デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.490-526(DK020134k) ページ画像

明治三年庚午閏十月七日(1870年)

是ノ春政府ニ製糸改良ノ議アリ。大蔵少輔伊藤博文及ビ栄一命ヲ奉ジテ在留仏人ヂブスケ等ト議シ同国人ブリュナヲ雇傭シテ地ヲ上州富岡ニ相シ製糸場ヲ設ケントス。是日民部大輔大木喬任等トブリュナトノ間ニ条約締結セラレ、同時ニ栄一、民部権大丞玉乃世履等ト共ニ製糸場事務主任ヲ仰付ケラル。


■資料

富岡製糸場記 【渋沢子爵家所蔵】(DK020134k-0001)
第2巻 p.490-509 ページ画像

富岡製糸場記 (渋沢子爵家所蔵)
   緒言
天ノ物ヲ生スル固ヨリ測ラサル所ナリ、人ソノ物ヲ用フルニ至ツテハマタ其能ヲ尽スコト難シ、モシ其物ノ能ヲ尽サヽレハ其用ヲ利スルアタハスシテ、天物モ空ナシク其能ヲ遂サルナリ、然ラハ則チ人モ亦人タルノ道ヲ得スシテ天功何ニ資ツテ以テ世ニ益アランヤ、時ニ先覚者出テ天功ヲ亮ルノ務無ケレハ亦何ニ拠テカ此理ヲ明カスヲ得ンヤ、我皇運ニ乗シ維新ノ政ヲ布クニ当ツテ、首トシテ民ノタメニ利ヲ興シ、人ヲシテ其力ヲ尽サシメ、物ヲシテ其能ヲ終へシメントス、其最モ至緊ナル叓ヲ択ンテ、革正ニ就カシム、然リ治糸方ヲ以テ先要トス、請フ其然ル所以ヲ論セン、外交通商開ケシヨリ、生糸ヲ以テ輸出第一ノ要品トシ、其声価外邦ニ貴顕光著セリ、故ヲ以テ糸価俄ニ騰貴シ、農商共ニ不虞ノ利ヲ得タリ、然ト雖数年ノ間偏重スルノ理ナク、時アリテ低下シ、目算齟齬シ、其損失ヲ患ルヨリ偽製贋作百出シ、甚シキハ一縷中ニ屑糸ヲ繰入スルニ至リ、曾テ機上用否何如ヲ顧慮スル者ナク、遂ニ農商聯合シテ殆ト外人ヲ欺ントス、豈夫レ物皆其用ニ依テ其価直ヲ定ムルハ、天理ノ分賦スル所以ニシテ、品物ノ多寡用捨ニ随テ価直低昂変遷スルノ勢、人力巧詐ノ能ク及トコロニ非サルコトヲ知ンヤ、既ニ自ラ頑陋ニ安ンシテ何如ソ天人ヲ欺キ得ンヤ、庚午辛未ノ間ニ至ルニ及ンテ
皇国産糸ノ声聞次第ニ醜悪ニシテ、贋造偽製ノ品機工ニ不適ノ物数千箇、英国倫敦ニ堆棄スト云ニ至テ価直随テ低下シ、輸出品ノ数モ亦日
 - 第2巻 p.491 -ページ画像 
ニ減少シ、農商共ニ破産スルニ至ル、噫於蚩々ノ民庶、迷頑規利ノ極自ラ心頭ノ肉ヲ剜却シテ快シトスルニ同シ、我
皇蚤ク此機ヲ洞察シテ治糸旧来ノ方ヲ革正シ、奇器ヲ用フル新方ヲ開導セント欲シ、民部大蔵両官ニ下シ、是ヲ議セシム有司詮議シテ曰、先一大製糸場ヲ起シ、名師ヲ雇入シ、発明ノ繰糸方ヲ開創シ、糸縷純精細大無ク色沢玲瓏ノ佳品ヲ製シ得テ、是ヲ発売セン、佳品一出セハ贋品偽物誰カコレヲ取ル者アランヤ、随テ内外商人新法製糸ヲ競輸争出シ、勢イ贋造偽作ノ者其業立サルニ至ルへシ、玆ニ於テ天下風靡シテ此技ニ順服シ、製糸方一大革正シ、一般ノ産糸良好ナルヲ得ルニ至ラン、然ラハ則信ヲ外国ニ取ルニ足ツテ、以テ我
皇黎首ヲ愛育スルノ盛旨貫徹シ、天物ノ能用ヲ尽シ、農商均一不期ノ利沢ヲ得テ民庶殷富シ、偽詐争奪ノ風習ヲ一洗シテ文明ノ化ニ浴スルヲ期シ、有司コレヲ奏ス
制可乃チ製糸場ヲ建ツト云
製糸場ハ富岡ニ在リ、富岡ノ地タルヤ平坦邱阜ニシテ山水明媚、風気快通物産多シ、尤桑麦麻豆ニ佳ナリ、東ハ曾木村ト云、西ハ七日市村ニ接シ、北ハ高田川ノ流アリ、南ハカフラ川繞テ流レ、断岸七十尺、製糸場其上ニ建ツ、群馬県第十二大区第八小区ニシテ上野国甘楽郡富岡村ハ其旧名ナリ、方位西経零度四十分北緯三十六度七分、東京ヲ距ル西北三十里、南一里許ニシテ高山重畳、東西御荷鋒二山稲含山ニ連互シ一帯ノ山岳ナリ、西一里ニシテ一宮祠、三里余ニシテ妙儀山、金洞岳、西南遠クハ荒船山ヲ首トシテ信甲ノ諸岳陸続タリ、其最高ニシテ峰上黒烟騰リ天ヲ衝クハ浅間岳ナリ、北ニハ榛名赤城諸山ヲ望ム、東ハ武蔵ニ界シ、豁然ト八国ノ沃野ヲ控へテ眼涯ナシ、蓋シ中山道本荘駅ヨリ信濃ニ入ルノ別路、山ヲ南北ニ受タル一大峡ニシテ、富岡其半途ニ係ル、戸数六百二十、口数二千百十五、
東南ヨリ製糸場ヲ望ム図 ○原本ニ原図無シ
明治五年製糸場落成ス
[img写真]其境内分区之図
製糸場全地幅員西面六拾九丈五尺、北面六拾八丈四尺、東面九拾四丈八尺、南面崖ニ沿フ、坪数一万五千九百零弐坪、但方六尺ヲ壱坪トス
製糸場図○原本ニ図無シ
第壱番
字域
 屋敷 六畝拾四歩
 上畑 六反七畝廿五歩
 中畑 壱町七反八畝廿九歩
 下畑 九反弐畝弐歩
 下々畑 弐反六畝三歩
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一屋敷三町七反壱畝拾三歩
           製糸場
地券坪数
   壱万五千六百六坪六合
   此地代金千八百八拾三円八拾三銭三厘 此百分一ヲ以テ地租トス、区入費ハ県下一般成規之通出金スへキ事
是ヨリ先明治三年春二月
詔シテ製糸ノ方法ヲ改正セシム、民部大蔵両省議シテ外国人ヲ雇フテ其業ヲナサントス、乃チ大蔵少輔伊藤博文、租税正渋沢栄一ノ両官員ヲシテ其事ヲ司トラシム、両官員命ヲ奉シ在留仏国人治部助氏並仏商ガイセナイモル氏ニ詢リ、仏人フリユナ氏糸道ニ精粋タルヲ以テ雇へ入ント議ス、両氏周旋会議数回ニシテ、夏六月仮条約成ル、玆ニ於テ監督権正松井清蔭郷導シ、フリユナ氏ヲシテ東京近傍養蚕繁盛ニシテ製糸ニ適宜ノ地ヲ相セシム、秋七月上野国ニテハ、伊勢碕、前橋、岩鼻、渋川、高碕、安中、下仁田、宮碕、富岡、吉井、藤岡、鬼石、信濃国ニテハ、高野町、臼田、野沢、塩名田、以上佐久郡長瀬、上田以上小県郡 武蔵国ニテハ、大宮、小鹿野以上秩父郡、本荘、熊ケ谷、八幡山、寄居、小川、飯能、等ヲ巡歴観察シテ帰ル、既ニシテ其最モ適宜ノ地ハ富岡ナリト決定シ、冬閏十月七日西暦一千八百七拾年第十一月廿九日民部省ニ於テ条約成ル、条約書並見込書左ノ如シ
    条約書
日本ノ繰糸ヲ精良ニセンカ為メ、日本政府内部ニ於テ一ノ場所ヲ見立テ玆ニ欧羅巴風ノ糸繰場ヲ取建ル事ヲ決定セリ
此繰糸場ヲ取建ル事ヲフリユナ氏ニ命ス、即チ約定ノ条々左ノ如シ
フリユナ氏勤務中ハ左ノ条件ヲ固守シ、自分委任ヲ受シ職務ヲ充分ニ為シ遂ル様勉励尽力スヘシ
此事業ヲ便利ニシ其信ヲ弘ムル引請ノ為メ、日本政府ヱクトリ・ヱンタル商社ニ頼ミ之ヲシテ周旋セシムヘシ
  第一条
繰糸所取建、器械ノ設ケ方、繰糸ノ仕法及職人ノ進退等ハ別紙見込書通リタルヘシ
  第二条
製糸ニ付タル働向フリユナ氏ニ任スト雖モ、日本政府ニテ其場所ノ管轄ヲ命スル者ヨリ諸事其作業ノ検査ヲ受ヘシ
 但右管轄人ハ商会ノ者タリトモ此例ニ従フヘシ
  第三条
繰糸場建築ハフリユナ氏ヘ問合セノ上日本政府之ヲ定ムヘシ。
 但建物ノ広及其間取等ハ前同様フリユナ氏ニ問合セ、日本政府ニテ之ヲ造営スヘシ
  第四条
別紙見込書ニ委細掲載スル建物造営ニ必要ナル物材ハ欧羅巴ニ於テ之ヲ買求ムヘシ、之カ為メフリユナ氏十二月ノ郵船ニテ仏国ニ赴キ、大凡別紙ニ載ル価ヲ以テ物材ヲ注文シ、千八百七十一年六月其頃迄ニ出
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来セシ分ヲ以テ日本ニ帰港スヘシ、其余ノ分ハ同年十月頃ニ日本ニ積廻スヘシ
右ニ記スル時限ハ大凡ノ見積ナリ
 但フリユナ氏出航ノ時、日本政府器械代、運送賃、海上請負料等ノ大凡積金高ノ六分通リヲヱクトリ・ヱンタル商社へ渡スヘシ、右器械到着済ノ上買入代、運送及海上請負ノタメ仕払シ金高ノ受取書ヲ日本政府へ差出ス上ハ残リ惣金高ヲ渡シ、手数料トシテ金高ノ五分ヲ右商社ニ与フヘシ
  第五条
フリユナ氏仏国へ赴ク時往返トモ郵船中第一等ヲ以テスヘシ
 但其価ハ往返共凡千五百弗ナルヘシ
  第六条
日本政府雇入ルヽ欧羅巴ノ男女職人ハヱクトリ・エンタル商社ニテ雇入方取計フヘシ
  第七条
フリユナ氏六月帰航ノ節雇入レタル丈ノ職人ヲ連レ来ルヘシ
 但男女職人給料ハ雇入ノ曰ヨリ与フヘキ筈ニテ航海ハ往返トモ郵船中第二等ヲ与フヘシ、此価ハ片路ニテ凡三百八十弗ナルヘシ、尤職人等日本政府ノ許可ナクシテ期限中帰国セントスル者ハ帰航船賃ヲ給セサルへシ
  第八条
職人ノ内其職二堪へサル者アルトキハ之ヲ替ヘ、或ハ帰国セシムル事総テ日本政府ノ望ニ従ヒ、フリユナ氏之ヲ進退スヘシ
 但職人ノ給料ハ別紙見込書ノ大凡高ニ基キ定ムヘシ
  第九条
フリユナ氏約定期限ハ千八百七十一年第一月ヨリ五ケ年トス
  第十条
フリユナ氏給俸一ケ月六百弗ト定メ、約定取極メノ日ヨリ相渡スヘシ
 但フリユナ氏及外諸職人ノ住居ハ総テ繰糸場ノ入用タル可シ、衣食料ハ通常ノ賄方ヲ以テ繰糸場ニテ凡三ケ月試ノ上其入費ヲ平均シテフリユナ氏並ニ職人トモ月給ニ増加シ銘々ノ手賄トセシムへシ
  第十一条
男女職人雇入約定ノ期限ハ取極ノ日限ヨリ算シテニケ年ヨリ四ケ年タルヘシト雖モ日本政府三ケ年ノ後ニ至リ之ヲ断ル事ヲ得へシ
  第十二条
繭ヲ買入レ、繰糸場出産ノ糸ヲ売捌クコトハ総テ日本管轄人ノ取扱タルヘシ
 但繭買入レハ繰糸上ニ於テ頗ル緊要ノコトナレハ、買、不買ハフリユナ氏ノ意ニ従ヒ之ヲ決スヘシ
  第十三条
繭及ヒ糸ノ量目ヲ掛ル事ハ日本ノ管轄人之ヲ取扱ヒ、会計簿ハ両通ニ立置キ、一ハ日本管轄人之ヲ掌トリ、一ハフリユナ氏ナリ
  第十四条
日本職人ノ取締ハ日本管轄人ノ任ニシテ、働向ノ割付ケ方ハフリユナ
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氏ノ取扱タルヘシ
  第十五条
前三条ニ挙ル事務ノ巨細ハ日本管轄人、フリユナ氏ト相談ノ上規則ヲ定ムヘシ
  第十六条
繰糸場ニテ繭糸売買ニ付タル益金年々総勘定差引ノ節、建築並ニ器械元価ノ利息一ケ年ニ付六分、其外日用ノ諸雑費職人等ノ給金一切ヲ引去リ、全ク相生スル益金ノ一割ハ右取扱ヲ勉励スル褒賞トシテフリユナ氏ニ給与スヘシ
  第十七条
フリユナ氏及ヒ外職人等ニ関セスシテ日本政府ノ都合ニヨリ断リニ及フ時ハ約定年限中ノ給料ヲ給与スヘシ
 但フリユナ氏及外職人共モシ不勤ニシテ此約定ニ背キ暇ヲ出ス時ハ、其勤メシ日迄ノ給金ノミ与フヘシ
  第十八条
職人等不快ノ節、服薬料ハ繰糸場ノ入用タルヘシ、若シ病気ニテ働キ方出来セサル者ハ帰国セシムヘシ
 但此場合ニテ帰国ノ者ハ其勤メシ月迄ノ給金ノミヲ与ヘ且郵船賃ヲモ与フヘシ
  第十九条
フリユナ氏繰糸場要用ノ外私用ニテ他出スルハ日本政府ノ許可ニ従ヘシ
  等ニ十条
欧羅巴ヨリ雇入タル諸職人等私用他出ハ日数四日以上ナラハ日割ヲ以テ其月給ヲ減スヘシ、尤格別ノ訳ニテフリユナ氏ヨリ申立アレハ此日限ニ拘ラサル事アルヘシ
  第二十一条
我来酉年ノ末則千八百七十三年ノ終ニ至リ、会計ヲ算セシ上製造場損失ノミニシテ未来利益ノ推量モナキトキハ日本政府残二年ノ条約ヲ廃スルコト勝手タルヘシ
 但其場合ニ於テハフリユナ氏並ニ諸職人其月迄ノ給料ヲ与ヘ帰航ノ船賃ヲ給スヘシ
右条約廿一条之趣固守可申和文三通仏文三通互ニ調印シテ之ヲ為取替、内和文仏文トモ各一通ツヽ並ニ別紙見込書ヲ添ヘ後証ノ為仏蘭西公使館エ預置者也
  明治三年庚午閏十月七日
                    大木民部大輔 花押
                    吉井民部少輔 同
  千八百七十年第十一月 日
                   ポヽルブリユナ於東京
  見込書
欧羅巴ノ法方ヲ用ヒ繰糸機械ヲ日本ニ取建ル時ハ、左ニ挙ルノ利益ヲ起ス事必定ナリ
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  損失ヲ防ク事
  絹糸ノ品位ヲ上等ニスル事
可成入費ヲ省キテ此利益ヲ得ンニハ、強チ現今欧羅巴各国ニ於テ用フル法方ヲ其儘日本ニ移ト雖必ラス益アルニ非ス、今実地ニ就テ論スルニ欧州汽機ノ便ヲ以テ日本在来ノ法ヲ増補スルニ如ク者ナシ、加フルニ各国ニ於テ経験上ニ就改正シタル要件細微ノコトニ至タル迄尽トク之ヲ伝習シ、日本職工等旧来慣習ノ法ヲ改ムルニアリ、今此法方ヲ用フルトキハ、日本産繭ノ性質ニ取リ至極適当ナル繰糸ノ法ヲ得ルニ至ラン、加之此法特ニ日本職人ノ身体長短ニ応スルノミナラス彼等従来習熟ノ法ト甚タ異ナラサルヲ以テ大ニ便利トスルニ処アラン、故ニ職人中最モ旧法ニ熟練スル者ヲ選挙セハ僅ニ数日ヲ経スシテ差タル困苦ヲ覚エス且ハ無益ニ物財ヲ費ヤサスシテ大概自得ノ旧法ニ似奇シ繰糸ノ法方ヲ学ヒ得ヘシ、然ルトキハ全ク新規ノ法ヲ教フルニ及ハス、畢竟新法ヲ以テ俄ニ人ヲ使役スルハ諸般ノ製造家ニ於テ費用多クシテ且最モ難シトスル処ナリ、○欧邏巴女職人数名ヲ来ラシメ、日本職人ノ旧法ニ慣習スル者ヲシテ自然新法ニ遷ラシメ、繭ニ貯ル糸ヲ尽ク繰出スコトヲ教フルハ難ニアラス、然ルヲ全ク新規ノ法ヲ以テ俄カニ人ヲ用ヘント欲スルトキハ、各種ノ費用ヲ除クノ外別ニ欧羅巴職人多人数ヲ呼奇サルヲ得ス、此者等毎人一年間伝習ヲ遂クルハ纔ニ八人ヨリ十人二止ル、且特ニ多分ノ時日ヲ失却スルノミナラス、航海ノ入用其佗銘々ノ給俸モ亦従テ莫大ノ高ニ至ラン、加之習学ノ間、絹糸生産ノ高ニ於テモ頗フル損失ヲ起サン
第二、諸事未タ取掛サル以前建白人国ノ内部ヲ旅行スル事必要ナリ
 第一、繰車ヲ取建ルニ何ノ地位最モ便ナル哉ヲ探索センカタメナリ
 第二、一旦地所ヲ選ミタル上ハ数日ノ間其地ニ逗留シ、日本在来ノ機械ヲ改革スヘキ件々ヲ研究シ、其地ニアル職人ニ質問シ、改易スヘキ事ノ便不便ヲ熟察スヘシ
 第三、繰軍取建ノタメ必要ノ手配ヲ為シ、追テ建築ヲ任スヘキ西洋建築者ト商議シテ便利ヲ計ルヘシ
 如斯要用ノ手配ヲ為タル上ニテ繰車取立ノ命ヲ受ル者直ニ欧羅巴ニ行、各種ノ機械ヲ命スヘシ、此欧行ハ極メテ切要ナリ、其故ハ建築ヲ任スル者自ラ之ヲ機械製造者ニ逢ヒ相共ニ可否ヲ検査シ、然ルノチ製作ニ取掛ル積ナレハ也、此事書簡ノ往復ノミニテ遂ル能ハス、機械ヲ製造スルニ大凡六ケ月、之ヲ組合セ取建ルニ二月ヲ要ス、機械製造者ヨリ蒸気方一人、銅工職人一人、機械ニ附添フテ来ラシム、然ルトキハ横浜ニテ雇入ル職人等ト共ニ協力シテ之ヲ取建ヘシ
第三、繰車ノ用法左ノ如シ
   繭ヲ買取ル事
   繭ヲ蒸煞スル事
   繭ヲ日光ニ晒ス事
   繭ノ善悪ヲ見分ル事
   糸ヲ繰出ス事
 繭買取方ノ事
繭ハ総テ新鮮ナルモノヲ製造場ニ持来ルヘシ、即チ糸ヲ吐キ始ムル日
 - 第2巻 p.496 -ページ画像 
ヨリ十日ヲ経テ未タ日光ニ曝サヽルモノヲ云フ、之ヲ屋根アル場所ニ入置、細密ニ点検シ量目ヲ掛ケ然ル後蒸煞所ニ送ルヘシ
  繭ヲ蒸殺ス事
繰糸法ノ最モ緊要ナル処蒸煞ノ好法ニアリ、日本ニ於テハ繭ヲ太陽ニ曝ラシ、其暖気ヲ以テ蒸殺スト云フ、是特ニブランノ糸口ノ事性ヲ変シ、繭ヲ害スルノミナラス暖度不足ナルヲ以テ「サナキ」速ニ記セスシテ蛾或ハ蛆ノ突出スル患少カラス、今欧羅巴ノ機械ヲ用フルニ於テハ如斯ノ不便ナシ、晴雨ニ拘ワラス繭ノ大ヒナル高ヲ蒸煞ス事ヲ得
  繭ヲ乾カス事
前ニ述ル如ク繭ヲ蒸煞セシ上干シ場ニ運ヒ、籃ノ上ニ置、之ヲ用フル已前十分ニ乾カスヘシ
  好悪見分ノ事
暖湯ニ投シ、金線ニ掛サル以前先ツ繭ノ性質好悪ヲ微細ニ検査シ、品等ヲ分ツヘシ、実ニ好品ノ糸ヲ製シ損失ナキヲ要センニハ玉ノタマ繭其佗染ニ汚レタル者ヲ取除キ、厳ニ其品格ヲ定ムルニアリ、此事ヲ為スニハ佗人ノ検査ヲ受、又熟練ナル職工ヲ立会ハシム、総テ好糸ヲ製スル場処ニテハ是ヲ以テ第一ノ緊務トス
  繰糸ノ事
右畢ツテ繭ヲ職人ノ処ニ持来、職人之ヲ受取テ繰糸ニ掛ル、之ヲ為ス機械ハ一個ノ釜ヲ設ケ、内ニ暖湯ヲ充テ繭ヲ煮ル、傍ニ繰車ヲ置テ糸ヲ繰ル、各位ノ釜平面ノ台上ニ順列シ、下ニ一条ノ鉄管アリ、内ニ蒸気ヲ通シ、以テ釜中ノ湯ヲ暖ム、繰車ヲ周旋スルニハ水車又ハ蒸気ノ元力ヲ伝ヘテ運動ス、繰糸機械ヲ取建ル場処ハ空気ノ自由ニ往来シテ日光ノ多キ処ヲ要ス、繰糸ノ業極メテ細微ニシテ且叮嚀ニ取扱フ事ヲ要スル故日光ノ乏シキヲ嫌フ、大凡三百位ノ釜ヲ列スルニ長凡七十間巾六間半ノ建物ヲ以テ相当トス
  蒸気機械
右建物ノ中央外面ノ処ニ汽鑵及ヒ汽機ヲ設ク、五馬力汽機一個ヲ以テ三百位ノ釜ニ添エル繰車ヲ運動スルニ足ル、汽鑵ハ三個ヲ要ス、内二個ハ常ニ使用シ今一ハ不時ノ用ニ備フ、是ハ前二個ノ内或ハ破損シテ脩復スルカ又ハ汗物ヲ払フトキニ用フルタメナリ、若勉メテ節倹ヲ旨トスル時ハ薪ヲ用フヘシト雖、可成ハ石炭ヲ用フル方便利ナラン、前二個ノ汽鑵日々焚処ノ石炭一噸半ニ過ス
第四、三百位ノ釜ニ附属スル繰車ニハ三百人毎釜一人ノ職人ヲ要ス、糸ヲ繰ルニ当タリ繭ヲ煮者弐拾四人、糸ヲ繰リ之ヲ纏フモノ弐拾四人、総体ノ職工ヲ扶助シ手伝ヲ為ス者二十四人、是ハ数名ノ少女ヲ用ヘテ可ナラン、傍ラ繰糸ヲモ習学セシムヘシ、其佗職人ノ働キヲ検査スルタメ婦人十弐人、蝮蠖ヲ煞ス者四人、機械及ヒ汽鑵ヲ取扱フ者四人、繭ヲ取扱ヒ之ヲ布展スルモノ拾人、繭ノ好悪ヲ見分ル者六十人、総計四百六拾弐人
第五、欧羅巴人雇入ノ事
建白者即チ首長タル者ハ二名ノ検査人アリテ輔佐ス、各繰糸所ノ半ヲ管轄ス、此者ハ首長不快ノ時彼ニ代リテ事ヲ執リ是事ヲ遂ルノ専務ナリ、是カ為欧羅巴ニ於テ二名ノ少年ヲ選ミ其任ニ充ン、給俸ハ各一ケ
 - 第2巻 p.497 -ページ画像 
月百弗ヨリ百五十弗ニテ可ナラン、業ノ可否ヲ見ルタメ欧羅巴ノ婦人六人ヲ雇ヒ、日木ノ女職人ヲ教導セシメ、且繰糸ノ良法ヲ日本職人ニ伝習セシム、此女職人ノ給俸ハ一ケ月七十五弗ヨリ百弗ニ至ラン、機械方繰熟ノ職人ハ一ケ月百弐拾五弗ヲ与フ、蓋シ物材ノ出用ヲ管轄セシメ、日本人ノ火焼ヲ差図ス、故ニ欧羅巴人ノ数九人或ハ十人ニシテ其給俸一ケ月八百或ハ九百弗ナルヘシ
第六、物材ノ大凡価
欧羅巴ニテ建築者ノ算当スル処一人用ノ繰車要具凡三百「フランク」若之ヲ新ニ改ムルトキハ其価少シク上ル、其価一個ニ付今三百位ノ釜ヲ買入ルニ、極ク高価ニ見積ルトモ機械一個ノ価七十弗或ハ六十弗ニ過サルヘシ、汽鑵ノ価一個ニ付一万五千「フランク」トシテ四万五千「フランク」ナリ
 蒸気機械       一万五千フランク
 小道具一切      二万フランク
蒸煞ノ器械及附属品一万五千フランク
  総計 九万五千フランク
故ニ必要ノ物具ヲ買入ルヽ代価凡三万七千弗ナリ、此価ハ大凡ノ目算ニテ、之ヲ買入ルヽニ当リテハ或ハ其高ニ至ラサルトモ之ヲ過ル事ナカルヘシ、前会計中ニハ物材運送組立及ヒ職人航海ノ入費ヲ加ヘス、又機械ヲ取建ノ入用モ此ニ入レス、運送ハ別ニ蒸気船ヲ雇可成入費ヲ省キテ積廻ワスヘシ
第七、職工働キ方
上等ノ繰車ハ一年中運用スルトモ更ニ患ナシ、職工働キ方ノ定規ハ一週日ノ内六日ト定メ、第七日メハ休息ノ日トス、若或ハ之ヲ酷役スルトキハ粗漏ノ弊ヲ生ス、平生毎日々出ヨリ始メ、日ノ没ニ終ル、灯炎ハ如斯精細工ニハ不足ナリ、此用法ヲ以テ通例十弐「テニヱ」ヨリシテ繭四ツ五ツ位ニテ繰出ス糸ノコト十四「テニヱ」ノ糸ヲ製スル繰糸所ニテ、一週日毎ニ各釜産スルトコロノ絹糸三「リーウル」半ヲ出、各釜四十六週日ノ間百六拾「リーウル」又ハ一「ピコル」半ヲ出スヘシ、欧羅巴ニ於テハ此量目ニ過クル事多シト雖モ大凡平常職工ノ手ニ成ルモノヽ高ハ是ナリ、故ニ日本職工ノ如キハ一ケ年一「ピコル」ノ糸ヲ製スヘシ、最初ハ新建物内未タ事ニ慣サルヲ以テ困苦妨礙アルハ自然ノコトニシテ、此量目ヲ得ルニ至ラスト雖モ必スニケ年ノ後ハ之ヲ得ルニ至ルヘシ、糸一「ピコル」ヲ得ルニハ十弐或ハ十五「ピコル」ノ蘚繭《(マヽ)》ヲ要ス、三百位釜ヲ備フル製造場ニ要スル繭ノ高一ケ年四千「ピコル」ナリ
第八、新ニ起スヘキ利益
能着意シテ建立シタル繰車ハ第一損失ヲ薄ンシ《(マヽ)》、第二糸ノ品格ヲ上等ニスル事ハ既ニ前文ニ述タリ、今繰車ヲ立ルニ当リ別ニ故障妨碍ナク相応ノ繭ヲ得ルノ便宜アルトキハ、前両条ノ事其実証ヲ得ル必サリ、第一ニ太陽ニ曝シテ煞スノ法ヲ改メ、「ヱツソファーチ」蒸煞ノ法ヲ用ルトキハ、蛾或ハ蛆ノ突出スルヲ防キ、且長ク太陽ニ晒シ繭ノ上面ヲ変シ自然悪質ノ糸ヲ生スルノ患ヲ除カン、今此物材ヲ節約ニスルトキハ、殆ント二割五分ノ益ヲ生セン、其佗日本繰糸ノ法ニテハ屑ノ高五分一割ニ至ルト云フ、然ルニ欧羅巴ノ法ニ因ルトキハ其差大ニ異ナ
 - 第2巻 p.498 -ページ画像 
リ、即チ三分ヨリ三分半ノ熨斗糸ト純糸トノ差ヲ算当スルニ一割ノ益ヲ得、今ヨリ細詳ニ検査ヲ加ヒ、繭ヲ精選シ、其実地上ノ取扱方細微ノ方法ヲ教フルトキハ、当今日本産最好ノ糸ヨリ大ニ上等ナルモノヲ産スルニ至ラン、故ニ日本中等ノ糸代価ニ比スレハ二割ノ益ヲ生ス、且同種ノ繭ト雖モ製法ノ巧拙ニヨリ品等ノ上下アル人々知ル処ニシテ欧羅巴ニ在リテハ好繰車ヲ以テ日本産ノ繭ヲ製スルニ、日本ノ好ナル糸ニ比スレハ其価一割五分或ハ二割ノ高価ヲ得、日本ニ於テモ此損矢ヲ防ク事最モ切要ニシテ、追テハ是ト同等ニ至ルヘシ、其故ハ日本産繭ノ性質及ヒ日本現今ノ形勢ヲ見ルニ何モ好糸ヲ産スルヲ妨クルモノナシ
此席ニ莅ム官員
            民部大輔      大木正喬
            民部少輔      吉井徳春
      引受人 ヱクトリ・ヤンタルバンク・カイセナイモル
            御雇長       フリユナ氏
            周旋人       治部助氏
約条書取替セ済ミ此日爾後此事務ノ主任ヲ定メラル
            民部権大丞     玉乃正履《(玉乃世履)》
            地理兼駅逓権正   杉浦譲
            庶務少佑      尾高惇忠

            大蔵少丞      渋沢栄一
            監督正       中村祐興
右ノ官員ヲ以テ是ヲ司トラシム、但シ事地方ニ係ルニヨツテ民部省官員コレヲ管シ、大蔵省官員コレヲ判輔ス、是ニ於テ同十三日杉浦権正、尾高少佑、フリユナ氏ト倶ニ東京ヲ発シ富岡ニ到リ、便宜ノ地ヲ相シ、村ノ西南城址ト字ナスル処ト一定シ、土人ヲ諭シテ帰ル、乃チフリユナ氏ヲシテ土木構造ノ目論ミセシメ、仏人建築工ハスチヤント云者ヲ雇ヒ、其図ヲ作ラシム、官員臨判シ、十二月廿六日図成ル、四年春正月尾高少佑富岡ニ到リ、相定ノ地草莱ヲ刈除シ、塹址ヲ理均シ、瓦煉化石ヲ造作シ、礎石ヲ斫出シ、石灰《(炭)》ヲ買フ等ノ事ヲ経画シテ帰ル、十五日フリユナ氏、繰糸器械購求トシテ横浜ヲ発シ、米利堅郵船ニテ仏国ニ航海ス、三月十三日、尾高少佑監督少佑川村光貞営繕少令史山浦俊武庶務少令史山田令行四名富岡ニ到リ、大ニ土木ヲ起シ、杉大材ハ妙儀山ヨリ、松大材ハ吾妻官林ヨリ、小材ハ近傍山林ヨリ伐採シ、百工ヲ四方ニ招募シ、役ニ就キ、爾後土木官権中属小川喜成中属秋山政寿少属酒巻興敬中属赤城正機権中属篠尾政愛十五等出仕滝西道直本務官中属佐伯秀明大属植木忠淳《(植木忠惇)》七等出仕渋沢喜作等交替役ヲ董シ、五年七月ニ至ツテ建築構造概成ス、然シテ今日ニ至リ此場ヲ管スルハ租税権大属尾高惇忠中属佐伯秀明少属出野経迪等也

東大門 富岡仲街ヨリ入ル 塹ニハ石矼ヲ架ス 広サ丈八尺八寸
候門所 門左ニ在リ
北門 富岡西街ヨリ入ル 塹ニハ石矼ヲ架ス 広サ丈五尺四寸
 - 第2巻 p.499 -ページ画像 
西小門 コレハ柵ニ戸シテ開閉スルノミ、臨時出入ニ便ス

東置繭所
 長 三拾四丈四尺五寸
 広 三丈九尺六寸
 窓 大小 百七十九 口 大小 十七
 屋棟高 四丈六尺弐寸五分
中央大門ヲ成シ内外トモ大扉ヲ以テ開闔ス、石額明治五年ノ四字ヲ彫ス、門ヨリ南ヲ大小九局ニ区別シ、事務取扱所生糸其佗雑品収置等ノ処トス、北ハ長拾壱丈八尺八寸ヲ一大局トシテ繭取引所トス、二階上ハ屋下マテ繭置棚六行、十八段ニ架シ、蒸繭籃弐万五千ヲ載ス、一籃ニ繭五升ヲ容ル、則チ壱千弐百五十石ヲ貯フヘシ、モシ繭乾枯シテ腐敗ノ患ナキヲ見トメ、一籃ニ一斗ヲ盛レハ其貯フル高マタコレニ倍ス、即チ弐千五百石ヲ蔵ムルヲ得ル、西ヨリ南ヘ繞リ廊アリ、階上モ同ク西南ニ廊ヲ回ラシ欄ヲ架ス、南廊ヨリ梯シテ繰糸所ニ通シ、繭ヲ搬送スルノ処トス、其二階ハ階梯曲折シテ上ル

西置繭所
  長 三拾四丈四尺五寸
  広 三丈九尺六寸
  窓 大小 百五拾九 口 大小 九
  屋棟高 四丈六尺弐寸五分
東面中央ヨリ南エ廊ヲ廻ラシ二階東面ヨリ南エ廊ヲ廻ラシ欄ヲ架ス、其南口ヨリ繰糸所ニ梯ヲ通シ、繭籃棚登階梯等ハ大率東置繭所ト同シ中央ヨリ北拾四丈弐尺五寸六分、石炭置所トス、南大小六局ニ区別シ、其小四局ハ糸取扱ヒ其佗諸用ノ処トシ、二大局ハ繭ヲ取扱フトコロトス、揀繭方ハ大机ヲ排列シ、一脚工女十弐人宛、検査人フラー氏コレヲ監ス、両置繭所用フル所ノ蒸繭籃 其数六万トス

蒸繭籃図 巾壱尺五寸 長三尺 桁水 楊子竹 長三尺 巾壱尺五寸
蒸気釜所
 同図○原本ニ図無シ
長東西十一丈五尺五寸、広南北四丈八尺、窓大小十八口、四屋上別層屋ニテ、二ノ烟出シアリ、内部探サ三尺八寸、四面石ヲ以テ畳ム
蒸気釜 六座 一座 機械旋転ニ供シ、但五馬力五座、煮繭用ニ供ス、煉石ニテ壇ヲ築、其中ニ据付
其左側  石炭置所
其右側  汽機車所
又其側  銅工作事所
 - 第2巻 p.500 -ページ画像 
東廂ニ廊ヲ通シ燥繭所ノ東廂ニ及フ
燥繭所 蒸気釜所左側ノ屋ニ続ク、其間東西ニ通行スヘシ
  見込書ニハ繭ヲ日光ニ晒スコトナク成繭三五日内ニ蒸煞スル方ヲ説ケリ、然ルニ辛未七月フリユナ氏伊太利国新発明燥煞方ヲ識得テ建白シ、更タメタルナリ
方室内法高壱丈五寸、長五丈三尺、横弐丈七尺煉石ヲ以テ築立、南北ニ小口ヲ明ケ開閉シ、繭ヲ出入スヘシ、其天井ハ鉄梁ヲ架シ、鉄柱ニテ撐ヘ、其地底ニハ数道ノ穴ヲ穿チ火熱ヲ通シ、煖気室内ニ充満シ、繭燥キ蛹死スルヲ度トシ、コレヲ出ス、火焚所其西廂ニアリ、深サ丈五寸上ニ鉄筩十有二ヲ据附、東廂ハ気釜所廂廻廊ニ接ス、北廂四丈八尺前後土間廊下ヨリ続ク、室ノ北窓下ニ一穴道ヲ作リ、東置繭所ニ達ス、臨時湿気ヲ除クニ備フ
吐煙筒 気釜所ノ北、燥繭所ノ西ニ建ツ
四方各拾壱丈五尺有奇ノ鉄鎖ヲ張リ、大石ヲ地中ニ埋テコレニ控ヒ其転仆ヲ防ク、基礎深サ丈六尺地中盤石ヨリ煉石ニテ畳ミ上ケ、地上ヘ出ル事丈四尺五寸、鉄筒三拾三箇ヲ継キ、拾丈五尺六寸合シテ高サ拾弐丈弐尺壱寸、口径四尺三寸有奇其上ニ除雷鍼ヲ置ク、以テ蒸気釜並燥繭所各所焚トコロ石炭ノ烟ヲ吹出スナリ、筒中鉄階子アリ、人底傍ノ穴ヨリ入リ登ルヲ得ヘシ、以テ媒灰ヲ掃フニ備フ
西瀦所 汽釜所ノ西ニ築ク、円石ニテ積上ケ、方弐丈四尺深サ八尺、
 四縁地ニ出ル事三尺
 同図○原本ニ図無シ
引水溝 広サ弐尺、長サ八拾六丈壱尺、七日市村東口ヨリ其用水ヲ分流シ、二折シテ来リ是ニ湛ユ
穿井 壱所 西瀦ト汽釜所ノ間ニアリ、口径六尺深サ五丈、ロヨリ下丈五尺、円石ヲ以テ積ミ、盤石ニ及フ、盤石以下三丈五尺原泉深サ大略弐丈五尺、然ルヲ瀦水不断土中ヨリ透滴シ井水ヲ補増ス、是ニヨツテ平生井水四丈アリ、以テ竭ルノ憂ヒナシ、是ヲポンプニテ吸取シ機械所ニ入リ蒸気釜ト東瀦トニ送ル
東瀦所 長七丈一尺、広三丈一尺、深六尺五寸、地上ニ出ル事五尺八寸、蒸気釜所ト東置繭所ノ間ニアリ、其製煉石ニテ畳ミシアンニテ塗ル、此瀦ハ製紙用水ニシテ井水ヲポンプニテ吸取シ、銅管ニ通シコレニ注ク、其水数十日ヲ経テ清滑ニ成リ、糸性ニ適応スルナリ、コレヲ又銅管ニテ吸出シ繰糸所ニ通ス
下水竇 繰糸所外西北ヨリ通シ、穴口方三尺三寸深サ五尺七寸、東横ニ口巾弐尺、深三尺三寸、長サ五拾九丈弐尺六寸、外竇ニ至リ、其口巾弐尺、深五尺六寸 其製煉石ニテ畳ミシマンニテ塗ル事瀦ニ同シ、コレ繰糸所中大小竇ヨリ流下スル汚水コレニ合シ、東西両置繭所南檐繰糸所北面ノ檐溜モ亦木樋ヨリ此竇ニ入、外竇エ出ツ
繰糸所
  長 四拾六丈八尺
  広 四丈壱尺七寸
  高 二層棟 三丈九尺壱寸
  四方鉄骨ノ硝子窓 大小百六拾八 口四ツヲ開キ、四方ニ通ス
 - 第2巻 p.501 -ページ画像 
 同図○原本ニ図無シ
繰糸所ヲ中間ニテ屏障シ、分区シテ東西二隊トス、一隊釜百五十位二行ニ排列シ、左右一行三段相向テ六段、壱段弐拾五釜、東西二隊合シテ三百釜ナリ、一釜ニ中小ノ二釜汲水器一、蛹ヲトリ置ク器二ツ、繭ヲ拯ヘ揚ル器一附属シ一人部トス、則廿五人部長五丈六尺六寸広弐尺五寸三分高縁ノ一鍮台盤ニ仕掛タリ、鉄脚高サ弐尺四寸五分、盤下大小ノ銅管聯絡シ蒸気ト水トヲ通ス、大釜繭ヲ泛ヘテ繰ス中釜繭ヲ煮ル大中釜トモ側ラ機管アリテ是ヲ捻レハ蒸気釜底ヨリ迸出シテ瞬間釜中ノ水熱湯トナル、其度ヲ測リ捻一周シテ止ム、小釜冷水ヲ湛ユ蛹ヲトル器ヲ置ノ所各小孔アリ、盤上流溢ノ汚水湯水共皆コレニ流入シ、盤下大銅樋ニ落チ地中竇ニ出ツ、管首二ツノ機軸アリ、其一ハ蒸気ヲ進止ス、其一ヲ正中ニスレハ水釜中ニ満溢ス、左右スレハ水退涸ス、干満トモ弐十五釜一斎ナリ、以テ集緒ニ酒キマタ熱湯ニ加減スルナリ、釜頭形ノ器ヲ立ツ、繅車器械ハ総テ鉄ニテ作ル大輪小輪各弐十五一組トシ高サ五尺許ノ脚アリ、コレニ架シ小輪ノ軸ニ小籰二ツヲ掛ケ、軸下ヨリ蕨形ノ手盤上ニサシ出、コレニ細桁ヲ引綜器《ヨリカケ》ヲ掛ク、一器二人ニテ用フ、則チ数十三トス、並ニ硝子形器一人前弐ツ宛ヲ懸タリ、釜中ヨリ繰揚ル縷弐道ヲ器ノ小眼ニ透シ、抽テ綜器ニカケテ綜合シ、又分ツテ桁下ノ形器ニ掛ケ、送テ籰ニ巻ク、其小眼ニ入ニ掛ル等総テ糸ヲ琢クヲ要ス、モシ旋転ヲ休スルニハ軸下ニ機ヲ設ケ其柄ヲ抑ヘレハ其機軸下ニテ働ラキ、軸ヲ撐ケ大小輪相離ル事壱分許ニシテ休ム、其繅車ノ一組一軸ニシテ廿五輪一斎ニ旋転シ、蒸気冷水ノ銅管ヨリ湧出運配スル原機関ハ総テ地中ニ設施シ、運動休止自在ヲ得ル
揚糸籰車 繅草ノ後ニ排列ス、一組一軸ニテ十三輪、脚高サ尺許弐行合シテ拾弐列百五十六籰ヲ架ス、其大小輪相磨シテ旋転シ休止スル等ノ機関ハ皆繅車ニ同シ
用器
  揚糸大籰      三百
  繰糸小籰      三千
工女ハ払暁ニ食シ、蒸気鳴管ヲ待ツテ本所ニ入、朝七時業ニ就キ、九時ニ半時間休息シ、十二時ニ食シ、一時間休息、四時半帰宿ス、大約日出ヨリ日没半時前ヲ度トスルナリ、其勤業上ノ景況タルヤ半隊ニシテ繰糸釜ニ当ル者百五拾人、検査スル者外内工女六名、伝習生徒六名ハ繭ヲ各釜ニ分配シ、蒸気並ニ水管ノ機関ヲ進退シ、揚籰掛工女三拾八人、大小籰ヲ取扱フ者男女工六人、蛹ニ残糸ノ被タルヲ剥脱スル者少女十人、首長並ニ検査人中間ヲ往還シテ督責シ、外雑事ヲ執ル使丁三四人惣計二百十余人周旋ス、然シテ蒸気沸騰ノ声鉄輪旋転ノ響轟々トシテ波涛ノ来ルカ如ク、風雨ノ起ルカ如シ、釜中ヨリ騰ル湯気ハ烟霧ノ如ク靄々濛々トシ、殆ント人面ヲ弁セス、コレカ為メニ語言相聞ヘス、眼語手真似或ハ耳ニ倚テ大喝シ、以テ其用ヲ弁達ス、故ニ此所ニ入テ見レハ一隊ノ工女屏息シテ勉強スルヲ見ルノミニテ、倶ニ機関中ニ在リ運動スルカト怪シム
繭糸出納ハ其掛官詳記日々ノ製糸ハ工女人別ニ収蔵シ、毎日曜是ヲ商量シ、其巧拙勤惰ヲ察シ、功過ノ数ヲ以テ褒貶ヲ行フ
 - 第2巻 p.502 -ページ画像 
其東西両口左右各階梯アリ、其中壇ヨリ北ニ向テ両扉ヲ排スレハ置繭所二階エ通スルノ梯ニ出ツ、南向曲折シテ登レハ二層ニ至ル、層上戸ヲ南北ニ開キ空気ヲ入ル、繰糸湯気ヲ出スヲ要ス、地上ハ煉石ヲ交錯シテ敷キ、東西三方廊下ヲ廻ラシ繰糸工女往還ニ便ス

左之規則ヲ掲示ス
  製糸場規則
    第一則
総而御雇之仏人諸職員及ヒ伝習生徒工男工女ハ休日ヲ除キ必ス毎日定則之時間中製糸場エ出席シ、各業ニ従事シ、遅参及ヒ速退ス可カラス
    第二則
内外ノ職人共都テ日本官吏ニ対シ交際ノ間礼敬ヲ加ヘ、必猥ケ間敷所業有之間敷事
    第三則
伝習生徒工男工女ハ勿論、其佗ノ男女ヨリ教授スル処及ヒ指揮スル事ニ於テ必違背ス可カラス、尤モ疑団有之了解シ難キ事件アレハ幾度モ推問シ必ス其要頒ヲ得ルヲ極度トス可シ
    第四則
内外職人共病気ニテ出度《(席)》致シ難キ輩ハ、必ス在勤ノ官吏ニ医者ノ容躰書ヲ添テ届ケ出ス可シ
    第五則
凡ソ生徒工男工女各業ニ在ル時間中ハ其座席ヲ離去スルハ勿論猥リニ接語交語スル事ヲ禁ス
    第六則
御雇ノ仏人ハ総テノ生徒工男工女ヲ懇切ニ教諭可シ、若シ其旨趣ニ背違スルモノハ必ス日本官吏ニ届ケ出テ其処分ヲ乞フヲ得ヘシ、乍併猥リニ自ラ詬罵或ハ打擲等スルヲ得ス
    第七則
毎日請取渡ノ繭、並ニ製糸高共必ス鄭重ニ之ヲ取扱ヒ、其主任ノ者ハ其出納ヲ詳ニシ、毎日之ヲ在勤ノ官員ニ具呈スヘシ
右規則ノ条々可相守毛《(マヽ)》致也
明治六年第一月            租税頭 陸奥宗光
 右仏文ニテ別ニ一通ヲ其次ニ掲ケ以テ仏人ノ鑑ニ供ス

土間廊下  長四拾六丈  広丈弐尺
 此内四丈八尺燥繭所北廂ニ係ル
 燥繭ノ節其外東西置繭所往返通行ニ便ス
大庭  幅員東西四拾一丈四尺
 南北弐拾弐丈弐尺
 土間廊下以北内牆以南東西置繭所ノ間ナリ
内牆
 一ハ繰糸所西南頭ヨリ西外柵ニ達シ、一ハ繰糸所東頭廁側ヨリ東置繭所ヲ周リ大庭ヲ界シ、西置繭所西北ニ至リ、外柵エ接ス、此間ニ通路五所ヲ開ク、一ハ大門口、一ハ東置繭所南頭、一ハ工女奇宿所
 - 第2巻 p.503 -ページ画像 
ロ、一ハ工女出勤口、一ハ北門口、牆長通計百弐丈弐尺
廁大小 四所 屋重層壁煉石
 大一繰糸所東口右側、一繰糸所南口、一繰糸所西口左側
 小一東置繭南口側
首長館
  繰糸所東南ニ建
検査人館
  東置繭所東ニ建
女工館
  検査人館南ニ列建ス
 右三所土木未成
  御雇仏国人名左之通
首長フリユナ外ニ同人妻子従者合セ四人
           月給  六百弗    賄料金百五拾円
検査人 ペラン    月給  百五拾弗   賄料金六拾六円
 同 プラー     月給  百弗     賄料同断
機械方 レスコー   月給  百弗     賄料同断
                壬申十一月廿六日帰国
銅工方 シヤトロン  月給  百弗     賄料同断
医師 マイー     月給  弐百二拾五弗
土木絵図師バスチヤン 月給  一百二拾五弗 賄料同断
                壬申七月廿五日帰国
女工 ヒヱーホール  月給  八拾弗    賄料金五拾六円
 同  モニヱー   月給  六拾五弗   賄料同断
 同 シヤレー    月給  五拾弗    賄料同断
 同 バラン     月給  五拾弗    賄料同断
仮首長館 東南崖ニ臨テ建ツ、女工其西部ニ居ル、其厩庖ハ館側ニ建
仮検査人館 仮首長館ノ北ニ建ツ
生徒舎
  仮検査人館ノ北ニアリ、長拾壱丈四尺四局ニ分ツ
  生徒十有弐名本場事業ヲ伝習セシム
  伝習生徒誓書アリ、其文左ノ如シ

 伝習生徒誓書
    第一則
一入寮之生徒者百事官員ノ令スル所ロニ従ヒ、其勤業ニ至テハ朝何時ヨリ夕何時迄ノ間ハ必ス製糸器械場ニ出席シ、諸規則及ヒ首長ノ指揮ニ従ヒ、各自持受之業ヲ勤務可致事
    第二則
一入寮之生徒者製糸方法伝習自身執心之者ニ限リ候ニ付入寮之者 月 日ヨリ満五ケ年之間ハ出寮及ヒ佗業ニ転換致間敷事
    第三則
一入寮之生徒者毎月定則ノ月費ヲ給与シ、毎日之食料及ヒ衣服ハ壱ケ年両度一揃ツヽ官費ヲ以テ支給スヘシ
    第四則
一入寮之生徒者休業之日製糸場ヨリ半日程之場所内ニ於テ散歩スル事
 - 第2巻 p.504 -ページ画像 
ヲ免許スレトモ、都テ一泊以上ノ旅行スル事ヲ禁ス
    第五則
一入寮之生徒父母ノ病気或ハ無余儀事件ニテ帰省スル如キハ旅費ハ勿論其時間ノ月給ヲ与ヘサルヘシ
右条々相心得候上ハ可致入寮事
  明治六年第一月         陸奥租税頭
 前書御規則之趣屹度奉戴仕候 以上
                  生徒連名
                  弘道輔印
                  長野範亮花押
                  白根祥亮印
                  深井寛八同
                  細倉豊明同
                  佐伯美風花押
                  国重信一印
                  高木大之進花押
                  児玉逸良印
                  三吉正一同
                  新山芳辰同
                  村瀬直養同

井 一口 口径四尺 深三丈五尺 生徒舎用水ニ供ス其舎北ニアリ
厩 生徒舎東北ニアリ
工女奇宿所 弐棟 各長拾八丈六尺 横三丈 南北一双ニ建ツ
 各入口額ニ掲示ス
   寄宿所内ヘ掛リ官員並ニ賄方之外男女共立入候儀一切不相成候事
 同図○原本ニ図無シ
 二階造リニシテ上下倶ニ中間廊下ヲ通シ、左右弐行ニ分チ、上下四行五拾局、則チ弐棟百拾六局トス
 盥漱所    四所
 廁      四所 壱所五分シ四所総テ弐拾所南北ニ宿ノ間ニ設ク
 一局工女三名ヨリ五名ヲ宿ス、其規則ヲ定ムル事左ノ如シ

  工女寄宿所規則
工女日々事業ノ儀ハ繰糸所掲示規則之通可相守事
外国婦人之儀ハ製糸伝習ノ為メ御雇ニ相成候儀ニ付、銘々師弟ト相心得、諸事差図ニ随ヒ本業可致精勤事
雇入工女本日ヨリ一ケ年以上三ケ年迄望次第差免候事
 但、期限中無拠訳合有之、暇相願度者ハ身元並ニ村役人証印、事情巨細相認申出候得者、詮議之上差免シ可申候、私事都合等之儀ニテハ一切不相成候事
工女弐拾人ヲ一組トシ、組毎ニ部屋長一人宛相定候事
 但、部屋長之儀ハ一等工女之内ヨリ相撰候事
 - 第2巻 p.505 -ページ画像 
銘々身元エ割符相渡シ置用事出来応対ニ来リ候者ハ、右割符持参可申、割符無之者ハ親族タリトモ面会不相成候事
 但、割符持参之者ハ取締役エ相届ケ、許可ノ上対面可致尤モ応接所ニ限可申事
取締役正副之内朝夕見廻リ人員検査之節ハ部屋毎ニ銘々正座致シ、部屋長ヨリ姓名可申立事
期限中日曜日ノ外門外エ立出候儀一切不相成候事
 但、日曜日遊歩等ニテ外出ノ砌、壱人ハ不相成弐人ヨリ以上勝手タルヘキ事
外出之節ハ取締役エ相届ケ、銘々名薄申受門候ヘ相渡シ置、入門之節受取取締役ヘ相届ケ可申候事
 但、門限明六ツ時ヨリ暮六ツ時限リノ事
外出ノ節ハ不及申部屋内タリトモ動容周旋総テ謹粛ニ致シ、婦道ニ背戻ノ作業一切致ス間敷候事
 但、戯言小謡高声其外肌脱等、惣シテ非礼無之様心懸可申事
身体ハ勿論衣服等可成丈清潔ニ可致事
 但、衣服洗濯梳粧ハ日曜日タルヘキ事
病気等ニテ出勤致シ兼候節ハ、部屋長ヨリ取締役エ相届可申事
 但、取締役病躰見届、其趣可申出、尤当病ハ承リ置可申事
寄宿所内エ掛リ官員並ニ賄方ノ外男女共立入候儀一切不相成候事
医師按摩呉服小間物商人髪結人等公撰之上出入差免シ可申、尤医師按摩外婦人ニ限リ候事
 但出入之節ハ取締役エ相届可申事
自費外来願出候者都合ニ寄可差免、然ル上ハ総シテ御雇工女同様御規則可相守、尤門外之儀ハ制外タルヘキ事
諸口鎖鑰之儀ハ取締役所エ預ケ置、開閉之節ハ自身取扱可申候事
出火其外非常之節ハ取締役差図イタシ一縷ヒニ相成立退可申事
右之条々相定候条正副取締役之儀ハ日々繰糸所エ出頭イタシ、工女一同之勤惰ヲ視察シ、休日ハ不及申時々部屋内見廻リ、一切取締向ニ心ヲ尽シ、部屋長及ヒ工女共規則之条々堅ク相守候様説示シ、若背戻致候者ハ直ニ督責シ、掲載ノ条々践行為致候儀専務タルヘキ事
 明治五年壬申十月

南宿 左第一局ヲ工女頭詰所トス、右第一局ヲ工女応援所トス
北宿 左第一局ヲ工女掛詰所トシ、其次ヲ調薬所トス、右第一局ヲ外人応接所トス
工女出勤口 南宿ヨリ東置繭所ノ廊下ニ通ス内牆ニ両扉シテ開闔ス
井 一口 径五尺 深五丈寄宿所東ニ穿ツ、此水工女衣類澣濯ノ用ニ供ス、通路ニ庇シテコレニ便ス
賄所 寄宿所ノ西ニ建ツ、南北拾丈五尺東西三丈
工女浴室 賄所北部ヲ区別シテ設ク、此両所通行口ハ戸ヲ内外ヨリ関鎖シ、其鍵一ハ工女掛官員コレヲ掌リ一ハ賄方長掌トル
井 一口々経四尺深五丈賄所西ニアリ其用ニ供ス
癸酉第一月迄傭入寄宿婦女名薄ニ登ル者四百四名、其郷貫左ニ分記ス
 - 第2巻 p.506 -ページ画像 
  群馬県  弐百弐拾八名
  入間県  九拾八名
  長野県  拾壱名
  橡木県  五名
  東京府  一名
  奈良県  二名
  水沢県  八名
  置賜県  十四名
  宮城県  十五名
  静岡県  六名
  浜松県  十弐名
  酒田県  三名
  石川県  一名
工女分務
  取締老女 弐名
  副取締女 四名
  局長女  拾弐名
工女分課
  束糸
  検査
  繰車
  揚籰
  揀繭
  屑糸
  剥蛹被
工女給料  壱ケ年
  壱等  金弐拾五円
  弐等  金拾八円
  三等  金拾弐円
  等外  金九円
月賦コレヲ給ス、別ニ人別金五円夏冬ノ服料トシテ給ス賄料一日一人ニ付七銭壱厘有奇今改メテ九銭弐厘トス

隙地  四所
    其一
繰糸所ノ南ニアリ、其南ハ崖ニ至リ西ハ外柵ニ至リ東ハ首長館ニ至ル、其西部凡三百坪フリユナ氏齎ラストコロノ菜蔬種芸圃トス
    其二
東置繭所ノ東内牆ヨリ柵ニ至リ東西拾五丈南北九丈六尺、玆ニ療病舎ヲ建ツベシ土木尋テ起ル
    其三
寄宿所ヨリ東柵ニ至リ南北拾弐丈三尺東西九丈六尺工女全数備ハル時ニハ五百五拾人二及フ、然ルニ前ニ棟三百三拾人ヲ宿ス、因テ此所更ニ弐百廿人ノ宿所ヲ継キ建ツヘシ土木尋テ起ル
 - 第2巻 p.507 -ページ画像 
    其四
賄所ヨリ西柵迄弐拾弐丈弐尺内牆ヨり外柵マテ拾丈四尺其間ニ北門通路及ヒ引水溝アリ今余材置所トス、此所東部更ニ二百廿人ノ賄所ヲ続キ建ツベシ、土木尋テ起ル

 高丈五尺 杉柱 杉板 墨ヲ以テ塗ル 東方南崖ヨリ大門ニ至ル大門ヨリ東北隅ヲ廻リ北門ニ至ル、北門ヨリ西北隅ヲ廻リ西口ニ至ル西口ヨリ南崖ニ至ル南ハ断崖ナリ依テ柵ヲ植ス三面合シテ長弐百三拾六丈四尺

 広三尺両縁円石ヲ以テ畳ム西面ハ西南隅エ流レ北東面ハ外竇ニ入ル長三方竇口ニ至リ総テ百九拾七丈六尺
外竇
東南塹尾ニ至テ作ル、口広二尺五寸深三尺五寸南下口広二尺五寸深八尺内竇ヨリ来ル汚水ヲ受ケ入塹水ト共ニ南エ流出ス長四拾弐丈七尺
馬車道
 中山道新町駅ヨリ左折シ、本場ニ至リ五里半大約故道ヲ増築スル者ナリ、然シテ迂路ヲ直径ニシ丘壟ヲ平坦ニシ凸凹ヲ埋崩シ新築スル者十又六所、橋梁ヲ新タニスル者大小六十、埋樋大小六十五、道幅丈八尺、其村落ニ係ル者ハ此限ニアラス
輸入繭
 千廿四石八斗四升六合     上野国
 六百三拾石八斗五升五合    信濃国
 六百五石丸升五合       武蔵国
 百八拾八石弐斗九升八合    甲斐国
合弐千四百四拾九石九升四合
 右壬申五月ヨリ六月ニ至リテ買得タリ、其内太陽ニ晒シタル品凡六百石、其凡一千八百五拾石ハ新工夫蒸繭器ヲ用フ、其方マツ一大釜ニ熱湯ヲ沸シ、側ニ一大方箱ヲ置キ、中ニ十段棚ヲ建籃弐拾ヲ載ス、一籃繭五升宛合セテ一石ヲ盛リ、戸ヲ縝密ニシ箱底並ニ釜蓋ニ小孔ヲ穿チ、竹筒ヲ曲折シテ是ヲ通シ、以テ沸騰ノ蒸気ヲ箱中ニ吹入レ、孔上五六寸ニ笠様ノ物ヲ覆ヒ、蒸気ヲ受ケ其水気ヲハ滴下セシメ熱気ヲ留テ繭ヲ蒸シ、蛹死スルヲ度トス、此ノ熱度大略百四十度ナリ、而シテ繭ヲ出シ風気快通スル処ニ置キ、速ニ乾クヲ要シ、爾後季秋ニ至ルマテ日々攪散シ、死蛹腐敗シテ繭ヲ損スルヲ防キ貯タル品ナリ、是乃チフリユナ氏見込書ニ述ル繭ヲ日光ニ晒サヽレハ糸性ヲ全シ光沢ヨシト云フ説ヲ活用シ各処ニテ施行シタルナリ、今繰糸成ルニ及ンテ果シテ其効験少カラス

蒸繭器図
 (五〇八頁参照)
 右ハ運用尤軽便ナリ、コレヲ懈ラス用フレハ一具器一日間ニ三拾石ノ繭ヲ蒸シ得ルナリ
 - 第2巻 p.508 -ページ画像 

[蒸繭器図]右諸用費金高左之通 凡金拾九万八千五百七拾弐円 洋八万六千零拾六弗 但御雇仏国人給料賄料共壬申十月開業迄渡ノ分右高ニ入掛官員給俸旅費等ハ不入ナリ 外六尺八分五リ 壱尺四寸 内法堅四尺三寸 四寸壱分 三寸ツツ 四寸九分アキ 巾三尺六寸五分
[蒸繭器図]正面 蓋 堅四尺三寸 横三尺六寸五分
[蒸繭器図]直経 壱尺弐寸
原蒸繭四種
長野県管下         信濃佐久郡産品黄白両種
一ハ入間県管下       武蔵   産品
一ハ群馬県管下       上野富岡 産品タリ
十月四日繰糸開業御雇女工四名工女四人ニ教ヒ、順次廿人ニ及ヒ、其廿人順ニ授受伝習シ今百五拾余人ヲ得タリ、初メ近傍五県入間群馬埼玉長野橡木エ有志ノ者婦女進傭スヘキ旨布告シ、又北陸道十県エ告論セシ処、県吏ノ墾諭流達シ遠近トモニ
皇旨ヲ感戴シ、傭入ヲ願フ者四百余人ニ及フ、嗚呼如斯キ辺鄙ノ地靡然トシテ文明ニ開化シ、脱然トシテ旧習故弊ヲ去リ、工業日進シ、本場一半隊全備ス、余ノ一半隊モ随テ備ハルヘシ、然シテ其業熟達シテ稍女工師ニ次ク工女廿弐人ヲ得タリ、内拾八人ヲシテ製シ出シタル糸銘併テ工女姓名ヲ左ニ掲ク
 租税権大属尾高惇忠女            ゆう酉十四歳
 浜松県貫属士族 楫斐政直妹         はま酉廿歳
 浜松県貫属士族 津田長友妹         つね酉廿歳
 浜松県貫属士族 太田弘享妹         てふ酉十七歳
 群馬県貫属士族 芝塚照徳姉         たつ酉十八歳
 入間県管下武蔵国比企郡小川村 青木伝次郎女 けい酉十八歳
 入間県管下同国同郡小川村 岸野信太郎姉   やま酉十九歳
        同郡    轟幸助女     とね酉廿歳
        同郡    岸野信太郎姉   だい酉十八歳
 同  管下  同郡青山村 恩田与兵衛女   うし酉十七歳
 同管下武蔵国棒沢郡牧西村 森庫三郎妹    わか酉廿一歳
 橡木県貫属士族      安田銈太郎妹   きい酉十七歳
 - 第2巻 p.509 -ページ画像 
 群馬県貫属士族      磯谷左右吉叔母  さい酉廿六歳
 同 県貫属士族      若林誠治女    寿々酉廿二歳
 群馬県管下富岡町     横山弥市妹    たつ酉十八歳
 同 管下縁埜郡中栗須村  根岸金作女    かま酉十八歳
 同 管下甘楽郡七日市村  安井兵松女    ちか酉十七歳
 同 管下富岡町      堀口常吉妹    いち酉十九歳
    以上十八人
右製糸乃チ進呈ス政府コレヲ澳太利国博覧会列品ニ加フト云
○下略
   ○本書ハ柱ニ「製糸場」ノ三字ヲ印刷セル罫紙ニ記述セラレタル写本ナリ。
    明治六年一月マデノ記録ニヨリ記述ス。恐ラクハ本場ニ関スル本場関係者ノ手ニ成ル沿革志ノ最初ノモノナラン。
   ○巻末省略セルハ明治六年一月下旬栄一及ビ陸奥宗光本場ヲ視察セルトキノ記事四行ノミナリ。


富岡製糸場記 【原製糸部所蔵】(DK020134k-0002)
第2巻 p.509-510 ページ画像

富岡製糸場記                 (原製糸部所蔵)
 我国通商ヲ開キシヨリ以来生糸ノ名海外ニ著レ、輸出第一ノ要品タリ是ヲ以テ其価一時ニ騰貴シ、農商共ニ不虞ノ利ヲ得タルニヨリ狡奸利ヲ視ル者漸ク多ク、偽製贋造至ラザル所ナク、英国倫敦ニ於テ機工ニ適セザル者数千筺堆棄スルニ至ル。是ニ於テ声価頓ニ減シ、輸出ノ数モ亦漸ク多カラズ、農商産ヲ破ル者比々トシテコレアリ。朝廷此ニ観ル有テ旧来製糸ノ方ヲ革正セント欲シ、議ヲ民部大蔵両省ニ下ス。
僉ナ曰ク名師ヲ海外ニ徴シ一大糸場ヲ起シ、糸縷純精、色沢玲瓏ノ佳品ヲ製シテコレヲ発売セバ、偽製贋造其術ヲ逞ウスルヲ得スシテ農商皆コレヲ欣羨シ、天下ノ製糸方自ラ革正シテ一般ノ産佳品ナラサル者ナキニ至ラン。然ラハ則チ信ヲ海外ニ取ルニ足ツテ以テ我国ヲ富マスヲ得ント。
朝廷其議ヲ可トシ、乃チ其事ニ徒ハシム。実ニ明治三年春二月也。是ニ於テ大蔵少輔伊藤博文租税正渋沢栄一詔ヲ奉シテ、在留仏国人ヂブスケ氏並ニ仏商カイセナイモル氏ヲ介トシテ、嘗テ糸道ニ精粋ナルヲ以テ著レタル仏人ブリユナ氏ヲ雇ヒ入レンコトヲ謀ル。両氏周旋会議数回夏六月ニ至ツテ仮条約成ル。乃チ監督権正松井清蔭ヲ以テ嚮導トシブリユナ氏ヲシテ東京近傍養蚕盛ニシテ製糸ニ宜キ地ヲ相セシメントス。秋七月武蔵・上野・信濃等ノ邑里ヲ歴観シテ帰リ、上野国富岡ヲ以テ其ノ最モ宜キ所ト決定シ、冬閏十月七日西歴一千八百七拾年第十一月二十九日民部省ニ於テ条約事全ク成ル。此日其ノ事務ノ主任ヲ命ゼラルル者民部権大丞玉乃正履《(玉乃世履)》、地理兼駅逓権正杉浦譲、庶務少佑尾高惇忠、大蔵少丞渋沢栄一、監督正中村祐興ナリ。
時渋沢栄一既ニ大蔵少丞ニ任セラレタリ。但事地方ニ係ルヲ以テ民部省官員之ヲ管シ、大蔵省官員コレヲ判輔ス。越テ十三日杉浦権正尾高少佑ブルユナ氏ト倶ニ東京ヲ発シ富岡ニ到リ、村ノ西南城趾ト字ナスル処ヲ相シ土人ヲ諭シテ帰ル。即チ土木構造ノ意匠ヲブリユナ氏ニ嘱シテ、仏人バスチヤント云建築工ヲ雇ヒ、其図ヲ作ラシム。官員臨判十二月二十六日ヲ以テ図成ル。四年春正月尾高少佑富岡ナル相定ノ地ニ到リ、草莱ヲ刈除シ、塹址ヲ塡平シテ瓦煉化石ヲ造作シ、礎石ヲ斫
 - 第2巻 p.510 -ページ画像 
出シ、石炭ヲ買ハシムル等ノ㕝ヲ経画シテ帰ル。十五日ブリユナ氏繰糸器械ヲ購求センガ為ニ米利堅郵船ニテ横浜ヲ発シ仏国ニ航ス。三月十三日尾高少佑又監督少佑川村光貞、営繕少令史山浦俊武、庶務少令史山田令行ト富岡ニ到リ、大ニ土木ヲ起シ、杉ノ大材ヲ妙義山ニ伐リ、松ノ大材ヲ吾妻官林ニ採リ、其他ノ小材ハ之ヲ近傍山林ニ索メテ百工ヲ四方ニ招募シ役ニ就ク。爾後土木官ニハ権中属小川喜成、中属秋山政寿、少属酒巻興敬、中属赤城正機、権中属篠尾政愛十五等出仕滝西道直等本務官ニハ中属佐伯秀明、大属植木忠惇、七等出仕渋沢喜作等交替役ヲ董シ、五年七月ニ至ツテ建築構造既成ス。○下略


富岡製糸場史(DK020134k-0003)
第2巻 p.510-516 ページ画像

富岡製糸場史             (原富岡製糸所所蔵)
  一 富岡製糸場ノ創立
我国ヨリ初メテ生糸ヲ海外ニ輸出セシハ、万延元年八月ニシテ、甲斐国ノ商人伏見屋忠兵衛ト云フ人ナリ。即チ島田造糸二千五百斤ヲ齎シ横浜海岸七番英人「ロスバルベル」氏ニ販売セシヲ濫觴トス。
爾来歳ヲ逐ヒテ輸出ノ量ヲ増加シタリ。従テ其ノ価格モ従来ノ内地相場ニ比スレバ、頗ル高価ナルヲ以テ、農商共ニ意外ノ利ヲ得タリ。然ルニ此ノ機ニ乗ジテ、奸商続出シ、不当ノ利ヲ貪ラントシテ、粗製濫造ノ生糸ヲ夥シク海外ニ至セリ。元治ヨリ慶応年間ニ亘リ、輸出品中ニハ、甚シク粗製ニシテ機織ノ用ニ供スルコト能ハザルモノ数千個ニ及ビ、遂ニハ倫敦ニ於テ焼棄シタル旨ヲ英国政府ヨリ、我国政府ヘ報告スルトコロアリタリ。玆ニ於テ我政府ハ大イニ之ヲ憂ヒ、国産品ノ随一タル生糸ガ斯ノ如ク海外ノ信用ヲ失ヒタルハ貿易上容易ナラザルコトナレバ、是非トモ之ガ改良ヲ計ラザルベカラズトセリ。
依テ其ノ議ヲ民部・大蔵両局ニ諮詢セラレタリ。両省ハ相議シテ曰ク、日本現在ノ手挽或ハ座繰ニテハ到底之ガ改良ヲナスコト能ハズ、宜シク洋式ノ一大工場ヲ興シ、相当ノ技術者ヲ聘シ之ガ改良ヲ計リ以テ範ヲ天下ニ示サバ、此ノ粗製濫造ノ跡ヲ絶チ、自ラ天下ノ生糸ヲ改良スルニ至ラントノ答申ヲナセルニ、政府ハ直ニ其ノ議ヲ容レテ、時ノ大蔵少輔伊藤博文、租税頭《(正)》渋沢栄一ニ命ジテ之ガ計画ヲ進メシメタルハ、明治三年二月ナリ。是ニ於テ両氏ハ命ヲ奉ジ、其ノ当時東京築地ニ居住シタル仏人ニシテ、元徳川幕府ノ顧問トシテ安政条約等ニ力ヲ尽シタル「ヂブスケ」ナル人ニ諮リタリ。而シテ「ヂブスケ」氏ト共ニ横浜ニ住シタル仏蘭西商人「カイゼナイモ」氏ヲ訪問シテ種々協議ノ結果、生糸ノ道ニ最モ詳シキ「ポール・ブリユーナ」氏ヲ推薦セリ。同年六月愈々此ノ人ヲ傭聘スルコトニ決シ、「ブリユーナ」氏雇入ノ仮条約ヲナシタリ。
カクテ明治三年監督権正松井清蔭ヲ以テ嚮導トナシ、「ブリユーナ」ヲシテ東京附近ノ養蚕地方ニテ製糸ニ適当ナル地ヲ相セシメントス。依テ七月松井清蔭ハ製糸業御雇教師タル同氏ヲ伴ヒ、カノ養蚕ノ本場ト称セラルヽ上州ノ高崎・前橋及ビ下仁田等ノ各地ヲ巡歴セラレタリ。是レ製糸場ヲ設立センニハ後来益々養蚕業発達ノ見込アリ、且ツ用水ノ便アル地勢・地味ナルヲ要スレバナリ。其ノ結果当富岡ノ陣屋趾最モ適地タリトノ見込ヲ以テ之ヲ相定シテ帰ル。
 - 第2巻 p.511 -ページ画像 
閏十月七日製糸場建築ノ為メ、「ブリユーナ」雇入ノ条約、民部省ニ於テ全クナル。此ノ日其ノ事務ノ主任ヲ命ゼラレタル者ハ、民部権大丞玉乃世履、地理兼駅逓権正杉浦譲、庶務少佑尾高惇忠、大歳少丞渋沢栄一、監督正中村祐興ナリ。蓋シ事地方ニ係ルヲ以テ民部省官吏之ヲ管シ、大蔵省官吏之ヲ輔佐ス。
次デ杉浦権正尾高少佑等仏人「ブリユーナ」ト共ニ東京ヲ発シ、上野国甘楽郡富岡ニ至リ、先ヅ町役人杉浦喜六ヲ訪ヒ、附近石炭ノ有無ヲ計リシニ、同氏ハ町ノ有力者浅野孝五郎・古沢小三郎・佐藤国太郎ノ三名ニ談ジタルニ、佐藤国太郎少シク見込アリトテ先導ナシ、同行七人横野ケ原ノ東端奥手館地方ヲ踏査セシモ発見スル能ハズ、止ムナク片岡村ノ館、岡田松右エ門方ニ立寄リ雑談スル中ニ、松右エ門宅ノ地先ニ話ノ如キ岩片アリトテ早速之ヲ堀ラシメタルニ之ガ組質《(粗)》ノ石炭ナリケレバ、一同大イニ喜ビ、其レヨリ二三箇所ヲ堀リテ其ノ所在ヲ確メ得タリ。カクテ一同ハ勇ミテ富岡ニ帰リ二三ノ敷地ヲ実測シ、町ノ西南ナル城趾一万五千六百有余坪ヲ見立テヽ住民ヲ諭シテ帰リタリ。
カクテ官立富岡製糸場ノ敷地決定セシハ明治三年閏十月十三日ニシテ翌十一月敷地買収ノ順序ヲ定ムルニ至レリ。(当時一反歩二十五円ナリシト)
之ヨリ「ブリユーナ」ノ意匠ニ基キ仏人「バスチヤン」ナル土木絵図師ニ建築図ヲ作ラシメ、官員列席シテ其ノ図ノ出来セシハ明治三年十二月二十六日ナリ。サレバ其ノ設計費目ヲ調査シ民部省ハ建築着手ノ件ヲ稟申セリ。
翌年春正月民部少佑尾高惇忠製糸場建築地設定ノ為メ、富岡ニ至リ、草樹ヲ刈除シ、塹趾ヲ塡平シテ敷地ノ地均ヲナシ、瓦、煉瓦、石ヲ造作シ礎石ヲ斫出シ、或ハ石炭ノ買入等万端ノ手配ヲナシテ帰ル。
同ジク一月「ブリユーナ」氏ハ繰糸器械購入ノ使命ヲ帯ビ、米利堅郵船ニ乗組ミ、横浜ヨリ仏国ニ渡航シ、新式ノ機械ヲ購ヒ且ツ技師三名、工女四名ヲ引率シテ明治五年二月帰朝シタリ。
之ヨリ先、杉浦・尾高・「ブリユーナ」ノ一行富岡ニ至り地理検分ノ際、前橋藩ニ通牒シテ藩士速水堅曹ヲ招キ此ノ挙ノ意見ヲ具セシム。時ニ速水堅曹述テ曰ク、大工事未ダ本邦ニ適セザランヲ恐ルヽナリト。蓋シ速水堅曹ハ意中「ブリユーナ」ノ製糸事業ニ熟練セザルヲ疑フモノヽ如カリキ。
而テ三月十三日尾高少佑ハ監督少佑川村光貞・営繕少令史山浦俊武・庶務少令史山田令行ノ三氏ト共ニ富岡ニ来リ、富岡製糸場建築ノ為メ、百工ヲ四方ニ募集シ大イニ土木ヲ起ス。先ヅ杉ノ大材ハ吾妻官林其ノ他ノ小材ハ近傍山林ヨリ伐リ出サシメタルガ、明治初年ノ事ナレバ、東京ニモ煉瓦及ビ石造ノ家ナク殊ニ田舎ニ之アルべキ筈ナケレバ、煉瓦積ノ職工及ビ大工等ハ東京ヨリ雇ヒ来リテ従事セシメタリ。
時ノ事務官ハ民部省権中属小川喜成・中属秋山政寿・少属酒巻興敬・中属赤城正機・権中属篠尾政愛・十五等出任滝田道直等ニシテ本務官ニハ中属佐伯秀明・大属植木忠惇・七等出仕渋沢喜作ノ諸氏交替役ヲ董シタリ。当時ニ於ケル当局者ノ苦辛ハ到底筆紙ヲ以テ尽スべカラザルモノアリ。今其ノ一端ヲ述ベン。
抑々王政維新ト云フ名ハ維新《コレアラ》タナル王代ノ新政ナルモ、人ハ旧様ノ田
 - 第2巻 p.512 -ページ画像 
野ニ住メル民ナルヲ以テ見聞ノ狭キハ勿論ナリ。従テ此ノ新政府ナルモノガ製糸ノ模範ヲ示スト云フ(官業ヲ以テ工事ノ模範ヲ示セルハ当製糸場ヲ以テ其ノ嚆矢トス)其ノ何ノ趣旨ナルヤ、否必要アルヤ、寧ロ其ノ政府ナルモノガ果シテ自己等ヨリ繰糸ノ業ニ熟セルモノナリヤヲ疑ヒ危ミ、且ツ嘲笑フノミニシテ、誰モ真面目ニ其ノ相手ニナル者ノナキノミナラズ、当時尚ホ攘夷論ノ余熱未ダ冷メズ、頑冥固陋ノ徒多クシテ、生レテ初メテ見タル外人等ノ此ノ地ニ来リテ城趾ヲ拓キ、棲息ヲナサバ如何ナラン。災害ヤ来ラン、少クモ神仏ノ祟リ!祖先ノ怒!其ノ免ルベカラザル当然ノ数ナルベシトテ且ツ忌ミ且怖レ、太甚シキハ、其ノ工事ニツキ妨害ヲ試ミントスル者スラアリキ。然モ此ノ妨害ニ付尾高氏ノ差向キテ窮セラレタルハ彼レ「ブリユーナ」夫妻等ガ宿泊所ナリ。旅宿モ寺院モ民家モ皆峻拒シテ其ノ床上ヲ貸スコトヲ肯ゼズ。依テ氏ハ宿ノ旧本陣松浦水太郎ニツキ種々ニ依頼シ且ツ其ノ利害ヲ説キテ辛ジテ主人ノ允諾ヲ得、教師等一行ヲシテ僅カニ露宿ノ艱難ニ遭ハザラシムルコトヲ得タリシト云ヘリ。而テ此等ノ人ト士地ト爾後三年ナラザルニ、工場ト外人トナラデハ夜モ日モ明ケヌ程ノモノトナレリ。人生ノ変遷亦奇ナラズヤ、カクシテ氏ハ其ノ工場ノ設計ト建築トニ尽力セラレタリ。(其ノ町民ノ説諭ニモ頗ル労セラレタリトゾ)即チ其ノ敷地ヘハ第一ニ製糸工場・続イテ事務室・倉庫・乾燥室・役宅・教師ノ洋館・工女ノ合宿所・病院等ヲマデ取建ムトセラルヽニ其ノ敷地タル所ハ久シク草莱ニ委ネタル俗ニ云フ狐狸ノ棲窟ナリ。諸般ノ物品ノ調達ヲナスベキ地ハ片田舎ノ小駅ナリ。然モ其ノ住民ハ外国人ヲ異人ト目シテ人間トハ異レリトスル徒輩ナリ。抑々カカル土地ニ、カヽル人民ヲ相手ニシテ、カヽル大工事ヲ起サムトスル当事者ノ困難ヤ甚麼許リナリシナラン。
然レドモ氏ノ決心ハ之等ノ難儀ヲ物ノ数トモセズシテ、其ノ第一ノ着手トシテ富岡ヨリ三里ノ西ナル妙義山ノ大森林(主トシテ杉材ナリ)ノ伐出シニ取掛ルベク其レガ方案ヲ建テラレキ。
驚キタルハ土民等ナリ。彼等ハ常ニ謂ヘラク、妙義ハ神山ナリ。然モ其ノ山ノ神ナルハ域内ノ森ニ住ム天狗ノ霊ナリト。今ヤ此ノ異人ヲ伴ヘル役人ナル人、其ノ狗賓ノ住所タル杉、檜ヲ伐リテ此ノ異人ノ為メニ其ノ家、其ノ工場ヲ建テントス。天狗ノ怒ヤ当面シテ、然モ其ノ禍害ヲ蒙ルベキハ我等ナリ。禁止セザルべカラズ。防遏セザルべカラズトテ天狗ノ祟禍アルベキ建物ヲ此ノ地ニ建テラルヽハ迷惑ナリトテ氏ニ迫リテ其ノ立退ヲ乞フモノスラアリキ。
ナレドモカヽル反抗ハ氏ノ予期セラレシ所ナリ。何条驚クベキ、氏ハ諄々トシテ此工場ヲ起スノ国利民福タルベキコト、況ンヤ其ノ全国ノ民福ヲ起スノ本源タル此ノ富岡ハ後来殷賑ノ町村タルベキコト、元来土地ノ繁盛ヲ子等ニシテ喜バヽ子等ノ喜ヲ喜ブべキ天狗等モ亦共ニ其ノ繁華ヲ喜バン。然ラバ何ノ祟禍カアラン。子等ノ之ヲ云々スルハ会会天狗ノ精神ヲ知ラザルニ坐スルノミト。
此ノ説諭ハ効ヲ奏シテ果テハ土民モ町民モ其ノ伐出シニ異議ヲ称ヘザリキ。然ノミナラズ僥倖ナリシハ其ノ伐採ノ日ニ風害ノナカリシコトナリ。了解良キ土民等ハ愈々之ヲ天狗ノ祐助トシテ今ハ却テ此ノ工事ニ身ヲ入ルヽ如クナレリ。好個ノ天狗ヨ、彼等ハ建築ノ原料タル数万
 - 第2巻 p.513 -ページ画像 
本ノ杉ノ巨材ヲ数月ナラザルニ此ノ普請場ニ山ト積マセタリ。
木材ハカク集リタレドモ其ノ館ヲ築キ立ツベキ煉瓦ナシ、無キモ道理、当時ノ日本ニハ未ダ煉瓦テフ文字ナカリシナリ。文字モナキ煉瓦ヲ新ニ作ラザルベカラズ。依テ氏ハ其ノ郷里(下手計村)ニ近キ明戸村ナル韮塚直二郎ニ命ジ、同村ノ瓦師ヲ同導シテ、富岡ニ来ラシメ、「ブリユーナ」教師ヨリ煉瓦ナルモノヽ性質、形状、焼方等ヲ説明サセ、其ノ説明ニヨリテ手ヲ分ケテ先ヅ其ガ原土ヲ捜索シ、幸ニシテ之ヲ富岡ノ東方一里ナル福島ノ町ノ小丘ニ得タレバ、即チ其処ニテ焼キ立テタリ。
(其ノ製出ノ多キ此ノ小丘ハ後ニハ平地ニナレリト云フ)
カクシテ煉瓦ハ得タリ、然レドモ《(イ共)》之ヲ工場等ノ図様ニ照シテ組上ゲントスルニ「セメント」ナシ。然モ此ノ「セメント」ナルモノハ煉瓦ト異リテ、急造ヘノ間ニ合フベキモノナラズト云フ。ナレド氏ノ慧眼ハ疾ク其ノ物ノ性状ヲ聞キ得テ我ガ漆灰ナルモノヽ之ニ代用スベキ物ナルコトヲ悟リ得ラレタリ。但シ夫ニハ此ノ「セメント」的漆灰ヲ調製スべキ泥土ノ名工ナカルベカラズ。天幸ナル哉、此ノ名人アリ、其ノ手計ニ住ム左官職堀田鷲五郎及ビ其ノ子千代吉ノ両人ナリ。氏即チ彼等ヲシテ工夫セシメテ漸クニシテ其ノ材ヲ得テ竟ニ洋館三棟ノ落成ヲ見ルニ至レリ。而テ其ノ建物タル実ニ我国ニ於ケル煉瓦家屋建造ノ嚆矢ト云フベキモノナレバ斯道ニ於ケル名誉ハアラン。然レ共其ノ作業ノ困難、真ニ言語ノ外ナリシト云ヘリ。
明治五年二月民部省ハ富岡製糸場建設工事落成ノ期近キヲ以テ工女募集ノ議ヲ決シ、翌三月ニハ富岡製糸場ノ繰糸ニ要スル原繭ハ一時同地ノ近傍ノ繭ヲ買収スルノ議ヲ決シ、之ガ順序ヲ設ケ方法ヲ立テ、勧業寮ヨリ次第ヲ群馬、入間、埼玉、栃木、長野ノ五県ニ通牒ス。
カクテ製糸工場一棟、繭置場外ニ工女ヲ宿スベキ部屋、役所、倉庫、乾燥場、貯水池等モ漸次竣工シ、六月ニハサシモノ大建築モ殆ド工事ヲ竣ルニ至レリ。
尾高氏当日ノ作ニ曰フ
      富岡
  遠望近観呼快哉  俄然高厦現霊台
  皇猷嘉納西洋術  移得斬新奇器来
  生糸海外有声望《(イ誉)》 今復製場開豁如
  造物従来如着意  富岡之号遂非虚
カクテ同月大蔵省ハ事業其ノ緒ニ就クヲ以テ左ノ製糸諭告書ヲ印刷シ各府県ノ当業者ニ其ノ趣意ヲシテ貫徹セシメンガ為メ之ヲ頒ツ。
  日本ノ物産ニシテ交易ノ大ナルト金高ノ上ナルトハ生糸ニ過グルモノナシ、外国人モ之ヲ尊ビ、御国中ノ利潤トナルコト之ヲ以テ第一トナス。然ニ御国ノ生糸、如此上品ナルハ土地ノ宜シキ故ニシテ其ノ製法ニ至リテハ只人ノ覚エシ手心ヨリ出来セルモノニシテ其ノ法未ダ詳シカラズ。近年交易ノ繁盛スルヨリ、粗悪ノ品次第ニ多ク其ノ上御国中一様ナラズ。品柄宜シカラザレバ、外国人モ之ヲ尊バズシテ値段モ次第ニ下落シ、交易ノ利分モ大イニ減少ス。其ノ損失ハ唯ニ糸ヲ製スル者而已ニ非ズ。自然不融通トナルナリ。然ルトキハ御国第一ノ品柄ヲ落シ、其害全国ニ及ビ貧困ノ
 - 第2巻 p.514 -ページ画像 
基ヲ生ズ。歎クベキコトナラズヤ。右ニ付朝廷万民ノ為メ被思召此ノ貧苦ノ基ヲ去リテ家々富饒ノ利ヲ得セシメントノ御趣旨ヲ以テ上野国富岡ヘ多分ノ入費ヲ掛ケ盛大ナル製糸場ヲ御建テ被遊、仏蘭西国ヨリ生糸製造ノ師ト男女ノ職人数名ヲ雇入レ当夏ヨリ無類精巧ナル生糸ノ製造ヲ御始メ被成、御国中製糸ニ志アル者ヘハ士民ヲ論ゼズ、熟覧ヲ許サレ、此ノ製糸場ニ於テ女職人四百人余御雇相成製糸ノ法ヲ学バセラル可キニ右女ハ外国人ニ生血ヲ取ラルヽ抔ト妄言ヲ唱ヒ人ヲ威シ候者モ有之由以テノ外ノ事ニ候、右女職人ハ製糸術伝習ノ上ハ御国内製糸ノ教師ニ被成度御趣意ニ候得ハ決シテ無疑念伝習ノ為メ差出可申妄言ニ迷ヒ候テ御趣旨ニ悖リ候様ノ儀無之様可致、此ノ製糸ニ斯ク迄入費ヲ掛ケ盛ニ開カレ候御趣意ハ前文ノ通リ御国製糸ノ品万国ニ勝レ永遠ノ御国益ト相成リ全国民ヲシテ富饒ノ利ニ潤センカ為メニテ只今ヨリ御世話被成候儀テ《(ニ)》テ決シテ下民ノ利ヲ上ヨリ奪ヒ候様ノ訳ニ無之御場所悉皆成就製糸ノ術習熟ニ至り候ハヾ民望ノ者ヘ御払下モ被仰付度御趣意ニ候間郡村製糸ノ者ハ不及申四方ノ人民厚ク御趣意ヲ弁ヘ製糸ノ術ト伝習ニ心ヲ入レ精巧ノ品多分出来候様有之度候也
   二、富岡製糸場ノ開業
建築ハ成レリ、然モ其ノ規模ノ広大ニシテ、造工ノ神工鬼斧的ナルニハ観ル者、誰トシテ打魂消ザル者ナシ。此ハ然モアリヌベシ、当時ノ建築ノ至大ナルモノヲ、東武ニ於テハ築地・浅草両本願寺ノ別院トス。然レドモ其等ハ皆木造ニシテ煉瓦ニ非ズ。況ヤ約三百坪ニ近キ大工場二本ノ支柱ヲダモ用ヒデ、其ノ堅牢巌ノ如シト云フニ至リテハ彼ノ上武信野ナル男女ノ眼ニ什麼許リカ奇異ノ感ヲ与ヘシゾ。
カクテ東洋ノ天地ニ器械製糸ノ模範工場ガ初メテ汽笛ノ音高ク産声ヲ上ゲタルハ実ニ明治五年十月四日ノ事ナリキ。
其ノ高サ十数丈ナル蟒蛇ノ如キ烟突ヨリ黒濛々タル煤烟《(イ煙)》ヲ噴キ其ノ熱ニヨリテ重量幾万貫ナル機械ノ疾風ノ如クニ運転ナス等ハ、其ノ形勢ヨリスルモ其ノ操作ヨリ見ルモ、到底人間業ナルモノトハ思ハレズシテ珍シト云フヨリモ、彼等ハ寧ロ凄ジト覚エタリ。乃チ是ゾ彼ノ恐シキ切支丹ノ魔法ヨ!トハ衆口符ヲ合セタル如クニシテ観ル程ノ者ハ目ヲ惻メ、聴ク者ハ為メニ其ノ唇ヲ戦カサヾルモ無カリキ。
先ヅ尾高惇忠主任トナリ、御雇女工「ヒエホール」「モニエー」「シャレー」「バラン」ノ四婦人ヲシテ、工女四人ニ繰糸ノ術ヲ教ヘシメ、順次其ノ二十人ニ及ビ、其二十人亦授受シテ百五十余人ノ伝習ヲナシ、 ク一半隊ヲ充ス迄ニハ少カラザル日子ト容易ナラザル骨折トヲ要シタリ。初メ政府ハ明治五年九月ニ水沢県、岩手県、宮城県、秋田県、磐前県、山形県、若松県、福島県、置賜県、酒田県等ノ各県ニ有志ノ者傭女ヲ入進スベキ旨ヲ布告シ、又諭ヲ北陸道十県ニ下ス等頗ル勧誘ニ努メタリ。即チ左ノ伝習工女雇入方心得書ニ就イテ見ルベシ
  御国内製糸良好ノ品出来候為メ今般上州富岡ヘ盛大ノ製糸場御建築相成此程ヨリ製糸開業相成、仏蘭西男女教師御雇入ニテ夫々御国内婦女子ヘモ伝習為致候処其県管内ニ於テモ従来製糸等営来リ業前未熟ノ者ハ別紙工女雇入心得書ニ照準シ人選ノ上名前取調ベ
 - 第2巻 p.515 -ページ画像 
差出可申尤モ追テハ養蚕多分有之地方ヘハ製糸場モ施設致度其節ハ繰糸ノ教師ニモ可相成人物ノ儀ニ付夫是差含人選方針取計来十一月二十九日迄ニ当人共富岡製糸場ヘ差出可申事
  (別紙)
  富岡製糸場繰糸伝習工女ノ雇入方心得書
一、年齢十五歳ヨリ三十歳迄人員十人ヨリ十五人迄ヲ限リ候事
一、上州富岡迄旅費ノ儀ハ自分賄ノ事
一、御雇中居所ノ儀繰糸場中ニ為取締一構ノ寄宿舎設置、三人ヲ一部屋トシテ御賄被下夜具其他都テ御貸渡シ、五部屋ニ付小使女一人附被下且日々入湯為致候事
一、一等工女給金二十五両、二等同断十八両、三等同断十二両ヅヽ被下候事
  但製糸場ヘ着ノ上一ケ月間業前ニ体馴不馴等相正シ本文一等ヨリ三等迄ノ等級相定候事
一、天長節並ニ七節其外月々日曜日休暇ノ事
一、工女取締向ノ儀ハ日々繰糸業初メ休暇遊歩等ニ至ル迄一定ノ規則設置致置婦道ニ背戻候所業等ハ聊モ無之様掛官初メ工女取締老女ニ進退為致候事 以上
然レ共恐怖ニ胚胎シタル一種ノ風聞ハ工女ノ募集ニ絆縁シテ此ノ近傍ニ産ミ出サレ当事者ノ知弁モ其ノ蔓延ヲ止ムルニ由ナキ迄ニ衆人ノ耳朶ヲ襲ヒタリ。其ハ他ニ非ズ。彼御雇ノ異人共ハ実ハ魔法使ノ悪鬼輩ニシテ彼ノ御触ニ応ジテ過チテ年若ノ工女ヲ彼ノ工場ニ入レムカ可愛ヤ其女達ハ忽チ徒等ニ生血ヲ絞ラレテ其ノ生命ヲ断タルベシト云フニアリ。而テ其ノ悪説ノ出所ハト問ヘバ、土人ハ風説ニ非ズ現ニ目撃シタリト云フ。如何ナルモノヲ見タルカト更ニ問ヘバ、別ニモ非ズ彼等ノ飲ム血酒!ト云フ。猶熟ク訊セバ無惨!ソハ日用ノ葡萄酒ナリキ。百方其ノ妄ヲ弁セシモ其ノ猜疑ヲ解キ得ルノ法ナキノミカ、為メニ工女ノ募集ニ応ズルモノ「一人モ無シ」ト云フ。実ニ当時ノ血酒説ハ非常ノ勢力アルモノニシテ婦女童幼ハ言フニシモ及バズ、物ノ心ヲ知レル人ニテモ「耶蘇ノ邪法ニ中テラレテ当町民ハ冥々ノ中ニ其ノ生血ヲ盗マレツヽアリ。現ニ我等ガ身体ニテモ近来ハ滅切リト其ノ量ヲ減ゼルヲ覚ユ」ナド恥シ気モ無ク言ヒ合ヘリ。今日ニアリテハ之ヲ語ラバ人或ハ虚言ト云フラムモ、当時ニアリテハ真面目ノ実話ナリキト。
サレバ新築ノ大工場モ巍然タル偉観ヲ呈セルハ唯其ノ外構ノミニシテ内部ハ寂トシテ人アルヲ見ズ。其ノ僅ニ繭ヲ繰リ、糸ヲ製スル者トテハ、御雇ノ仏国工女四名アルノミ。其ノ情景ノ惨、殆ド酸鼻ニ堪ヘザルモノアリキ。此ニ於テ態々東京ヨリ旧幕府ノ与力同心等ノ子女ヲ雇入レ漸ク百官有余人ヲ得タリ。然レトモ此ノ人数ニテハ到底仕事ヲナス能ハザルヲ以テ奥州ノ会津・米沢・仙台等ヘ命ジ恰モ今日兵士ヲ民間ヨリ徴スルガ如ク役当工女ト称シ、強制的ニ工女百余名ヲ集メタレドモ未ダ三百人ヲ充タザレバ、其ノ任ニ当レル尾高氏ハ先ヅ郷里ヨリ己ガ最愛ノ娘ヲ招キ寄セ工女トナシタルト、此ノ頃ニハ彼ノ血酒説ノ酔ヒモ醒メ、且ツ政府ガ大金ヲ投ジテ、此ノ模範工場ヲ建設セル趣意モ粗々民間ニ知レ亘リタル等ニ因リテ、忽チ応募者増加シ、明治六年一
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月迄ニハ雇入寄宿工女名薄ニ登リタル者
 群馬県 二二八名  入間県  九八名  長野県  一一名
 橡木県   五名  東京府   一名  奈良県   二名
 水沢県   八名  置賜県  一四名  宮城県  一五名
 静岡県   六名  浜松県  一二名  酒田県   三名
 石川県   一名
    合計 四百四名トナレリ。
カクテ新式ノ器具ト術師ノ薫陶宜シキニ適ヒタルヲ以テ、旧習古慣ヲ脱洗シ工場ノ一半隊既ニ全ク成リ、余ノ一半隊モ漸次備ルベキノ機運ニ向ヒ、斯業ニ熟達シテ稍々女工師ニ亜クべキ工女二十二人ヲ得タリ。カクシテ製出セル生糸ヲ初メテ欧羅巴ニ輸出セシニ東方亜細亜ノ日本ト称スル国ノ生糸ハ従来ハ粗製濫造ノモノナリシガ、今日ニテハ玲瓏玉ヲ欺ク如キ優良ナル生糸ヲ造リ出シタリトテ、全然信用ヲ恢復シ、仏国ノ里昂、伊太利ノ「ミラン」等ニ於テハ大イニ驚嘆シ、開場日尚ホ浅キニモ拘ハラズ、「富岡製糸」ノ名ハ米仏ノ市場ニ多大ノ歓迎ヲ受ケテ諸方ヨリノ注文ハ此ノ絶大ノ工場スラモ、尚ホ其ノ嚥下ニ苦シムモノアルニ至レリ。噫、一事業ヲ創メテ其業成リ其ノ華主先ニ歓迎セラレテ、其ガ注文ニ応ジ兼ヌル等、算盤上ノ利不利ハ別トシテ、誰カ大得意ノ頤ヲ撫デザランヤ。是ニ於テ、明治六年一月工女十八名ヲ選抜シテ製糸セシメ、忝クモ之ヲ叡覧ニ供シ、且ツ澳太利博覧会ニ出品スルニ至レリ。
之ガ建築費及ビ諸用費ヲ算スレバ、実ニ金十九万八千五百七十二円ノ巨費ニ上レリ。但シ此ノ間ニ関渉スル官員ノ給俸及ビ旅費ヲ除キテ、御雇仏国人明治五年十月開業迄ノ給料、賄料共ニ算計スル所ナリ。嗚呼、朝廷一時ノ巨費ヲ顧スシテ万世ノ大利ヲ興スヲ得ルモノ、豈盛挙ト謂ハザルベケンヤ。
  因ニ曰ク、富岡製糸場ハ明治四年八月二十三日大蔵省中勧農寮ノ所管トナリタルヨリ、以来同寮ガ専ラ之ヲ管セシモノナレドモ、明治五年十月九日勧農寮ヲ廃シ其ノ事務ヲ租税寮ニ移シ、十月租税寮中ニ勧農課ヲ置キ、次テ勧農課ヲ改メ勧業課ト称ス。六年一月ニ至リテ租税寮附属勧業課中生糸取締、印紙、鑑札、富岡製糸場、堺製糸場凡テ該課ニ各掛部ヲ設ケタリ。


雨夜譚会談話筆記 上・第五八―六〇頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月(DK020134k-0004)
第2巻 p.516-517 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第五八―六〇頁 大正一五年一〇月―昭和二年一一月
先生「○中略 横浜の生糸輸出商にガイセンハイメルと云ふのがある、一般にオランダ八番と云つたが、それが専ら日本の生糸を買つて輸出して居た。其店主であつたか、支配人であつたか、日本生糸の製造が粗末な事を指摘し、日本製糸は横糸には使ヘるが縦糸には使ヘぬ、糸の太さが揃はず、斑があり、繋ぎがよくない、それは何れも製糸の方法が悪いからだと云ひ、立派な工場をつくらなければならない、そして欧洲の有様は斯う斯うだと色々説明したので、日本でも其方法を採用せねばなるまいと云ふことであつた、或る日、大隈重信氏が大蔵省で、例の通り喋つて製糸のことを述べて居たから聞いて居ると、随分間違つたことを云つて、殆んど養蚕や製糸の実際を知
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らぬ模様であつたから、私は実際やつて来たこと丈けに大いにそれを説明したので、私が養蚕通であると評判を取り、オランダ人の勧めに従つて製糸改良の為め工場を富岡に建て、前橋の人で速水某をして実地に当らせ、私が此改良係を引受けた様な訳である、従つて大蔵省の高等官中で養蚕のことを知るのは渋沢だと云ふことになつて居た。○下略」


世外侯事歴 維新財政談 中・第一七五―一七七頁 〔大正一〇年九月〕 富岡製糸場の創設 男爵 渋沢栄一 侯爵 井上馨 伯爵 芳川顕正 佐伯惟馨 談話(DK020134k-0005)
第2巻 p.517-518 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中・第一七五―一七七頁
  富岡製糸場の創設
          男爵 渋沢栄一    侯爵 井上馨
                           談話
          伯爵 芳川顕正      佐伯惟馨
渋沢男 明治三年頃に、富岡製糸場を創設するについて、ブリユナーといふ外国人を雇ふたことがある。併しブリユナーは、私の発音が違ふかも知らぬが、横浜にガイセン、ハイメルといふ、蘭八と称へる商館がありまして、其人は独逸人でありましたが、仏蘭西で商売をして居るので、仏蘭西八番と称へて居つた。其処のインスペクトルをする人で、ブリユナーといふ人があつて、それを雇ふやうになつたから、文字の上ではブリユナーが一番主のやうでありますけれども、一番の起りは多分大隈さんが、ガイセン、ハイメルといふ人から勧められて、どうしても此糸の模範的工場を建てるが宜からうと云ふことを考へられて……
井上侯 あれは私が大阪に居る時。
渋沢男 まだ此方へ来て任務をお執りになる少し前。伊藤さんが亜米利加へお立の少し前です。だから閣下は是に就ては、後にはお指図がありましたけれども、初には関係が無かつた。一番初は大隈さんが蘭八から勧められて、糸を改良する必要のあるといふ事を、大蔵省中で意見を述べられた。其時養蚕の事に就て知つて居る人が、一人も無かつたのです。残らず無かつたではないか知らぬが、大隈さんなどが寄せて話をするのは、大抵は大丞、少丞、局長といふやうな向の人で、其時に紙幣寮とか、租税司とか、或は何司とか云ふものゝ頭に立つ人は、特に寄せて相談なさつた事があります。幾人寄せられたか、それは覚えて居ないが、其話があつたのです。其時私が養蚕の事を能く知つて居つた。それで話が誠に迂遠な事ばかり言ふてござる御方が寄つて居る。抑々養蚕と云ふものは何で出来るのか、工学であるか、化学であるかと云ふやうな議論が出る。そこで私はよく知つて居るものだから、そんな事を仰しやつて居るやうでは、米のなる木は大木であるか、小木であるか位の話になつて、一向納りが付きませぬ、養蚕といふものは斯う云ふ訳のものだと云つて私がお話した。さうしたら大隈さんが、「君は法螺を吹くのか」と云ふ様な事で、イヱ法螺じゃない、私は能く知つて居ます。それなら一つ養蚕の事に就ては、君を煩はさうと云ふことで、私が掛りを吩咐かつたので、大分そのガイセン、ハイメルといふ蘭八と引合ひました。それで愈々何処が宜からうかと云ふに付て、若し此事を御採用になるならば、適当な技術家をお勧めしませうと云つて、今
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のブリユナーを紹介された。それから、ブリユナーに引合つて見ろと云ふので、ブリユナーと館主とに、私が命ぜられて主なる引合をしたやうに覚えて居ります。(明治四十五年五月二日)


大日本蚕糸会報 第二〇〇号 〔明治四二年一月〕 余の蚕糸業に対する経歴及希望(男爵 渋沢栄一)(DK020134k-0006)
第2巻 p.518-519 ページ画像

大日本蚕糸会報 第二〇〇号 〔明治四二年一月〕
 余の蚕糸業に対する経歴及希望 (男爵 渋沢栄一)
  今より四十四五年前の飼育法
 余は元来農家に生長した者であるけれども今日は直接養蚕に関係をして居らぬ、併し蚕糸業に対する趣味は今尚持つて居るのである、然して余の養蚕業を経営したのは二十二三才迄であるから今よりザツと四十四五年計り前の事である、故に飼育法の如きも余程替つて居るであらうと思ふ。
 余が郷里に居た時分の飼育法は温暖飼育と云つて盛に火力を使た者である、余の母は大層力を入れて温暖飼育法を主張せられたが今から見れば或は古風の方法で取るに足らぬかも知らぬが、併し当時は汎く行はれたものであつて、然も立派な繭が取れたものである。
  余が蚕種を製造した時代の蚕種業
 余の生家は埼玉県に属するけれども、上州島村の南に当て一里計りの所である、島村は有名な蚕業場であつて蚕種を業とする者の多い処であるから余の家などでも蚕種を製造した、其頃の蚕種家は皆蚕種箱を担いで秋から翌年の春にかけて得意廻りをして其歳の蚕業の豊凶を視察し、前年の蚕種代を集めたものである、其の時に当りて豊作をした養蚕家は御前の御蔭で良い繭が取れたと云つてほくほく喜んで呉れるが扨失敗した養蚕家に成るとまづい顔をして様々に小言を云ふのである、今から之を追想して見ても随分苦心惨憺なものであつた、で其頃の養蚕家の智識は幼稚であつたから一般の飼育法も亦当を得ぬ者が多い、蚕種が善くても飼育が悪ければ失敗するから勉めて飼育法の講義をして廻たものである、寒暖の気候を我が身に引き当て、恰も赤児を育つる様な考で飼育せぬといけぬ、空気の鬱滞や〓桑の湿気などは宜敷ないから窓の明け立て温暖の加減に注意し蚕座の清潔を図り濡桑泥桑などを与へては腐蚕を生ずるの恐れが有るなどゝ云つて教て廻つたものである。
 其頃の農家の養蚕は国の為になるとか、又は経済上の必要抔と云ふ公共的の考ではない、少しでも蚕を飼へば絹の着物の一枚も着らるゝとか、小使取りが出来るとか、或は善い繭を取て人々に褒らるゝのが嬉しいとかと云ふ単純な意味の下に行たものである、夫れでも善く出来ると出来ないとでは蚕種家に接する態度が違たものである、況して今日は小にしては一家の盛衰大にしては一国の経済に影響する大事業として熱心に経営する蚕が失敗したと有ては蚕種家が受る小言も尠くあるまい、蚕種家の身になつても随分心配で其の責任も亦重しであるから、十分の注意を払つて精良の蚕種を供給する様にありたいと思ふ。
  余は如何して富岡製糸場設計監督の任に当りしか
 前に述べたるは余が先年養蚕を実際に行ひ蚕種製造に対する経験もあるからのことであるが、製糸と云ふ事に就ては何等の実験も持たぬ、
 - 第2巻 p.519 -ページ画像 
併し明治三四年余が大蔵省に奉職せし時に於て間接に生糸製造に関係する様になつて大に之に趣味を持たのである、御承知の如く明治の始の頃は日本から海外へ輸出する生糸は僅少で有たが何人も生糸を以て一国の需要輸出品《(重カ)》として奨励せねばならぬと云ふ考を持ち余も亦同様の考を持た、当時余は大蔵少丞で有た、時の大蔵大輔たる大隈伯は製糸奨励の為に模範製糸工場を設置する事を企図されたが、大蔵省内に誰か養蚕の事を知つて居るものは居らぬかと尋ねられたから、余は養蚕製糸に稍心得があると云つて出たのが縁となり、爾来養蚕製糸に関する問題は必ず余が参与する事となつた、其の頃我国から輸出した生糸は伊太利で出来る様な精良の生糸ではなかつた、総て皆座繰取であつて、欧羅巴風の機械取はない、故に「デニール」の揃はぬ生糸のみであるから需要地に於て僅に緯糸として消費せらるゝに過ぎない、之では一国の重要輸出品として其の販路を拡張する訳に行かぬから是非伊仏のやうに器械製糸に改めて以て経糸として立派の生糸を産出する様にしなければならぬと云ふので、先づ富岡製糸場を設立する事になり、之が設計監督の任には悉皆余が当つたのである、之は明治三年の頃であつたが外商和蘭八番「ガイセンハイメル」を介して「ブリユナー」と云ふ技師を雇ひ尚伊太利からも技術者を連れて来り器械をも買入れて来て富岡に模範製糸所を起し実際的に範を天下に示した、之が抑々日本に於ける器械製糸の濫觴である。
  今日の蚕糸業は如何にして発達したるか
 然れども附近の人々アレは御役所の仕事で損得に関せぬから出来るが、到底吾々の真似し得る事ではないと云つて顧みなかつた、で有るから、之が為に直接大に改良されたやうにも見へなかつたのであるが、併し之が動機となつて信州にも奥州にも各所に器械製糸場が起つた、而して今日全国到る処に汽笛の声を聞かざるなしの盛況を見るに至たのは実に快心の事である、又此間に於て一の面白い現象を見たのは明治十二三年の頃奥州筋には政府から金を賃して製糸場を立てさせたのが幾箇所もあつたけれども官の保護に依て出来た者は皆潰れて仕舞つて今日其の影だに止めざるに反し、保護も何も受けずに民間で立てたものは皆成功して居る、信州諏訪の各製糸場なども初めのことは知らぬが片倉林小口などゝ云ふ人々が独立独歩で奮闘した結果が今日の盛況を来したのである、又彼の上州の座繰生糸が貿易市場に隠然たる勢力を有するやうになつたのは、碓氷甘楽下仁田社等の民間に於ける施設経営が発達した為めである、他に依頼して計画した事業よりは独立独行で計画した事業の方が寧ろ成功すると云ふ事は之に依て明に証明せらるゝのであるから、他に依頼心のあるのは褒めた事ではない、併し今日の如く製糸業の発達を見るに至りしは、全く明治の初年政府が奨励の種を蒔いたからである。○下略


生糸経済研究 第ニ号 〔昭和三年三月〕 【生糸経済座談】(DK020134k-0007)
第2巻 p.519-522 ページ画像

生糸経済研究 第ニ号 〔昭和三年三月〕
○上略 蚕業は日本の国と致しましては海外貿易の主たるもので、私は大蔵省に職を奉じてゐた時分から既に蚕業については多少力を用ひたのであります。明治初年頃にパークスといふイギリスの公使が日本に来
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てゐました。大変短気な人で極くアクチーヴな人でした。却々八釜しい叱言を言ふ人で或る場合には横車を押したなどと言はれたが、日本のためにはなつた人であります。その人の代理公使でアダムスといふ人が日本に来てゐました。別に偉い人ではないやうでしたが多少学問のあつた落付いた人でありました。そのアダムスについて非常に面白いことがあります。御承知の如く蚕児が繭を作つた後にその繭の蛹が蝶になるのと蛆になるのがあります。蚕児が繭は作つたが、その後の蛹は蛆のために喰はれて居るのであります。私共にはその理窟は判らなかつたが、我々の百姓研究では桑の性質に依つて蛆になるものと信じて居たのであります。蚕の虫が繭を造つてその中で蛹になり、蛹が蝶に変ずる、それが蝶にならぬ為に蛆になつてくるのであります。それを我共は蛆は蛹から生ずるものだと思つてゐたのであります。所がアダムスは決してそうではない、蝿が蚕の身体に種を植付けて置く、それが蚕が蛹と変ずる時は彼の蝿の産みつけた卵が蛆となり、蛹の中へ寄生して居る、それが段々と成長するに随つて蛹を殺してしまふのであると言はれ、大変アダムスと議論をしました。アダムスが言ふに『貴方は昆虫学を研究したか』と言ふ。『昆虫学の原理からして自然に虫が生ずるなどゝいふことはない。貴方は日本ではそれがあると言つても私はどうしても同意出来ない』といふのであります。勿論私は昆虫学など研究したのではなく唯だ百姓学問で論じてゐたのですつかり閉口したことがあります。丁度富岡製糸所の出来た頃であります。
 生糸を海外へ輸出するといふことは維新以前の貿易に於ても唯一の事でありました。元来日本の養蚕は気候に適し、地味もよく、従つて桑も成育するのであります。維新になつて貿易の進歩を図るについても生糸貿易の一層大切なるを痛感し、それにはどうしたらよからうかといふことになつた。当時の糸は製造が余り粗末でどうしても西洋の縦糸にならない。従つて値段が安い。それには是非デニールを揃へねばならない。デニールを揃へるには糸の取方を違へねばならぬ。これには何かよい方法はないかといふので、明治三年頃大蔵省で頻りにこの蚕業に対して――特に製糸に対して改良を加へなければならぬといふことが主として論ぜられたのであります。これを主唱したのは大隈さんが大蔵大輔として、伊藤さんが大蔵少輔として全権を握つて居られたのであります。それで生糸の改良を頻りに論ぜられて居りました。その頃前橋辺りで速水堅曹さんと云ふ人が養蚕製糸のことを論ぜられてゐました。伊藤さんもよく外国人から生糸の改良をしなければならぬと云ふ注意を受け、聞学問で製糸改良のことを論ぜられたが、しかし大隈さんも伊藤さんも蚕といふものは少しも知らないのであります。私は多少知つて居りましたが私の職は低く二人の支配を受ける方でありました。お二人共頻りに講釈はするが、聞学問であるから間違つたことばかり言つてゐる。そこへ私が出ると『渋沢も幾らか養蚕のことを知つてゐるか』と言はれたので、『私も少しは知つてゐる』と言ふと、『どうしても製糸を改良しなければならぬ』『如何にも左様であります』『それにはどうしたらよいか』といふやうなことの講釈がありましたので『甚だ失礼だがあなた方は蚕と云ふものを土台知らない
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でせう。仰つしやることが間違つてばかりゐる』『君だつて知るまい』『いや私は知つて居る』『何そんなことを言つても知つてゐるものか』『それでも私は百姓ですから』といふので私は蚕の概括的なお話しをし、生糸の改良といふことは却々難しい。費用も余程要るし、辛棒も要ると思ふが、やつた方がよろしいと思ふ。しかし吾々には一寸案が立たない。オランダ八番のカイゼルハイメルといふ人に相談して見ると『今のやうなことではヨーロッパ、アメリカに行つて縦糸にならない。それを直すには政府で模範工場を造つて、世間をこれに傚はせるやうにすれば、商売もしよいし、国の為にも大変に利益だ。それには糸の扱ひを知つてゐるものが居なければならぬが、日本には本当にデニールの揃つた糸の扱方を知るものが居ないから、私の知つてゐるフランス人でブルナーといふ人があるからその人を傭つてやらなければならぬ』といふのでその人を傭ひ、富岡製糸場を起したのは多分明治三年と思ひます。
 初めは前に述べたやうなことで大隈さん、伊藤さんの経済観念から起つたのですけれども、事余りに熟知してござらんものだから、『まあ貴様が主任になつて大いにやれ』といふので、指揮は受けたが、しかし大体のことは私が世話人は勤めましたが、私の知つた人で局長のやうなものをつくつて富岡製糸所が出来ました。続いて地方地方に、福島県ばかりだつたか、他の県もあつたか十六ケ所ばかりありました。幾らか金を出して試験的に、これ程のものではなかつたが、先ずその大体の費用をそれによつて、日本風の二つ取りといふ趣向でなく、本式の製糸方法を以てやり出す場所を経営したのであります。それが生糸改良の一革新といつてもよいでありませう。模範的に工場を経営させ、こうすればこういふ生糸が出来るといふことを示してやつたので、あれを以て営利忙しやうといふのではなかつたのであります。しかし私も間もなく大蔵省を辞しましたから、後のことは詳しく知りませんが、原富太郎さんが引受けて今でも原さんが経営して居ります。富岡に場所を求めたのはブルナーに撰定させたのでありまして、何処がよからうというので各地を視察させ、福島にも信州にもやりましたが、信、上、岩代の三ケ所を調べた結果、富岡が一般に向つて教授する上にも範囲が広いといふので決定した訳であります。生糸改良については明治三年頃からの話で追々にそれが成功したが、あの場所に於て大いに利益を上げたといふことは申されません。けれども兎に角完全な生糸が出来ることになりました。その一つの成績によつて、あそこにも、こゝにも本式な製糸場が出来て来たといふことは事実でありますから、日本の生糸改良の上に模範になつたといふことは言ひ得るだらうと思ひます。しかし富岡製糸所と云ふ事について利害得失を論じたならば、寧ろ損がいつた。あれだけのものを若し私人として経営したならば余程の失敗に終り、その人はことによつたら破産したかも知れぬといふことになる。但し一般に向つて模範的の仕事をしたと云ふ方から云へば、己れは損をして一般を利したといつた方がいいだらうと思ひます。それから進んで来た有様は悉くは覚へて居りませんけれども、今お話した福島県下の小さい製糸工場の出来たのも、富岡が
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始終模範になつたといふことは事実のやうであります。
 ブルナーは生糸を鑑別することが非常に上手でありました。当時の西洋人を傭ふといふことは多少の問題ではあつたが、吾々は却つて斯くした方がよいと思ひました。若しも大隈さん、伊藤さんでなかつたならば、外国人を傭ふといふことは或は困難であつたかも知れぬが、これらの人が本筋に学んだ者にやらせるがよからうといふので傭入れることになつたのであります。○下略
   ○右ハ「生糸経済座談」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


青淵先生伝初稿 第七章五・第五四―六一頁〔大正八―一ニ年〕(DK020134k-0008)
第2巻 p.522 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章五・第五四―六一頁〔大正八―一二年〕
富岡製糸場の設立も亦先生の力によりて成れるものなり。初め明治三年の春、先生が民部省改正掛に在りし時、製糸改良の議省中に起れり是れ当時蘭八と称へたる、横浜なる仏蘭西八番商会主ガイセン、ハイメルといヘる者、之を大輔大隈重信に勧告せるに基けりといふ。生糸は我国重要の輸出品なれども、其製法甚だ粗悪なりしかば、此勧告ある亦故なきにあらず。一日大隈は省中の有司を会して蘭八の言を伝へ、欧米の製に倣ひて改良せんとて、人々の意見を徴したれども、有司等概ね皆製糸の事に通ぜざれば、要頒を得ざりしに、独り先生の所説肯綮に中りしかば、大隈大に喜び、先生に命じて其事を専当せしむ。先生乃ち屡々蘭八と会して諸般の指導を仰ぎたる後、洋式の製糸工場を設立し、且つ其推薦により仏人ブリユナーを技師に雇傭するの議をも定めたるが、幾もなく大蔵・民部両省分離の事あり、製糸の事業は民部省の所轄に移り、先生は大蔵省に転じたれども、なほ命によりて特に之に参与せり。此前後ブリユナーは奥州・上州・信州等の各地を巡視して、工場の敷地を選定し、上州富岡の適当なるを答申しければ、遂に其地を買収して、大規模なる工場の建築に著手せり。四年五月四日先生より在米の伊藤博文に寄せたる書翰に、「生糸製作所も上州富岡と相定て、当節専ら造作中に御座候、当年の新繭を御買取、試相始可申と存候、是は随分評判よろしく候」と見ゆ。四年七月工場は大蔵省勧業司の所轄となり、八月勧業司廃せられて勧農司に属せり。此時先生大蔵大丞として省中の枢機に参与したれば製糸工場の施設に関し、献替の力を致せること多かりき。是より先に尾高藍香は、明治三年四月民部省監督権少佑に任ぜられ、後庶務少佑に転じ、同年閏十月以来製糸場掛を命ぜられて、専ら経営の衝に当り、諸般の事務皆其手に出づ。庶務司廃して勧業司又は勧農寮の所轄となるに及び、又官を大蔵に転じ、旧に依りて製糸場の事に鞅掌せり、蓋し先生の推挙に係れるなり。かくて工場は歳を閲すること二年有余にして落成せしかば、五年六月開業の式を挙げ、工女三百余人を募りて繰糸の式を伝習せしむ藍香工場を主宰し、ブリユナー技術を担当し、仏国より招聘せる四名の女工を教師として、欧洲製造の新式機械を運転せり、之を富岡製糸場の起立と称す。当時機械製糸の事、他に類例なきにあらずと雖も、規模の宏大にして、施設の完全なるもの、富岡に及ぶ者なく、世人目を聳てゝ驚歎し、模範工場の名、都鄙の間に聞ゆ。其所管は屡転換して、後遂に内務省に属し、今は民間の経営に帰したり。
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大隈侯八十五年史 第一巻・第三三〇―三三一頁 〔大正一五年一ニ月〕(DK020134k-0009)
第2巻 p.523 ページ画像

大隈侯八十五年史 第一巻・第三三〇―三三一頁 〔大正一五年一二月〕
  第十三章 文明的新事業の開創
    (一)模範製糸場の創立
 当時、君は早くもわが国産の将来に着目して蚕糸業の奨励に力を尽し、上州富岡に製糸業を興して他の模範工場たらしめた。君は在浜時代の経験に依つて、既に蚕糸業が将来有利の事業たるを知つて居た。併しこれを起すべき最近の動機を為したのは、横浜の蘭八、即ちフランス八番館に居たドイツ人、カイセン・ハイメルといふ輸出入業者の勧説による。明治の初年頃は、イタリイ、フランス両国とも、蚕病流行し、生糸よりも寧ろ蚕卵紙の方が旺んに売れて行く有様だつたが、それが動機となつて、わが国の生糸輸出が益々好況となつた。けれどもわが養蚕家も製糸業者も、唯多産の利あるを知つて、その事業の上に毫も改良を加へなかつた。つまり粗製濫造で太さも不均一、糸の繋ぎ目も乱暴なため、日本品は良質ながら価は割合に低かつた。
 君は生糸を以て有力な貿易品と信じ、これが改良の一日も忽にすべからざるを悟つた。ところが、当時掛員中、生糸の事を知るもの殆どなく、君も伊藤も、固より精通者でなかつた。唯幼時製糸、養蚕家に人と為つた渋沢栄一のみがその事を知つた。彼れは詳密に蚕から生糸になる迄の過程を人々に説明し、その有利な事業である事を説いた。最初は君も容易にその言を信じなかつたほどである。君は渋沢に向ひ「法螺じゃないか」といつた。彼れは「いや法螺ではありません」といつて、その話が益々微細に入ると、淡泊な君は始めて安心し、「呍、左様か、成程本当らしい。では万事この事は君に御任せしやう」と云ふ事になつた。此様な訳で渋沢は到頭その新事業の全権委員格に推された。それから渋沢は君の命を受けて力を斯業に尽すこととなり、更に蘭八に赴いて、カイセン・ハイメルに謀り、同館の監査役ブリユナアを聘用し、奥州、信州、上州の諸地方を視察して比較研究の結果、上州富岡が製糸に必要な諸条件を満たすに最も好適地なるを知り遂に模範製糸場をその地に建設するに決した。起工したのは明治三年で、その落成開業を見たのは明治五年であつた。玆に全国より製糸家並に製糸工女を募集し、三箇年の修業年限として製糸の技術を教へ、修業後は彼等を各県に配して、斯業の普及に尽させる事とした。
 それと共に君は各種の法律を発布して蚕種の取締を厳にし、生糸の改良に力を尽した。今日わが国に於ける蚕種業の発達に関しては、この富岡模範製糸場の余沢甚だ大なるものあるを疑はぬ。それと同時に君の功労も亦我製糸界に牢記せらるべきである。○下略


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第一九九頁〔明治四二年三月〕(DK020134k-0010)
第2巻 p.523-524 ページ画像

藍香翁 (塚原蓼洲著) 第一九九頁〔明治四二年三月〕
○上略時は明治二年の末期なり。大蔵省勧業寮に於ては、日本蚕業の発達を計らんが為め、製糸事業の奨励をなさんが為に、仏蘭西式の製糸法を移して、大いに其の模範を示さむとせられたり。蓋し此事たる渋沢男爵等の提議ならんと云う。男爵、時に大蔵大丞たり然れども、奈何せむ之れを担任すべき人材なし。仍て一日、男爵、其の意衷を翁に語られしに、翁奮つて曰く、是れ某が最も任の適せる処、応に生涯の事業として、身を以て之に当るベし、と。
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其の勧業寮養蚕掛となり、当製糸場掛と為られしも、前に見ゆ人は此の協議の結果なりしと云ふ。或は然らむ歟。
   ○富岡製糸場ハ、明治四年八月二十三日大蔵省勧農寮ノ所管トナリ、明治五年十月九日同寮廃止ニ際シ租税寮ニ移リ、十月同寮中ニ勧農課ヲ置クニ際シソノ所管ニ帰セリ。明治二十六年十月十日官立模範工場トシテノ目的ヲ略々達成シタルヲ以テ入札ニヨリ三井高保ニ払下ゲ、明治三十五年九月十三日原合名会社ニ譲渡セリ。
   ○渋沢子爵家ニ栄一自筆「仏国製糸職工雇入契約書案」二通ヲ蔵セリ。


竜門雑誌 第六〇号・第三―九頁〔明治二六年五月〕 製糸ノ沿革(尾高惇忠君演説)(DK020134k-0011)
第2巻 p.524-526 ページ画像

竜門雑誌 第六〇号・第三―九頁〔明治二六年五月〕
  製糸ノ沿革(尾高惇忠君演説)
○上略青淵従四位公ガ御帰リニナリマシテ、明治二年ノ十月租税正ニ拝命致サレタ時ニ、伊達大蔵卿ガ足下ノ洋行中見聞シテ来テ我国今日ノ補ヒニスルトカ改良スルトカ云フ点ハ何デアルカト申サレマスト、実ニ尊イモノデハゴザリマセヌカ、前後賢明ノ人達ガ往来致シマシタガ生糸ノ改良ノ目的ヲ立テタノハ青淵公デゴザリマス、僅ノ滞留中デ汎ク諸国ヲ視タト云フコトデハナシ、視ル度毎ニ我国ノ物ニ較ベル物バカリデハゴザリマセヌ、ソレヲ此製糸業ノ事ニ御心付カレタノハ、誠ニ尊イモノデゴザリマス、ソコデ、青淵公ノ申サルヽニハ「唯此製糸業ハ我国ノ仕方ハ誠ニ不完全デアル、是ハ西洋法ニ依ツタ方ガ宜カラウ」ト斯ウ御答ヘニナツタト云フコトデゴザリマス、是レガ明治二年ノ冬デゴザリマス、ソレデ今ノ総理大臣伊藤サンガ大蔵卿ニ御相談ニ及ビ、ソンナラバ着手ヲスべキデアルト云フ所ヨリシテ、明治三年外国人ヲ雇ヒ入レテ、富岡製糸所ヲ起ス運ニナリマシタ、其時ノ目的ハ今日コソ条理ガ立チマシテ比較モ沢山ゴザリマスガ、其時ハ唯漠然ト僅ニ製糸法ヲ改正スべキノミト云フダケデ始マツタコトデ、不思議ナ訳デ私ハ……事務官デ至ツテ末等デ居リマシタガ、富岡製糸所生糸ノ製造法改良ノ官ヲ拝シマシタ、然ルニ十一月外国人ガ製造所設定ノ地ヲ巡見ノ為メニ信濃、上野、武蔵等ヲ巡回致シマシタガ、其以前外国人ハ一度甲州カラ廻リマシテ、上州新町カラ一の宮ノ間ニアリト予定致シマシタガ、私ガ外国人ノ案内者トナツテ、一の宮ノ先キノ宮崎歟富岡歟此処等デアラウト云フノデ一巡致シマスルト、富岡ガ宜シイト云フ外国人ノ指定ニ依ツテ、此処ト定メマシタ、併ソレハ唯定メタバカリデゴザリマス、然ルニ上州前橋デ只今富岡製糸ノ長トナツテ居ル速水堅曹ト云フ人ガ、みうらるト云フ外国人ヲ政府ニ於テ御目論見ノアルノヲ聞イタカラシテ、同時ニ自力デ雇ヒ入レテ、前橋デ三十六人繅《ト》リノ機械ヲ拵ヘテ製糸ヲヤツテ居リマス、是ハ七月ノコトデ、其目論見ハ政府ノ御発議ト同時位デアツタデゴザリマセウ、乃チ参考ノ為メニ其品物ヲ見ルト……始メテ見マシタ……二タ口ヲ取ツテ居ツテ、直グ上ゲ枠ニ掛ケテ、後トデ繰リ返ヘシ紡ムト云フコトハナイ様ニ出来テ居リマスカラ、成程是ハ軽便デアル、元トノ内務書記官杉浦譲ガ地理権正、私ガ庶務少佑ト云フ十一等ノ官デ、外国人ヲ案内シテ参考ノ為ニ其機械ヲ見ル、速水堅曹大キニ喜ンデ一人モ賛成シテ呉レヌ、謗ル者バカリナル中ニ能ク来テ呉レタト言ツテ喜ビマシタ、其以来速水トハ懇意ニ致シマスガ……其時ニ外国人ノ意見書ノ詳細ノ翻訳モゴ
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ザリマシタガ、知ラヌコトデゴザリマスカラ其議論等ハ分リマセヌ、先ヅ大体上ニ於テ三十六人ガがたがたシタ様ナ機械ヲ見マシテ外国人ニ問フタ「御前サンノ目論見モ同ジデアルカ」「左様デス、大同小異是ハ瑞西風デ、今ヨリ十年程前ニ扱ツタモノデアル、私ノハモウ一等進ンデ居ル新規ノ遣リ方デアル」「サウ云フモノカ、ソンナラバ此取リ付ケト申シテ上ゲ枠ナシニスルノガ最モ便利ト思フガ」「是モ其様ニ軽便デナイ、是モ瑞西ノ人ノシタ事デソレヨリハ揚ケ返ス方ガ却ツテ宜シイ」ト云フコトデアリマシタ、ソレヨリ又愈々実地着手ノ前ニナルト云フト……今ノ話ハ明治三年ノ冬デアリマスガ明治四年ノ三月ニナリマスト富岡ノ松浦水太郎ノ宅ニ於テ私ニ談ジテ「繭ヲ一石買ツテ呉レ、上等ノ工女四人ヲ雇ヒ入レテ呉レ」ト云フコトデアリマス、私ハ命ニ従ツテ之ヲ供ヘル、三十日バカリ四人ノ工女ニ繅《ト》ラセテ在来ノ機械在来ノ日本風デ少シモ工ヲ加ヘナイデ繅《ト》ラセマシタ「是ハ教師何ニナサルカ」「是デ今度彼方ニ注文スル所ノ機械ヲ成丈日本ノ風ニシテ在来ノ業ヲ変ジナイ様ニ欧羅巴風ニ移スト云フノ便宜、此糸ノ性質ト言ヒ技術ト言ヒ同格デアルカラシテ、斯ウ云フ様ニ計ラツテ其監護人トスル為メニ斯ウスルノダ」ト云フノデ……是ハ外国ニ己ガ機械注文ニ出張スル前ノ論デゴザリマス、其機械ガ出来シマシタ時ハ事務官ハ私……青淵公ハ大蔵省ノ事務ヲ取扱ヒ既ニ大蔵省ノ大丞トナリ今ノ井上サンガ大蔵卿デゴザリマス、先ヅ建築ヲシテ事務ノ扱ヲスル其扱様ハ如何ニシテスルカ、政府ノ業タル別ニ私ナク唯買ツテ製造スルト云フ……新規ノ業ヲ起スニサウ単純デハ往クマイ、外ニ方法ガアラウカラ調べテ伺書ヲ出ス様ニト云フコトデ、其命ニ従ツテ私ガ調ベマシタノニ扱法ハ三ツアル、第一法ハ単純ニ政府自ラ商法ヲ行フ、繭ヲ買ヒ入レテ糸ニシテ売ル、第二法ハ人民ト合併シテヤル、五人トカ三人トカノ相手ヲ作ツテ半額ヲ其者ニ支弁ヲサセ、後ノ半分ヲ政府デ出シテ、所謂乗合ノ業ト云フモノ、是レガ一ツデアル、第三法ハ政府ハ一切損得ヲセヌ、唯製造法ヲ天下ニ示ス、模範トナツテ一切損得ヲ致サズニ繭ヲ所有者ヨリ望ニ応ジテ、一ケ年分ノ工女ノ数機械ノ通ニ適当スルダケノ繭ヲ集メテ、ソレヲ順次ニ糸ニ製シテ、賃ヲ取ツテ其糸ヲ渡シテヤルト云フ法ガ一ツ、併ナガラ其平均ノ得様ガ誠ニナイ、ナカナカ考ヘ付キマセヌ、誰モ彼モ我先キニト百石トカ幾ラトカノ繭ヲ持参シテ、之ヲ繅《ト》ツテ呉レト三十五十互ニ争ツテ、早ク製造シテ呉レト言ツテ望ムノハ当然デアリマス、之ヲ抽籖ニスルト云フタ所デドウモ公平デアリマセヌ、段々考ヘマシタ末、漸ク考ヘ付イタコトガアル、ソレハドウ云フ仕方カト言ヘバ例ヘバ爰ニ口ガ百口アル……四千石百口アルトシテ、ソレヲ抽籖ニシテ一番ニ当ツタ者ハ其半分ヲ第一番ニ糸ヲ製シテ渡ス、其次ギニ二番ノ半分丈ヲ製シテ渡シ、三番モ半分ダケ製シテ渡ス、ソレカラシテ又一番ニ戻ツテ残リノ半分ヲ今度製シテ渡ス、ソレカラ二番三番ト斯ウ云フ様ニスレバ宜カラウト斯ウ云フ三通リノ方法ノ何レニカ依ル、尚ホ其上政府ハ左様ナ新規ノ事業ヲ政府自ラ行フト云フノニハ相場ノ変化モ知ラナケレバナラヌト存ジマシタガ、是ハ私ノ知ラヌ話デ、即チ富岡・前橋・藤岡ノ三ケ所ノ商人ニ申シ付ケテ十年間ノ相場ノ変化沿革ヲ調べサセマシタ……御維新開ケテ
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ヨリ以来ノ繭ノ相場ヲ調べサセマシタ所ガ、不思議デス、随分為替ノ差ヤ何カデ一概ニハ申シ切レマセヌ廉モアリマセウガ、ソレヨリ十年溯ツテ相場ヲ調べテ見ルト一百斤ノ相場ハ殆ンド八百枚、又一両ニ就イテ幾ラト云フ調べニ致シマシタ所ガ、明治四年ヨリ前ノ十年間ノ一般ノ高直ガ一両ニ就イテ十八匁、増直ガ三十五匁位、矢張リ八百枚カラ八百五十枚位ノ間ヲちやんト往来シテ居リマス、シテ見ルト此後モサウナツテ往クデアラウト云フ目的ヲ立テヽ申シ送ツタ所ガ、合併法モ行ハレズ、賃取法モ行ハレズ、第一法ノ官ニ於テ損得ヲスルト云フコトニシテ業ヲ営ムベシ、併ナガラ此今日ノ機械ヲ以テ製スト云フ最良ノ糸ヲ造ツテ遂ニ仏蘭西ノ里昂ニ於テ竪糸ニ用ヰル位ノ物ヲ数年ノ後ニ出シタイ、サウシテ天下ノ摸範ニナル様ニシタイト云フ政府ノ目的、工女ヲ全国カラ募ルト云フコトニナツテ、私ノ奉職中デシタガ、五年間ニ二千五百人、其一人ニ就イテ官費ヲ給スルコト往復費ト未熟中食料等、成業シテ給料ヲ与フルト云フ迄ニナル間ノ損ト云フモノヲ見マスルト、一人ノ工女ヲ養成スル為メニ七十五円損ガアル様デス、併ナガラ二千五百人ヲ養成スルニ其一人ニ就イテ七十五円ノ損ヲ見レバ今迄扱ツタ所ノ官費モ其実ハ損デナイト人モ言ハレマシタガ、明治九年迄之ヲ養ヒマス、其時ノ目的デゴザリマシタ、是迄ハ今日ニ至ル順序デゴザリマス、其変化ヲ予知シテ居ツテ大同小異デ疑ヒナガラ最前ノ青淵公ノ建言致サレタノヲ大蔵省ニ於テ御採用ニナツテ其目的ヲ誤ラズシテ来タツテ、ソレニ続イテ従ツテ一ツノ進歩ガ現ハレマシテ、今日大ニ其効ヲ奏シテ来タ、ソレヲ申シ上ゲタイ為メニ斯ウ冒頭ヲ申シテ置キマス。