デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
4款 大日本紡績聯合会
■綱文

第10巻 p.361-368(DK100032k) ページ画像

明治24年12月25日(1891年)

第一帝国議会開会セラルルヤ、是年一月二十二日理事岡田令高ノ名ヲ以テ綿糸輸出関税免除請願書ヲ農商務大臣陸奥宗光ニ提出ス。爾来棉花輸入綿糸輸出両関税免除ノ請願ハ合体結合シテ行フコトニ決シ、第二帝国議会ノ開会ニ際シ、是日両関税免除請願書ヲ衆議院ニ提出シタルモ、衆議院ハ同日解散トナル。栄一、益田孝ト共ニソノ間請願運動ニ尽力ス。


■資料

東京経済雑誌 第二四巻・第六〇〇号・第七九九頁 〔明治二四年一一月二八日〕 ○綿糸輸出税及び棉花輸入税免除の請願(DK100032k-0001)
第10巻 p.361-362 ページ画像

東京経済雑誌 第二四巻・第六〇〇号・第七九九頁 〔明治二四年一一月二八日〕
    ○綿糸輸出税及び棉花輸入税免除の請願
大日本綿糸紡績同業聯合会にては、綿糸輸出税及び棉花輸入税の免除
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を、政府及び帝国議会に請願し、大に運動する由なり、其の請願の要旨は左の如し
 印度糸は其原科自国産綿にして固より関税を要せず、英国綿糸の原料は米国を始め尽く外国に仰くも、亦輸入税を要せさるのみならず、印度英国とも綿糸の輸出に関税を払ふことなし、故に製造して之を清国に輸入するの間、唯一の清国輸入関税を払ふのみ、然るに本邦の紡績糸は現今将来原料の大部分を占むる印度米国及清国産綿の輸入に関税を払ひ、又綿糸の輸出に関税を払ひ、其上清国輸入関税を払ひ、都合三重の関税を負担せさるへからず、就ては本邦紡績者は如何に辛苦して工費を低廉ならしむるも、如何に奮発低価に売却せんとするも、三重の税を負て唯一の税を負たる印度英国綿糸と清国市場に競争すること能はさるは数の覩易き理にして、紡績業者が棉花輸入税及綿糸輸出税蠲免を請願するの止むを得さる次第なり
実に然り、棉花の輸入税及び綿糸の輸出税を廃止せざれば、我か紡績業は決して発達すること能はざるべし


第六回定期聯合会決議要領 附同報会要件(大日本綿糸紡績同業聯合会明治廿六年四月廿日開会、同廿四日閉会)(DK100032k-0002)
第10巻 p.362-363 ページ画像

第六回定期聯合会決議要領 附同報会要件
          (大日本綿糸紡績同業聯合会明治廿六年四月廿日開会、同廿四日閉会)
    一、請願ニ関スル報告ノ件
請願事件ニ付同委員ヨリ報告アリタルモノ左ノ如シ
輸入棉花・輸出綿糸両関税免除ノ請願ニ就キ、明治廿四年十一月ヨリ本年二月ニ至ルマデ請願委員ニ於テ措弁シタル事務ノ要領、及ビ運動上ノ概況ヲ左ニ報告ス
明治廿四年十一月東京ニ於テ開キタル開発聯合会ノ臨時集会ニ於テ請願上、諸般ノ協議ヲ遂ゲタル上、特ニ請願委員ヲ会員中ヨリ選挙シテ帝国議会開期中東京ニ滞在シ、政府及ヒ議会ニ対シテ便宜請願上ノ運動ヲ為サシムルノ議ヲ決シ、則チ左ノ諸氏ヲ挙ゲテ委員トシ、之ニ理事ヲ加ヘテ請願事務ヲ専掌セシム
        岡山紡績会社  谷川達海
        倉敷紡績所   小松原慶太郎
        三池紡績会社  野田卯太郎
        金巾製織会社  田村正寛
        大阪紡績会社  熊谷辰太郎
        東京紡績会社  田村利七
        鐘淵紡績会社  荒井泰次
        三井物産会社  端善次郎
臨時会閉会ノ後、十二月二日ヲ以テ東京々橋区西紺屋町十七番地ニ同業聯合会事務出張所ヲ置キ、理事岡田令高常務ヲ管掌シ、委員相会シテ請願事務ニ服セリ、此際常傭書記一名、小使一名ヲ雇入ル
委員ハ請願運動上、先ツ左ノ方針ヲ定メ各自分担シテ其事務ヲ執レリ
 一、政府ニ対シ両関税免除ノ急務ヲ陳疎シテ、実行ノ一日モ速カナランヲ期スルコト
 一、議会ニ対シ両関税免除ノ急務ヲ勧説シテ、該税免除法律案ノ議決ヲ期スルコト
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 一、各新聞雑誌ニ両関税免除ノ経済上必須ナル理由ヲ登載シテ、輿論ノ賛成ヲ惹起スルコト
 一、商業会議所ノ賛同ヲ求メ、同所ヨリ政府ニ対シ建議書ノ呈出ヲ望ムコト
以上諸項ノ内、当時ノ趨勢政府ニ対スルノ策最モ緊切ヲ感ジタルニヨリ、委員ハ全力ヲ挙ケテ日夜此事ニ竭力シ、大蔵及ビ農商務ノ両大臣ニハ首トシテ請願書ヲ提出シ、尚ホ数百部ノ理由書ヲ調製シテ参較ノ資ニ供セリ、而シテ委員尽力ノ効未ダ全ク空シカラズ、該関税免除案ハ農商務大臣ノ提出ニ依リ、閣議ニ上リタルノ佳報ニ接シタリト雖モ、政府ト議会トノ関係ハ日ニ益々衝突ノ形勢ヲ現ハシ、遂ニ当議会開期中、該免税ノ政府案ヲ視ルコトヲ能ハザルノ否運ニ際会セシヲ以テ、委員ハ討議会策ノ等閑ニ附スベカラザルヲ察シ十二月廿五日ヲ以テ両税免除請願書ヲ貴衆両院ニ提出セシニ、唯貴族院ハ此日已ニ閉場後ナルノ故ヲ以テ翌日ニ延ハスコトトシ、衆議院ニハ高田早苗君外十五名ノ紹介ヲ得テ提出シタリ
東京商業会議所ニ於テハ十二月十二日両関税免除ノ建議案ヲ討議シ、議決ノ上之ヲ政府ニ提出セラレタルハ本会ノ深ク該会議所ニ感謝スル所ナリ
新聞雑誌ハ郵便報知・日本・中外商業・日々ノ各新聞及ヒ東京経済雑誌等最モ該税免除ノ必要ヲ論ジ他ニ一ノ反対論ヲ掲載シタルモノナシ委員ノ外ニ於テ渋沢栄一・益田孝ノ両君ハ熱心運動上ノ幇助ヲ為シ、一般ノ状況頗ブル好結果ヲ得ルノ望ミ充分ナリシニ衆議院ハ十二月廿五日ノ夜ヲ以テ終ニ解散セラルヽニ至レリ、是ヲ以テ各委員ハ次回ノ運動ヲ期シテ一旦帰郷ノ途ニ上レリ
  ○右報告ハ以下明治二十六年二月二十日ノ項ニ収ム。


大日本紡績聯合会月報 第一二九号・第一八―二四頁 〔明治三六年五月〕 ◎大日本紡績聯合会沿革史(六)(DK100032k-0003)
第10巻 p.363-368 ページ画像

大日本紡績聯合会月報 第一二九号・第一八―二四頁 〔明治三六年五月〕
    ◎大日本紡績聯合会沿革史(六)
去る廿一年以来既に再次請願したる輸入棉花税の蠲免は、未た其允准を得すと雖も同業者の堅志は之か為めに撓ます必らす其貫徹を得て甘心せんと欲し私に機の到るを待ちたりしか、帝国議会の開会○二三年一一月第一回開院式は諸般の請願者を鼓奮せしめ、此新門戸に向て趨るもの百千啻ならす、本会豈又他人に後れんや、理事は夫の輸出棉関税廃止及輸入綿糸関税増額《(マヽ)》の請願書と共に、棉花免税追願書を携へて東上し、先つ在朝在野の名士及実業熱心の代議士間に歴説し、便宜上首として棉糸輸出関税免除請願書を其筋に呈出したり
先是、谷千城・富田鉄之助二氏の発議に係る「海関税に関する建議案」は貴族院に提出せられ、一世の視聴を驚動したり、爾来輸出関税免除は民力休養問題と相併んて操觚者の題目となり、政党の標榜となり、本会提出の請願書は大に識者の顧盻する所となりたり、之に踵き岡山県下の四紡績所は又在京中の同県撰出代議士宛両免税一増税の意見書を送付し其協賛を求めたり、而して本邦製綿外国輸販に就ては初め輸出税の廃否の如何に関せす、五ケ年間毎年三万梱の輸出を期し其意気壮大なりしも、当時我国に於て一基の荷造機あるなけれは、三井物産
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会社員端善次郎氏の上海に在りて、棉糸の販路商況等を調査しその好望を報し、以て実行委員に促す所ありと雖も、委員は徒らに枝癢を嘆し遠く彼岸を望むに過きす、然れとも是れ固より空しく持ちて得らるへきにあらす、終に大阪及岡山地方の有志同業者拾ケ所は共同して之を購入することに決し、三井物産会社に托し電報を以て英国に注文したり、此間端氏は見本として孟買糸三梱を送りて漢口及四川向の二十手を製出せんことを勧告し、又商標幾種を寄せて之に傚ひ動物を画かんことを注意し、其他荷造又輸販の方法を細示したり、於是大阪紡績会社は首として金白二色の象を画ひて商標となし、荷造機(着後堂島紡績所の一部に据付けられ、之か荷造は孟買同様一梱九拾銭にて結束したりと云ふ)の到達を待ち輸出を試みたり、之に踵て東京・鐘淵・堂島・平野の諸社一定の包装を以て続々其精鋭を未来の大輸販地に向け、孟買紡績糸の塁を摩せんとしたり
蓋し製糸販路の拡張、輸入糸防遏の決議をなし、各社協同して製糸の工程を変更し、四千錘以上の工場は務めて二十手以上のものを製出すへきことを約束したりしより、各会社は熱心に工費節減の方法を講し以て糸価の低落に応し孟買糸の顧客を奪ひ、防遏の目的を達せんことに拮据したり、此間我紡績者の損耗と困難とは決して尠少にあらす、積日の余勢を受けて疲弊具に至りしか天未た我同業者を滅さす、原綿に於て米国産の供給を受け製糸上一段の進歩を表したるは、勿論此原棉の豊沢と工費の節減とは相待つて経営上の機軸に一旋転を与へ、歩趨冉々として有望の山に臍るを得せしめたり、即ち我製糸は其原価を低落して七十壱弐円に売るも猶ほ幾分の利潤を見るに至りたり、其翼翎婆娑天風に駕して彼岸に翥到せんと欲するもの禁せんと欲して得へけんや
既に一方に於て外国輸販の道開けたるに方り、内地に於ても需要一異象を現はしたり、元来機業家は其習慣として容易に新奇の原料を用ゆるを好ますと雖も、各地木棉商及製糸売捌人等の百方勧誘したる結果、逐次に内地製糸の需用を喚起し、従前竺糸を緯とし英糸を経として木棉及ひ晒等を織成したる尾三勢の地方に於ては、本邦糸を以て竺糸に代用し、其他の地方に於ても同様内国紡績糸を緯糸に充用するに至り、竺糸の需要は遠からす地を払はんとするの形勢を表したり、乃ち独り竺糸をして其跡を斂めしめたるのみならす前年来二十番以上卅二番の細糸を製し、英糸代用品として売出しその好評の嘖々たるに従ひ販路益々伸張の傾向ありて、玆に深く進んて英糸に肉薄するに及ひたり、且従来各地紡績会社は其支店又は販売店を大阪市に設置したりしか、此頃に至りては市内の紡績会社にして別に販売店を設けたるもの多く、加之ならす相議して糸価の等差を一定し、十六手以下各五十銭、十六手以上は仍旧壱円開きと為したるか如き、銷路日に滋く大勢既に我に順なるを以て察すへきなり、蓋し商海に久しく其波を揚けたる株券の暴騰暴落は会社の実評にて玉石甄別すると共に其底所を得、風潮漸く静に紡績業の如き歩々本然の形体に復帰したるなり、前途の多期竟に疑ふへからす
理事岡田氏は曩に請願の任を負ふて東上し、傍ら日本銀行及大蔵省に
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就き金融上の協議に及はんと欲したるも、這般の重大事一挙にして其成果を得んこと素より期すへからす、殊に初期の議会なれは議事極めて多く、八百余件の請願中議場に上りたるもの僅々に過きす、於是氏は其尤も緊急にして尤も容易なるへき棉糸輸出税免除の請願書を取り、之を農商務省に呈出したり、蓋し其免否如何は勅令権内に在ることを信したれはなり、而して請願書は大臣の之を容るゝに及ひ大蔵省に回議せられたり、又共同取引所認可願も大阪府庁より農商務省に稟議せられ、其投機的事業にあらさること分明したれは、両者共其採用又は許可を得へき望ありしを以て、滞京幾旬、終に五月○二四年の未に至る、幸に取引所に就ては指令の近きに在るを領したるも、関税免除に関しては端なく法律の範囲内たるへきの議論出て省議決せす、終に空しく帰阪せり、去れは毎年四月を以て定期総会招集の期となせしか、当度は二ケ月を越へて六月十五日○二四年之を開催したり、此会に於て三件請願は新に大運動を試んか為め、全国を東西及中央の三部に分ち委員十名を撰任せり、其所属左の如し
  中央部(十八ケ所)金巾・大阪・摂津・泉洲の四社
  東部(十一ケ所) 尾張・鐘淵・三重の三社
  西部(十一ケ所) 倉敷・三池・岡山の三社
然るに又た一面に於て各府県の紡績会社は其附近の代議士を説き之に援助することとし、且、第二回帝国議会○二四年一一月二六日開会の開会に先て東京に於て臨時会を開き、請願書を政府及議会に提出することに決し、夫の共同取引所は之を大阪に設立するも、遠隔地方の同業者は其便に与らさるを以て有志者の便宜共同して組織することに決議したり
従来経費の収支は規約定むる所の標準に従ひ之を徴収し、其支弁は委員長の権内に委し毎年四月十五日に至り、前年三月より翌年二月迄の分を年度として単に報告したりしか、岡田理事は其収支の濫ならんことを恐れ予算案を調製して此会に提出したり、又会計年度を改めて毎年七月一日より翌年六月三十日迄とし、更に之を前後の二期に分ち七月一日より十二月三十一日迄を前期とし、一月一日より六月三十日迄を後期と定むることとなしたり、例に因り常務委員を改撰し、大阪・金巾・平野の三会社当撰したり、蓋し尾張紡績会社は曩に常務委員たりしか遠隔の地に在りて常務を執る能はさりしを以て、今後は専ら事務所附近の各社中より推撰せんことを議長奥田氏より希望せられ、乃ち此撰ありたるなり、而して互撰の結巣に於て大阪紡績会社は依然委員長の綏を受けたり
理事の東上して親しく事務を視る能はさるや、此製糸量目を左右するの弊未た絶たす、職工の争奪亦漸く熾ならんとし規約の厲行未た所期に副はさるものあり、此会に於て理事の職責を議したるものありしかは、理事は之より留守して執務せんことを約したり
職工条例の我紡績業に関係すること至大なるは固より論を竢たす、故に其制定の風説あるや前年五月東京に於て聯合会を開きたる際、席上臨場の農商務省吏員に対し前以て同業聯合会へ下問を逸せさらんこと望みたりしか、爾後農商務省は東京商業会議所及東京実業者組合へ諮詢したりしも、来た我聯合会へ何等の垂詢なかりしを以て、当会の決
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議に依り該条例及工業に関する諸法例は必らす其制定前一応下問せられんことを請願したり
未た幾ならすして大阪商業会議所は農商務大臣の諮問に答ふる参考材料として、工場法規定に要する事項二十目を掲けて我聯合会の説を求められたり、聯合会は当下該法を規定するの機にあらす、之を設けは却て平地に風波を生するに至らんことを述へ、尚早の説を提けて聯合紡績業者の意向を表白したり、又各社は各自諸調査項目に対し一々答案を付し回答したりしか、府下同業者の意見として桑原外八社連署して大阪商業会議所に長文の書面を送り、各項に付詳細に其要否を論したり、而して聯合会は亦全国同業者の意見に基き一一之を敷述して断案を下し、実業者の輿論として其筋に覆答せんことを全国各商業会議所に求めたり
曩に十日会々員より、東京・名古屋及阪神間、滊車積綿糸及棉花運賃低減の義を内国通運会社に請求したりしか、同社は鉄道庁に願ふ所あり、終に此年七月廿九日を以て同庁第二部より名古屋送りは壱屯壱哩に付金壱銭弐厘、新橋送りは同壱銭に改む旨特許せられたり、尤も壱ケ年の積出数量其申出額(大阪より東京行綿糸壱万五千箱、同名古屋行壱万箱、大阪より名古屋行棉花十八万斤)に達せさるときは、既送に係る貨物賃金の弐割を増し更に不足賃を徴収すへきことを付記したり、於是従来水路の便に依り危険多く且時日を要したるもの、陸路安全に且迅速なる輸送を得て販売上の便宜一層を加へたり
又聯合綿糸上海輸販の件に付ては、六月 ○二四年 の定期会に於て、実行委員田村正寛氏より巨細に其経過及手続を演説せられたり、之に関しては日本郵船会社も特に其便宜を図り、三俵一屯五円の運賃を三円に裁減して輸送し、猶ほ他の荷物を後にするも必す綿糸は其積入に優先権を付与すへき旨、理事を経て通知せられたり、然るに各会社を通して輸販を強ゆるは理に於て当らさるを以て、前年の決議第一項中「必らす」の文字を「成るへく」に改め、随意出荷を准し又損益とも出荷者各自に負担することとなしたり
是より先き厦門在留独逸商エイチ、エ、ピーターセン商会は日本郵船会社を介して、我製糸の見本及原価表を請求し来りしを以て二三の見本を送致したるに、七月十日付を以て厦門市場へ発売を試みしに好果を得るの望ある旨を回答し、猶直接取引を為すへき確実なる会社の指定を領事代理上野専一氏に請ひたり、又芝罘のアンズ商会は本会へ見本送付の義を照会し来り将来望を属すへき新販路を示したり、已に上海及香港に於ては三井物産会社支店の鋭を養ふて発售の任に当れるあり、又南北両部に於て這箇の好消息を伝へ他方に於て郵船会社は特別の好意を寄せて同業者の出荷を促すあり、殊に米棉は四十年来の豊作を告け(千八百四十九年の一封度六仙以来の低価にて七仙十六分の七の安値なりし)孟買棉も之に圧せられて亦廉なりしを以て多少製産費を減するを得たれは、気勢頓に騰り意を外輸に注くこと愈切なり、時適々南清には棉花の高値に伴ひて綿糸騰貴し、英糸(十六手乃至廿四手)は為替相場の変動により自然市場より退却し、孟買糸代はりて輸入するの状況なりしかは、我精練の製糸を以て之に臨む最も機を獲た
 - 第10巻 p.367 -ページ画像 
るの感あり、乃ち大阪紡績会社の如きは亦首として厦門に向て輸出を試みたり
然るに孟買糸は已に我製糸に弾圧せられて殆んと望を我国に絶ちたれは、一意清国に向つて之を輸出したるに内地の売行活溌ならす、而かも未た其製額を減せす委托荷として陸続香上市場に輸送したれは、同年八月に及ひては両港に於ける停滞綿糸八万梱の多きに上り、其他各港を算入すれは、売残品は総計拾三万四千九百十六俵に達したりと云ふ、去れは価格は目を逐て低落したりと雖も、此頃(九月)より孟上間の棉糸遊貸は一頓に付き十七留比(八円五十銭)に騰貴し其輸出に不利を与へたり、孟買紡績業者は終に其支持に堪へす九月十二日を以て組合委員会を開き五条の決議をなし、九月十五日より同三十日迄四日、十月一日より十二月三十一日迄毎月八日の休日を増加し、織布兼業は之に半はすへきこと約束せり
此場合に方り輸出を試む、素より不利たるを免れすと雖も、紫雲天に靆ひて覇気地より騰りぬ、之を望んて誰か又蹰躇せんや、只奈何せん英印糸は其輸出に於て無税なるのみならす、原料に対し課税せらるゝことなく、清国に於て輸入関税を課せらるゝのみなるに反し、我製糸は、一度其原料に対し徴税せらるゝ上、再ひ其輸出に方りて征課せられ、其三次に於て清国関税を払はさるへからさるの難あるを、是等の障礙に阻まれて猶ほ戦はんと欲す、万全勝を得るの理なし、於是輸出製糸関税免除及輸入棉花税蠲免の必要は倍々急切なるを覚へ、請願委員は終に此年 ○二四年 十月の末、相会して草案を討議修正し十一月 ○二四年中旬を期し、東京に臨時聯合会を開き、請願の手続其他の運動に付き聯合全躰の意見を間ふことに決したり
当日会するもの二十七名にして会場は実に「帝国ホテル」なりとす、乃ち請願書に付き会議を開き、討議の上、修正委員五名を設け、修正案是認の後投票を以て請願委員十名を撰挙したり、此日国家経済会員谷干城・富田鉄之助・日下義雄・神鞭知常等の緒氏は来場して、各々其意見を演説せられたり、而して委員は、運動の手筈を協議し、愈廿一日より各員部署を定め、意見書を携へ、貴衆両院議員を訪問し、会員は亦東奔西走し、代議士及官民有力者の門を叩き、請願の理由を面陳して賛成を求むることに尽力したり、左の二件は実に此会の議決に係る云々
 一、帝国議会開会中は臨時聯合会を東京に開き置くこと
 一、地方同盟会員中より在京委員四名を撰定し、尚ほ東京在住の委員三名と共に請願事務に専任すること
而して在京委員に当撰したるものは左の四氏にして
 岡山紡績  谷川達海           倉敷紡績  小松原慶太郎
 三池紡績  郎田卯太郎《(野田卯太郎)》  金巾製織  田村正寛
東京在住委員は左の三名とす
 東京紡績  田村利七           大阪紡績  能谷辰太郎
 鐘淵紡績  荒井泰治
斯くて二十八日に至り委員は一同車を聯ねて農商務省へ出頭し、願書及理由書を捧呈したり、当時呈出したる棉花輸入関税蠲免請願の理由
 - 第10巻 p.368 -ページ画像 
書には、本邦紡績業の来歴、国家経済上免税の必要、綿花輸入税免除と内地棉作保護との得失、及外国綿政略の結果等を貝載し、綿業奨励上請願の止む能はさる所以を述へ、従来の請願書と自ら其撰を殊にし委員の気勢亦前日の比にあらさりしなり
同月 ○二四年一一月 三十日に至りては東京商業会議所会頭に建議し、棉花輸入税蠲免の国家経済上喫緊問題たるを述へ、其賛翼を求めたりしか、同所は満場一致之を賛成し直に政府に建議したり
然れとも請願委員は一面輿論を喚起するの要を認め、操觚者に対し切りに経済上免税の必須なるを述へたりしか、東京諸新聞中郵便報知・日本・国民の三新聞は首として我請願の趣旨を賛し、東京経済雑誌の如き力めて棉花輸入税免除の必要を論したり
此際聯合会は当期帝国議会中開設の主旨なりしを以て、特に出張事務所を東京々橋区西紺屋町十七番地に設置し請願事務取扱に便したり
政府に於ては此際猶ほ関税免除は勅令権内と云ひ、或は法律を以て制定すへきものなりと云ひ、内議未た決せす、為めに殆んと政府の決意を窺ふに苦しみたるを以て、聯合会は前に同業者一同の連署を徴し貴衆両院に請願書を提出したり、衆議院の如き自由党・改進党・自由倶楽部・巴倶楽部・独立倶楽部・奥羽同志会・及大成会等の党派に論なく好んて之か紹介を諾したり、是れ二十四年十二月廿五日の事なりとす、而して同夜衆議院は解散を命せられたり
  ○本資料第二編第一部「東京商業会議所」明治二十四年十二月十五日ノ項、及ビ明治二十五年七月一日ノ項参照。