デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
2節 手形
1款 大阪手形交換所
■綱文

第7巻 p.227-230(DK070035k) ページ画像

明治12年12月(1879年)

是ヨリ先、明治十一年六月栄一大阪ノ銀行業者ニ奨メタルニ端ヲ発シ、大阪銀行業者ノ社交的協議会組織セラレ、後ニ銀行苦楽部ト称ス。

是月同苦楽部内ニ「大阪交換所」ヲ設立シテ、手形交換ヲ開始ス、蓋シ本邦ニ於ケル手形交換ノ嚆矢タリ。栄一第一国立銀行大阪支店ヲ通ジテコレガ設立ニ関与ス。


■資料

第一国立銀行第十三回半季実際考課状 第二―一二頁 (自明治一二年七月至同年一二月)(DK070035k-0001)
第7巻 p.227 ページ画像

第一国立銀行第十三回半季実際考課状  第二―一二頁
                        (自明治一二年七月至同年一二月)
    ○営業事務要件ノ事
○中略
一又同店○大阪支店ハ在阪諸銀行ト聯合シ、同地従来取引上過半手形ヲ使用スルノ習慣アルヲ以テ益其交換ヲ便利ニセンカ為メ手形交換所ノ創立ヲ議定シ、連署ヲ以テ大蔵省ニ稟候シ、允准ヲ経テ十二月一日ヨリ開業スルヲ得タリ


青淵先生伝初稿 第九章下・第一二頁(DK070035k-0002)
第7巻 p.227 ページ画像

青淵先生伝初稿  第九章下・第一二頁
○上略 大阪にては古来手形使用の習慣ありて他の地方よりは比較的発達せるが故に、先生は同地の支店に命じ、他の十五銀行と謀り、明治十二年九月始めて大阪手形交換所を設立せしめたり。之を我国における手形交換所の嚆矢とする。
  ○明治十二年九月交換所設立ト記スハ大阪ニオケル銀行苦楽部設立ノ誤ナルコト後掲大阪手形交換所記録ニ明カナリ。


大阪手形交換所記録 【第一節 大阪ニ於ケル手形交換ノ濫觴】(DK070035k-0003)
第7巻 p.227-228 ページ画像

大阪手形交換所記録
   第一節 大阪ニ於ケル手形交換ノ濫觴
    一、大阪交換所ノ創設
大阪ニ於ケル手形ノ交換ハ明治十二年十二月設立セラレタル「大阪交換所」ニ於テ開始セルニ刱リ、実ニ本邦ニ於ケル手形交換ノ嚆矢トス先是、明治十一年六月市内ノ銀行業者ハ業務ニ対スル諸般ノ打合セ又ハ互ニ交誼ヲ厚クスルノ目的ヲ以テ、毎月会同ヲ催スコトトナリ(他日銀行集会所ノ設立ハ之ニ胚胎ス、尚別記大阪銀行集会所ノ由来参照)同会第十一回即チ明治十二年四月手形交換所ヲ設立スルノ議起リ、更ニ同年九月銀行苦楽部ヲ設立スルニ及デ其議愈々熟シ、以来数回ノ協議ヲ重ネテ交換所申合規則ヲ議定シ、同年十一月二十八日ヲ以テ大蔵大臣ノ允許ヲ受ケ、同十二月一日ヨリ東区大川町銀行苦楽部内ニ「大
 - 第7巻 p.228 -ページ画像 
阪交換所」ヲ設立シ、交換ヲ開始セリ
当時ニ於ケル加盟銀行ハ国立銀行本店十行同支店五行及ビ三井銀行大阪分店ヲ合セ十六行ニシテ、其設立ニ専ラ尽力シタルハ大三輪長兵衛外山修造、熊谷辰太郎、井口新三郎ノ諸氏ナリ、其後明治十四年五月銀行苦楽部ハ東区伏見町三丁目ニ移転スルト共ニ名称ヲ「大阪同盟銀行集会所」ト改称スルコトヽナリ、同時ニ大阪交換所ヲ廃シ以後同盟銀行集会所内ニ於テ其附随ノ事業トシテ手形交換ヲ行フコトヽナレリ
    二、当時ノ交換決済方法
而シテ当時ニ於ケル交換決済ノ方法ハ、各加盟銀行ヨリ自行宛小切手用紙ヲ予メ交換所幹事ヘ渡シ置キ、手形交換ノ結果借方トナリタルトキハ、其金額ヲ限リ幹事ヲシテ該小切手ヲ発行シ貸方銀行ヘ交付セシムルノ仕組ナリ(此ノ幹事ハ常任トシテ集会所書記一名之ニ当リ、外ニ加盟銀行中ヨリ毎月二行宛輪番ニ行員ヲ参加セシム)、然ルニ此方法ニ依ルトキハ、貸方銀行ニ於テ該小切手ヲ翌日ノ交換ニ持出シ決済ヲ受クル場合ハ別トシ、若シ現金ヲ必要トスル場合ハ更ニ該小切手ノ取付ヲ為サザルベカラズ、又借方銀行ニ於テモ取付ノ有無ニ不拘相当額ノ資金準備ヲ要スルモノナレバ時トシテ取付ナキ場合之ガ手持トナルコトアリ、其手続上並ニ資金運用上ノ不利不便尠カラズ、是ヲ以テ明治十七年九月同盟銀行ハ日本銀行大阪支店ニ謀リ、倫敦交換所ノ制度ニ倣ヒ、同行ト当座契約ヲ締結シ其当座勘定ノ振替ヲ以テ交換尻ヲ決済スルノ方法ニ改メ、手形交換ノ場所モ同行内ニ移スコトヽナシ、同年十月ヨリ之ヲ実施セリ
    三、大阪手形交換所ノ起原ト旧交換方法ノ廃止
然ルニ如何ナル都合ナリシカ、翌十八年六月再ビ銀行集会所内ニ復帰シ、決済方法モ旧法ニヨルコトヽナリシガ、明治二十九年ニ至リテ亦不便ヲ唱フル声盛ニ起リ、其間有志銀行ハ更ニ日本銀行大阪支店ニ謀リ、別ニ「大阪手形交換所」ナルモノヲ同支店内ニ新設シ、其組織ハ当時既ニ倫敦交換所ノ制度ニ倣ヒテ設立セラレタル東京交換所ニ則リ四月一日ヨリ交換ヲ開始セリ、是レ即チ今日ノ大阪手形交換所ノ始メナリトス、一方同盟銀行集会所内ニ於ケル交換モ依然トシテ継続セシガ、新設ノ大阪手形交換所ニ加盟スル銀行次第ニ増加シ、唯日本銀行大阪支店ニ当座勘定ヲ有セザル銀行ノミ残留スル状態トナリ、又新手形交換所ニ加盟セル銀行モ残留銀行トノ手形交換ニノミ之ヲ利用スルニ過ギズ、従ツテ交換高ハ漸次減少シテ遂ニ存立ノ必要ナキニ至リタルヲ以テ、協議ノ結果明治二十九年十一月末日限リ之ヲ廃止スルコトトナリ、手形ノ交換ヲ希望スル銀行ハ総テ日本銀行大阪支店ト当座ヲ開キ、新交換所ニ加盟スルコトヽナリ、之ヲ為シ得ザル銀行ハ加盟銀行ニ代理交換ヲ委託スルコトヽナレリ


財団法人 大阪銀行集会所ニ関スル記録(DK070035k-0004)
第7巻 p.228-230 ページ画像

財団法人 大阪銀行集会所ニ関スル記録  (大阪銀行集会所所蔵)
    大阪の手形交換
明治十二年八月二十一日大阪銀行業者の例会を東区伏見町三丁目の面亭と云ふ料理屋に開きたる時、其以前より問題となり居たる手形の交換を開始せんとするの議ハ愈々確定し、翌九月銀行苦楽部を大川町に
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設けて以来同所に於て協議を重ね、交換申合規則を議定して大蔵大臣に出願し、十一月二十八日允許を得たるを以て、十二年十二月一日より銀行苦楽部内に大阪交換所を設立し、手形の交換を開始したり、之れ我国に於ける手形交換の創始なり
当時の加盟銀行ハ国立銀行本店十行と同支店五行、外に三井銀行大阪分店を合せ十六行にして、同所の設立に専ら尽力せられたるハ大三輪長兵衛・外山修造・熊谷辰太郎・井口新三郎の諸氏なりき
其後十四年五月銀行苦楽部ハ東区伏見町三丁目に移転して大阪同盟銀行集会所と改称することゝなり、同時に大阪交換所を廃し、以後同盟銀行集会所内に於て、其の附随の事業として手形交換を行ふことゝなれり
此当時に於ける交換決済の方法ハ、各加盟銀行より自行宛小切手用紙を予め交換幹事へ渡し置き、手形交換の結果借の方となりたるときハ其金額を限り幹事をして該小切手を発行して貸し方銀行へ交付せしむるの仕組なり、而して此幹事ハ常任として集会所の書記一名これに当り、外に加盟銀行中の二行宛毎月輪審《(番)》に行員を出勤参加せしめたり、かくて貸し方銀行ハ此小切《(手脱)》を持帰り、現金を欲せされハ更に翌日の交換に之を持出すべきも、若し現金を必要とするときハ宛名銀行に取付けを為さゝるべからず、又借り方銀行も時として相手方の取付けなき時ハ切角準備し置きたる決済資金の手持となることもありて、双方共余り便利ならず、是を以て倫敦交換所の制度に倣ひ、日本銀行大阪支店に於ける加盟銀行の当座勘定の振替を以て交換尻を決済する方歩に改め、手形交換の場所も日本銀行大阪支店内に移すことゝなしたり、然るに如何なる都合ありてか、幾干もなくして旧の如く再び同盟銀行集会所内に復帰し、決済の方法も旧法によることゝなりしつ《(がカ)》、二十九年に至りてまた不便を唱ふる声盛に起り、其間有志銀行ハ更に日本銀行大阪支店に謀りて別に大阪手形交換所なるものを同支店内に新設し其規約と交換手続ハ当時の東京手形交換所の例に則り、四月一日よりこゝにも手形の交換を開始したり、これ今日の大阪手形交換所の始めなりとす
一方同盟銀行集会所内に於ける交換も依然として継続せられ居たりしつ《(がカ)》、新設の大阪手形交換所に加盟する銀行ハ次第に増加した□《(ゞカ)》日本銀行大阪支店と当座取引を有せざる銀行のみ残留し、新手形交換所に加盟せる銀行も残留銀行との手形交換にのみこゝに来るに過きす、従て其交換高ハ漸次減少して遂に存在の必要なきに至りたるを以て、協議の結果二十九年十一月末日限り之を廃止することゝなり、手形の交換を希望する銀行ハ都て日本銀行大阪支店と当座を開き、新交換所に加盟することゝなり、之を為し得さるものハ他に代理交換を依頼することゝなれり
今旧記に残れる三十年十月中の交換高一覧表を見るに、加入銀行ハ日銀支店を始め三十二・三十四・四十二・五十八・百三十・百三十六・百四十八・第一・第三・第五・二十二・七十八・百四十七・三井・三菱・鴻池・住友・帝商・近江・日本中立・大阪・明治・起業の二十三行にして、一ケ月間の手形交換枚数ハ僅に二万六千四百六十枚にして
 - 第7巻 p.230 -ページ画像 
其金額ハ壱千五百七万二千百五十三円四十壱銭に過ぎず、洵に微々たるものにてありき
  ○此ノ記録ハ「大阪手形交換所」ト印刷セル便牋型用牋ニ青色ニテタイプライター印書セルモノナリ。
  ○本書第七巻大阪銀行集会所明治一一年六月第一三八頁ノ項参照。
  ○本書第五巻択善会明治一二年一一月一七日第六四二頁ノ項参照。