デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
2節 鉄道
1款 東京鉄道組合
■綱文

第8巻 p.357-372(DK080022k) ページ画像

明治8年3月27日(1875年)

是ヨリ先、麝香間同列ノ華族相謀リ鉄道組合ヲ組織シ東京青森間ニ鉄道ヲ建設セン事ヲ計画シ、其規則方法ノ立案ヲ栄一及前島密ニ依嘱ス。草案成リ是日第一回会議ヲ開ク。尋イデ第二回第三回会議ヲ重ネ第一次着手里程ヲ宇都宮迄トシ、建設工事方ハ高島嘉右衛門ニ依嘱セリ。


■資料

鉄道会社会議要件録 第一巻・第九―二五頁(DK080022k-0001)
第8巻 p.357-360 ページ画像

鉄道会社会議要件録 第一巻・第九―二五頁
                        (株式会社第一銀行所蔵)
鉄道建築ノ挙ハ先年麝香間同烈《(列)》ノ華族中ニ於テ協議シ、而シテ之ヲ政府ヘ上申ス、政府ハ之ヲシテ其規則方法ヲ案定シ以テ稟候セシム、然リ而シテ其挙遷延ニ属シ、終ニ明治八年ニ至リ更ニ其議ヲ振張シ、東京ヨリ青森ニ達スルノ目的ヲ以テ規則方法ノ案定ヲ発起ノ華族一同ヨリ渋沢栄一・前島密ニ依頼シ、草案成ヲ告ケ、乃チ三月廿七日ヲ以テ発起一同浅草茅町徳川慶勝ノ邸ニ会同セリ、之ヲ此会社ノ第一回会議トナス
   ○第一回会議 明治八年三月二十七日浅草茅町徳川慶勝邸ニ於テ開之
                 出席人名
                      徳川慶勝
                      松平慶永
                      伊達宗城
                      池田慶徳
                      池田茂政
                      毛利元徳
                      亀井玆監
                      山内豊範
                      伊達宗徳
                      池田章政代理
                      河原信可
                      蜂須賀茂韶代理
                      小室信夫
                    員外前島密
右出席ノ各員ハ先ツ規則方法ノ草案ヲ閲了シテ後各意見ヲ商権シ、左ノ二件ヲ決議セリ
    第一
方法草案ニハ此方法草案其外政府ヘノ願書及ヒ盟約書ノ類ハ会議第四回ニ至リ目的変換セシニ付此要件録中ニ記載セス此鉄道工業ヲ差向キ下野宇都宮迄トナスト云トモ、尚其線路ヲ増延シ磐代福島迄トナシ、且其成功ノ期ヲ向後十ケ年トスヘシ
 - 第8巻 p.358 -ページ画像 
    第二
右工業ノ資本金ハ十ケ年ノ久キヲ要スルニ在レハ各所有ノ金額ノミヲ以テ素ヨリ其額ニ充備スルヲ得ス、且其出金法モ確実ナラサルニ在レハ宜シク一同ノ家禄幾分ヲ以テ此出金ノ抵当トナシ、其年限中資本集合ヲ担保スヘシ
右ノ両件ヲ決シタル後、来ル四月六日本所横網町池田章政ノ邸ニ於テ第二回会議ヲ催シ、以テ各其出金高ヲ明言スヘキコトヲ約シテ退散セリ
  明治六年三月麝香間華族ヨリノ上申書
                        臣等叨リニ
海岳ノ
朝恩ヲ辱シ、而シテ空手徒食毫モ国家ニ報スル所旡シ、実ニ恐悚ノ至ニ不堪、窃ニ惟ルニ欧米諸州今日文明強大ノ隆盛ヲ致ス所以者皆人民合心協力結社自国ノ大業ヲ興セリ、臣等モ亦之ニ傚ヒ曩ニ英国竜動留学蜂須賀茂韶及至願鉄道滊車ノ儀相談申越候通リ共同会議シ会社ヲ結立シ鉄路滊車ヲ興スコトヲ希望ス、仰願クハ臣等ノ素志ヲ遂シメ、前件興立ノ儀御允許ヲ蒙リ候ハヽ臣等随テ広ク同志ヲ募リ共ニ此挙ニ従事セシメ
皇国隆盛ノ万分ヲ裨補センコトヲ奉懇願候也、誠恐誠恐
                      池田従四位
                      細川従四位
                      山内従四位
                      亀井従三位
  明治六年三月廿三日           池田従三位
                      毛利従三位
                      池田従二位
                      伊達従二位
                      松平正二位
明治七年九月十八日
御附箋
願之趣ハ其方法委詳書載工部省ヘ可差出事
                    太政官
   ○第二回会議 明治八年四月六日本所横網町池田章政邸ニ於テ開之
                 出席人名
                      伊達宗城
                      池田慶徳
                      池田茂政
                      毛利元徳
                      亀井玆監
                      山内豊範
                      池田章政
                      蜂須賀茂韶代理
                      小室信夫
                    員外渋沢栄一
                      前島密
 - 第8巻 p.359 -ページ画像 
右出席ノ各員ハ第一回ノ会議ヲ訂正シテ左ノ七件ヲ決定セリ
    第一
此鉄道工業里程ハ岩代福島マテト相定メ、其事業ノ時間ハ向後十ケ年ヲ期スヘシ
    第二
経費概算ハ七百万円ト見積リ、外予備トシテ五拾万円ヲ充テ、合計七百五拾万円ヲ以テ竣功ノ目算ヲ相立ヘシ
    第三
発起華族ノ集合金額ハ左ニ記載スル金高ヲ以テ十ケ年間毎年ニ之ヲ出金スヘシ
    第四
右出金ハ家禄ヲ抵当トシ、且現在所有ノ金額ヲモ差加フヘシ
    第五
左ニ記載スル発起ノ華族ヨリ集合ノ金額ハ十ケ年ニシテ合金百七拾四万円余、則目的ノ要費概筭七百五拾万円ニ対シ十分ノ二、三二ニ在リ、因テ尚各其集合金ヲ増加シ要費概算ノ半高ニ充タシメ、他ノ半高ハ外華族ヘ相募リ、都テ華族ノミヲ以テ此竣功ヲ期スヘシ
    第六
右ノ都合ヲ以テ奮発スルトキハ、政府ニ求ムヘキ約定書面モ尚一層存分ノ特典ヲ要センコトヲ願請スヘシ
    第七
若又右増加ノ挙行届兼ヌル時ハ先ツ発起外ノ加入ヲ凡七八拾万円ト予算シ、之ヲ発起中ニ加ヘ総経費ノ三分一ニ充タシメ、即今取調フヘシ《(マヽ)》約定書面ヲ以テ政府ニ上申シ、尚衆族ニ株高募方ヲナシ、其徴集ノ模様ニ応シ就業ノ見込ヲ相定ムヘシ
    集合金額割合
 一金三万円                徳川義宜
 一金壱万円                伊達宗徳
 一金五百円                松平慶永
 一金七万円                蜂須賀茂韶
 一金五百円                池田慶徳
 一金壱万〇五百円             池田輝知
 一金弐万四千円              毛利元徳
 一金五百円                池田茂政
 一金壱万五千円              池田章政
 一金壱万円                山内豊範
 一金三千五百円              亀井玆監
  合計金拾七万四千五百円也
   此十ケ年分
    金百七拾四万五千円也
右ノ七件ヲ決議シタル後来ル十六日第一国立銀行ニ於テ第三回会議ヲ催シ、且金高増加並発起外ノ華族ヲ徴集セン事ヲ約シテ退散セリ

   ○第三回会議 明治八年四月十六日第一国立銀行ニ於テ開之
 - 第8巻 p.360 -ページ画像 
                 出席人名
                      徳川慶勝
                      伊達宗城
                      池田慶徳
                      亀井玆監
                      池田茂政
                      毛利元徳
                      徳川義宜代理
                      白井武啓
                      細川護久代理
                      島田泰臣
                      山内豊範代理
                      真辺正心
                      松平茂昭代理
                      中根新
                      松平頼聡代理
                      三宅十郎
                      大村純熙代理
                      稲田又左衛門
                      山川前耀
                      池田輝知代理
                      吉田恭敬
                      蜂須賀茂韶代理
                      小室信夫
                    員外渋沢栄一
右出席ノ各員ハ第二回会議ノ趣旨ヲ逐ヒ資本金増加ノ事ヲ議ス、然レトモ到底瑣少ノ増額ニ過キサルヲ以テ不得已左ノ二件ヲ議シ、而シテ焉ニ決セリ
    第一
向後更ニ一同ノ尽力ヲ以テスルモ尚其発起ノ金額ノ《(ヲ)》以テ総費ノ半額乃至三分一ニ至ルノ徴集ヲ得サル時ハ、其集合高ノミヲ以テ此願請ヲ為シ、其許可ヲ得テ後此鉄道ノ株券公売法ヲ起シ、以テ資金ノ徴集ヲ謀リ其模様ニ応シ実地ノ事業ニ着手スヘシ
    第二
若シ又其徴集モ行届カサレハ最初ノ見込ニ復シ工業ヲ短縮シテ宇都宮迄ノ成功ヲ期スヘシ、右ノ二件ヲ決議シタル後来ル廿六日ニ於テ第四回ノ会議ヲ催スヘキ事ヲ約シ各退散セリ


雨夜譚会談話筆記 上・第一二七―一二九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK080022k-0002)
第8巻 p.360-361 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第一二七―一二九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
  第六回昭和二年四月廿六日 於飛鳥山邸
○上略蜂須賀茂韶氏が海外へ赴いて鉄道の緊要なるを知り、奥羽の地方へ鉄道を敷設せねばなるまい、奥羽を開発することは日本を進める所以である、華族仲間で是非やるがよいと、華族連中へ云つて来た。大抵早く海外へ行つた人は金融と交通とに目をつけて居るが、蜂須賀氏も鉄道に着目した。それは明治六年のことであつたが、華族連中は何分資力のある人達であるから、忽ち奥羽の鉄道計画が成つた。それも早く京浜鉄道が敷設せられて、鉄道の必要なり面白味なりが理解出来て居たからであらう。で早く内々の世話役として前島密氏が依頼を受け、色々方法を講ずる位置にあつたが、其内私が銀行業者になつたので、大蔵省で伊達宗城、松平春岳と云ふやうな人達と知り合ひであつ
 - 第8巻 p.361 -ページ画像 
た関係から、更に私に鉄道の世話役を頼んで来た。何分奥羽へ鉄道を敷くには少々の金では出来さうもない、又其調べも余程確乎たるものでなくてはならぬので、先づ初めには東京宇都宮間、次で福島まで、更に仙台、盛岡と云ふ風にして調べたいと思ふ。又之にも高島屋などが工事を引受けたいと云うて居た。私は如何なる方法で資金を集めて経営に任ずるか、又政府が如何なる程度まで援助するか等に関して心配した。当時株式組織と云ふものが、おぼろげながら知られるやうになつて居たので、鉄道はそれによるがよからうと云ふことになり、明治七八年の頃まで約二年程色々と評議した。其の仲間は毛利元徳、九条道孝、前田茂昭《(マヽ)》、池田慶徳、池田章政、井伊直憲、松平頼聡等廿軒ばかりで申合せ調査中であつた。○下略


呑象高島嘉右衛門翁伝 第二四二―二四五頁〔大正三年八月〕(DK080022k-0003)
第8巻 p.361-362 ページ画像

呑象高島嘉右衛門翁伝 第二四二―二四五頁〔大正三年八月〕
之より先き翁は或る米国人の許に行きたる事あり。時に其妻女等日本の地図を広げ、頻りに何事やら語りをるを見たれば、通訳を介して其何事を談じをるやを問へるに、彼等答へて云ふ。今日本の地図を見るに、御覧の如く日本帝国は甚だ細長き国なり。若し何れよりにても此の細長き国の半途を中断するものあらば全国の脈絡忽ち絶えて如何ともすること能はざるに至る可しと思へば、実は今其事を談じ居たるなりと、翁は之を聞きて大ひに驚き、彼等外人は婦女にても尚且斯かる事を考へをれり、決して聞き捨てにすべき事にあらず。且夫れ誠に此女等の云ふ如く、日本は南北の距離実に八百余里此間の交通にして完全なるを得ずんば国家の存立上誠に由々しき大事生ず可し。乃ち如何にしても此間の交通を能くする事を計らざる可らずと、玆に於て東北鉄道敷設の考案を起し、一には中央と東北との交通を便にし、二には更に進んで北海道との聯絡を計り、以て日本帝国の脈絡を通ぜざる可らずとせり。乃ち明治四年中翁は詳かに其理由を述べたる建白書を政府に捧ぐること二回、同五年亦同一の建白書を提出し、更に其前後に於て敷地検分の為に青森地方へ往来せしこと数回に及びたりし也。
政府に於ても翁の云ふ所を理ありとし、当時工部省の測量方たる小野友五郎氏を東北に派遣して敷設地の踏査測量に着手せしめ、且其敷設に関する経費等の調査に従事したるが、翁には当時之に就て一の成案あり。即ち其案に拠れば、先づ華族の禄券を政府に買上け、其代償として鉄道券を交付し之を略ぼ株式組織として十箇年間政府より年八朱の補助を附することゝなす也。而して其禄券買上の現金を以て東京より青森に至る鉄道を敷設するにあり。斯くすれば、一は以て国家の脈絡を通じ一は以て華族の収益を計り、更に亦之に因て無職の人民に就職の道を得せしめ、或は不毛の地を開き、或は有用の物産を出さしめ而して華族は禄券に徒食するの譏を免かるゝに至り、政府も人民も倶に大ひに利する所ある可しと云ふにあり。
政府当路の人も当時翁の此案には賛成するものあり。頻に華族間に勧誘する所ありしも当時未だ企業の時期に達せず。空しく両三年を経過し、明治七年に至れり。翁は時に岩倉右大臣に謁して更に亦此事を説き、華族中にて是等文明的事業に志ある人の指名を請ひたり。右大臣
 - 第8巻 p.362 -ページ画像 
は即ち伊達宗城、松平春岳の両卿を指名したれば、翁は両卿に面謁して懇々説く所あり。更に浅草瓦町なる尾州徳川邸に諸華族の集会を催し、翁亦其席上に於て三時間に亘る演説を試み、以て其賛同を求めたり。然るに翁の熱誠は稍や貫く所あり。其翌日資金七十万円を集め得たれば直に之を第一銀行に預入し、次に役員を選定せしに華族総代には前島密氏、会計には渋沢栄一氏、作業方には翁其任に当ることゝなり、扨て愈々敷設の計画に着手し、其旨を出願するに至れり。
然るに、当時の民情は未だ文明の何たるを解せず。殊に斯かる大事業の経験もなければ、或は之を不可とするあり。或は之に危惧を懐くあり。又或は之を羨望するあり、世論囂々として決せず、遂に意外の処に意外の反対者を出だして支障百端、幾んど収拾す可からざるに至りて、亦復意外にも斯かる大事業をなさんよりも京浜間の鉄道を華族に払下ぐるに若かずと云ふものあるに至りて翁の宿志は画餅に帰し、東北鉄道敷設の計画は遂に中止の已むを得ざる事となれり。
   ○高島嘉右衛門ノ東京青森間鉄道建言書ハ「日本鉄道史」(上篇・第三三六―三三八頁)参照。


青淵先生伝初稿 第二四章・第一二―一五頁〔大正八年―一二年〕(DK080022k-0004)
第8巻 p.362 ページ画像

青淵先生伝初稿 第二四章・第一二―一五頁〔大正八年―一二年〕
    東京鉄道会社創立の議
明治五年十月、英国に留学中なる華族蜂須賀茂韶旧阿州藩主。より政府に建言して、華族の家禄を合同し、更に有力なる士族の家禄をも募りて、鉄道会社を組織し、東京・青森間、又は東京・新潟間に鉄道を敷設するの急務なるを説き、別に同族中へも勧告せり。是より先き横浜の商人高島嘉右衛門、東京・青森間に鉄道敷設の計画を立て、華族の出資を仰がんとて、松平春岳・伊達宗城等の諸華族に説きしが、此に至り松平・伊達及び徳川慶勝・池田慶徳・毛利元徳・池田茂政・亀井玆監・山内豊範・細川護久・池田章政等の華族十名は蜂須賀の説を賛し、明治六年三月連署して、会社設立の許可を太政官に請願せるに、太政官は翌七年九月、事業の方法を詳記して工部省に呈出すべし、と指令せり。
然るに八年に至りても事業進行せず、組合も壊崩せんとせしかば、伊達宗城・池田章政等熱心に之を支持し、在官にては駅逓頭前島密、在野にては高島嘉右衛門等亦其議に参ぜり。されど至難の事業なるが故に、前島は適当なる指導者を得んと欲し、遂に先生を屈請することゝなる。此に於て先生内議に参じ、前島と共に鋭意其調査に従へり。最初の計画の東京・青森間は事業大に過ぐるを以て、東京・福島間に改め、建設費を七百五十万円と見積りしが、幾もなく又東京・宇都宮間に変更し、集会を開くこと三回に及びたり。


明治史第五編交通発達史(「太陽」臨時増刊)第一〇九―一一一頁〔明治三九年一一月〕(DK080022k-0005)
第8巻 p.362-366 ページ画像

明治史第五編交通発達史(「太陽」臨時増刊)第一〇九―一一一頁〔明治三九年一一月〕
  第三篇 鉄道
   第一章 蒸気鉄道
    四 私設鉄道の発端
○中略
 - 第8巻 p.363 -ページ画像 
 始めて私設鉄道建設の議を唱道したるは、横浜の商人高島嘉右衛門なりといふ。彼れ自から語る所によれば、大隈伊藤の両人に対し明治二年の頃、彼は早くも青森鹿児島間の鉄道を営み、両極端を三日半にて聯結し『日本を三十五里にするの計画』を立て其主張を陳べたることあり、後明治四年に二回、翌五年に一回の建白を為し、財源は華族よりし、建設業務は政府にて監督するも、実際の工事は高島一人に引受け竣工すべしと提議し、当時岩倉公の子息の彼れの家に寓して神奈川県に職を奉ぜるにより、又た大に岩倉公に慫慂するの機会を得たるが、当初岩倉公は『鉄道は宜いが華族より金を出さすことは出来ぬ』とて其議に応ずるの色なかりしかば、然らば自分にて直接華族に就きて其出資方を談すべければとて、当時華族中にて勢力あり且つ頭脳の明敏あるものは松平春岳・伊達宗城の二人に超ゆるものなしと聞き、自から両人を訪ひ懇々鉄道資金の出資方を嘆願に及びたり、其結果はたしかに、両者の心を動かし、両人より他の華族に勧誘を試むるに至りしが、当時尚ほ時機の至らずして、高島の計画は容易に遂行の見込なかりき。
 高島の運動と前後して旧阿波藩主蜂須賀茂韶の英国留学先より遥かに書を寄せて頻りに汽車鉄道の利便を説き、同族の間に之れが敷設を慫慂するあり、恰かも高島の説と東西符節を合する如く、帰する所は同一轍に出でしかば、華族連中も漸く真面目に此問題に意を傾るに至り、遂に明治六年三月二十三日附を以て、麝香間華族池田、細川、山内、亀井、毛利、伊達、松平等の諸侯より太政官に向けて左の如き請願書を差出すの運に至れり。
   ○請願書略ス。本巻第三五八頁参照。
 右請願の内容は華族を主とする一財団にて東京青森間の鉄道を敷設経営するの計画に外ならざりしなり。而して之れが建設は当初の関係に引続き高島を以て之れに当らしむる筈なりき。
 かくて翌七年九月十七日に至り太政官より右願書に対し事業の方法を詳具して工部省へ差出すべき旨を沙汰す。高島が尾州藩邸に招かれて大気焔を挙げたるは、恰かも此頃なりしなるベし。高島嘗て太陽記者に語れる所に曰く、
 終に結局は尾州徳川邸に麝香間華族が寄合の、其席で私に演説をして呉れといふ事になつた。承知致しました。何をいはるゝかと思ふて、麝香間詰の華族が出て来たが、主人の徳川従一位さん、それから春岳さん、伊達さん、細川さん、備州の池田、因州の池田、山内、亀井の八人出で、アトの人は華族が出ぬで、名代に家老が来たといふ訳。其処へ行つて玄関へ行つて手札を出すと、尾州公自から出迎ひて、鼠綸子の服で、芝居でする師直の様な風で、私が徳川従一位でござるといふことで、御自身御案内、座敷へ出ると一列して居られて近く近くといふことで、近く行くと家老達の方が後《しり》になる、それで其処へ出ると皆な知つて居るので、一人一人宛客に御出てゝあるから大抵知つて居るが、皆な礼を厚くして礼をして、さて奥州の鉄道を敷く件、それに就ては禄券を株券に換えたら宜からうといふ一条、大概は両人して諸君に話したけれども、実際は又足下の話を
 - 第8巻 p.364 -ページ画像 
する様に行かぬから改めて今日は此処で以て一場の演説をして貰ひたい、承知仕りました、之よりして露西亜のペートル大帝の宇内を謀つた遺言よりして、さうして加奈陀続きの地を亜米利加に売つたは疑はしい、遺言を変化したかと思へば豈図らんや英仏の支那に攻込むだに乗じ、口を利て黒竜江を譲り受け、益々亜細亜に手を拡めて来た、因りては之より後の我国の備へて《(と)》いふものは少しも猶予は出来ぬ有様であるといふ一場の演説をやつた、それは別に筆記がありますから略します、其事は其頃の新聞にも出て居ります、明治七年である、ところが演説が済んで言はるゝには、玆で同席の者相談するに就て、ドウも目前でも如何であるから、暫らく彼方へ行つて休息されるやうにといふことで、私は引下つて別室に休息致しました。軈て来てくれるやうに《(と脱カ)》いふことで行くと、先づ今日は名代の者は事は決せぬが、玆で八人の者が二百五十両出してやるから宇都宮まで出来るであらう、「出来ます、「今日は八人で二百五十両出してやるから其れで取掛る事にして青森まで遣る見込であるが取敢へず宇都宮までの分を出すことにするそれに就ては差当り心づきがあれば話せ、といふことで「左様でござります、那方がたは多くの御旧臣をお持であつたもので厶りますから、那方がたの御名代として政府にある所の人物を御見立てゝ、那方がたの名代を出して下さらねば一々言つて歩くことも出来ぬ、何処の臣下といふと傾いていかぬからそれが一人、会計の方は第一銀行の渋沢栄一が宜しうござりませう、これは人物でもあり大蔵少輔まで匹夫から出てやつた男であるから之れでござりませう、「そうであろう、其自分達の総代には前島密がよかろう、といふことになつて、先づ斯ういふ風に極つて、新聞にも出て、宜い勢となつた。
 即はち当初の計画は種々の故障ありて此間に於て少からず動揺したるも、尚ほ未だ東京青森間の計画を変更したるに非らず、先づ東京宇都宮間の工事に着手し其資金は前記八名之れを負担して二百五十両と見積り、建設は高島、会計は渋沢而して資本主代理者には前島密をして之れを当らしむることゝなり、計画は玆に一歩を進めしなり。然れども爾後の進行は兎角に捗々しからず、動もすれば計画悉く画餅に帰せんとせしが、翌八年に至り伊達(宗城)池田(幸政《(章政)》)の二名の熱心尚ほ初一念を貫くに努めし為め当初の計画に縮少を加へて東京福島間とし建設費を七百五十万円と見積りたるが、後復た東京宇都宮間と改むるに至りたり。此間に於て渋沢、前島等主として各種の取調の任に当り華族の集会を開くこと三回に及べり。
   ○前掲明治六年三月麝香間祗候華族ノ建言書連名中徳川従一位(慶勝)ヲ脱ス。岩倉公実記「(下巻第四八四頁)、華族会館誌(第二巻)、日本鉄道史(上篇第三四三頁)等之ヲ記ス。
   ○蜂須賀茂韶ノ建言書ハ「参考」所収岩倉公実記(下巻)参照。
   ○右ノ第一回会議ニ提示セル草案今之ヲ得ズ。蓋シ明治七年七月高島嘉右衛門ノ華族会館ニ呈セル建議書アリ、又渋沢子爵家所蔵文書中ニ明治八年二月奥州鉄道建設急務五ケ条ナルモノアリ、何人ノ説カ不明ナレド共ニ暫ク「参考」ニ掲グ。
   ○高島嘉右衛門ハ此華族組合ノ陸羽鉄道建設ノ議転シテ京浜間既設鉄道払下
 - 第8巻 p.365 -ページ画像 
ト変ジテヨリ其議ニ参与セザリシモノノ如シ。後明治十二年十月旧鉄道組合華族等ハ嘉右衛門ニ一千円ヲ贈リ始メノ尽力ヲ謝セリ。(「参考」所収「旧鉄道組合書牒物件交付目録」参照)
   ○前島密ハ是時内務大丞兼駅逓頭タリ。嚮ニ明治三年、「鉄道臆測」ト題シ東京大阪間鉄道建築費営業収支推算書ヲ作リ政府ニ建議セル経験アリ。(「日本鉄道史」上篇第三四―第四三頁ニヨル)
   ○右ノ組合ノ名称ハ初メ単ニ鉄道会社トモ称セシガ明治八年十二月十四日東京鉄道会社ト立称シ、翌九年三月三日東京鉄道組合ト改称ス(各ノ日ノ項参照)而シテ其組合会議ハ是日ノ第一回会議ニ始リ、明治十一年三月十八日最終会議ニ至ルマデ開催四十回、栄一ハソノ間第一・第十二・第二十九回ノ三回ヲ除ク外ハ毎会議出席シ、会頭(議長)トシテ司会ス。会議開催日次及出席者氏名ハ左表ノ如シ。
        東京鉄道組合会議一覧表
                    会場    出席  員外
               年月日
     第一回会議  八・三・二七 徳川慶勝邸  一一 前島密
     第二回      四・六  池田章政邸   八 前島密 渋沢栄一
     第三回      四・一六 第一国立銀行 一五 渋沢栄一
     第四回      四・二三  〃     一五 井上馨 渋沢栄一
     第五回      五・六   〃     一二 井上馨 渋沢栄一
     第六回      五・二六  〃     二一 渋沢栄一
     第七回      六・一   〃     二一  〃
     第八回     一〇・六   〃     二三  〃
     第九回     一〇・一八  〃     二一  〃
     第十回     一〇・二八  〃     一八  〃
     第十一回    一一・一六  〃     一七  〃
     第十二回    一二・一四  〃     二二 (栄一欠)
     第十三回   九・二・一八  〃     二〇 渋沢栄一
     第十四回臨時   三・三   〃     二二  〃
     第十五回臨時   三・八   〃     二一  〃
     第十六回     三・一八  〃     二一  〃
     第十七回     四・一八  〃     二〇  〃 伊藤博文
     第十八回臨時   七・一〇  〃     二一 芳川顕正 渋沢栄一
     第十九回     七・一八  〃     一九 渋沢栄一
     第二十回臨時   七・二四  〃     二〇  〃
     業二十一回臨時  七・二八  〃     一七  〃
     第二十二回    九・一八  〃     二一  〃
     第二十三回臨時  九・二五  〃     二一  〃
     第二十四回臨時  九・二八  〃     二一  〃
     第二十五回   一〇・一八  〃     二二  〃
     第二十六回臨時 一〇・二五  〃     二六  〃
     第二十七回臨時 一〇・二八  〃     二〇  〃
     第二十八回臨時 一一・一〇  〃     二二  〃
     第二十九回   一一・一八  〃     一三 (栄一欠)
     第三十回  一〇・一・一八  〃     一八 渋沢栄一
     第三十一回臨時  三・二六  〃     一八  〃
     第三十二回臨時  三・二八  〃     一八  〃
     第三十三回臨時  五・一六  〃     一七  〃
     第三十四回臨時  六・一一  〃     一六  〃
     第三十五回臨時  六・一五  〃     一八  〃
     第三十六回    六・一八  〃     一九  〃
     第三十七回    八・一八  〃     一七  〃
     第三十八回臨時 一一・二九  〃     一八  〃
 - 第8巻 p.366 -ページ画像 
     第三十九回臨時 一二・一三  〃     一八  〃
     第四十回  一一・三・一八  〃     二〇  〃
        東京鉄道組合会議出席者氏名(組合員並其代理人)
    蜂須賀茂韶 従二位旧徳島藩主 代理 小室信夫  近藤潔   賀川純一  林厚徳
    毛利元徳  従三位旧山口藩主    柏村信   笠原昌吉
    徳川慶勝  従一位旧尾張藩主    土岐長久  井上喬
    松平頼聡  従四位旧高松藩主    三宅十郎  辻盛令
    池田慶徳  従二位旧鳥取藩主    河崎真胤
    池田輝知  従五位慶徳ノ嗣子    勝部静男  吉田恭敬  河崎真胤  土岐頼亮
    池田茂政  従三位旧岡山藩主    三谷峻   河原信可  立野橘太郎 水原久雄
    池田章政  従四位茂政ノ嗣子    三谷峻   河原信可  立野橘太郎 水原久雄
    山内豊範  従四位旧高知藩主    中尾好礼  真辺正心  横田広太郎 山田東作  横田義邦
    松平慶永  正二位旧福井藩主
    松平茂昭  正四位慶永ノ嗣子    中根新   武田正規
    伊達宗城  従二位旧宇和島藩主   小島邦重  西園寺公成
    伊達宗徳  従四位宗城ノ嗣(弟)  西園寺公成 小嶋邦重  井関盛良
    久松勝成  従四位旧松山藩主    橋本太柱  河東坤   池内久親
    久松定謨  勝成ノ嗣        上荘惟聡  菅良明   池内久親  橋本太柱  河東坤
    前田利嗣  従四位旧加賀藩主    北川亥之作 矢部成章  高橋作善  神尾直養  小原行修
                      岡田雄巣  松田郷之
    井伊直憲  従四位旧彦根藩主    金田師行  更田荘蔵
    大村純熙  従四位旧大村藩主   稲田又左衡門 山川前耀  佐藤甚兵衛
    亀井玆監  従三位旧津和野藩主   清水格亮  橋本至矣
    毛利元敏  従五位旧豊浦藩主    難波舟平  三吉慎蔵  中村勝三
    前田利同  旧富山藩主       佐々高柯  浅野長雄  高沢忠義  古市之峯  中島定恒
    榊原政敬  従四位旧高田藩主    塩谷正直  加藤直栗
    池田徳潤  従五位旧福本藩主    勝部静男  河崎真胤
    毛利元忠  旧清末藩主       柏村信
    九条道孝  従一位         藤井祐澄  朝山常順
    井伊直安  従五位旧与板藩主    奥山藤十郎 北村叶
    徳川義宜  慶勝ノ三男       白井武啓  内藤能弘
    徳川茂承  旧和歌山藩主      三浦安   森義武   田和由邦
        (本表ハ鉄道会社会議要件録第一巻、東京鉄道組合会議要件録第二巻・鉄道組合会議要件録第三巻ニヨリ作製ス)



〔参考〕岩倉公実記 下巻・第四八〇―四八二頁(DK080022k-0006)
第8巻 p.366-367 ページ画像

岩倉公実記 下巻・第四八〇―四八二頁
敬白臣等無能徒ラニ
陛下ノ鴻恩ニ浴シ家祖ノ余業ニ藉リ以テ猥ニ封禄ノ富ヲ忝フシ列ヲ四民ノ上ニ専ラニス、臣等豈其独リ能ク之ニ報効スル所ノ者ヲ思ハサルヘケンヤ、苟モ徒ラニ是ノ恩ニ浴シ是ノ富ヲ有シ飽暖遊逸一モ報効スル所ナクンハ則
陛下ノ仁能ク恕シテ之ヲ問ハサルモ其レ何ヲ以テ臣等ノ家祖ニ応シ其レ何ヲ以テ天下蒼生ニ対センヤ、是故ニ臣日夜焦心苦慮以テ上
陛下鴻恩ノ万分ニ報シ下天下蒼生ノ衆ニ利シ以テ家祖ノ余声ヲ辱シメサルモノヲ謀ラントシ、而シテ頃ロ窃ニ見ル所アリ、以テ左ニ陳シ特
 - 第8巻 p.367 -ページ画像 

陛下ノ聖裁ヲ仰カントス、夫レ宇宙文明ノ運ニ方リ
陛下神聖英武天下ノ賢ヲ網羅シ四海ノ才ヲ登庸シ諸官悉ク理リ百弊倶ニ挙ル臣等夫レ何ヲ以テ能ク其万分ヲ議センヤ、然リト雖モ臣等華士族ノ如キ封建積習ノ未タ除カサル者ニシテ而カモ天下財ヲ粍スルノ尤ナル者ナリ、是必将ニ政府諸官其措置ヲ議シ以テ速ニ其消尽ノ験ヲ挙ケスンハアルヘカラサル者トス、然ルニ今日ノ勢一旦之ヲ廃シテ給セサレハ則蒼生其産ヲ失シ、以テ窮途ニ狼狽セントスル者各県各地ニ普ネカラントス、是亦慮カラスンハアル可カラサル者ナリ、然リト雖モ是則政府百官ノ事耳臣何ソ敢テ多言センヤ、唯臣等今日ノ務ハ自ラ理産ノ道ヲ弁シ而シテ以テ政府一大冗費ヲ消尽シ得ルノ効ヲ助ルニ在ルノミ、臣是ニ於テ自ラ其理産ノ道ヲ弁スル所以ノ方法ヲ尽シ以テ復タ天下蒼生ノ洪福ヲ致スノ一端ヲ稗補セントス、臣頃ロ欧洲ノ実況ヲ歴見シ以テ各国隆盛ノ由ヲ観ルニ蓋シ鉄道ノ利以テ其富強ヲ致ス亦大ナリト謂フヘシ、今ヤ
皇国商賈行旅運輸消息ヲ便ニシ富強ノ礎ヲ建テントスル鉄道蒸汽車ノ設最其急タル固ヨリ論ヲ俟タスシテ之ヲ知ル、然ルニ鉄路蒸汽車ノ設固ヨリ其費ス所巨万而シテ其功始メテ挙ル、臣窈ニ惟フニ今日政府ノ歳入猶未大ナラス而シテ其費ス所百端多カラサルヲ得ス、加之巨万ノ費徒ラニ政府ノ力ヲ以テ鉄道蒸汽車ノ役ニ従事セントス豈夫レ容易ナランヤ、是故ニ臣謂フ、願クハ臣等華族有志ノ者之ヲ率先シ以テ広ク士族等ノ有力者ニ募リ其家禄家財等ノ余ス所ヲ合シ以テ一団ノ会社ヲ結ヒ、而シテ其会社ノ力ヲ以テ或ハ東京ヨリ奥州青森ニ至リ、或ハ東京ヨリ越後新潟ニ至ル等ノ地ニ鉄路蒸汽車ヲ設ケ、以テ上
陛下文明ノ治政府巨万ノ効ヲ裨補シ下天下蒼生洪福ノ基ヲ開キ而シテ臣等亦自ラ其理産ノ道ヲ弁スルヲ得ントス、然シテ十数年成功ノ後果シテ其会社ノ利ヲ以テ臣等生産ノ財本ヲ生シ得ルニ至リ、華士族等ノ禄挙テ之ヲ政府ニ還納セハ則政府亦一大冗費ヲ省キ以テ有用ノ費ニ供スルヲ得ントス、誠ニ如此ンハ臣等又遊逸暖飽ノ譏ヲ免カレ労衣力食ノ道ヲ得、従テ家祖ニ報セントス、豈亦臣等ノ至幸ナラスヤ、臣幸ニ許可ヲ得ハ即チ同志ヲ募リ以テ一社ヲ結立シ、即チ臣カ家禄家財等ヲ以テ社ニ投セントス、臣海外ニ在リト雖モ其人ヲ得テ此挙ニ従事セシメン、仰キ願クハ 聖明臣カ迂言ヲ棄テス速ニ允許アランコトヲ
  明治五年十月              蜂須賀茂韶


〔参考〕華族会館誌 第二巻 【七年七月十六日 ○中略…】(DK080022k-0007)
第8巻 p.367-371 ページ画像

華族会館誌 第二巻
七年七月十六日
○中略
此日横浜商高嶋嘉右衛門建議書ヲ本館ニ出ス、其書ニ云ク
 謹テ華族諸公ノ閣下ニ白ス、曩キニハ大会館創立ノ旨意書ヲ三条岩倉両大臣ニ呈セラルヽ者ヲ拝読シ、反覆熟閲シ以為ク、諸公ノ貴位ニ在リ高禄ヲ襲キ政府ト人民ノ間ニ立テ其義務ヲ尽スハ実ニ斯ノ如クナルヘシト、僕一箇ノ商民ト雖トモ豈感激スル所ナカランヤ、熟ラ古今ニ考ヘ各国ニ質スニ政府当サニ其為スヘキ所ヲ為シ人民当サ
 - 第8巻 p.368 -ページ画像 
ニ其務ムヘキ所ヲ務メ而シテ後チ国富ムヘク民饒カナルヘシ、農ノ耕耘ニ於ケル商ノ販売ニ於ケル皆其務ムヘキヲ務ムル者ニシテ諸公創館ノ盛挙ニ於ル亦然リ、然ルニ諸公之ヲ議スル徒ニ紛紜時日ヲ費ス何ノ益カアラン、宜ク一議一案決スル毎ニ之ヲ実行スヘシ、諸公
  皇室ノ隆興ヲ図リ国政ノ進歩ヲ裨シ華族ノ職分ヲ尽サント欲スル蓋シ此ニ外ナラス、伏テ惟ルニ目今天下無事朝廷ノ画策スル所富国饒民ノ術ノミ、夫レ本邦ノ地勢タル、東西相距ル僅ニ六百里ニ過キス、而シテ風俗言語各異ニシテ相通セサル者殆ント外人ニ接スルト一般、且ツ人口余リアリテ物産亦多シト雖トモ海陸運輸ノ便未タ開ケス人口ノ疎密未タ平均セス土地ニ荒蕪不毛多シ、噫此国ヲシテ之ヲ富マシメ此民ヲシテ之ヲ饒カナラシメントスル其レ何ヲ以テ先トセンカ、僕ノ愚見ヲ以テスルニ先ツ東京ヨリ奥州青森ニ至ルノ鉄道ヲ築クヲ急トナス、故ニ僕曩ニ之ヲ工務省ニ建言スル三回今其写ヲ別記シテ之ヲ呈シ僕ノ宿志ヲ諒セラレンコトヲ願フ、今ヤ廟堂多費当サニ為スヘクシテ為スヲ得サルモノ甚タ多シ、此鉄道布設ノ如キ其一ニ居ル、然レハ則チ来日ヲ待テ之ヲ為サン乎決シテ否ラス、華族諸公今日ニシテ之ヲ着手セスンハ曩ニ蜂須賀公ノ欧洲実地ニ就テ研究画策スル所画餅ニ属スルノミナラス朝廷優遇ノ恩ニ報スルハ何時ヲ期シ給フヤ、天下士民ノ標準タル華族ニシテ力食自営ノ道ヲ立テスンハ素餐ノ責ヲ塞キ士民ヲ開化セシムルノ期ナカラントス、故ニ奮然志ヲ立テ諸公受クル所ノ恩禄十分ノ二ヲ割キ以テ此資ニ充テ一ノ鉄道会社ヲ結ヒ同心協力以テ此工ヲ起シ此便ヲ開カハ上ハ朝廷ニ対シ下ハ人民ニ答フルノ義務ヲ尽スト云フヘシ、且ツ一箇ノ力ヲ以テ之ヲ為スハ難キニ似ルモ華族ノ衆力ヲ合スレハ易々タルノミ、僕曾テ小野鉄道権頭ノ実地測量スルヲ見ルニ全程一百九十三里、成功ヲ十年ニ期シ一年金一百万円ヲ出セハ十年ニシテ全道竣功ス、其初メ十里ヲ築ケハ十里ノ便益ヲ得、随テ工ヲ起シ随テ便ヲ開キ終ニ其線ヲ北海道ニ通スルニ至ルヘシ、然レハ則チ開拓ノ功モ亦神速ニシテ人民往来ノ便貨物運輸ノ利ノミナラス彼我ノ有無ヲ通シ沿道三陸ノ不毛ヲ開キ巨多植民ノ道ヲ興シ物産ヲ繁殖スル等其利枚挙ニ遑アラス、加之諸公永世ノ恒産立チ恩禄ヲ奉還スルモ資産余リアルニ至ラン、是所謂確実ノ不動産ニシテ天下士民モ亦随テ其沢ヲ蒙ルヘキナリ、是ニ於テ素餐ノ責免カルヘク竹帛ノ名垂ルヘシ豈偉業ト謂ハサルヘケンヤ、若シ諸公ニシテ此工ヲ起サス数年ノ後開化進歩政府此鉄道ヲ築クノ資ヲ外国ニ借ルトキハ必ス若干ノ利子ヲ払ハサルヲ得ス、今諸公此業ヲ起スニ当リ其金ヲ外国若クハ華族ヨリ借リ入レタリト見做サハ政府ヨリ諸公ニ対シ相当ノ利子ヲ下付スルモ至当ノ理ニシテ是亦政府ノ義務ナリ、華族総禄高現石九十六万石此二割十九万二千石之ヲ二斗相場ニシテ一百万円之ニ七朱ノ利ヲ加ヘ逐年出額ノ減スル左ノ如シ
  初年金一百万円      元
   此年政府ヨリ付スル所ノ利子金七万円 但シ七朱
  二年金二百七万円 前年元利相加ル高
   利子金十四万四千九百円
 - 第8巻 p.369 -ページ画像 
  三年金三百二十一万四千九百円 同
   利子金二十二万五千零四十三円
  四年金四百四拾三万九千九百四十三円 同
   利子金三十一万零七百九十六円
  五年金五百七十五万零七百三十九円 同
   利子金四十万二千五百五十一円
  六年金七百十五万三千二百九十円 同
   利子金五十万零々七百三十円
  七年金八百六十五万四千零二十円 同
   利子金六十万零五千七百八十一円
  八年金一千零二十五万九千八百零一円 同
   利子金七十一万八千百八十六円
  九年金一千百九十七万七千九百八十七円 同
   利子金八十三万八千四百五十九円
  十年金一千三百八十一万六千四百四十六円 同
   利子金九十六万七千百五十一円
 概算如此其利額ノ大ナル出額ヲ補益スルコト知ルヘキナリ、譬ヘハ一期一千円ヲ出ス者十年ノ後元利相加ヘテ金一万四千七百八十円、一箇ノ株金タリ、之ニ加ルニ鉄道若干ノ利益配当ヲ得ル一大生計ナラスヤ、今各地方ノ士族等ノ多ク無産空手以テ依旧ノ恩禄ヲ仰キ碌碌トシテ此至重ノ光陰ヲ曠過ス、思フニ此輩志気ナク敢テ素餐ニ甘スルニ非ラス、農タラント欲スルモ地ナク商タラント欲スルモ資ナク工タラント欲スルモ亦其術ヲ知ラス万已ムヲ得サルニ在ルノミ、故ニ此事業ノ挙ルニ及テ漸次此等士族ヲシテ三陸鉄路ノ沿道ニ移ラシメ地ヲ割テ専ラ養蚕牧育ニ従事セシメ、麺包ト牛トヲ以テ常食トシ産出スル処ノ製糸ヲ鉄道ニテ東京ニ送リ必要物ト貿易スルトキハ以テ上国ト住食ヲ同クスルヲ得テ其業ニ安ンスル必セリ、是レ土ニ不毛ノ地ナク人ニ無産ノ徒ナキナリ、若シ之ヲ為ス能ハサレハ人間ノ位置益賤落シテ牛馬ト価ヲ同シ米利堅ニ使役セラルヽ売奴タルニ至ラン、豈慨スヘキニアラスヤ、今ノ時ニ当リ華族ノ百善ヲ興シ百弊ヲ済フ此一挙ヲ舎テ豈他ニ求ムヘキモノアランヤ、今之ヲ行フヲ機トシ家政ヲ革正シ独立ノ規模ヲ定メ而シテ彼徒ノ授産ノ資ヲ助クルニ諸公伝家ノ贅具ヲ売却シ之ニ充テハ必ス余リアルヘシ、諸公浩大ノ恩禄ヲ有シ之ヲ為ス能ハストセハ、是所謂泰山ヲ挟ミ北海ヲ超ユルノ類ニ非スシテ長者ノ為メニ技ヲ折ルノ類ナリ、諸公今日ニ於テ当サニ勉ムヘキノ義務ナラスヤ、若シ之ヲ否トセハ、館ニ万巻ノ書籍ヲ積ミ会ニ百般ノ議論ヲ吐クモ徒為空談ニ帰シ尸位素餐ノ責免カルヘカラス、諸公幸ニ僕カ宿願ヲ諒シ左袒セラルヽニ於テハ、職業上ノ事僕誓テ死力ヲ竭シ身ヲ土木ニ委シ諸公盛挙国家ニ報スルノ一分ヲ補ハント欲ス、僕文明ノ聖沢ニ沐浴シ諸公ノ盛挙ニ感激シ積年ノ焦慮止ム能ハス、肝胆ヲ吐露シ尊厳ヲ冒涜シ併テ前年工部省ニ建言スル三書ヲ添ヘ之ヲ呈ス、願クハ大館発会ノ議案トナシ公議輿論ヲ尽スアラハ特ニ一身ノ栄ノミナラス天下国家ノ幸甚ナリ
                       誠恐誠惶謹言
 - 第8巻 p.370 -ページ画像 
     工部省ヘ建言
 世ノ事難易軽重ヲ論セス渾テ時機ニ投スレハ成ラサルモノナシ、今ノ時ニ方リ天下ノ牧伯其国ヲ挙ケ列藩ノ卿士其禄ヲ辞シ農ニ帰セサレハ商ニ帰ス、然レトモ其業ヲ知ラス其道ヲ弁セス、是ヲ以テ皆猶予狐疑シテ速ニ其進止ヲ卜スルヲ得ス百方其安心ノ地ヲ求メント欲ス、是レ今日政府許多ノ金ヲ費サス鉄道ノ大業ヲ達スヘキ手形ノ法ヲ設ケ金ヲ募リ彼猶予狐疑ノ者ヲ駆リ速ニ安心ノ地ニ趣カシムルノ仁術ニシテ上下両全ノ策ナリ、且ツ衆庶ヲシテ土地ニ有余不足ノ物ナカラシムルハ行旅ノ便ヲ保セシムルニ如カス、伏テ惟ルニ農ノ国ニ少キハ耕耘ノ器開ケサレハナリ、士ノ列ニ剰ルハ郡県ノ制立テハナリ、百工モ亦然リ、各其器械ヲ便ニスレハ国必ス富ミ民必ス庶ナラン、故ニ方今ノ急務ハ先ス有無相通スルノ便ヲ開クニ在ルナリ、若シ今ニシテ其機ヲ失シ各自其貯ヲ散失スルニ至ラハ又之ヲ済フノ道ナシ、遂ニ衆庶ヲシテ貧民ノ群ニ陥ラシムルニ至ラン察セサルヘケンヤ、是ヲ以テ其手形募金ノ法則ヲ左ニ挙ケ採用アランコトヲ希望ス
 第一則 東京ヨリ陸奥青森マテ里程凡ソ二百里、鉄道ヲ建築スル入用一里五万円積リヲ以テシ一千万円ヲ以テ落成スヘシ
 第二則 建築入用金ヲ募ルニ手形ヲ売ルヘシ、其手形ノ利足年一割ト定メ手形売出ノ月ヨリ月々払フヲ要ス、但シ月々受取ヲ以テ煩ハシトナサハ隔月或ハ二季ニ受取モ其意ニ任セ妨ケナシ
 第三則 遠国ノモノハ其地方ノ府県ニ於テ之ヲ売渡シ、其利足ヲ収ムルモ亦同シ
 第四則 手形ヲ買ヒシ者若シ其手形ヲ他ニ譲ル事アルモ妨ケナシトス、只手形所持ノ者ヲ以テ証トス
 第五則 故アリ手形ヲ元金ニ引替度モノハ其申出セシ日ヨリ十五日以内ニ引替ユヘシ、仮令ハ五百円ノ元金ニテ其内二百五十円ノ引換ヲナスノ類妨ケナシ
 第六則 鉄道全ク成リ、滊車運転スルニ至ラハ日々利益ヲ得ルコト必定ナレハ、手形ノ利金政府ヨリ払フノ煩ヒナシ
 第七則 鉄道成功滊車運転ニ至レハ、日々ノ利益ト入費トヲ月末新聞紙ニ掲載シ布告スヘシ
 第八則 鉄道滊車一切ノ入費高ハ成功ノ上布告シ、政府ニテ払渡ノ利金高並ニ故アツテ手形引換ノ為メ立替置キタル金額ハ成功ノ上益金ノ内ヨリ衆人ト同ク其利益ヲ引取ルモノトス
 第九則 鉄道ヲ東京ヨリ始メテ五里或ハ十里出来スルトキハ、其所ニ停車場ヲ設ケ行旅ノ便ヲ開キ其運賃ヲ収メ手形利金ニ充ルヲ要ス、斯ノ如クスレハ今年二十里ヲ落成スレハ明年ハ之ニ倍スルノ運ヒヲ得ヘシ
  右ノ外建議二通造意粗ボ同シキヲ以テ略シテ載セス
 九月一日 同盟一百八十名相会シテ高嶋嘉右衛門出ス所ノ鉄道建設ノ件ヲ議ス、衆皆曰ク鉄道ノ挙タル実ニ富強ノ基ト雖トモ今ヤ国家将サニ海外ニ事アラントス、夫レ事ニ緩急先後ノ別アリ、鉄道ノ如キハ今日ノ急務ニアラス、無事ノ日ヲ待テ之ヲ議スルモ晩カ
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ラスト、仍テ之ヲ他日ノ議ニ付スルニ決ス
 八年三月六日 ○中略更ニ又左ノ書ヲ同盟ニ布達ス
  昨年中高島某鉄道建築ノ事ヲ建議ス、当日征台ノ役起ルヲ以テ平定ノ日ヲ待テ報答スヘキニ決ス、然ルニ今日事既ニ平定ニ属ス、宜ク会議ヲ興スヘキナリ、然ト雖トモ鉄道ノ事ノ如キハ仮令ヒ天下ノ広益ヲ開クモ亦自己産業ニ関ス、他ノ有志者心ヲ同シ力ヲ協セ従事スル固ヨリ妨ケナシ、唯当館ニ於テ之ヲ華族ノ義務トナシ其貧富ヲ問ハス衆議可否ノ数ヲ以テ強テ之ヲ服従セシムルノ理ナシ、加之本館創業ノ際専ラ同族ノ義務ヲ講究スルノ事ヲ措テ鉄路等ノ事ヲ務ムル、是レ其主旨ヲ失スルニ似タリ、故ニ右会議ハ開カサルニ決ス
 三十日 ○上略高島嘉右衛門ヲ本館ニ招キ嚮キニ出ス所ノ建言書ヲ還付シ、之ニ諭スニ鉄道開設ノ義ハ広益ヲ起スノ美挙多ト雖トモ同館ニ於テ会議ヲ開キ同族ノ貧富ヲ問ハス強テ之ヲ服従セシムルハ条理ニ於テ為スヘカラサル事タルヲ以テス


〔参考〕渋沢子爵家所蔵文書 黒一二之二〇 【今奥州道中を最も先として鉄道を建築すへき其所以之大略を五条ニ分て左之如し】(DK080022k-0008)
第8巻 p.371-372 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書 黒一二之二〇
今奥州道中を最も先として鉄道を建築すへき其所以之大略を五条ニ分て左之如し
    第一条
一陸奥国は北地ニ接し其末又魯国と之境堺ニ接す、此境堺ニ付而は屡有志輩之論説あり、既ニ北地之開拓を緊要としこれを専ら盛大ニし其実功を挙て当ニ魯国をして蚕食之念を絶たしめんとするハ人皆よく知る所也、雖然方今之摸様ニ於て蚕食之念慮弥深く往日如何これあらん、これ我国之患ひ最も大といふべし、左れは果して北地之開拓を盛大ニして此大患を除き彼之境堺を正ふするハ奥州道中ニ鉄道を設るニ如ハなし、これ即此鉄道建築之最も主要とする大眼目也
    第二条
一鉄道建築工業之全功を挙げ及び蒸気器械製造元組より運転ニ至る迄日本人之手ニ大成するを現在ニ顕して而して人智進歩之実功を奏すべき也
    第三条
一計《(経)》済之亢《(元)》を堅くして此鉄道を全国ニ及し、全国計済之元を堅くして富国富饒之基を開らくべき也
    第四条
一鉄道建築之大略は亜米利加合衆国之鉄道ニ基き、更ニ用前を堅固ニして目覧之美を不好、勿論費用減少するを肝要とすべき也
    第五条
一東海道中仙道之如きハ嶮岨之地多く大河急流ニして建築之費用不可計知、爰ニ奥州道中ハ右二道ニ比較すれハ平坦之地多く費用大ニ減ずべし、一体ニ土地も豊かニして青森と盛岡を合せて西京ニ又仙台と福島を合せて大坂ニ比較すべく、既ニ建築成功せは北地をして東京ニ接近する如く一図ニ産物之富饒を極め其便宜挙て言べからす、凡全国鉄道ニ於て此利潤ニ如くものなかるべし、加之北地開拓之実
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功を奏し彼境堺を正ふすべし、扨又鉄道建築ハ全功を挙る共蒸気器械製造元組ハ覚束なしと、若し疑ふあらハ今を去ル十ケ年前外国人を一切不頼日本人許ニて蒸気軍艦製造せし其軍艦現在海軍省ニ有之其名を千代田形といふ、屡戦争ニも出たる由、此処を以疑を入さるべし、又曰外国人ハ日本人を概して無智之者とし其軽蔑は人皆自から知るといへ共此事如何んともすべからさる姿也、稀ニ日本人彼ニ学術勝る者有之といへ共又如何ん共すべからす、実ニ歎息之至ならす哉、思ふニ我国ニ於て未タ著しき工業を奏せさる故ならん、これ此軽蔑は
 皇国全体之強弱ニ関係し、最も患べき之最大ニして人皆憤発せすんハあるべからす、依之必シも急き第二条之実功を挙げ、更ニ外国人の目を覚さしめ、我国をして海外諸州と共ニ並立すべき基本を開らくべき也、右鉄道建築は北地開拓之大眼目ニして方今之急務是より大なる者ハなかるべく、人皆
 皇国之為として是より尽す者はあらさるへし、鉄道便宜之利潤に於て是より善なるハなかるべし、雖然此実業正ニ大ニして如何ん共すべからす、誰かこれを能せさらん、誰か能これをなささらん、依而一向高評之宜しきに出で、急ぎ全功之挙を期すべきと偏ニ希ふ而已
   亥二月