デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
7款 金融関係諸団体 3. 鰻会関係資料
○鰻会ノ成立ニ就イテハ資料ヲ欠クモ、明治中期以後金融界ト政界トノ連絡機関トシテ久シク存続シ、経済界ニ遺シタル業積少シトセズ。而シテ一面ニハ社交的機関タリシモノノ如ク、会自体ノ記録ハ存セズ。
■綱文

第7巻 p.209-225(DK070033k) ページ画像

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■資料

渋沢栄一 日記 ○明治三三年(DK070033k-0001)
第7巻 p.209 ページ画像

渋沢栄一 日記
 ○明治三三年
四月十一日 雨
○上略 午後六時過銀行倶楽部ニ抵リ相馬氏ノ催シタル鰻会ニ出席ス○下略

四月九日《(五)》 晴
○上略 午後五時浜町三野村氏別荘ニ於テ、高橋是清氏ノ催シタル鰻会ニ招宴セラル、経済談酣ニシテ賓主各意見ヲ討ハス、夜九時兜町ニ帰宿ス○下略

渋沢栄一 日記 ○明治三四年(DK070033k-0002)
第7巻 p.209 ページ画像

 ○明治三四年
三月二十二日 曇
○上略 午後五時浜町三野村氏別邸ニ抵リ、高橋是清氏ノ招集ニ係ル鰻会ニ列席ス、席上目下ノ経済救治策ニ関スル種々ノ討議アリ○下略

渋沢栄一 日記 ○明治三六年(DK070033k-0003)
第7巻 p.209-210 ページ画像

 ○明治三六年
十一月十八日 晴
○上略 六時過浜町三野村邸ニ於テ、日本銀行総裁ノ催サレタル鰻会ニ出
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席ス、種々ノ談話アリ、夜十時王子別荘ニ帰宿ス

渋沢栄一 日記 ○明治三八年(DK070033k-0004)
第7巻 p.210 ページ画像

 ○明治三八年
五月九日 曇 風ナシ
○上略 二時過キ王子別荘ニ帰ル、此日ハ鰻会ヲ別荘ニ開ク筈ナルニ付、午後三時ヨリ追々来会ス、相馬・園田・豊川・早川・池田・三崎・馬越・添田・佐々木両氏、波多野・三村及森大蔵大臣秘書官等ニテ都合十三名ナリ、四時頃ヨリ庭園ヲ散歩シ、牡丹ヲ観タル後月見台ニテ麦酒ヲ酌ミ、六時書院ニテ宴ヲ開キ、夜十時頃散会ス○下略
九月二十二日 晴 秋冷
○上略 午後五時浜町宅ニ抵リ、更ニ常盤屋ニ於テ佐々木氏ノ催ニ係ル鰻会ニ出席ス○下略

渋沢栄一 日記 ○明治四〇年(DK070033k-0005)
第7巻 p.210 ページ画像

 ○明治四〇年
六月二十日 曇冷 起床七時就蓐十二時
○上略 浜町ニ抵リ、池田謙三氏ノ催ニ係ル鰻会ニ出席ス、午後十一時散会帰宿ス、松尾・高橋・豊川・早川大蔵次官・勝野理財局長等来会、経済金融ニ関スル種々ノ協議アリ
七月十一日 雨涼 起床七時三十分就蓐十二時三十分
○上略 午後八時浜町三野村邸ニ抵リ、波多野氏ノ催ニ係ル鰻会ニ出席ス井上伯、阪谷大蔵大臣来会ス、夜十一時散会帰宿ス

渋沢栄一 日記 ○明治四一年(DK070033k-0006)
第7巻 p.210 ページ画像

 ○明治四一年
三月十八日 小雨 軽寒
○上略 十一時半三井集会所ニ抵リ、鰻会ニ出席ス、松田大蔵大臣・水町次官、松尾・高橋其他ノ同業者来会シ、目下金融界緩和手段ニ付種々ノ談話アリ、午飧後例ノ帝商銀行ノコトヲ談ス○下略
七月八日 曇冷
○上略 午後六時三井集会所ニ抵リ、鰻会ニ出席ス、豊川氏ノ催ス処ナリ松方侯、松尾・高橋其他ノ諸氏来会シ種々ノ財政経済談アリ、夜十二時王子ニ帰宿ス
  ○以下ノ日記ハ鰻会ト明記ナキモ関係アルヲ以テココニ収ム。

渋沢栄一 日記 ○明治四一年(DK070033k-0007)
第7巻 p.210-211 ページ画像

 ○明治四一年
三月十六日 雨寒
午後三時西園寺総理大臣ヲ訪ヒ、目下経済界ノ状況ヲ述ベ金融緩和ノ方法ヲ講セラレンコトヲ乞フ○中略 今朝、原六郎・浅野総一郎二氏来リテ金融界ノコトニ関シ種々ノ談話アリタリ
四月三十日 晴暖
十一時日本銀行ニ抵リ、松尾総裁ニ面会シテ目下ノ経済界ニ関シテ意見ヲ述ベ、日本銀行トシテ充分ノ注意アランコトヲ請フ
五月一日 晴暖
午飧後銀行倶楽部ニ抵リ、豊川・早川・池田・佐々木ノ諸氏ト目下経済界ノ措置ニ関シテ種々ノ協議ヲ為ス
五月二日 晴暖
午前十時日本銀行ニ抵リ、松尾・高橋、井上局長等ト経済界ニ関スル談話アリ、豊川・早川・池田・佐々木四氏来会ス
五月六日 晴暖
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○上略 更ニ横山氏ヲ訪問シ、後井上侯爵ヲ訪ヒ、目下ノ経済事情ニ付種種ノ談話ヲ為ス


銀行通信録 第四四巻第二六一号・第五六―五七頁〔明治四〇年七月一五日〕 金融疏通に関する銀行家の協議(DK070033k-0008)
第7巻 p.211 ページ画像

銀行通信録  第四四巻第二六一号・第五六―五七頁〔明治四〇年七月一五日〕
    ○金融疏通に関する銀行家の協議
日本・正金・三井・三菱・第一・十五・第百等東京市中重立ちたる銀行家の組織に係る鰻会は六月二十日午後六時より日本橋区浜町三野村氏別邸に於て会合を催ほせしが、其席上目下の経済事情に関して種々の談話ありし中に、本年一月株式暴落以来一般経済界は種々の出来事より疑惧百出不安の念益々加はり、遂に恐怖心に襲はれ只管警戒を事とせる結果、着実なる実業家と雖も其運用資金を得るに難く、又金融機関たる銀行も徒に其資金を擁して之を運転するに由なく、随て経済界は益々萎縮せんとするの傾向を呈し、若し此儘に経過せんか将来着実なる商業生産の振作を期すべからざるの虞あるを以て、此際互に歩調を一にして泰然たる態度に出で、着実なる実業家に対しては出来得る丈けの融通を与ふることゝし、以て此萎縮せる経済界を一転せしむべしとの説出で、各自の所見期せずして一致する所あり、日本銀行に於ても亦前記の趣旨に讃同し同行の本務に属する範囲内に於て相当の力を添ふべき意向を表明したる由にて、爾来重立ちたる銀行は右の方針に依り互に其歩調を一にし以て今後に処することゝなれり、因に同夜会合せるは松尾日本銀行総裁・高橋同副総裁・木村同理事・山川正金銀行取締役・豊川良平・園田孝吉・早川千吉郎・池田謙三・三村君平・佐々木慎思郎・佐々木勇之助の諸氏にして、他に来賓として水町大蔵次官・勝田理財局長・渋沢男爵も来会したりと云ふ
又大阪に於ても各銀行警戒の結果商業手形の割引の如き荷為替取組の如き、各れも金融円滑を欠き殊に紡績業者棉花商等は所要資金の多額なる為め其困難甚しく到底自然の成行に放任すること能はざるより同地商業会議所は日本銀行支店長及一般銀行者に対し種々交渉するところあり、銀行者に於ても現時の警戒は稍々其度に過ぐることを自覚せざるにあらざるも、決算期に際し無暗なる貸出を為し借入金の多からんも妙ならず、且つ日本銀行支店の内部には各銀行に対する貸出方針なるものありて一定の限度以上無限に融通を得べきにあらず、又事情の疏通せざる間に巨額の融通を請ふは同行に対する疑惑の種となるを以て是亦妄りに為し得ざる事情もあり、旁々同地銀行者は六月十九日銀行集会所に会合協議の末一応事情を打明けて日本銀行支店長に談合する所あり、其結果日本銀行支店長より本店に向つて照会する所ありしに、本店に於ても大に其事情を諒とし、確実なる事業経営の資金は成るべく其需要を充たさしむることゝなり、六月二十二日組合銀行午餐会の席上に於て其旨日本銀行支店長より挨拶し、各銀行も互に同一の歩調を取り漸次旧態に復せしむるの方針を取ることとなれり


竜門雑誌 第二四二号・第五一頁〔明治四一年七月二五日〕 ○鰻会(DK070033k-0009)
第7巻 p.211-212 ページ画像

竜門雑誌 第二四二号・第五一頁〔明治四一年七月二五日〕
○鰻会 本月八日午後六時より三井集会所に於て重なる銀行家の会合たる鰻会を開催せられたるが、当日の出席者は来賓として松方侯・
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青淵先生・浜口吉右衛門・山川勇木の諸氏及豊川良平・松尾日銀総裁木村日銀理事・早川千吉郎・佐々木勇之助・園田孝吉・相馬永胤・佐佐木慎思郎・池田謙三・三村君平の各会員にして、晩餐後豊川良平氏の挨拶に次ぎ、松方侯・青淵先生其他数氏の演説あり、了て一同財政経済の問題に関し互に胸襟を開きて談論する所あり、当日各会員其他出席者の意見は頗る多岐に亘りたるも、帰着する処は左の三点にありと云ふ、尚現下の政治問題に付ては何等談及する所なかりしと云ふ
 国債整理 現下経済界の不振は何によりて然るか、米国の恐慌、銀価の暴落等は慥に其の一因に相違なきも、コハ副因とも云ふべき者にして其主因は我財政の徒らに膨大なるにあり、果して不振の因が財政の膨脹圧迫に在りとせば、財政の刷新、即ち公債の整理を断行せざるを得ず、而して其方法としては只出来得る丈多額の償還を行ふにあり、現在の減価基金制によれば利子を支払ひて元金の償還を行ふは僅に三千七百余万円に過ぎずして、如何にも少額なれば更に此三千万円乃至四千万円位を減債基金に繰入れ、償還額を多くするは財政上決して不可能に非らざるべし


中外商業新報 第七九〇五号〔明治四一年三月一九日〕 銀行家の会合(鰻会の国庫債券償還其他の協議)(DK070033k-0010)
第7巻 p.212-213 ページ画像

中外商業新報  第七九〇五号〔明治四一年三月一九日〕
    銀行家の会合 (鰻会の国庫債券償還其他の協議)
東京銀行家の重なるものゝ組織せる鰻会は十八日午前十時半より三井集会所にて開会来賓として松田蔵相・水町大蔵次官・勝田理財局長・渋沢男の諸氏出席し、会員には松尾・高橋正副総裁、豊川・早川・園田・池田・佐々木・三村の諸氏出席し、目下の経済状態に関し種々懇談あり、会員中より第一回国庫債券償還に関し本年中に償還さるゝことに決定し居れるも、其方法時期等の如何に依ては経済界に及ぼす影響も少からざるに依り、政府は如何なる処置に出づる方針なるかを問ひ、之に対し松田蔵相は
 第一回国庫債券一億円償還の時期方法は慎重に取扱はさるべからざるも、政府に於ては之れを現金を以て償還するの準備整ひ、何時にても決行し得るの用意成れり、二三の新聞紙には到底償還するの現金国庫に存在せずと記すれども、是れ非常の誤報にして政府には目下之れが資金の準備成り居れり、唯今日迄右償還の発表を躊躇し居たるは議会に於ける増税及一般の財政計画決定せざりしため延引しつゝありしに因る、然れども今や議会の増税及財政計画は悉く成立したれば、此場合之を発表し償還を決行するに何等差支なし、されども今直に決行するは財界各方面に影響する所もあれば時期方法は慎重に考慮せざるべからず、併し前陳の事情なれば金融緩和のため可成早く決行せん見込なり
と述べ、更に銀行側よりも其決行を速にせんことを希望し、唯一時に之を決行するは却つて面白からざる結果もあるべきを以て、両三回に分ち償還せられたしと望み、政府側も之れを諒とし、尚ほ政府側よりは右償還の上は勢ひ銀行預金の増加を来すを以つて此の預金の運用に付ては銀行家に於て最も確実なる投資を努められたしと希望し、次て国有鉄道買収価格の決定を急かれ其始末を速かにせられんことを政府
 - 第7巻 p.213 -ページ画像 
に希望し、政府も之を承認し、次て税金納付も非常に多額となり納期に際し金融上に影響を及ぼすこと少からされは此点も注意されたしと希望し、是亦政府側に於て十分考慮すべしと答へ、尚目下の財界は各方面に危惧心甚しく不安の状態にあれど、右の如く国庫債券の償還も決定、財政計画も定まりたる今日なれば今後意を安んするに足るとの意見多く出でたりと云ふ、而して尚国庫債券の償還は前記の如き事情に出てたるものなれば、必ず遠からさる内に償還に関する時期方法等を発表せらるゝ筈なり、尚ほ当日は早川千吉郎氏幹事として斡旋尽力する所あり、午後四時を過ぐる頃散会したり、而して事固より偶然ながら三十七年日露開戦に際し政府が軍資充実の為め第一回国庫債券の発行に当り協議に与りたる諸氏と殆ど同一顔触が、然も同一場所なる三井集会所に於て今其償還せらるを聞く、亦一奇と云ふべし


時事新報 第八八六〇号〔明治四一年六月五日〕 実業家首相訪問(DK070033k-0011)
第7巻 p.213 ページ画像

時事新報  第八八六〇号〔明治四一年六月五日〕
    実業家首相訪問
既報の如く渋沢男・園田・豊川・早川・原の諸氏は三日銀行倶楽部に会合し鉄道公債の始末に関し協議したるが、政府側の意見を聞くの必要ありとて渋沢男は会議後直に西園寺首相を訪問したるが、該問題に関しては一同と重ねて会見せんとの事なりしを以て、四日午後三時より前記の諸氏は首相邸を訪ひ、昨今公債の下落せる折柄政府に於て価格の維持に努められん事の希望を繰返したるに対し、首相は諸氏の意の存する所は充分諒し居るも、今政府当局者としては具体的に其方針に就て未だ発表し難きも、公債価格の維持の如き当然政府の努むべき所のものなるを以て、該問題は決して等閑に附し居らずして先般来折角詮議し居る次第なるも、尚充分調査を進め諸氏の希望に副ふ所あるべしと答へたる後、双方胸襟を開き鉄道公債価格維持策に関し種々談議するところあり、五時過ぎ一同首相邸を辞去したる由


中外商業新報 第八〇〇四号〔明治四一年七月一〇日〕 銀行家の要望 鰻会の会合(DK070033k-0012)
第7巻 p.213-214 ページ画像

中外商業新報  第八〇〇四号〔明治四一年七月一〇日〕
    銀行家の要望
     鰻会の会合
府下重なる銀行家の組織に係る鰻会は、八日午後六時より三井集会所に松方侯・渋沢男を来賓として会合を催したるが、一同食卓に着くや先づ豊川氏の挨拶に次で来賓松方侯の謝辞あり、食後松方侯・渋沢男より財政経済に関する演説あり、尚会員より意見を述べ種々談話を交換したり、而して其結果は一同の意見帰一し、経済界今日の不況は果して経済事情に帰因するか、将又財政々策に因るかを考慮するに、何人も過大の政費膨脹の結果延いて国債の増加を来したるものと認む、故に吾人の希望する所は
一、現在の国債償還額三千七百万円の外更に経費を節減して年々二千五百万円乃至四千万円の国債償還を行はれたく、其方法は割引、抽籤孰かを問はず兎に角国債整理の実を十分に挙けられたきこと
二、鉄道に至つては将来新線路の拡張に資金を投入するを謹み、専ら現在鉄道の改良整理に努め其効果を大ならしめ、運輸交通の目的を
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十分に達することを主とせられたきこと
三、四十三年の関税改正に就ては既に当局者に於ても夫々調査中なるも、尚ほ国民一般に之を研究し置くの要あり、之が調査を行ひ税権の独立に努めざるべからず、追て之が調査方法を議すべし
と云ふに意見一致し、十一時散会したりと云ふ、当日の来会者は来賓の外、会員松尾、高橋日銀正副総裁、豊川良平、早川千吉郎、園田孝吉、木村清四郎、池田謙三、三村君平、佐々木勇之助及誘引者山川勇木、浜田吉右衛門等主客併《(浜口吉右衛門)》せて十五名にして頗る盛会なりき、尚当日の会合を賑ならしめしは、去三十年松方侯の総理、大蔵両相を兼ねられし当時金貨本位に改正せんとするの意見を公にし、続て貨幣制度調査会を設け調査に努められし際之か反対説は朝野に起り、殊に安田善次郎翁は自ら同侯を訪て金貨本位行ふべからず、倘し事実に於て金貨本位を見るに至らば閣下に贈るに金像を以てせんと云へり、然るに本年二月頃事ありて帝国ホテルに会するや、談貨幣本位に及び、安田翁は今日若し依然銀本位にあるに於ては財界の打撃如何計りと嘆じ、同侯に謝する所ありしを以て、当夜は前言に基き松方侯に必ず金像を贈らんことを安田翁に勧告すべく之が交渉の任を松尾男に委ねたりとぞ


中外商業新報 第八二四八号〔明治四二年四月一六日〕 蔵相実業家招待 鰻会々合の結果(DK070033k-0013)
第7巻 p.214 ページ画像

中外商業新報  第八二四八号〔明治四二年四月一六日〕
    蔵相実業家招待
     鰻会々合の結果
過日開会の鰻会に於て工業者、運輸交通業者、外国貿易業者、銀行業者の四者は相互に連絡を計らざる可からずとの説出て、其結果桂蔵相は来る二十日午後六時より永田町の首相官邸に左の諸氏を招待することゝなれり
 渋沢男爵、朝吹英二、荘田平五郎、日比谷平左衛門、武藤山治、和田豊治(以上工業家)近藤廉平、浅野総一郎(以上交通業者)益田孝、森村市左衛門、野沢源治郎(以上外国貿易業者)松尾臣善、高橋是清、豊川良平、早川千吉郎、三村君平、波多野承五郎、佐々木勇之助、木村清四郎、相馬永胤、池田謙三、佐々木慎思郎、添田寿一、高橋新吉(以上銀行家)
尚政府側よりは桂蔵相、若槻次官、大浦農相、後藤逓相、平井総裁等も出席するならんと云ふ


中外商業新報 第八二五三号〔明治四二年四月二一日〕 桂侯実業家招待 有益なる座談交換(DK070033k-0014)
第7巻 p.214-215 ページ画像

中外商業新報  第八二五三号〔明治四二年四月二一日〕
    桂侯実業家招待
     有益なる座談交換
桂首相兼蔵相には予記の如く二十日午後五時より重なる実業家諸氏を永田町官邸に招じ晩餐会を開きたり、主人側は桂首相、柴田書記官長杉、長嶋、阪田、西園寺、各秘書官にて小村外相、大浦農相、後藤逓相、若槻大蔵次官等陪賓として列席し七時食堂を開て晩餐の饗応あり正に終らんとするに先ち首相起て一場の挨拶を述べ、之に対し渋沢男実業家側を代表して謝辞あり、夫れより大広間に移り首相は曩日開催の鰻会に於て工業家、交通業者、外国貿易業者、金融業者の四者相互
 - 第7巻 p.215 -ページ画像 
の連絡を期するは財界発展上資する所尠少にあらずと云ふに帰者したるを以て、今夕玆に諸君を招じ之に対する所見を聞くを得ば啻に相互裨益する所ある而已ならす執政の局にある者をして参考たらしむる所蓋し多大ならん、希くは忌憚なく意見の交換を望むと述べ、試みに五六の項目を挙げ質問する所ありたり、之に対し主客一同は各胸襟を披き交々所見を吐露し、話題は漸次夫より夫と進み或は論じ或は駁して頗る長時間に亘て相互の聯絡遂行に関し政府側の実業界に対する注意実業界より政府への希望は遠慮なく発揮せられしが、尚右に就ては各自に於て攻究する要もあれば更らに他日同一主旨の下に会合を重ぬべしと云ふに決し、頗る会合の趣旨を貫徹し得て十一時散会せり、因に当夜波多野承五郎氏は招待を受けしも差閊にて欠席されたり、出席実業家左の如し
    豊川良平   早川千吉郎   池田謙三
    佐々木勇之助 佐々木慎思郎  三村君平
    木村清四郎  山川勇木    松尾男
    高橋男    添田寿一    高橋新吉
    和田豊治   日比谷平左衛門 朝吹英二
    荘田平五郎  渋沢男     益田孝
    森村市左衛門 野沢源二郎   原富太郎
    近藤廉平   浅野総一郎   武藤山治
    大倉喜八郎


中外商業新報 第八二九八号〔明治四二年六月五日〕 実業家の招待会 桂侯以下諸相列席意見の交換進捗す(DK070033k-0015)
第7巻 p.215-217 ページ画像

中外商業新報  第八二九八号〔明治四二年六月五日〕
    実業家の招待会
      桂侯以下諸相列席意見の交換進捗す
四月二十日桂首相に招待されし実業家銀行家諸氏は其返礼と且は更に意見の交換応答を為さん為め渋沢男、松尾男、益田孝、近藤廉平、豊川良平、早川千吉郎諸氏発起となり、四日午後六時永代橋畔の日本銀行舎宅に桂首相兼蔵相、平田内相、後藤逓相等の諸氏を招待し晩餐会を催したり、定刻に至るや渋沢男主人側を代表し挨拶を述べ、次て桂首相よりの答辞あり、問題は先づ首相官邸に於て開催せる前会に実業家側より質問せる事項より始まり、東京倉庫が曩に神戸に桟橋設置の認可申請を為せるに政府は之れが許否を兎角遅延する傾きあり、斯かる事項は可成迅速に取計はれんことを希望したるに対し、政府は其の意を諒したりと答へ、次で倉荷証券が旧来一枚制度なりしを二枚制度に改めしは我国の商習慣に反くもの也、速に之が復旧を望むとの問題に対しては、目下商法改正委員会に於て調査中に属し、司法省に於て研究怠らざる所なれば其結了を待れたしと答へ、神戸築港問題に移り陸上設備よりは先防波堤を最先きに着手するを急務と為すの説出で、予算の都合上陸上設備を先にせりとの説明あり、更に進んで我邦の港湾設備方針に及び本邦港湾中其設備を完成せしむる要ある者多々あり政府は之に対し如何なる方針を採らんとするやを質したるに、多数の港湾設備に着手し何れも半製的ならしむより寧ろ集中的に重要と認むるものを完全に設備するを至当とす、当局大臣は此趣旨に依つて進む考なりと答へ、一二の応答ありし後七時食堂を開き一同晩餐を共にし終つて更に前議を継続し前会首相より諮問されし十四ケ条(四月廿二日
 - 第7巻 p.216 -ページ画像 
の本紙に掲載)中
 一、貨物輪出上荷為替其他資金利用上の便否如何
 一、事業資金供給の実況如何
の二大問題を当夜の主題とし之に対し各自意見を陳弁したり、先づ輸出貿易に就ては充分資金融通の便宜を開くのみならず輸入に於ても殊に原料品の如き資金融通の便宜を与へられんことを希望するものあり又貿易業者側よりは内地製造者と貿易業者との連絡を計る固より必要なれど更に金融業者に対し希望なきにあらず、例へば我国に於いては未だ欧米の如き外国為替制度の確立を見ざる嫌ひな《(あ)》り為替を取組まんとするに際し概に之れを中止され居ることあり、又三ケ月期限を二ケ月又たは一ケ月期限に短縮さるゝことあり、斯の如きは貿易業者をして営業上倚る所を失はしめ前途の計を画する能はず、将来之が弊を改められたし、又南米貿易の如き前途最も有望なるに金融機関の設備未だ整はざるは頗る遺憾なりと説くもありて、製造工業及貿易上の資金供給の問題は一時議論の花を咲せたり、之に対し金融業者の云ふ所は外国為替の高低は外国市場との関係に依つて定まり而かも為替問題は啻に銀行の態度如何に依つて決すべきにあらず、依頼者の信用如何にも係り、相互相俟つて解決すべきなり、又南米貿易上金融機関の必要は充分之を認む、将来之が設備を期せんと云ふにありて、又資金供給の便宜は貿易銀行のみに依頼すべからず、普通銀行も亦其意を了し充分融通の便を計られんことを望むもありき、而して問題が問題丈けに意見続出し、夜の徹するも到底尽し切ざるを以て結局其趣旨を酌みて相互に便宜の途を開かんと云ふに帰着せり、而かして更に別問題として如上の貿易問題に関連し養蚕業は前途益々有望の事業なれば愈々之れが発達を期するの要あると同時に生糸は海外需要の状況より観察するに下等品よりは優等品を奨励するの要あり、又黄繭の需要よりも繭に対する需要多きの趨勢なれば当局に於ても亦た其の旨を体し奨励を期せんことを欲す、又従来繭の運搬に就ては運賃の値下げ等便宜の途開れ居れど今後は更に運送の迅速を期せられんことを望む、又西ケ原農事試験所の如き、従来当業者に裨益する所多きも経費の乏しき為め充分其目的を達する能はざる感あり、斯かる事業は更に経費を投じ充分其実を挙けられたし、又現行関税法に依れば戻税の方法備はり居れるに未だ充分之れが効果を現はさゞるが如し、願くは之を十分に利用せんことを望む、又清国人嗜好の傾向より察するに手工品の前途頗る好望なるに拘らず本邦品兎角粗製濫造の弊に陥り易し、之に対しては当局に於ても撿査を行ふ等充分取締の方法を設けんことを望むと述ぶる者ありたり、而して尚ほ実業家側より政府財政方針に関し質疑し政府は予算上余裕乏しとの理由を以て生産事業に対し充分の経費を計上せず而も国債の償還に付ては汲々乎として之れ努む、抑も我国が巨額の債務を負ひしは要するに日露戦役の結果にして国家の存亡に資したる債務也、果して然らば是れ必ずしも当代の国民のみ負担するの要なし、後代の吾人子孫又之が負担を分つの義務あらん当局の所見如何と問ふ者あり、之に対し桂首相は励声明白に弁して曰く
 巨額の国債を擁し遂に国家財政上及び国民経済上甚大なる悪影響を
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蒙りしを以て昨年来新公債の募集を全然打切り国債償還計画を確立したり、元来財政整理の事は現内閣当初の一大目的にして之が遂行の結果は財政上及び経済上相当の効果を挙げ財政の基礎玆に定まり国有鉄道に対する買収公債も経済上何等の悪影響を及ぼさずして近く全部の交付を了らんとす、去ば政府は国債及び財政に対する従来の政策を改むるの要なく飽迄国債整理の実を挙げんことを期す
次で又近時地方債の頻々発行され、而も其用途必ずしも生産的とのみは目する能はさるものあるが如し、今や政府は鋭意国債の償還を期し居るに、他方大阪、名古屋市債の発行あり、又近く京都、横浜市の如き共に外資に倚て市債発行の計画あり、是れ国家の方針と矛盾する嫌なきかと質問する者あり、之に対し又答て曰く
 右都市の市債は実に多年の計画也、将に国家の信用高まり世界金融の適順に赴きしより外資に依りて之を調達したるは敢て非難すべきことに非ざるべし、左れど小地方に於て容易に成立し得べきもの迄も外国に倚るが如きは啻に国家の信用に影響するのみならず不利亦多し、故に従前公共団体が外国より資金融通の計画を立て相互の協商略ぼ成立に近くに至り始めて政府に対し之が許否を申請するの手続なりしを、今後は斯る協商の開始さるゝ前一応政府の内意を確めしむる事とし、以て誤りなきを期することゝせりと
斯くて時の移るを忘れ各自忌憚なく意見の交換を為し十二時近く漸く散会せり、実に当夜は主人側の実業家も遠慮なく其希望意見を開陳し又政府側も腹蔵なく所信及政策を披瀝し、今や帝国財界の回転期に際し当然発生すべき民間経済及政府財政の重要問題に対し意思疏通の実を挙げ、財界の発展に資す所鮮少ならざりし也、尚当夜の来会者を挙ぐれは左の如し
    来賓
 桂首相兼蔵相、小村外相(欠)平田内相、大浦農相(欠)後藤逓相、若槻次官、柴田書記官長、長島秘書官
    主人側
 渋沢男、松尾男、高橋男、高橋新吉、添田寿一、益田孝、大倉喜八郎、朝吹英二、豊川良平、近藤廉平、早川千吉郎、浅野総一郎、山川勇木、波多野承五郎、三村君平、木村清四郎、池田謙三、浜川吉右衛門《(浜口吉右衛門)》、武藤山治、佐々木勇之助、佐々木慎四郎、日比谷平左衛門原富太郎、野沢源次郎、和田豊治氏(以上出席者廿五名)荘田平五郎、森村市左衛門氏(欠席)


銀行通信録 第四五巻第二七〇号・第五三三―五三四頁〔明治四一年四月一五日〕 経済界救済運動(DK070033k-0016)
第7巻 p.217-218 ページ画像

銀行通信録  第四五巻第二七〇号・第五三三―五三四頁〔明治四一年四月一五日〕
    ○経済界救済運動
経済界は本年に入り幾分回復の模様ありしも、二月以来又々不振となり、三月に入りては益々険悪の徴候あるより救済の声は早くも各方面に起りたり、此時に当り東京銀行家の重なるものゝ組織せる鰻会にては三月十八日午前十時より松田大蔵大臣、水町同次官、勝田理財局長及渋沢男爵を三井集会所に招待し松尾日本銀行総裁、高橋同副総裁、豊川、早川、園田、池田、佐々木、三村の諸氏出席の上経済界の状況
 - 第7巻 p.218 -ページ画像 
に関し種々懇談する所あり、就中松田大蔵大臣は第一回国庫債券償還の時期及び方法に関し大要左の如く言明せり
 第一回国庫債券一億円償還の時期方法は慎重に取扱はざるべからざるも、政府に於ては之を現金を以て償還するの準備整ひ、何時にても決行し得るの用意成れり、二三の新聞紙には到底償還するの現金国庫に存在せずと記すれども是れ非常の誤報にして政府には目下之が資金の準備成り居れり、唯今日迄右償還の発表を躊躇し居たるは議会に於ける増税及一般の財政計画決定せざりしため延引しつゝありしに因る、然れども今や議会の増税及財政計画は悉く成立したれば此場合之を発表し、償還を決行するに何等差支なし、されども今直に決行するは財界各方面に影響する所もあれば時期方法は慎重に考慮せざるべからず、併し前陳の事情なれば金融緩和のため可成早く決行せん見込なり
 此言明は一般経済界に頗る好影響を与へたるものゝ如く翌日の諸株式は何れも二三円方騰貴を示したり
 之に先ち大阪商業会議所役員は銀行会社の破綻続出して経済界の状況益々不穏なるより三月中旬町田銀行集会所委員長を訪問して金融疏通に関し種々談合する所あり、其結果当時上京中なりし梶原日本銀行支店長の帰阪を待ちて更に懇談を重ねることに決したり、斯くて同支店長は二十三日を以て帰阪したるに依り大阪商業会議所員は直ちに同支店長を訪問して中央の状況を聴取し、同支店長は即夜別に重なる銀行家を同地銀行倶楽部に招待して第一回国庫債券償還其他に付報告する所あり、越へて二十六日商業会議所発起となり高崎知事、梶原日本銀行支店長、町田、小山、志立、野元、島村、原田岩下、米山、西園寺、阪野の各銀行家を大阪「ホテル」に招待し金融疏通の懇談会を開き一先救済運動の局を結びたり


銀行通信録 第四七巻第二八二号・第四〇頁〔明治四二年四月一五日〕 鰻会の開会(DK070033k-0017)
第7巻 p.218-219 ページ画像

銀行通信録  第四七巻第二八二号・第四〇頁〔明治四二年四月一五日〕
    ○鰻会の開会
東京市内重なる銀行家の組織せる鰻会にては幹事豊川良平氏斡旋の下に四月二日午後五時より久々にて永代橋畔なる日本銀行倶楽部に於て会合を催したり、出席者は来賓桂大蔵大臣、大浦農商務大臣、若槻大蔵次官及志村勧業銀行副総裁の外会員松尾・高橋日本銀行正副裁、佐佐木勇之助、佐々木慎思郎、木村清四郎、早川千吉郎、三村君平、池田謙三、豊川良平、山川勇木の諸氏にして相馬永胤、波多野承五郎の両氏は事故の為め欠席せり、当日は定刻より桂大蔵大臣、大浦農商務大臣を中心として刻下の財政及経済に関する談話を交換し午後七時に至り始めて晩餐を共にしたるが、談話の要領は昨年三月開会の鰻会以来一箇年間に於ける経済界の転変を追懐するに、金利は引締りに引締を加へしもの今や引緩みに引緩みを加へ、公債時価の如き一時七十七円と云へる十数年来未曾有の安値を示せしもの今や実に九十五円の高値を現せんとし、金融市場の状況は正さに順境に向ひたるも一方商工業界を見れば会社の破綻、損失等続出し誠に憂慮に堪へざるものあるを以て、今後は金融業者、貿易業者、工業者、運輸業者の四者互に聯
 - 第7巻 p.219 -ページ画像 
絡して経済界の発展を謀るの必要ありと云ふに意見一致し、其他取引所問題、民間事業整理問題等も話題に上り午後十一時散会せり


銀行通信録 第四七巻第二八三号・第八四―八五頁〔明治四二年五月一五日〕 桂大蔵大臣の実業家招待(DK070033k-0018)
第7巻 p.219-220 ページ画像

銀行通信録  第四七巻第二八三号・第八四―八五頁〔明治四二年五月一五日〕
    ○桂大蔵大臣の実業家招待
桂大蔵大臣は四月二日鰻会の議に基き同二十日午後五時より重なる実業家を永田町の官邸に招待して晩餐会を開きたり、当日来賓氏名左の如し
        来賓
    豊川良平   早川千吉郎   池田謙三
    佐々木勇之助 佐々木慎思郎  三村君平
    木村清四郎  山川勇木    松尾男爵
    高橋男爵   添田寿一    高橋新吉
    和田豊治   日比谷平左衛門 朝吹英二
    荘田平五郎  渋沢男爵    益田孝
    森村市左衛門 野沢源次郎   原富太郎
    近藤廉平   浅野総一郎   武藤山治
    大倉喜八郎
        陪賓
    小村外務大臣 大浦農商務大臣 後藤逓信大臣
   (備考)来賓中波多野承五郎氏は差支の為め欠席せり
斯くて主人側よりは桂大蔵大臣の外柴田書記官長、若槻大蔵次官、杉長島、阪田、西園寺各秘書官等出席し午後七時食堂を開き晩餐会の饗応あり、宴酣なる頃桂大蔵大臣起て一場の挨拶を為し、之に対して渋沢男実業側を代表して謝辞を述べ、夫より大広間に移り、桂大蔵大臣より曩日開催の鰻会に於て工業者、交通業者、外国貿易業者、金融業者の四者相互の連絡を図るは経済界の発展上資する所少からざるべしとのことに帰着したるを以て今席諸君を招待して意見を交換することとしたる旨を告げ、参考として左記十四箇条の質問を提供せり
 最近に於ける我工業界は内外の経済状勢に伴ひ不振の状態にありと云ふと雖も経済界回復の時期も遠きにあらざる可きに就き、機宜を失せず事業の恢復発達を計るの必要あり、仍て左の諸点に関し諸君の御意見を承らんとす
 第一 輸出重要品に対する将来の見込、又将来相当の方法を以て輸出額を増加するの見込ある貨物如何
 第二 近来直輸出漸次に拡張さるゝの傾あり、右に関し尚ほ将来の見込如何
 弟三 貨物輸出上荷為替其他資金流用上の便否如何
 第四 輸出貨物に対する嗜好の変化、其他外国市場に於ける変遷に関しては如何なる手段に依り調査しつゝあるや
 第五 内地生産者と貿易業者との現下の関係如何、及び此等関係にして大に改良を加ふ可きものなきや
 第六 輸出貨物製造に関係ある事業界最近の実況如何
 第七 事業経営上著しき不便又は不利益なりとする事情なきや
 第八 事業資金供給の実況如何
 - 第7巻 p.220 -ページ画像 
 第九 工場抵当及び軌道抵当法の実効如何
 第十 貨物輸送上に於て改良を要する点如何
 第十一 商業貿易に関し倉庫設備及び倉荷証券等の流通等に就き遺憾なきや
 第十二 同業者間に於て一致団結を欠く為め商業貿易等に於て不利益を蒙むるが如きことは之なきや
 第十三 商業に従事する従弟の養成等に就き研究を要すべき点なきや
 第十四 事業の計画を為すに当り、需要供給の確実なる基礎を欠くが為め失敗を招くの弊なきや
然るに右は固より即答し得る所にあらざるも、取敢へず各関係者より所見を披瀝し、互に意思の疏通を図り、尚ほ次回に於て充分攻究を重ぬることに決し、午後十一時散会せり


〔参考〕銀行通信録 第四七巻第二八四号・第七四―七五頁〔明治四二年六月一五日〕 実業家の桂大蔵大臣招待(DK070033k-0019)
第7巻 p.220-222 ページ画像

銀行通信録  第四七巻第二八四号・第七四―七五頁〔明治四二年六月一五日〕
    ○実業家の桂大蔵大臣招待
四月二十日桂大蔵大臣の招待を受けたる実業家諸氏は其返礼として早川千吉郎、豊川良平、松尾臣善、益田孝、近藤廉平、渋沢栄一の六氏を総代とし、六月四日午後六時より日本橋区北新堀町日本銀行舎宅に同大臣其他を招待して晩餐会を開きたり、当日出席者氏名左の如し
      来賓
    桂大蔵大臣  平田内務大臣  後藤逓信大臣
    若槻大蔵次官 柴田書記長   長島秘書官
      主人側
    渋沢男爵   松尾男爵    高橋男爵
    豊川良平   添田寿一    益田孝
    早川千吉郎  近藤廉平    池田謙三
    大倉喜八郎  浅野総一郎   高橋新吉
    朝吹英二   日比谷平左衛門 浜口吉右衛門
    木村清四郎  波多野承五郎  佐々木勇之助
    佐々木慎思郎 三村君平    山川勇木
    原富太郎
  (備考)来賓中小村外務大臣、大浦農商務大臣及主人側中荘田平五郎、森村市左衛門四氏は病気又は旅行中にて欠席せり
斯くて定刻に至るや渋沢男主人側を代表して開会の挨拶を述べ、之に対して桂大蔵大臣の答辞あり、夫より互に財政及経済上に関する意見を交換し、午後七時一旦食卓に着き食後更に談話を続けしが、当日話題に上りたる重要の事項は倉荷証券に関する件、築港問題に関する件為替資金の融通に関する件、養蚕の統一に関する件等にして、就中豊川良平氏と桂大蔵大臣との間には政府の財政方針に付左の如き談話交換せられたり
 豊川氏曰く、昨年手形交換所委員会は政府が公債政略を久しく踏襲せんには前途寒心に堪へざるものあればとて其打切りを希望すると共に現在の公債に就いては年々六千万円以上抽籤償還を行はれたし
 - 第7巻 p.221 -ページ画像 
と云ふ建議案を議決し、其八月余は同委員長として桂首相兼蔵相に建議せり、然るに其後九月十日開催の全国手形交換所聯合大会に際して桂蔵相は後藤逓相を代理として出席せしめ、政府の対財政整理意見を朗読せしめたり、余は当時窃かに其実効如何を危惧したりしに其後政府は該方針に基きて財政及行政整理の案を議会に提出し、年々五千万円の公債を抽籤により必ず償還することゝなり、爾後之れを実行しつゝあり、而も政府は今後此の方針を以て国是となし何処までも之れを押通さん意嚮なりや、将又途中にて変更せらるゝことありや、其事の経済社会に重大なる関係を有するを以て玆に政府の意見を確め置かんと欲す
 桂蔵相曰はく、豊川君は現在の経済界に対し如何にも的切なる質問を発せられたり、昨年八月就任匆々豊川君委員長として来訪せられ手形交換所の建議に就き意見の存する所を承はりたり、言ふまでもなく這は是非とも遂行せざるべからざることゝ思惟し、既に後藤逓信大臣をして政府の意見を朗読せしめ其後着々実行しつゝあり、余は在任中は勿論此方針を遂行すべく、退任後と雖も決して変更せざる考へなり、此旨を諒知ありたし
 豊川氏曰く、政府は財政整理を行ひ公債政略を打切りたるが、扨て地方政治は如何せんとするや、今日各地方一般に借金政策を行ひ地方債の起債は一種の流行をなせり、此勢にて推移せば地方税は直接国税よりも過重となるや知るべからず、而も其施設の事業に到りては殖産興業を主とせず往々生活の程度を向上せしむる奢侈的事業に偏傾せんとせり、今其一例を挙ぐれば大阪、名古屋の外債募集及び堺、馬関の内債、並に其他各府県郡市町村に到るまで、募債は実に一種の流行となり居るに非ずや、斯の如くにして現状に放任せば近き将来に於て或は市町村の中に破産するものあるに到るやも知るべからず、元来地方政治は中央政治と相俟つて歩調を一にし、進退を共にすべきものなり、然るに今日は両者其一致を欠き、動もすれば跛行的奇観を呈せんとすることなしとせず、政府の地方財政に対する方針は吾人の如き経済社会に身を置くものにありては重大の関係なるを以て、此序を以て一言御尋ね致すべし
 桂蔵相、政府の地方財政に対する意見は全然豊川君と同一なり、地方募債の流行は甚だ宜しからず、特に外債は最も不可なりと信ず、大阪、名古屋は既に認可を与へたり、京都も行掛り上已むを得ず認可するに至らんも知れず、されど其他は訓令を発して一切差止むることゝなせり、故に今後地方の借金政略は成るべく行はしめず、特に外債募集は断然認可せざる考へなり
 豊川氏、果して然らんには洵に結構なり、政府が既に公債政略を止め、借金を打切り、遣繰算段を廃止したる結果、内外の信用を回復し我民間の会社等に在りては景気一変の兆候を現はし来れり、所謂上の好む所下之れに傚ふ言の如く、政府の方針既に斯の如くならば民間の会社にありても嘗て政府の遣繰算段に倣ふて無法なる経営をなしたる日糖会社の如き既に大破綻を生じたれど、其他は皆政府の新方針に傚ふて着実の整理を行はんとせり、斯くて其影響は自然
 - 第7巻 p.222 -ページ画像 
金利の低落を来さしむるに到るべく、我が国の金利も遂には海上運賃と同じく世界的一致を見るに到るべき筈なり、今日の如く金利二銭以上にては到底貸付けに便ならず、之れを以つて中央銀行を始め勧業銀行其の他半官半民の経営に係れる銀行等は普通銀行と其の歩調を一にし是非とも金利引下を行はざるべからず、若し夫れ郵便貯金の如き其貯金利子を引下げざる間は他の普通銀行は権衡上預金及び貸付利子を引下ぐる能はず、故に各自共に同一歩調を以て金利引下を行ひ金融を緩慢にして進んでは五分利公債をも四分利と借換ゆるまでになさんことを期せざるべからず、松方侯が往年大蔵大臣たりし際の事蹟に鑑みて斯の如きは決して難事に非ず、当局の決心如何に上りて遂行を期すべしと信ず云々
当日は時間少く一同充分に意見を交換する能はざりしより、不日第三回会合を催ふすことに決し、午後十一時過散会せり



〔参考〕増訂改版 明治金融史 第三〇九―三一七頁〔明治四五年五月一日〕(DK070033k-0020)
第7巻 p.222-225 ページ画像

増訂改版  明治金融史 第三〇九―三一七頁〔明治四五年五月一日〕
    第二節 明治四十年以後の反動
日露戦後の起業勃興は、三十八年の下半期に至つて其端を発し、爾来企業の昂進漸く著く財界の景気頗る振興し、万事順調の経過を告げつつありたりと雖も、三十九年の夏頃よりして形勢漸く乱調を帯び、秋末には遂に変じて凶猛なる投機熱となり、其熱度の高き慥に日清戦後の白熱以上にして、僅々五六ケ月間に十有余億の新会社の発生を見るに及んでは、形勢最早や久しきを保つ能はざるは、見易きの理なり。
果然反動の時期は来れり。
蓋し事業濫設の結果民間の遊資漸く其庫底を払ふや、資本欠乏の声起るは自然の勢ひなり、資本一度欠乏せば新事業は最早や起る能はず、又起業家が計画を懐にし、更に前途の希望を以て動ける時代は、市場の取引頗る濶達にして、従つて資金の流転自在なる者ありと雖も、愈よ事実の上に其計画を行はんとするに当りては、万事必ずしも意の如くなる能はずして従つて戒心の生ずるは当然なり。戒心一度び萌さば取引は濶達なる能はず、資金の流通自ら渋滞す、取引濶達に融通自在なる場合に於ては、銀行は其信用を膨脹せしめ、其融通を拡張すと雖も、之が為めに資金の回収に苦むことなく、其業務極めて安全なりと雖も、而かも一度び其反対の場合に出遭はゞ、資金忽ちにして固定し、信用の膨脹は却て其業務を累卵の危きに陥らしむ。而して已に計画せられ、已に着手せられたる新事業は、資本の続く限り創業的の工事を進むと雖、其進捗の程度に至つては、各業の間必ずしも其歩調の一致を保つ能はず、従つて其結果として生ずる生産物件の供給は実際の需要に投合する能はざる場合を生じ、是に生産過剰の弊を生ずべきは又予じめ之を覚悟せざるべからず。
斯の如くにして、事業の勃興変じて起業熱の昇進となり、起業熱の昇進変じて投機熱の極度に達するや、次で来るべき者は資本欠乏の時代なり。金融梗塞の時代なり。信用頽廃の時代なり。生産過剰の時代なり。斯くて投機熱は一頓して消散し、起業心は沮喪し、有価証券は暴
 - 第7巻 p.223 -ページ画像 
落し、金融は逼迫し、物価は下落し、一般の財界は過去の旺盛に引換へて、火の消へたるが如き沈滞に陥るは、自然の順序なり。時運の此循環は是より先き三十余年の我金融史に於て数多たび経験したる所にして、時と場合に由り其実現の程度に緩急あり、其時期に遅速ありしと雖も、波乱の趣は常に一なり。西南戦後起業勃興の後然り。明治二十年の投機熱の後然り。明治二十五年の投機熱の後然り。日清戦後の投機熱の後ち然り。然り而して同一の歴史は日露戦後の起業勃興の後に於て、又実に最も大規模に、最も激烈に、最も明瞭に之を繰返したり。
蓋し四十年一月に於ける株券市価の大暴落は、企業勃勃興の時代の終焉を報じたる第一の警鐘にして、戦後の財界は此時より反動の時代に入れり。
先づ有価証券の市価を見るに、四十年一月下旬以降、実に左の如く急転直下の勢を以て暴落せり。

          郵船株          東京鉄道株          鐘紡株          東京株式株
       最高     最低     最高     最低     最高     最低     最高     最低
       円      円      円      円      円      円      円      円
一月  一五四、六〇 一二四、九〇 一二四、〇〇 一〇五、五〇 二九九、九五 二五〇、五〇 七八〇、〇〇 五三六、九五
三月  一二一、九〇  九六、六〇 一一四、九五  八九、〇〇 一五九、九〇 一二八、三〇 五六九、〇〇 三四八、〇〇
六月  一〇〇、三五  九一、二〇  七八、八〇  六六、八〇 一一八、八〇 一〇四、〇〇 一五〇、〇〇 一二三、〇〇
九月   九五、三〇  九一、〇〇  七二、四〇  六三、七〇      ―      ― 一五六、六〇 一三九、五〇
十二月  八二、八〇  七七、〇〇  六六、九五  六〇、六〇  九四、四〇  七七、七〇 一一〇、〇〇  九一、六〇
是豈に曩の騰貴の方外なると均しく、其下落も亦た激烈にあらずや。
其結果は暴騰の際に一朝にして巨万の富を成せる成金連の、又一朝にして没落せしに止まらず、騰貴の際に方つて、商人は言ふに及ばず、地方の農民に至る迄、株に手を染め、株に手を出さゞる者は人にして人に非ずと云ふが如き有様なりしかば、此暴落の打撃は其程度に於て独り強烈なりしのみならず、其範囲も亦広大にして、一方に株熱を冷却せしめたると同時に、財界の信用は一般に渡りて遺憾なく根柢より震撼せられたり。而して銀行は極端に其信用を膨脹せしめたる際に於て、俄かに斯の如き有価証券の激烈なる暴落に逢ふ。人心忽ち恐慌に襲はれ、流言蜚語漸く現はれ来りて、金融業者を驚かし、遂に鰻会なる名称の下に東西の有力なる銀行家の会合となり、時の大臣を招待して万一の場合には互に援助するの議を決し以て人心の不安の鎮静に努むるの道を講ずるに至れり。幸にして預金の取付を見るに至らざりしと雖、危機の一髪の間に迫りたるものありたるは蓋し疑ふべからず。
次に企業熱勃興の為めに、過度の資本消費ありたるのみならず、尚ほ継続して資本の需要頗る急なるものありき。試みに三十八年以来の実際の事業投資額を示さん乎。
      三十七年末払込資本金    四十二年末払込資本金       比較▲増△減
農業会社   三、二二〇、八五七    一四、〇六九、一三七  ▲一〇、八四八、二八〇
工業会社 一六二、八三六、二〇三   五四二、二八〇、二三七 ▲三七九、四四四、〇三四
商業会社  八二、六二八、三二七   一五六、八九一、三〇九  ▲七四、二六二、九八三
水陸運輸 三〇九、四一二、四七三   一七五、六八九、六八二 △一三三、七二二、七九二
銀行   三七三、一九四、二八六   四七七、五五〇、一五四 ▲一〇四、三五五、八六八
合計   九三一、二九二、一四六 一、三六六、四八〇、五一九 ▲四三五、一八八、三七三
即戦後四十二年に至る二年間の事業資本の新たに払込れたるもの約四億三千万円に上れり。然れども右表中水陸運輸会社の払込資本が、減
 - 第7巻 p.224 -ページ画像 
少を示せるは私設鉄道十七会社の国家買収の結果にして、之を加算するときは、水陸運輸業に於ても、此間に少くも払込資本の増加五千万円を降らず。故に戦後新たに払込まれたる会社資本の増加は、大約六億円に上りたるべし。然り而して此外に数億の資本は戦役に破壊せられ、更に戦後年々、一億五六千万円の増税を負担しつゝあり。其資本の過去数年に於て破壊せられたる高は極めて多大なり。而して三十九年以後に於て新事業の進捗の為めに、資本の需要は斯の如く大且つ急なるものあり。斯くて我金融界は又資本欠乏の困難に陥り、続々新計画の中止又は解散を見るに至れり。
又た貿易は四十年に入るや、滔々として輸入超過の勢を示し遂に同年には六千二百万円、四十一年には五千八百万円の超入を告げたり。只四十年には政府の財政計画に由り、尚ほ巨額の外金の使用すべきものありたる為め、正貨の流出を見るに至らず、又た政府事業及民間事業の盛んに進捗しつゝありたるを以て、一般の消費は依然として盛んにして、従て物価亦た低落を告るに至らざりしと雖、四十一年以後は外債金の減少に迫られて、財政を縮少し、爾来殆んど外金の流入を見ざるに至れり。而して之に先つて四十年十月末に紐育恐慌発生し、更らに銀価の暴落に逢ひ、玆に我が清国及欧米に対する輸出は大減少を告げたるに反し、輸入は依然として熾んにして、遂に正貨の減少を促がし、通貨の縮少を告げ、斯くて此点より又た金融の困難を一層甚だしからしめたり。
斯の如くして先づ有価証券の暴落に由て、信用を根柢より震撼して人心を不安に導き、更に資本の欠乏の為めに新事業を困難に投じて其進捗を中止せしめ、紐育恐慌の影響を受けて我輸出は大打撃を蒙り、生糸、銅、綿糸布等を始め、輸出品の市価異常の暴落を来たし、我四億余の輸出産業を暗澹たる窮境に沈淪せしめ、遂に商品の大停滞、生産の大縮少、其一般消費の大減少、物価の大下落を馴致せり。而して四十一年上半季は其最も困難を極めたる時期にして、信用の衰頽、人心の動揺其極に達し、金融最も険悪を示し、遂に小銀行は此圧迫に堪へ得ずして、預金の取付に逢ひ、又は臨時休業をなせるもの、全国に於て実に四十行の多きに及べり。而して例に由りて財界救済の声を聞くに至り、政府は同年四月第一回国庫債券一億円の償還の議を決し、割引法を設けて資金の需要切迫せる方面に向て、便宜償還の道を開き、以て其救済に資せり。尤も割引償還を請求したるものは二千五百万円に過ぎず、其他は悉く十月以後の抽籤償還に由りたりと雖、尚ほ之が為めに金融界の人心を安泰ならしめたるの効は、蓋し尠なしと為さゞるなり。今左に反動期に入りたる四十年一月以降に於ける東京金利並に東京大阪等我六大市同盟銀行の預金貸出の上に現はれたり。左に其の変動を表示せん。
         貸付       預金          貸出
        最高   最低
        銭    銭             円           円
卅九年十二月 三、三〇 一、六〇 六二五、三八〇、〇〇〇 五八四、六八三、〇〇〇
 四十年一月 三、三〇 一、七〇 七四三、九一九、〇〇〇 七〇九、二〇五、〇〇〇
    三月 三、三〇 一、八〇 六〇九、六二二、〇〇〇 五八四、九六五、〇〇〇
    六月 三、三〇 一、八〇 五七一、四四六、〇〇〇 五五九、九〇六、〇〇〇
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    九月 三、三〇 一、八〇 五五五、八四九、〇〇〇 五六七、〇二四、〇〇〇
   十二月 三、三五 一、八〇 五四七、九七六、〇〇〇 五六三、七五三、〇〇〇
四十一年三月 三、三五 二、〇〇 五〇三、三一七、〇〇〇 五五八、八九七、〇〇〇
    六月 三、三五 二、〇〇 五一七、四二一、〇〇〇 五六一、一〇四、〇〇〇
    九月 三、三五 一、八〇 五二二、四二五、〇〇〇 六〇六、〇八〇、〇〇〇
   十二月 三、三五 二、〇〇 五三九、五九四、五六六 五五七、九六九、〇一七
東京の市中金利は日露戦後最低一銭六七厘、最高三銭三厘の間を往来し、寧ろ最低を標準としたりしもの、四十年末より最高金利三銭五厘に、最低二銭に昇騰し、普通二銭七八厘を唱ふに至れり。而して六大市同盟銀行の預金は、四十年一月より四十一年六月末迄に、二億四千万円を、貸出は一億五千万円を減少せり。斯くて預金の減少の大なるは則ち反動的沈衰の如何に激烈なりしかを証すると同時に、貸出の減少の程度遥かに預金の減少の程度よりも小なるは、曩の旺盛時代に拡張したる信用の、金融硬塞の為に停滞して如何に回収に困難なりしかを証する者にして、以て当時金融の如何に難境に呻吟したるかを察するに余りあり。而して其影響は左の如く日本銀行の一般貸出の増加となり、兌換券の膨脹となりて現はれたり。
             一般貸出高      兌換券発行高     制限外発行高
                  円           円          円
三九年九月    二五、五四三・〇〇〇 二七七、五〇二・七三二 一一、三八五・四一六
  十一月    四五、四九八・〇〇〇 二九〇、五二五・四七〇 二五、二四一・一〇一
四〇年一月   一一三、〇六一・〇〇〇 三二六、八〇六・七〇六 五八、四二〇・一〇〇
   三月   一一一、五九四・〇〇〇 三一八、七三二・一五九 五三、八一〇・八五七
   六月    九六、〇七七・〇〇〇 三三二、八五五・九〇六 六四、七七三・九七〇
   九月    八三、八三四・〇〇〇 三二五、七八七・二六九 六二、九七一・四三二
〇二月《(十)》 一三五、九四八・〇〇〇 三六九、九八四・一一一 八八、二四一・九八〇
四一年三月   一一三、〇五一・〇〇〇 三〇九、五六〇・五六九 三九、八〇九・三七五
若夫れ四十年以降に於ける金融困難の時期に於て、日本銀行が其地位を利用して、限外券を発行し、以て危急に応ずるの伸縮力なかりせば我金融界は更らに一層の難境に陥りたるべきや、言を待たず。四十年末より金融界の人心一時恐慌に襲はれたりと雖、預金の取付及休業は更に小銀行に起りたるに止まり、遂に大事に至らざるを得たるは、曩に一応恐慌の経験を甞め、之に処するの道を誤らざりしに由る所尠なからざると、日清戦後銀行業の発達著しく、準備及積立金大に増加して其基礎の鞏固を加へたるに由る所大なるものありしと雖も、抑も又た我が兌換制度の伸縮力に富み、之を利用して日本銀行が機宜を制し得たるに由る所、特に大なるを看過する能はず。是に至りて吾輩は重ねて兌換制度の効能の偉大なるに想到すると同時に、之が運用に任せる日本銀行の責任の極めて重大なるを看取し、世人と共に深く後来を戒しめんと欲する所なり。