デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.304-306(DK030100k) ページ画像

明治五年壬申正月(1872年)

曩ニ明治二年五月箱館ニ於テ降伏セル渋沢成一郎本年正月六日特命ヲ以テ赦免セラル。栄一家人ヲシテ之ヲ迎ヘシメ、大イニ之ヲ款待ス。


■資料

竜門雑誌 第二九二号・第一七―一九頁 〔大正一年九月〕 ○秀総院喜作居士の霊前に於て(青淵先生)(DK030100k-0001)
第3巻 p.304-306 ページ画像

竜門雑誌 第二九二号・第一七―一九頁 〔大正一年九月〕
 ○秀総院喜作居士の霊前に於て (青淵先生)
○上略 折柄に私は海外行を命ぜられ、居士は国に留つて、大に慶喜公を幕府に補翼すると云ふ立場になりましたが、一橋に居りまする時と異りて幕府に遷つて後とは、居士と雖も昔日の如くなり得なかつたので、稍や失意で其職務に拮据されたと言はねばならぬのでございます、此時は私は海外に居りましたから内地の事情は精しく知り得ませなんだ、又之を精しく知るも今日居士の為に弔辞として語るを好みませぬのでございます、遂に王政復古に際して一騒擾を起しました、もしも大義名分から論じたら其是非は解りませぬけれども、居士の如き負じ魂からは所謂武士の意気地、已むを得ず君公の謹慎恭順にも拘はらず、どうぞ君公をして逆賊である、朝威を蔑ろにしたものであると云ふ寃枉は解きたいと云ふ意念が玆に彰義隊と云ふものを起すに至つたものと想察致します、私の欧羅巴から帰りましたのは、慶応四年即ち明治元年の十一月でありましたから、今述べました彰義隊の事柄は既に済んだ後でございました、日本に帰つて親戚古旧、殊に志を同うした居士を尋ねても其影だも見ることは出来ない、時に居士は函館に榎本武揚氏其他永井・松平・大鳥・沢などの諸氏と、頻に官軍に抗して奮闘して居つたのです、併し私が帰国の後大勢を推察しますると、到底其事の成功するものではなからう、数年前故郷を離るゝ時是から先
 - 第3巻 p.305 -ページ画像 
共に何れの地に死所を得るか、時勢とは言ひながら、生れるは其郷を同ふしても、死ぬ処は違ふであらうと相語つたことが、丁度慶応四年の冬に至て、事実となるを歎息せざるを得ぬやうな場合でありました、私とても其儘已む訳にいかぬ為に、駿河に参つて、我一身を保ち余所ながら御謹慎中の慶喜公を補翼すると云ふことを努めました、居士は此際に辛苦艱難残兵を集めて悪戦苦闘を重ねましたが、時利あらず、遂に官軍に降服すると云ふことに相成つて、続いて陸軍省の糺問所の囹圄の人と相成つたのでございます、居ること三年、其中私は官途に就かねばならぬ場合に相成りまして、明治二年の冬大蔵省に出仕致しました、併し其頃は居士は未だ囹圄の人たる際であつた、三年を越えて私が大蔵省に居る頃に聖世の余沢、大赦を得て、始めて放免されて、居士は私の宅へ引取り得るといふことに相成つたのであります、これが即ち明治五年と覚えて居ります、続いて私が大蔵省に居りましたから、今更に他方面で働くは心苦しいやうに思ふて、等く官途に就くことを勧めまして、居士の好む所ではなかつたやうですが、終に大蔵省に出仕されましたのが明治五年であつたと覚えて居る、前にも申す通故郷に居る時の生長工合が、或は農業に或は養蚕に、実務に経験の多い居士でありましたからして、大蔵省に出仕するや、多く其方面の事務に鞅掌されました、明治五年の冬、日本の養蚕製糸及び殖産工業を、海外のそれと比較研究すると云ふことを、大蔵省から命ぜられまして、伊太利・仏蘭西、及び其他の国々を視察し、帰途亜米利加を廻はるが宜からうと云ふことで海外派遣の命を受けました、丁度十一月の五日頃でもありましたか、私は為に横浜に行きて送別をしたことまで記憶して居ります、併し其翌年即ち明治六年には、私の境遇が大蔵省に職を執ることの出来ない場合に立至つた、故に居士の海外留学中にも拘はらず私は職を辞した、蓋し其職を辞すると云ふことは、敢て私一身に係つたことでない、時の財政当局者と、他の政務官との衝突とも申すべきもので、今に繁昌してお出の井上侯爵が大蔵卿に任じて居られましたが、其説と太政官の諸公との意見が相一致せなんだに坐したのであります、居士の海外から帰られたのは明治六年の十月頃であつた、其出立や大蔵省主脳者の井上侯、之を補翼する所の渋沢などゝ相談して出掛けられたるものが、帰られると其人が変つて居りますから、居士の気性としては引続いて官務に従事することを好みませぬで、其年であつたか七年の初めであつたか、遂に官途を去りましたのでございます、故に政治の方面は新旧二つに別れますけれども、一橋に仕へ、幕府に任じ、再び朝廷に出るといふ此歳月が殆ど六七年許でございませう、之が前に申す第三期の中の第二段に属する居士身上の経過であると申して宜からうと思ふのでございます、此間居士の各方面に苦心尽瘁されたことは、種々なる記憶から玆に縷述しますると、中々に短時間に申し尽すことは出来ませぬのです、其間には種々な事情もあり、亦義理もあり、殊に居士の人となりは負じ魂の至て強い、義侠に富むところの気質でありましたから、此間に処するに随分困難のことがあつたらうと察するのであります、而して私は始終行動を一にして兄弟も啻ならぬ身柄であつたから或る場合には大に其助力
 - 第3巻 p.306 -ページ画像 
を受け又は之を緩和したことがあつたと記憶致すのでございます。


芝崎猪根吉氏所蔵文書(DK030100k-0002)
第3巻 p.306 ページ画像

芝崎猪根吉氏所蔵文書
              元旧幕府
当時《(別筆)》         使番

大蔵省勧農寮七等出仕           渋沢成一郎
辰年四月中旧籍脱走、巳五月中北地箱館表にて悔悟謝罪仕、兵部省糺問所ニ於て禁留罷在、壬申正月六日特命ヲ以御赦免被仰付、親類共御取調之上、大蔵省三等出仕渋沢従五位方江御引渡しニ相成候、其後三月廿八日御役被仰付候事
右ニ付御府下平民籍ニ御差加へ被下度、此段願上候


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第十八丁 〔明治三三年〕(DK030100k-0003)
第3巻 p.306 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻の一・第十八丁〔明治三三年〕
去ぬる戊辰の年。榎本ぬしと共に函館に立こもり給ひたる成一郎ぬしハ。そのあけの年の春の頃力尽き勢きはまりて討死と覚悟し給ひけるを。黒田ぬしの情もだしがたくて終に参り降り。御軍に抗しまゐらせける罪によりて。人々と共にひとやにこめられおはしけるが、元よりその誠心にいでたる事をあハれませ給ひけれバ。今年四月の頃皆許されてひとやを出づる事とハなりぬ。されバかねてより生き死にをももろともにとちかはせ給ひけるかひなく。御身のなり行きハかたみにあめつちとへだたり行きけるを。うき事におぼしめされける大人の御よろこびは一方ならず。たゞちに芝崎其外の家の子して、成一郎ぬしを家に迎へしめ給ひ。御心を尽して何くれと厚うもてなし参らせ給ひぬ。大人も成一郎ぬしも。ひと度ハはや此世にての対面ハかなふまじと。深く思ひ定め給ひけるに。定めなき世ハげに定め得がたく。かゝるめでたきふしもありけり。其後成一郎ぬしハ故郷に帰り給ひ。うからをともなひて更に東京に出で給ひ。大人のすゝめによりて官に就き給ひ公事にて外つ国にも行き給ひけるが大人冠をかけ給ひける後ハ。官を辞し給ひて。同じく実業につかせ給ひけれバ。大人には昔の契たがへじとて。常に厚う後見なし給ひけり。
   ○「今年四月の頃」トアルハ誤ナラン。



〔参考〕青淵先生伝初稿 第七章五・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕(DK030100k-0004)
第3巻 p.306 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章五・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕
渋沢喜作は箱館の戦敗れて縛に就き、東京に幽せられしが、後赦免せらるゝや、先生之を大蔵省に薦めて勧農司七等出仕となしたりしが、明治五年十月製糸・養蚕等の調査研究を命ぜられ、租税寮八等出仕中島才吉と共に、生糸の産地として名高き伊太利に赴けり。蓋し製糸の改善発達を図り、且つ之によりて貿易の利を興し、将来の国富を期するにありて、先生が井上と謀議計画の結果なり。然るに喜作が帰朝せる時は、先生辞職の後なりしかば、喜作も亦官を辞して野に下り、海外に学びし所を実行せんとて、生糸の輸出貿易に従事し、斯業の為に尽せること大なりしは下文にいふべし。