デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

2章 交通
3節 電話
1款 電話会社
■綱文

第9巻 p.713-716(DK090071k) ページ画像

明治21年9月(1888年)

是ヨリ先、逓信省ノ省議電話官設ニ決シ、逓信次官子爵野村靖之ヲ栄一等ニ告ゲテ、其ノ電話会社発起ヲ取消サンコトヲ請フ。止ムヲ得ズ之ヲ容レ、米国ニ派シタル沢井廉ハ逓信省嘱託トナサシメテ企画ヲ中絶ス。


■資料

東京経済雑誌 第一八巻第四三二号・第二一八頁〔明治二一年八月一八日〕 ○私設電話会社の許否如何(DK090071k-0001)
第9巻 p.713 ページ画像

東京経済雑誌 第一八巻第四三二号・第二一八頁〔明治二一年八月一八日〕
    ○私設電話会社の許否如何
府下の紳商渋沢・益田・大倉の諸氏は、数年来電話会社創設の事に奔走し、既に去る十八年五月頃創立願書を其筋へ差出されしことありしが、当時廟堂に於ては私設を不可とするの議論盛んなりしを以て、遂に創設の認許を得る能はざりき、然るに其後に至り廟議一変して私設を認許せらるべき模様ありしかば、右の諸氏は十九年七月頃再び創設願書を差出したるに、同年末に至るまで何等の指令をも得ざりしを以て、発起人等は屡々認許の如何を問合せたる趣なるが、何分にも判然の回答を得ずして今日まで其儘に成り居れり、近日道路の風説する処に拠れば、今ま民間に電話会社の創立を許し、一地方より他の地方へ電話線を架設するに至らば、差当り電信局の収入に多少の減少を来すことあるべし、故に政府は多分其創設を許可せざるべしと云へり、余輩は電話会社の創立を許可せられんことを望むものなり、之を許可したればとて電信局の収入に非常の差響あるべしとも思はれざるなり、政府の意、若し此風説の如くならんか、余輩は更に廟堂有志の熟慮を望まざるを得ず


雨夜譚会談話筆記 上・第四九―五一頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK090071k-0002)
第9巻 p.713-714 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第四九―五一頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
    第三回 大正十五年十一月十三日於飛鳥山邸
先生「○中略そして費用などは着手する時必要であるからとて後廻しとし、第一着に技術者がなくてはならぬといふので、花房義質の知人で備前の人沢井廉を米国のエヂソンの処へ留学せしめる様申合せた。此の沢井の父は曾て私が世話をしたこともあり、縁故もあつたので早速米国へ赴かせ、其通信を待つて、三百人の通話者と、電話交換局との運びをつけ様として居た内に、逓信次官の野村靖氏が私に会ひ度いと云うて来た、会つて見ると「甚だ残念であり、お気の毒であるが、通信事業は民間へ許さぬことに廟議が決定した、斯う云へば狭いことを云ふものだとお考へになるだらうが、官庁としての秩序上致し方のないことである。どうか其点は御了解願いたい」と云ふ。初め電話の施設を勧めたのは石井であり、石井も役人の一人であるが、廟議で私設を許さぬ事になつたと云ふのでは如何ともするを得ない、当時の総理大臣は伊藤博文氏であつたと思ふが、遂に野村と議論した後中止した。そして当の石井は百方あやまり、資金も千円ばかり費消した、でそれは政府の方で弁償するからと云つたが、金はいらぬが沢井を何とかして呉れねば困る、と云つて結局
 - 第9巻 p.714 -ページ画像 
政府が使つて呉れることになつたので、此組合は解散した。」


電話会社関係書類(写)(DK090071k-0003)
第9巻 p.714 ページ画像

電話会社関係書類(写) (渋沢子爵家所蔵)
寒気相催候所益々御多祥奉賀候、陳レハ兼テ数週前父ヨリ色々私官辺ノ儀ニ付キ先生ニ御尽力被下候赴キ申越、実ハ早速手書ヲ以テ不一方御芳志御礼申上ンカト存候ヘトモ、未タ公然何等ノ御沙汰モ無之、御手紙ヲモ《(マヽ)》得サル事ト相ヒカヘ居候、然ルニ、先便紐府領事庁ヲ経、日本逓信省ヨリ電話事業取調嘱托ノ命ヲ蒙、早速御受書差出置候、右ハ全ク先生御配慮ノ致ス所ロ、重ネ重ネノ御厚志ニ預リ幾重ニモ御礼申上候、他日御芳志ニ対スル什分ノ働ヲ仕度、貴社ノ為国家ノ為一途勉学罷在候
早速逓信大臣及次官ヘ書面ヲ呈置候ヘトモ、尚向後トモ御心添偏ニ相願候
私取調之儀も米国中大市街ニシテ、堅要《(緊)》ノ地ハ西桑港ヨリ、チカゴ・カンサス・シントルイ・ヒツヽブルグ・費・紐府・ボストン・バルチモール・ワシントン等初メ大略巡見仕リ、当時残参ノ要所製造所実行地等取調居候、御蔭ニテ米国ハ取調向至極好都合ニ至ル所什分取調仕候トモ、今後渡欧ノ後ハ決テ今日迄ノ寛大ナル取扱ハ望ム可カラスト相考居候
来ル十一月末頃ニハ当国取調モ終結ト相成候故、十二月初渡欧仕候覚悟ニ有之候、着欧後ハ何地ヨリ取調ニ着手仕候ヤラ定兼候ヘトモ、多分仏国ヨリ相初ム可ク、来廿二年中ニハ悉皆終度心組ニ有之候、一向官辺ノ事ニハ不案内ノ理学生、御心付ノ事モ候ヘハ御遠慮ナク御教示相願候、又年限其他取調向ハ略々官辺ノ御都合相伺置度存候
又既往御補助金ニ対シテハ寛大ナル御親切之御言葉ヲ伝ラレ、御芳志肺肝ニ銘シ候、御申付ノ如ク官私ヲ不問一途国ノ為メ勉励仕候ハ勿論帰京ノ後ハ必ス応分ノ力ヲ尽シ、直接ニ間接ニ御芳志ニ対シ御報恩仕度決心ニ罷在候○下略
                 米ノボストン府ニ於テ
  十一月一日○明治二一年           沢井廉
    渋沢栄一様


電話事業二十五年小史 第二頁(DK090071k-0004)
第9巻 p.714 ページ画像

電話事業二十五年小史 第二頁
○上略二十一年七月電話に関する技術を修得せしむる為工学士大井才太郎を欧米に派遣し、且同年九月曩に民間企業者によりて北米に派遣せられたる沢井廉に電話事業取調を嘱託したり。而して本省に於ても亦鋭意業務開始の計画を進むると共に、電話の技術的研究に努めたるの結果、明治二十一年十二月に至り東京熱海間に市外通話の実験を開始せしに、頗る良好の成績を得たるを以て、翌二十二年五月更に之を静岡に延長して再ひ試験せしに、其の結果亦良好にして電話の開設を決定するも、万一の支障なきを確認せり○下略


逓信協会雑誌 第二九号〔明治四三年一二月〕 電話創業の回顧(元逓信省電務局長若宮正音)(DK090071k-0005)
第9巻 p.714-716 ページ画像

逓信協会雑誌 第二九号〔明治四三年一二月〕
    電話創業の回顧(元逓信省電務局長 若宮正音)
 - 第9巻 p.715 -ページ画像 
○上略既而太政官を廃し内閣を置き、各省官制を改定せらるゝに当り、工部省廃せられ、逓信省を置いて電信電話のことは逓信省の管掌する所となりたり。而して当時の逓信大臣榎本子は初め民設論者たりしなり、於是上内閣は太政官の継続者として官設を容れず、下民間有力者の私設発起は大に歩武を進め、中間主務大臣は民設を可認す、私設電話は翼既に成り、其雄飛将に近く実現を見ることゝなれり。
然りと雖予輩当時聊か電話事業の性質効用、及び欧米先進諸国官民経営の利害得喪並に沿革等を研究知得するもの、終に黙止すべからず、法律の範囲に於て電話も亦電信と均しく政府の専掌に属すべきの至当なるを見、且つ之を欧洲諸大家の学説に徴するも、電話なるものは電信の中に包含せらるべきこと亦些の疑を挿さまざるべきを思ひ、又之を運用上に見るも、経済財政上に考ふるも、行政上に察するも、政府の専掌と為すこと実に当然なるべきを確信し、更に先進国の実例に照せば独逸の如きは深遠なる用意を以て当初より之を政府の専掌と為し仏国亦一たび民業に委ねたるも、其後高額の対価を払ひて政府に買収し、英国に於ても往年私設に一任したる電信事業を、千八百七十年に至り巨額の価を以て買収し、断然政府の専掌と為したり、独り米国のみ今尚電信電話共に民業に委せつゝあるは、同国特別の事由ありて実に止むを得ざる所にして、其根底深く容易に買収を実行し能はざる為めなるも、今現に屡々官設の言議を試むるものある等、欧米列強の例に顧み、本邦に於ても一たび民業に委せんか、他日噛臍の悔あるべきを知りたればなり。
殊に当時の逓信次官野村子大に官設論を主張し、林内信局長亦局設を可として榎本子に進言する所あり、於是榎本子更に其利弊得失を考究精査し、遂に豁然として官設の利得及び私設の弊失を判別し、逓信省議玆に一変することを得たり。
是を以て逓信省は一面内閣に向ひて官設主義を請願し、他面私設企業者に対し発起取消を交渉し、其の結果として私設業者の選定して米国に派遣せる沢井氏を政府の嘱託に移し、又政府より特に技術官を欧米に派遣して電話事業を調査せしむることゝなり、逓信技師大井才太郎氏其選に当り、欧米に至りて之を調査研究し、其他官設設置に係る諸般の準備着々進行し、日も足らさるの状況を呈し来れり、此時に於ける予輩官設論者の喜悦実に言語文章の能く其一半をも尽くし得る所にあらず。
此際此時即翌年三月榎本子逓信大臣より文部大臣に移り、後藤伯当時所謂大同団結の首領より内閣に入りて逓信大臣の椅子に倚ることゝなれり○中略後藤伯は逓信大臣受命の即日逓信省に来たれり、予は当時逓信大臣秘書官たりしを以て、先づ後藤伯に面晤することゝなれり、伯直に省務中現下の重要按件を尋問せらる、乃ち答ふるに電話事業官私経営論の沿革を縷述し、其利害得失を細陳し、伯の孰れに決するかに由り自己の去就を決すへきを明言し、敢て其決断明答を請ふ、後藤伯曰く、余は官設を執り私説を排す、閣議を決し其費途を弁給することは余誓ひて之を為すへし、閣議若し余の提議要求を聴かされば、則余は内閣を去りて再ひ天下に游説せんのみ、足下後《(以脱カ)》は之を患ふること勿
 - 第9巻 p.716 -ページ画像 
れと○下略


鴻爪痕 (前島弥発行) 後半生録・第三六―三七頁〔大正九年四月〕(DK090071k-0006)
第9巻 p.716 ページ画像

鴻爪痕 (前島弥発行) 後半生録・第三六―三七頁〔大正九年四月〕
    五 電話事業
電話に就ての翁○前島密の功績も亦没す可からさるものである。翁の任官前から頻りに電話開始の問題が起り、其時分は電話は民設にすべきであるといふ議論もあつて、現に渋沢栄一氏などは私設の請願もした位である、且つ渋沢氏は態々人を西洋に派遣して電話の取調べをされたりして、一般に電話の気運が漲つて居た。斯くて民設と官設とが問題となり、政府も其判断に惑つて荏苒日を送つたのである。翁は其間に立つて電話は民設にすべきものでなく、当然政府事業たるべきものである事を固く主張し、優柔なる時の政府者を激励して遂に官設に決せしめ、其後施設宜しきを得て確実に安全に行はれて、一般国民が今日の便宜を受くるに至つたは、実に翁の賜と謂はざるを得ない。然るに翁の功績は忘れられ、当時逓信の衝に当つて居た電信局長若宮正音氏が主として之は携はつてゐたので、独り其功を此人にのみ帰して、翁が万事を指揮してやらせたといふ事を多く知らぬのは遺憾の至りで、是等は本幹を忘れた話であるが、電話に就て翁と共に逸す可からざるは工学博士志田林之助氏《(マヽ)》の名である。氏も亦是が創始時代に功労顕著な人であつたが、榎本大臣が罷めて後藤伯が逓信大臣となつたときから、此人は謂はれない排斥を受けた為め、一向其功を録せられずに終つたのである。
○中略
当時世間ではまだ電話の必要を知らず、政府は又二十三年を以て開かるべき国会の準備に忙殺されて電話等に耳を仮すものは無い。そこで翁は止むを得ず特別会計法に拠つて借金政策で敷設して見ようといふので、唐崎会計長と謀つて其方案を作つた。それから当時電気局長であつた前記の志田工学博士をして電話供用者の数、是に対する建設雑費其他の経費及び其使用料幾許を収納して可なるかといふ事を正確に調査せしめた。志田氏は此事業開始に就いて熱心なる賛成者で、其の設計に対して最小限を以て起算し、先づ仮りに三百名の電話使用者があつて一箇年六拾円の使用料を納むる事とすれば、収支相償つて不足が無い、而して其の建設費は約拾万円を要すると云ふ計算であつた。翁は三百名の使用者を得るのは難くないが、差向き拾万円の建設費を支出せしめるのは困難の事と思つたが、意外にも政府歳計以外に陸軍逓信両者の間に分収し得べき性質の金があつたので、翁は其の理由を論じ、為に両者間に分配する事が出来て拾万円を受取つた。玆に於て官設電話開設の第一歩は安定した。
   ○明治二十一年十一月二十日逓信次官子爵野村靖ハ枢密顧問官トナリ、前島密逓信次官トナル。二十二年三月二十二日榎本武揚ハ文部大臣ニ転ジ、伯爵後藤象二郎逓信大臣トナル。
   ○電話官営ニ決シタル功績ハ何人ニ帰スベキヤニツキ、前掲若宮正音ノ所説及ビ前島密ノ伝記「鴻爪痕」ノ所説等見解ヲ異ニスルモノアリ、又ソノ省議及ビ閣議ニ於テ決定セル年月日モ未ダ確タル資料ヲ得ズ。