デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 第一国立銀行 株式会社第一銀行
■綱文

第4巻 p.451-460(DK040043k) ページ画像

明治16年(1883年)

是ヨリ先同行生糸・米穀ノ荷為替取扱ノ為メ仙台外四ケ所ニ支店ヲ設ケタリシガ、是年福島出張所ヲ支店ニ改メ、翌十七年更ニ秋田地方ニ出張所ヲ設ケ、租税徴収ノ任ニ当リ、以後東北ヲ始メ、北陸・東海・近畿各地方ニ支店出張所ヲ設ケテ開拓ニ努ム。後明治二十六年以後東北・北陸地方ノ支店ヲ整理ス。


■資料

第一国立銀行半季実際考課状 ○第二〇回〔明治一六年上期〕(DK040043k-0001)
第4巻 p.451 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状
  ○第二〇回〔明治一六年上期〕
    株主集会決議之事
一又格段決議ノ法ヲ以テ福島出張所ヲ支店ニ改定スヘキ議案ヲ発シ、衆異議ナク本案ヲ可決セリ
○中略
    本支店営業景況之事
一福島支店ハ元出張所ヲ以テ専ラ荷為替ノ業ニ従事シ、其計算ハ仙台支店ニ編入セリ、本年一月更ニ支店トナスヨリ以来普通ノ営業ヲ弁理セリ ○下略

第一国立銀行半季実際考課状 ○第二二回〔明治一七年上期〕(DK040043k-0002)
第4巻 p.451-452 ページ画像

  ○第二二回〔明治一七年上期〕
    株主集会決議ノ事
一新潟及ヒ四日市ハ屈指ノ要港ニシテ資本転運ニ必要ノ場処ナルニ付右両港ヘ支店開設スヘキ議案ヲ発シ株主一同其挙ヲ賛成シテ議案ノ如ク決議セリ
○中略
    諸御達及願伺届之事
一同日○一月二二日大蔵卿ヘ株主格段会議ヲ以テ越後新潟勢州四日市ノ両処ニ支店ヲ開設スヘキコトヲ決定シタルニ付之ヲ施行センコトヲ稟請シ二月一日允准セラレタリ
    本支店営業景況之事
○中略
一新潟四日市両支店ハ本年三月一日ヲ以テ開業シ、本季ノ決算ハ僅カニ四ケ月間ニ係リ其得失未タ比較スヘキ者アラサルヲ以テ決算ノ目ヲ提挙スルヲ省略シ、各店営業ノ概情ト該地方総情ノ一端トヲ記載シテ之ヲ本季ノ報告ニ充テ、併テ後季ノ参考ニ供セント欲ス、則左ノ如シ
 新潟ハ北海ノ第一港ナリト雖トモ冬春ノ候ハ雪積ミ海荒レテ通商甚タ不便ナリシカ近年滊船ノ航路開ケタルヨリ其形勢大ニ改マルニ至レリ、産物ハ米穀ヲ大宗トナシ、而シテ金融ノ繁閑常ニ米価ノ高低ニ従フ、本年ハ一月以来米価下賤ナルヲ以テ金融ハ緩弛ナリ、四月下旬ヨリ少シク騰貴スト雖トモ六月ニ至リテ忽チ還タ下落セリ、該支店ハ貸付・為替・荷為替・割引・当座預及貸越等ノ営業均シク相進ミ、為替ハ東京ヲ第一トシ大阪之レニ次ク、荷為替ハ目今東京ヲ
 - 第4巻 p.452 -ページ画像 
多シトス、貸付及荷為替ハ専ハラ米銅ニ対シテ之カ供給ヲ務メ、他物ハ其補助タルノ目的ナリ、之ヲ要スルニ営業稍々緒ニ就キ他日応分ノ効ヲ奏スルハ疑ヲ容レサルナリ
 四日市ハ神戸ニ亜クノ良港ニシテ水陸ノ便益開ケ滊船日ニ京浜ニ航シ、勢尾濃江諸州ノ貨物玆ニ輻湊シ、銀行ノ営業ハ必ラス一日モナカルヘカラサルノ地方タリ、且ツ此地ノ商業ハ尤荷為替ヲ多シトシ該支店ハ之レヲ経理シ孜々トシテ従事セリ、本季ノ決算ニ於テハ未タ十分ノ結果ヲ得タリト云フヘカラスト雖トモ、将来必ス拡伸スヘキ目的アリ、但地方ノ慣習卒カニ改ムヘカラサルモノアツテ銀行ノ営業ヲ開通セント欲スルニ於テ目下意ノ如クナラサル所アリ、之レヲ要スルニ此地ノ経業ハ新ヲ図リ古ヲ酌ミ折衷宜シキ得テ徐々進歩スルヲ期スヘキナリ
一朝鮮支店ハ貿易大ニ衰ヘ営業甚タ困難セリ、蓋シ貿易ノ衰ル原因三アリ、本邦銀貨ノ低落スル一ナリ、昨年以来輸入ノ銅銷售セサル一ナリ、朝鮮地方凶作ノ為メ韓商ノ貿易スル能ハサル一ナリ、然レトモ此原因ハ皆一時ノ瘡痍タル者ナレハ其愈ルノ日ハ期シテ俟ツヘキナリ、今支店営業科目ノ得失ヲ記スコト左ノ如シ、御用当座預、利付当座預ハ前季ト大同小異ナリ、無利息預ハ百分ノ四余ヲ増シ、別段預ハ二十倍余ヲ増シ、振出手形ハ二倍七割余ヲ増シ、貸付ハ大略八分ノ一ニ減シ、当座貸越ハ百分ノ十二余ヲ減シ、御用為替取組ハナク、人民為替ノ取組ハ百分ノ二十九余ヲ減シ、其取組先ハ大坂ヲ甲トシ、東京・神戸・長崎・上海ヲ乙トナシ、横浜・西京ヲ丙トナス荷為替取組高ハ十分ノ五余ヲ減シ、割引ハ大ニ減少セリ、利益ハ前季ニ比シテ百分ノ九余ヲ減シ、予算ニ比シテハ百分ノ五余ヲ増シタリ

第一国立銀行半季実際考課状 ○第二九回 〔明治二〇年下期〕(DK040043k-0003)
第4巻 p.452 ページ画像

  ○第二九回 〔明治二〇年下期〕
    本支店営業景況之事
一金沢支店ハ本年○明治二〇年九月一日ヨリ開業シ営業ノ科目モ寥々見ルヘキ者ナク随テ稀少ノ利益ヲ収入セシノミ、但タ該地ハ北陸ノ一大都会ニシテ本年春夏ノ交ヨリ諸商業モ一般起色アルニ因リ、将来営業上小細ノ取引ヲモ辞セス汲々勉焉スルニ至レハ必計画応分ノ利益アラン ○下略
○中略
一宇都宮支店モ亦九月一日ヨリ開店セシヲ以テ営業ノ科目未タ之ヲ実施セサル者多ク、随テ収益モ些細ナルニ過キス、然レトモ該地ハ足利ノ織物鹿沼ノ麻苧等著大ナル生産地ヲ擁スルヲ以テ之ニ対シテ便宜ノ法方《(方法)》ヲ施行スル時ハ又必見ルヘキ者アルヘシ ○下略

第一国立銀行半季実際考課状 ○第三八回 〔明治二五年上期〕(DK040043k-0004)
第4巻 p.452 ページ画像

  ○第三八回 〔明治二五年上期〕
    株主総会決議ノ事
○上略 格段会議ヲ以テ、石巻・金沢両支店ヲ廃シ、名古屋ヘ支店ヲ新設スヘキ議案ヲ発シ、異議ナク可決セリ


第一国立銀行第四十四回株主総会要件録(DK040043k-0005)
第4巻 p.452-453 ページ画像

第一国立銀行第四十四回株主総会要件録
明治廿七年七月十五日例ニ依リ第四拾四回株主総会ヲ東京日本橋区坂
 - 第4巻 p.453 -ページ画像 
本町銀行集会所ニ開設ス、当日来会シタル者左ノ如シ
                          ○氏名略ス
                        以上百五名
 右ノ外委任状ヲ以テ代理ヲ託スル者
                 有終会々長 渋沢栄一
                         ○以下氏名略ス
                       以上二百八名
 又他出疾病其他来会シ能ハザルヲ通知シ又ハ其通知無ク欠席スル者
                          ○氏名略ス
                     以上二百八十五名
○中略
右終テ更ニ臨時総会ヲ開キ、左ノ議案ヲ衆議ニ付シ一同異議ナク原案ニ決定セリ
    臨時総会議案
一盛岡宇都宮両支店廃止ノ件
 理由
 右両支店ハ従来国庫金及地方税ノ取扱ニ従事セシカ都合ニヨリ本年三月三十一日ヲ限リ其取扱ヲ辞セリ然ルニ普通営業ハ至テ閑淡ニシテ支店ヲ置クノ必要ナキカ故ニ本年七月三十一日限リ両店ヲ廃止セントス
右議事畢リ午後三時退散ス
 明治廿七年七月十五日       議長 須藤時一郎


第一国立銀行半季実際考課状 第四三回〔明治二七年下期〕(DK040043k-0006)
第4巻 p.453 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第四三回〔明治二七年下期〕
    株主総会決議之事
一同日○二七年七月一五日又臨時会○臨時株主総会ヲ開キ、盛岡・宇都宮両支店ヲ廃止スヘキ議案ヲ提出シ、異議ナク可決セリ


第一国立銀行第四十五回株主総会要件録(DK040043k-0007)
第4巻 p.453-454 ページ画像

第一国立銀行第四十五回株主総会要件録
明治廿八年一月十三日例ニ依リ第四十五回株主総会ヲ東京日本橋区坂本町銀行集会所ニ開設ス、当日来会シタル者左ノ如シ
                      渋沢栄一
                          ○以下氏名略ス
                      以上百三十壱名
 右ノ外委任状ヲ以テ代理ヲ託スル者
                           ○氏名略ス
                       以上弐百三名
 又他出疾病其他来会シ能ハザルヲ通知シ又ハ其通知無ク欠席スル者
                           ○氏名略ス
                     以上弐百六拾三名
○中略
右終テ更ニ臨時総会ヲ開キ、左ノ議案ヲ衆議ニ付シ一同異議ナク原案ニ決定セリ
    臨時総会議案
 - 第4巻 p.454 -ページ画像 
一福島支店廃止ノ件
 理由
 福島支店ハ同地方産出ノ生糸ニ対スル貸付荷為替ヲ取扱フ外普通ノ営業至テ少ナク、且営業上危険ノ虞アルヲ以テ本年一月三十一日限リ之ヲ廃止セントス
○下略


青淵先生伝初稿 第九章下・第七五―七七頁〔大正八―十二年〕(DK040043k-0008)
第4巻 p.454 ページ画像

青淵先生伝初稿 第九章下・第七五―七七頁〔大正八―十二年〕
    第一国立銀行の地方発展
先生の計画せる第一国立銀行の東北地方発展の策は明治十六年以後其歩を進め、十七年には新潟支店を置き、秋田支店の下に花輪・湯沢・横手・大曲・酒田の五箇所に出張所を設け、二十年には宇都宮支店を開きて、力を山形・栃木の両県に展べ、北陸地方には高岡出張所・金沢支店を置きたり。之と前後して東海地方には十七年に四日市支店、十九年に同支店の下に準出張所、二十五年に名古屋支店を置き、近畿地方に於ては、十七年に神戸支店の下に兵庫出張所、十九年には大阪支店の下に伏見出張所を設けたり。第一国立銀行の地方的発展此の如く盛なりしが、日清戦役の前後に至り、
    東北及び北陸地方の引揚
東北・北陸の両地は先生等の後援によりて銀行の設立せらるゝ者漸く多く、孰れも金融上差支なきに至りたれば、先生は東北及び北陸地方の支店を廃止して其力を朝鮮方面に移し、以て海外に発展せんとす。
当時此説を主張して先生を動かしたるは現頭取にして其頃支配人たりし佐々木勇之助なりき。


第一銀行五十年史稿 巻四・第三三―四〇頁(DK040043k-0009)
第4巻 p.454-456 ページ画像

第一銀行五十年史稿 巻四・第三三―四〇頁
    支店の改廃
本行が東北地方の生糸及米穀の荷為替取扱を主として、支店を仙台・石の巻・盛岡・秋田・福島に置き、福島・宮城・岩手・秋田四県の金融を掌りし事は既に前章に述べたるが、其後ますます発展して北陸・東海・近畿の地方にも漸次羽翼を張りたり、今まづ前章を承けて東北地方の経営を語り、次て其他に及ばんとす。
明治十七年の春、秋田支店は県下の要地たる花輪・湯沢・横手・大曲の四ケ所に出張所を設け、専ら国税及び地方税徴収の任に当り、かねて一般の銀行事務に従へり、初め本行の秋田支店を置きたる後、山形県下なる酒田港の農商民等屡々来りて金融を求め、又切に出張所の開設を希望せり、尋で同県令よりも懇請ありしかば、同県と交渉を重ね遂に県為替方たるべき命令に接したるを以て、同年四月遂に酒田出張所を設置して其望に副ひたり、又栃木県下の重要都市として知られたる宇都宮は、木材の集散地として金融繁忙なりしが、同地の商人より屡々支店開設の勧誘を受け、同二十年又国庫金の取扱を引受けしかば三月試に出張所を置けるに、其結果良好にして地方税の取扱をも命ぜられしにより、九月これを拡張して支店と為せり、是において山形栃木二県金融の全権また本行の掌中に帰したり。
 - 第4巻 p.455 -ページ画像 
更に北陸方面を見るに、同地方は古来米穀の産出を以て名あり、乃東北開拓の余勢に乗じて其資力を此地に放下せんとし、明治十七年三月新潟支店を置きたり、尋で十九年九月大阪支店は越中伏木港に店員を派遣して、専ら荷為替の取扱をなし、兼ねて貸付割引等の業を営みしが、二十年六月更に之を高岡町まで延長し、九月に至り金沢支店を置けり、金沢にては前年の末国庫金の取扱を命ぜられて、既に出張所を開始せしに、尋で富山県庁の為替方たるべき命を拝せしかば、即ち之を拡張して支店となしたるなり、かくて北陸の要地も亦本行の手に帰し、爾来同地方の金融を支配するに至る。
新潟支店と同時に伊勢の四日市に支店を設け、始めて手を東海地方に伸べたるは実に明治十七年三月なり、即ち四日市を基礎となし漸次其他に及ばんとす、かくて十九年六月には津市に四日市支店の出張所を置き、廿五年四月には名古屋に支店を開設せり、従来名古屋に輸出入の貨物は皆四日市を経たるを、二十二年東海道線開通の後は貨物の集散は直ちに同地において行はれ、商工業の発達頓に著しかりしかば、其金融を疏通せんが為に支店を置たるなり、爾来本行は四日市・名古屋を中心として、東海道方面の商工業を援助せること甚多く、就中製紙・製糸・製茶・製油・紡績・造船等諸工業の発達は本行に負ふ所頗る大なるものありき、又近畿方面においては明治十七年兵庫出張所を設けたり、兵庫の地たる古来著名の海港なりしが、維新後一旦繁栄を神戸港に奪はれたるに、近年沿岸貿易の発達あり、且また清韓両国より輸入する穀物の取引は専ら兵庫にて行はるゝことゝなりて、金融機関の設備急を要するに至る、これ本行が出張所を開設せる所以なり、また二十七年一月には西京支店の称呼を改めて京都支店となせり、蓋公称に従へるなり、
明治二十六年七月一日商法の一部たる会社法・手形法・破産法の実施せらるゝや、同年十一月大蔵省の示達ありて、商法の実施により従来出張所の名義にて営業せるものは、悉く支店同様の手続を履むべく、且容易に開廃するを得ざる事となりしかば、本行は其制規に従ひ、各出張所においては為替受払等の銀行の本務を取扱はざる事となし、併せて大に支店の整理を行はんとす、抑も本行が嚮に東北・北陸の都市を選びてそれぞれ支店・出張所を設けたるは、率先して文化未開の地方を開発せんが為なりしに、其後地方銀行の新設せらるゝもの尠なからず、本行はこれらの銀行に対しても常に指導援助の労を惜まざりしに、今や自手を下さずとも地方金融に満足を与ふるを得るに至りたれば、本行は之を機として、二十五年三月には石の巻・金沢の両支店を廃し、二十七年七月には盛岡・宇都宮の両支店、二十八年一月には福島支店を廃止して、任務を地方後進銀行に譲渡せり、これ蓋し一挙両得の策にして、地方銀行は本行の譲渡を受け、営業の安泰を得て、本行を徳とすると共に、本行はまた経済的に未開地方開発の功により地方人士に感謝せられつゝ店舗を撤退するを得たるなり、而して東北に収めたる我経済的使命は遠く朝鮮方面に発展することを得たり、されば諸支店の廃止は誠に事宜に協へるものといふべし、当時専ら此議を建てたるものは現頭取にして其頃支配人たりし佐々木勇之助なりき。
 - 第4巻 p.456 -ページ画像 
いま営業満期の際に至るまでの間における、内地各支店開設及廃止の年月を表示して参考に供す。
  店名   開業設置年月日      廃止年月日
 大阪支店  明治六年七月二十日
 横浜支店  同
 神戸支店  同
 京都支店  同 七年二月十五日
 盛岡支店  同 十一年二月十五日  明治二十七年七月
 仙台支店  同 十二年三月一日   同 二十九年五月《(九)》
 石の巻支店 同           同 二十五年三月
 秋田支店  同 十三年九月一日   同 二十九年五月《(九)》
 福島支店  同 十六年一月二十四日 同 二十八年一月
 新潟支店  同 十七年三月一日   同 三十八年五月
 四日市支店 同
 金沢支店  同 二十年九月一日   同 二十五年三月
 宇都宮支店 同           同 二十七年七月
 名古屋支店 同 二十五年四月一日
かくて東北地方においては、仙台・秋田の両支店、北陸地方においては新潟支店のみを存したるが、これも営業満期の後に至りて廃止せる事は下文にいふべし。


第一銀行五十年小史 第一一〇―一一三頁〔大正一五年〕(DK040043k-0010)
第4巻 p.456-457 ページ画像

第一銀行五十年小史 第一一〇―一一三頁〔大正一五年〕
    支店の開廃
 此の如くして仙台・石ノ巻・盛岡・秋田の四支店設立せられ、其取扱ふ国税・地方税の収入の余裕を附近の地に利用せんがために、明治十四年七月仙台支店所轄の下に福島に出張所を置きたり。此出張所は専ら生糸荷為替の取扱に従事したりしが、後国税・地方税等の取扱を命ぜられたるを以て、明治十六年一月改めて福島支店となし、一般の銀行業をも併せ営ましむるに至れり。
 明治十七年の春に至り、秋田支店は県下の要地なる花輪・湯沢・横手・大曲の四個所に出張所を置きて、専ら国税及び地方税徴収の任に当り兼ねて一般銀行業務に従事せり。同年四月酒田商人の希望と山形県より為替方を命ぜられたるとに由り、山形《(マヽ)》に出張所を置く。同廿年三月栃木県の宇都宮に出張所を置き、同年九月之を拡張して宇都宮支店となす。また宇都宮商人の希望と国庫金取扱を命ぜられたるとに由るなり。
 東北地方の業務漸く整備するや、本行は更に北陸地方にも営業を拡張するに至れり。北陸地方は古来米穀の著名なる産地なり。乃ち明治十七年三月新潟支店を開設し、同十九年九月大阪支店より越中伏木港に店員を派遣して、専ら荷為替の取扱をなし、兼ねて貸付割引等の業を営ましめ、同廿年六月更に之を高岡に移し、其後石川県より為替方を命ぜられたるにより、九月金沢に支店を置き、小松・松任・津幡に出張所を設け官金の取扱をなしたり。
 東海地方に於ける営業は明治十七年三月、四日市支店の開設に始ま
 - 第4巻 p.457 -ページ画像 
る。尋で明治十九年六月津に出張所を置き、同廿一年十二月名古屋に出張所を置く。然るに同廿二年東海道線路開通後従来四日市を経て行はれたりし名古屋の輸出入が直に同地にて行はるゝことゝなり、商工業の発達頓に著しかりしを以て、其金融疏通の為め同廿五年四月名古屋出張所を拡張して名古屋支店となす。之より本行は四日市・名古屋を中心として東海道方面の商工業を援助し、就中製紙・製糸・製茶・製油・紡績等諸工業の発達に資せり。同廿七年一月西京支店の称呼を改めて京都支店となす。
 此の如くして、東北・北陸・東海・近畿に亘り、十余個所の支店と多くの出張所とを有して地方金融界のために力を尽しつつありしに、明治廿六年七月一日商法の一部たる会社法・手形法・破産法実施せられ、同年十一月大蔵省の示達により、従来出張所といふ名義にて営業せるものは悉く支店同様の手続を履むべく、且容易に開廃し得ざることゝなりたるを以て、本行は制規に従ひ各出張所に於ては官金出納のみを取扱ひ銀行の本務を営まざることゝし、また大いに東北・北陸地方の支店を整理したり。東北・北陸地方の支店・出張所は元来同地方の金融界を開発するために設けたるものなりしに、其後多くの地方銀行新設せられ、必ずしも本行の存在を必要とせざるに至りしを以て、本行は之を機会として明治廿五年三月石ノ巻支店を廃して之を七十七銀行に譲渡し、金沢支店を廃して之を加州銀行に譲渡し、同廿七年七月盛岡支店を廃して之を盛岡銀行に譲渡し、同月宇都宮支店を廃止し同廿八年一月福島支店をも廃止したり。而して第一国立銀行営業満期の際、即ち明治廿九年九月、更に仙台支店を廃して之を同地の七十七銀行に譲渡し、秋田支店を廃して之を秋田銀行に譲渡せり。是に於て東北地方の支店は全く撤退し了り、最後に残れる支店は大阪・横浜・神戸・京都・新潟・四日市・名古屋の七個所及び朝鮮に於ける釜山・元山・仁川・京城の四個所となりたり。



〔参考〕第一国立銀行半季実際考課状 第一八回〔明治一五年上期〕(DK040043k-0011)
第4巻 p.457 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第一八回〔明治一五年上期〕
    ○諸御達並願伺之事
一同○五月廿二日銀行局長ヘ当行頭取奥羽各支店巡回ノ為メ本月廿日東京出発シタル旨ヲ上申セリ
○中略
一六月二十日銀行局長ヘ当行頭取帰旅シタル旨ヲ上申セリ


〔参考〕東京経済雑誌 第一二〇号 〔明治一五年七月〕 ○陸羽近況(DK040043k-0012)
第4巻 p.457-459 ページ画像

東京経済雑誌 第一二〇号 〔明治一五年七月〕
    ○陸羽近況
  第一銀行頭取渋沢氏は去五月二十日陸羽支店事務巡視として東京を発し、六月二十日を以て帰京せられたり、今氏の紀行を得たれば左に掲ぐ
陸羽各地方今般の商情ハ概して不景気の一言を以て之れを覆ふるに足る、且金融も極て渋滞すと雖ども、目下諸物価の活溌ならざるにより需用も亦多からさるの姿あり、然りと云どももし起業資の如き貸付金
 - 第4巻 p.458 -ページ画像 
を為さんと欲せは、之れを要望する者は店頭に雲集すべしと思はる、○各地養蚕は気候の穏当なるによりて概して豊作の徴あり、就中福島県下保原掛田柳川近傍ハ六月中旬より新糸市場に出て且つ上作なりと云ふ、又蚕種も歩方宜敷に付、其製造多額に過くるの恐れありと、練熟の蚕種営業者は之れを憂慮せり、又岩代盤城二国ハ勿論陸前陸中秋田三県の養蚕も年々上進増殖の勢あり、且昨年ハ内地織物製出の地方不景気なるに付、太と口の製糸は低価なりしを以て、各地共に専ら海外輸出に充つる製糸を勉めたるハ、或は不幸中の僥倖と云ふへし、故に本年も此五ケ国より貿易場へ提出する生糸は昨年に超過すへしと思はる、○右の景況なるに付各地生糸場に於て荷為替前金と唱ふる資金の需用は続々として、其請求を陳謝するに遑あらざるの想あり、○米穀は各地共に一昨十三年迄常に価格騰上せし故、農家は之れに狎れて昨年も尚其故轍を予期し、勉て放売せざりしか、年末より本年に入りて都会の相場は漸く低落し、且貢納期の短縮するを以て、其金融促迫に刺衝せられ、大に售売の念を増し、随て低落すれは随て之れを放売せしに付、石巻近傍の如は最早余穀は多からさるべし、但秋田県下には農民に財産有者多きと港口の不便なるとを以て尚残余の額ありと云へり、○各地商估の情態は之を十一年巡回の時に比すれは、自ら世間の風潮に化せられ商業の思想稍進歩せし姿あり、而して為替割引又は物貨運輸の便否等は商売に大関係を有することを暁知する者も追々増加するの勢あり、然りと雖とも昨年来一般の不景気に際し、商人は挙て損毛多きを以て、概して困頓の色有、且其軽進者流は殊に困難を極むるの姿なるに付、却て曩に固陋視せられたる退守家は聊其災厄を免かれたるの状あるを以て、進取の気象は更に退縮するに至らんかと思はる、○工業は商業に比しては殊に其進歩を見る能はす、偶ま小会社を創立せし者も(織物製糸摺付木又は運送会社の類)往々衰頽の色あり只秋田産の畝織八丈織等は価格低廉なるに付、従来営業の商家は充分継続し得ると云へり、○道路は各県庁に於て鋭意修築せしを以、先遊の時に比すれは大に観想を改めたり、然りと雖とも其事業大にして経費之れに適せさるものは、之れか改修を怠るに於ては、寧ろ依旧の優れるに如かさるの恐れなき能はす、但宇都宮南北七八里間の国道は敢て嶮峻なるにあらすと云とも、雨天には泥濘車を没して行旅極めて困難なりき、福島は陸羽生糸市場の咽喉にして実に商業枢要の地たり、故に其土地豊饒ならさるに非ず、其商估活溌ならさるにあらすと雖とも、其規模は未た以て物貨に適当する能はす、且夫れ生糸荷造問屋の施設完備に至らさるを以て、荷為替取組方に安全を欠くの憾あり、加之商估は多く昨年の困弊を受たるに付、本年の生糸商業は大に憂慮すへきものあるを覚ふ、思ふに同地の商估早く共に此に注目して荷造所の創設を謀らは、大に生糸に関する金融の便を生して、漸く此の商業の改良を期するを得へきか、○野蒜築港は宮城県下の一大事業にして明治十一年以降土木局に於て経営せらるゝに付、運河及び繋船所の開鑿閘門の設置浜市村道市街の布置及港口の波止場修築等は稍竣功に至らんとす、蓋し荒郊に雲閣を作り沙浜に海門を築く、其業亦偉と云ふへし、然りと雖とも土人の巷説によれは潜ケ浦の滊船碇泊は宮戸島の
 - 第4巻 p.459 -ページ画像 
暗礁に沿ふて更に長大の突堤を築造せされは、未た以て充分安全なりと云ひ難しと、是れ或は無識の臆説なるへしと雖とも然れとも現に野蒜浜市の土地を購求して移転を謀るの民情ハ、却て前日に減するの姿あるを見れは、亦以て憂慮せざるなき能ハす、冀くハ土木局に於て殊に之れを講求せられ、もし巷説に信あらハ突堤修築の挙あらんことを望むのみ、○北上川ハ昔日に比して大に舟楫の便を増す、且目下石巻港より岩手県下一ノ関に至る約二十里の間、毎日川蒸気の往復あり、又高瀬舟の如きハ黒沢尻よりして航行自由なり、然りと雖とも米穀を除くの外ハ物貨饒からす、行旅も亦少きを以て、此便あるも未た充分に之れを使用する能はさるなり、○秋田地方は山鬱叢して水平流なり土地濶くして而して瘠ならす、岩手県と腹背相隣ると雖とも大に其趣を異にす、久保田ハ旧藩城下にして今日置県の地たるを以て、人口稠密にして少しく繁盛の姿あり、然れとも舟楫の便に遠く、物貨輻湊の地たらさるを以て、之を商業市街と云ふへからす、土崎ハ雄物川海口に注く所に在るを以て、従来港の称呼あり(久保田を距る北一里半程)然りと雖とも北海西風の険あるに付、小形の和船ハ或ハ湊口に碇泊するを得るも、滊船風帆船の如きハ悉く遠く船川に滞泊して、晴日を以て僅に進口するに止る、然り而して土崎船川の間相距る僅かに八里に過ぎずと雖とも、艀賃非常に高価にして、往復の時限も風浪に関して常に期する能ハすと云へり、其不便思ふへし、故に秋田地方に於てハ仮令其産出の米穀を改良するの挙をして、充分に其目的を達するも、此湊口の便を開くの施為なくんハ、或ハ玉を土中に埋むるの憾なきを免かれす、○鉱山ハ半田銀山と(五代氏稼業に係る)荒川銅山日三市銅山《(三日市カ)》を(瀬川氏稼業に係る)一覧せり、半田ハ従来の鉱砂再精煉の方法にて営業十分なりと云ふ、其方法経便《(マヽ)》にして利益ありと思はる、又荒川銅山ハ家屋器具等実に整頓せり、然れとも昨年以来ハ其出銅の高一昨年の如く多量ならさるに付、其利益も一昨年に滅せし由なり


〔参考〕第一国立銀行半季実際考課状 第二二回〔明治一七年上期〕(DK040043k-0013)
第4巻 p.459 ページ画像

第一国立銀行半季実際考課状 第二二回〔明治一七年上期〕
    ○諸御達及願伺届之事
一同月○五月廿八日大蔵卿ヘ当銀行頭取渋沢栄一京摂及右最寄各支店出張所巡閲ノ為メ当日出発セシ旨ヲ上申セリ
○下略


〔参考〕竜門雑誌 第五七号・第三八頁〔明治二六年二月〕 青淵先生の関西巡回(DK040043k-0014)
第4巻 p.459 ページ画像

竜門雑誌 第五七号・第三八頁〔明治二六年二月〕
    青淵先生の関西巡回
青淵先生 去月○一月二十七日午前十一時四十五分新橋発にて、京都大阪神戸四日市名古屋等の各地に在る第一国立銀行支店事務巡覧、並に所在の各会社総会に出席と要議に預る為直行京都に赴き、順路巡回して本月八日午後九時四十五分無事帰京せられたり


〔参考〕渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二六年)二月二日(DK040043k-0015)
第4巻 p.459-460 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤峰三郎宛 (明治二六年)二月二日
                (斎藤峰三郎氏所蔵)
一月三十一日附書状今朝大坂支店ニて一覧仕候、西京大坂とも寒気ハ
 - 第4巻 p.460 -ページ画像 
時節柄凛烈ニ候得共降雪ハ軽少ニ御坐候、拙生爾来健全頃日尾高迄書通せし如く昨夕大坂着、今朝銀行支店事務撿査いたし、夫より紡績会社ヘ立越増設之評議も概略相談相済申候、乍去同社ハ兎角工商務之間不折合ニ付、此際右等之協和を謀候義専一ニ付、尚明日一同ヘ充分之説諭相試候為終日出張之都合ニ御坐候、明夕迄ニて右等之用向取片付、四日朝神戸へ罷越、即夜西京一泊、五日ニハ四日市紡績会社臨時会ヘ出席、其翌日名古屋へ廻り七日又ハ八日帰京之積ニ御坐候 ○下略
  二月二日
    斎藤峯三郎殿            渋沢栄一


〔参考〕株式会社第一銀行営業報告書 第一八期〔明治三八年上期〕(DK040043k-0016)
第4巻 p.460 ページ画像

株式会社第一銀行営業報告書 第一八期〔明治三八年上期〕
    処務要件
一、新潟支店、長岡出張所ヲ廃止シ城津及安東県ニ出張所ヲ設置シタルニ付、六月二十日ヨリ同月三十日ノ間ニ所轄登記所ニ於テ其廃止及開設ノ登記ヲ受ク