デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.137-140(DK030037k) ページ画像

明治四年辛未四月十二日(1871年)

大蔵省度量衡改正掛ノ立案ニ基キ度量衡提理規則ヲ立草ス。栄一改正掛長トシテ之ニ与ル。


■資料

大蔵省沿革志 本省第四・第四六―五一丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第一四七―一四九頁〔昭和七年六月〕)(DK030037k-0001)
第3巻 p.137-139 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕青淵修養百話 (渋沢栄一講述)坤・第五一七―五一九頁〔大正四年一一月〕 四 度量衡顧回談(DK030037k-0002)
第3巻 p.139-140 ページ画像

青淵修養百話 (渋沢栄一講述)坤・第五一七―五一九頁〔大正四年一一月〕
  四 度量衡顧回談
 私が明治二年に大蔵省に勤務した時分に、度量衡の話が話が出まして、私は之を調査する一員となつて、頻に心配したことがあるのです。
 今から思うと……随分抱腹に堪えぬ話でありませうが、大蔵省で庶務の改正をさせねばならぬといふので、改正掛といふものが置かれた。其の時分の大蔵省の主脳者は、大隈(重信)伯と伊藤(博文)公のお二人であつて頻に諸制度改正といふことを考へられた。其の改正をするにはどうしても通常の事務と引離して、別に改正局といふものを置いてそこで取調べるが宜いといふことになつて、其の局の掛長を私が命ぜれた。其の時に、是非数年を期して租税も改正せねばならぬ。それには先づ丈量をしなければならぬ。丈量をするには寸尺が判らなくてはならぬ。日本の呉服尺と曲尺は甚だ不確実のものである。又尺ばかりではない。秤も改正しなければならぬ。桝も改正しなければならぬ。遂に度量衡といふものを取調べるが宜からうといふことになつて、さて取調べに着手しようとした所が、何処へ行つて聴いて見ても少しも解らぬ。又解る筈がない。何しろ其の時分には『地方凡例録』とか『塵功記』とかいふやうな書籍が僅かにあつたが、是も『量衡』は無くつて『度』だけがあつた。且つ甚だ浅薄なる学者の書いたものであるから、それを以て其の時分の度量衡の薀奥を極めたものとは言はれない。それで拠どころなしに、私は改正掛長として、福沢諭吉先生に度量衡の講釈を聴きに行つたことがあります。今考へて見ると殆ど見当違ひの話で、内科の医者に外科の膏薬を貰ひに行つたやうな訳であるが、明治二年三年の頃はさういふ有様であつたのが(田中館愛橘博士に)伺ふと、八十弐年前に業に既に度量衡が各国の評議に上つて、而して此の十数年に
 - 第3巻 p.140 -ページ画像 
大なる進歩を遂げたといふ。蓋し……十数年の間に左様に進歩したといふことは、実に日本の学術の一特色と申しても宜いやうに思ひます。其の頃勝(海舟)さんの門人で佐藤与之助といふ人が改正掛にあつて、是非土地の丈量法を行つて見やうといふことを評議して、それからして遂に今申上げたやうな度量衡の調査に掛つた所が、迚も今の場合丈量などは出来ぬ。況や当時未だ藩といふものがあつて、日本全体が大蔵省の支配に属するのでないのだから、是は藩政の始末の附かぬ前に、土地丈量などといふことは、唯空想に論じて見た所が事実行ひ難いといふので、改正局の調べは緒にも就かずに終りましたけれども、明治二年にさういふことがあつた。偶然にも田中館君の御講義を伺つて、往事を考へ出したのであります。