デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
4款 国立銀行及ビ普通銀行 7. 第七十七国立銀行
■綱文

第5巻 p.306-313(DK050067k) ページ画像

明治42年1月(1909年)

第七十七国立銀行ノ設立ニ付指導シテ以来、同行ノタメ尽力スル所多カリシガ、是月七十七銀行相談役ト為ル。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四二年(DK050067k-0001)
第5巻 p.306 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年
一月六日 晴 寒
○上略 又土岐僙氏来リ仙台七十七銀行ノコトヲ談ス○下略


株式会社七十七銀行定時臨時株主総会議事録(DK050067k-0002)
第5巻 p.306-307 ページ画像

株式会社七十七銀行定時臨時株主総会議事録
明治四十二年一月廿七日午後三時拾分、株主総会ヲ当市五城館ニ於テ開ク
頭取土岐僙議長席ニ着ス
議長 本日ハ寒サ且悪路ニモ不拘御出席ヲ願ヒマシテ、誠ニ御苦労ニ存シマス、是ヨリ当銀行第六十一期定時総会ヲ開キ、引続キ臨時総会ヲ開クコトニ致シマス
○中略
 - 第5巻 p.307 -ページ画像 
  午後四時十五分
議長 臨時総会ヲ開クコトヲ宣ス
  出席人員 九拾名 此ノ権利数 七千五拾参個
  委任状ニ依ル人員 百参拾名 此ノ権利数 六千八百弐拾七個
  合計人員 弐百弐拾名 此ノ権利数 壱万参千九百八拾個
○中略
土岐頭取 当銀行発展ノ気運ニ際シ、渋沢男爵ニ当行相談役タランコトヲ御願ヒ申上ケマシタ処、幸ニ御承諾下サレマシタ、一応此ノ事ヲ御報告致シマス
株主早川智寛君 渋沢男爵ノ当七十七銀行相談役ヲ御承諾下サイマシタノハ、他ノ諸会社ニ御関係ナサレテ居ラルル様ニ、新聞紙其ノ他ニ相談役トシテ掲載差支ナキ迄ニ御運ヒ下サレタノデスカ
土岐頭取 ソレハ差支ヒナキ様運ンデアリマス
株主早川智寛君 一寸株主諸君ニ申上ケマス、渋沢男爵ガ当銀行ニ就テ御配慮下サイマスノハ今ニ始メヌコトデスガ、今回更ニ相談役ニマデ御成リ下サルコトハ、吾々株主ニハ此ノ上モナイ幸福デ、又当地方ノ名誉ト申サナケレバナラヌ、先ツ此ノコトニ御斡旋セラレタル土岐頭取ノ労ヲ拝謝シマス、猶ホ株主ノ内ヨリ総代ヲ選ミ、上京シテ御礼ヲ申上クヘキノ処、土岐頭取近々御上京ノ由ニ付、同氏ヨリ宜敷御礼ヲ申上ケラルル様致シタイト考ヒマスガ、諸君ハ如何デスカ
   満場拍手シテ之ニ賛成ス
土岐頭取 小生ニ対スル讃辞ハ当ラサルモ、渋沢男爵ヘノ御礼ハ上京ノ上親シク申上クルコトニ致シマス
   之ニテ閉会、時ニ午後六時三十分
右之通ニ候也
  明治四十二年一月二十七日
           株式会社七十七銀行
               頭取      土岐僙印
               取締役     熱海孫十郎印
               同       鈴木清之輔印
               取締役兼支配人 神谷義雄印



〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四二年(DK050067k-0003)
第5巻 p.307 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四二年
六月十八日 晴 暑
○上略 三時第一銀行ニ抵リ佐々木、市原、日下ノ諸氏ト韓国支店ノ処置ニ関シ熟議ス、畢テ七十七銀行ノコトニ関シ土岐氏ノ意見ニ付種々ノ協議ヲ為ス○下略
七月十六日 晴 大暑
○上略 七十七銀行ノコトヲ土岐氏ヨリ談話アリ○下略


〔参考〕渋沢栄一 書翰 土岐僙宛 (明治四二年)一二月二九日(DK050067k-0004)
第5巻 p.307-308 ページ画像

渋沢栄一 書翰 土岐僙宛 (明治四二年)一二月二九日(土岐家所蔵)
 - 第5巻 p.308 -ページ画像 
貴翰拝読、月迫別而御繁忙之事と察上候、然者七十七銀行之将来ニ付縷々之来示拝承、爾来色々と御心配被下候ニも拘はらす、今以地方人士之心情兎角依頼心のミ有之候ハ真ニ世話甲斐少き事ニ御坐候、乍去此地方之人情ハ今日始而右様相成候儀ニモ無之、従来之慣習とも可申義ニ付所謂小鮮を煮る之料理法尤以御注意被下度候、但し世話ニ過候ハヽ依頼心増長し、冷酷ニ致候時ハ自棄心相生し可申ニ付、其中間ニ処候外無之と存候、此辺ニ付而ハ貴台之禅味尤以其宜を得可申と存候何卒御耐忍頼上候、帰朝早々百事蝟集匆々之拝答欠敬御海容可被下候
                             不宣
  十二月廿九日                渋沢栄一
   土岐盟台
      坐下


〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四三年(DK050067k-0005)
第5巻 p.308 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四三年
八月十八日 曇 冷
○上略 六時第一銀行重役会ヲ開キ要務ヲ議決ス、畢テ土岐氏ヨリ七十七銀行ノコトニ付意見ヲ陳述セラル○下略


〔参考〕渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治四四年)五月六日(DK050067k-0006)
第5巻 p.308 ページ画像

渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 (株式会社第一銀行所蔵)
○(明治四四年)五月六日
拝啓益御清適奉賀候、然者先般来種々御心配被成候七十七銀行頭取問題ハ先頃寺田知事御出京之際小生面会之上切ニ事情陳上いたし候得共知事之御意見ハ何分八木氏ニても十分と相考不申候ニ付、是非当行ニて誰か推薦致呉候様と再三再四被申聞、其際ハ落着を得す終に其儘と相成、此程再度御出京之由ニて拙宅と第一銀行とニ於て再度御会話いたし、其最終之談話ハ今日佐々木君と共ニ本店ニて種々協議いたし候も、知事殿ニハ矢張前説を主張せられ、小生等ハ何分当行ニ於て推薦いたし候事ハ御辞退申候まてニて終局を得るニ至らす候、尤も知事殿ニハ品ニ寄リ大蔵省辺ニ頼入適材撰択之考も有之候哉ニ被存候、併夫も出来兼候ハヽ当初当方より申出候如く御同意被成候歟とも相見へ候右様々模様ニ付此処未決之姿ニハ候得共、当方之見込ハ知事殿ニ別段之御工夫無之上ハ昨年申述候手続ニ相運候様企望罷在候間御含可被下候、右ハ爾後再三之会談御内報まて匆々如此御坐候 拝具
  五月六日                渋沢栄一
   神谷義雄様
       梧下

  「仙台市七十七銀行」 神谷義雄様 親展 渋沢栄一
  五月六日
 - 第5巻 p.309 -ページ画像 

〔参考〕渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治四四年)七月一五日(DK050067k-0007)
第5巻 p.309 ページ画像

 ○(明治四四年)七月一五日
拝読、爾来益御清適奉賀之至ニ候、然者貴銀行頭取交迭之問題ニ付而ハ、昨年来種々入込候事情相生し大ニ痛心仕候処、寺田知事殿の御意向も漸く小生等と同様之場合ニ相成兼而御打合之如く八木氏ニ於て引受候事と相成可申、又土岐氏之後任ハ伊沢氏と相定り候由、夫是重畳之事と御悦申上候、右ニ付而ハ寺田知事ニハ別而心配致呉候義ニ付此際一書を呈し謝意申述候間御含可被下候、且又八木君其他之重役諸君へも貴兄より呉々宜敷御伝声被下、折角日を追ふて順調ニ相進候銀行之営業を弥増隆昌之域ニ相達候様此上之御尽力懇祈之至ニ候
右拝答旁一書申上候 匆々敬具
  七月十五日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       拝復

〔参考〕渋沢栄一 書翰 神谷義雄宛 ○(明治四五年)六月二六日(DK050067k-0008)
第5巻 p.309 ページ画像

 ○(明治四五年)六月二六日
拝読、益御清適奉賀候、然者過日来御協議申上候七十七銀行株引受之事ハ、拙宅ニ於てハ五百株といたし其価格ハ壱株金弐拾円と決定之由承知いたし候、早々御取引可為致ニ付事務所へ御申越被下候ハヽ代金も直ニ御仕払可致候、他之株高引受之割合も別紙ニて御申越被下承知いたし候、又右株式未払込金ハ拾五円之半高ハ本年下季残半高ハ来年上季ニ払入候積御取極之段拝承致候、右様残り株之処分全く結了いたし候ニ付而ハ、明年ハ可成増資案も提出相成候位ニ今日より営業之現況相進候様御高配有之度候、且又前段之趣旨ハ重役中特ニ充分御力入之方々へハ篤と御打合相成候様企望仕候
右不取敢御答如此御坐候 敬具
  六月廿六日
                      渋沢栄一
   神谷義雄様
       拝復
  仙台市七十七銀行 神谷義雄様 「東京日本橋区兜町」 渋沢栄一
  六月廿日


〔参考〕渋沢栄一 日記 ○明治四四年(DK050067k-0009)
第5巻 p.309 ページ画像

渋沢栄一 日記
 ○明治四四年
九月十九日 曇 冷
○上略 仙台七十七銀行八木久兵衛、神谷義雄氏来リ、同行頭取ノ就任ニ付種々其経過ヲ談話ス○下略

〔参考〕渋沢栄一 日記 ○明治四五年(DK050067k-0010)
第5巻 p.309-310 ページ画像

 ○明治四五年
 - 第5巻 p.310 -ページ画像 
二月十六日 曇 寒
○上略 仙台七十七銀行頭取八木久兵衛氏来話ス○下略


〔参考〕渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (大正一年)一〇月四日(DK050067k-0011)
第5巻 p.310 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐々木勇之助宛 (大正一年)一〇月四日 (佐々木家所蔵)
○上略
仙台七十七銀行ニ関する御高配ハ過日之尊書ニて拝承仕候、御帰途尚御訓示有之度と存候
○中略
  十月四日               渋沢栄一
   佐々木勇之助様
         梧下
○下略


〔参考〕竜門雑誌 第三五五号・第五七―六〇頁〔大正六年一二月〕 ○仙台に於ける講演(DK050067k-0012)
第5巻 p.310-312 ページ画像

竜門雑誌  第三五五号・第五七―六〇頁〔大正六年一二月〕
    ○仙台に於ける講演
○上略
 県会議事堂に到れば日下、吉池、大久保、荒木の諸氏既に来着して先生を待ち受けられたり。先生には直ちに休憩室に入られ、知事と挨拶を交換せられ、其先導にて階上講演場に赴かれ、直ちに壇に立つて大要左の如き講演をせられたり。
 私は明治六年以来今日に至る四十余年間、銀行者として其事務に従事して来たものでありますから斯く壇上に立つて「諸君」と呼ぶが如きは、私自身にとつて相応しからぬばかりでなく、世間亦之を好まぬことかと思ひます。私は固より政治とか学術とかに付て何等深い智識を有つて居るでもなし又意見を有つて居る訳でもありませんが、商売人が公衆の前に自分の意見を述べることが出来ぬと云ふことは残念だと思て、従来機会のある毎に所感を披瀝して、一般の参考に資して来たのであります。斯る次第でありますから今こゝに申上げることも学術又は政治に亘ることは出来ませぬ、然し経済方面のことに付ては、経験により或は学理によつて得たところが無いでもありませんから其の既往を舒べ、将来を察することは出来やうと存じます、又此方面の事は学者、政治家に一任して置けるものでもありませんから、実際家として此方面に関する所感を述べて見ようと思ひます。殊に当県を主として御話をして見たいと思ひます。順序として二つの段階に分ちますると一つは仙台若くは宮城県と私との関係乃至其沿革で、他の一つは東北振興に関する事柄であります。
 由来東北六県の事柄は日に月に進歩して居るとは申しながら、之れを日本全体に比較しますると残念ながら不振なりと云はねばなりませぬ。振はざるが故に之を振はしめざるべからずとは何人も等しく唱ふるところで、私共東京其他の同志者が集つて東北振興会を企てましたのも之が為めであります。時は大正二年で山本内閣時代東北出身なる原敬氏の内務大臣時代でありました。当県は東北六県の
 - 第5巻 p.311 -ページ画像 
中では首位に居りますし、仙台市は六県の都市中での重鎮と申して差支はありませんが、決して現状を以て満足して居る筈はございません。更に一段振興せしめねばならぬと云ふ強い観念のあることを信じて疑ひませぬ。東北振興は私が申上るまでもなく、既に諸君自ら大に考究すべき問題で、若し諸君自ら之を考究せず又之に関する意見を述べずとすれば、之実に自ら卑うするものと申しても敢て誣言と云ふことは出来ないと信じます。私は前に申上げた通り明治六年に官海を去つて銀行家となりましたがこれはこう考へたからであります。実業界の進歩発達と云ふことに付て考へると、第一に必要なのは金融である、金融が発達せねば実業も進歩せぬ、同時に又国家の基礎を造ることが出来ぬ。これは恰かも血液の運行宜しきを得て体内諸機関の活動を促がし以て健康を保つと同様であると考へたからであります。然るに翌七年に有力な同志を失ひましたので一時非常の難境に陥りました。当時思ひまするに銀行なるものはそれ自身丈で働けるものではない、一般実業が盛にならねば銀行が隆盛となることは出来ぬ。そこでその時代の日本の状態を考へて見ますに商業は振はず、工業は甚だしく幼稚でありましたので余儀なく銀行以外の事業に努力して先以て此等の興隆を期せねばならぬと決心致したのであります。夫は兎に角、銀行の方は明治九年に銀行制度の小改正がありまして、爾来数多くの銀行が地方各地に設立せられました。御当地の七十七銀行もその時に出来たもので、主として増田繁幸氏によりて唱へられたのであります。この時私に相談がありまして始めて仙台市に関係を有することゝなつたのであります。当時の私の考では世間で銀行を利用する向の尠いのは事業が不振だからで両者は相俟つて発展する様でなければならぬ、又同時に中央の繁栄は地方の振興によつて始めて期待せらるべく、丁度小川が集つて大河をなすのであつて如何に大河ありと雖その水源涸渇すれば小川と化すると同様である。此理由から地方の事業に重きを置かねばならぬと確信し、又日本と云ふ立場から考へて米及び蚕糸の振興を心掛けねばならぬと云ふ結論に到達しました。これで地方のためには地価を増し、中央にとつては安価に物質が供給せらるゝようになるであらうとも考へました。そこで東北各地に、第一銀行の支店を設けましたが、遺憾ながら所期の効果を挙げることが出来ませんでした。
御当地の七十七銀行の如きも若しも初めから引続き関係して居りましたならば、其経営もさして窮地に陥らなかつたかと考へらるゝ節もありますが、一時は非常な困難に陥つたことを耳にしました。その後幾多の曲折を経て、最近には役員に其人を得まして、相当の成績を挙げ、一般の信用も漸次増加して参つたと聞きました。これは地方の為め洵に喜ばしい次第であります。米の関係から石の巻より東京への海運を開きましたがこれ又残念なことには経営者が失脚しました。元来当県には完全な港のあると云ふことが最も大切で、此点よりして明治初年に野蒜築港を主張しました。然しその計画宜しきを得なかつた為めに遂に廃止となりましたが、これは仙台にとつ
 - 第5巻 p.312 -ページ画像 
て実に千載の憾みと云はねばなりませぬ。若し当時此計画が成功して居りましたならば、恐らくは学都を以て誇るが如き有様ではありますまい、必ずや貨物集散地として重要の地位を占めて居たに相違ございませぬ。この様な訳で東北振興と云ふことについては心配をして居つたのであります。
 東北といへども年と共に発展しまして野蒜築港成らずとも他の海運の便利あり、又鉄道の開通も見ましたので、其当時のことを思返しまして今昔の感に耐へぬ次第であります。然し其度合を他国と比較して見ますると猶ほ甚だ物足らぬ感じがいたします。私は曾て三回渡米しましたが、その度毎に変化の著るしいのに驚きました、殊にシヤトル、タコマ、サンフランシスコ等駸々として進んで居ります。米国の非常に進歩しまするのは、漸次に富が増加して来たからであります。其有様を以て東北六県と比較して見ますると、東北は其間何をして居たのか、奥羽の人間は皆昼寝をして居たのではないかと怪まるゝのであります。
 大正三年時局勃発以来東京、大阪その他関西、九州に於ては実に長足の進歩を遂げて居るのであります。然るに東北は依然として事業上の好影響は殆んどこれを受けずと申しても不可なき有様であるのは如何したものであるか。かく申せばとて東北に事業がないではない、然し其事業は何れも他地方人の占領する処となつて、東北人自ら関係するものは甚だ尠いのであります。例へば福島県に於ける猪苗代水力電気、化学工業、亜鉛精錬所等皆東京人の経営でありまして、秋田県の石油及鉱山何れも他地方人の経営であります。以上申し上げましたとほり、戦乱突発以来大に発展すべき事業も他地方人の為めに占領せられましたのは、畢竟東北人に発展すべき根底を欠いたが為めであります。
 経済に境界なしとは云ふものゝ、東北人自身の事業のないと云ふことは余り自慢の出来ることでもありませぬ。事物の進歩は第一に土地に天恵あるを要し、第二に地の利を得ねばなりません。然し其上に肝要なのは人に在りと申上げたい。凡て敢為、勤勉、豪毅、忍耐、これ等諸々の美徳さへあらば総て何事か成らざるものあらんやであります。何卒御奮励ある様祈ります。
○下略


〔参考〕東京朝日新聞 〔昭和二年七月二九日〕 歴史も古き七十七銀行 三陸を風靡伊沢氏の尽瘁(DK050067k-0013)
第5巻 p.312-313 ページ画像

東京朝日新聞 〔昭和二年七月二九日〕
  歴史も古き七十七銀行
    三陸を風靡伊沢氏の尽瘁
同行は明治十一年の創立にかゝり年を閲する事今玆に四十五年、決算を重ぬる事実に九十四、会社としては相当古き沿革を有せり。
明治十年増田繁幸、亘理隆胤、松前広致、後藤充康、氏家厚時、河田安照、須田平左衛門、中島信成等の諸氏時運の趨勢に鑑み同年十一月十五日当市大町一丁目の栽培地に会同し、明治九年八月一日の国立銀行条例に依り国立銀行創立の事を商議し先づ河田・渡辺氏を総代として上京せしめ、時の第一国立銀行頭取渋沢氏に会見し之が創立に関し
 - 第5巻 p.313 -ページ画像 
其卓見を叩きたるに最も周到懇切なる垂教を受け大いに其要領を会得して帰仙、基の指導に基き計画を樹て、以て同十一年二月二十日始めて大蔵省へ上願し同年四月廿六日を以て之が允準を蒙り第七十七国立銀行の称号を賜はる。此の時に当り既に允可を得て称号を賜はりたる第四十六国立銀行の創立発起人遠藤・佐藤氏等此の計画を聴き、寧ろ之に合同して同心協力其業務の堅実にして大ならん事を期し度き希望を有せしに依り爰に双方の発起人相会し、数次協商を重ね愈々合同して経営するの得策なる事を認め、同十一年九月之が合併の事を大蔵省へ請願同月其の允可を得、同年十一月附けを以て開業の歩を進めり、爾来時勢の進展に伴ひ益々業務拡張せられ、当初は資本金廿五万円なりしも明治十九年には五十万円となり、三十一年には百五十万円となり、大正八年に至りて五百万円となりて帝都の銀行に比すべき多資本を抱き、多年の計画たりし新築は既に工を了し巍然としてそびへ立つ大厦は仙台市を始め宮城県下を風靡し、東北の地銀行多く信用厚きもの多しといへども同行は嶄然一頭地を抜いてゐる、これ一つに頭取伊沢平左衛門氏の尽瘁の結果である。


〔参考〕渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛 (年未詳)七月二二日(DK050067k-0014)
第5巻 p.313 ページ画像

渋沢栄一 書翰 八十島親徳宛 (年未詳)七月二二日 (八十島親義家所蔵)
○上略
仙台平岡氏へ之回答書ハ御差出可被下候、宮城知事来状之返事ハ銀行へ御打合可被下候
○中略
  七月廿二日                       栄一
    八十島殿
  ○七十七銀行ガ、明治三十六年営業不振ノタメ整理ヲナスニ当リ、栄一第一銀行員神谷義雄等ヲ同行ニ転任セシメテ之ヲ援助シタリシガ、明治四十一年百五十万円ノ資本金ヲ半減シテ徹底的整理ヲナスニ及ビ、ソノ翌年一月栄一同行相談役トナレリ。七十七銀行ハ整理ノ結果業績挙リ、増資及ビ合併ニヨリ昭和二年ニハ資本金七百万円トナレリ。