デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
4款 大日本紡績聯合会
■綱文

第10巻 p.418-423(DK100037k) ページ画像

明治26年10月17日(1893年)

孟買航路開設ノコト決スルヤ、予テ日印航路ヲ独占セシ英国彼阿会社ノ東洋支店総支配人ヂヨセフ来朝シ、十月十六日日本郵船会社ヲ訪ヒ、更ニ是日栄一ヲ訪フテ同航路開設ノ議ヲ中止セシメントス。栄一乃チ理ヲ尽シテコレヲ拒絶ス。尋イデ十月二十八日日本郵船会社ト紡績聯合会トノ間ニ第一回印棉運送契約成立シ、日本郵船会社ハ翌十一月七日ヲ以テ孟買航路第一船広島丸ヲ神戸ヨリ解纜セシム。


■資料

川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第二〇―二二頁 〔大正一五年四月〕(DK100037k-0001)
第10巻 p.418-419 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 (大谷登編) 第二〇―二二頁 〔大正一五年四月〕
    十 印度棉花の回漕契約
 かくの如くして印度棉花輸入の事が極めて必要であつて、且つ有利なことが顕著となつた為めに、大阪紡績会社以外に於いても、三重紡績会社・鐘淵紡績会社・内外綿会社・日本棉花会社等競うてこれを輸入し、タタ商会の神戸支店も亦買次の途を開き、其の輸入額毎歳五六万俵を下らざるに至つたが、其の運輸の衝に当つてゐたものは、主として英国の彼阿会社で、同社は其の航路を独占してゐたから、運賃を不当にして、日印貿易の間に非常な障碍をしたのみならず、棉貨の搭載其の他の取扱に於いても不便少くなかつた。
 - 第10巻 p.419 -ページ画像 
 然るに嘗てタタ商会のアール・デイ・タタ氏来朝して、渋沢子爵を訪問した時に、子爵は氏の為めに懇切に、日印貿易上、自国船を以て新航路を開拓する事の緊急務なる事を説いたが、後二十六年五月、同商会の最有力者なるゼイ・エヌ・タタ氏来朝するに及び、此の事に関して新に子爵との間に協議を重ねた。タタ氏は三千噸級の汽船二隻を以て日印間の新航路を開く時は、現在の運賃よりも少くも二割五分を低減し得べしといひ、自ら其の一隻を弁じようから我が国よりも更に一隻を補給しては如何との事であつたから、子爵は自邸に宴を限り、郵船会社々長森岡正純氏を始め、財界の巨頭を会し、タタ氏を紹介し、此の事に関して謀る所があつたけれども、日印貿易に於て重要なる位置を占むる綿糸業者を度外視しては、到底成功し難きを知り、子爵より綿糸紡績聯合会に照会して来たのである。こゝに於いて翁は率先して同業者間に奔走し、日本郵船会社との間に運賃に関し大体の交渉を纏め、其の八月五日、又大阪商業会議所に臨時聯合会を開き、同業者間の議を決し、九月九日に至り、郵船会社との間に約定を締結した。此の約定に加入したものは大阪紡績会社を主とし、三重・鐘淵の二紡績会社と、内外綿会社・日本棉花会社との五会社であつて、其の約定の趣意は、聯合五会社に於いて毎歳五万俵を下らざる棉花を積入れ、郵船会社は少くも毎四週間に一度、第一等級の汽船を出航せしめ、運賃は彼阿会社と同額の一噸十七ルーピーと定めたが、内四ルーピーを割引することゝしたから、約二割五分の低減である。かくて其の十一月七日、郵船会社は広島丸をして同航路の第一航海に上程せしめたのである。
 此の約定締結によつて、我が紡績業者及び棉花業者が、印棉輸入に関して負担し来つた不利益と不便とを一掃することが出来た。是れ実に翁の熱心なる尽力の賚である。此の約定は単に棉花輸入に関するものであつて、且つ契約者も五会社に止り、最初渋沢タタ両氏との間に協議せられた所とは、大いに其の趣を異にするに至つたが、併ながら我が海運史上から見れば、始めて孟買航路の開拓せられたものであつて、誠に一期を劃するに足る重大事実であり、又棉花以外の貿易に於いても、これが為めに大いに発達する機会を得たのである。


第七回定期聯合会議要領[定期聯合会決議要領](大日本綿糸紡績同業聯合会明治廿七年二月十三日開会、同十七日閉会)(DK100037k-0002)
第10巻 p.419-420 ページ画像

第七回定期聯合会議要領[定期聯合会決議要領]
             (大日本綿糸紡績同業聯合会明治廿七年二月十三日開会、同十七日閉会)
  孟買棉花回漕之件
    孟買棉花回漕事務顛末報告
一本件ニ関シテハ、客年八月十日臨時会閉会後、本会事務所ニ於テ、決議要領末項ニ依リ、各同盟員ノ認証ヲ得ルコトニ日夜汲々トシテ怠ラザリシモ、何分同盟員ノ各地方ニ散在スルト、四五会社ノ不同意アリタルヨリ、其認証ヲ得ルニ時日ヲ費ヤシ、終ニ十月二十八日ニ至リ同盟員ノ認証ヲ完了シ、契約ニ対スル委任状ヲ得テ、日本郵船会社ト現今ノ契約ヲ締結スルニ至レリ、依テ常務委員相談委員数次集会協議ヲ経テ決議要領第二十一項ニ指定スル権限ニ依リ施行規則ヲ制定シタリ、同日ヲ以テ各同盟員ヘ頒布セリ
 - 第10巻 p.420 -ページ画像 
一客年十一月七日第一航海船広島丸ノ神戸港ヲ抜錨スルヤ、歓送式ヲ挙ゲ之ヲ祝セリ
一十二月十四日日本郵船会社ヨリ照会アリ、約定書第八条四「ルーピー」ノ割引ナリシヲ五「ルーピー」ノ割引ニ改正致度旨照会アリタルニヨリ、同月十六日附ヲ以テ異議ナキ旨ヲ回答シ、此旨各同盟員ヘ通知セリ
一彼阿会社ニ於テハ爾後大ニ競争ヲ試ミ、従来ノ運賃ヲ低減シ殆ト極点ニ達セントス、因テ更ニ施行規則ヲ改正シ、十二月廿五日付ヲ以テ各同盟員ヘ頒布セリ
一外国商館ノ同盟員トシテ孟買棉花廻漕ヲ為サントスル者ニ対シテ、特ニ之ヲ特約同盟者トシテ同盟セシメンガ為メ、其契約ノ標準ヲ制定セリ
一本件事務取扱ニ関シテ一月九日事務取扱順序ヲ定メ、爾来其順序ニ従ヒ事務ヲ弁理セリ
一客年十二月廿五日付ノ施行規則改正増補ニテハ、尚共同一致ノ基礎ヲ鞏固ナラシムルニ軟弱タルノ感アルヲ以テ、又更ニ本年一月十日付ヲ以テ、改正シ、之ヲ各同盟員ヘ頒布セリ
一本年二月二日本件取扱上ノ為メ書記一名ヲ置ケリ
右客年臨時閉会後事務《(会脱カ)》ノ顛末及報告候也


綿業時報 第二巻・第五号 〔昭和九年五月〕 印度棉輸送の孟買線開始前後の経緯(五)(DK100037k-0003)
第10巻 p.420-422 ページ画像

綿業時報 第二巻・第五号 〔昭和九年五月〕
  印度棉輸送の孟買線開始前後の経緯(五)
    四 孟買航路とピー・オー汽船
 孟買航路の第一船広島丸が本航路に就航後、従来大反対の策動に余念なかつた彼れピー・オー汽船会社の対策上の推移を観るのも亦興味があらう。
 日本郵船会社の広島丸が神戸港を出帆して既に本航路上に勇姿を現はし、ピー・オー汽船大反対の波を押し切つて孟買勇往邁進して行つたのを現実に見たピー・オー汽船会社は、如何ぞ躊躇する所あるべき、先づこれが対策最初の実現として日本諸港―海峡植民地行荷物運賃率の大低減を発表し、更に孟買に於ては棉花・綿糸及阿片の運賃率も半減以上六七割減を実施した。尚本航路の墺国ロイド汽船及伊太利郵船も同様運賃改減をした。即ち賃率表によれば
  棉花及綿糸 孟買より香港行  一噸に付 六留比
   同    孟買より上海行  〃    八留比
    但し同盟船一平積荷主には戻金として右運賃率の二割五分を荷主に払戻すこと。
  又棉花 孟賃より日本諸港行  一噸 正味運賃 五留比
   阿片 孟買より香港行    一函 〃    五〃
   阿片 孟買より上海行    一函 〃    七〃
 外に雑貨類の運賃は日本郵船発表運賃率の半額に減じ、これを荷主に回章した。
 これに対してタタ・ヱンド・サンス商会側の意見として、特に左の如く日本郵船の注意を促して来た。即ちピー・オー汽船会社と運賃競
 - 第10巻 p.421 -ページ画像 
争の得失利害を深慮した結果、事態如此なれば、例令ピー・オー汽船会社に於て如何程運賃の低減あるにもせよ、当方これに対抗して同様の引下を行ふことは、何等の効果もなきは必然である。即ち我れの引下は又彼の一層の引下を誘発し、かくて運賃競争の結果運賃率は底知らずの姿となるが、果して事玆に至れば日本郵船会社の孟買航路のサポーターたる印度棉花綿糸高等《(商)》にとり甚だしき不利を招来することゝなる。即ち彼等は日本郵船にとつては約定荷主である関係上、契約の運賃定額は例令現行運賃率の低減あつた暁と雖も、契約面によつて定率支払を要するに反し、約定外の荷主は競争運賃率を支払つて運賃率の安き方に随時出荷することが出来、多大の利益を得ることゝなる。これは約定荷主の到底堪ゆる所でないのみならず、日本郵船側としても決して利益ではない。
 要するには運賃競争は船会社の利益悪化のみならず、他方本航路の後援者たる大小荷主にとり海外商品市場に於て事業伸展を妨ぐる結果となる。かくては日本郵船側の荷主を失ふ結果となるは必然である。
 果して然らば本航路運賃競争対策としては公然と運賃低下せず、定率以下にては荷受を拒絶し、他面秘密契約を以つて重要大荷主に対してのみ、ピー・オー汽船運賃率を適用し荷物を引受けることにせば、船腹を満たすだけの充分なる荷物を得ること敢て難事とせざるべしとの意見を支持してゐた。
 尚又根本的政策としてはピー・オー汽船への出荷を全部日本郵船に奪取し、玆に始めて競争の不利に目醒ましめるに如かずとなし、これには阿片荷物を日本郵船の手中に取れることが何よりもピー・オー汽船にとり打撃となる《(マヽ)》には、例令一区一留比の運賃に引下げても、出荷主を日本郵船の手中に取り入るれば、ピー・オー汽船にとつて最も有利なる阿片荷物のことであるから、必ずや巨額の損失を来たし、為に日本郵船と協調的態度に変転して来ると信じてよいとの意見を抱いてゐた。
 其間広島丸は明治二十六年十二月十七日孟買出帆復航の途に就き、次で第二船タタ・ヱンド・サンス商会のリンヂスフアルン号が明治二十七年一月五日孟買出帆となつてゐた。此間に処し、ピー・オー汽船会社の運賃政策は如何、爾来東京日本郵船の本社にては対策に没頭しつゝあつた際のこと故、タタ・ヱンド・サンス商会に照会した結果、左記運賃率が判明するに至つた。即ち
 ピー・オー汽船会社の現今運賃率は
  孟賃より香港行 綿糸一噸   四留比六安
          阿片一函   一〃
  孟買より上海行 綿糸一噸   六〃
          阿片一函   三〃
  孟買より日本行 棉花綿糸一噸 一留比六安
 これによつて見るも、僅々数月前に於ては孟買―日本行棉花・綿糸一噸の運賃十七留比一割五分戻付なりしものは、俄然此時に至てドカ落を演じ、十分の一以下なる只の一留比六安に低落したことは、如何に其競争の激甚なる一班を窺知するに足るものがある。
 - 第10巻 p.422 -ページ画像 
  ○本款明治二十七年二月十四日ノ項(第四二三頁)参照。
  ○明治二十六年九月九日ノ所謂「灘万会議」ニ基ク大阪紡績会社以下五会社ト、日本郵船会社間ノ印棉輸送ニ関スル契約ノ締結(約定書取交)、及ビ其後主トシテ栄一ノ斡旋ニ囚ル同年十月二十八日ノ全紡績聯合会関係会社、日本郵船会社間第一回印棉運送契約締結ニ関シテハ、「明治二十六年五月」(本巻第三九四頁)ノ項参照。
  ○尚、本資料第八巻所収「日本郵船株式会社」明治二十七年三月六日ノ項(第一八四頁)参照。



〔参考〕大日本綿糸紡績同業聯合会月報 第一一五号・第一三―一六頁 〔明治三五年四月〕 ○ジエー、エヌ、タタ氏小伝(DK100037k-0004)
第10巻 p.422-423 ページ画像

大日本綿糸紡績同業聯合会月報 第一一五号・第一三―一六頁 〔明治三五年四月〕
     ○ジエー、エヌ、タタ氏小伝
○上略
今や吾人は「タタ」氏の孟買紡績業の拡張に従事したるの経歴を叙したるを以て、更に、同氏の生涯を通して最も花やかなる事業の説及ぼさんとす、何そや、曰く「タタ」氏及日本郵船会社と「ピーオー」、「ロイド」、「ルバチノ」の三会社同盟との間に起りたる運賃の競争に於て、氏並に日本郵船会社のよく之か競争に打勝ちて凱歌を奏し、よく其目的を達したること即ち之なり、蓋し「タタ」氏の経済上及商業上の勝利は多々なりと雖ども、未た嘗て此時程甚しきものはあらす、此競争は運賃戦争と呼れしか「カイゼル、ヒインド」新聞は此競争の起りたる因由を叙して曰く、過去十年間孟買棉花の輸出か非常なる多額を占むるに至りてより「ピーオー」、「ロイド」、「ルバチノ」の三会社滊船は輸出棉花の運賃を独占し其結果当時倫敦孟買間の運賃は非常に低落したるにも拘はらす、孟買より支那及日本に対するの運賃は少しも低落の傾向なきのみならす、却つて「ピーオー」会社は年々其運賃を高め、孟買倫敦間と其距離相等しき孟買香港間との運賃は殆んと比較すへからさる程の不都合なる差異あるを見るに至りぬ、之より先き嘗つて「ロイド」、「ルバチノ」の二会社は共に其運賃を引下けんとしたることありしか「ピーオー」会社か右二会社と同盟するに及んて運賃は全く此等三会社の独占する所となり居りたるに、今や是等同盟者は孤独なりと雖も而かも甚た怖るへき敵と戦はさるへからさるに至れり、其敵とは即ち日本郵船会社か「タタ」氏の誘導及保証に依りて新たに孟買航路を開始したるにあり云々と、郵船会社は其初め日本紡績聯合会と約するに同盟会社の滊船運賃棉花一噸に付き十七留比なるに対し十三留比を以てしたるか、同盟会社は直ちに之に応して俄然其運賃を低落し、遂には一噸僅かに一留比迄に引下けたり、実に此時たるや印度輸出業者に取りては非常の好時期なりしと雖も、郵船会社及「タタ」氏は大に苦心の場合なりと云はさるへからす、当時の「大阪朝日」は記して曰く、孟買より日本に至る棉花の運賃一噸僅かに一留比と云へるか如き低下は、日本紡績業者をして非常なる驚愕を惹起せしめぬ、故に日本郵船会社は若も日本紡績業者か同社の船に対し或る積量を為すの契約を破るに至らは、同社も亦止むを得す孟買航路を閉止せん覚悟なり云々と、左れと幸ひに日本紡績業者は其意思を翻さす、郵船会社亦競争を持続したりしかは、従つて『戦争』は益々激甚
 - 第10巻 p.423 -ページ画像 
となり「ピーオー」会社は遂に郵船会社をして此競争を止めしむるか為め、日本政府に対して政治的圧力手段を執るに至り、又「ローズペリー」卿は時の外相青木子爵に向け、此競争は英国民の感情を害すること頗る大なるへしとの通牒をなすに至れりと伝へらる、此時に当つて日本の新聞紙は、盛に政府に対し郵船会社の此国家的事業に充分の補助を与へよと論し、「タタ」氏亦有力なる雑誌に於て「ピーオー」会社の此競争に依りて受くる所の損失は之を印度の歳入を以て補償するの不法なるを鳴らし、又大に与論《(輿)》を喚起するか為め、或は之を議会に質問し、或は之を新聞紙に登載して、正義なる英国民の思想に訴へたり、氏曰く、余は信す同盟会社等か未た甚た幼稚なる郵船会社を圧倒せんとするよりは寧ろ之を助くるは彼等の義務なりと、千八百九十四年六月、此戦争は歛まりて「ピーオー」会社並に其同盟会社は遂に其運賃を引上け、郵船会社の運賃と同しくなすに至りぬ、同年六月十二日発行の『印度タイムス』は、此競争の結果は運賃の永久下落を来したりと云ひ、十月廿一日の同紙にては此事件に於ける「タタ」氏の尽力に付き次の如き賞讃の辞を述へたり、曰く、日本郵船会社か印度支那日本間の貨物の運賃を低下するの目的を以て始て孟買航路を開きたるの結果は、従来例へは孟買上海間の運賃は一時十七留比に上りたりと雖も、今や僅かに十二留比を出てす、其他香港等に至るの運賃も等しく低落に趣き、之か為め各国の荷主の受くる利益は決して尠少にあらす、各国荷主は須らく日本郵船会社並に日本郵船会社をして此航路を開かしむるに与つて大にカある「タタ」氏に対し、特に感謝せさるへからすと○下略