デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.384-387(DK030115k) ページ画像

明治五年壬申五月(1872年)

神奈川県令陸奥宗光田租改正ニ付建議ス。大蔵大輔井上馨及ビ栄一等其ノ審議ニ当リシガ、其事ノ重要ナルニ鑑ミ、之ヲ広ク衆議ニ問フノ必要アルヲ認メ、同年七月租税頭ヲシテ各地方官ニ達シテ其意見ヲ徴セシム。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章三・第六〇―六二頁 〔大正八―一二年〕(DK030115k-0001)
第3巻 p.384 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章三・第六〇―六二頁 〔大正八―一二年〕
○上略 地券税法の制を布き、土地所有者一般に地券を交付したれども、地券記載の段別及び地価は、地主の申立に任せたれば、往々其実を得ざるものあり、又之を全国に実施するの議未だ決せず、市街地の外は尚該税法を施行するに至らず、依然として旧法に従へるに、明治五年五月神奈川県令陸奥宗光 陸奥は此前後両度租税頭たり、此時は県令たりしなり 田租改正の議を上り「従来の石高・段別・石盛・免《メン》・検地・検見等一切の旧法を廃除し、現在田畠の実価に従ひ、其幾分を課し、年限を定め地租に充てんとす」と論じたり。此議はかの神田孝平の建議と共に有力なるものなりき。然れども其事頗る重大なるが故に、先生等は広く之を衆議に諮るの必要ありとなし、同年七月租税頭 頭は陸奥完光、権頭は松方正義 をして各地方官に、「旧来之租税法は漸々相改め、遂に全国一般估券租税法施行可相成積に付、猶御規則等者不日御通達可申候得共、爾後之心得振も可有之候間、此段各位迄申進置候、猶御見込も有之候得者、拙者共迄御申越有之度」と達せしめて其意見を徴し、○下略
  ○「田租改正建議」及ビ明治五年七月租税頭陸奥宗光・租税権頭松方正義ノ「租税改正之大旨各地方ヘ達」ハ「地租関係書類彙纂」(明治前期 財政経済史料集成」第七巻所収)ニ掲ゲラレタリ。コヽニハ掲載セズ。


大隈重信関係文書 〔昭和七年一〇月〕 第一・第四〇三頁(DK030115k-0002)
第3巻 p.384-385 ページ画像

大隈重信関係文書 〔昭和七年一〇月〕
 第一・第四〇三頁
過日於正院粗申上置候田租改正之義、再考之分別冊二通之品ニ有之、尤も未定稿ニ付追々熟定之上可申上候様可仕候、此議タル已ニ井上・渋沢等ニ指出置候処何れも不同意は無之候ヘ共、必竟施行上ニ困難有無之鑑定不相附処より未タ何等之答も不承候事ニ御座候、若シ閣下之御一読を得テ行不行之御決評被下候得者胸間之雲霧一掃可仕候、猶亦本書中御了解難有成義も御座候得者、其中参上直に可奉申上候先は右耳 謹言
 - 第3巻 p.385 -ページ画像 
    九月十七日
                         陸奥宗光
 大隈公閣下
  ○右書翰ニヨレバ、建議ノ草稿ハ既ニ四年秋ニハ成リ、コレヲ井上大輔及ビ栄一ニ於テ審議セルコト明カナリ。

 ○第一・第四六一頁
過日指出置候田租改革議渋沢よりも催促申参り候間、御許容ニ相成候義ニ候得は、何卒速ニ大蔵省へ御下ケ相成候様仕度、復別冊は囚人駈役之義ニ御座候《(マヽ)》、実ニ追々炎暑ニ相成衆囚を一牢内ニ錮し候義ニ不忍、当県は外県とも違ひ土功甚多く候間、適宜之仕用も可有之候間、是亦御許容相成候義ニ候へは、何卒速ニ御下知被下度候、特ニ田租改正は当秋之取上前に取究申度候間、呉々速ニ御処分奉願候也
    五月第一日 ○明治五年カ
                         陸奥光
 大隈公閣下
  ○右書翰ニヨレバ、陸奥ノ意嚮ハ、五年ノ収穫期以前ニ地租法ヲ改正セントスルニアリキ。


(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治五年)五月三〇日(DK030115k-0003)
第3巻 p.385 ページ画像

(陸奥宗光)書翰 渋沢栄一宛(明治五年)五月三〇日
                    (渋沢子爵家所蔵)
過日被仰附候件々御答可申上筈実ニ多事寸隙も無之且商社一件之書類大隈へ相尋候処、右者芳川紙幣頭へ相渡置候由ニ付、則ち同人へ相達し御手許へ指上候筈申付置候事ニ御坐候、誠ニ御迷惑之義ニ有之候へ共、急御担当被下候様仕度奉願候
印紙一件之書類御覧被成下度云々、夫々取調候上可申上候得共、別冊ハ其大略ヲ摘シ候品にて御坐候則ち指上候
地租改正之稿は此節少々算法等取直シ居候間済次第入電覧可申候書外早々 謹言
    五月卅日
                              六石
 青淵盟兄
  ○此書翰ニヨレバ陸奥ハ建議ヲ明治五年五月更ニ推敲シタルモノノ如シ。



〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第五九〇―六〇〇頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK030115k-0004)
第3巻 p.385-387 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第五九〇―六〇〇頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
○上略
  陸奥宗光氏との御関係に就て
先生「此人に就ては、私は深い関係を持つて居る。相当世話した事がある。先づ此人と知り合つたのは明治三年に伊藤さんが亜米利加から帰つた時である。陸奥さんは中途から亜米利加で伊藤さんと一処になつて帰国した。当時は未だ廃藩置県の実施がない時であつたがナシヨナル、バンク、システムを研究し且つ大蔵省の基礎を定める為めの調査に伊藤さんが渡米したのである。渡米理由の建白書は私が書いた。伊藤さんの先方での調査の重なるものは、金貨制度、公
 - 第3巻 p.386 -ページ画像 
債発行の方法、大蔵省事務取扱制度等であつた。随行者は芳川顕正、吉田次郎、福地源一郎等の諸氏で、陸奥さんは欧羅巴に行つて帰りに伊藤さんと一処になつたものである。其関係から陸奥さんは伊藤さん、井上さんと懇意になり私とも親しくなつた。明治五年に租税頭となり、芳川、岡本謙三郎の諸氏と一処に大蔵省の重立つた人物となつて居た。明治六年井上さんと共に私が罷める時は、此等の人人を呼んで井上さんは斯んな事情で罷める、私の罷める理由は斯うだと、其立場を明かにして、決して同盟罷工でない事を示し『そう云ふ事情だから後に如何な人が来るか知らないが、諸君は受持の部所をしつかり守つて貰はなくては困る』と話した。私は自分の事情を大隈さんにも手紙で知らせて、直ちに銀行の方に力を致した。
 此時も陸奥さんは租税頭だつたと思ふ。併し其後ずつと引続いて大蔵省には居なかつた様である。明治十年の西郷戦争の時、陸奥さんは政府は此儘では維持出来ない等と幾らか政府反対の考を持つたので、法に触れて明治十一年から十六年迄五年間大江卓氏等と共に仙台の獄に繋がれて居た。人物としては立派だつたが、思想に於いて一貫した処がなく謂はゞ其才使ふべしと云つたやうな人であつた。常に機を見るに敏にして、伊藤・井上さん等に知られる為めに渋沢と懇意にすると云ふ考があつた。出獄してから私は可成り面倒を見たが、兎に角汚名を洗はなければ万事に具合が悪いと云ふので、横浜の原善三郎氏と金の都合等を世話して、明治十六年末か十七年の初めに欧羅巴にやつた。陸奥さんが帰国した時は恰度松方さんが大蔵大臣として緊縮政策実施中だつた。陸奥さんは頻りに之れに反対論を主張して、伊藤さん等に八釜敷く説いたりした。併し私としては松方さんが一定の主義を以て緊縮方針を実行する事には賛成であつた。此の緊縮方針は明治十四年から十九年迄六年間行はれて可成り効果があつたものと思ふ。斯んな次第で陸奥さんと私は全然意気投合したとは云へない。或点では一致し、或る点では大いに相反した。前申す通り機敏なる点に於ては感服する程で、伊藤さん、井上さん等も此処を認めて引立てたから、政府に於ても相当な仲間の一人となつた。明治二十三年には農商務大臣から米国公使に転じ、二十六年に青木周蔵さんの後を承けて外務大臣になつた。其翌年の二十七年には日英条約改正に大いに尽す処あり、其功労で子爵になつた。伯爵になつたのは伊藤さんと日清媾和談判に奔走した為だつた」
篤 「陸奥さんは古河さんとは何んな関係から懇意になつたので御座いますか」
先生「二人が柳橋で一処に遊んだと云ふやうな事が初めである。明治五年だつたか陸奥さんと私とが富岡の製糸場を見に行つた時、古河氏を連れて行つて、先方で馬鹿騒をした事がある。古河氏はあの時大変閉口して『もう貴方々の御伴は懲り懲りだ』とこぼして居た」
渡辺「現在で云つて見ると、陸奥さんは何んな人に当りますか。陸奥さんの甥の岡崎邦輔さんが何処か似通つた処がありはしませんでせうか」
 - 第3巻 p.387 -ページ画像 
先生「いや、陸奥さんはもつと切れる。殊に弁舌には鋭いと云つた処があつた。私の知つて居る人の中では平岡円四郎と云ふ人がよく似て居た。此人は相手の意中を云ひ当てる事の名人で、とんだ処で『君は今日何の用向で来たのだね』等とよく云つた。又見識張つた処のある人で、或る時畑邦之助(?)と云ふ監察(註、目付役)と用談中、私も傍に居たが、畑氏が『それは篤と考へた上で御相談申しませう』と云つた処が、平岡さんは此相談と云ふ言葉が気に食はなかつたと見え『鳥渡注意して置くが、おれは君から相談受ける者ではない。裁決権はおれにあるのだから、よく了解するやうに』と云つた。私が後で『貴方はあんな事を云てはひどいではありませんか』と云ふと、平岡さんは『君おれが、彼れから相談受ける事はないではないか。監察は監察の務めをして居ればそれでよい』との事だつた。陸奥さんはまあ此人に似て居る。反対、賛成などに就ても人の意中を読むことが敏かつたのである。学問も相当にあつたが、造詣が深いと云ふのでなく、広く少しづつかじつて居ると云ふ方であつた。明治廿九年肺病で亡くなつた。愈々病気で起つ能はずと云ふ事を聞いて、私がくらやみ坂(滝ノ川)の今の古河の屋敷に見舞に行つたら握手をして『僕はもう駄目だ。年は貴方より若いが、もう再び起つ事は出来まい』と大変落胆して居た」
篤 「三浦安さんとは陸奥さんは関係御座いませんか」
先生「全然ありません。両人は意見があわなかつた。陸奥さんは岡崎邦輔氏を『賢い奴』だと云つて引立てた。何でも親類に当るそうだ」
増田「原敬さんは古河さんと親類関係でゞも御座いますか」
先生「いや、原は井上さんが口をきいて古河氏に世話した。市兵衛さんの存命中は其参謀格を勤めて居た」
増田「中島信行さんと古河さんとの関係は何うで御座いますか』
先生「親類関係がある様ですが、極めて薄いものです。やはり陸奥さんの関係からで、陸奥と中島は親類であるから―――」