デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
2款 三重紡績株式会社
■綱文

第10巻 p.162-167(DK100020k) ページ画像

明治30年2月11日(1897年)

是日臨時株主総会ヲ開キ、伊勢中央紡績株式会社ノ解散ニ因リ同社津工場ヲ当社分工場ト為スノ目的ヲ以テ、資本金参拾万円ノ増加ヲ決議ス。翌三十一年四月九日第一工場火災ニ罹リタルニヨリ、五月臨時株主総会ニ於テ新式紡機約一万錘ヲ購入シ復旧工事ヲナスベキ事ヲ決議ス。栄一コノ間相談役トシテ要務ニ参与ス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第一〇七七―一〇八九頁 〔明治三三年六月〕(DK100020k-0001)
第10巻 p.162-163 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第一巻・第一〇七七―一〇八九頁 〔明治三三年六月〕
 ○第十九章 綿糸紡績及織布業
    第三節 三重紡績会社
○上略
一第六次増募株及津分工場増設ノ事
 津分工場ヲ設置スルノ理由ハ、伊勢中央紡績株式会社解散ノ場合ニ至リテ該社重役ノ懇請ニ依リ、屡々協議ヲ尽シ同社取締役ハ監査役相談役ノ賛同ヲ得テ、爰ニ譲受ノ予約ヲ増資三万円増《(拾脱)》、錘壱万本ヲ以テ津市ニ分工場ヲ設クルノ見込ヲ以テ、明治三十年二月十一日臨時株主総会ヲ開キ之ヲ決議セリ、玆ニ至テ資本金総額壱百五拾万円ニ及ヘリ
○中略
明治三十年四月九日午後九時同社第一工場《(一)》二階ヨリ出火、折節風強ク忽チ一面ノ大火トナリ翌十日午前一時頃鎮火セリ、発火ノ原因ハ当日ハ昼夜休業ノ日ニシテ数名ノ職工修繕ヲ為シ居リシ際、不意ニ角灯破壊シタルニ因ルモノヽ如クナルモ何分咄嗟ノ出来事ニテ確タル原因ヲ審ニスル能ハサリシ、而シテ同工場中辛フシテ其災ヲ免レタル個所ハ左ノ如シ
   汽鑵室 混綿室 打綿室 修繕室
夫レ同社ハ斯ノ如ク火災ノ厄ニ罹リシト雖モ、予テ内外国ノ各火災保険会社ヘ被保険ノ契約アリシヲ以テ、此ノ罹災ニ対シテ金拾三万八千余円ノ弁償金ヲ領シテ其結局ニ至リ、続テ同年五月臨時株主総会ヲ開
 - 第10巻 p.163 -ページ画像 
キ、其弁償金ト積立金トヲ以テ此ノ罹災ノ壱号工場ニ改築ヲ加ヘ、紡錘凡一万錘ヲ新規購入シ、復旧工事ヲナスヘキ事ニ決議セリ
○下略
  ○伊勢中央紡績会社ハ、最初伊勢津細糸紡績会社ト命名サレ、柴田善左衛門・滝兵右衛門・伊藤佐兵衛・前川幸助等ノ津及名古屋人ノ発起ニヨリ、明治二十九年二月創立サル。資本金六十万円ニシテ専ラ細糸ヲ製造スルヲ以テ目的トナス。創立後敷地ノ買収及ビ紡機(プラツト式一万余錘)ノ注文ヲ了シタルモ、日清戦後ノ不況ト主脳者間ノ摩擦ノ為維持困難トナリ、三重紡績会社ニ合併ノ議起ル。当時三重紡績ニ於テモ津ニ一工場ヲ設置スベク希望シタリシヲ以テ交渉纒リ、三十年二月十一日臨時株主総会ニ於テ分工場増設ニ関スル左ノ議案ヲ議決ス。
    第一項 三重県津市ニ分工場ヲ増設スヘキ事
    第二項 分工場ニ設置スヘキ紡錘ハ大略一万錘ヲ設置スヘキ事
    第三項 増錘ニ係ル資本金ハ第六次増株ト称シ三十万円ヲ募集ス
   増募株式六千株中、二千株ハ伊勢中央紡績ノ一万二千株ト交換シタルモノニシテ、伊勢中央紡績ハ同三月解散セリ。而シテ津分工場ニ於テハ中央紡績ニ属スル一万余錘ト共ニ二万余錘ガ設置サレタリ。(絹川雲峯「伊勢中央紡績会社」〔「綿業時報」第八巻第四号第九七―一〇六頁〕ニ拠ル)


(第一銀行)本店支配人往復状 明治卅一年度 四日市支店(DK100020k-0002)
第10巻 p.163-164 ページ画像

(第一銀行)本店支配人往復状 明治卅一年度 四日市支店
                    (株式会社第一銀行所蔵)
 明治三十一年四月十日
     三ノ第廿六号
○中略
今朝不取敢御電報申上置候通り、昨夜九時過、三重紡績会社第一号工場(旧式機械ノミニテ壱万弐三千ツム)より出火、同場八分通り焼失一時過漸く鎮火いたし候、何分宏大之建物故火勢猛烈ニシテ一時大ニ心配致候へとも、幸ひ当夜ハ雨中之事とて旁第二工場其他共延焼を免れ、又一号工場之汽関並ニ汽鑵室・電灯室・混綿室・打綿室等も無難ニ相助り、且ツ昨日ハ当地稲荷之祭日にて休業中之為メ職工ニ怪我人も無之、誠ニ不幸中之大幸と奉存候、出火之原因ハ未タ判然不致候へとも休日ニハ機械之修繕を可致例ニ付、昨日も修繕掛之職工数名同場二階室ニ而執務いたし居候間、或ハ其者等カ過而角灯を取落し夫か綿屑ニ燃ヘ移り、竟ニ斯様之大事を引起し候ニハ無之哉と伊藤・斎藤之両氏も申居候、而して第一号工場に対し而ハ内外之各保険会社にて弐拾万円計之火災保険を付し居候由ニ御坐候へとも、□《(不明)》際会社之損害ハ幾何ニ相廻り可申哉、随分不尠事と奉存候、兎角意外之災難ニ而何共無申様気之毒之次第ニ御坐候
右ニ付伊藤伝七氏ニハ頭取○栄一御渡韓前ニ一応御面会申上度由ニ而、途中名古屋ニ御立寄りニ候ハヽ同地にて御面会、自然御直行ニ候ハヽ同地より途中迄御同車いたし御面談申上度ニ付、同地へ御立寄り候有無及貴地御出立之時刻等相伺呉度と依頼有之候ニ付、先刻其旨電報にて御伺申上候事ニ御坐候、定めて後刻迄ニハ何分之御回電ニ相接し可申と存候
○下略
  ○「明治卅一年のことである。四月九日工場附近なる海山道稲荷神社の祭礼
 - 第10巻 p.164 -ページ画像 
で工場は休業して居つたが、突然火災を起して二階のミユール工場は全部焼失した。男工連がロープレースに於てカンテラを灯して修繕に従事して居りしが、カンテラ覆つて火災を起したのである。其の時別室のリング室は無事であつた。会社は神戸のルカス商会代理ユニオン火災保険会社其他数会社に保険を附けて居つたから、早速右保険金でリング精紡機を設備して旧ミユールに易へた。この新式リングは他のリング工場と相俟つて、大に三重紡績の進運を扶けた形となつた。所謂焼け拡がりの状態である。」(絹川太一編「本邦綿糸紡績史」第二巻第五四九頁)


渋沢栄一 書翰 斎藤恒三宛 ○(明治三〇年)一〇月一六日(DK100020k-0003)
第10巻 p.164 ページ画像

渋沢栄一 書翰 斎藤恒三宛 (斎藤恒一氏所蔵)
 ○(明治三〇年)一〇月一六日
貴方本月五日附尊書ハ七日ニ入手、十二日附ハ一昨日拝見仕候、然は津分工場之義も百事御運ニ候得共英国ニて器械製造工場ニ職工之同盟罷工有之候為、其製造延引いたし随而本邦ヘ之到着も遷延之由困却之至ニ候
営業之近状ハ製糸直段下落之為少々不充分ニ候得共、向後英国・印度之両地と支那市場ニ於て必す敗北と申程ニも有之間敷、縦令銀貨下落いたし本邦金貨制と相成候ニ付而之影響ハ有之候とも、先幾分か両国ニ優る之御手心ハ有之候云々来示拝承仕候、右等ハ此上之実況ニ随ひ時々別而御注意被下度と存候
偖、真野氏洋行之義ニ付而ハ本年春小生貴方へ罷出候時ニも御打合之上、屹度なく同人へも内示せし次第に付小生ハ此際御派遣相成候ハ好時機と存し、大ニ賛成之心得ニ候処十二日附尊書ニて大ニ違却仕候、右ニ付而ハ真野より当方真野文二氏へ書通も有之候由ニて、一昨日同人被参懇々内談有之、もし此度中止と申書ニ候ハヽ終ニ本人も面目を失し失望之余り辞職可致、去迚真野氏も之を説得と申事も出来申間敷ニ付、何とか工夫無之哉と被申聞候、就而ハ既ニ本人へ御申示相成候上ハ同僚又ハ他ニ彼是申唱候人有之候とも一人之進退ニも関し候次第ニ付、御断行被成候方と存候、乍去もしも之を決行して他之数人ニ大波瀾ニても相生し候程ニ候ハヽ、是又再考も必要と存候、何分其辺之情状遠隔之地ニてハ詳細ニハ難相分候ニ付、断案ニ苦ミ候得共伊藤君とも能々御熟議被下、単ニ目前之弥縫策ニ止めす向後之処をも御審案之上可然御措置被下度候、但愚考ニてハ精々他之不平を説示し兎ニ角御派遣之方可然歟と存候、十二日附尊書ニ印度迄御遣し云々ハ姑息策ニ付本人も甘服せす不平を唱候人々を悦服せしめ候訳ニも不相成、詰り不利益之御取扱ニ可相成歟と被存候、御再案被下度候
右之段不取敢拝答如此御坐候 不一
  十月十六日夜
                      渋沢栄一
 斎藤恒三様
  尚々小生両三日来、別而多忙ニて御返事延引仕候、伊藤君ヘハ別ニ不申上候、賢台より可然御伝声可被下候
  ○封筒消印ニ「三十年」トアリ。

渋沢栄一 書翰 斎藤恒三宛 ○(明治三一年)二月二一日(DK100020k-0004)
第10巻 p.164-165 ページ画像

 ○(明治三一年)二月二一日
過日ハ御細書被下忝拝見仕候、昨年末之綿糸直段ハ意外ニ低落いたし
 - 第10巻 p.165 -ページ画像 
営業上頗る困難と相成候様子ニ付、将来之業務如何可有之哉と大ニ苦心罷在候処、当年ニ相成聊活気を生し候様子之由、先以安心仕候、乍去追々業体ニハ利益相減候様成行可申ニ付、精々社務を整理し貴案之如く社員を淘汰し勉而経費を節して仕事為相増候様之御工夫専一と奉存候
英国之職工騒動も漸く相止候由ニ付、御注文之器械類も追々到着可致、就而ハ精々御取運之上津分工場之仕事も御始相成候様仕度と存候真野氏も孟買ニて取調相済、英国へ出発之都合之由何卒充分之修行出来候様仕度と存候
本季之御営業ニ付而も目下之処相応之計算出来候様なれとも、御油断ハ被成兼候云々拝承仕候、詰り景気ハ悪敷方と覚悟候方と存候ニ付、此末之処も可成丈御用心専一と存候
使用人昇給之義は伊藤君より御申越ニて拝承仕候、来示之如く利益相減候際ニ費用相増候事ハ、別而心配ニ候得共致方無之と存候
御端書御申越之賞与金配当割合改正之件ハ御尤千万と存し御同意申上候、伊藤君ハ右ニても賢台へ対し権衡を得すと被申候得共、賢台とても又御不安心と存し老生之折衷説申上候義ニ御坐候
右等拝答旁如此御坐候 匆々不一
 二月廿一日
                    渋沢栄一
 斎藤恒三様

渋沢栄一 書翰 斎藤恒三宛 ○(明治三一年)五月一九日(DK100020k-0005)
第10巻 p.165 ページ画像

 ○(明治三一年)五月一九日
貴方五月二日附尊書ハ十日ニ京城着拝見仕候、又五日附ハ十四日仁川ニて落手仕候、偖先般貴社第一号工場火災ニ付而ハ容易ならさる御心配被下候事と察上候、其詳細之模様ハ過般伊藤君御出京ニて拝承仕候保険会社との引合向ニ付而ハ先頃も少々懸念罷在候処、終ニ金高拾三万八千九百円ニて協議相済候由、而して其内訳も御申越被下一々拝承仕候、就而其復旧工事之為大坂ニ於て摂州紡績会社之器械買入之義ハ、先日伊藤君とも御面談致候得共、不用物も多分有之候由ニ付、先以見合候方と申上候次第ニ候処、貴案も同様之由重畳之事ニ候、右様摂州紡績之方相断候ニ付而ハ、参考之為英国へ壱万錘之器械代価及到着期日まて御問合被成候由是又拝承仕候
二日附尊書之儀保険ニ付而之引合も相済候由ニて、本月廿日株主臨時総会相聞候由承知、右ニ付而ハ既ニ電信ニて御同意之儀及小生之代理委任之事まて申上候ニ付、夫々御承知と存候
○中略
   五月十九日長崎ニ於て
                    渋沢栄一
 斎藤恒三様
  尚々津分工場建築之模様も御申越ニて承知仕候、可成御取急被下候様頼上候、又復旧工事之方ハ格別御取急無之とも向後相応之利益を見候事ハ出来可申と存候ニ付、此際徐々ニ御取調之方と存候乍序此段も申上候也

渋沢栄一 書翰 斎藤恒三宛 ○(明治三一年)一〇月一六日(DK100020k-0006)
第10巻 p.165-166 ページ画像

 ○(明治三一年)一〇月一六日
 - 第10巻 p.166 -ページ画像 
貴方十二日附尊書拝読仕候、津分工場之仕事も漸く開始之都合ニ相成、工合も宜敷運転相成候由、且来月中ニハ全体之据付も完了し夜業も相始候様可相成云々拝承仕候
第一工場之復旧工事も夫々相運ひ全機運転ハ来年七月頃之由是又好都合と存候
当季紡紡業之全体《(績)》ハ何方も原価ハ高く売直ハ不景気之為低下し困難之由ニて、貴方杯ハまたしも幾分之利益有之重畳と存候仕ニ候、来示之如く此三ケ月之事業相進ミ壱割之配当出来候様なれハ、実ニ望外と存候義ニ御坐候、併此上とも可成御注意被下度と企望仕候、売方ハ不引合ニても愚案ニてハ勉而御勉強被成製品積堆候様之御取扱無之方と存候、呉々も御注意被下度候
○中略
  十月十六日
                    渋沢栄一
 斎藤恒三様
  ○封筒消印ニ「三十一年」トアリ。
  ○「卅二年津工場へ織布工場を建てたが、問題となつたのは織機の型式である。先年愛知工場へ据付けたのはプラツトの普通織機であつた。然るに津の場合に至り米国で新に発明されたノースロープ自働織機は我国でも非常に評判が高いものであつた。併し之に就て十分の智識がないから一度実地に就て検分するの必要を免れなかつた。そこで三重紡の斎藤氏は同伴たる大阪紡の山辺及び滝村、金巾製織の高橋、富士紡の和田、鐘紡の高辻等諸氏と打揃ふて明治卅年春渡米し三井物産紐育支店を訪問した。面白い事には物産会社の倫敦支店長渡辺専次郎氏が英国織機を売込まうとして態々米国へ来り、ノースロープを売込まうとする物産会社紐有支店長の岩原謙三氏と張合になり同志打ちとなつたのである。
    此のやゝこしい場面を避けようとの意味もあつたであらう。斎藤氏と山辺氏は更に英仏独三ケ国を巡視して然る後に決定すべく汽船ルカリヤ号で欧洲へ出発したるが、比較研究の結果矢張遂にノースロープを採用するに至つたのである。案外にもノースロープは余り成績が善くなかつた。三重紡と大阪紡とは我国で右織機を輸入したる最初のものでありしが、当時に於ける本邦紡績の原棉は一般に相当粗悪のものたるを免れず、其の上新旧織機に就いた男女職工の相互間の疾妬心等で両会社とも遂に失敗に陥つた訳である。」(絹川太一編「伊藤伝七翁」第一七九―一八〇頁)


渋沢栄一 日記 明治三三年(DK100020k-0007)
第10巻 p.166-167 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治三三年
一月十三日 曇又晴
○上略 三重紡績会社斎藤恒三来ル、同会社織布工場拡張ノ事、重役報酬額増加ニ付、其分配割合取究ノ事、及賞与改正配当案ノ事ヲ協議セラレ、依テ意見ヲ陳述シ且伊藤氏ヘモ書通スヘキコトヲ約ス○下略
十二月十日 曇
午前八時発ノ汽車ニ搭シテ西京ヲ発ス、十二時頃亀山駅ニ於テ汽車ヲ乗替津市ニ抵ル、伊藤伝七・斎藤恒三・九鬼紋七ノ諸氏来リ迎フ、午後一時津市聴湖館ニ於テ午餐ス、二時過ヨリ津市ニアル紡績分工場ヲ一覧ス、畢テ四時過阿漕発ノ汽車ニテ六時過四日市ニ達ス、昌栄館ニ一泊ス○下略
十二月十一日 曇
 - 第10巻 p.167 -ページ画像 
午前八時昌栄館ヲ発シ、三重紡績工場ヲ一覧シ○下略
  ○十月三十日東京発ニテ韓国旅行ノ途ニ上リ、ソノ帰途津分工場及ビ四日市工場ニ立寄リタルモノニシテ、随行者八十島親徳ノ「韓国旅行日誌」ニ左ノ記述アリ。
     十二月十日
   三重紡績会社津分工場ニ至ル、地域広ク建物完備皆平家建ニシテ工場内頗整理シ、食堂・寄宿舎・痛院等ノ設備何レモ整頓セリ、凡ヘテ大坂紡績会社ニ比シ大ニ径庭アリ
   目下紡績錘数一万四千余、織布器ハ目下新設準備中ナリト、頃日、市場不況、紡績糸ハ幾分ヲ休業スル位ナルモ、織布ハ之ニ反シ売行ニ苦マズト云フ
     十二月十一日
   午前男爵(栄一)ニ随行、三重紡績会社本社ニ至リ工場ヲ見ル、錘数二万八千、不相変諸事整理セリ
     十二月十二日
   真野愛三郎氏ノ案内ニテ三重紡績愛知分工場ニ至ル、錘数二万四千織布機五百七十台アリ