デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.485-489(DK010035k) ページ画像

慶応三年丁卯三月二十四日(1867年)

徳川昭武、外国奉行向山一履等ヲ随ヘテ仏国皇帝ナポレオン第三世ニ謁ス。栄一陪セザリシモ、仏国皇帝ヘノ献上品ヲ宮中ヘ送致スル事ニ当ル。尋イデ同月二十八日軽気球ヲ観ル。


■資料

航西日記 第二巻・第一七―二一丁(DK010035k-0001)
第1巻 p.485-487 ページ画像

航西日記 第二巻・第一七―二一丁
同 ○慶応三年三月 廿二日 西洋四月二十六日 曇。朝五時礼式掛ラヂユス外士官一人礼部大臣よりの書翰を持参し来る四月廿八日 我三月廿四日 即ち日曜日なれば午後
 - 第1巻 p.486 -ページ画像 
第二時に。チュイロリー宮におゐて国帝謁見の事を申来る。午後二時フレイ并トナ等来る。
同廿三日 西洋四月二十七日 晴。朝博覧会掛。フレイ。我士官の内にて唐銅鑑定のものを定たる事を言遣ハす。
同廿四日 西洋四月二十八日 雨。午後二時仏帝。謁見の式あり。
  午後一時何れも礼服。仏国に在る。御国の岡士ゼネラール。フロリヘラルトも黒羅紗に金飾の服にて礼冠を着け。佩剣にて来る。同半時礼典掛二人ラミエス。シヒエイ礼典の馬車を備へ何れも紫羅紗に金飾の礼冠佩剣にて来り。カシヨンも通弁のために来る。我公使にハ衣冠。全権并伝役ハ狩衣。歩兵頭并第一等書記ハ布衣第一等翻訳方。砲兵指揮。第二等書記等ハ素袍なり。嚮導者に面会し。旅舎庭上より礼車に乗れり。第一車ハ前乗。四馬御者二人。騎士二人宛。車の前後に立つ。全権。伝役。歩兵頭。礼典掛り三人。第二車ハ中車。六馬。御者四人。騎士二人宛車の前後に立つ。公使并礼典掛一人并カシヨン。第三車ハ後乗。二馬御者二人宛。車の前後に立つ。第一等書記。歩兵指揮并コンシユルセネラールフロリヘラルト。」ジユレー。第四車ハ二の後乗。前同断。第一等翻訳方。第二等書記并シーボルト°並車三の後乗ハ。公使の侍者三人乗れり。城中正門に到れは。騎兵二人両側に立。銃兵門内両側に並ひ。殿《しりへ》に軍楽部立並ひ。当方通行の時楽起る。玄関に入り下車し。階上にハ戎器を持《もち》し百人の親兵立並ひ厳整なり。礼典掛惣頭取礼服にて階下まて下り迎へ先導せり。一と間毎鎖《まごととざ》し。門官二人宛立侍《りうし》して。行当れバ闢《ひら》き。入れて直《すぐ》に鎖す。第五の戸扉に入れハ。即謁見の席にて三段たかき檀左仏帝。右帝妃。左方外国事務執政大臣。其他貴官列し。右方高貴の女官列したり。我公使ハ。其座前に就き。式礼ありて。其掛り名簿を披露し。相見演説あり。訳官。公使の側に進み仏語に直解して通す。仏帝より答詞あり。両国親睦の交際あるより。今相面謁を得る満悦のよしを述られ。附役カシヨン公使の右に在りて我邦語に訳して通す。夫より第一等書記所奉の公書を服紗より脱し。全権へ達す。全権進みて是を公使に捧く。公使取て帝座にすゝむ。時に帝。座を立ち公書を請取。一礼ありて。事務執政に渡されたり。畢りて公使帝妃に黙礼あり。帝妃も答礼せり。全権ハ公使の側に進み一礼ありて一同退出し。次の間にいたり。全権より贈品目録を礼典掛惣頭取へ渡せり。夫より玄関まて礼式掛頭取送り出たり。
礼典畢りて帰舘せり。夜祝賀の共宴を催せり。此日公使の馬車行装を見んとて。都下の老幼ハ勿論近郊よりも来りて。群集し道を塡てり。
同廿五日 西洋四月二十九日 曇。午後市中を遊歩す。
同廿六日 西洋四月三十日 晴。朝八時仏帝より贈品来る。
同廿七日 西洋五月一日 晴。無事。
同廿八日 西洋五月二日 晴。朝馬塞里鎮台より人々の写真来る。午前十一時風船を観る。
  風船ハ。軽気毬《けいききう》と云。仏国にてハバロンと云 近頃一層の発明のよし。其仕方ゴムにて巨大なる円形の嚢を作り其中にガスを充分に満たしめ。
 - 第1巻 p.487 -ページ画像 
其ガスの軽気をもつて。騰揚せしむるなり。しかして其巨嚢の周囲に長縄を廻らし。其縄を纜聚せし処に。一の小屋を繋付其中《つなぎつけ》に人を乗りしむ。大概風様に従て是を試む。但別に舵楫の設なけれハなり其大なるハ二十人乗位まてあり。尤。ガスの軽気あるゆへに騰上ハ意の如くなれども甚た度を超れハ害あり。故に其分量極めて肝要なりといへり。又下らむとする時ハ。前の嚢裏に充てしガスの気を器械にて漸くに漏減して。碍《さは》りなく地に抵る様にす。是尋常空中を飛航する風船なり。又別に一処に騰上して一処に低下する仕方あり。是ハ唯気毬の下に太き長縄を繋き。これを騰上せしめて。随意の処にて縄を留め。又其縄を引て低下する也。但此類は人の遊観場に設け置く。曲馬其他数々の手伎なとゝ雑観せしめ、乗遊を望む者あれハ価を取りて直に乗らしむ。尤気毬上下の時ハ。必音楽を奏し。導引の乗人ハ稍騰上せし処にて。紅白の旗を麾《ふり》て看官に示すを常とす。是ハ巴里の写真師ナタールの発明なりと云。好事のもの価を費して遊乗す。我本邦にも。往年より。仙台の林子平の徒。此風船の図を著し。猶工夫ありしが。未た如斯開達発明に至らず
   ○スベテ日記ノ記事ハ、綱文ニ表記セル月日以外ノ日ノ分ヲモ悉ク掲グルコトトセリ。スベテ栄一ノ記録セル所ナルノミナラズ、直接間接ニ栄一ノ滞欧生活ニ関スルモノナレバナリ。
   ○重要事項ノミヲ綱文ニ記セリ。以下同ジ。


徳川昭武滞欧記録 第一・第一六二―一六八頁 〔昭和七年二月〕(DK010035k-0002)
第1巻 p.487-489 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第一六二―一六八頁 〔昭和七年二月〕
    仏帝へ謁見手続書 慶応三年三月
  仏帝御謁見手続
三月廿一日、御旅館え使節接待役バロンシビエー并書記官モリス御尋問申上、其節礼部大臣ジツクトカンハセレースより公子え差上し書簡持参す、右書簡左之通
 千八百六十七年第四月廿五日
 徳川民部大輔ソンアルテスえ呈す
余、謹てソンアルテスに申す、余、皇帝の命を伺し処、皇帝殿下第四月廿八日即日曜日午後第二時に、トイレリー宮に於てソンアルテスに公然と面謁せんとす。公使接待兼礼典掛頭取及公使接待の書記官兼礼式掛補佐役、第一時及四分三にソンアルテス及同行たるへき人々を見んか為に其旅館に至り、夫よりトイレリー宮其案内をなし、又皇帝面謁の後同様なる礼式を以其旅館迄案内すへし
                    深く尊敬するの意を表す
                礼式掛総頭取
                     カムバセイレ手記
当日礼車を備へ御案内申上候旨申聞、依之人数名前書相渡候右書付左之通
              徳川民部大輔殿
                  大君殿下之全権
                      向山隼人正
                  公子之伝役
                      山高石見守
 - 第1巻 p.488 -ページ画像 
                  歩兵頭並
                      保科俊太郎
                  第一等書記官
                      田辺太一
                  第一等翻訳方
                      箕作貞一郎
                  砲兵差図役勤方
                      山内文次郎
                  第二等勘定役
                      日比野清作
                  第二等書記
                      杉浦愛蔵
                  御附
                      菊池平八郎
    控席迄               井坂泉太郎
                      加治権三郎

同月廿三日朝、隼人正礼典掛惣頭取ガラントメートルデセルモンー方え罷越、公子之御名札持参謁見の手続承り合、且御贈品差出方引合し処、午後其筋の者一人旅館え差出候間、士官差添帝宮え差送り候様申聞候間、其通り承知引取る、午後第三時士官一人来候間、調役其外之者御品 馬車相雇載之 え差添城下に到る、献上の間ともいふへき所に到り、御品台之上へ並へ、組立茶室は其場へ組立、目録に引合せ相渡す
同月廿四日、朝飯も一時引上ゲ。第一時には御支度相整、役々何れも礼服にて御用所に相揃、無程フロリヘラルトも来る 黒羅紗金飾、礼冠佩剣 第一時半、礼典掛 ラシユスシヒユー 礼典の馬車を備へ 紫羅紗金飾、礼冠佩剣 来る、公子は御衣冠 黒袍紫の御指貫緋綸子の御召白中銀造金蒔絵の御太刀、黒の塗沓冠啓 隼人正石見守は狩衣 薄色の狩衣浅黄指貫白無垢絹糸織沓佩剣 俊太郎・太一 布衣 貞一郎・文次郎・清作・愛蔵は 素袍 、御附の三人は権に布衣を着用せり 是は京地に於て、伺済に付て也 前の両人え一応御達有之、御旅館庭前より礼車に被為召 公子の御衣冠を見奉らんとて雨をもいとはす二階段より庭迄往来も、狭き迄に男女打交充満せり 第一車四馬 御者両人騎し両人つゝ車の両後に立つ 隼人正石見守・俊太郎礼典掛壱人第二車 六馬御者四人騎し両人つゝ、車の前後に立つ 公子礼典掛一人并カシヨン 僧官なれば礼服も不用且国帝の命により、通弁の為に罷出る 第三車太一・文次郎・御国岡士ゼネラルフロリヘラルト并御附添申上たる仏国長崎在留岡士シユジユレー第四車 前同断 貞一郎・清作・愛蔵并シーボルト 是は父シーボルト国帝の旧あるによりて謁見を許さる 并車御附三人乗之、城中正門 騎兵弐騎両側に立銃兵門内両側に立並ひ軍楽隊一部立並ひ公子御通行之節楽起る より玄関に入り、車より下る、階上戎器持し親兵立並ひ、礼典掛惣裁礼服にて階下迄御出迎御案内申上る。殿上間毎に鎖して有り、門官其側に立行当つて開き忽ち鎖す、第五の戸に入れは則謁見の席にて、側面三段高き台あり、左方皇帝、右方皇妃、左手皇帝之側に外国事務執政其他高貴之諸官人列立、右手高貴の官女列立、公子其席に被為入、中央おいて御挨拶有之、其節礼典掛の者ソンアルテスアンペリアルジヤポンと披露、公子御口上被為述、御口上案之通り俊太郎公子御左の方に進み仏語に直し通弁す、皇帝より答詞有之、右答詞に云
  両国親睦の交際ある君主の舎弟に面接するを得るは満足なり、通商の利益により最遠隔の国迄開化の及ふ事大慶なり
カシヨン公子の右の方にありて日本語にて通す、右畢て太一所捧の御
 - 第1巻 p.489 -ページ画像 
国書服紗を脱し、隼人正え差出す、隼人正進み出、是を公子に呈す、公子帝座の許に御進み被成る、皇帝右足を一階下に踏みて手を出す、外国事務執政進み出御国書請取、皇帝に捧く、皇帝黙礼して請取り、事務執政に渡す、右畢而公子皇妃に御黙礼、皇妃答礼、公子隼人正全権の旨御披露、隼人正公子御側に進み一拝、公子はしめ逡巡して御下り、一同退出、次の間に致り隼人正御贈品目録を礼典掛惣裁へ渡す、玄関まで御見送り申上、御案内の両人御旅館迄御送り、御帰路の式都而御往路の通り
   御贈品目録
       マスセテ皇帝え
        一 水晶玉      一
        一 組立茶室     一組
        一 源氏蒔絵手箱   一
        一 松竹鶴亀蒔絵文箱 一
        一 実測日本全図   一部
          以上
     外御附添いたし候書記官并甲比丹等へ被下物別紙にあり
   ○航西日記ノ記事ニテハ栄一陪セシヤ否ヤ明カナラザレトモ、此記録ニヨリ陪セザリシヲ知ルベシ。


(向山隼人正)御用留(DK010035k-0003)
第1巻 p.489 ページ画像

(向山隼人正)御用留 (静岡県立葵文庫所蔵)
○上略
同 ○慶応三年三月 廿三日晴 四月廿六日
○中略
第二時礼式懸下僚案内あるにより愛蔵篤太夫 仏帝江之御贈品に差添宮中に送り其筋の士官に引渡す
○中略
同 ○慶応三年三月 廿七日晴 五月一日
○中略
第一時篤太夫六三郎御旅館見立之為め罷越
○下略


同方会誌 第六〇号・第七八頁〔昭和一一年一二月〕 五大洲巡行記 下(山内堤雲)賛成員故人(DK010035k-0004)
第1巻 p.489 ページ画像

同方会誌 第六〇号・第七八頁〔昭和一一年一二月〕
  五大洲巡行記 下 (山内堤雲) 賛成員故人
二十七日 ○慶応三年三月 隼州・石州学問所ミニストルへ答礼として御出○ロニーより仏語稽古を始む 杉愛・生嶋・改五郎・渋沢・山内 ○夜公子初数人曲馬御見物有之