デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

3章 静岡藩仕官時代
■綱文

第2巻 p.109-115(DK020005k) ページ画像

明治二年己巳二月(1869年)

商法会所ノ用務ヲ帯ビテ東京ニ出デ、妻子ヲ伴ヒテ三月十二日静岡ニ帰ル。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 第四巻・第二五―二六丁〔明治二〇年〕(DK020005k-0001)
第2巻 p.109 ページ画像

雨夜譚  (渋沢栄一述) 第四巻・第二五―二六丁〔明治二〇年〕
○上略 其れは丁度明治二年の二月であつたが、自分は此月に紙幣を持つて東京へ出で、〆粕乾鰯又は油粕や糠などを買入れ、其序の便宜を以て故郷から妻子を召び寄せて駿河へ帰つたは三月の中頃であつた、此の時大阪へは掛員の矢村小四郎、平島直一郎の両人、御用達では清水港の松本平八を遣つて、専ら米穀を買入させましたが、其肥料も米穀も次第に直段が騰貴して来たから、米穀は利益があるとみれば、時々これを売却し、肥料は駿遠領内の村々へ貸付て、応分の利益を収めるといふまでに運びが付き、又市内でも預け金杯するものが追々に増加して、稍や当初の目的に達するやうに成つて来た。○下略
 - 第2巻 p.110 -ページ画像 


渋沢子爵三野村利左衝門関係談話筆記(DK020005k-0002)
第2巻 p.110-111 ページ画像

 渋沢子爵三野村利左衛門関係談話筆記 (三井文庫所蔵)

○上略 それから駿河で前にお話した経済方面に付て何か自分の努力でやつて見たいと云ふことで、今申せば会社仕込のやうにして、中々其時分には会社と云ふやうなものはありませぬ、奨めても出来さうもありませぬ、丁度其時分に穀商拝借《(高)》と云ふものがありまして、是も貴方方はお話しても分らぬでありませうが、太政官札と云ふものを日本に流通させやうと云ふので藩々に穀商《(高)》に応じて貸付けた、年三分の利息を附して借りた、駿河は七十万石だから七十万両借りる訳であつた、それが五十八《(万脱カ)》両借りて、それはどう云ふ訳で斯うなつたか私には分らぬことであるが、自然そんな話に付ては多分三野村君等と東京に帰りがけに話を聞いたのでありませう、此話をして、只使つて仕舞ふたのでは間違つたことが出来る、何んぞ此金を使はずに、之に依つて一つの事業を起して、さうして年賦で返して行くやうにしたら宜からうと云ふので、私は其考を起して、其時には二十八万両使つて仕舞つた、七十万両借りるのが五十八万両借りて、其中何んでも二十八万両ばかり使つて仕舞つた、まだ三十幾万両残つて居る、之を使はぬやうにして一ツ会社の資本にしたい、之には民間から基金を加へて、さうして一ツ官民合同の会社事業を起して見やうぢやないかと云ふと、静岡藩では六分危ぶまれました、私が新参でありながら……併し幸ひに中老と云ふ、幕府で云へば老中、諸藩で云へば家老の大久保一翁と云ふ人が中々私のことを能く聞いて呉れて、其話を聞いて私にも能く分らぬが其時分の勘定奉行の平岡準蔵(大村と云ふ)《(後カ)》此平岡と云ふ人は私が仏蘭西に行く前に其人の歩兵頭として其人の手について一橋から召連れられて幕府の役人になると、直ぐに陸軍奉行調役と云ふことになつて、其人の手に属して調役であつた、其平岡が能く知つて、短い間でありましたが、巳《(マヽ)》ならず仏蘭西から帰つて来ると、外の人は皆矢張り何して仕舞つたものでありますから、殆ど始めは多数で行つたのでありますが、其人々はチリヂリになつて仕舞つて何も斯も私一人でやらなければならなぬ、勘定も色々持つて行つた品物の始末、或は金銭の出納、そんなことに付て一人ながら手代等を使つて旅行中の収入を調べ、旅行中の日記なり、計算書なり能く調べて報告した、それを平岡と云ふ人が見まして、年の若い奴で以前に自分の歩兵頭をして居る時分にも中々利かぬ気であつた勘定のことも中々能く出来ると云ふので多少目を呉れたでせう、それで勘定方組頭になつた、夫故に勘定方の人とは自ら懇意にもなつた、そこで今のやうな精神でありまして、勘定方組頭を罷めさせて呉れ、其代り私は何処へも行かない、それで駿河の諸州は農業が基だから其手始めとして穀高拝借を私共に御任せ願ひたい、で同じ位の高を民間から寄附なり、募集して、さうして百万円位の金額にして、さうして先づ主として商売と云つても危いから貸金をし、又農業を盛にさせるには肥料売買が宜からう、肥料を買つて、それでどうも駿河は人口が俄かに殖へて来たら相当米を用意して置かぬと米が高くなることは分つて居りますから、米だけは心配のないやうにする必要があらう、此時は私はまだ三十ばかり、二十八、九の人間でありま
 - 第2巻 p.111 -ページ画像 
して、宜い智慧もありませぬが、こう云ふ精神で商法会所と名付けまして、愈々着手したのであります、所が穀高拝借は太政官札、それで物を買ふと云ふことは誠に買悪い、どうもそれが流通が悪い、田舎では尚更悪い、之に付ては大分困りまして、それから遂に三野村君に是は相談する外ないと云ふので、二月でありましたか、東京へ出て来まして、其時には大六の番頭の手で御目に掛つて居つた、知合になつて居つたのでありますから、御目に掛りたいと云ふことを申入れて、御目に掛つて、太政官札をどうにかして引替へる方法はないか、それで品物を買ひたいと云ふことで、併し中々是は具合宜く行かない、で鰊粕と油粕を買う、東京で肥料を仕入れて行かう、それから大阪で米を買ふと云ふやうな、さう云ふやうなことで何分都合がつかないからどうしたものだらうと、之に付て御相談しました、一体貴君は何をすると云ふから、私は斯う云ふ企をしてゐる、さうか、併しそれは甘く行くかな、貴君は素人ぢやないか、素人だつて出来ぬ事はあるまい、一体日本の商売の仕方が間違つて居るとか、私は生半可であつたが講釈等をしまして、見込ではさうであるが、そんな都合が甘く行くものか併しそれはどうとしても太政官札を正金に替へると云ふことだけは心配しませう、何んでも何の位であつたか、殆ど三野村君の手で替へて仕舞ひました、大分廉かつた、二割位は廉かつた、段々流通が宜くなつて来るでせうが、今は此位なら行きます、それで正金にして買つた、それは札で、今日では札でも構ひませぬが、地方ではさう云ふ風で、さう云うことに付て御話をし、且つさう云ふ働きを御願ひしたり色々御懇意にしたのが第二の会見であります。


渋沢栄一 書翰(千代夫人宛)(明治二年二月五日)(DK020005k-0003)
第2巻 p.111-112 ページ画像

渋沢栄一 書翰(千代夫人宛)(明治二年二月五日)
                 (穂積男爵家所蔵)
梅散し桃ひらくの時候御かわりのふ御くらし可被成芽出度そんじ候、こなた無事勤おり候あいた御あんし被成間敷候、さて此度ハ御用向にて東京迄罷下り候あいた其御もとうた等引取度ニ付、亀太郎さし越候間匆々御支度被成一日も早く東京迄御越可被成、何分急御用ニ候まゝ御急き御こしのほとたのみ入候、御支度も有合にてよろしく何か東京にてとゝのへ可申あいた、其辺の儀ニ而御手間取被成間敷候、先頃も申進候通道中ハ舟の方便利ニ候間、中瀬より川舟ニ而御越被成度候手計兄さまも御同行被成度おくにも江戸見物なから兼而御約束之通罷越候様御伝へ可被成五郎御連被成度候、下女も壱人入用ニ候間御召連被成度、もし差支候ハヽなくてもよろしく候、呉々も御急き御こし被成度頼人候、手計兄さまへの印籠は御もらゐ受御持越被成度、先頃さし上置候品々宅へ御残之分ハ御さし置、其余ハ御持こし被成度候、紫呉郎緋羅紗其外之切類ハ可成丈御持こし被成度候、尚くわしくハ亀へ申遣し候間御聴取可被成、申上度事共山々御坐候得共、御目もしのふしとあらあら書のこしまいらせ候 めてたくかしく
   二月五日
                      とく太夫
    お千代とのへ
 - 第2巻 p.112 -ページ画像 
  手計姉様へよろしく御言つけ被成たく候、母上様其外様への仏参も被成候様いたし度、兄様にハ五郎御つれにも《(而カ)》是非御同行いたし度、霍さんへも別而御伝へ可被成、いつれ近々御めもしのふしくわしく可申述候かしく


渋沢栄一伝稿本 第六章・第四三―四四頁〔大正八―一二年〕(DK020005k-0004)
第2巻 p.112 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第六章・第四三―四四頁〔大正八―一二年〕
是より先き商法会所の静岡紺屋町に設立せらるゝや、先生は明治二年の春妻子を郷里より招致せり、かくて夫人は長女歌子と共に、藍香に伴はれて二月中旬血洗島を発し、やがて静岡に到着するや、先生は商法会所内の新居に於て、文久以来久しく絶えたる家庭の楽を享くるを得たり。其頃須永於莵之輔、武沢某、熊沢某、芝崎某、高木某などいへる先生の姻親、さてはかの振武軍に関係せる人々など数人先生の家に寄食したるが、藍香も遂に此地に留りて先生の事業を輔けたりき。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一四―一五丁 〔明治三三年〕(DK020005k-0005)
第2巻 p.112-113 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一四―一五丁 〔明治三三年〕
○上略 其年も暮れて明治二年の始つかた大人ハいよいよ静岡に住ミ付かせ給ふべきに定り、藩の用にて東京に来ましけれどふたゝび郷里をおとづれ給ふ暇おはしまさざりけれバ。母君とわらハとをむかへしめられんとて。大村をおこせ給ひぬ。尾高の伯父君に送られて郷里を立ち出でけるハ。春二月の中頃なりき。父君の御許へ行くハうれしけれど祖父君。祖母君を始め。叔母君たちにわかれまゐらせ。住ミなれたる家を離るゝことの稚き心にさへいとかなしきに。まして母君の御心いかにかおハしましけん。この折母君にハ御身のよろこびにつけて成一郎ぬしの妻なる人の心のうちを深く思ひやらせ給ひけり。中瀬と云ふ所より船にて東京に来り。しばしが程とゞまりて支度をとゝのへ。ここにてやがて武家のやからのよそひにあらためて。大人ともろともに駿河への旅路にハ上りつるなり。其頃ハ猶武士を尊むならはし昔のままなりけれバ。夫役かり催し乗物かゝせ。荷物になハせ。又やどりにてのもてなしぶり。駅の役人どものかしこみつとむるさまなど。田舎にありつる日にくらぶれバおほけなきまでなりけれバ。大村の夫役どものりこらすを。母君しばしばとゞめ給ふ事もありき。扨静岡につきて。始め住ミけるハ紺屋町と云ふ所にて。そこは元、所の代官の邸なりけるを。三ツ四ツに分ち。その一部をバ大人が設けさせ給へる商法会所とやらんの用にあて。それに隣れる部屋の五つ六つのほどを大人の御住居と定め。猶あまれるに、坂本・荻野などいふ人々ぞ住みけるわらは八七才の時なれバ、何事も大かた忘れたれど。たゞ庭に大きやかなる池ありて、鯉あまたすめりし事わか言葉のさとびたるハ思ハで駿河なまりををかしと思ひし事。荻野と云ふ人の妻に伴ハれて。友なる女の童らと共に阿部河のほとりに遊びし事。浅間の社に詣でゝ石の磴のいと高きに驚きつる事などハ。今もおぼろげにおぼえ居るめり、この年の秋九月
后の宮東京へ行啓ましますにより。静岡の町をよぎらせ給ふを道のべについゐてをがみ奉りたりき。旧幕府の家人にて。此時静岡に移り住ミ
 - 第2巻 p.113 -ページ画像 
ける人いと多く。徳川家にてハそれらを扶持するにあまたの米。及びたからを要せられしかバ。大人ハ御自らの分も辞し給ひて多くハうけ給ハざりけれバ。家も豊かにハあらざりけり。然るに須永・武沢兄弟・熊谷・芝崎・高木など。あるハ始めより大人と志をともにし。あるハ尾高の伯父君、平九郎君等と共に振武軍に加はりて、飯能に立てこもりつる人々など。いづれも大人の御許にたより来て、家にかゝり居るがいと多かりけれバ。母君ハ家の事ハすべていとつゞまやかにし給ひて。それらの人々を厚うもてなし給ひき。芝崎ハ此時より家の子となりて。米をつき薪をわるなどのいたづきわざをさへつとめて。いとまめやかに仕へ申しけり


(商法会所) 日記 明治二巳年三月七日より(DK020005k-0006)
第2巻 p.113-115 ページ画像

(商法会所) 日記 明治二巳年三月七日より
                  (萩原太郎次郎氏所蔵)
    三月七日
一柳左衛門忠左衛門謙蔵御用達出勤
一徤太郎《(健太郎)》儀今朝清水港江出役いたし候事
一渡辺伝八御用達介被命候旨柳左衛門申渡候事
一西京矢村小四郎外壱人江之御用状差立る
一有渡郡三沢村加茂村江種大豆八俵ツヽ、御貸附相成、仮証文取置切手相渡候事
一安倍郡寺尾村外壱ケ村江金弐拾両、茶摘手御貸附相成候事
一同郡手越村江種大豆七俵御貸附相成候事
    三月八日
一柳左衛門忠左衛門謙蔵御用達出勤
一倍部郡黒俣村之内太郎右衛門組江種大豆拾五俵御貸附相成候事
一徤太郎《(健太郎)》清水港より帰府いたし候事
    三月九日 雨
一柳左衛門忠左衛門謙蔵御用達手附共出勤
一胡麻粕弐百三拾五枚入札触出ス
一四郎殿御見廻り有之候事
一健太郎清水港江出張いたし候事
一白黒胡麻粕清水港おゐて入札触市中江出ス
    三月十日
一忠左衛門謙蔵御用達手附出勤
一柳左衛門清水湊江出張いたし候事
一安倍郡飯間村江種大豆拾俵御貸附相成候事
一徳田屋長左衛門落札小麦百六俵代金之内弐百両持出候ニ付、仮請取書差遣し、追而石数相分り次第請勘定之積、御金は勝間田清左衛門江仮渡証文取迄《(之)》置事
一会所規則書其外文言御取直し相成候儀ニ付御書付御渡相成候事
一駿州志太郡御払米之内金谷宿権蔵江御払相成候分、代金六百五拾六両永三拾壱文七分松村鎌之助より受取追て御金蔵納相成候迄野崎彦左衛門江預ケ置証書取置
    十一日
 - 第2巻 p.114 -ページ画像 
一忠左衛門謙蔵御用達出勤
一田中彦八到着いたし候事
一野呂整太郎より三百七拾四両差加金有之候事
一金百五拾両      遠州藤川村
 金百五拾両      同国千頭村
 金百両        駿州水見色村
 金七拾五両      同国入嶋村
 金百両        同国村良村
 右之通摘手御貸附相成候事
一大麦小麦水油入札触差出候事
    十二日
一彦八忠左衛門謙蔵御用達出勤
一安倍郡向敷地村種大豆御貸附本証文持参いたし候ニ付、仮証文下ケ遣ス
一有渡郡三沢村加茂村前同断
一篤太夫重五郎東京より柳左衛門清水湊より帰府いたし候事
一手附望月治作外弐人江金三千両御貸附相成候事
一西京買付水油入札御払相成候事
    十三日
一篤太夫柳左衛門彦八忠左衛門謙蔵重五郎源次郎御用達出勤
一南京米大小麦入札為致候事
一平八郎源次郎徳三郎御用達一同昨十二日帰府いたし候事
一西京矢村小四郎外壱人より書状到来いたし候事
 是は差立見合
一東京行方文五郎増田省弥江之御用状差立候事
    十四日
一篤太夫柳左衛門彦八忠左衛門謙蔵平八郎源次郎徳三郎徤太郎《(健太郎)》御用達一同出勤
  但徤太郎《(健太郎)》者清水湊より帰府候事
一西京矢村小四郎外壱人江之御用状出ス
一安倍郡手越村種大豆御貸附本証文差出スニ付仮証文下ケ遣ス
一肥後備中豊前沢手米百八拾六俵明後十六日入札候儀触書差出ス
  但清水江尻之分健太郎持参いたし候事
    十五日
一篤太夫柳左衛門彦八忠左衛門平八郎重五郎徳三郎源次郎御用達一同出勤
一徤太郎《(健太郎)》今朝清水湊江出役いたし候事
一有渡郡寺田村曲金村種大豆御貸附本証文持参いたすニ付仮証文下ケ遣ス
一去ル十三日御払相成候(川)印水油弐拾樽伝馬町天神屋弥兵衛外四人より代金相納候ニ付切手相渡候事
一藤枝宿酒屋周次江千百両御貸附相成尤金札弐千両為引宛預り置候事
一安倍郡産女新田江種大豆御貸附本証文差出候ニ付、仮証文相渡
一富士郡北山村江金九拾五両弐万《(分)》茶摘手御貸附相成候事
 - 第2巻 p.115 -ページ画像 
一御勘定所積金差加へ有之候事
一吉田徳左衛門当分商法懸り被命候事
一東京行方文五郎外壱人より御用状到来
    十六日 晴
一篤太夫徳左衛門忠左衛門謙蔵平八郎重五郎源次郎徳三郎御用達共一同出勤
一去ル六日御払相成候麦安六百俵之内四百俵御下ケ相願候ニ付代金受取切手相渡候事
一下野佐野産結城縞四箇御払入札為致候事
一中新田村増田与太夫江千五百両日歩御貸附相成候事
一富士郡栗倉村之内石原村同郡大淵村之内井ノ上村組安部郡《(倍)》俵峯村同郡足久保村之内御組江茶摘手御貸附相成候事
一安倍郡吉津村種大豆御貸附本証文持参ニ付仮証書下ケ遣ス
一前書麦安六百俵之内尚百五拾俵切手相渡代金受取候事
一去ル六日御払相成候麦安四百俵之内代金相納候ニ付切手相渡候事
一柳左衛門彦八清水湊へ出役いたす
    十七日 晴
一篤太夫徳左衛《(徳左衛門カ)》謙蔵平八郎重五郎源次郎徳三郎御用達一同出勤
一西京矢村小四郎外壱人より御用状到来
一柳左衛門清水湊より帰府いたす
一四郎殿尚助殿御見廻り有之候事
一尚助殿会所御用重立取扱被命候事
一安倍郡落合村江金百両摘手御貸付相成候事
一有渡郡石田村江種大豆拝借本証文持参いたすニ付仮証文下ケ遣ス
一掛塚焼津両湊江東京買付荷物著船いたし候ハヽ早々申出候様御用達より右両湊手附江申通し方談置候事○下略
  〇右ノ商法会所日記ニ記載スル所ハ栄一ニ直接ニ関係セザル所モアレド、栄一ハ本会所ノ頭取ニシテ凡テ其ノ統轄スル所ナレバ全文ヲ掲グ。以下同ジ