デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
6款 択善会・東京銀行集会所
■綱文

第7巻 p.54-65(DK070007k) ページ画像

明治40年12月23日(1907年)

銀行倶楽部第六十四回晩餐会開カレ、来賓トシテ通商局長石井菊次郎等出席ス。栄一一場ノ挨拶ヲナス。


■資料

銀行通信録 第四五巻第二六七号・第六三頁〔明治四一年一月一五日〕 銀行倶楽部第六十四回晩餐会(DK070007k-0001)
第7巻 p.54 ページ画像

銀行通信録  第四五巻第二六七号・第六三頁〔明治四一年一月一五日〕
    ○銀行倶楽部第六十四回晩餐会
銀行倶楽部にては十二月二十三日午後六時より石井通商局長、森田商工局長(欠席)、荒川公使、萩原、水野両領事を招待して第六十四回会員晩餐会を開きたり、当日出席者は委員長以下約七十名にして一同晩餐後早川委員長起て一場の挨拶を述べ、夫より石井局長の欧米旅行談荒川公使の墨西其談《(哥)》、萩原領事の満洲談、及水野領事の漢口談あり、会員高木益太郎氏も亦海外旅行中の所感を述べ、次で会員高橋日本銀行副総裁の満洲視察談あり、最後に渋沢男爵起て来賓及び委員長に対する謝辞を述べ、夫より席を別室に移し、各自歓話の上午後十時散会せり


銀行通信録 第四五巻第二六八号・第一九八―二〇九頁〔明治四一年二月一五日〕 銀行倶楽部晩餐会演説(昨年十二月二十三日)(DK070007k-0002)
第7巻 p.54-65 ページ画像

銀行通信録  第四五巻第二六八号・第一九八―二〇九頁〔明治四一年二月一五日〕
  ○銀行倶楽部晩餐会演説 (昨年十二月二十三日)
    ○早川委員長の挨拶
諸君、私は来賓諸君の御健康を祝したいと思ひます、今夕石井君、荒川君、萩原君、水野君の御来臨を得ましたのは当倶楽部に取りましては非常に喜ぶところでございます、殊に今夕の御客様方は吾々経済方面から申しますると直接に御関係のある方、又今日吾々に直接に関係のある所に御在職になつて居た方々でありまして、或は外交官としては欧羅巴が本場かも知れませぬが、今日吾々に経済上最も直接の関係を有つて居るところの諸君方が御出席になりましたのは誠に吾々の満足するところであります、石井君は既に移住民問題に就いて米国へ御出になり御帰朝になつた訳であります、又荒川君の御任所は墨西哥でありまして、吾々が戦後日本の経済問題としては最も重要視するところの移民に就て大に望を嘱して居る所でありまして、今日迄未だ好結果を見ませぬが、将来最も関係のある所と信じて居ります、即ち同君の力に依つて我が移民の将来益々発展すると云ふことに就ては御尽力を受ける訳であらうと信じます、又萩原君に於きましては吾々の此の戦後経営上に於て最も関係の深いところの満洲に於て即ち奉天の総領事として大に御尽力になりましたところが今日本省へ御転任になつた訳でございます、大に吾々の為に外務省へ御出になりまして是より又経済界の為には益々直接の御貢献があらせらるゝことゝ信じます、水野君は既に同君の著述になつた所の漢口と云ふ大きな書物に依りまして同君が商工業の為に漢口の価値を吾々に御紹介下されまして吾々大に御指導を受けた訳でありますが、其の御経験、其の他の御抱負を以
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て吾々の最も外国貿易上密接なる関係のある紐育へ総領事として御赴任になるに付ては、将来大に我が生糸貿易を始めとして其他日米間の貿易が同君の力に依つて大に増進し、吾々の経済を発展するやうな機会を得ることが出来るだらうと考へまして深く吾々の喜ぶところでございます、此の四君の今夕御来臨を得ましたことは大に喜ぶところであつて又謝するところであります、同時に将来益々御健康に在らせられて吾々の経済界の為に御尽力あらんことを希望致しまする、続いて失礼でありますが今日の主人側の中に高橋君が御出でになりますが、此の程満洲から御帰りになりまして誠に短い御旅行でありましたが、必ずや其の御土産と云ふものは頗る我が邦経済上に有益だらうと考へます、益々同君の御健康を祈ります、諸君と共に来賓諸君の御健康を祝します(起立乾盃)
    ○石井通商局長の演説
此の盛大なる宴会に御招きを蒙りまして諸君と一夕の歓を共にすることを得ましたのは非常な光栄とするところでございます、深く御礼を申上げます
私はチヨツと二箇月ばかり米国に滞在致しまして其間に感じたことを二言、三言申上げまして後とは大分材料豊富及び雄弁多才の方が沢山ございますから私は極く前座だけを勤めます、亜米利加へ行つて私の最も感じましたのは何れの所へ参りましても非常に各社会一般に活気を帯びて居りますことで、一個人及び団体のみならず各都府及び各町村の間にも大なる競争が行はれて居ります、而して此の活溌なる人種の居るところの土地は如何であるかと云ふと、実に無尽蔵の富源を有して居る、此の米国の将来と云ふものは実に測り知るべからざるところの有望なるものであると云ふことは一見して解るやうでございます、例へば桑港へ行きますと加利福尼亜第一の都府は無論桑港であると云ふ、又少し南に下りてロースアンゼルスの方へ行きますと加利福尼亜の都府はロースアンゼルスである、ロースアンゼルスは桑港に勝ることは斯く斯くの点に於てゞあると云ふので、各都府及び之を小さくしては一郡一町村に至るまで非常な競争で各々自家の優勝なることを競ふと云ふ有様である、此の気力に加へて米国の総ての制度は御承知の通り全く自治で、一町村、一市にしても各人民は思ふが儘に自分の都府を、制度を立てゝ発達をして見やう、他の町に勝ち此の競争にも勝ちて一つ思ふが儘に完全なる政治をやつて見やうと云ふ精神が何れの都会に於ても満々として居りますから、将来の米国は実に恐ろしい発達をするところの国だらうと思はれます、此の点に付ては実に吾吾日本の国は大に学んで宜からうと思ひます
是までは真面目な私の話でございますが、それに付て私が旅行を致しまして大に失敗を致したこともございまするし、又迷惑をしたこともございまするで、今晩は此の前置の下に私の失敗と及び迷惑とを二つ三つ申上げやうと思ひます
第一是は米国人の考から云ふと至極良い考でございますが、衛生上の考から大道へ行つて車道では宜いが、人道で唾をすることはいかぬ、唾をする者は罰金を取られるのです、私は赤毛布の旅行で何にも知ら
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ぬから初めは遠慮なく人道と車道とに日本的の唾を吐いて大に友人からして譴責を受けました、幸に巡査も居らぬ所でございましたから罰金は免れましたが、是は私は後から聞いて見て非常に良い制度だと思ひました、最も日本のやうに出歩くに下駄を穿いて出で、又室に入るには下駄を脱いで綺麗な畳の上に座るなら左程此の必要を感じないかも知らぬが、出入するのに靴を穿いて、殊に婦人の如きは長い裾を引張つて歩く国に於ては清潔の上から言ふても亦伝染病を予防する上から見ても極めて良い制度と思ひます、是等も矢張り各都府が必ず此の警察令の中に罰金と言ふ制度を設けてあるのではない、或る都府へ行けば此の制度があるし、又或る都府へ行けば此の制度が無いのであります、是等も詰り一都府一市街の根本的に衛生と云ふ点から考へた一つの新規なる制度で大に私の失敗した一つであります
次に困りましたのは是亦私の方から考へて又将来から考へて大に感服を致しましたが、是は禁煙と云ふ規則がある、煙草を吸ふてはいかぬと云ふ規則がある、是も亜米利加全体の規則ではございませぬで、亜米利加全体の規則なら初めに一遍聞いて置けば迷惑も致しませぬが、初めは加利福尼亜を歩く中は一向差支ない、それから華盛頓州へ入りますと云ふと、私の入りましたのは九月四日でありますが、此の法律は九月一日から執行されることになつて、それで煙草を喫つた者は罰金を取られる、ところが「シガー」は宜いのです、「シガレツト」がいかないのであります、私は「シガレツト」は吸ひますけれども「シガー」は強すぎて喫めない質です、どうも不都合な話だが、それは一体どう云ふ訳であるかと聞いて見ましたところが是亦衛生の考から来たものである、風をひいても煙草の毒といふものは「ニコチン」の毒よりも寧ろ煙草を包んである紙に毒がある、紙の為に咽喉を害する害は「ニコチン」中毒或は「ニコチン」毒よりも一層激しいものであるといふ説から出たものださうであります、兎に角「シガー」を喫むは差支ないが、「シガレツト」を喫むと直ぐ罰金にはならないが貴様は此の煙草は何処で買つた、何処々々で買つたと言へば買つた人も売つた人も皆罰金ださうです、大に私は此の煙草を禁ぜられましたのは、先年北京で籠城いたしました時に煙草が忽ち無くなりまして大に煙草の欠乏を感じたことがございましたが、今回は煙草の欠乏は感じませぬが之を喫むことをミスミス禁ぜられまして、持つて居て喫まぬといふのも是亦一層の苦痛を感じた次第でございます、善かれ悪かれ斯う云ふ規則が九月一日から施行されて暫時の寄留者に限らず旅行人まで此の制度を犯した者は罰金と云ふことで大に迷惑したことがございます、是は私は賛成する訳ではございませぬが、詰り斯くの如く規則を作つて我が華盛頓州は隣りの加利福尼亜或はオレゴン州より一つ道徳的根本から立派な街を作らうと云ふ美なる精神から起つたものと想像されるのであります、もう一つは矢張り「テンペランス」の性質から起つた、禁酒の州があります、此の方は又余程微細に立入つて居つて一州の規則ではない、一州内に禁酒の町がある、又直ぐ同じ隣りの町若くは郡に行くと全く自由になつて居る所がある、是は一遍の旅行者に取つて甚だ区別がむづかしい、一寸咽喉が乾いたからと云ふて停車
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場へ駈付けても何にも無い、それから滊車の中で聞いて見ると此町を通る間に売ると罰金を取られる、もう一時間経つて隣りの停車場から後とは売ります、と斯う云ふ所があります、日本人なども大に感化されまして一寸知合になつたから煙草を一本上りませぬかと云ふて出すと、私は喫みませぬと云ふ、一杯飲まうぢやございませぬかと云ふと酒は飲みませぬと云ふ、ナカナカ立派な日本人も沢山出来て居る、意地ぎたない吾々で見ると亜米利加の旅では大変不便を感じたことがあります、最も私は余り上戸でございませぬから、飲んでも飲まぬでも宜い方でありますが、私の同行者には大分迷惑をした者がございました、まあ旅行の迷惑及び失敗は斯んなものでありますが、尚ほ一つ附加へて申上げますのは、私が亜米利加で兎も角も一通りの調査をしまして欧羅巴を通つて帰らうと思ひまして、偶々「ルシタニヤ」と云ふ船に乗合せました、それは御承知の通り其当時では世界で一番の大きな船である、又一番早い船である、何しろ新規なものでこざいますからそれに乗つて見た、是は総ての点に於て頗る宏大である、頗る美観を尽して居りましたが、特に其の中で私の感じましたのは船内の設備が甚だ完全して居りまして、殊に無線電信の設備が余程完全に出来て居ると云ふ話を聞きました、それで船が出帆するや否や連日の如く無線電信で各方面から報知が来ました、或は友達間に安否を問ふのも皆無線電信である、その中に紐育を出ましてから二日半ばかり経ちました時に例の紐育の銀行の恐慌が起りました、私は一向其時は存じませぬでしたが、船内にイロイロ人が集つて話をする間に活気を帯びて居る、其の中に聞いて見ますと彼の恐慌の電報が来た、其の時に私は大に感じましたが、恐慌が起つたと云ふ電報は吾々に取つては、起つたのか知らぬと云ふだけでございましたが、中に或る部分は其の電報を受け取るや否や是は一場の電報ではない、大なる関係を有する事件であると云ふので、今度船内から更に無線電信で或は紐育或は倫敦の本店又は支店へ訓令を下し、此の破綻が起る以上は此の株はどうしやうとか、云ふたんだらうと想像しますが、兎に角銀行家が各己れの支店又は友人等に無線電信で訓令を出して大に船中は賑合つた訳であります、それで誠に私は銀行家諸君は将来は甚だ御気の毒で、四五日の船中でもゆつくりと御旅行は出来ないと感じました、私などは是と全く正反対でございまして、斯の如く電信が頻繁になつて来ましては各国の政府と政府との間は別に外交官などは要らなくなる、総理大臣と総理大臣で電信又は電話で総てのことが済んでしまう、私共の将来は誠に楽な身分になりますが、銀行家諸君に取りましては前途非常に多忙のことになりまして、一寸四五日の船遊山も出来なくなるかも知れませぬ、是は併し諸君の前途の事業の為には甚だ喜ばしいことゝ思ひます、まあ私の話は此位にして置きます、今晩は有難うございます
                           (拍手)
    ○荒川公使の演説
会長及び諸君、今晩は誠に御叮寧なる宴会を設けられまして私までも御案内を受けまして光栄の至りでございます、先年三十五年に帰朝いたしました折にも一夕御叮寧なる御饗応に預りましたが、其後五年も
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経つて今日又其の時の諸君に御面会することも出来まするし、且私は二十一年余海外に居る身分で、四年或は五年に一遍帰つて来まするので、斯ふ云ふ御集会がある度毎に珍しき人に遇ふことが出来ます、此の機会を御与へ下すつたのは誠に仕合せで且感謝するところでございます、唯今会長より私が墨西哥に居たからして何か墨西哥話をせよと云ふことでございます、又移民の事業に付て是から尽力を致すやうにと云ふ御話でございます、就きましては大体墨西哥と云ふことに付て御話をしまして、さうして御免を蒙らうと思ひます
移民の事業といふことに付きましては世話は十分致しまするが、御希望の如く将来十分の成効を期するといふことは私は保証が出来ませぬ、それは種々の原因もございます、けれども今之を申上げることは出来ませぬ、墨西哥と云ふ所は存外日本には知られて居りませぬ、それ故に私は帰朝匆々に墨西哥を紹介するが為に、大統領夫婦の御写真を出しまして、大統領の履歴を述べて置きましてございますが、あれに依つて御覧なすつた諸君は略々御承知であらうと思ひます、就きましては今日御話をしやうと思ふ事柄が或は重複するかも知れませぬけれども、話の順序としては申上げなければなりませぬ、第一此の墨西哥の地形すら能く解つて居らぬと私は思ふ、私が在勤中に手紙が参りますが、それに殆ど十中の七八までは宛名が十分でないのです、墨西哥ノース亜米利加と書いてあるのもあるし、墨西哥セントラル亜米利加と書いてあるのもあり、又墨西哥サウス亜米利加と書いてたのもある、多くサウス亜米利加、セントラル亜米利加と書いたのが稍々物の解つた人が書いただらうと思ふ位であります、墨西哥の墨西哥と云ふことは誰も知らない、其様な知らない国に私は遣られたのです、それまでは世界第一の倫敦府に居りました、併し又亜米利加を出まする時分には、友達や何かゞ墨西哥と云ふ所は大層熱《(暑)》い所である、又熱病なども大層劇しく流行るさうであるから健康を注意せよ、自愛せよと云ふやうな皆深切な言葉でありました、どう云ふやうな目に遇ふかと余程覚悟しましたが、併ながら人間の居る所だから左程堪へられぬことはなからうと自分は信じて行つたのであります、行きましたところが想像外で、それはナカナカ東京市のやうなものではございませぬ(笑)、家屋といひ、道路といひ、公園といひ、電車の発達、電気灯、水道下水、総て整頓して居ります、人口は四十万位居ります、此の都府は海抜七千五百尺です、で熱いなんのと云ふことは更にない、私は昨年十一月行きましたが、丁度本邦の三月の末四月、五月の気候でございます、十一月、十二月、一月、二月になつて少々雪を見ましたけれども毎日日光が射しまして、もう決して日中寒いと云ふことを感じませぬ又熱いとも無論感じませぬ、衣服は始終冬の衣服でございます、夜分になりますると少々寒気を感じまするからして、室内に石油の「ストーブ」を用ゐる位で沢山です、夏、六、七、八、九と云ふ月はどうであらうか、是は夏だから随分熱いだらうと思つたところが、是もさうでない、矢張り冬の衣服で済むのです、丁度是も秋の初め頃の気候です、まあ夏と冬といふものは知らない国で、春と秋ばかりといふので宜い位です、人の話と云ふものはナカナカ容易に信ぜられぬもので、
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熱い目に遇つた奴は熱い所であるといふ、多く日本人が行くのは移民の調査に行く者が多い、是は皆熱帯であります、今云ふ七千五百尺の所は涼しい、けれども其地を出れば悉く熱帯で熱い所でありますから、其様な所は人が余り住まない為に幾らも土地が空いて居る、さう云ふ所を皆開墾しやうとか云ふので、労働者を入れると云ふ必要があるのです、さう云ふ場所をば調べに行つた日本人が多いから、自分に熱い目に遇つて居る、自分に危険な目に遇つて居るからして常に熱い所である、悪い所であると云ふことを伝へたものと私は信じて居ります、墨西哥の都府に居りますれば何の不自由もなく少しも苦痛を感じませぬ、花は年中各種のものが咲いて居りますし、日本のやうに風が吹くとか、雨が盛んに不規則に降るとか云ふことはなく、雨は丁度季節があつて七月頃から九月頃まで降りますが、是も午後一時頃から降出して五時頃に歇む、歇むと云ふと又日光が射す、非常な良い天気になる、それから馬車にでも乗つて公園に行くと云ふやうな訳で大層愉快な所であります、先づ是れで幾らか安心した、ひどい野蛮国に私は遣られた積りで行つて見ました所が、行つて見ますと左様な訳であります
此の移民のお話も一寸御参考までに言ふて置きますが、彼処に移民の事業を起したのは漸く二年位前でありませう、統計を取りますると七千人ばかり入つて居る積りです、ところが私の帰る時分即ち本年の十月には三千に足らない数になつて居る、其間私が経験に依りますれば到底墨西哥には移民はむづかしからうと云ふ観念を起しました、何故と云ふと曩に申上げました通りに墨西哥と云ふ国は日本よりも五六倍も大きい所で、人口僅に千五百万位しかない所でありますからして土地は非常にある、又労働者を要することも非常に劇しいのです、けれども好い所は皆既に人が住まつて居る、残つて居るのは人が住ひにくい所である、非常に熱い所で動もすると非常に悪い病気が起るので、日本人の行つて居るところの者も割合に健康とは言へませぬ、私共の行つて居る間に腸窒扶斯とか脚気とか其為に死んだ者もナカナカ少くない、又現に三百人四百人も居るところの病院にも脚気病或は其の他の流行病で入つて居る者が少くないと云ふ有様であります、是が一つ彼等が恐るべき第一の悪い点であります
次に墨西哥と云ふ国は御承知もありませうが極く新進の国であつて、天然の富源は非常に多い、之を開発するに付ては墨西哥が如何に富んで居つても、ナカナカ自国の資本を以てやると云ふ訳にいかぬから外国の資本が入つて来るのです、それで一時に通貨が膨脹して行くものですからして、物価の騰貴することは甚だしいのであります、今日二年前の事を言つても殆ど信用は出来ない位、五年十年前の事は尚ほ更であります、例へば日本で一円とか一円五十銭と云ふと大層好い給料のやうに聞えますけれども其実好い給料ではない、そこで墨西哥と合衆国は境して居る、之を出さへすれば墨国で一円五十銭取る者が三円、五円も取れる、僅に境を出さへすれば倍以上になる給料を見て居つて、さうして今の熱い国に割合廉い給料で居れと云ふことは出来ないのです、悉く合衆国に行く希望を持つて居るので、一人として墨西
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哥に留つて其の給料で安んじ、其の苦熱に堪えて行く者が無いと云ふて宜からうと思ひます、ナカナカ之を其処に置くと云ふことがむづかしい、そこで先刻申上げた成効と云ふことは、私は御請合が出来ないと思ふ、丁度商売と同じことである、甲の国へ持つて行つて此処で売らうと思つても乙の国へ電信をかけて見て割合に高く売れると云ふなれば其処へ持つて行くと云ふのは自然の理でありますから、到底人為を以て押へることの出来るものではない、そこで私は将来此の移民の事業を以て日本の利益を収めると云ふことは少しむづかしいと思ひます、併し極く富源開発の進行中であるから、日本と墨西哥の間の将来の貿易は大に望みがあらうと思ひます、此の方に私は着眼をして居ります、移民と云ふことは新聞などを見ますと大分今日の問題になつて居るやうですが、移民と云ふ言葉は大層好い言葉である、余り好過ぎる、是は支那人みたやうなもので余り一等国民としてからに自慢するやうなものではない、私は其の有様を見ますると憤慨に堪へない、是は奨励すべきものであるか、どうかと云ふことは今私は申上げませぬが私の感情は余り立派な事業ではないと思ふ、此の事は諸君に於て御研究を願ひたいのであります、まあ大体此の位の御話に止めて置きます、後との方々が段々御話になりませうから……今晩は誠に有難うございます、厚く御礼を申上げます(拍手)
    ○水野総領事の演説
大分実のある御話が続いて来て居るやうで自然の成行として私の話は「サラド」的であらざるべからざる状態に至りました(笑)、故に極めて簡単である、私は過去五年半の間支那のお庄屋様を勤めて居りました、此度は亜米利加の紐育と云ふ処へ往く、所が亜米利加と云ふ処へは私は今まで其地を踏んだことはない、此処に対しましては勿論言ふべきことはない、又最近居つた漢口に就ては此二年間ちと鼓吹し過ぎたかと云ふ非難を受けつゝある程に筆に口に吹聴したのですから是も最早言ふべきことはない、さうして見ると恰度遷り変りの時代で、これで立つて御礼を申せば済む訳である、併しそれでは「サラド」としても余り愛嬌がなさ過ぎるから一二チヨツと申上て置きたいと思ひます
それは先づ漢口に就て申すなれば、萩原君などは日本の支那に対する問題は奉天に集中して居るかの如く思つて居らるゝかも知らぬが、私などは又之に反して日本の支那に対する大問題は漢口に集つて居ると考へる(笑)、満洲では大に是からやることも沢山あるであらう、併しもう満洲で何をしたつて他の国からさうやかましく言ふまいと思ふ、朝鮮もどうやら皇太子も御出になつたやうなことで、まあ大体治りも着いて居るやうなことである、此の次に難しい問題の起るのは支那では私は揚子江沿岸だと思ふ、是は任地主義から割出した訳ではない、誰しも自分の居つた所は贔負にし、或は居る所の事を重要視したがるものだが、決して其意味からでなく、私は揚子江一帯の問題が今後の国際問題としては、最も重大の関係を有つて居ると思ひます、此の席には外国の人が居られぬやうですから内輪と思つて御話を致しますが、従来英吉利は揚子江を以て自分の勢力範囲或は利益範囲と考へて
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居る、ところが六年前に英吉利と独逸との間に揚子江に対する所謂「ヤンスーキヤン、アグリーメント」と云ふものが出来て、独逸が揚子江に於て英吉利から余利をせしめることを許された、それで吾々は揚子江の話が出ると、世間に向つてはなかなか独逸は揚子江に於て盛んになつて居りまして英吉利の勢力範囲を盛んに喰込んで居ると云ふことを申すのでありますが、併し其実、義和団事件後に於て日本人或は日本の法人若くは個人、日本の資本家其他の事業家が過去五年間に揚子江沿岸に於て発達したことは目覚しい事実である、勿論其発展は「サーベル」の光を借りた訳でもなく大砲の音を聴かせた訳でもない矢張り算盤と「ペン」とで出来たのでありますから、或る場所に較べては花々しくはございませぬ、又人間の殖え方も奉天とか営口のやうに一船毎に百人も二百人も這入て来ると云ふやうに目覚しくはありませぬ、漢口は毎三箇月を一期として最近十二期の間の統計に依りますと、平均一日一人四分乃至五分の割合で秩序的に殖えて居る、満洲に於て日本人が殖えたなどゝは殖え方が違ひまするけれども、併し「スローレー、バツト、ステテイリー」で余程頼母しく殖えて居るやうに思ふ、今日未だ色々世間に発表してならぬことがありますが、揚子江地方を以て若し英吉利の勢力範囲、利益範囲と云ふなれば、それに喰込んで居るものは実は独逸と申すよりは日本ではあるまいかと思ふ、最近種々の事実は或は出来事は此地方に於て早晩英吉利と日本との間に利益上の衝突が起ると云ふことを懸念しなければならぬやうな状態に立至つて居る、二三年前から漢口に居る英吉利の総領事は本国政府に報告して一番恐るべきは日本である、此点は余程注意しなければならぬと云ふことを英吉利の上下に注意を促して居るのみならず彼の地方に居る英吉利人は始終それを言つて居る、けれども英吉利の本国では極く一部を除くの外未ださう云ふ感を有つて居なかつた、併し近頃になつては或は粤漢鉄道の問題と言ひ、或は川漢鉄道の問題或は津鎮鉄道の関係と云ひ種々の事実はどうも日本とは利害が一致しないことが多いと云ふやうな感じが一部分のみならず大分広く伝つて居りはせぬかと思はれる、是は由々しいことであつて、政治と利益とは必ずしも一致しないので、政治上の同盟国である英吉利と日本が利益の上に於て揚子江で衝突するやうなことがあるのは甚だ遺憾な訳である、併し日本も戦後に於て発展をしやうと云ふ以上には已むを得ず自分の利益の発展しつゝある此の大勢を逸する訳にはいかぬ、発展しつゝあるならば是非之を助長して発展せしめなければならぬ、さりとて或は重大な「コンセクヱンス」を顧みずに英吉利の利益と衝突して行く訳にはいかない、故に吾々の最も希望するところは将来に或は起りはせぬかと思ふ揚子江一帯に於ける英吉利との利益の衝突、延いては国際上に重大なる関係を起しはせぬかと云ふことを避ける為に揚子江一帯に於ては出来るだけ英吉利と手を握つて行く、是は口で言ふばかりでなく事実何処でも大小を問はず共同でやれることがあるならば共同でやつて行くと云ふことを現実にしたいと思ふ、もう漢口を去つた私が余計なことのやうでありますけれども、兎に角是は日本の有力なる資本家諸君の居られる前で申して置く、又私の考では日本のアノ方面に対
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する国是は之でなければならぬと考へる、以上は漢口に於ける話、亜米利加に対しては何の抱負も未だありませぬ、けれども行くことになつて急に数字などを見て見ると生糸が二千七百万弗ばかりであつたと思ひます、が日本の金にして五千万円以上亜米利加に出て居る、或は羽二重が出て居る、誠に生糸などはそれは波瀾もあり盛衰もありますけれども、大体に於て彼の方面の輸出が殖えて居ると云ふことは至極結構のことであるけれども、生糸は勿論原料品である、羽二重の如きも一匹と言はずして目方で価が定つて居ると云ふやうな状態である、殆ど原料品と看做した方が適当である斯う云ふ「ロー、マテリアル」の輸出が段々殖える、一方に於ては絹織物とか或は綿絹交織物とか云ふ製作品の輸出は段々減じて居るやうに承知します、私は唯今上野の停車場から到着したので三日ばかりの間、桐生・足利の地方を先づ幼稚園的に視て廻つた、色々地方の人や或は織物組合の人々の話を聞いて見ると是は至極良い品のやうであるが、若し二百匹の注文が来たら何日で出来るかと云ふと早ければ四十日遅ければ二箇月掛ると云ふ、甚だしきに至つては佐野などゝ云ふ所は木綿縮の最も沢山出来る地方のやうに承知して居りますが、其木綿縮に就てさへも四十日位掛りませうと云ふて居る、それで何とかしなければ駄目ぢやないかと云ふと色々考へて見ますけれども、どうも旨くいきませぬと云ふ、日本で会社組織として大規模の織物会社をやつた過去の成績は何れの地方でも宜しくないさうで、それで幾らか手を焼いたと云ふこともあり、又従来やり来つた賃機の制度を急に廃することは出来ぬと云ふやうなことで、どうも大規模にやることはむづかしい、詰り何とかしなければならぬが、一寸方法が見付からぬと云ふやうな姿である、それで私は其連中に君達はさう云ふことを言つて居るけれども、醤油の醸造者が是より外に方法が無いと言つて居る中に、此頃新聞で見ると東京の近傍に大きな醤油の会社が出来て、それが一年半も掛らなければ出来なかつた醪を三ケ月で造ると云ふやうなことになつて、安心して居つた醤油醸造家が大恐慌を来たし、醤油界に大革命が自然起つて来るのである、織物に就ても其通り、あなた方が安心して居ることは出来まいと云ふやうなことを段々言ふて見た、ところが一向どうも仕方がない、詰り仕方がないと云ふことに諦めて居る、自分等の考では之を常備兵的の師団を増設するやうな積りで急にやることは無論危険である、根本的にはやられぬけれども併し彼方此方バラバラに置いて一の節制なく一の紀律なしに今の有様に置いては迚も仕方が無いと思ふ、矢張屯田兵……仮に私は屯田兵と云ふ言葉を用ゐますが、平生は賃機をやつて居るが宜い、併し一朝大きな仕事があつたならば或る規律の下に働いて行くことが今日の遷り変りの時代に最も必要ではあるまいかと思ふ、是は僅か二三日の間の観察で諸君の前に申上げるも嗚呼がましいことか知れませぬが、是が幼稚園で是から彼方此方静岡の漆器とか茶とかを拝見し、それから亜米利加へ行つて二年も経ちましたら高等小学位の御話が出来やうと思ひます、其外今旅行中に見ましたことは枯枝に大根を乾して居る、是はさぞ取入れるときに困るだらう、霜が降つたらどうするだらうと云ふやうなことを観察して来たに過ぎませぬ
 - 第7巻 p.63 -ページ画像 
(笑)其以上御話はございませぬ、又先程からの成行として真打には有力なる高橋男爵が出らるべき順序になつて居りますから、此の辺で雁首を入れ代へることに至します(拍手喝采)
    ○高木益太郎君の演説
私は水野領事に非常にお世話になりましたから、一言御礼を申上げたいと思ひます、私が今度欧米清韓の赤毛布旅行を致しました際、甚だ感服しましたのは漢口に於ける水野領事の深切であります、国民としても斯の如き領事に向つては多大の感謝の意を表さなければならぬと思ひます、私が漢口に居りましたのは僅か三四日でありますが其間に於て吾々のやうな小僧が参りましたのでありますけれども、視察上余程便利を与へて呉れました、最初午前十一時漢口に着し、直ぐ水野さんを御訪ねしやうと思つて領事館へ飛込んで参りますと丁度領事館で勧解をやつて居つた、ソレワ麻か何かのことで支那人と日本人との衝突問題があつて之を調停する為めである様だ、元日本の勧解は吾々商売柄見て居りますが、領事はどんな具合に之をやつて居るかと思つて黙止つて見てをりますと、到頭円満に纏つて双方満足して領事に御辞儀をして帰りました、それから正午に日本人会があるから直ぐ来いと云ふので行つて見ました、所が漢口に居るところの色々の事業に成功した方々が御出席になる、御馳走は何もありませぬでした、ホンの牛肉を突ツつき合ふ位でありましたけれども、僅か一日の間に漢口の名士に悉く会ふことが出来ました、ソノ三階に上るや否や何か欧米の視察談をしろと云ふやうなことで下らぬことを申上げましたけれども、誠に愉快に其日を暮しました、翌日は特に領事館から通訳を附けて呉れまして武昌を見ろと云ふことで武昌を見ました、それから又其翌日は漢陽を見ろと云ふので漢陽を見ました、僅か三四日の旅行でありましたけれども吾々一個人平民的の旅行者に向つて非常な便宜を与へて呉れました、それから又水野君が本願寺の法主などを勧め込んで彼処へシツカリした地面などを買はせるところの御腕前、安田さんを勧め込んで沢山地所を買はせた具合、居留地を拡張して揚子江の護岸工事などに瀕りに御尽力になつて居る具合、吾々は一向商業や工業などは暗いものでありますけれども確かに斯う云ふ外交官があれば安心で、甚だ失礼でございますけれども、余程廉い徳用な外交官であると吾々は信じます(笑)
米国のことに付きましては吾々は桑港で吾々一行の一人が石を投げられたことがありまして、其他随分不平なことが沢山ありましたが、今度君の様な立派な方が亜米利加へ御出になれば、殊に紐育へ御出になれば必ず日本人に対して多大の貢献をせられることであらうと思ひます、どうぞ御成功あらんことを祈ります
私の職業上で申せば英吉利の大法官、即ち貴族院議長と云ふものは世界法官の模範になる人であります、ソコデ亜米利加は何人の添書もなくて司法大臣にも御目に懸り大審院長にも御目に懸り、総て会ひたいと思つた方に御目に懸りましたけれども、英吉利は国が古い、秩序を重んずる国柄であるから貴族院議長に会ふには添書がなくてはいかぬと云ふことでありますから、或る元老から御手紙を頂戴して小村大使
 - 第7巻 p.64 -ページ画像 
の所を御訪ねしました、是は何でもない、唯大法官に御紹介を願ひたい、倫敦市長に御紹介を頼みたいと云ふことで参りました、ところが四回門前払を喰ひました、それは何銀行の総裁であるとか、或は侯爵であるとか云ふ方には便宜を与へるでありませうけれども、眇たる銀行倶楽部員の極く小さな人間などに、門前払を喰はす、コレワ私許りでなく市川左団次も同様で、其他内外の新聞記者にも可成面会を避けて居らるゝ様です、誠に自分一個の力、政府の力を藉りないで一寸洋行と申しても少し取調をするには一万や二万の金を抛つて行かなければならぬ、ソシテ外国へ行きまして何が慰藉を得るかと云ふと、領事館や大使館の力を借りなければ満足の視察が出来ませぬ、倫敦へ参つて随分高いホテルに泊つて、さうして大使館を訪問すると私と一緒に出た赤十字社の副総裁に向つては直ぐ面会をしたのであります(笑)吾吾如き位も何れも無い平民には数回門前払を喰はせました、実に将来諸君が御出になるときには位か何かを御持ちになつて、局長とか又は何銀行の総裁とか言ふ肩書で御出にならぬと倫敦に於て十分なる観察は出来ませぬ(笑)ソンナ次第で不得止私は紹介なく大法官に御目に懸つた所が、非常に愉快の御話を聴きました、倫敦市長にも何等の紹介なく面会致しました所が、是亦有益なる御話を承り倫敦市の各学校長に紹介をして呉れました、これは本統の御話を申上げるので、実際さう云ふ次第であります、それから白耳義へ参りましてブルツセルの公使館を御訪ねして公使に対して御管内に日本の商人が幾人居りますかと御尋ねしました所が、分らないと云ふ、余り馬鹿気て居りますから昨年の輸出入の貿易商が日本と白耳義とどの位ありますかと聴いた所が分らないと云ふのです、コレデワ自分の月給の出場が何処であると云ふことを御承知ない訳で、聊か驚かざるを得ない、斯う云ふ外交官を戴いて居つて唯軍備拡張とか何とか云ふことのみで、貿易の上に於て成功するや否やは大に疑はなければならぬ、私は諸方の領事館へ参りました、裁判所、警察署、監獄等を見るのには一応領事の手を経なければならぬのですから已むを得ず参りましたが多くの領事館尤も桑港シヤトール等多忙な場所は別ですが午前十一時迄に領事が領事館へ御出になつて居る所は少ないのであります、日本の規則に依りますと只今なれば午前九時出頭、午後四時の退散である、領事館も此規則に遵ふべき日本の役所である、それが十一時を過ぎなければ領事が出て来ない、是では成程日本の商工業の発展が出来ぬのは無理はないと思ひます(笑)どうぞ紐育へ御出になりましたならば先づ九時には是非御出勤になることを希望いたします、其外実に申上げたいことも沢山ありますが、或は御小言を喰ふと何でありますから遠慮を致して申上げませぬが、どうか成るべく平民的の旅行をする者に便宜を与へて戴きたい、漢口の光景に付きましては私は諸所の倶楽部で御話をなし、又明治座へは千七百人ばかりの人を集めて幻灯を入れて御話を致しました、それから日本橋で小学校の高等科の生徒を集めて水野君の仕事を能く話して置きました、どうぞ帝国の外交は唯戦争するばかりが能ではありませぬ、外交官が良ければ戦争しなくても済むのでありますから、どうぞシツカリやつて戴きたいのであります(拍手喝采)
 - 第7巻 p.65 -ページ画像 
    ○男爵渋沢栄一君の挨拶
演説ではございませぬ御礼の言葉を一言述べて此の倶楽部の会員御一同に謝し、自ら祝したいと思ふのでございます、今当委員長から示されまする所に依りますと、此倶楽部の回数を重ねたのが六十四回ださうでございます、記憶の宜い御方は覚えて居られませうが、私はすつかり忘れてしまひました、倶楽部が成立つてから殆んど五年以上経過いたしたのが玆に数字に於て現れましたが、明治四十年の晩餐も是が納会で、又目出度き来年を迎へるやうになりませう、お互に忘年会とでも申して宜い此会でございますから、共に悪い年をば忘れまして、又来る好い年を迎へたいと思ひますが、さて此四十年の年末は相場所の言葉に能く頭重いと云ふことを言ひますが、我が経済界も亦頭重いといふ姿で何となく色々心苦しいやうな観念が満場の諸君に皆あるだらうと思ひます、今後の金融はどうなるであらうか議会はどう云ふ塩梅に成り行くだらうか、予算はどう決議されるであらうかなどゝ云ふことは総ての事柄が頭重いに相違ない、此頭重い今夕に幸ひ委員長の好い御配剤で石井君、萩原君、荒川君、水野君、加ふるに半お客として高橋男爵を加へて玆に十分なる議論に花を咲かせることは最も吾々の鬱散とも申して宜いことであらうと思ひます、古人の言葉に歌人は居ながらに名所を知ると云ふことがあります、銀行者も居ながら名所を知る、何故ならば石井君のお話で亜米利加の概況は大抵解つたのです、それから続いて荒川君の墨西哥の御話を承つたが、私共は墨西哥と云ふ所は暑い処だと思つて居つたら涼しい処だと云ふ、殆ど春と秋ばかりであつて冬も夏もない国で何時も袷位で花は爛熳として居ると仰しやつた、即ち名所を知つた、又萩原君の奉天の露西亜の制度に対して日本の潔癖、均一主義は頗る困ると云ふことに就ては渋沢栄一の京釜鉄道の経営までも御諒察し下すつたお話もあつた(笑)是も名所を知るの一つではございませぬか、加ふるに水野君が漢口の御話に就きましては吾々大層愉快に感じましてございます、又高木君が水野君に対する御話と其他諸方を御廻りの時の事は少し苦情のやうにも聞えたけれども蓋し此愚痴を斯る会に仰しやるのは大変に宜しいのです、実に言はれる通り欧羅巴旅行をして見ますると或る場合には所謂平民的旅行には大に迷惑する所がある、勿論領事館は十一時前に出る人もありませうけれども併し先づ十一時でなければ領事は居らぬといふのは是も私は名所を知るの一つと思ひます(笑)斯くの如く数へると高橋君の御説明は極く実地談でありますから左様な諧謔的の比喩は申上げぬ方が宜いと思ひますが、他の諸君の御談話がどうして斯様に名所を知るの便を得たのは頗る奇遇といふてよからふと思ひます、今夕は厳寒の候なるに歌人ならぬ銀行者の会合が談論盛にして終に言葉の花を咲して、吾々は実に爛慢たる観楼会をしたやうな心地がいたします、お互に此倶楽部晩餐会を愉快に過しましたことは之も委員長の御骨折りと有難く感謝いたします(拍手喝采)