすけ》とし。且其教を弘《ひろ》めんとせるよう。其宗旨《しうし》の積金《つみきん》より。修行《しゆけう》の入費《にうひ》《イリヨウ》を出せるよし。欧人の土人《トコロノモノ》を使役《しえき》《ツカウ》する。牛馬を。駆逐《くちく》《カリタツル》するに異《こと》ならず。督可《とくが》《シカル》するに棍《むち》を以てす。我曹。市中を遊歩するに。土人蟻集《きしう》《アリノヨウニツキ》して往来を塞ぐ。各雑言《おのおのさつげん》して喧しきを。英仏の取締《とりしめ》の兵来《へい》りて。追払へバ潮の如く去り。少《しばら》く休《やす》めは忽《たちま》ち集《あつま》る。其陋体厭《らうてい》《イヤシキ》ふべし。東洋名高《とうよう》《ヒガシノクニ》き古国にて。幅員《ふくいん》《モノカズ》の広き。人民の多き。土地の肥饒《ひきやう》。産物《さんぶつ》の殷富《いんふ》なる。欧。亜。諸州も固より及バざる所といへり。然るに喬木《きやうぼく》の謂のみ
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にて。世界開化《かいくわ》《ヒラクル》の期《き》《トキ》に後《おく》れ。独其国《ひとり》のみを第一とし。尊大自恣《そんたいしし》の風習《しう》あり。道光《だうくわう》。爾来《じらい》《コノカタ》の瑕釁《かきん》を啓き。更《さら》に開国の規模《きぼ》も立てず。唯《ただ》兵威《ゐ》の敵し難きと。異類の測られざるとを。恐るゝのみにて。尚旧政《なをきう》に因循し。日《ひにひに》に貧弱《ひんしやく》に陥《おちい》るやと思はる。豈惜《あにおし》まざらむや。此の夜鱸魚《ろきよ》《スキ》の鱠《なます》などありて。生餐《せいさん》せる広東菜《かん》《な》。味殊に佳《か》なり。始《はじめ》て水枕《すいちん》を免かれ。陸地の眼《ねむり》を覚《おぼ》ふ
同十六日 西洋二月廿日 快晴。微暖《びだん》。頗《すこふ》る春日《しゆんじつ》の想《おもひ》をなす。此の日交際《かうさい》に係《かか》る事故《じ》多く。其務《そのつとめ》に従事《じうじ》す。英仏東洋に備る軍艦の提督《テイトク》。並に駐任《トクシメ》の諸官人来りて。名刺《めいし》《ナフダ》を通じ礼問す。本日は祝日なれハ 日曜日也 西洋及び支那人共。幼稚。児女。衣服など粧ひ。遊歩踏歌《とうか》す。また夜色蒼朗月清《そうろう》く海面鏡中の如く、眺望甚佳なり。月に乗じて猶散歩す。此の日各郷信を寄す
同十七日 西洋二月廿一日北緯三十一度十五分東経百十九度〇九分 晴。午時上海を発す。呉淞江を下り海口へ出づ。天気清廓《せいくわく》《ハレワタル》。江中波濤。穏にして。両岸の眺望春研《しゆんけん》を呈《あらは》す
同十八日 西洋二月廿二日北緯二十八度十一分東経百十九度三十二分 晴。昨《きのふ》の如し船中釈渙《しやくかん》《ユルム》の意をなす。江河の余濁海水を界《かい》《さかひ》し茫渺《ぼうべやう》《メモトヾカヌ》たる黄浪と蒼波。夕暉《せきき》《ユウヒ》に映じ。錦を布《しく》かごとし支那地方を西に見て。甲板上に夕陽を送る。此の日二百六十五里を航す
同十九日 西洋二月廿三日北緯二十四度十九分東経百十六度二十八分 晴。なほ昨の如し。皆甲板上に散歩し。餐盤上にて囲碁将棋《しやうぎ》の戯をなし。消光の助とす。漁舟の地方に添《そひ》て東風《こち》に泛《うか》み帆影の烟靄《カスミ》に暮もいとおかし
同廿日 西洋二月廿四日経緯を験せず 晴。けふも風穏にして朝十時頃。香港に着ぬ 此の地英領なり。上海より八百里。通常程四日。此の間台湾との海峡なれハ。波濤激して。暴し。北緯二十二度十七分にて季候稍々暑し 此の地は広東府地先海中に在る一孤島にして。港内群嶼《ぐんしよ》。繞環《きやうくわん》し風濤を支《さゝ》へ。海底深くして多く船舶を碇泊せしむるに足れり。平坦《へいたん》の地少く。山腰《さんえう》を截《たち》て道路を設け。海岸は支那人の家居多く。山手は尽く。欧人の居なり道光《どうくわう》の戦後。講和の為め償金《せうきん》の外。割《さき》て英国に附属《ふぞく》せし地なり。往昔《むかし》は荒僻《くわうへき》の一漁島なりし由なるが。英国の版図《はんと》に属せしより。山を開き海を塡《うづ》め。磴道《とうどう》を造り。石渠《せききよ》を通じ。漸《やうやく》人烟稠密《てうみつ》《シゲク》貿易繁盛《はんせい》《サカン》の一富境とはなりしとぞ。地図《ちづ》に拠《よ》りて考ふれハ。潮州あたり歟と思はる。唐の韓愈《カンユ》の鱷魚《かくきよ》《ワニノウヲ》の文ありしも。昔時に替りて牢固《らうこ》《テガタキ》の巨船《オウフネ》に乗じ。万里波濤を枕席《ちんせき》とせる。其時代の境概《けいがい》。懸《はるか》に異《ことな》るより推せハ。世運日新《せいうんにつしん》に赴《おもむ》ける。亦一瞬《しゆん》の間にあるを知る。今英人の商業を東洋に擅《ほしいまゝ》にし。利益を得る。印度《インド》の所領によると雖《いへ》ども。其便利の道を得て。流融暢通《りうゆうちやうつう》。運輸自在《うんゆ》ならしめ。利柄を掌握し。通塞を専断し。開合。高低。変化を計り。東洋貨力の権を執る。其由る所。なきにあらず。且土民の保護為め。陸海兵備を厳にし。其国の栄名と其利益とを謀る。規模の宏大なる。所見に就て知るへし。鎮台は全権の大任にて。威望《ゐぼう》ある者なり。近年此の地に大審院《しんゐん》を置。裁判《さいはん》の貴官《きかん》を在留《さいりう》《トヾメオキ》せしめ。東洋に分在《ぶんさい》《トコロドコロニイル》せる。国民《クニモノ》の訴訟《そしよう》《ウツタイ》を准理審判《じゆんりしんはん》《リヲツメトリサバク》すといへり。山手の人家は欧風《おうふう》にて。暑熱《しよねつ》《アツキ》の地なれハ水泉茂樹《すいせんもじゆ》の設け。簾幕胡牀《れんばくこしやう》の備《そなへ》。専《もつは》ら夏月占涼《かげつせんりやう》《ナツデウスイミ》の為めに結構《けつこう》したり。英華書院《ゑいくわしよいん》其他各書院《エイガクカンガクノケイコバ》あり。造幣局《ぞうへいきよく》。新聞局《しんぶん》。講堂《かうとう》。病院等尽《べうゐん》《ことこと》く備り。略欧州《ほぼ》の体《たい》を備へて微《び》なる者といふ。英華文学《がく》上の書籍《しよじやく》多く此の地にて刊行《かんこう》す。英人華学を修行《しうぎよう》するもの皆勉強刻苦《べんきやうこくく》《ツトメクルシミ》。固《もと》より浅近《せんきん》《アサハカ》にあ
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らず。其教法《けうほう》《オシヘノミチ》の由来《ゆらい》《ワケアル》する所を研究《けんききう》するため。其学問《がんもん》の源委《げんゐ》を考索《かうさく》し。其治体風俗《じたいふうぞく》より。歴代《れきたい》の沿革《えんかく》《シタガヒアラタメ》。政典律令《てんりつれい》は勿論。日用文章《にちよう》《しやう》まで精究《せいきう》し。其書を訳《やく》し。其説《せつ》を著《あらは》し。大事業《だいじげう》を遂《とぐ》るもの。其人乏《とも》しからず。文明《めい》の素《そ》ある。人心の精神《せいしん》ある。学術《がくじゆつ》の上に従事《じうじ》すること。乃国《すなはち》の強盛《がうせい》にして。人智《ち》の英霊周密《えいれいしうみつ》《スグレタルコマヤカ》なる所以《ゆえん》を徴《ちやう》するに足れり。此の地の最高巓《もつともかうでん》を太平山といふ。登る凡一里余にして。巓《いたゝき》に旗棹あり。国旗を掲《かゝ》げ。島嶼《たうしよ》の錯置《さち》《クバリ》。風帆の往来。望洋の観。遠邇一目《ゑんじ》に在りて。眺覧奇絶なり。山を下り花園を一見す。闔地土民《かうち》《クニノウチ》。休暇遊息のため設けたれハ。泉石花卉《せんせきくわき》を陳《つち》ね雅致匠意《がちしやうい》《オモシロキタクミ》を尽し遊覧の際。聊客愁を滌ぐへし○本地より限日《げんじつ》《ヒギリ》。広東へ赴く汽船あり。凡八時間に到るよし。又毎週刊行《しうかんかう》の。香港新聞紙あり。漢文にて一箇年分定価四弗《どるらる》なり。又香港通用の貨幣あり○欧行の旅客此の所より。籐牀《とうしやう》《トノコシカケ》。籐席《とうせき》《トノシキモノ》。団扇《だんせん》。或は熱帯下を過るに用ゆる。帽子を買ふて避暑の用意す。其他名産ハ。白檀彩象箱《びやくだんほり》。牙細工。蓪紙 一種の紙なり 画。楠箱《なんさう》。〓細工《(筱カ)》。支那絹張傘《きぬはりかさ》。摺扇等《しうせん》《ヲフギ》なり、支那店にハ文墨品あれども。上海に比すれハ。価貴し。郵船此の港にて替る。船の碇泊一昼夜。又ハ二日程の規程なり。○都て欧州に赴くに。横浜にて取替し銀銭を。此の地にて。英貨ボンドに取替へ。航海途中入用とするをよしとす
同廿一日 西洋三月廿五日 陰。朝来細雨。此の地度数南に移るを以て喧煗《けんたん》を催し。本邦の暮春にひとし。此の地に設け在る造幣局を一見し。英国水師提督《スイシテイトク》を尋問の為め其軍艦に到る帰後仏国の岡士《コンシユル》来りて謝す。午後三時。英国の因獄《しゆうごく》《ヒトヤ》を見る。其壮宏《そうかう》にして。罪人の取扱かた。すべて軽重に応じ。各器局《ききよく》に随職業《したがひしよくぎよう》を営《いとなま》しめ。且獄中《ごく》に。説法塲《せつほうば》を建置き。時々罪人を集《つと》ひ。説法を聴《き》かしむ。
 此の説法といえるハ。善悪応報《おうほう》の道を説《とい》て。勧懲《かんちやう》せしめ。罪人をして。後悔懺解《こうくわいさんげ》なさしめ総て悪を戒《ゐま》しめ。善に赴《おもむ》かしむるを専《もつは》ら説《と》くなり、其中には前非《ぜんひ》を悔《く》ひ。放心《ほう》を取戻《もど》し。遂《つひ》に本心に立帰《かへ》る者ありといふ。其人員《ゐん》を減《けん》ずるを憂《うれ》ひ。死刑《けい》を恐《おそ》るゝ。則皇天《すなはちこうてん》の意《こゝろ》に順《したが》ひ生《せい》を愛《あい》し。民《たみ》を重《おも》んずる道《みち》。懇篤切実《こんとくせつじつ》なる感《かん》ずるに堪《た》へたり
同廿二日 西洋二月廿六日 烟雨朦朧《もうろう》《オボロ》たり。交際上《かうさゐ》の事務畢《じむ》りて。郵船に託し。各郷信を寄《よ》す。旅舎楼上眺望。新緑《ろく》を催す。横浜より乗来りし船ハ此の所までにて。午前十時比。小艇にて。仏国の郵船 船号アンペラトリスに乗替る。アルヘー船よりハ二層も大なる船にて尤清潔《せいけつ》なり。午時出航す。風順にして。霎時《シバラク》に。支那南陲地方《なんすい》を背《うしろ》にして航せり
同廿三日 西洋二月廿七日北緯十八度四十分東経百〇八度五十一分 晴。けふも東北風にて真帆張て。船脚速なり。安南の南陲及び附属の小島を西南に見て。次第に熱帯下に近く。季候単衣《たんい》に適ふ。此の日二百七十八里を航す
同廿四日 西洋二月廿八日北緯十三度五十五分東経百〇七度二十三分 晴。昨夜より暑甚しく。航する南に移りしを覚ふ。本邦五六月の候にひとし。俄に麻を着し。各甲板上の散歩快よく。相集りて。探題次韵などして遣興す。此日三百里を航す
同廿五日西洋三月一日此の日経緯を測らす 晴。暑威弥々強土用中の如し。乃是赤道近《すなはち》きなり。午時瀾滄江《ランソウコウ》の入口。灯明台の麓《ふもと》に至る。夕四時比。柬捕寨河口《カンボチヤ》へ入て。上流に遡《さかのぼ》る此の間両岸。緑樹繁茂し。根株水涯《こんしゆ》《ネカブ》に浸し。樹々尻尾長《しりを》き猿《さる》の群《むらが》り遊ぶを見る。川幅本邦墨田川程なり。往々狭曲《きやうきよく》にいた
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れハ。船尾旋《めぐ》らさず艫戻して過ぬ。岸に垂《た》るゝ木々も手折るべき程にて。水底は極めて探しと見えて。舟行碍《さは》りなし。暮六時頃。柴棍の港に着ぬ 此の地安南。南隅瀕江の地。仏国領なり。香港より九百十五里。通常程四日。緯度十度十七分に在て。季候。暑熱。土地肥沃。風俗。支那に似て陋し 此地駐剳仏国総督の使者来りて。安着を賀す。此夜。星斗燦然《さんぜん》《アザヤカ》。銀漢低《きんかんたれ》て。叢裡《そうり》の虫声秋を報ず。季候の変する。瞬息の間亦航行の迅速なる。旅客の感を増す
同廿六日 西洋三月二日 晴。朝七時本地官船の迎によりて陪従して上陸す。碇泊の軍艦祝砲ありて。騎兵半小隊。馬車前後を護し。鎮台の官邸に抵る。席上奏楽等畢て。其本国の博覧会に模擬《もき》《ナゾラヘ》せし。奇物珍品を雑集せる所を一見し。市街を遊覧し。午前十時頃。帰船し。夜鎮台の招待《せうたい》《マネキ》により。官員会集《ヤクニン》して。猶奏楽するを聴く○是より先。仏国郵便を開く為め。経画《けいかく》《モクロミ》する事あらむとて。教師を遣し。此地の形勢を。測《はか》らしめたるを。土人憤怒《ふんと》《イカリ》し。其人を殺害せしより。竟に戦争となり。仏兵大に土兵を攻撃《かうげき》《セメウチ》し。内地に深入《しんにう》《フカクイル》す。是に因て。和議を講し。地を割て罪を謝す。爾来仏国所領となりし由。鎮府在て。重官《ちうくわん》を駐《とど》め総轄《そうかつ》《スベツカサドル》せしめ。三兵の将官《カシラ》。及兵卒凡一万を駐剳せしめ。不慮に備へて盛んに開拓建業《かいたくけんきやう》《トコロヲヒラキワザヲナス》の目的《もくてき》《メアテ》をなす。されども兵燹《へいせん》《イクサノヒ》の後未だ。十年にも充たされハ。土地荒廃し。人烟。稀疎《きそ》《マバラ》にて全く休養《きうやう》《ヤスメヤシナヒ》。殷富《いんぶ》《ユタカ》にいたらず。旦土民反覆《はんぷく》《ソムク》測り難く動もすれば。嘯合作乱《しようごふさくらん》《サハダチ》し。来襲《らいしう》《キタリオソヒ》するあり。故に仏兵常に戒心《かいしん》《ヨジウン》ありて。兵額《へいがく》を減するなしと云。各国。船舶も僅に四五艘碇泊せるのみにて。商店も少し専ら土地を修繕《しうぜん》《ツクロヒ》し。既に製鉄所。学校。病院。造船場等を設け。東洋根拠《こんきよ》《ヨリトコロ》の要領《ようれい》《ノドクビ》となし。大に他日の遠図《えんと》《ハカリゴト》をなす。されども一歳の収税額《しうぜい》《ネングダカ》。僅に三百万フングに過ず。年々入費多く得失償ひがたき故。本国。議事院《ギジイン》の論も区々也《まちまち》と云○此の港柬捕寨口《こう》より沂《のぼ》る凡半日程。里数六十里なりといへども。其水底深き所凡四十五尺許なれバ。運転するに碍りなしと云。上陸場は平岸にて。船は中流に卸碇《しやてい》《イカリヲヽロシ》し。小艇にて上る。土俗貧陋にて。婦女子。男工《オトコワザ》に代り。垢面蓬髪《こめんほうはつ》《ヨゴレカホミダレ》にて。舟を艫又《こぎ》。荷物等を運びて。生活《ヨワタリ》す。熱帯の地ゆへ。沙塵飛揚《さじんひよう》し。遊歩も懶《ものう》く。名勝の探《さぐ》るべき佳地もなし。鎮府は江浜より。八九丁隔り。一箇の樹林清茂の地に在り。劇場妓院《しばゐあけや》もありて。支那と同風なり。追々欧人移住《いじう》せるものありて。人員も増せりと云。案内の者を雇ふて。榔林 椶櫚に似て大に高木なり 蕉樾《せうゑつ》《バセウノアワヒ》の間を行き。一の曠敞《くわうしやう》《ヒロキ》の地にいたる。象奴《ぞうと》 象獣をよく遣ものを云 二象に跨《またが》り来て伎芸せんと乞ふ。命じて其伎を見る。二象を鞭撻《べんたつ》《ムチウチ》し跪坐《をざ》《ヒザマヅキ》せしめ。或は突立《とつりつ》《ニハカニタツ》せしめ。おのれ上下超乗《ちやうじやう》《トビノリ》などして。自在を示しやがて木立ある所に至り。一合把《がうは》《ツカミ》の木を鼻に掛《かけ》て拉折《りうせつ》《ヒシムチウチ》せしめ。我徒乗らむといへば。又撻て跪かしめ。其後趾《かうし》《アトアシ》より上りて。其背上に跨るに亦自在なり。此の辺両岸すべて。荊棘《けいきよく》の如き樹木茂りて。処々虫の鳴き。田畝にては農夫の熟稲《じゆくとう》《ミイリイネ》を穫《かる》など。時候の異る感ずべし。田畝《てんほ》は米穀二度の作地にて所謂安南米是なり。東洋諸国へ運搬售売《うんはん》《ハコビサバキウリ》して利益をなす。金銀貨幣は。伝来して。所持するもの多し○土産。郵船に持来りて売る。蒲葵《ほき》の団扇〓笠等《とうがさ》なり又馬車を雇ふて商綸《シヨウリン》といふ古市《こし》《フルキイチバ》に到る。此の港より凡二里程もありぬベし。往昔は繁華の地と見えて。巨閣高廓《こかくかうらう》の頽廃《たいはい》《ヤブレスタリ》せしあり。市中一箇の大社あり。聖母殿《せいぼでん》と漢字にて書せし扁額《へんがく》を揚ぐ。蓋し海神を祀るならむ。石碑。絵額など多く掛並《かけ》べ。
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両三の支那人居て祠の縁記様のものを売る。依て筆話もて猶事由を問しが。了解せざりしや。答辞なし○碇泊凡一夜半日にて発す。英船ハ寄らざる所也
同廿七日 西洋三月三日 晴。午時発し。瀾滄江を下り。午後四時頃。川口なる灯明台山の麓に至り是より水先案内の者を帰す。次第に大洋に航せは船脚速なり
同廿八日 西洋三月四日北緯六度二十一分東経百〇三度五十六分 晴。暑酷し風様昨にひとし。白瓜を食し 本邦真桑の類 苦熱を凌ぐ。此の日二百四十七里を航す
同廿九日 西洋三月五日北緯一度四十五分東経百〇二度十三分 晴。暑風順なり。朝二箇島を右手に見る。午後漸く地方近く航し。午後二時。新嘉埠灯明台《シンカホウ》を過る 灯明台は海中の突起せる岩上へ造立て堅固にして他に超へ高く。聳へたる者也 夕五時新嘉埠へ着きぬ。此日二百九十一里を航す
二月朔日 西洋三月六日 晴。朝六時上陸す。柴棍より六百三十七里。通常程三日 痳剌加蘇門答剌《マラツカストラ》。とを。左右にして。東洋第一の海関《かいかん》なり。亜細亜大地《アジア》より海中へ長蛇の如く。突出《とつしゆつ》し。北緯一度十七分に在りて暑。酷烈《こくれつ》といへども。樹木繁茂の地多く。清蔭快涼を卜《しめ》。且時々驟雨《しゆうう》来りて煩熱を滌ぐ。土地赭沙《しやさ》《アカキ》にて。港最寄。稼檣《かしよく》の地も見えず。雑卉。野草。路傍に蔓延《まんえん》し。彩禽《さいきん》《ミコトノトリ》。文羽。其間に嬌柔宛転《きやうじうえんてん》《タオヤカニメグル》せり。土人の風俗。安南と同じく。裸跣《らせん》のもの多し。市街も亦同様なり。英領に属す。年記未詳 埠頭《ふとう》の修営より。石炭の置場。電線の設け。馬車の備も在《あり》て。総て人工を用《もちひ》し功績も見えて。英国の志を東洋に逞《たくましう》する素あるを見るに足れり○湾口《わんこう》《イリエ》。恰も園地の如く。島嶼。数箇環列し。緑樹其上に葱籠《そうろう》として。園丁意匠《えんていいしやう》《ニハモリ》を労し。営築せるに似たり。汽船此処に至れハ。湾を通じ。広き所に至り。船を回転《くわいてん》し発船の便利して。碇泊す。浮波戸場に船を着け。橋を架し上陸す。海岸は。石炭倉のみにて。居民なし。水に臨みて亭舎数箇あり。蓋欧人の。盛夏。遊息の為め。設けしなるベし○馬車を雇ひて。市府に至る。港より凡一里余。雑卉汚沼《うせう》に沿《したが》ひて径路《こみち》あり。府下は欧人土人とも雑居して。諸物を販《はん》《ヒサグ》す。価極て不廉なり。欧羅巴と号せる客舎に一泊す。此の地第一の旅亭也といふ。市外数武《すぶ》に花園あり。小山を形とり修造し。百卉千草を植並《うえ》へ。遠近眺望の趣をなし。園中泉池もありて、炎暑煩襟を清くし。客思鬱懐《うつくかい》を慰す。○土産。籐蓙《とうござ》。〓《とつえ》。アンペラ。其外文禽。或は最小の猿。など持来り争ひて旅客に商ふ。亦欧洲各種の貨幣を持来り。郵船碇泊の間。浮波戸場に風呂敷をしき。其上に開きて。両替す。中には贋《にせ》もあり。又古貨幣の雅なるも見えたり。裸体の小児小艇に乗り船側に群り。勧め銭を投げしめ。海中に入て拾ひ来る。銅幣にてハ。水中認めがたしとて。銀貨にあらざれば跳入せず。本邦の江島。途中抔の如し。人生情態更に異らず 其水中に争ふ亀の子の如く。又海上競渡《けいと》の真似して其先を争ふ。迅速なる矢の如し○此地より。瓜哇抜隊比《ヤワバタヒヤ》へ赴く旅客は上陸して。郵船定日の期限を俟合《まち》す。午後四時。仏国の岡士《コンシユル》。夫婦にて来り。送別す。各郷信を認め郵便に属す。同五時発す
同二日 西洋三月七日北緯二度東経九十八度四十二分 晴。暁来順風。暑気凌ぎよし。右手に麻剌加地方《マラツカ》を見る。昨日より。旅客増して。船中混雑し。甲板上遊歩も自在ならず。此の日百九十九里を航す
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同三日 西洋三月八日北緯五度三十二分東経九十五度十四分 晴。けふも軟風。暑気前日に層《ま》す。安南地方をゆき過ぬ。望中一点のものを見ず
同四日 西洋三月九日北緯五度五十四分東経九十度十分 晴。昨日より。聊か暑を減ず。航路熱帯。風濤恬寧《てんねい》《シツカ》にして無事互に長日を惜み。課《くわ》を立て洋学《ようかく》を講《こう》するを興《けう》とす。
同五日 西洋三月十日北緯七度〇七分東経八十五度〇八分 晴。昨夜蒸気器械少損せしより。夜三時頃より。航行をとゞめ。洋中に碇泊し。同五時頃整ひぬとて発す。漸く印度洋正中に抵り。四顧毫碧も。眸中に入るものなし。只波間に。飛魚の遊跳《ゆうてう》《ハネオトル》するを見る
同六日 西洋三月十一日北緯六度十六分東経八十一度三十一分 晴。今暁四時頃。器械また損じぬとて洋中に投碇せり。漸く整ひ。風順にして航する甚疾く。両度の碇泊の間を償ふ
同七日 西洋三月十二日 朝七時比錫蘭島《セイロン》の内ホアントドガールへ着きぬ 新嘉埠より千五百〇四里。通常程七日 船中にて朝餐し。午前十一時上陸す。オリヤンタルといふ旅舎に投ず。少焉して。此地の官人来りて安着を賀す。此地印度の属島にて。洋中に挺立《ていりつ》し。港は北緯六度一分に在て。土地熱帯に近く。終歳氷霜なく。四時木落を見ず。赤壌沙泥《せきしやう》にして。肥沃《ひよく》なり。土民貧瘠《ひんせき》《ヤツヤツシク》。支那人とは。骨相異り。聊か順良。勉力。の風あり。蓋久しく欧人に役使《えきし》せらる故なりといふ。其体。披髪《ひはつ》《カラシカミ》。裸跣《らせん》《スアシ》。腰間。僅に更紗木綿もて掩ふ。色黄黒にて。深目黒歯赤唇《しんもく》《イリメクロキハアカキクチビル》なり。下民。平生烟草を買ひ得ざるものハ。擯榔《びんろう》を噛《きつ》して。吸烟《きうえん》《タバコ》に換る。故に自《おのづか》ら歯黒みて鉄漿《かね》を銜《ふく》むに似たり男女とも頭に丸き櫛を挿《はさ》み毛髪を束ぬ。始《はじめ》ハ葡萄牙領《ポルトガル》にて在しを。荷蘭より攻取り。爾後竟に英国の所領とはなりて。港口。城門上に。両獅金冠《りうしゝきんくわん》《フタツノシヽ》を捧けたる荷蘭の標記《ひやうき》。今尚存せり。港口。岩石あり。潮波激揚し上陸甚難し。土人狭小の艇へ。一方に材もて桴《いかだ》とし釣合《つり》ハせし一種の舟もて。上陸せしめ。波戸塲木造の小屋にて。直に城門に続く。門中砲卒守衛す。夫より少し高き所に上りて。市街あり。海岸はすべて砲台を建回《たてまは》し。砲門を設け。火薬庫もあり。製造古様にて。荷蘭領の比。築きしものと思はる。海岸西の方に。灯明台あり。鉄造にて高さ六十フートといふ 我凡曲尺八丈余 海門。庶務ハクーフルヌマンエイシユンといへる役にて。掌《つかさ》どる。土地熱帯なれハ。亭榭すべて避暑の工夫せし結構なり。産物多し。就中菓物佳品魚類も鮮にて食料頗る芳美なり。椶櫚《しうろ》。芭蕉《ばせう》《アナヽス》の実。黄橙《わうとう》《オレンジ》。楔襟《けつきん》《マンコスタン》。桂枝。甘蔗《かんしよ》。等良好なりカレイとて。胡椒《こしやう》を加へたる鶏の煮汁に。桂枝の葉を入るものを。亦名物とす。○馬車を雇ひ三里ばかり山手に遊ぶ。平岡曲折して。椰林茂《やりん》り其間には。水田に秧《なえ》を挿《はさ》《ウユル》むを見る。亦水芋。蓮。等青々と浮べり。山に登る五六丁にて。一箇の仏寺に抵る。寺名ボーカハウアといふ。山門あり。門に入れば。正面本堂ハ鎖して。常に開かず。僧に請ふて開かしむ。堂内安置せる。釈迦涅槃《ねはん》の像七ヤールトあり。 我凡曲尺二丈一尺余 磁製なり。全体黄色額に白毫《はくごう》なし。合掌側臥胸《かつしやうそくが》より下は衣もて掩ひ。衣鱗状をなし。堂の側。僧房。庿字。みな天堂。地獄の図を画けり。僧衣は袈裟のみにて。跣足《スアシ》。禿頭眉毛《キリカミ》を剃去り。香を奠じ。花を供し。合掌。誦経の音。略禅《ほゞ》なり。山の後。即仏骨を収《おさめ》し所なりといへり。三層に築き。石壇を繞《めく》らし。中に一樹を栽たり。即菩提樹にて外に物なし。又一所に至れば。山頂にて。眺望。佳絶。小亭を構へ。
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三鞭酒《シヤンハン》など。備へて鬻《ひさ》ぐ。此山上に。一螺青山の雲間に見ゆるあり。即霊鷲山《レイジユセン》なりといふ。帰り来り午餐に就く給仕人みな裸体《らたい》《ハダカ》黒身。下部を布もて掩へるのみ。甚だ厭ふベく。夜に入り微涼に乗じ。市中を遊歩す。土人の家屋。新嘉埠に略々同じ。貧陋。陋雑。の景況徴すべし○島産。各色の宝石。皆指環《ゆびわ》へ嵌入《かんにう》《チリバメ》して売る。又泡玉珊瑚《あはだま》。真珠等あり贋製《がんせい》《ニセモノ》多ければ。漫《あながち》に信じがたし。象牙。象骨。の細工物。椰子。烏木蝟毛《うぼく》《コクタン》《たもう》。籐細工《とう》。各種木の看本。鼈甲細工。貝類。文彩。の小鳥の各種を。旅亭の戸前に待来て。争ひ勧む。其細工物は。皆欧人の所用とする。為に製したる也○貝多羅経《はいたらきよう》《木ノ名》の古きは。漆塗《うるしぬり》。金字。にして尋常なるは。皆鉄筆《てつぴつ》《ホリツケ》にて。貝多羅葉に書せしものなり。中央に孔あり。紐もて綴たり。其字体梵とも異《こと》なり。一派の体にて。蟹行《かいきやう》《ヨコゲタ》に記せり○此の港は。三方海にして僅に。一方築出せし。洲崎のみにて。大洋の吹返しを支ゆるに足らざれハ。碇泊間うねり強く。船動揺して。甚だしきは器物を破毀するに至る。加爾佶多《カルキツタ》。孟買《ボンバイ》。麻都羅斯《マトラス》。孟智世利《ボンチセリ》。等へ赴く旅客はみな此の港より限日の船便ありて。発す。季候稍々暑し
同八日 西洋三月十三日 晴。朝八時発す。暑威昨日より弥々増し。眩暈する計なり。午後一時。洋中鮫魚の数頭波間に跳躍するを看る。 本草に鮫は南海に産し。鼈に似て。足なく尾ありといふ。其言の如し 夕三時。驟雨来りて。少焉にして。海上一団《たん》《ヒトマトメ》の黝雲起《ゆううん》り。忽地《たちまち》空中暗黮《あんたん》《クラク》として。俄然低回《がせんていくわい》《ニハカニヒクククダリ》し波濤に相接し。潮浪を捲揚《まきあく》る。陸地の。驀風《ばくふう》《ツムジカゼ》の颷揚《ひやうよう》《マキアゲル》する如く。其響《ひゞき》ありて。さなから竜睲《りやうせい》《タツノナマクサキ》を挟む勢ひあり。俗に。所謂竜捲《たつまき》なりとて。衆人。奇観《きくわん》の想をなせり
同九日 西洋三月十四日北緯十七度十分東経七十三度二十九分 晴。昨雨にて。暑気稍減ず。此日二百六十七里を航す
同十日 西洋三月十五日北緯八度〇四分東経六十九度十八分 晴。朝五時。海馬《かいば》の波間に浮ぶを看る 海馬は魚なり。と正字通に見えたり。牙骨。堅瑩。文理。細く糸の如し。俗に馬の股に焔火を帯び。波上を飛跳する。画図とハ大に異なり 此日二百五十五里を航す
同十一日 西洋三月十六日北緯九度東経六十四度四十五分 晴。始て午餐に西瓜を食す。味淡にして甘味少し。此日二百七十五里を航す
同十二日 西洋三月十七日北洋十度十五分東経六十度〇六分 晴。此日二百八十四里を航す
同十三日 西洋三月十八日北緯十一度三分東経五十五度二十七分 晴。此日。二百八十二里を航す
同十四日 西洋三月十九日北緯十一度五十一分東経五十度四十分 晴。午前より亜剌比亜地方《アラビヤ》の。島嶼を過る。夕帆前船を遥に認る。此日二百八十八里を航す。
同十五日 西洋三月二十日北緯十二度二十九分東経四十五度五十二分 晴。夕五時。紅海に向ふ。時々島嶼出没す。鯨魚洋中に浮ぶ。此日二百九十里を航す。
同十六日 西洋三月二十一日 陰朝六時。亜丁《アヂン》に抵る。此の地英領なり。錫蘭より。二千百三十五里。通常程十一日 亜剌比亜南陲の一埠《ふ》にして。西紅海の入口なり。北緯十二度四十六分に在て。土地赭磧《しやせき》《アカキカハラ》にて山に樹草なく。地に潤沢なし。磽确瘠薄《かうかくせきはく》《イシヤセテ》の地なり。人民は。即亜剌比亜人種にて印度に比すれバ。強壮にして品格又陋し。英の官吏在留して管轄す。港口に二箇の砲台あり。欧洲。各部の岡士も在留せり。此の地。開拓《かいたく》の利。産物の益なしといえども。東上。西下。航海の便を開き。万里運輸の自在を得れハ。英人の力を尽し。財を費し。不毛懸絶《ふもうけんぜつ》の瘠地にも。其国旗を掲げ。管領せるより。東洋の商業を盛大にし。支那。印度の領地を羈縻《きひ》《ツナギオク》する規模《きぼ》を見るに足れり。上陸して海岸に在る。客舎に入れは。馬車乗馬とも。店前に来
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り勧む。即一車を傭《やと》ひ市中を看る。海岸の細路。屈曲にして。山に傍ひ半里余にして。漸く磴道に登る。城門。山腰を截《きり》。左右石壁聳へて要所に大砲を備へ卒歩。守衛せり。切通しの上十丈許に。橋梁《はし》を架《か》《カケ》し要害の往来とす。道幅僅に両車を容《いる》るに足る。稍々下りて。平坦《へいたん》《タヒラ》の市街に至る。人家。石室など。みな陋矮《らうわい》《セマク》にして茅茨《ほうし》《カヤブキ》。頽屋半《たいをく》《クヅレヤ》に過ぎ。人烟。甚蕭条《せうじやう》《マバラ》たり。欧人。在留官員の舎屋ハ皆海岸の山手に在り。市街を過ぎ。水囲場《かこひ》に至る。此の地水泉に乏しく。雨沢なき時の為め。闔境《かうきやう》の飲料を貯へ。分配す。奇嶂《きしやう》。怪巌《くわいがん》の間。幽澗。深渓。を造築し。周囲塗るに白堊《しらつち》をもてし。舗《し》くに青石を以す。其傍磴道盤旋《かたはらとうどうはんせん》《メクラシ》し。石梁《いしばし》を架し。石欄《せきらん》を繞《めぐ》らし。上ハ峯勢聳《ほうせいそび》へ。下は潭心《たんしん》深く。茶亭。花園も其間々に在りて。登臨。勝致の一箇の仮山水たり。澗底ハ。管を通じて平地に達せしめ。汲取塲あり。豕皮に汲み入れ。駱駝《らくだ》。又は驢《ろ》《ウサイウマ》に。負《をは》しめて。数里外に送り。各所に分つ。人生。瘠土。生活の難き。飲水も容易ならさるより。人力勉強せざるを得ず。肥瘠土地《ひせき》の異る。民の。苦楽《くらく》《クルシミタノシミ》。の。相反せる。想ひ見るへし。肥沃楽地に生れ。遊惰宴安《ゆうだえんあん》に逸し。終身人間。如斯地《かゝる》あるをしらざる。嗚呼幸といふべき歟。将不幸といはん歟。知る是所謂。瘠土の民ハ勤倹にして剛勁《ごうけい》。事あれハ戎に就くや軽し。即富国強兵の根基《こんき》なり。肥沃《ひよく》の民ハ。遊惰にして。柔弱事《ぢうじやく》あれハ戎に就くや難し。即亡国逃逋の根柢《こんてい》なり。豈しからざらんや。土人羊を牧《ほく》するを業とし。負載多くハ駱駝を用ゆ○土産。駄鳥の羽。 欧洲婦女子の帽子の飾に用ゆ 同卵《たまご》。豹皮。木彫匕《さち》。蒲葵《ほき》の団扇。石蚕等《せきさん》なり。旅客あれハ携来りて之を鬻《ひさ》ぐ。但銭を乞ひ価を貪る甚し。上陸の時心を用ゆベし○此の地より。蘇士《スエス》まての海上を紅海と唱へ。北は亜剌比亜南《アラヒヤ》は亜弗利加《アフリカ》なり。海上より皆隠顕《いんけん》出没《ミヘカクレデイリ》せり。両地方とも。山ハ何れも樹草なく。赭色海面《しやしよく》《アカキ》に映じ。航行勢ひあれども。風を生ぜす。水ハ油の如く漲《みなぎ》りて。動かず。熱蒸の気強く。自然海面赤光を帯ふ。紅海の名空しからず。就中五六月頃ハ。酷烈を極め。病者等。其候を犯し航すれハ。必損するといふ。我儕の航せし。我二月又六月九月に在り。其六月に挂りしハ。暑熱聞が如し。困耗《こんはう》。疲労《ひろう》。不寐《ふみ》。連夜に及へり。牛羊も終夜喘《せん》する止す。欧人の此海上を呼て鬼門関《きもんかん》と唱へ怖《おそ》るゝ人を欺《あざむ》かず。夕三時に発す。此の日郵便に因て郷書を寄す
同十七日 西洋三月廿二日北緯十五度〇五分東経三十九度五十一分 晴。朝亜弗利加洲。北辺の島嶼を西方に見る。此日二百六十六里を航す
同十八日 西洋三月廿三日北緯十八度五十八分東経三十七度〇四分 晴。緯度漸く北に移りしより。次第に暑気を減す。略流火徂暑《ほゞりうかそしよ》《フミヅキ》の候にひとし。此日二百六十八里を航す
同十九日 西洋三月廿四日北緯二十二度五十八分東経三十四度五十五分 晴。朝より西北風強く起り。船動揺す。同九時頃より弥々烈く。怒浪。銀山の如く。甲板上に打揚る。夕五時。漸凪《なぎ》る。伊太利亜船の東洋へ駛するに遭ふ。此日二百六十八里を航す
同廿日 西洋三月廿五日北緯二十六度三十二分東経三十二度四十七分 晴。昨日より一層暑を減ず。夕四時仏国郵船の東洋に駛するを見る。亜弗利加。亜剌比亜の地方を左右に見る。此日二百五十里を航す


航西日記 巻之二 青淵漁夫 靄山樵者 同録(DK010034k-0004)
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航西日記巻之二 青淵漁夫 靄山樵者 同録
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慶応三丁卯年二月廿一日 西洋千八百六十七年三月廿六日 晴。漸く海峡《かいきやう》《イリウミ》に入り。午時蘇士《スエス》に抵る 此地埃及領なり亜丁より通常程六日 土地沙磧にて。草木なく。人家樹木を栽るに他所より土を運ひて。培養す。水至て悪し土民黒色。頭に白布を巻き。仏国アルゼリー隊の如き衣服を着たり。士官皆都児格《トルコ》の赤帽子を冠れり。此の地西紅海の尾に在る一湾にして。近来地中海の通路開けしより新らたに設けし港なれハ。人家もいまだ扶疎《ふそ》《マバラ》にして惣て諸港の如くならねど。西紅海の行詰りにて。欧人喜望峰を回らずして。東洋に達す便路なれハ。此の峡を経さるを得す。故に貨物運輸。旅客船継の要港なれば。往々土民繁殖すへき象あり○是より亜暦散大《アレキサントリヤ》までの陸地西紅海と地中海との間を中断し。亜弗利加地域にて。北は都児格に接し港口遠浅にして船を一里半余隔りて碇泊せり。蓋沙漠の吐流故。砂色水色を変じて見ゆ。水尾屈曲して。船路をなし。沙泥船脚を捏《てつ》《トヽメ》し碇泊不便なるより。蒸気器械もて瀬浚最中なり。暫時ありて小汽船もて上陸せしむ。此間二里許波戸場より。左手海岸に臨める。英国の客舎に投し。午餐し汽車発軔の刻限を俟つ。 庭中に飯台ありて風鈴の相図にて。食に就く。価は正面の店にて払ひ。食札を買て用ゆるを便とす。 此の客舎は。英人の出鄽にて本港第一なり。庭土草木を雑栽し。待合を慰する為にす。楼上より海洋を望めハ。諸山歴々として頗る佳観なり。但土地暑熱強き故占涼の設あり。門外数弓《(マヽ)》にして。滊車会所也。其最寄土人の家ハ皆燕巣の如く土にて作り。頽圯傾倒して。古風を存するのみ。此地滊車を建築せしハ。英国通商会社の目論見にて。東洋貿易簡便自在を得ん為め。本地政府に達し。年限を定め其費用償戻しの上ハ。地元に属せしめんとの約束のよし。今全く埃及の所有とはなれりとそ○西紅海と。地中海とは亜剌比亜と亜弗利加洲の地先交接する処にして。僅に濤路を隔つ。凡百五六十里の陸路あり故に西洋の軍艦商船等。都て東洋に来舶するハ。喜望峰《キホウハウ》の迂路を取らざるを得す。其経費大にして運漕尤も不便なりとて。千八百六十五年比より。仏国会社にて蘇士より地中海までの掘割を企て。しかも広大なる。土木を起し。此節経営最中のよし。汽車の左方遥にタントなど多く張並へ。土畚《どはん》《フコ》を運ぶ人夫等の行かふを見る。此の功の竣成《しゆんせい》《シアゲ》は三四年の目途にして。成功の後は。東西洋直行の濤路を開き。西人東洋の声息を快通し。商貨を運輸する。其便利昔日に幾倍するを知らずといへり。総て西人の事を興す。独一身一箇の為にせず。多くハ全国全洲の鴻益を謀る。其規模の遠大にして。目途の宏壮なる。猶感すべし○夕七時比。調度食料。麺包。乾肉。果物。葡萄酒等を用意して。滊車に乗て発す。此車道の傍。処々タントを設て。 タントは。四方鉄又は木柱家根とも布幕をもて雨露をしのく。土人用て仮の家屋とす。蓋磽确の地ハ民。水草によりて移転す。故に家屋も運搬に便なる為め。上世より如斯作為すと云 荷物を積み又ハ人夫も住居せり。発軔会所より数十歩隔て沙漠なり。草木生ぜず茫渺たる曠野。風の吹廻しにより。所々高低あり。途中憩休所五三軒人家ありて。汽車中の客に食料を鬻ぐ。滊車道の側に。一の往還あり土民駱駝に荷物を負しめ通行す。凡て沙漠を渉るに馬牛は飲料なくてハ遠きに行かたし。唯駱駝《らくだ》は渇《かつ》《カハキ》に堪るを以て。負載の用を為すと云。上古乱世の時盗患多けれハ。人民数百人相集り。駱駝数百に荷物を負して。隣国に販売せしといふ。此客舎にて滊車中。塵沙を掩ふため用ゆる目鏡。又は薄紗裁を買て途中に備ふ。夜十二時該禄《カイロ》に至る。 此の地蘇
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士より陸路九十里汽車にて凡八時間に達す 陀日多国《エジプト》の都府にして。土域は亜弗利加洲なれども管轄は総て都児格なり。亜王ありて。 亜王とは王に亜ぐ位権のある者を云 国内の政事を司る。其風俗政治とも都児格と同じ。土地東陬は。沙漠にて。草木水源なく。此の地より。南方漸く稼穡の地となる。地中海に臨める地ハ。広坦膏腴の嘉壌也。尼児河《ニル》といふあり。洲内月山といふ所より発源し沿流地中海に入る。河の両岸ハ勿論。支流分派して。其沿岸都て塗泥の良田とす。史に拠て按るに。毎歳一次。潮水盛に至り。漲溢する凡深三十尺広二十里にいたり。田土を培養する農夫の潅漑糞蓄するにひとしく。其潮水の至ざる所は荒砂に属せるより。其潮の干満をもて年の豊歉《ほうけん》を兆すといふ。如斯荒蕪砂磧《かく》の地といへとも。自然の養ひあり。天豈人を棄むや。此国古昔。極盛の地にして。風俗文物。欧洲諸邦に先だつて開け。其名遠邇伝播《てんぱ》《ツタヘホドコシ》して歴代相伝の古国たりしが。教法の沿革あるより。盛衰汗隆相換り。建国後。七百余年に至り。日に衰弱に赴き亦振ハす。其後数百年麻哈麦回教《マホメダニスム》を亜喇伯《アラビヤ》に唱へ興すに当り。遂に其が為に国を奪はれ。都城の大庫に蔵めたる儲書七十万冊ありしを。回部の者其書を取て焚捨たりといふ。其文物の盛なる想像すべし。千八百年代仏国王拿破崙攻取りしが。又都児格の統轄となり。其後久しく羅馬《ロマ》に属し。総督を置しが。爾後都児格に叛て。大に土地を開き近頃ハ。其附庸に属し。亜王の権ありといふ。此の地に一巨寺あり。マルブルにて 蝋石なり 建立し。凡十余丈許の伽藍なり。上ハ柱梁榱題とも彫鏤し。天井金箔五彩の熀燿目を眩《げん》す。下も蝋石を舗て石甃《イシタタミ》として。登る者にハ。沓を脱かしむ。回廊層閣環列せり。此の礼拝堂にハ。門戸砲卒警衛し。寺中より市街を臨めば。一目瞭然。世界有名のヒラミード 石を三角に積上る凡高六十尺許の大墳也 巨首あり。市中第一の奇観といふ。此の行は夜中なれば遊覧を得ず。
同廿二日 西洋三月二十七日 晴。暁一時滊車にて。又発し。朝十時亜歴散大に着ぬ。 蘇士より陸路百六十里。地中海東の大港なり人烟稠密。土人多くは驢に乗り通便す 此の地ハ。古国にて殊に首府なれハ。古器物考証に備ふべきもの多く。博覧会場に収てあり。皆太古の物にて多くハ土中より掘出したる。棺槨の類と見ゆ。 人の臥たる形にて彩色ありて。堅木なる層も腐朽せず依然と乾からひたる手足腹部とも幾重も巻たるなり世に所謂ミイラならん歟 死者の飾に用ひし。金具の襟に掛るもの。又は指環曲珠土製の人形 蓋俑ならん 素焼の甕瓶《ようへい》《カメ》の類。虫形を。彩し。印類は鳥篆《てうてん》にて。雷斧雷槌《らいふらいつい》。古剣など。種々奇品あり。此の港ハ地中海の要港にて。貿易も繁昌し土地も。富饒にて。戯場妓楼なと何れも欧人半せり。土俗婦女ハ黒衣首より包み。顔ハ眼の間に束木を立て掩ひ往来す。貴族ハ常に家居深窓に在て人に面するを耻とす。只一夫一婦の外妾を蓄はふ多きハ数十人に過ぐといへり
  西洋ハ東洋諸邦と異なり帝王より庶人に至る迄。一夫人のみにて妾媵《せうよう》《メカケカシヅキ》なし。即是閏門より推して天下に及ぼす理ならむ。然るに此の国妾嬖《へい》《カシヅキ》多きを栄とする風習にて。当時都児格帝ハ四百八十人余の妾ありといふ。殊に男子却て妬情《とじやう》《ネタミ》深く。若し妾私に他の男に面するあれハ。直《たゞち》にこれを害すといふ。此の地欧洲の最寄に在といへども。其陋風を改めざるは。因襲《いんしう》《シキタリ》の久しき開化に後れたりといふへし
仏国の岡士セネラール来りて。安着を賀し。其官衙《かんが》《ヤクシヨ》に一泊を請ふ
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同廿三日 西洋三月廿八日 仏国の岡士館より直に馬車にて郵船に至る時にセネラール兵隊を出して警衛し。小艇もて本船まで送り。 サイドといふ印度海郵船より少狭し 朝五時発す。午後風起り驟雨あり
同廿四日 西洋三月廿九日 晴。無事
同廿五日 西洋三月三十日 晴。無事
同廿六日 西洋三月三十一日 晴。風強く波暴し。暮六時。伊太里亜領地。西治里島墨西拿港《メジーナ》に着きぬ。港。山を負ひ海に臨み。人家海岸に連り。結構高く聳て。頗る修整せり。砲台は突出せる平嶼の地先に在り。碇泊の船舶ハ。数あらすといへども貿易盛にして。土地の富饒なる体見《あら》はる始て欧羅巴洲瀕海に入る。珊瑚精工の業をもて。土人繁富なすと云。船に来て数種を商ふ
同廿七日 西洋四月一日 晴。暁二時。墨西拿を発す。逆風にて。船の動揺甚し。
同廿八日 西洋四月二日 晴。風強く船動揺昨の如し。朝九時。撒丁《サルジニア》。歌爾西克二島《コルシカ》の間を過ぐ此の二島ハ。往昔伊太利亜に属せしが百年已来仏国の属となるといふ。サルジニーは其側群島星列して。各跪状あり。海峡蜿蜒《えんえん》《ウネリ》。曲折《マガリ》して恰も園池を渉ることく。山水天然の妙具れり。島中一箇の白壁矮屋あり。乃是元伊太利亜国の陸軍総督ガルバルシー退隠の居なりといふ
  此のガルバルシー六七年前。弾丸黒子の地より。崛起し教法の真ならざるを論じ。廃仏の説を主張し奮然兵を興し。威を泰西に輝し。伊太利亜全地。頓整に席巻《せきけん》《タチマチムシロノゴトクマク》せんと。する勢ありて。其雄図四隣一時に震懾《しんてう》《フルヒオソル》するに至れり。功名いまだ墜ちざるに。蕭然退休して桑楡《そうゆ》《ユフヒ》の晩節を高くし。悠々余齢を楽しむ。其英風猶欽尚するに堪へたり
コルシカは諸山峩々として雲表に聳へ。名におふ仏国初代の那破烈翁《ナポレオン》の出生の地なり。当時勃興《ぼつかう》《ソノカミオコリタツ》する竜虎飛嘯の兵威。向ふ所。山を回《かへ》し。海を倒《たを》し。盛名。八荒に震ひ。功業千載に炳《かがやき》たるを追想し、山水の鐘秀霊英よく。人傑を生るの信なる感嘆せり。風愈《いよいよ》暴く巨船を掀《ゆりあ》げ。英雄の余気猶いまだ消せざるを覚ふ。
同廿九日 西洋四月三日 晴。暁より風西北に転し。朝九時半頃。仏国馬塞里港《マルセール》に抵る。 仏国の港口也 先に電線を以て着船を本府に通達しけれハ。我船の岸にいたるやいなや。砲墩にて祝砲を報し。程なく本港の総鎮台バツテーラにて出迎ひ。上陸して馬車に乗らしめ。騎兵一小隊前後を護し。ガランドホテルドマルセーユといふに嚮導し。鎮台並海陸軍総督市尹等各種礼服にて代る代る来訪して安着を賀し。午後三時頃フロリヘラルト」ジユリイ先導し。鎮台各び陸軍総督を訊問し。仏帝の別業を一覧し市街を見る。暮六時帰宿す。夜八時鎮台の嚮導にて劇場を見るに陪す。
同晦日 西洋四月四日 晴。朝海軍総督及岡士ゼネラールを訊問し。夕鎮台の招待によりて。其官衙に到る。鎮台并附属の士官多く相聚り饗せるに陪す。夜十一時帰宿す。
三月朔日 西洋四月五日 晴。朝八時写真場に到り。一行の合図を写せしむ。其より花園に至り。鳥獣草木の珍奇なるを収羅し畜を看る。
同二日 西洋四月六日 晴。朝七時。各馬車にて本地より三十四里西の海岸ツー
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ロンといふ所に至り。軍艦並諸器械を貯ふ所を見る。此の日朗霽。四望田野。麦秀で菜花開き。其余名のしれざる草木の花咲きて聊旅懐を慰せり。鎮台附属の官吏出迎ひ。兵卒半大隊許警衛し。奏楽なとあり。程なく滊船にて。軍艦に請じ。大砲其余蒸気機関等を見了れハ。発砲調練をなし。又我輩にも大砲試発せしめ。夫より他船三艘に移る。毎船祝砲あり。午時上岸す。鎮台へ請じ午餐を供し畢りて。製鉄所。鎔鉱炉《ようくわうろ》。反射炉《はんしやろ》。其外種々の器械を見る。猶銃砲貯所。又ハ人を海底へ沈没せしめ暗礁《あんせう》《サハリ》。其外水底に在る物を具に見留る術を見る
 此の術は緻密《ちみつ》《コマカ》なる護謨《ごむ》を縫くるみにして。四支六穴へ水の徹らぬ様にし。首には頭形に兜やうなるものを冠り眼の辺りには玻璃《はり》《ギヤマン》を張り見るを自在にして。天窓《あたま》よりゴムの管を通じ。水外へ出し空気を通ぜしめて。幾時にても気息堪しむ。此の日沈没せしは。水底浅しといへども。凡四五十ミニウト程なり。空気通ずれハ。幾時にても堪ゆるといふ。
夕五時半頃。鎮台に抵り。其より同所を発し。夜に入て馬塞里の客舎に帰る。
同三日 西洋四月七日 晴。午前十一時。嚮導ありて。三兵調練を観るに陪せり。三兵は。歩。卒一レシメンド騎兵八小隊。砲兵一座なり 此の調練は先頃柬捕塞《カンボチヤ》にて戦ありし時有功の者へ功牌《かうはい》《メダル》を与ふる為の行軍式なりといへり。其褒賞の式は三兵を聯ね。前行を進《すゝま》しめ旋回して四方に布列し。其中央の稠人広衆《ちうじんくわうしう》《ヒトゴミオヽゼイ》の観望を属せる地位に当りて。其褒賞する人の功の大小により、順序を逐ふて立しめ。全軍の総督及軍監いづれも馬より下り。高声に賞詞を唱へ 何々の役にて此の度何々の功労ありて功牌を与ふと云箇条也 総督手づから功牌を其人の胸間に掛け互に黙礼して式畢る
 此の式は其出陣の時戦功ありしを。軍監より委しく認め。確然と顕証あるを大将へ言立て。其より帝王に奏聞し。其允許《いんきよ》を得て其ものへ達し。且其国に功労ある事を国内諸人に見聞せしめむ為。顕然と眼前に其功牌を与ふることにて。尤度々功あれば其都度々々其数を懸る。故に国人。老幼男女に至る迄。是を見て有功の人なるを知りてあがめ貴ぶといへり。誠に士を賞する所明かにして。功を励ますこと公なり。故に士卒に至るまで軍に赴き身命を軽んじ。立功を重とす。国の為に死をいとはざる所以是を見て其素あるを知る。
同四日 西洋四月八日 晴。学校に到るに陪せり。舎密学試験場にて種々の製薬方及顕微鏡の新発明なるを見る。夫より修学所会食所生徒部屋等を看る何れも清潔にて規則修整なり。此の時黌中《くかう》《カクモンシヨ》の生徒凡五百人程寄宿せりとぞ
  此生徒寄宿中の費用。修行衣食。其他一切の雑費都て一歳凡九百フランク程にて足れりと。蓋富有の者合力して。別に助成の設あればなりといふ
同五日 西洋四月九日 晴。明朝本地を発し。巴里に赴くにより行李を整頓《せいとん》《シタク》す。此の夜鎮台。陸軍総督。岡士。セネラール。市尹。其他附属士官十二人を招集して饗宴あり。夜十一時退散せり
同六日 西洋四月十日 晴。午前十一時半。滊車にて夕七時黎昂に到着す。欧洲館といふ客舎に投宿す 此の汽車は毎日午前十一時。発軔の期限なり 此の地仏国の一大都会にし
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て。巴里に亜《つぐ》く市街の布置家居も頗る宏壮花麗なり。広大なる繅糸場《サウシジヤウ》。紡織場《バウシヨクジヤウ》あり。凡西洋婦女の服飾。其他の絹紗綾。羅子。緞子。綾羅。錦銹の類。皆此の地より出る。職工常に七八千人。器械屋宇の設も亦壮大なりといふ。此の日夜に入て着せし故に遊覧を得ず
同七日 西洋四月十一日 晴。朝七時発し、滊車にて。夕刻四時仏都巴里斯《パリス》へ着ぬ。此の時書記官カシヨン及御国より先着の士官其余の人々出迎ひぬ。フロリヘラルト先導にて。巴里都中央のカプシンヌ街なるガランドホテルに投宿せり
同八日 西洋四月十二日 晴。七時此の都府の外国事務大臣へ此の方到着せし由を達する書翰を認め。向来滞留中の規則等を定めらる
同九日 西洋四月十三日 晴。午時在留中衣服等の注文して。夫々の職工に託す
同十日 西洋四月十五日 晴。魯西亜へ行し人々事充て。本邦へかへるとて告別し。各写真寄書など属す。午後借宅を検点せんとて。フロリヘラルトカシヨン等を連て。市中を巡覧し。此処に名ある花園鳥獣の異類を萃《あつめ》し囿《ゆう》を見る
同十二日 西洋四月十六日 曇。暁六時より又借家を見んとて市中へ出ぬ。此の日朝七時。本邦の生徒。倫敦府《ロンドン》より来り旅舘へ候す
同十三日 西洋四月十七日 晴。午後一時博覧会の場所を見る
同十四日 西洋四月十八日 晴。夕四時比より。海魚を聚め養ふ所を一覧す
  此の畜場は。海魚抔の遊泳するを横より視。縦《たて》よりも視るに便なる為。玻璃器を以て製せし大なる函に潮水を湛へ。部類を分ち海底の沙石藻草及貝介類の品彙を集め。海底の真状を摸し。魚鱗其中に遊泳するを。自在に熟視する甚寄なり
同十五日 西洋四月十九日 晴。午後二時フロリヘラルートレセツフなと来り。博覧会委任の議事役プレーシイホルトと同道にて。本邦産物等差出す手続等談合ありし
同十六日 西洋四月二十日 晴。午後三時。仏帝第一世那破烈翁の墳墓を尋ぬ
 此の墓はセイヌ川向博覧会場の最寄にて。デザンバリードと云ふ所也結構壮麗規模広大にて他邦より来る者彼此を択ハず縦観せしむ。墳墓の傍に数棟の家屋あり。其家屋に寄寓するは。都て戦争の節。重傷を受け廃人となりし類なり。蓋官より右様の地を撰みて。国に力《つとめ》し癈疾の者等を安治せしむるの法と見ゆ。墳墓の前殿及四方の戸々に立て。門番などする者は多くハ右戦争の節手を傷めし人々也。又器械など装塡《そうてん》《タマゴメ》羅列する処を守るは多く足を傷めし人なり
同十七日 西洋四月二十一日 雨。朝九時。博覧会の事によりて会議せる公事あり
同十八日 西洋四月二十二日 霽。午後二時ボワデフロンにて競馬を観るに陪すカシヨンも従へり
  此の競馬場は。円形にて周囲二里余なり。此の日は特に盛挙なれハ。騎人も諸国有名の者集り仏帝はしめ。諸国の帝王も看官となり。都下の士庶相競ふて奮出せり
同十九日 西洋四月二十三日 晴。無事
同二十日 西洋四月二十四日 雨。朝八時なを借家を見立る
同廿一日 西洋四月二十五日 曇。夜九時より故の外国事務大臣ロアンデロイス夜茶の招待に陪す。各国のミニストル其他親属男女会集し。種々の饗応
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あり。
  此のロアンデロイスといへるは。墨是哥《メキシコ》マキシミリヤンの事件につきて退職し。此の時議院の官にて草木会社の頭取を勧めたり。此の夜茶の筵は尤礼会の一なり。親属知音男女とも日を卜し。夜餐後に集会し。茶酒を設け。相互に歓笑談話して一宵を徹すなり。此の会は其身分により。交際の事務なども表向の掛合にて。争論に至るへきも。歓笑中に彼我氷解《コトワカリ》する事ありと云。又一局一部に冠たる職務に在るものハ。時時此会を催し。其局官を集め其才能を親試《ミツカラコヽロミル》し。其懇親を篤くし大に公私に資《たす》けありといふ。仏国にてハソワレーと唱ふ。
   ○航西日記ハ明治四年栄一大蔵省出仕中外国奉行支配調役トシテ昭武ニ随行セル杉浦靄山(愛蔵)トノ共著トシテ刊行セルモノニシテ、全六巻ヨリ成ル。慶応三丁卯年正月十一日横浜港出発ニ筆ヲ起シ、同年十一月二十二日英国ヨリパリニ帰着セル迄ヲ記セリ。以下此日記全文ヲ各綱文ノ下ニ分掲セルガ、綱文ニ摘記セルハ日記記事中ノ重要項目ノミナリ。綱文ニ摘記セザル分ヲモ掲ゲタル理由ハ、栄一自記セルモノナルノミナラズ、叙述セル所スベテ自ラ見聞モシクハ経験セルモノナレバナリ。


徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻三・第五四五―五四六頁 〔大正七年一月〕(DK010034k-0005)
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徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻三・第五四五―五四六頁 〔大正七年一月〕
○上略 按ずるに、市之進は才学頴敏にして事理に達し、事を処すること慎重に、文久以来献替の功頗る多かりければ、公いたく御信任ありて、松平因幡守 池田慶徳 への御状の中にも「原は誠忠と存じ候」と記させ給へり。川瀬教文日記抄 以て君臣水魚の交なりしを知る。今や其人亡し、公の哀悼想像に余りあるべし。著者は若き時君の知遇を受けたる者なり、清水民部大輔 昭武 仏国に差遣せられし時、君は余を招きて扈従の命を伝へ、且曰く「公子遣外の任は云々なれども、将軍家の親弟といひ、末頼母しき公子といひ、諸有司の属目する所なれば、傅役以下各其任を選びたり、足下は年若けれども将来大に為す所あらん、特に会計、雑務の任に適すと見て上にも擢用せられし所なれば、然か心得られよ。又此度江戸より派遣せらるゝ外国方の一行と、公子扈従の水戸藩士との折合には、上にも深く御懸念ましませば、特に心を用ゐて調停に尽力すべし」と附言せられたり。余喜びて命を奉じたれは、君も大に喜びて、韓退之が送殷員外使回鶻序は書して餞とせられしもの、今に尚存せり。端なくも旧事を追懐するの余り、叙して此に及べり。
   ○此詩ハ今渋沢家ニ保存セラル。


昔夢会筆記 中巻・第五四―五五頁 〔大正四年四月〕(DK010034k-0006)
第1巻 p.477-478 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第五四―五五頁 〔大正四年四月〕
○渋沢 随分色々の失策などもございました、前に申しました仕立屋が頑固の奴でございまして、ボーイや何かと度々の喧嘩がございました、可笑しかつたことは、蘇士からアレキサンドリヤへ来る途中汽車の中で外国人と喧嘩を始めました、これは後で聴くとどつちも尤もなんです、汽車に乗つて居つて、仕立屋先生硝子に気がつかない、蜜柑を買つて食べては皮を投げる、硝子に打附かつて隣に居る人の顔へ跳返つた、隣の人は、硝子を知りつゝ自分を馬鹿にして悪戯をするんだと言うて怒つた、こつちは言ひ掛りをすると言うて怒
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つた、能く聴いて見ると、硝子に気がつかなかつたといふことが分つて、始めて大笑をしました、さういふ弥次喜多のやうな話が度々ございました、公子外七人の荷物の世話と、それから日々の筆記と勘定と、それを私一人で遣つて居りましたが、なかなかに苦しうございました、そこへ持つて来て、例の仕立屋といふのが、やゝもすると喧嘩をする、○下略


雨夜譚会談話筆記 上・第一一九―一二二頁 〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK010034k-0007)
第1巻 p.478 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第一一九―一二二頁 〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
    (一)鉄道会議と鉄道国有に就て
先生「鉄道と云ふものに就ての記憶を回顧することは敢て無駄ではあるまいと思ふ。或は多少とも順序は違ふかも知らぬが話して見よう。抑も日本に鉄道と云ふ観念が這入つて来たのは、維新前であつた。然し甚だ漠然たるもので、鉄道とは斯うしたものだ、と他国の有様を見た人が知つて居て話にしたのが伝へられた程度であつた。私が滊車に初めて乗つたのは慶応三年渡仏の途中スエズから出てアレキサンドリヤで、地中海の船に乗り換へるまでゞあつた。恰度それは六十一年も前の話であるが、一緒に行つた人達も皆硝子と云ふものを知らぬので、滊車に乗つてから窓外を見ると全然すき通つて見えるので、何にもないと思ひ一行の或者が窓の外へ捨る積りで密柑の皮を何度も投げた。すると隣席に居た西洋人が憤つて何か言ひ出したが言葉が通じないから、お互に云ひ合つて居るうち、遂に立上つて腕力沙汰になつた。其処で私等は外国の言葉は分らぬが皆でよくよく両方の誰を聞くと、外国人は硝子があるのに密柑の皮を投げて態と自分へ当るやうにした、この日本人は実に失敬な奴だと云つて居る。此方の云ひ分は密柑の皮を外へ投げ捨てたので何の関係もないのに此西洋人が憤つて来ると云ふのは怪しからんと怒つて居る。結局硝子のあることを日本人が知らなかつたから起つた事と判つて、双方とも笑つて事済になつた。これは取り立てゝお話する程のことではないけれども、始めて鉄道を見、滊車に乗つて此事があつたからつけ加へたのである。それから次にはマルセーユからパリーへ滊車で行つたが私はつくづく其の便利なのに感心して、国家はかかる交通機関を持たねば発展はしないと思ひ、欧洲のかゝる物質文明の発達を羨んだ訳である。然し其後になつて、伊太利へ行つた時には仏伊間の山脈がまだ通ぜず馬車で通行したから、欧洲も総て鉄道が通じて居ると云ふ訳ではなかつた。其時私は日本にも鉄道を敷設せねばならないとは考へたが何時日本に出来るかとは想像しなかつた。それは仏蘭西へ行つたのは学問をするのが目的であつたからである。然し兎に角便利なものだと思ひ、且つ後に英国へ行つた時には其の整頓して居るさまに感心した。即ち時間になると鐘を鳴らして人を集めてから発車すると云ふ仕掛であつた。故に私は交通機関たる、海の船舶、陸の鉄道は是非必要であるから、日本へ帰つたらやりたいものだと思ふやうになつた。○下略

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市河晴子筆記 はじめての御洋行の時の話(DK010034k-0008)
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 市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
      はじめての御洋行の時の話
 綱吉
 綱吉つて皆の髪をゆつたり縫物をする男が頑固者でしたがね、スエズで上つて滊車に初めて乗つた時だつたが「一寸来てくれ、あなたの連れが喧嘩して居る」と云うので行つて見ると、綱吉の隣の席の人が「この人は密柑の皮を私にぶつけて、止めても又ぶつける」と怒つて居るから綱吉に、「何故そんな事をする」と云うと、綱吉は「何、私はおとなしくひとりで密柑を食べてゐるのに、この異人が肱を押えて密柑をとろうとするのだ」とこれも怒つて居るので、又西洋人に尋ねるとね「この人は皮を直接にぶつけず、ガラス窓へ当てゝははね返つて私の方へ来る様に投げて知らん顔をしてゐる、真に陰険だ」と云つたので、はじめてまだガラスつてものになれて居ないので、ガラスの有ることを知らず、外へ皮を捨てる積りで後へ投げて居たことがわかつて笑つて事がすみましたがね。


市河晴子筆記 初めて食べた西洋料理の御感じ(DK010034k-0009)
第1巻 p.479 ページ画像

 市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
      初めて食べた西洋料理の御感じ
 横浜にて
 うまうござんしたよ、只もう御しまいかもう御しまいかと思つてもいつが限りかわからなくつてねー、その仏人はおじいさんでしたよ。
母上より聞きし燕尾服の話
 大久保と云う御持小筒が、時々公用で横浜へ行つて序に外人の不用品を買つて来てそれを売つたが、ある時よいラシヤの燕尾服の上着だけ買つて来て、それが上役の某の手に入つた、祖父様は丁度洋行前でよい洋服はほしいと思つてゐられた時故、残念に思はれた、その某は祖父様の碁敵だつたところから、只もつまらない、何かかけ様と云ふ話から、その上着をかけて、とうとう祖父様の手に入つた。
 大喜びで行李に収めて出発され、香港であらう、公式の御上陸と云うので、此時こそと縞ヅボンの上へ燕尾の上着で得々と甲板へ出られたところが、世話役の外人が声をひそめて「一寸渋沢さん下まで」と云うので、何事かとついて行くと「その服装はあまりおかしい」と云はれてきまりわるく思はれたよし。


市河晴子筆記 まげを切る時(DK010034k-0010)
第1巻 p.479 ページ画像

 市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
 まげを切る時
 不精者だつたし、けつくめんどうが無くなつた位で、大して感慨もありませんでしたよと、おつしやる。


渋沢千代子 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)月未詳(DK010034k-0011)
第1巻 p.479-480 ページ画像

渋沢千代子 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)月未詳 (穂積男爵家所蔵)
民部大輔様御付添仰付られフランス国え御越遊ハしついニ申上よふ無候へ共、遠路御書状被下御嬉敷存上まいらせ候、猶又杉浦様御帰国遊ハし、
 - 第1巻 p.480 -ページ画像 
其御様子も承り弥御機嫌よくいらセられ、誠に御嬉敷存候、此方ニても御両親様始一同無事暮し居候
先頃ハ平九郎見当養子義仰付られ、難有御受申候、九月中江戸表へ罷越御切米戴き、御留守いたし御帰国を御待申居まいらせ候、付てハ私事も仰のとふり江戸ニて御待申度候へ共、おもふよふニならぬ事候へ共、宜敷御察よふ被下、御さしつ頼上まいらせ候
成一郎様ハ江戸御帰りハ《(御脱)》座無候間、さやうに御承知被下度、五月中成一郎方より写真弐まゐ御送被下、一同嬉敷誠に久々御目もし様存まいらせ候
此度ハ存よらさる民部様御写真拝領いたし、礼々たる御おすかた、有かたく戴き御まもり奉候
又御前様ハ先頃とハ事かわり、何ゆへの御事ニて、あさましく見る目もつらきよふニ存られ、いかなる御髪付、手計兄へ申候へば色々と申きけられ候へ共、誠に此事はかり心ならす存候、せめて心慰ためと思し召被下、もとの御かたちに成せられ召よふ願上まいらせ候、御上様寄仰付られ候御事、又は其国え馴染ミよろしき御事ニても御一同の事候へば拠無御事存候へ共、御一人ニて右よふ遊被てハ別して心くるしく存候、何卒先頃通り御勇鋪御かたち御あらため御送被下候へば、此上無御嬉敷、くれくれ願上まいらせ候、申上度事山々候へ其書残しまいらせ候
                      めてたく
                       かしこ

返す返すも時かふ御いとゐ、御奉公御大切に御勤遊ハし、一日もはやく御帰り遊ハしよふねんし上まいらせ候、何と無心に懸り候へ事はかり《(御脱)》座候へは、せひせひ一度御目もし様いたし度、朝夕ねんし候へ共、おもふニまかせぬ事ばかりにて、こまり入候、めてたく
                      千代拝
    渋沢
     旦那様


はゝその落葉 (穂積歌子著) 第八―一〇丁 〔明治三三年〕(DK010034k-0012)
第1巻 p.480-482 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 第八―一〇丁 〔明治三三年〕
○上略 かくまでに覚悟なし給ひける長州征伐ハ、にはかに其事止ミて郷里人の愁の眉やゝ一度は打開けぬれど。其冬にいたり又胸つぶるゝ便りこそハ聞えけれ、そハ田舎人ハありてふ名だに聞ざりける仏蘭西と云ふ国へ。八重の汐路をかきわけて行かせ給ふべきに定りぬてふ御消息のありしなりけり。
雨夜譚に語らせ給ひける如く。一橋の公にハこたび終に将軍にならせ給ひけれバ。大人も成一郎ぬしもやがてともに召し連れられ給ひて。おのづから幕府の臣となり給ふことゝハなりぬ。かく世のさまの変り行くにつけて。御身のなりゆきはじめの御志とハますますたがひける事を深くかこたせ給ひ。むしろふたゝび浪人してもとの志をとげばやなどおぼしつゞけられ。おのづからこもりがちにて暮し給ふ折しも。ゆくりなく民部大輔の君仏蘭西に行かせ給ふにしたがひ参らすべきよしの仰せごとをうけ給ひけれバ。万里の波濤をしのがせ給ふ事をもいかでか辞せさせ給ふべき。なかなかによろこばせ給ひてけれど御旅立
 - 第1巻 p.481 -ページ画像 
の程のいと俄にて。父母の君に御別れ告げさせ給ふ暇だに無く。慶応三年正月十一日横浜の港より船出し給ひしは。いかに残り惜しうやおぼしけん。まして郷里に残り居る御人々の御心はいかなりけん。鬼の住める島にむかはせ給ひけりと聞よりもおそろしく。仏蘭西てふ国ハ日の本の。西にあたれりとか。心あてにながむる空ハ今よりもかはらぬ月の入る方なれど。幾千里ともかぎりなき海のあなたと聞くからに袖にも浪のたえずかゝりて。こがれわたらせ給ひつゝ。今ハ此世にてハふたゝびまミゆる事ハかなふまじと。思ひあきらめ給ひけるも。其かみの世のさまにてハ誠に御理りとこそ思ひやられ奉れ。
○中略
海山遠く立ちへだたる其かなしみばかりならば。忍ぶにも猶安からめど。大人を始め伯父君たちの尊王攘夷の説をとなへて。人々をはげまし給ひけるハ。此時より僅に四年の前なりけれバ。さきに一橋の公に仕へ給ひける時だにも。さすがに命ハ惜しきなめり。などしりふ言云ふ者もありけりとかきくに。ましてこたびハ誰もいみ嫌へる外つ国へ行かせ給ふ事なれバ。其理を知るよしなく。ひたすらあやしみそしりけるが中に。近きほとりなる親族に。かねてより祖父君とも大人とも志合はずして。中らひよからぬがありけるが。さまざまのあらぬとりざたをさへ添へてさかしら言云ひふらすを伝へ聞せ給ひつゝ。祖母君も母君も。云ひとき給はんにも言の葉だになき心地して。いと口惜しう思ひわづらひ給ひけるが。尾高の伯父君来給ふごとにの給ひけるハ。篤太夫ぬしの前に仕官せられつるハ。たゞに身の危ふさに隠れがもとめんが為のわざならめや。一橋の君は父祖の御志を続ぎて朝廷を尊び給ふこと深くおはしませバ。この君をたすけ奉りて共に皇国につくさばやとの心にこそ。されバいかで始の志をひるがへしたりと云ふべき又外つ国をえびすと云ひていたくいみ嫌ひけるハ。我を始め誰もまだ世のさまをよく知らず。ひたすら心狭かりける頃の思ひひがめなりけり。外つ国人とてあながちに皇国にあだせんとするにハあらず。交りを結びてかたみになりはひの便りをえんと求むるにこそ。さるをひたすら拒み退くる理りやある。ことに彼の国どもは万のわざ開け進ミたりとか聞ゆれバ。かの国に行きてその国ざまをつぶさに見あきらめその進ミたるわざを習ひおぼえんハ。此後深く交りかはさん折は更なり。もし仇として戦ふ事あらん時にも。こよなき御国の助けならずや。大鵬の心知らで罵りさわぐむら雀の。いかにかしかましともそハ心になかけ給ひそと。常々云ひさとし給ふに。御胸のくもり晴れ給ひけりとぞ。
夢の通路だにおぼつかなう思ひわづらひ給ひける仏蘭西なる大人の御許より。雁のたよりの御玉章ありてこまごま云ひおこせ給ひけるのミならず。いとめづらしき写真てふものに御姿を写しとりて送らせ給ひたり。すぐよかにおはしますなる御面影を見参らするに。たゞまのあたりまミえ給ふ心地して。いかに打よろこび給ひけん。其後又こたびハ御髪切りそぎ。かの国ざまの衣きて写し給ひたる写真送らせ給ひたり。勇しき御面わは元のまゝながら。見もなれざる御よそほひなるを母君はわきてあさましうおぼして。人に見するだに憚らせ給ひけるを
 - 第1巻 p.482 -ページ画像 
伯父君又さとさせ給ひけるやう。其国の事を知らんにハ其国人と親しまんこそ肝要なれ。独り異様なるいでたちしつゝあらんにハ。人々心をおきて親しみかはす者もなかるべし。さらんには彼国にいゆきたるかひは無からん。姿ハいかに改むるともやまと心失ひつべき篤太夫ぬしかハ。やくなき事に物な思ひそ。と仰せ聞かせ給ふに。けにとハおぼし給へど猶心うくて。いかで元の御姿に立ちかへらせ給へかしなど。云ひやらせ給ひけりとぞ。


徳川昭武滞欧記録 第一・第九三―九七頁 〔昭和七年二月〕(DK010034k-0013)
第1巻 p.482-483 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第九三―九七頁 〔昭和七年二月〕
   一五 民部大輔殿仏国郵船にて出帆並に随員氏名 慶応三年正月
卯正月九日暁第四時民部大輔殿御乗船 大坂より横浜え 着港、即日同所脩文館え御旅宿、同十一日早朝仏蘭西飛脚船え御乗組、同日第九時横浜出帆、御附添乗組人数左之通、
             徳川民部大輔殿
                  御勘定奉行格外国奉行
                     向山隼人正
                  御作事奉行格御小姓頭取
                     山高石見守
                  歩兵奉行
                     保科俊太郎
                  御支配向組頭
                     田辺太一
                  調役
                     日比野清作
                     杉浦愛蔵
                  同並出役
                     生島孫太郎
                  御儒者次席翻訳方頭取
                     箕作貞一郎
                  通弁御用
                     山内六三郎
                      〆
                  民部大輔殿御附大御番格砲兵差図役頭取勤方
                  改役兼勤
                     木村宗三
                  御勘定格陸軍附調役
                     渋沢篤太夫
                  小姓頭取
                     菊池平八郎
                     井坂泉太郎
                  奥詰
                     加治権三郎
                     皆川源吾
                     大井三郎右衛門
 - 第1巻 p.483 -ページ画像 
                     三輪端蔵
                     服部潤次郎
                  奥詰医師
                     高松凌雲
                   (外)
                 右之分
                  大砲差図役勤方
                     山内文次郎
                  松平肥後守家来伝習生弐人
 此両人航海中諸失費申達次第可相納候積り 横山主税
                     海老名郡次
                  小笠原壱岐守家来伝習生壱人
 此一人も右同断             尾崎俊蔵

                  御頼ニ而御周旋方いたし候英の通弁官
                     アレキサンテルシーホルト
                 弐等之分
                     民部大輔殿小遣
                          壱人
                     隼人正家来
                          壱人
                     石見家家来
                          壱人
                     外国方小遣
                   〆      弐人
右之通り有之外に上海迄仏国飛脚船コンペニーのクレー御附添、上海よりマルセール迄同国コンシユル御附添、航海中周旋いたし候趣に有之候事


(向山隼人正)御用留(DK010034k-0014)
第1巻 p.483-484 ページ画像

(向山隼人正)御用留 (静岡葵文庫所蔵)
○上略
 同。 慶応三年三月 二日晴
今朝ツーロン軍艦囲場御一覧之為め朝第七時の御支度にて、御供向は隼人正石見守・保科俊太郎・箕作貞一郎・渋沢篤太夫、御扈従両人、シユレー并シーボルト之両人にて、御旅舘より馬車ニ被為召市中ニ在る蒸気車会所え御越、夫より蒸気車にて第九時半ツーロンえ御着、途中天気夫等にて桃李抔の花盛も一入御慰となりぬ、本地より兼而手筈ありし故、鎮台其他役々盛服にて御出迎、銃隊半大隊斗にて御道固めし、音楽を奏し祝詞を奉る、無程川蒸気船にて湊に碇泊せる鉄張軍艦え御案内申上る、大砲其外蒸気機関等残る所なく入御覧、終りに打砲調練し、又御慰の為め大砲御親放を進め奉る、公子二発程御試被遊、夫より他船外鉄製軍艦二艘えも御乗移、三船毎に十七発の祝砲す 祝砲二十一発施行すべき筈なるニ三船とも十七発ニ而止れるはいと受取かたし取調之上詰問之積り《(原本欄外ニ書キテアリ)》 第十二時頃鎮台の亭に御案内申上、午飯の御饗応す 将官のもの何れも盛服ニ而御相伴申上る 右終りて、製鉄所え御越、溶鉱炉反射炉并器械の新規発明にて且精妙なるを入御覧、又銃砲貯所を御覧最後に、人を水中に沈めて働をなさま《(衍)》しむる器械を試ましむ、是ハ緻密なるゴムにて衣を製し、手足共水の洩らさる様なし、頭ハ銅に鋳なし、面部ハ硝子にて張り、頭に管を通し、空気を出入す、水底に沈みしは四五ミニウトなれと、空
 - 第1巻 p.484 -ページ画像 
気を入替うれハ、何時迄も堪といえり
第五時鎮台の亭に御立戻り、彼是御周旋申上しにより、蒔絵の喰籠と紅縮緬壱疋を鎮台へ被下、蒔絵の香合と白縮緬壱疋を水師提督ニ被遣、何れも珍らしき御品なりと感謝す、第六時頃蒸気車ニ被為召鎮台はしめ其他将官御見迎《(送)》り申上る、第七時過御帰舘
○中略
 同 ○同年同月 廿日雨
第八時より御旅舘見立の為め、俊太郎・愛蔵・篤太夫相越ス
○下略
   ○此ノ御用留ハ横浜出帆ヨリ慶応三年八月四日迄ノ御用日記ナリ。此処ニハ栄一ノ名ノ見ユル分ノミヲ抜キテ掲グ。以下同ジ。


(日比野清作)横浜出記(DK010034k-0015)
第1巻 p.484 ページ画像

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高松凌雲翁経歴談(磐瀬玄策編) 第二四―二六頁〔明治四五年四月〕(DK010034k-0016)
第1巻 p.484 ページ画像

高松凌雲翁経歴談(磐瀬玄策編) 第二四―二六頁〔明治四五年四月〕
      洋行
慶応三年丁卯正月三日午前八時松平民部大輔殿 (清水公子) 京都三条邸を出発せらる。供奉の者、皆騎馬にて伏見に至り。此処より乗船す。夜大坂西御堂に着、一宿せらる。予は直に春日寛平氏を訪ふ。同四日兵庫に宿し、五日午後二時長鯨丸に搭じ、四時解纜出帆す。六日風浪の悪しき為めに進行すること能はず。紀州大島に上陸す、夕に至風止みて出帆す、九日午後五時横浜港に入る。一行京都より随ひしは、山高石見守 (信離) 、渋沢篤太夫 (栄一男) 、高松凌雲、木村宗三及び水戸家よりの付人菊池平八郎、大井六郎左衛門、服部潤次郎、井阪泉太郎、加治権三郎、三輪端蔵、皆川源吾外に衣服裁縫職綱吉等なり。
横浜より一行に加はりたるは向山隼人正 (後に黄村と称す) 田辺太一、箕作貞一郎 (麟祥) 、保科俊太郎、山内六三郎 (提雲) 、山内文次郎 (勝明 シーポルト外に外国方数十人なり。
○中略
十六日 ○慶応三年正月 木村渋沢二氏と上海城中を一覧す。
○下略
   ○右ハ高松凌雲日記中特ニ栄一ノ名ヲ記セル部分ノミヲ抄録セルナリ。以下同ジ。



〔参考〕文事来簡一 丁卯之春王正月我(DK010034k-0017)
第1巻 p.484-485 ページ画像

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