デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
1款 大阪紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.72-85(DK100007k) ページ画像

明治17年6月15日(1884年)

大阪三軒家工場ニ於テ開業式ヲ挙行ス。栄一之ニ出席ス。尚是月株主総会ニテ資本ヲ倍加シテ五十六万円トナシ、工場ノ拡張ヲ決議ス。工事着手後更ニ明治十九年一月四万円ヲ増資シテ六十万円トナシ、同年六月工事成ル。明治二十年二月再ビ資本金ヲ倍加、百弐拾万円トナシ第二期拡張ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治一七年(DK100007k-0001)
第10巻 p.72 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治一七年
    西遊日記
六月八日
午後六時頃大坂店○第一銀行大阪支店 熊谷辰太郎、紡績会社山辺・蒲田両氏来訪ス
六月九日
朝、熊谷・山辺・蒲田来ル、談話数刻各去テ大坂ニ帰ル、依テ来ル十三日ヲ以テ大坂ニ抵リ紡績会社ノ開業式ハ十五日ヲ以テスルコトヲ約ス
○中略
六月十四日 曇
早朝三条公ノ旅寓ヲ訪ヒ、明日紡績会社開業式ニ臨席アランコトヲ請ヒシカ、公ニハ箕面行ノ約アルヲ以テ其請ニ応サ《(ス)》ル能ハサル旨ヲ其執事ヨリ謝セラル、午前八時三軒屋紡績会社ニ抵リ、社員一同ニ面会シ、工場ノ体裁其他一切ノ実務ヲ見ル、且明日開業式ニ関スル順序ヲ商議ス、午後二時支店ニ来リ、事務ノ各項ヲ点検ス、朝鮮店大橋ニ書状ヲ発ス、夜八時帰寓ス
六月十五日 晴午後雨
朝三十八銀行頭取伊藤長次郎・堀江猪輔来ル、午前九時山県内務卿ノ旅寓ヲ訪ヒ、本日紡績会社開業式ニ臨場セラレンコトヲ乞フ、十時紡績会社ニ抵リ、開業式場ノ順序ヲ定ム、十一時過内務卿来臨セラルヽヲ以テ、請テ来会諸氏ト共ニ工場内ニ誘引シテ運転ヲ為サシメテ、以テ開業ノ式ニ充ツ、畢テ工場外ノ仮屋ニ於テ来会諸子ヲ饗応シ、祝辞演説等アリテ午後二時頃退散ス、帰宿後微痾ノ為メ平臥ス、夕医師中路某来胗ス、夜医師高橋某来胗ス
  ○五月二十八日朝、関西地方ニ於ケル第一銀行支店及ビ各関係会社営業実況視察ノタメ東京ヲ発シ、静岡・四日市・敦賀等ヲ経テ、六月七日午後京都ニ至ル。十三日京都ヲ発シ、更ニ大阪ニ赴ク。
  ○「西遊日記」ハ五月二十八日東京出発ニ始マリ、六月十六日ニ終ル。十七日以後ノ記事ハ之ヲ欠ク。


甲申京摂巡回日記 明治十七年(DK100007k-0002)
第10巻 p.72-73 ページ画像

甲申京摂巡回日記 明治十七年 (第一銀行京都支店所蔵)
 - 第10巻 p.73 -ページ画像 
六月十九日 曇
午前九時紡績会社重役及支配人等ト相会シテ器械増設ノコトヲ審議シ議案説明書及予算等ヲ調査ス
○中略
六月廿三日 雨
朝九時三軒屋紡績会社ニ至リテ事務取扱ノ順序及諸帳簿計算ノコトヲ点検ス、午後山辺氏ノ宅ニ於テ役員一同ト共ニ午餐ス、午後一時中ノ島自由亭ニ至リ器械増築ノ件ニ付株主総会ヲ開キ議案説明書ノ要旨ヲ陳弁ス、決議ノ後去テ支店ニ至リ行務ヲ点検ス
六月廿四日
六時中ノ島ノ某楼ニ於テ紡績会社諸員ト小酌ス、蓋会社ヨリ余カ来阪ヲ慰スルカ為メ此宴ヲ開キタルナリ、英人ニールトモ来会ス、各歓ヲ尽シテ去ル
  ○六月二十五日大阪ヲ発シ、京都・山田・松坂ヲ経テ三十日四日市ニ至リ、汽船三国丸ニ搭ジテ翌七月一日横浜ニ帰着ス。
  ○「甲申京摂巡回日記」ハ栄一日記ノ写ニシテ、五月二十八日東京出発ヨリ七月一日帰着ニ及ブ。六月十六日マデノ記事ハ前掲「西遊日記」ト殆ド同一ナリ。


日本立憲政党新聞 第六二一号 〔明治一七年六月一七日〕 ○大坂紡績会社(DK100007k-0003)
第10巻 p.73 ページ画像

日本立憲政党新聞 第六二一号 〔明治一七年六月一七日〕
○大坂紡績会社 大坂府下西成郡三軒家村の同会社にてハ一昨日其開業式を執行し、目下在坂中の山県内務卿を始め遠藤造幣局長・建野大坂府知事其他各官衙の長官、及び紳士豪商等百余名を招待して器械運転の摸様を一覧に供し、畢りて一同へ午餐の饗応あり、酒間同社頭取及遠藤造幣局長外数名の祝詞演説ありて盛んなる有様なりし、当日弊社員も招状を受けて其席末に列したり


朝日新聞 第一五九六号 〔明治一七年六月一七日〕 雑報(DK100007k-0004)
第10巻 p.73 ページ画像

朝日新聞 第一五九六号 〔明治一七年六月一七日〕
    雑報
○一昨十五日執行せし西成郡三軒家の大坂紡績会社開業式の景況は、先づ工場に於て工夫工女を排列し是へ来賓を延き、一声の滊笛を相図に器械の運転を始めて一同の観に供し、了りて一同工場を縦覧せしめ、夫より会社前の広場に設けたる仮小屋にて来賓に和洋両様の料理にて立食をすゝめ、頭取藤田伝三郎氏の祝文(代人朗読)あり、又器械組立の為に来坂せし英人某も此会社の器械は尤も支那日本の綿に適当せるものにて、従事者注意の殊に至れる所を見るに足れり、若し従来日本《(後)》にて紡績器械を用ひんとするには総て此同様のものを取寄られたしとの意を演説せり、因に云是迄我国にて用ひし器械は孰も亜米利加綿に適当せるものにて、常に我国製の綿に用ひがたきことは其事に従事せる者の夙に不便を訴ふる所なりしが、今度始めて我国製の綿に適当する此良器械を得られしなりと、此日の来賓は山県参議・山地少将・遠藤造幣局長・遠藤当府大書記官等、無慮百八十余名なりし○下略


(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕(DK100007k-0005)
第10巻 p.73-74 ページ画像

(大阪紡績株式会社)創業二十五年沿革略史 〔明治四一年一〇月〕
○明治十七年六月ニ至リ株主総会ノ決議ヲ以テ資本金ヲ倍加シ、五拾
 - 第10巻 p.74 -ページ画像 
六万円トナシ錘数ハ又合計参万壱千参百弐拾錘トナシ、十九年六月漸ク其工ヲ竣レリ、先是同年一月資本金ヲ四万円増加シ、合計六拾万円トナシタリ
是時ニ当リ社運隆々トシテ朝暾ノ如ク実ニ衆望ノ府タリシナリ、而シテ又斯業ノ将来必ラズ本邦ニ於ケル有利ノ工業タルベキハ、此際世人ノ覚知スル所トナリテ資ハ争テ投ゼラレ、工場ハ所々ニ創設セラルヽヲ見ルニ至レリ
○明治二十年二月ニ至リ本社亦社業ノ進運ニ伴ヒ業務ノ拡張ヲ計画シ株主総会ノ決議ヲ以テ再ビ資本ヲ倍加シ金壱百弐拾万円トナシ、山辺丈夫ヲ英国ニ派シ、新式リング竪針紡機及之レニ伴フ原動機八百馬力ノ諸器械ヲ購入セシメ、錘数参万本ヲ増加シ、合計六万千余錘トナシ明治二十二年ニ至リ其工ヲ竣リタリ、於是本社ハ本邦最大ノ紡績会社トシテ同業者ニ傑出シ、斯界ノ頭領ヲ以テ目セラルヽニ至リタリ
  ○山辺丈夫ハ明治二十年五月十四日横浜出帆、米国ヲ経テ欧洲ニ至リ、英国ニ於テ諸工場ヲ視察シテ諸器械ヲ購入ノ上、同年十一月帰朝セリ。此間ノ洋行日記ハ「孤山の片影」遺稿第七五―一〇四頁ニ採録シタルガ、右日記ニ拠レバ丈夫ハ出帆ニ先立チ五月十三日、栄一ヲ第一銀行ニ訪問シタリ。


(山辺丈夫) 日記 明治一八―一九年(DK100007k-0006)
第10巻 p.74-75 ページ画像

(山辺丈夫)日記 明治一八―一九年 (山辺清亮氏所蔵)
七日○明治一八年一月 渋沢氏ヨリ来状
十日  休場、同上決算○半期決算ノ決議ヲ渋沢氏ニ報告ス、本日電気灯実見ノ為、端氏ト神戸停泊ノ山城丸ニ至ル、深更帰村ス
十三日 渋沢氏ヨリ来電アリ
十四日 再ヒ渋沢氏ヨリ来電
十五日 渋沢氏へ出電出状ノ事
十六日 渋沢へ出電出状ノ事
廿一日 渋沢氏ヨリ来電ノ事
廿二日 此日第三回株主総会ヲ帰一亭ニ開ク、午後十一時帰村、渋沢氏へ出電ノ事
廿四日 渋沢氏ヨリ来状
廿六日 渋沢氏ニ出状
卅日  渋沢氏ヨリ来状アリ
卅一日 渋沢氏へ出状
十一日○二月 渋沢氏へ出状
十三日 午後器械運転停止ス、シリンドルニ小障《(故)》アリ修繕ス、此日鑵水ヲ抜ク、防火練習ヲナス、渋沢来状
十八日 渋沢来状返書及出電 但第四回払込ノ件、本日午後ヨリ新ボヰラーヲ使用ス
十九日 渋沢来電
二十日 渋沢ヘ出電第四回払込ノ件
二十一日 渋沢来電
 返事(第四回募集ノ件)
二十七日 渋沢来状之事
二十日○三月 渋沢氏へ出状
 - 第10巻 p.75 -ページ画像 
二十一日 渋沢氏ヨリ来状アリ
二十四日 渋沢氏ヘ出電ス
二十五日 此日渋沢氏ヘ出状ノ事
二十八日 出場、朝小雪、渋沢来状アリ、同子ヘ出状ス
四月一日 渋沢来状
〃 四日 英国田辺ヨリ二月廿日付来状、三月廿八日《(付)》ニテ当方ヨリ出状、此便織機注文ノ事
〃 五日 渋沢ヘ出状
〃 十日 渋沢氏ヘ出状ノ事
〃十一日 渋沢氏・門多ヨリ来状
〃十三日 出場、渋沢ヘ電為替差立ル、渋沢・門多両氏江出状ノ事
〃 廿日 渋沢・田辺・門多・清水ヘ出状ノ事
五月一日 出場、渋沢来状同氏ヘ出状
〃 七日 渋沢・門多ヘ出状
〃 八日 渋沢来状出電出状ス
〃 九日 夕、渋沢来電直チニ返事ス
〃十三日 渋沢来状直下ノ議相談ス
〃十五日 渋沢来状アリ、渋沢・門多ヘ電信差出ス、東京行ヲ断ル、同上両氏江出状ノ事
〃十九日 無異事、渋沢・門多出状
〃廿二日 渋沢出電 返電ノ事
〃二十五日 夕、渋沢氏ヨリ電信来ル
〃二十八日 渋沢来状アリ
〃二十九日 渋沢ヘ出状
〃○六月五日 渋沢・福羽氏ヨリ来状
〃十九日 渋沢来状、同出状ノ事
〃二十六日 渋沢来状、第一銀行ニテ金二百円借入、八月十日期限利子三文ノ刻
〃三十日 渋沢来状
十日○七月 決算書渋沢ヘ出状
十二日 第一回紡績キカイ着船
十九日 渋沢回答ニ付重役ヲ佐伯氏宅ニ会ス
二十三日 インジン来着ス
十二日○八月 渋沢出状
〃○十月廿三日 此日松本・佐伯氏ノ倚頼ニ応シ渋沢紡績処《(谷)》ノ器械受取ル、渋谷紡績処ヲ堂嶋紡績処ト改名シ其事務取扱ヲ担任ス
十二月一日 堂嶋紡績処開業
十二月十八日 本日ヨリ打綿部運転ヲ始ム
十二月二十九日 本日ニテ三軒屋堂嶋紡績処ノ終業日トス
五月○明治一九年二十八日 渋沢氏へ面会ノ為四日市港ニ赴キ、夫ヨリ名古屋廻リ二日○六月 夜帰阪ス


大阪紡績会社第四回半季実際考課状 自明治一八年一月 至同年六月(DK100007k-0007)
第10巻 p.75-76 ページ画像

大阪紡績会社第四回半季実際考課状 自明治一八年一月 至同年六月
    ○株主集会決議之事
 - 第10巻 p.76 -ページ画像 
一一月大阪東京ニ於テ株主総会ヲ開キ、半季純益金配当方法ヲ議決セリ
一同時例ニ依リ頭取・取締役・相談役ノ撰挙投票ヲ行ヒ、旧任皆再選ニ当テ上任セリ


大阪紡績会社第六回半季実際考課状 自明治一九年一月 至同年六月(DK100007k-0008)
第10巻 p.76 ページ画像

大阪紡績会社第六回半季実際考課状 自明治一九年一月 至同年六月
    ○株主集会決議之事
一一月大阪東京ニ於テ株主総会ヲ開キ、半季純益金配当方法ヲ議決セリ
一同時例ニ依リ頭取・取締役・相談役ノ撰挙投票ヲ行ヒ、旧任皆再選ヲ以テ上任セリ


本邦綿糸紡績史 (絹川太一編) 第二巻・第四〇八―四二四頁 〔昭和一二年九月〕(DK100007k-0009)
第10巻 p.76-78 ページ画像

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渋沢栄一 書翰 山辺丈夫宛 (明治二〇年)四月二六日(DK100007k-0010)
第10巻 p.78-79 ページ画像

渋沢栄一 書翰 山辺丈夫宛 (明治二〇年)四月二六日 (山辺清亮氏所蔵)
爾来御清暢拝賀、然者貴兄此度三工場器械買入之為英国行被成候ニ付而ハ、先其途次ハ米国を経御旅行之積之由先頃之御来書ニても承知仕候、依而王子製紙会社ニても此間株主総会ニて倍高之株増いたし、更ニ木材原質之製紙業創設之筈ニ付右器械類買入之為、大川平三郎米国迄派出之都合ニ候間、可成ハ御同行相成右器械之中蒸気機関等之事ハ米国之方可然歟、又ハ英国ニて買入候方歟両様之見込取調、品ニ寄貴兄ニ相願候様仕度候ニ付何卒御含御尽力可被下候
右製紙会社之事も新創ニて未タ其原質工場之位地確定不致候ニ付、製紙業之土地も相定不申候、右等も運送賃之関係ニより候次第ニ付、其辺ニ付而も高案も御坐候ハヽ御垂示被下度候
 - 第10巻 p.79 -ページ画像 
貴兄洋行留守中之都合ハ過日之回答書ニ委細申上候ニ付、尚取締役と充分御相談可被下候
又川村・中山、支那行ニ付而ハ手続書相認先日さし上候ニ付、右ニて貴方異見無之候ハヽ清国公使紹介之張実生引合済次第出立相成候様御指揮可被下候
右大川出立ニ際し御依頼旁申上度、如此御坐候 匆々再拝
   四月廿六日
                      渋沢栄一
  山辺丈夫様


紡績懐旧談 (岡村勝正翁口述) 第四二―五〇頁 〔昭和七年四月〕(DK100007k-0011)
第10巻 p.79-82 ページ画像

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岡村勝正氏報告 (書翰にて) 昭和一三年一〇月一三日(DK100007k-0012)
第10巻 p.82-84 ページ画像

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〔参考〕東京日日新聞 第三八二七号 〔明治一七年九月九日〕 大阪紡績会社(DK100007k-0013)
第10巻 p.84 ページ画像

東京日日新聞 第三八二七号 〔明治一七年九月九日〕
    大阪紡績会社
○同会社は事業も次第に盛大に至りしにより、此度其製造所なる西成郡難波村三軒家の地所(官有地)六千七百余坪払下を願はんと評議一決したりと云ふ。


〔参考〕郵便報知新聞 第四一七八号 〔明治二〇年一月一一日〕 大坂紡績会社(DK100007k-0014)
第10巻 p.84 ページ画像

郵便報知新聞 第四一七八号 〔明治二〇年一月一一日〕
    大坂紡績会社
○同会社は創立以来事業総て都合好く運び、他の紡績所の失敗せるものあるにも拘はらず其の利益も常に多く世間の評判甚だ宜しき方なりしが、頃日同地に赴きて其実況を視たる者の話を聞くに、曾て本社紙上にも記せし如く、資本を増して六拾万円と為し、大に其の規模を拡げ、前には僅に紡錘一万二千本を用ゐたるを更に増して三万本と為し其器械の如きも当時欧洲にて第一等と評せられ居る者を取用ゐ、蒸汽汽鑵は我国工場中にて幾んど肩を比ぶべきものなき程に力ら強くして四百馬力となり、且其工場も改築して堅牢なる三層楼を築き非常に広大なる建物となし、剰さへ場内には電気灯を輝かすことなれば、其の規模の大なる其の観相の壮なる、我国工場中にても首位を占むるに至れり、特に同会社は其利益他の工業に比すれば余程多くして好景況なれども、此上工場及び事務の順序一切充分に整ふに及びなば尚一層の盛運をみるなるべしと申すことなり。


〔参考〕時事新報 第二五四四号 〔明治二三年一月二四日〕 【東京電灯会社が始めて…】(DK100007k-0015)
第10巻 p.84-85 ページ画像

時事新報 第二五四四号 〔明治二三年一月二四日〕
東京電灯会社が始めてエヂソン電灯を我邦に導き、先づ一まとめに架設したるは去る明治十九年春、官報局印刷所を始めとして陸軍士官学校之に次ぎて同種の電灯を点火する事と為り、実験先づ人々の疑を晴
 - 第10巻 p.85 -ページ画像 
らし、続て之れに信用を措くの場合に進み、東京電灯会社は麹町区第一電灯局を開き、尚ほ尋いで第二・第三電灯局を開設し、宮城内一円に之を架設することとなりしは大に該業の進歩を促し、大阪・京都・名古屋・神戸の各都会に於ても各電灯会社の開設あるに至り、之より流行の徴始めて顕はれ来りて、各地紡績会社等の諸工場は互に競ふて之を点火する一方には、東京にて品川電灯会社及び日本電灯会社相ついで起り更に近頃帝国電灯会社の創設もありと云ふ。
○中略
右の外諸工場其他にて現在点火せる部分をあぐれば即ち左の如し
  岩崎氏深川別荘  百五十灯
  鐘ケ淵紡績会社  四百灯
  ○中略
  大坂紡績会社   千五灯
  織布会社     三百灯
  天満紡績会社   四百灯
  (以上会社・学校・官庁・邸宅合計三十ケ所)
  合計七千六百五十灯
  ○下略