デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.548-558(DK010044k) ページ画像

慶応三年丁卯八月二十八日(1867年)

徳川昭武一行前日和蘭国ヨリ白耳義国ニ入ル。是日昭武ブラツセルニ於テ白耳義国王レオポールド第一世ニ謁ス。尋イデ翌二十九日ヨリ陸軍学校・舎密工場・アンベルス礮台・炮車・諸器械・弾丸製造所・リエージユー銃砲製造所・シラアンノ製鉄所・マリートヲワニヱトノ鏡及ビ硝器製造所・地理学校・観兵式等ヲ観覧スルニ陪ス。九月九日再ビ王ニ謁スルヤ、王昭武ニ説キテ曰ク、鉄ハ文明国ノ必需品ニシテ強大国ハ之ヲ用ヰルコト多ク、弱小国ハ之ヲ用ヰルコト少シ、貴国モ亦須ク鉄ノ需要ヲ盛ニスベシ、而シテ之ヲ購フハ宜シク白耳義国ヨリスベシ、ト。栄一側ニ在リテ之ヲ聞キ、泰西ノ俗、王者モ亦商賈ノ顰ニ倣フカト、奇異ノ感ヲ懐ク。


■資料

航西日記 巻之五・第一八―二七丁(DK010044k-0001)
第1巻 p.548-552 ページ画像

航西日記 巻之五・第一八―二七丁
同 ○慶応三年八月 廿七日 西洋九月二十四日 晴。朝八時。巴里へ書を寄す。同十時国都
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を発す。此日国王滊車を出して一行の者を乗しめ。其国境まて送る側役スヌカールは滊車場まで。附添コロネルはロツトルダムまで留学生等ハ荷白国境ヨウセンダールまて送れり。暫時の旅況も告別に至れハ流石に感情起れり。午前十一時半ロツトルダムへ抵り滊船に移りムルデーキまてゆき上岸し再ひ滊車にてヨーセンタールへ着く。此処へ白耳義国王の滊車もて。嚮導の官員数人来り迎ふ。夕六時白耳義国都ブリツクセルへ着く。滊車会所まて礼式掛。及甲必丹ニケーズ馬車を備へ迎へぬ。同六時旅舘へ就く。所の人々途に群り冠を脱し礼せり。滊車場へハ兵士及取締の者多く出して警衛頗る厳粛なり
同廿八日 西洋九月二十五日 曇。朝カピテインニケイズ来り国王謁見の事申入。午後一時。迎の馬車三輌いつれも壮厳の粧ひにて来り迎ふ。第一車ハ嚮導の甲必丹ニケイズ并陪従の人々。第二車は公使並伝従其外礼式掛シーボルト等。第三車も陪従の人々なり。同二時半謁見畢り 謁見の式大略。荷蘭と同し。尤王妃も同席なり。謁見の席上。其外の間毎に古器なと盛に羅列し構装甚壮麗なり 帰宿後。直に。外国事務執政来問す。夜七時甲必丹嚮導にて国王催の劇場を看るに陪す。此劇ハ。巴里の体裁に同しけれハ略しぬ 同十一時帰宿す
同廿九日 西洋九月二十六日 晴。朝十時半。陸軍惣督嚮導ありて。陸軍学校を見るに陪す。火術場。細工火。烽火。昇降煙等。都て軍隊に用ゆる火伎を修行する場なり 舎密術場 薬品又は染工に用ゆる品を製する場なり 等を一覧し。夫より。兵隊屯所。歩兵。整頓壮禛の挙動よりして。旋回。行進の手前。甚整粛なり。別に本杖運用の業。跳躍。軽便にして勁捷なり。又乱軍に至り。弾薬の竭たる時銃鎗を以て接戦に及ふの挙動抔甚自在なり。又細き鉄〓を持て相撃の技をなす覆面小手等は本邦演撃の具にひとしけれとも其製甚た疎なり相撃の業は軟弱にて迂濶也 等を観亦園囿《みる》なとも遊覧し。夕五時帰宿す。此日此地の大祭日にて。夜八時頃より。北部にて観火の挙ありて招待せらるに陪す。行程一里半許にて郊野に至れハ。国王の桟敷を設けて在り。此所へ請しぬ
 此祭祀ハ往年当国の初代王荷蘭より分割して此国を創建せし祝日の由。毎歳此所にて煙火を挙て興とす。其仕方。双方へ竿を立麻綱を張り。一人の曲芸師。美麗に装束し。其綱の上を歩す竿の長凡十五間許綱の亘り。凡三十間もあるべし。曲芸師手に長き竿を持ち。綱の上を緩歩し行詰り。後面に跡へ逆歩する。両三度にして。次第に疾走翔ることく。或は中央綱のたるみにて。綱に手を掛足を投し。身を翔し綱上に逆立し。又一足を綱に掛け。身を逆下し。看官をして。寒心。栗股。せしむ。其休息中は。種々の細工火を揚け。空中に点し末尾にハ。彼曲芸師の持し竿頭より火を発し。其人の影ハ見えす火鎮して又綱上を徐歩す。此時下の観火場より。数千の細工火一時に連発し。青紅紫白の火炎。空中に翻騰し尤奇観を極たり
此夜。群参の看官人。凡二万人余。細工火の費失一万五千フランク程なりと云
同晦日 西洋九月二十七日 晴。朝九時。甲必丹の嚮導にて。アンベルスの礮台を観るに陪す。午前十時。一の台場に至る。此台の築立方。外面は土石にて。屈曲長蛇の如く。堤の下ハ深き溝にて水平面に充ち。内側の入口。両所に鉄橋を架して通す。砲台の形扇を開きしことく外面斜横にして。其堤の内側は石と瓦にて。築立て土窟を多く造り。其中に弾薬砲器械を貯へ。兵卒屯所を設け。其扇の要と思しき所に。一の宏壮な
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る礮墩を設《もうけ》。数十門の大砲を備へ。其外面と要と相接る所ハ深溝にて僅に七八間の土坑を設て。外面と要との往来をなし。土坑の両側にハ又十門宛の大砲を備たり。交戦の時外面の砲墩礮にて相接《せつし》。万一失利なれハ。要領に。引纏《まとめ》て防禦せる為なりと云。其制度宏壮。緻密なる一歴にて識得すへからず。午後一時アンベルスへ抵《いたり》。市街周囲の砲台を見る。尤未成中なるもありて築立方等も仔細に見えて極て巧なり。此国は周囲陸地にて海港なければ。陸戦の設精密を極めたり。且此地は国中第一の要地にして。緩急の時ハ国民を移し。挙国これを衛る。故に用地砲墩にて。囲繞せしめ其間々に前顕。扇形の礮台を八ケ所に設け。互に掎角の勢をなし。防禦に備へ。兵糧を常に充実し国を合せて是を守る。欧洲挙て攻来るとも容易に敗るへからすといふ。此地到着の節ゼネラール出迎ひ。砲台巡覧の節ハ勤番の士官等嚮導して。総て。式礼等厳整なり
九月朔日 西洋九月二十八日 晴。朝十時。昨日残したる。砲台等を見る一覧後アンベルスにある。炮車製造所諸器械及弾丸等製造所を見る
同二日 西洋九月二十九日 曇。夜七時半。兼て設置し。劇を看るに陪せり
 舞台の周囲は警衛の兵を出して固め。舞曲始れは。座頭のもの出て来臨の忝を謝し。其接待周旋。都て国王見物の時と同様なりといふ。其舞曲。美麗を極め。所作様々の仕業あり
同三日 西洋九月三十日 晴。朝八時。カピテイン嚮導にてリエージといふ地にて。銃砲製造の器械を見るに陪せり。午時滊車にてシラアンといふ地に至り。製鉄所を見る。反射鎔鉱《はんしやようこう》の二炉。鉄材精製の法。鋼鉄の吹分方。石炭掘取方。石炭は都て地中より堀取る。其深さ凡四百メートルありといふ 諸砲車。及蒸気車鉄軌。其外諸器械の製造等を見る。此地の総裁其居宅に請し。饗応鄭重なり夜十時帰宿す
 此製鉄所は。最盛大宏壮にして。周囲凡三万坪程あり。職人七千五百人より一万人許。凡一年の製作金高通例三千万フランク許なりといふ。是より先き英人ニツクといふ者此地に来り製作を始めしより次第に其業弘まりて今に至りては。欧洲中有名の地となれりと云。
同四日 西洋十月一日 晴。朝九時カピーテイン嚮導にて滊車に乗り。マリートヲワニヱトといふ所にて。鏡及硝器等を製するを見るに陪す。同十一時同所に至る。車四輌を備へ。製造所の役々十人許出迎ひ。製造所の頭取ハ其男子を騎兵にして。迎ハせ。邸宅の前に至る頃に三十人許の楽師をつらね奏楽を興し抵着を祝し。居宅前にハ其親縁なる。婦女子を美々しく粧ふて出迎はしめ。堂に請し。午飯を饗す 此節親縁の者。数人前導。給仕等いたし。別席にて楽人は楽を奏し。饗応善美を尽せり 是より製造所へ嚮導し。種々の器械珍奇を備へて。其業の精巧を見せしめ。帰路の節ハ道路両側に。諸職人立並祝詞《ならび》を呈す。其人員凡三百人余なるへし。其前にハ。楽を張りて道路を清くし。尚又其家に請し表の方にハ。二百人余の婦女の職方。何れも粧を凝らし。打揃ひて祝詞を述ふ。頭取始め役々七人滊車にて送り来る
同五日 西洋十月二日 曇。嚮導ありて午後一時。絵図面学。地理学校を見るに陪す。本国の精細地図及。欧洲全図其外。砲墩。築城等の諸絵図類を看るに其細密精巧を極め。新奇工夫の至る所。言語の及ふ所にあらず。
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夕孛国シヤルジダフヘールより。巡回の期限を問合せあり
同六日 西洋十月三日 晴。朝十時半カピテーテイン及。此地の全権並近郊山林を支配する官員来り嚮導して。兼て設るチユウルンといふ所にて畋猟《でんりやう》《ケモノカリ》を観るに陪せり。畋猟場《でん》は国王の囿にて。四方十町余もあるへく。幽静なる地にして。樹林茂密。禽獣蕃畜。四囲土塀に築立て其内に渓流を引て禽獣の来安き様になしたり。勢子とも二十人余四方より一時に逐立て禽獣の其小溝を廻り走るを要射するに。鹿兎の類多く。此日の獲物ハ鹿五疋兎六ツなり。常に其囿に畜置ける。鹿は七十五。兎類は数しらすといふ。勢子共の逐立方奔走敏捷なる。射者の馳駈詭遇。尤神速なり。此日午餐其山林に草筵し。一大の食盤を設け。上下相集り同餐す。野興宏濶頗る清味を覚ふ。夕六時帰る。此夜カピテイン其外嚮導者等へ同案の夜餐を具し。馳駈の猟師へ仏貨三百フランクを賜ふ
同七日 西洋十月四日 曇。国王より再ひ謁見の事を申越さる。此地の乗馬を試んとて。調兵場へ至らる
同八日 西洋十月五日 晴。国王より嚮導ありて。都府外の調練場にて。陸軍三兵の火入調兵を観るに陪す。午前十時半。迎の馬車四馬に駕し御者六人内。四人ハ駕に添二人ハ其馬に跨《また》がり。外に導者一騎。の御者喝道せり。王宮の前達を左りに折れ。並樹の大衢へ出。なを旋り十町余行て。郊外の調練場に至る。調兵順序をなして陣列し。士官。楽手。歩兵夫々礼式等ありて。先の陣列せし兵隊。各其長にて指揮し。護送して場所に至る。兵隊は場中各所に屯集し。夫より将帥指麾して。攻撃。襲討。接戦の挙動あり
 此日の人数ハ。歩兵三大隊。大砲一座。騎兵三隊。楽手隊共に。同勢二千五百人余と云。各隊連発の時ハ砲声整斉。雷霆の如く。煙焔天日を蔽ひ。甚壮烈なり。畢りて兵隊整頓の上。ゼネラールロナイル桟敷に候し。公使馬上にて。各隊の陣列を巡視せらる。ゼネラールロナイル附従の。カピテインシーボルト。其外人々随従せり。総て兵隊捧銃奏楽の礼あり
公使巡回し了り桟敷に就き午後二時帰宿す
同九日 西洋十月六日 曇。夕六時。兼約の如く。王宮に請し。国王同案の夜餐の饗ありとて。カピテンニゲース迎の馬車を備ふ。第一車ハ公使並伝従カピテインシーボルト。第二車第三車は伝副の人々なり。王宮副門にて下乗あり。階梯を経て。相伴の貴官陸軍総督其外役々出迎ひ。控席にて暫時休憩せしめ。公使ハ王の燕席に請し。附従の人々ハ次席に控へ。程なく国王公使と共に次の間に至り。互に紹介して。其貴官と伝副の士官とを引合せ。等《ひと》しく打連て食盤の間へ移らる。国王は中央。公使は右座に就き。伝副の面々並貴官等。接伴に列せり。夜饗中ハ次席にて奏楽あり。割烹。調理善美を尽し。器皿杯盤灯燭。珠玉を鏤めあたり輝き華美を極めたり。夜八時半宴徹し楽闋り。又王の燕居に請しカツフヘー。及種々の名酒を飲ましむ。同十時頃帰宿
同十日 西洋十月七日 雨。夕三時。孛漏生在留のシヤルジダフヘール来り。其国王太子当節国都に在らざるに付。巡回延引あらん事を談せり
同十一日 西洋十月八日 雨。朝七時半。マストリウツクレグーといへる。荷蘭
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の豪家の招待せるに陪せり。陶器硝器等製造の場所其他種々。名苑。奇亭等を見る。午夕とも饗応し。尤鄭重なり夜九時帰宿


渋沢栄一 御用日記(DK010044k-0002)
第1巻 p.552-556 ページ画像

渋沢栄一 御用日記
 八月 ○慶応三年 廿七日 晴         九月廿四日
朝巴里江御用状差出す、御用行御用状とも封入差遣す、此日御出立之積ニ付早朝より旅装御整第十時半御発スヌカールは滊車場迄御見送申上る、国王の蒸気車を以国境迄御送之旨申聞る、御附添コロネルはロツトルダム迄御送申上、留学生徒は荷白国境ヨウセンダール迄御送申上る、第十時四十分国都ハアヘ御発十一時半ロツトルダム御着、夫より蒸気船御乗組、ムールデーキ夫より再蒸気車ニ而ヨーセンダール御着之処、白耳義国より為御迎国王之滊車差出し御案内之者罷出る、夕第六時国都ブリツクセル御着、同処滊車場には第一等礼式掛及甲必丹ニケイズ美麗なる車を備へ御出迎、六時二十分御投舘、此日滊車場より御旅館迄見物人途上に充満し、多く冠を取り敬礼を為せり、滊車場は為警衛兵士市中取締之者多く差出せり
 八月廿八日 曇                九月廿五日
朝カピテインニケイズ罷出、本日国王御逢之手筈申上、第一時御迎之馬車可差出旨申聞る、御贈品は御逢之節持参、御附之者より引渡可申、其外手続申談罷帰る、第一時御迎之馬車三輌尤壮麗を尽せる装ニ而罷越す、第一車は為御案内甲必丹ニケイズ、保科俊太郎・高松凌雲・渋沢篤太夫、第二車は公子、石見守御迎之礼式掛シルーボルト等御供、第三車は御雇井坂泉太郎・三輪端蔵等なり、二時半御逢済、御帰館 御逢之手続は別に記載したれは此に略す
御帰後外国事務執政御機嫌伺として罷出る、御理髪中ニ付御逢いなし、第三時半より石見守・俊太郎カピテインニケイズ案内ニ付諸貴官江本日之挨拶として罷越す、今朝九時巴里江御用状差出す、隼人正宛仏国博覧会掛之書状壱封差込相送る
夜七時半甲必丹御案内ニ而王家之劇場御越、石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫・井坂泉太郎・三輪端蔵シーボルト御供、十一時御帰館
 八月廿九日 晴                 九月廿六日
朝十時半陸軍学校御越、火術精舎術御一覧、夫より兵隊屯所御越、歩兵手前小運動御覧 整頓装塡の挙動より運動行進之所作迄甚静粛にして謹厳なり別に木杖運用之挙動あり、軽便にして勁捷なり乱軍ニ而弾薬尽し節銃を以て相接する為の調練なりといふ 終に細き鉄ニ而作りたる〓ニ而相撃の技を為さしむ面覆及小手等は御国演撃具にひとしく、其製甚卑疎なり、相撃之法軟弱ニ而迂濶なり、昼十二時御帰館、三時より尚又本地博覧会御越、往古以来之武器其外種々之奇古珍有之品御一覧、夫より王家の園林華囿御巡覧夕五時御帰館、石見守・篤太夫博覧会より御先に帰宿、シーボルト同道孛漏生公使館江罷越、在留之シヤルジダフヘールフランス」クロワ」に面会、同国御越之手続申談、同人より本国都府江申遣し、御程合早々可申聞旨引合罷帰る、此日は本地の大祭日ニ而夜八時頃都府北辺の郊ニ而観花の挙あるニ付、御越之儀カジテイン申上夜八時半より御越、一同御供、同車ニ而行程一里計ニ而郊外のいと昿濶なる処に設けある王家の桟敷に御越ニ而御一覧、本地当夕の祭典は先年当国初代
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之王荷蘭より分割して独立せし祝日ニ而、年々の旧制郊外の昿き処江高き竿を建、其竿ニ麻縄を張り壱人の曲芸師美麗ニ結束して縄上を歩す 竿の長拾五間縄の行径三十間もあるへし 其曲芸師手に長き竿を持、縄上を徐歩し行止りて後面に逆歩し、両三度往返し、終には疾歩如翔、或は中央の縄のたるみし処ニ而縄に手を掛て足を投し、身を翻して縄上に逆上し、壱足に縄を掛て身を翻投し、看官をして心悸魄悚せしむ、曲芸師休息する時は様々の細工火絶間もなく空中を装点し、末尾に彼の曲芸師之持し竿より火を発し、己は火中に在りしか火花に而も其姿見へす、火光稍鎮する頃、又縄上を徐歩して休息の場に達す、此時其下の観火場より数千発の細工火一時に連発し、青紅紫白の火光中天に翻騰し、尤奇観を極めたり、技曲済ぬれば夜十一時御帰館 此夜群聚の見物人凡弐万人余り其細工火の経費僅一万五千仏なりといふ
 八月卅日 晴                 九月廿七日
此日は本国有名なる然も欧洲に秀し、アンベルスの礮台御覧に入るとて、朝九時半御旅館御発し、例の甲必丹御案内本地の滊車場ニ而王家の滊車御乗組、十時頃一の礮台に至る、其砲台の制、外面は絶て土ニ而築立、屈曲せし長堤の如く、堤の下は深き溝ニ而、水平面ニ充溢せり、内面の入口両所に鉄橋を架し而、これを通す、砲台の制開布せし扇面の如く、外面に横衝して其堤の内は石と瓦とニ而築立螺旋せし土穴を多く設置て其中に弾薬砲諸器械の貯所及兵卒屯所等を設置きたり、其扇面の要とすへき処に一の宏壮なる砲礮を築置けり。其外面と要領と相通する処は堀廻わせし溝相接して僅ニ七八間の土坑なり、土坑の両側に拾門宛の大砲を備へたり交戦之節外面の砲礮ニ而相接し、万一戦争利を失ひ敵外面を浸襲せし節は其要領ニ而防禦する為なりといふ―其制宏壮緻密なること一歴覧の識得るところにあらす、御一覧後再蒸気車ニ而第十二時半アンベルス御着、同所客舎ニ而御昼食、御休息後本地を周囲せし砲台逐一御巡覧、或は其未成中建築之仕方又は已ニ築成して砲礮の設方等逐一に御歴覧、夕五時滊車御乗組六時過御帰館、本国は周囲陸地に而海軍之備なき故に陸地戦争之設は其精を究めしといゑり、アンハルスといふ地は本国要領之場所、緩急之節は国民を同所に移し国を挙てこれを衛る、故に其周地は総て砲礮ニ而其繞囲連築せし外ニ前に及見たる砲台を八ケ所に設置、互に掎角の勢を為し、敵の浸襲を防禦す、其兵食を充実して国を合せてこれを守らば欧洲挙て攻撃すとも能其防禦に堪ゆへしといゑり、此日は御附之者一同御供アンベルス御着之節同所ゼネラル御出迎申上、砲台御覧之節は勤番せし士官御案申上る、其兵卒は総て捧銃の礼を為せり
 九月朔 晴                  九月廿八日
此日も昨日御覧せし砲台の残れるを御覧に入るとて石見守・俊太郎御雇の者両人シーボルト御供ニ而御越、砲車製造所諸器械及弾丸の製造等御歴覧、夕五時半御帰館
 九月二日 曇                 九月廿九日
第十一時御写真御越石見守御雇両人シーボルト御附添カピテイン御案内申上る、十二時半御帰館三時半市街御遊覧夕五時御帰館夜七時半より劇場御越尤本夜の劇は公子の為に設しとて舞台の周囲は警衛の兵を出し舞曲も尤華靡を尽せり、座頭の者罷出、御来臨之忝なきを謝す、
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其設待周旋総而国王見物之節と同等なりといふ、十一時御帰館、此夕巴里表より御用状到着
 九月三日 晴                  九月卅日
朝八時滊車御乗組、リエージといふ地ニ而銃砲製造之器械御覧に入るとて御附添カピテイン御案内、石見守・俊太郎・篤太夫御雇、両人シーボルト御供十時リエージ御着、大砲製造所御覧、十一時半本地客舎ニ而御昼食、夫より同所小銃製作所御一覧、一時頃より尚又滊車御乗組、シラアンといふ地御越、製鉄所、石炭堀出之器械、砲車の製造、蒸気船蒸気車器械之製造等逐一御歴覧、夕六時半リエージ御帰先の客舎にて御夜食八時滊車御乗組十時半御帰館 此日御覧なりし製鉄所は尤盛大宏壮なり、其周囲凡三万坪程ニ而其職人七千五百人より壱万人程なり、壱ケ年の製作金高通例三千万フランク程なりといふ、先年英国の人ニツクといふ者本地に来り、製作を初めしより、追々其業広大になり、当節は欧州中の尤なりといふ、御着之節同所総裁之者其居宅江御請招申上御帰之節も御立寄御休息有之
 九月四日 晴                  十月朔日
此日マリートヲワニヱトといふ地ニ而鏡及硝器之類製造所御覧に入るとて、例のカピテイン御案内、石見守・俊太郎・凌雲・御雇両人シーボルト御供、朝九時半御発、蒸気車御乗組、十一時同所御着、当所会所迄四輌之馬車を備へ製造所掛之役々十人計御出迎申上る、其製造所之総裁は其男子を騎兵に仕立騎馬ニ而御出迎申上る、総裁居宅の前に御着の頃三拾人余の楽師を列ね奏楽して御着を祝す、其表口には総裁の縁親なる婦人四人御出迎、夫より総裁の家に而御休息、御昼食 御昼食之節前の縁戚之者御同案ニ而御接伴申上る、尤別席は前の楽師奏楽してこれを賀す其御饗応いと善美を尽せり 夫より製造所御越、逐一御歴覧、御帰之節は道路の両側に相集りし諸職人の立並ひ祝詞を呈す、其人数凡三百余人なりし、其前には以前の楽師奏楽して御帰路を御見送申上る、御帰掛尚又総裁の居宅御立寄之処、表之方に弐百人余の婦人之職方打揃いたる粧にて相列して祝詞を呈す 総裁の家御立寄後相集りし男女の職人江祝詞を呈せし御挨拶ありしかば、一同悦んで声を発し其声いと盛なりし 御帰之節、総裁初役々七人蒸気車迄御見送申上る、夕五時半御帰館
当国王江被遣候とて大君の御写真額面調方篤太夫市街ニ而注文いたす
 九月五日 曇                  十月二日
朝巴里江御用状出す、当地御用済孛国御越之日限凡取調之儀等申越す御用意品取寄方之儀申遣す
昼一時より絵図学地理学校等御越、本国之精細地図及欧洲全図其外砲墩築城等之諸絵図類御覧、夕五時御帰館、夕方孛国シヤルジダフヘールより同国御越之儀、洋歴九月十日頃御着有之度旨申来る
 九月六日 晴                  十月三日
朝十時半、カピテイン及王家の全権なる本地及近傍山林を支配する者罷出、チユウルンといふ処ニ而本日御猟御慰之儀申上、同時御発ニ而御越、石見守・俊太郎御雇両人シーボルト御供申上る、其畋猟場は王家の囿苑ニ而四囲拾町余もあるへく尤幽静なる土地なり、茂樹叢鬱として四方は土塀にて築立、其内各処ニ渓流ありて禽獣の其的に来り安き様なし置ぬ、弐十人余の勢子四方より伏匿せしを追出し、其小溝を廻りて走るを射る、獣は鹿兎之類多し、此日之獲は鹿五疋に兎六疋を得たり其囿苑に飼置たる鹿凡七十五疋、兎は其数を知らすといふ、夕六時十五分御帰館 此日は午餐その山林の草筵中に一の食盤を設け、御供之者相集りて御同案申上る、其野興頗る清味を究めたり
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此夜カピテイン其外御案内之者江御同案之夜餐被下、其駆馳せし猟師一同江骨折し為なれはとて仏貨三百フランクを被下
 九月七日 曇                  十月四日
朝巴里江御用状を出す、御出立延引之旨御用意品取寄方之儀等申遣す
昼二時白耳国《(義脱カ)》ミニストルドラメイゾンチユロワフアンプレツト江公子国王再逢之儀ニ付石見守より書翰相達す
明八日、調兵場におゐて公子御覧のため調練を御覧に入るとて、夫々手筈之旨御附添カピテインより申上る、且当日は御乗馬にて御覧有之度則御馬差出候旨申上けれは右御乗試とて、昼後一時半より石見守・俊太郎シーボルト御供調兵場御越御試有之、夕五時頃御帰館
 九月八日 晴                  十月五日
此日公子御覧の為とて都府外の調練場にて陸軍三兵の火入調兵有之旨ニ而昼十時半御迎馬車罷越御召車は美麗に修飾せしに四馬を駕し、六人の御者其四人は馬車に添ふて其弐人は駕せし馬に騎れり、外ニ御案内とて壱人の騎馬之御車御前を払ゑたり、御供は石見守始一同ニ而昼十一時半御旅館御発、王宮の前衢を右に折して並木の植列ねある大街衢に出、夫より左折して拾町余郊外の調兵場に至る、其並木ある大衢の左之方に此日調練すへき兵隊の順序を以て陣列せり、御通行之節歩兵は捧銃の礼を為し、楽手隊は賀楽を奏せり、其士官は総而手に持たる剣を竪て敬礼を為せり、公子の調練場江御着之頃先の陣列せし兵隊は各其頭ニ而これを指揮し、護送して調兵場に至る、公子は調兵場の王家の桟敷ニ而御休息のところ其護送せし兵隊は調兵場の各処に陣列して夫より攻撃襲討之挙動あり 此日の人数は歩兵三大隊、大砲壱座、騎兵三隊、其外楽手隊共其勢二千五百人余なりといふ、尤火入調兵なりしか各隊連発の挙動を為せし節は頗る壮烈を極めたり 右挙動終て兵隊整頓之上本日之ゼネラールロナイル桟敷に罷越して御挨拶申上、公子よりも御慇懃に御答礼、夫より公子は御馬に被召、各隊の陣列を御一周、尤ゼネラールロナイル御付添カピテイン石見守・俊太郎シーボルト等御供いたす、公子の各隊御一周之節は総而捧銃賀楽の礼を為せり 公子此日の御装束は陣御羽織なりしか、其華靡壮麗ニ而御馬上御旋行の雄々しき、士□兵隊は更なり、群集の見物人とも感勝の声を発せり 兵隊陣列之前御一周之上、尚又前の桟敷江御引取、二時過御帰館、此夜本日のゼネラールロナイル御付添、カピテイン江夜餐被下、昨日石見守より申遣候返書到来、明九日国王御逢之旨申来る
 九月九日 曇                  十月六日
朝巴里より御用状到来、御用意品差立候旨申越す、朝十一時昨夜差越候ミニストルプレツト江石見守より返翰差遣す、夕六時カピテインニケーズ御迎の馬車を備へ、今夜王宮ニ而夜餐を差上る旨申上る、馬車は最初謁見の節と同しく、第一車は公子石見守カピテインシーボルト、第二車は俊太郎・凌雲・篤太夫其次は御雇両人御供にて王宮の副門ニ而御下乗、階子を御登り直ニ国王の居間の次席なる控席御越、此日御接伴に与りし側向の貴官陸軍惣督其外役々罷出御迎申上る、控席ニ而暫時御休息、夫より国王の居間御通り、尤石見守シーボルト御供いたす、其余は控席に御待申上る、御逢之節種々御懇話、夫より国王御同道ニ而次の控席に御越、国王の紹介ニ而其貴官之向江一々御面会、夫より御供之者共公子より国王に引合被成、右相済て食盤の間御越国王は食盤の中
 - 第1巻 p.556 -ページ画像 
央に座し、其右に公子御着座、石見守始以下も御接伴之貴官も次を以て列席いたす、其夜餐中は次なる一間にて奏楽あり、割煮調理之美善を尽せしより器皿盃盤の華靡を究めしこと真に王家の饗礼を覚ゆ、夕六時半より夜餐相初り、八時半頃終宴、夫より再ひ国王の居間江御越に而カツフヘー及種々の美酒等被召上、夜九時御帰館
 九日十日 雨 月                十月七日
明朝当地御出発の積候付被下物其外取調いたす、朝御取寄品之儀ニ付シバリオン江電信差出す、午後二時石見守・俊太郎外国事務執政内事執政陸軍惣督等江御滞在中の御挨拶として罷越す、三時頃孛国在留之シヤルジダフハール罷越、同国御越之儀差支候旨申聞る、且爾後御日限も聢と申聞兼候旨、因而明後十二日御出発御帰巴之旨決議、第四時巴里江電信ニ而申遣す
夜七時シバリヲンより今朝差出せし電信之報来る
 九月十一日 雨 火               十月八日
朝七時半御発マストリツクレグーといふ者荷蘭国の豪家にて御請招申上けれは御越、石見守・俊太郎・凌雲・御雇両人シーボルト御供、陶器硝器製造之場所其他種々名苑奇亭御一覧、午餐夜餐とも同所主人御饗応申上尤鄭重を尽せり、夜九時半御帰館
朝巴里江御用状差遣す、御旅館取仕末之儀等申遣す


竜門雑誌 第四九七号・第一〇一―一〇二頁 〔昭和五年二月〕 【上略 更にベルギーのレオポ…】(DK010044k-0003)
第1巻 p.556 ページ画像

竜門雑誌 第四九七号・第一〇一―一〇二頁 〔昭和五年二月〕
○上略 更にベルギーのレオポルト二世皇帝《(マヽ)》に謁見した時の感想は今に忘れる事の出来ぬ印象を持つて居ると共に、其の事の可否さへ今尚決定し得ない事などを申し述べたが、この席上の方々も可否を断ぜられなかつた。それはどういふ事かと云ふに、ベルギー皇帝は我々を謁見された時、皇帝御自ら御案内され、何かと御下問もあつた。我国に来て何を見たかと仰せらるゝので、硝子工場を見ましたと答へた所、皇帝は硝子の効能を詳細に御説明になられた。そして更に何を見たかと仰しやるので、リエーゼの製鉄所を見たと申し上げた所、皇帝は鉄の産出の多いのと、其の使用高の多い国は富み且つ強いのであると申され、貴国は鉄が少いやうだから我国の鉄を使ふやうにと仰せられた。
 我々は武士が金の事などを云ふのも卑しいと教へられて居つたのに皇帝が国産の貿易に迄直接心を用ゐられるのは、どうした事かと不思議に堪へなかつた。こうしたやり方がよいので我々の考へが旧式であるのかとも考へ、今に解決が出来ないなどと申したのであつた。○下略
   ○右ハ昭和四年十二月十九日天皇陛下ヨリ御賜餐ニ召サレタル際、栄一ガ謹話申上ゲタル事項ニ就キ語リタル一節ナリ。


市河晴子筆記(DK010044k-0004)
第1巻 p.556-557 ページ画像

市河晴子筆記
   ベルギーの皇帝
 レオポルド二世《(マヽ)》だつたと思ひますがネ、六十上位の御じいさんだつたが、民部様が子供だのにはるばる違つた風俗の所へ来て、面白い事もあらうが、中々苦労も多からうと慰めてくれたが、やがて「どこを見なさつた」と尋ねなさつたから「ガラス工場」と云うと「あれは有
 - 第1巻 p.557 -ページ画像 
望な工業だが、まだまだ改良の余地の多い中々面白い仕事なのだ」と云つて「それからどこを見なさつた」「アントワープの鉄工場を見ました」と云うと「ヤ、流石見べき所をはづさず見物してござる」と褒てね、鉄は大切なものだ、鉄を多く産する国は栄える、鉄を多く使う国は強い。
 我国は幸、鉄の産額が多いので世界へ輸出してゐる、只とかく英国の鉄と云う名で売買されるのは残念だ、あなたの国も鉄を多く産するか、これは地の利でどうにもならぬが、是非鉄を多く使う国にならねばならん、その時はこのベルギーの鉄を使はれるがいゝ、と云はれたのでね、マ、一面から見ればよく筋の通つた親切な注意でもあつたらうが、ちとどうも広告か客引じみて聞えてね、王様の真意がどちらに有つたかいまも解りませんよ。
 先日陛下に御陪食の時にもこの話が出て、いまだに疑問にいたして居りますと申し上げたら、御上《おかみ》もどちらともおつしやらず、御笑ひ遊していらせられたよ。


雨夜譚会談話筆記 上・第三四三―三四九頁 〔大正一五年一〇年―昭和二年二月〕(DK010044k-0005)
第1巻 p.557 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第三四三―三四九頁 〔大正一五年一〇年―昭和二年二月〕
○上略
先生「東洋製鉄の事業は、全く空想であつた。兎角あて事は外れる。当時大変桃冲鉄鉱が都合がよく見込がある様だつたから、やつて見たのです。欧洲と日本は事情が違ふ事を知らなかつたが、これは誠に私が先見の明がなかつた次第です。○下略」
○中略
先生「製鉄事業に就ては、唯目先が見えなかつたと申すより外致方はありません。民部公子にお付き申して欧羅巴へ渡つた時、白耳義のレオポルド二世から聞された若い時分の印象があつて、日本でもやれない事はないと思つてゐたのが誤りでした。あの時レオポルド王が自分の国の製鉄の事を話されて、鉄は国富のバロメーターだと云はれた時は、誠に宣伝上手に聞えて王の身であり乍らけちな事を云はれると云ふ気がしました。何でも『日本も自国で鉄を造る様にしなければ駄目だ。併し今といふ訳には行くまいから、当分は白耳義から買ふ様にしたら宜からう』と云ふ意味の事を云はれたのでありました。」


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応三年)九月四日 (男爵赤松範一氏蔵)(DK010044k-0006)
第1巻 p.557-558 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応三年)九月四日 (男爵赤松範一氏蔵)
  ブリツセル御旅館はホテルベルビユと申其御地同名之客舎ニ御坐候
一翰啓上仕候、辰下秋冷之候弥御清寧御勤学御座可被成奉南山候然者民部公子去廿七日和蘭御発軔、以後無御滞当都府御着、国王謁見も被為済其後諸方器械所其外御巡覧被成候、随而御陪従一同小生輩迄無事御供罷在候、是御休意可被下候、過日其御地御滞在中は種々御骨折御取扱忝奉拝謝候、且貴兄には御金為替一件別段御手数之儀御骨折ニよりて万々御都合宜次第千謝万感之至ニ奉存候、扨右ニ付此度御伺申上候儀は、右為替金之儀巴里表ニ而請取方之手続何之町何の誰と申事先日
 - 第1巻 p.558 -ページ画像 
御伺申候、右は小生帰着之上請取候儀にも候ハヽ、相分可申とも存候得共、品ニ寄手形相廻し申度とも相考候間、若相分り兼候儀も有之候而ハ不都合之次第ニ候間、何卒此段フワンドロマートスカペン江御問合被下何町何番之バンクと申事御認御送被下度奉頼上候
右手形巴里表ニ而仏貨ニ為替候儀ハ前条処書相伺無懸念相弁可申、品ニ寄孛漏生ベルランニ而仏貨入用之事も可有之、其節は何方ニ而為替相成候哉、此段も御問合何と申何番のバンクと申処御認御送被下度奉頼上候
右之段申上度要用匆々如此御坐候、以上
  九月四日
                      渋沢篤太夫
    赤松太三郎様《(赤松大三郎)》
  尚々ブリツセル御出立は当月五日之積、就而は右御報四日迄ニ御遣し被下度もし御間合も候ハヽ、ベルラン江御遣し被下度、併同所は旅宿不相分候間可成は当方江御遣し之程奉頼上候


航梯日乗 (山高信離手稿)(DK010044k-0007)
第1巻 p.558 ページ画像

航梯日乗 (山高信離手稿) (赤松男爵家所蔵)
九日 ○慶応三年九月 夕第六時御附ヒビテエン王家の馬車二輌を備へて御迎として参上、即刻御出門ニ而王宮へ御出、此日の御招待ハ御暇乞兼而の御馳走也、石見守始俊太郎・凌雲・篤太夫シーボルト各招待状を受取り御供罷出、王宮ニハ重役のもの二十人許御相伴のため出仕したり、王并妃太子ト女子トを携へて奥の座敷ニ而暫時御対話、此席へは石見守シーボルト而已ニ而其他ハ彼我の扈従も皆次の間ニ退く、其后王ト御同道ニ而饗応の席ニ御出、一同も席ニ着く、王妃ハ其席ニハ不出、御饗応中ハ次の間ニ而楽を奏す、さしも王家の御饗応ナレハ山海の珍味幾種トなく出せり、諸器物ハ金銀瑠理《(璃)》の宝品を備ふ、さしも美麗なる高閣ニまんとふの如く燭を照し、金翠の錦輝渡りて実ニ壮観を極めたり、饗応后又外の席ニ而少時御対話ニ而御退参
○下略