公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第10巻 p.117-120(DK100014k) ページ画像
明治42年6月6日(1909年)
是年栄一古稀ニ渉ルヲ以テ第一銀行他少数ノ関係ヲ除キ諸事業ヨリノ引退ヲ決意シ、是日当社相談役ヲ辞ス。当社ハ大正三年六月三重紡績株式会社ト合併シ、東洋紡績株式会社ヲ創立ス。
竜門雑誌 第二五三号・第四八―四九頁 〔明治四二年六月二五日〕 辞任書(DK100014k-0001)
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竜門雑誌 第二五三号・第四八―四九頁 〔明治四二年六月二五日〕
辞任書
拙者儀頽齢に及び事務節約致度と存候間、貴社「何々役」辞任仕候此段申上候也
明治四十二年六月六日 渋沢栄一
書状
拝啓時下向暑の候益々御清泰奉賀候、陳は小生儀追々老年に及び候に付ては関係事務を減省致度と存し、今回愈々第一銀行及東京貯蓄銀行を除くの外一切の職任を辞退致候事に取極候に付、別紙辞任書差出候間事情御了察の上可然御取計被下度候、尤も右様役名は相辞し候へ共向後とて従来の御交誼上必要に臨み御相談に与り候事は敢て辞する処に無之候間、其辺御承知置被下度候、此段申添候 敬具
明治四十二年六月六日 渋沢栄一
辞任せられたる各種事業の名称及職任左の如し
○中略
大阪紡績株式会社同上○相談役
○下略
実業之世界 第七号 〔明治四二年七月〕 余が今回辞任したる六十会社の運命観(男爵渋沢栄一)(DK100014k-0002)
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実業之世界 第七号 〔明治四二年七月〕
余が今回辞任したる六十会社の運命観 (男爵 渋沢栄一)
◎大阪紡績株式会社
(明治十五年五月設立払込資本三百七十五万円配当年一割二分渋沢男は当会社の相談役)
是は専務取締役の山辺丈夫が主として経営に当つて居る。一体この会社は、三重紡績と共に、私が日本の紡績業を繁盛ならしめんがために世話して守り立てた会社で、主宰者の山辺も私が見出して、紡績研究のために洋行までさせた人である。会社は一時非常な悲況に陥つて、此の時は流石に熟練な山辺も、投げ出さうとしたのであるが、ソンな事ではならぬと云ふので諫止した。で引き続き山辺が経営する事となり、今では三重紡績などと同じく頗る鞏固な基礎の上に立つて居る。併し山辺は何方かと方へば少々気の弱い方の人であるから、私が縦令辞職しても、事実に於て相談に来る事を免れまいと思ふ。さすれば、結果は名だけ辞職するやうなものである。
○大正三年六月二十六日当社ハ三重紡績株式会社ト合併シテ東洋紡績株式会社ヲ創立ス。本資料第三編第二部所収ノ東洋紡績株式会社ノ項参照。
〔参考〕渋沢栄一 日記 明治四三年(DK100014k-0003)
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渋沢栄一 日記 明治四三年
四月二十一日
○上略 午前十時大阪紡績会社四貫島工場ニ抵リテ一覧ス、畢テ堺卯楼ニ抵リ饗宴ニ出席ス、種々鄭重ノ饗応アリ畢テ社員一同ヲ会シテ本邦紡績業ノ沿革及当会社今日迄ノ歴史ヲ演説シ、更ニ事業経営ニ関スル注意ノコトヲ訓示ス ○下略
○四月九日東京ヲ発シテ関西方面ニ旅行ス。四月二十日大阪ニ抵ル。
〔参考〕大阪紡績会社営業統計表(DK100014k-0004)
第10巻 p.119-120 ページ画像
- 第10巻 p.120 -ページ画像
(明治四十年マデハ「創業二十五年沿革略史」、同四十一年以後ハ「孤山の片影」第一八六頁ニ拠ル)
(「創業二十五年沿革略史」ニ於ケル備考ニ拠レバ二十五年間ノ利率配当率平均年壱割参分、同年間器械家屋消却金額百七拾万円余ナリ)
○当社利益配当率左ノ如シ。
○資本金額及ビ積立金高ノ大要左ノ如シ。