デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.497-502(DK010038k) ページ画像

慶応三年丁卯五月四日(1867年)

是ヨリ先、四月晦日ボワデブロンギユノ競馬ヲ観ルニ陪ス。是日ナポレオン第三世、大観兵式ヲ行フ。露国皇帝等ト共ニ徳川昭武モ亦招待セラル。栄一之ニ陪ス。


■資料

航西日記 巻之三・第一―一一丁 〔明治四年〕(DK010038k-0001)
第1巻 p.497-501 ページ画像

航西日記 巻之三・第一―一一丁 〔明治四年〕
慶応三丁卯年四月廿七日 (西洋千八百六十七年五月三十日) 晴。此の日。各都下に出。遊歩し。緑陰清涼の地を卜し。幽致の茶肆に入り。並榻して茶菓を試む
同廿八日 (西洋五月三十一日) 曇。ボワテプロンに往て銃を試む
 - 第1巻 p.498 -ページ画像 
同廿九日 (西洋六月一日) 晴。夕四時魯西亜帝仏国へ到着せり
  此の日魯帝の巴里へ到着せるを見むとて。土人近郊の者まで。群集し。ガランドホテル客舎の前往還までつゞく、夕四時魯帝迎の馬車其余騎馬兵歩卒とも美麗を尽し。滊車会所へ出でたり。仏帝にも壮麗なる。馬車にて。右会所半途まで出迎はれ。同四時半頃同車にて帝宮に入らる。暫時ありて。魯帝にはボールバールといふ街の兼て設置れし。仏帝の別宮へ移らる。陪従の士官警衛の騎兵等も相応に召具して殊に立派の行装なり。
同晦日 (西洋六月二日) 晴。午後二時ボワデブロンの競馬を観るに陪す。此の日魯帝。仏帝。孛漏生太子。白耳義王。其他貴族ともに一覧あり
  此の競馬。去三月十八日観しと大方同くして。其催し盛大なり。西洋諸洲の競馬は奕戯《ゑきき》《カケゴト》に同じく相睹《カケモノ》して勝負を争ふを常とす。故に其場にて突富の札の如きを売りて輸贏《ゆゑい》《ハコビカタ》によりて得喪《とくそう》《カチマケ》を為すを事とする催主の如きもの多し。此の日仏帝と。魯帝と。十万フランクづゝの睹ものせしが。魯帝の方勝たりしかば。其十万フランクを以て魯帝より直に巴里の貧院に寄附せしとぞ
五月朔日 (西洋六月三日) 晴。午時シベリオン博覧会の事を議するによりて来る
同二日 (西洋六月四日) 晴。魯西亜帝より使者来る。夜九時国帝の招待によりて劇を観るに陪す
同三日 (西洋六月五日) 晴。午時プランセスミユラ尋問す。今夕四時半孛漏生王到着せり
  魯帝到着の時と同じ此の日魯帝。仏帝の宮へ訪れしに前日土人群聚蝟集するをいとふて。王車行過の路筋を市街の人の知らざる様に通られけるとぞ
同四日 (西洋六月六日) 晴。午時半より。巴里城西南の郊。ボワデブロンギユヂプーロトームロンシヤンといふ所に大調練あり。仏帝は勿論魯西亜帝。孛漏生王。魯国太子。孛国太子其他貴族集会せり。我公使をも兼て招待ありて。我輩も陪従するを得たり
  此の調練の兵数。歩兵凡二十大隊 (組合聯隊) 土坑兵。楽手隊。附属砲兵隊。二十座。楽手附属騎兵。二十四ヱスカドロン。歩。騎。砲の三兵。合せて凡六万人程なりといふ。いづれも壮麗なる装にて部分を正列し。諸兵装頓《そうとん》《シタクトヽノフ》の上仏帝魯帝其他諸王子とも騎馬にて陣頭を一巡し。夫より行軍の式あり。尤大調練にて。転動なしがたしとて。只周旋行なせしのみなり。号令は仏国第一等陸軍総督なり。右行軍終りて。後一隊毎に其指揮官にて引纒ひ。各陣営へ帰る。其号令指揮の整斉旋回機変の自在。一人一体を動す如し
夫より仏帝魯帝同車にて帰宮の途中ボワデブロンギユの松林の間より魯帝を狙撃発砲《そげき》《ネラヒウチ》せし者ありしが。幸にして側の馬に中りて。両帝とも恙なし。されども大に騒ぎて其者を忽地捕得《たちまちとり》たりとぞ。其後の始末はラシヱクル新聞紙撮訳に詳なれは此に附載す
千八百六十七年第六月六日。仏都にて調兵の挙畢りて後。那破烈倫帝と歴山帝《アレキサンドル》 (即ち魯西亜帝の名なり) とその外諸王太子いちどう乗居たる帝家の馬車。ボワデフロンの松林の間を通行せし折柄。一人の男歴山帝へ対し。手
 - 第1巻 p.499 -ページ画像 
銃を一発せり。歴山帝巴里在留の間附添はしめ置たる。我国帝の騎兵 (モツシユレレインホフ) 是を見て。直さま馬車の乗口の傍に進みたりしが。其男子衆見物人の最前に立居たるを見受たりしかば。たゞちにおのが馬を盤《めぐ》らしてその男子に乗かけんとせしに其男手は已に自からおのが手に傷付《きずつき》しをも顧ず。其志を達せむと。更にその手銃を二発せり。其一弾は騎兵の馬の鼻穴に当り。一弾は自から其指の一を落せり。玆に於て諸衆人悉く大声を発して叫喊《けうかん》《サハギ》せり。さて其馬の血。帝家の車中に注ぎ。帝衣を汚かせり。是を以て国帝は傷を受たる如く見えたれども天帝の眷佑《けんいう》《タスケ》に依て。国帝及歴山帝。少年の王子も皆傷を受たるものなかりし○拿破烈倫帝の神色少も変ることなく。車中に立て衆人に向ひ誰も傷を受たることなしとの言を告たりしかば。人々感服せり。歴山帝も同じく自答して。我等同じく敵を見たりと述られたり。王子フラヂユルの衣服血に汚れたりければ。拿破烈倫帝これに向ひて。血に汚れたるは傷を受られたるやと問はれしに。否君《いな》にはいかゞありやと対へられたり。国帝及歴山帝各王子の礼服もみな血に汚れたり○其時其場《その》にありあふ人々皆憤怒し。その男子をとらへ是を罪せんとせしかば。余儀なく士官の警衛を要するに至りし。その男子は直に一の馬車に入れ。二士同乗し。巴里の番士一ペロトントこれを警護し。市中取締役所まで送りたりしは。恰も五時半なりし。その男子の発せる弾丸。一婦人に傷つけたりしといひ。又その婦人の頭飾に中りたりしのみなりともいへり。尤其婦人は馬車に乗せて同じく役所に送りたり。其男子は波蘭人《ボーレン》にてベリゾウスキといへるものにて。年令二十才。器械の職人金鉄類を製する。工家モツシユルグアンといへる者に属し。工を操れるものなり。同車警固の一士官途中其男にいふに爾《なんぢ》の弾丸歴山帝に傷つくことなしといひたれば。甚残念なる体にて憤怒の色顔面に顕れたり。又其生国を糾《たゞ》せしに。自若たる体にて。直にその波蘭人たることを白状し。まだ其郷貫。年齢等も隠さずこれを陳述したり。其者はウオリニーの産にて二年前即十八歳にて其国を去りて。此の地に来り。器械の職工とはなり。グアンの手に附き其後モツシユールゲールの手に属し。今年の第五月四日ゲールの方より。暇を取たれども。兼て波蘭人の為に。法国政府より与ふる扶助金。一箇月三十五フランクと其他のものにて暮し居たり。同車の士官その職業を廃したる。所以を問たれども対へざりし。其後歴山帝を狙撃すべきとの志を企てたるは。何時頃なりやと尋たりしに。帝の巴里に到着せしことを承りしより。思ひ立たるよしをいへり。其最初は火曜日の夜。遊劇所《いうげき》に赴くとて。その企をなさむとせしかども。手に一兵を持たざれば。空しくプールバールペレチヱー往来の角に立て。衆人の前に出て歴山帝を見たりしに帝も己の波蘭人たるを察し知りたる様子なりと自からいへりと。且其往来にて衆人の帝の為に。万歳を唱ふるを聞たりしが。己は一言をも発せず。その折より狙撃すべき志ますます決せりと○其明水曜日ゾールバールセバストボルにある。武器を鬻げる家に行て二挺がらみのピストルを求めたりしに。其商家にて八フランクづゝの筒数多を示したり。其用に適《てき》《カナフ》すべきや否やを問しに。其中の試験を経たるものあり。九フランクにて売るべしとの事にてその最佳なるべきを告たれば。是を買
 - 第1巻 p.500 -ページ画像 
得たり。即その価を遣し筒を携へ。己が家に帰り。薬を装せんと試みしに。その弾の余りに小さかるべく心付たりしかば。他の弾を鋳むとせしが又心付て其弾を大きくしたりしのみにて止たり○其翌朝。即木曜日。渠急ぎ衣服を着し。朝七時に起出て。其装薬せる。手銃を。嚢中に納め午飯を喫せしも甚倹素なりし。裸麦のパンとソーシーソン (摺肉に銀紙をかけたる物也) 及葡萄酒半瓶を傾け。その飲あます所を己袴中に蔵せる小瓶中に移して携へたり。而して徐《やうやく》に競馬場の方に赴きたり○調兵場に歴山帝の到れる時。是を発せんとせしかど。其道を知らざるより終に帝車に出合ざりし。調兵畢るの後。帝車カスカードの道を帰るべきよしを聞しりたれば其岐《き》《チマタ》をなせる路頭に立。衆人の前に出でこれを待受たり。恰も騎兵隊一レヂメント引来れる時なりしかば。帝車之が為に暫時路を撰ぶがため猶予したり。頓て帝車の進まむとせし折渠《かれ》帝家鹵簿《ろぼ》《シルシ》に近づき。拿破烈倫帝。歴山帝。両王子の車過る時。ピストールを振りて。是に近づきたりと白状せり○士官又爾《なんち》が輩を能守護せし政府の客分たる歴山帝を。何の為に狙撃せんと企たるやと問ひしに。渠涙を流して。仏蘭西政府に対しすまざることをせし旨を述べたり○士官再び。歴山帝を撃んとせしのみならず拿破烈倫帝をも撃べき企なりやと問ひしに。波蘭人の発する弾丸は決して他人に中《あた》らず歴山帝に直に中るべき筈なり世人をして歴山帝の虐政を受けず。自在ならしめむとの外決して他意なし。と述べ久しく黙然として居《を》れり○諸裁判方の重役。今午後問注所に赴きたるのみならず。ミニストルデタルヱル初め。帝命を以て悉く集会せり。歴山帝のヒートテカン側役なるマムトスワロフも出席したれども。自高ぶりて直に罪人を糾すことを嫌ひたりしかばルヱルより其最後の糾しは。マントスワロフ氏より始むべき旨をもて。是を促したりしにより。同氏魯語波蘭語仏語等にて種々の問をなし。その親属及以前の職事等を問ひしに十六歳の時波蘭一揆の企に組し。砲を肩にせしが。二年前。国を去りしよりは。親属とも音信を絶ちたりしよしを述たり○又父と。書信の往復をなすやと問ひしに。決して其事なく且他人より己れの隠謀露顕せんとの恐れあれば。決して人に語らふことなかりしとの事は。更に恐るゝ気色なく。幾回《いくたび》もくりかへして是を述たり。渠傷を受けたるをもてその左の手を布綁《ふはう》《ヌノニテマキ》しこれを水に浸しなどして。丁寧に介抱なしたり。渠いかにも沈着して頗る才智あるべく見ゆ。その故は陳伏に一々調印し。且ピストールはいづれより買得たるなどの事までも委しく書面に認めたり○手銃は台尻の方損し。其中に弾丸一つ入居たり。第二時 (即夜二時なり) コンシヱルセリーへ連行。番を附置くといふ○又フランスといへる新聞中には。歴山帝に属従せる諸官。悉く憤怒して。速に帰国あるべしと勧めたりしかば。これ程のことにて。兼て期したる月日を一時も低《ひく》《ヘラヌ》ふすべきなしと答へたりと
是等の新聞は。本邦へも速に舶来して。諸人疾く見侍りたらむを。今玆に其儘くだくだしくしるせしは。贅言なれども。其時の新聞の速にして委しきと。且其寛優なる其国風をしらしめむ為。その儘記せしものなり。又東洋の新聞は。米国桑方斬哥印度新嘉埠の電線にて。不日に達するを得せしむれば。本邦又は支那印度の瑣末なる珍事までも。
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都て如斯迅速《かく》に其詳なるを得る。看る人其気息の快通するを察すべし
此夜十時。魯国公使館の舞躍を見るに陪す
同五日 (西洋六月七日) 曇。魯帝の為に町会所にて大舞踏をなし。凡八千人許集るといふ (此の会仏帝魯帝孛王仏后妃等みな招待ありて暁に徹す)


徳川昭武滞欧記録 第一・第一九一―一九五頁 〔昭和七年二月〕 【九 向山隼人正より塚原但馬守等宛滞仏状況報知の書翰】(DK010038k-0002)
第1巻 p.501-502 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第一九一―一九五頁 〔昭和七年二月〕
  九 向山隼人正より塚原但馬守等宛滞仏状況報知の書翰
      ○慶応三年五月十四日
 丁卯五月十四日
以書状啓上いたし候、然者民部大輔殿御事益御勇健、法京巴里御滞留被遊、拙者始御附添之もの一同相替候儀無御座候間、此段可然被仰上可被下候
去月廿九日、魯西亜帝皇子両人被連当地江到着いたし候、同晦日ボアデブロン競馬場おいて競馬有之、各国帝王貴族等被相越候に付、仏帝より御招待有之、公子御越有之、其節魯帝白耳義王孛漏生太子等江一応御面会有之候
本月朔日、白耳義王孛漏生太子御尋問被遊、御面会有之、同二日魯西亜皇帝御尋問被遊、御面謁有之 同夕仏帝よりの御招待に付劇場江御越、尤仏帝魯帝はしめ諸王子等御列席之事
同三日、孛漏生当地江到着《(王脱カ)》いたし候
同四日、ボアデブロンおいて盛大之調練有之、仏帝より御招待申上候に付御越之処、魯帝孛漏生王并魯皇子両人孛太子等仏帝同騎に而軍中に罷出る、将官は魯帝之貴臣孛之執政有名なるビスマルク等に而、其他は仏之貴官等何れも帝後に続き罷出る、此調練尤晴之挙に而総勢六万人計り之由、其内騎兵一万大砲百門計に相見へ大調練に有之、細なる駆引は無之候へ共、万事相整美麗なるには驚入候、見物雲霞之如く往来馬車に塡み候程に而、仰山之儀に有之、右調練終り、仏魯帝一馬車に同騎いたし帰路之砌、別紙新聞紙訳之通り奇難有之、右に付両帝江公子より御祝書被差遣候
同夕、魯帝之催に而同公使館おいて舞躍有之、兼而御招待状さし越候間公子御越之処、両帝共出席孛王其他貴族何れも集会いたし候
同五日、孛漏生国王御尋問被遊、御面会有之 同夕、町会所おいて魯帝之為め催さる舞躍有之により御招待申上、公子御越之処、帝王貴族始集会せるもの八千人計り珍しき大会に有之候
同七日 仏帝より御招待申上魯帝孛王其他諸皇子諸貴族御同行に而、ウエルセイル江御越有之
同八日、仏帝宮おいて夜遊有之、御招待申上候に付公子御越、各帝王貴族諸役人其外に而凡千八百人計り集会頗る盛筵に有之候
同日、近江守殿安芸守殿より三月十二日附書状到来落手いたし候
同九日、松平肥前守家来佐野寿左衛門当地到着いたし候旨に而、為届罷出候間、掛支配向之者を以博覧会掛りレセツフ江為引合場所江産物差出方追々為及談候
 - 第1巻 p.502 -ページ画像 
同夕、孛漏王《(生脱カ)》より舞躍を催し、御招待申上しにより、同公使館江御越有之、仏帝其他諸貴族集会致し候
 十一日、アエニウデアンペラトリスにては第五十号ルーデペルゴレースにては第五十三号仮御屋形諸御道具御買入相整、御普請向出来致し候に付、御転移相成候、則別紙横文所書差進候《(マヽ)》、別紙山高石見守より之達書一通并品書付共差進候間、可然御取計有之候様いたし度、右は京地江被申上其筋において取扱候而ハ多少之手続も有之、自然時日相後れ、将御品々取聚荷造方等不馴之廉も不少被存候間、其段御申上可然御取計御座候様いたし度候
右之段可得御意如此御座候、以上
   五月十四日             向山隼人正印
  塚原但馬守様
  柴田日向守様
  江連加賀守様
  石野筑前守様
  川勝近江守様
  平山図書頭様
尚々、時候折角御保摂有之候様存候、安芸守殿御出帆と存候間御除名いたし候、新発明テレガラーフ、瑞西人製作場に而出来候趣にて、右商人にも面会いたし候様承合候処、御国にて御用相成候には、屈強と被存候間、先一具御買上可相成積申談、尤用法は瑞西江御越之砌伝習受候様可致筈に約束致置候、委曲内状中に申進置候間可然被仰上可被下候、以上