デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

1章 金融
4節 保険
5款 日清生命保険株式会社
■綱文

第7巻 p.699-706(DK070089k) ページ画像

明治39年10月8日(1906年)

是ヨリ先、早稲田大学関係者ニヨリ日清生命保険株式会社ノ設立発起サレ、栄一モ発起人ノ一人タリ。是日発起人会開カレ出席ス。


■資料

(日清生命保険株式会社)創立事務所日誌(DK070089k-0001)
第7巻 p.699 ページ画像

(日清生命保険株式会社)創立事務所日誌
               (日清生命保険株式会社所蔵)
十月二日(火曜)雨天
左ノ文書ヲ発送ス、之ニ定款・事業方法書・約款及ヒ発起人タルコトヲ承諾セラレシ諸氏ノ連名表ヲ添付セリ
 拝啓、時下秋冷相催候処、愈々御清勝之段奉賀候、扨早稲田大学ニ縁故ある小生共主唱致候生命保険株式会社の発起人に御加入之儀御願申上候処、幸に御承諾被下難有存候、就ては来ル十月八日午後二時より、麹町区有楽町東京商業会議所に於て発起人会相開き度ニ付万障御繰合せ御出席被下度、尚別紙認可申請書類御一覧の上、御持参被下度、御願申上候、先ハ右御依頼まて 早々敬具
  明治三十九年十月二日
                    前島密
         殿
  ○認可申請書略ス。
右ノ文書ヲ発送セシ諸氏左ノ如シ
  渋沢栄一  村井吉兵衛 森村開作   児島惟謙
  牟田口元学 根津喜一郎 中野武営   相馬永胤
  浅田徳則  佐竹作太郎 土子金四郎  久米良作
  左右田金作 茂木保平  石川徳右衛門 高島小金次
  白井遠平  渡辺和太郎 斎藤忠太郎  金沢種次郎
  田中穂積  天野為之  三枝守富   鈴木寅彦
  増田義一  山田英太郎 鳩山和夫   前島密


(日清生命保険株式会社)報告書 第一回〔明治四一年二月〕(DK070089k-0002)
第7巻 p.699-700 ページ画像

(日清生命保険株式会社)報告書 第一回〔明治四一年二月〕
               (日清生命保険株式会社所蔵)
    第一 創立事務ノ概況
一、明治三十九年十月八日、東京市麹町区有楽町東京商業会議所ニ於テ第一回発起人会ヲ開キ、左ノ事項ヲ決定セリ
  一、定款
  二、認可申請書類
  三、設立費用ハ概算金参千五百円ヲ限度トシ、之カ支出ヲ創立委員ニ一任スル事
  四、当会社ヲ日清生命保険株式会社ト称スル事
 - 第7巻 p.700 -ページ画像 
  五、創立委員十三名ヲ選任シ創立事務ヲ一任スル事
  六、創立事務所ヲ東京牛込区天神町十五番地ニ置ク事
  七、発起人持株及株式募集方法ヲ創立委員ニ一任スル事
○中略
一、明治三十九年十二月二十二日、東京市麹町区富士見軒ニ第二回発起人会ヲ開キ、創立総会議案ニ付協議ス
一、明治四十年一月二十六日、東京市麹町区有楽町東京商業会議所ニ於テ創立総会ヲ開ク


文書類纂 商工―会社・第二巻〔明治四〇年〕(DK070089k-0003)
第7巻 p.700-702 ページ画像

文書類纂 商工―会社・第二巻〔明治四〇年〕 (東京府庁所蔵)
農商務省指令商第八四〇二号
            東京府東京市小石川区関口町二百七番地
                      前島密
                       外四十六名
明治三十九年十月八日付申請日清生命保険株式会社発起ノ件認可ス
  明治三十九年十二月六日
            農商務大臣
      ○
(写)
    生命保険株式会社発起認可申請書
今般私共日清生命保険株式会社発起仕候ニ付御認可被下度、保険業法施行規則第一条ニ拠リ、別冊定款・事業方法書・普通保険約款・保険料及ヒ責任準備金算出ノ基礎及ヒ方法ニ関スル書類並ニ責任準備金利用ノ方法ヲ記載シタル書類相添へ、此段申請仕候也
  明治三十九年十月八日
         日清生命保険株式会社発起人
          東京市小石川区関口町弐百七番地
                     前島密
          東京市本郷区駒込東片町百五拾七番地
                     白井遠平
          東京市芝区芝公園五号地二番地
                     牟田口元学
          東京市本郷区元町壱丁目五番地
                     中野武営
          横浜市雲井町壱丁目五番地
                     斎藤忠太郎
          東京市芝区芝金杉新浜町壱番地
                     増田義一
          東京市下谷区仲御徒町参丁目五拾九番地
                     山田英太郎
          京都市下京区諏訪町五条上ル高砂町弐拾壱番戸
                     藤原忠一郎
          東京市牛込区牛込天神町拾五番地
                     池田竜一
 - 第7巻 p.701 -ページ画像 
          東京府豊多摩郡戸塚村大字戸塚六拾七番地
                     三枝守富
          東京府荏原郡大井村弐千九百五拾五番地
                     児島惟謙
          東京市麹町区下六番町四拾八番地
                     浅田徳則
          山梨県甲府市常盤町四拾弐番地
                     佐竹作太郎
          東京市京橋区木挽町九丁目参拾番地
                     森村開作
          横浜市本町六丁目八拾弐番地
                     来栖壮兵衛
          横浜市元浜町壱丁目壱番地
                     渡辺和太郎
          横浜市南仲通参丁目五拾番地
                     安部幸兵衛
          横浜市月岡町壱丁目参番地
                     左右田金作
          横浜市弁天通二丁目参拾番地
                     茂木保平
          横浜市南仲通壱丁目四番地
                     小野光景
          東京市麻布区山元町五拾八番地
                     根津嘉一郎
          東京市四谷区仲町参丁目参拾五番地
                     相馬永胤
          東京市本郷区弓町壱丁目弐拾六番地
                     土子金四郎
          東京市牛込区牛込弁天町百七拾番地
                     田中穂積
          東京市小石川区関口町弐百番地
                     高田早苗
          東京市牛込区牛込矢来町四番地
                     田中唯一郎
          東京市牛込区牛込北山伏町弐拾九番地
                     坪谷善四郎
          東京市日本橋区兜町弐番地
                     渋沢栄一
          東京市麹町区永田町壱丁目拾七番地
                     村井吉兵衛
          大阪市東区本町三丁目廿四番屋敷
                     山口玄洞
          大阪府下堺市九間町西壱丁目五番屋敷
                     宅徳平
 - 第7巻 p.702 -ページ画像 
          大阪府東区南久太郎町二丁目百六番屋敷
                     杉村正太郎
          神戸市栄町通弐丁目外拾弐番
                     麦少彭
          神戸市栄町壱丁目六拾八番屋敷
                     呉錦堂
          大阪市南区安堂寺橋通四丁目弐百四拾五番屋敷
                     浮田桂造
          大阪市西区靱上通弐丁目弐拾四番地
                     金沢種次郎
          名古屋市南武平町壱丁目三拾弐番地
                     上遠野富之助
          横浜市元町弐丁目百八番地
                     石川徳右衛門
          横浜市南仲通三丁目四拾弐番地
                     大浜忠三郎
          横浜市花咲町弐丁目弐拾八番地
                     樋口登久次郎
          新潟市東堀通七番町千拾七番地
                     斎藤喜十郎
          東京市麹町区飯田町三丁目廿八番地
                     天野為之
          東京市小石川区音羽町七丁目拾番地
                     鳩山和夫
          東京市本郷区駒込東片町百五拾弐番地
                     鈴木寅彦
          東京市本郷区駒込千駄木林町百四番地
                     久米良作
          横浜市本町四丁目六拾八番地
                     増田増蔵
          東京府豊多摩郡戸塚村大字下戸塚七拾番地
                     大隈重信
    農商務大臣松岡康毅殿


竜門雑誌 第二二二号・第四一―四二頁〔明治三九年一一月二五日〕 ○青淵先生と新会社関係(DK070089k-0004)
第7巻 p.702 ページ画像

竜門雑誌 第二二二号・第四一―四二頁〔明治三九年一一月二五日〕
○青淵先生と新会社関係
○中略又左記の諸会社の発起に就ても各主唱者の懇請に依り下記の如く加入を承諾せられたりといふ
○中略
 一、日清生命保険株式会社 発起人


中外商業新報 第七四六二号〔明治三九年一〇月一〇日〕 日清生命保険会社設立(DK070089k-0005)
第7巻 p.702-703 ページ画像

中外商業新報 第七四六二号〔明治三九年一〇月一〇日〕
    日清生命保険会社設立
早稲田大学に縁故ある人々の発起にて日清生命保険会社を設立するの
 - 第7巻 p.703 -ページ画像 
計画あり、八日午後二時東京商業会議所に会合し、男爵前島密氏を座長に推し、定款其他申請書等を決議したるが、資本金一百万円、之を二万株に分ち一株五十円にて、創立委員には久米良作・牟田口元学・中野武営・森村開作・山田英太郎諸氏に決し、尚ほ大隈伯・渋沢男・村井吉兵衛・児島惟謙・根津嘉一郎・佐竹作太郎・土子金四郎・鳩山和夫・高田早苗・天野為之・浅田徳則・横浜にては小野光景、茂木保平・左右田金作・安部幸兵衛・来栖壮兵衛の諸氏も亦発起人たるを承諾したる由


国民新聞 第五二四五号 〔明治三九年一〇月一一日〕 日清生命保険創立(DK070089k-0006)
第7巻 p.703 ページ画像

国民新聞 第五二四五号〔明治三九年一〇月一一日〕
    日清生命保険創立
 早稲田大学に縁故ある人々の計画にて保険会社創立の目論見ありたるが八日午後二時東京商業会議所に発起会を開き、前島男を座長とし仮定款其他申請書類を決議し、社名を日清生命保険株式会社とし、資本金一百万円とし二万株に分ち一株五十円と為す等を決し、前島男爵を委員長に、久米良作・牟田口元学・中野武営・森村開作・山田英太郎・鈴木寅彦・田中唯一郎・増田義一・池田竜一・金沢種次郎・石川徳右衛門・大浜忠三郎の諸氏を創立委員に渋沢栄一・村井吉兵衛・相馬永胤・児島惟謙・根津嘉一郎・佐竹作太郎・土子金四郎・鳩山和夫・高田早苗・天野為之・浅田徳則・白井遠平・三枝守・富田中穂積(以上東京)、小野光景・茂木保平・左右田金作・樋口登久治郎《(樋口登久次郎)》・阿部幸兵衛・来栖壮兵衛・渡辺和太郎・斎藤忠太郎(以上横浜)、松本正太郎・山口玄洞・宅徳平(以上大阪)、藤原忠一郎(以上京都)、上遠野富之助(名古屋)の諸氏を発起人にあげたり、大隈伯も熱心に此の挙を賛し居る由


竜門雑誌 第二二一号・第五四頁〔明治三九年一〇月二五日〕 ○日清生命保険会社の設立(DK070089k-0007)
第7巻 p.703 ページ画像

竜門雑誌 第二二一号・第五四頁〔明治三九年一〇月二五日〕
○日清生命保険会社の設立 青淵先生も発起人たる同社は早稲田大学の校賓及び校友諸君を中心として創始せられるものにして、去八日東京商業会議所に於て第一回発起人会を開き、発起人総代・創立費用・創立委員・創立事務所・発起人持株・株式募集方法等を決議せられたるが、其目的は日本及び清国に於て内外国人の年齢六十五年六ケ月以下の者を被保険者として、死亡保険並に死亡生存混合の保険を為すものにして、創立委員長は前島男、委員は久米良作、牟田口元学、相馬永胤氏外九名なりと云ふ


中外商業新聞[中外商業新報] 第七五一八号〔明治三九年一二月一四日〕 日清生命第一回払込(DK070089k-0008)
第7巻 p.703 ページ画像

中外商業新聞[中外商業新報] 第七五一八号〔明治三九年一二月一四日〕
    日清生命第一回払込
早稲田学友にて計画せし日清生命保険は資本金百万円株数二万株の内一万五千株を発起人及準発起人にて引受け、残五千株を発起人紹介者校友に分配せしに二万余株の申込あり、按分比例に依るべく第一回払込は年内に終了せしめん筈なりと


竜門雑誌 第二二三号・第四六頁〔明治三九年一二月二五日〕 ○日清生命保険株式会社の発起認可(DK070089k-0009)
第7巻 p.703-704 ページ画像

竜門雑誌 第二二三号・第四六頁〔明治三九年一二月二五日〕
○日清生命保険株式会社の発起認可 大隈伯・前島男を始め早稲田大
 - 第7巻 p.704 -ページ画像 
学関係者を中心として発起せられ、青淵発生も其発起人に加はられたる同社に於ては、十一月上旬主務者に設立認可の申請を為したる所、本月六日其認可を得たりと云ふ、因に同会社の株式は早稲田大学関係者に於て全部の引受予約あるを以て一般募集をなさず、近々第一回の払込を為さしめ、明春早々開業の運に至るべしと云ふ


雨夜譚会所蔵書類 日清生命と渋沢子爵(日清生命社長 池田竜一氏述)(DK070089k-0010)
第7巻 p.704 ページ画像

雨夜譚会所蔵書類
    日清生命と渋沢子爵(日清生命社長 池田竜一氏述)
渋沢子爵が我日清生命と関係を持たれたのは創業当初からの事であつて、大隈老侯・故前島男と多年親交のあつたこと及早稲田大学の後援者である関係から起つたのである。子爵は我社第一世の社長たる故前島男爵と共に、老侯が明治維新の難局に当り大蔵卿として国運の進展に努力せられた当時から侯を補佐して改正局出仕の役人として、倶に助け合つた間柄であつた。老侯が明治十四年失脚前の光彩陸離たる歴史の蔭には、当時年少気鋭時流に先んじた識見を持つて居た両氏の進言献策が尠からず有つたことを認めざるを得ない。其後前島男爵は大隈老侯の下野と共に官界を退き、渋沢子爵は疾く実業界に投じられて国立銀行の創設に全力を献げられたが、子爵と大隈老侯・前島男との友情は公的にも私的にも年々に親密を加へて行つた。明治三十九年春大隈老侯・故前島男爵・高田現早稲田大学総長の方々が主唱発起人となり、早稲田大学の勢力を背景とし、支那四億の民衆と我六千万同胞の共存共栄を目的として日清生命の創立に着手せられた際、子爵は従来の関係上此の事業に対しても欣然発起人の一人に馳せ参じられ、会社の生誕に一方ならぬ御尽力を賜つたのであつた。



〔参考〕本邦生命保険業史 会社及統計篇 第一六一―一六四頁〔昭和八年九月〕(DK070089k-0011)
第7巻 p.704-706 ページ画像

本邦生命保険業史 会社及統計篇 第一六一―一六四頁〔昭和八年九月〕
    日清生命保険株式会社
日清生命保険株式会社は明治四十年三月の創立、千代田が三十七年二月慶応学閥を背景として創立された当時、既に村井吉兵衛氏・高田早苗博士等によつて発起人会が開かれたのである。然るに折柄勃発せる日露戦争の為に一時この計画は沙汰止みとなつた。而して戦争終熄後村井吉兵衛氏は満韓地方を旅行して具さに斯業状況の視察を了へ再び高田博士等と謀り、こゝに早稲田学閥に縁故関係ある人々によつて新会社創立が計画せられた。
 斯くて諸般の準備が完了し、三十九年十月八日第一回発起人会が東京商業会議所に於て開かれたが、当日の出席者は渋沢栄一男・村井吉兵衛・中野武営・児島惟謙・浅田徳則・佐竹作太郎・根津嘉一郎・高田早苗・左右田金作・鳩山和夫・天野為之・白井遠平・土子金四郎・三枝守富・田中穂積・牟田口元学・山田英太郎氏等当時財界並に学界に於ける屈指の人々四十余名で前島密男座長となり、目論見に就て協議したが結局、資本金を一百万円となし会社名は日清生命保険株式会社と決定した。これは従来の会社が保険証券販売を本邦のみに極限して営業してゐたのを、満韓地方にも及ぼし、以つて日支親善に貢献せ
 - 第7巻 p.705 -ページ画像 
んとしたのである。この計画が大隈重信侯の援助する所となり、同年十二月には主務省から発起の認可があつた。創立委員長には前島男が就任し、委員には久米良作・牟田口元学・相馬永胤・森村開作・鈴木寅彦・田中唯一郎・増田義一等の諸氏が就任し、創立事務所を東京市牛込区天神町の池田竜一氏宅に置き創業の準備をなした。翌四十年一月には創立総会が開催せられ営業方針を発起人会案通り決定し、社長には前島男、専務取締役に池田竜一、平取締役には牟田口元学・来栖壮兵衛・山田英太郎・田中唯一郎・金沢種次郎、監査役には児島惟謙・浮田桂造・上遠野富之助の諸氏が就任した。次いで相談役に渋沢栄一子・中野武営・高田早苗博士・相馬永胤・麦少彭の諸氏が当り、営業免許を同年二月に受けて、営業は三月一日から開始されたが、その当時の保険種類は普通終身保険、累加終身保険、普通養老保険、倍額養老保険及び教育資金保険等でかなり多種類であつたので当時の某消息通をして『かゝる多種類の保険を以つて開業すとせばその混雑は実に思ひやらるゝものあり、然るに斯る混雑をも省みずして敢て之を実行せんとするは何故なるや、聞けば同社発起人等は保険事業其物に精通したるものなきにより其割出其他について引受たる人物が手数料の多額ならん事を願ひて仕組しならんも、多年調査したる所によれば右の如き複雑なる方法は仲々以て成功し難し』と、後に於て語らしめた。
 事実この会社が早稲田大学を背景として創立されただけに事務に携はる人々は大部分が早稲田大学に関係あつたが、第一その社長たる前島男は、曾て駅逓頭として名あり、保険では海上保険の経営に関係したのみであつた。四十年三月、初代社長として就任するや、先づ営業部を京橋区宗十郎町に移転し、只管穏健着実をモツトーとして営業を開始した。
 これがため創立当時目論んだ清国人相手の取引は戸籍法が不備なりし為、開業当初相当申込があつたが受付を中止して、申込全部を拒絶し、本邦人のみに証券を売出したので、業績も何等蹉躓することなく進展し、明治四十四年末には契約保有高は一千二百余万円となり、新契約高も四百四十万円を数へこの年は素晴しい記録を残した。こゝに一つ前島男の挿話を紹介すると、男は或人から資産運用のため東洋汽船株を購入することの有利なるを説かれ、重役一同に諮つた上で五百株を時価二万三千八百五十円で買取つた。然るに何ぞ測らむこの株が購入後間もなく大暴落を来したとは。これは明かに見込違による会社損失とすべきであつたが、責任感の強い前島男は全然自分の責任であるとなし、多大な損害を自分から請ふて賠償した。以つてその責任感の篤きを知ると共に今日の世に斯かる責任観念を移したら多数の失態会社も出でざるものを。
 然しこの年前島社長は齢既に七十八才、老齢の故を以つて辞任したので、当時相談役なりし中野武営氏之に代つて同四十五年二月第二代目社長に就任した。だが専務取締役其他にはさしたる異動もなく、基礎建設は着々進められた。中野社長も亦この時すでに、古稀の域を越してゐたが、当時なほ東京市会議長として、また東京商業会議所会頭として財界に活躍し、一方当会社業務をも総攬してゐたが、実際の仕
 - 第7巻 p.706 -ページ画像 
事は池田専務が一切を統轄して社業進展に努めた結果、創業十周年の大正五年末には契約高三千万円に伸びた。七年十月には中野社長逝き社長は池田専務が兼ねて業務を統轄し、翌八年度に於ては更に一段の躍進を期して倍額増資して二百万円の資本金となしたが、同時に契約高も増加し、創立十五周年に当る十年には七千万円を突破する盛況を極めた。然るに、十一年一月には一代の巨人であり、当社にとつて最大の後援者であった大隈侯逝いて、会社は代へ難き味方をなくした。
 社長制はその頃復活し当社創立以来専務取締役として社業全局の重任を完うし来れる池田竜一氏推されて第三代目の社長に就き、同時に原田駒之助氏常務に選ばれ、創業以来の伝統政策を踏んで行つた。創立二十周年には契約高一億万円を突破して一億一千八百余万円となつたが、その喜びも束の間創業以来社業に恵念した池田社長は昭和四年二月逝き、当社は多難な境地に立たされた。そしてこれが経営更新の転機となり、当時取締役であつた望月軍四郎氏が四代目社長となつて同時に取締役会長に山田英太郎、取締役に原田駒之助・増田義一・男爵前島弥・鈴木寅彦・吉田秀人の諸氏が就いた。望月社長は就任と共に吉田秀人氏を矢面に立て、後に専務に任じて、こゝに大積極主義を強調且実行せしめたが鍛冶本営業部長の手法と相俟つて着々実効を奏し、稍々もすれば大会社に押されきつて鳴りを鎮めてゐる中堅会社のために気を吐いた。それに七年度から開始した利益配当附逓減養老保険は、新旗幟として活気を呼び、兎も角、新契約は三千六百万円を挙げて当社創業以来の新記録をつくつた。そして七年十月二十日には大手町に宏壮の現社屋成つて異彩を放ち、募集網は愈々完備して今や全国に支社十九、直轄部九、出張所十二を擁し、その数は大会社をも瞠若たらしむるものがある。
  本社    東京市麹町区大手町二丁目二番地
  現在役員
   取締役会長 山田英太郎  取締役 男爵 前島弥
   取締役社長 望月軍四郎  監査役 高梨博司
   専務取締役 吉田秀人   同   白石勝彦
   常務取締役 佐伯叔作   同   平田譲衛
   取締役   増田義一