デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
1節 綿業
4款 大日本紡績聯合会
■綱文

第10巻 p.466-496(DK100044k) ページ画像

明治30年1月(1897年)

是月当聯合会ハ孟買航路開設、印度棉花輸人ニ対スル栄一ノ尽力ヲ謝シ、銀製花瓶一対ヲ贈ル。


■資料

青淵先生六十年史 第一巻・第一〇一六―一〇一七頁 〔明治三三年二月〕(DK100044k-0001)
第10巻 p.466 ページ画像

青淵先生六十年史 第一巻・第一〇一六―一〇一七頁 〔明治三三年二月〕
 ○第十九章 綿糸紡績及織布業
    第一節 緒言
○上略
     謝頒
   一銀製花瓶    壱対
    我与印度。新開航通。綿花雲薈。紡績益隆。
    誰為斯計。是渋沢翁。同業聯合。玆頒厥功。(此ハ花瓶ニ刻付シタルモノナリ)
                  大日本紡績同業聯合会
     同謝辞
大日本紡績同業聯合会諸君貴下、諸君ハ本邦印度間ノ航通ヲ開始シ、棉花ノ需用大ニ便利ヲ得、紡績ノ業随テ旺盛ナルヲ以テ、其功ヲ栄一ニ帰シ、賞スルニ銀製花瓶一対ヲ以テセラル、栄一敢テ当ラスト雖モ其瓶ニ鐫スル所諸君紀念ノ旨復タ以テ失フ可ラス、乃チ恭シク之ヲ領シ、諸君カ国利民福ニ奨励ナルノ公義ヲ永遠ニ伝フヘシ、此ニ蕪札ヲ裁シテ謹テ謝辞ヲ呈ス
  明治三十年一月 渋沢栄一


竜門雑誌 第一二二号・第二三頁 〔明治三一年七月二五日〕 青淵先生朝鮮紀行(森川生)(DK100044k-0002)
第10巻 p.466 ページ画像

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竜門雑誌 第一二三号・第一二―一三頁 〔明治三一年八月二五日〕 青淵先生朝鮮紀行(森川生)(DK100044k-0003)
第10巻 p.466 ページ画像

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渋沢栄一 日記 ○明治三二年(DK100044k-0004)
第10巻 p.467 ページ画像

渋沢栄一 日記
 ○明治三二年
六月廿六日 曇
午前○中略 岩永省一来リ、孟買綿花輸入ノコトニ関シ大坂紡績聯合会トノ談判ヲ詳説ス、依テ意見ヲ加ヘテ之ニ答フ。○下略
七月廿八日 晴
午前○中略 郵船会社岩永省一来リテ紡績聯合会ヨリ発スル書面ノ文案ヲ議ス。○下略

渋沢栄一 日記 ○明治三三年(DK100044k-0005)
第10巻 p.467 ページ画像

 ○明治三三年
一月十九日 晴
午前○中略 佐伯勢一郎来ル、孟買航路補助増加ノコトヲ談ス○下略

渋沢栄一 日記 ○明治三四年(DK100044k-0006)
第10巻 p.467 ページ画像

 ○明治三四年
三月三十日 雨
午前○中略 山辺丈夫来ル、紡績聯合会ノコト及大坂紡績会社ノ要務ヲ協議ス○下略
三月三十一日 晴
○上略 午後四時築地瓢屋ニ抵ル、日本郵船会社孟買航路ニ関シ紡績聯合会ノ委員数名ト綿花積荷運賃ノコトニ付協議ヲ開ク、議了セサルヲ以テ更ニ二日ヲ以テ約シテ再会スル筈ナリ○下略
四月二目 晴
○上略 此日日本郵船会社ニ臨時重役会アリシモ歯痛ノ為メ出席スルヲ得
サルニヨリ書ヲ以テ出席ヲ謝絶ス○下略
四月六日 曇
午後一時日本郵船会社ニ抵リ加藤正義氏ト共ニ商業会議所仲裁委員会ノコトヲ談ス、萩原源太郎氏来会ス、畢テ郵船会社ト紡績聯合会トノ積荷契約案ヲ一覧シ、其協議ヲ為ス○下略



〔参考〕大日本紡績聯合会月報 第一三五号・第三―九頁 〔明治三六年一一月〕 ◎大日本紡績聯合会沿革史(十二)(DK100044k-0007)
第10巻 p.467-472 ページ画像

大日本紡績聯合会月報 第一三五号・第三―九頁 〔明治三六年一一月〕
    ◎大日本紡績聯合会沿革史(十二)
廿八年八九月の交、印度に発したる黒死病は漸次猖獗を逞ふし廿九年に入りて益々激甚を加へ、殆んと熄む時なく、正に風土病たるの観あり、去れは此難を避けんか為め家を挙けて退去する者百千相踵き、之か為め紡績工場の四分の三は半数の職工にて纔に運転し其他は全休業の姿なりしかは、其製額ハ著しく減少し随て支那への送荷は平年に及はさること遠く、且此歳印度に於ける飢饉の疑懼及金融の必迫は、下半季に至り香港印度間の為替相場に変動を来したりしか、十一月に至り北米合衆国に於ける大統領の撰挙は金貨党の勝利に帰して益々銀価を下落せしめ、為替相場は終に壱百六十三留比を唱ふるに及ひ棉糸の価格は大に昇進し、支那取引商は為めに格外の利潤を得たりと雖も、清国輸入商は仕入金の支払に充つへき銀貨相場の下落に会して毎に損失を受け、為めに之を輸入するに躊躇せり、然るに印度棉は近年無比の豊作にして約三割方の増収を報し、価格は大に低落して支那棉に下
 - 第10巻 p.468 -ページ画像 
るに至り、米棉は亦意外にも豊収にして、我紡績の原料は其潤沢に饜き、至廉至適のものを撰みて使用するを得、製額非常に増加したるを見る、乃ち印度糸の虚に乗し従来の独占場たりし香港を首め南清一帯に向け陸続之を輸出し、玆に銷售の新市場を拓くを得たり、此事や前きに日清交戦の為め韓国輸出に意外の利便を享けたるに均しく、実に天恵と称せさるを得さるなり
孟買棉花神戸港陸揚に関しては神戸桟橋会社と数次交渉を重ねたりしか、三十年二月同社と一の契約を締結し一切の取扱を之に委托したり第十回定期聯合会は此年五月下旬に於て開会せられたり、此会に於て中央同盟会は規約改正(此年四月)の結果として、最早聯合会と共に並存するの必要なきを以て之を聯合会へ合併せんとの建議ありしも、之か利害得失に関し熟議研究すへき事目も少なからす、且地方の事情を参酌せさるへからさるを以て、十三名の調査委員に付托し議場は該委員の報告を是認したり、報告の要に云く
委員多数の意向は先つ中央同盟会を此儘存立せしめて、職工交渉の頻繁なる大阪地方と其他の地方との間に於て経費の差等を付せんとするに在り、而して経費の事たる中央同盟会のものなれは、其割合等は次の会議迄に同会に於て取調ふと《(る)》こととし、又両者合併の件は其間の利害を充分調査したる上、相当の所置を為さんとするに在り此会に於て復又規約改正案は提出せられ、主として輸出製糸取締上、其量目又は荷造法に就て規定せんとしたりしも、条目酷た峻刻なるを以て衆議の容るゝ所とならず、僅かに左記一条の成立を見たり、云く会社組織の准会員は五千錘、其他の准会員は二千五百錘の割合により信認金を差出し経費を負担し、其経費の既徴に属するものは退会又は錘数台数を減するも返戻せす
之に尋て又規約第十五条を改め決議要領に追加し、三品取引所仲買人を准会員となし、孟買棉花に検査証を付し之を売買せしめんとの議を提案したりしも、之か為め棉花の売買は或は旺盛なるにもせよ、仲買人全部入会するにあらされは在来の好習慣を破却し、従来の准会員をして不利の地に立たしめ、風波の起る処、本会に累する大ならんとの説ありて之を否決したり、而して相互火災保険に関する協議案は前年以来の提議に係り、其緊要を認むるも調査未た到らさるを以て、宿題として来期に譲り会員各自に於て取調ふることゝし、又営業税法及同施行細則中卸売小売の区域に就ては、名古屋大阪両税務管理局に於て其解釈を異にし紡績業者に及ほす影響少なからされは、之を一定せられんことを其筋に請願せんとの建議案は協議の上其大体を採用し、本会に於て各税務局管轄地方の状況を調査したる後、相当の挙措に出つることに決したり
当時鉄道運輸の業は甚た快速利便といふも、民設に係るものは較々観るへきものあるに拘はらす、官設鉄道に在りては政府に於て未た其説備を完ふせす、大に民間事業の発達と相副はさるものあり、去れは此頃大阪梅田駅のみにても堆積貨物は左の如きものありしなり
 三月中   五千九百四十一噸
 四月中   六千五百十四噸
 - 第10巻 p.469 -ページ画像 
 五月中   七千三百六十七噸
之を各駅に推せは其滞貸幾何なるを知らす、殊に神戸以東名古屋に至るもの及北陸地方に至るの鉄路尤も甚しく、運搬の不便思はさるに出てたり、我紡績業の如き其原棉の供袷に於て其量を充たす能はさるのみならす、製糸の輸送に於て其機を失ひ商摧を誤り金利を失ひ其損害尠少ならす、為めに迂遠の海路を取り時日を費やす多くして且運賃の不廉を忍ひたり、然れとも原料の欠乏と販路の壅塞は到底之を免れす乃ち此会に於て浪華紡績会社の建議に基き、此歳六月三十日付を以て逓信大臣野村靖氏に建白し其疏通を求めたり
本定期総会に於て廃案となりたる輸入孟買棉品位撰択の件に就ては、此年九月開会十日会に於て更らに協議する所あり、又同会に於ては予て三品取引所より各紡績会社に照会せる同所受渡棉糸の洋装造換の事に就き詮議したるも、結局同所の意嚮に不判明の点あるを以て委員三名を撰み、同所に抵りて之を質さしめたり
職工条例は夙に政府の実施せんと欲して屡々躊躇せる所にして、聯合会も亦曾て之が為め当路に請ふ所ありしか、此頃に至り条例発布の議ありて世間専ら其説を伝へたれは、聯合会は其時機尚ほ早きを察し之を中止せられんことを望み、其筋に建議せんか為め一面取調委員十四名を撰み職工事情調査会なるものを組織し、各紡績会社に就き一層精密に職工に係る情態を調査し、一面陳情む《(衍)》委員を挙けて当局者を歴訪し、条例発布の中止を乞はし《(む脱)》ること《(と脱)》し、若し之を得すんは現今営業の妨害にならさる簡易なる条例の発布に止められんことを建議することとなし、之に関する機宜の処置を常務委員長に一任し委員七名は此年十月十九日相率ひて東上せり、越へて十一月十五日に至り報告会を開き好結果を収めたる旨を報告せり、又出張員は其取調に係る事情を復命し尋て其概要を編纂したり、聯合各社職工事情調査書なるもの即是なり
此歳春季は印度の悪疫未た熄ます、紡績工場の休業は依然たりしを以て我製糸は清国に対し印度糸供給の不足を補ひ、斯業創設以来の隆盛を極めたりしか五月以後に至りては銀価の大下落に会し、輸出に困難を感したるや既に大なり、而も北清終航の時期に及ひ棉糸の需用は独り長江の一帯に待たさるを得さるに際し、上海に於ける日歩は五六匁の間を昇降し、必需品の外顧みるものと《(衍)》なく、商況漸次不況に陥るに従ひ金融益々逼迫し上海在七大外国銀行の如き、其在金僅に五十四万両に下り支那各銀行の融通を謝絶したれは、南北市に於ける八十有余の支那銀荘は概ね手形発行を歇め、不渡手形の続出に次ひて是等銀行中倒産せしものあり、市場の公定利子日歩一両を唱へ相対上には二三両といへとも容易に融通を得さるの状況にて、其恐慌は数十年来絶て見さる所なりとす、去れは百般商業の不振其極に達し本邦糸の如き相当輸入あるに拘らは《(はら)》す何人も之を買取るものなく、自然輸出杜絶するに至りたり、之に加ふるに我内地に於ては戦後事業膨脹の結果は前年下半季に彰はれ、市場恐慌の声を伝へ機業地最も不況を呈し、各地の銀行みな前途を想ふて貸出を渋りたりしか、貨幣制度の改革は又端なく棉糸輸出の趨勢に一頓挫を与へたること、往年印度幣制改革の印度
 - 第10巻 p.470 -ページ画像 
輸出棉糸に及ほしたるか如く、今は全く其地を易ふるに至り、内地に於て棉糸は供給過剰を告け紡績業者の困難は漸く甚しからんとし、曩に棉花輸入免除により享けたる五十万円の恩恵は、此等外面の出来事によりて全然之を減殺したれは、当業者は更らに今後に処するの法を講せさるへからす、於是各紡績会社は十二月十日臨時聯合会を催ふし棉糸輸出奨励案及棉糸輸出に関し海外為替の便を計るの件を議したり奨励案の要に云く
 本年十二月二十日より来る三十一年一月三十一日まての間に、棉糸(二十手以下)壱万梱を朝鮮外の邦国に輸出すること
 入札に依り其輸出を引受けたる会員へは輸出奨励金を附与すること
 落札者若し期間中輸出を了せさるときは奨励金二倍の違約金を裸すること
後者に対しては満場一致を以て左の決議を為したり
 我国綿糸紡績業今日の不振は経済界の変動に起因し、国家亦其責任を頒たさるを得す、仍て左の如く決議す
  一委員を撰挙して政府に対し紡績業の現状を陳述し、国家の及ふ限り紡績業の為め資金の融通を謀り、就中輸出荷為替貸金等に就きて充分の援助を唱へ《(マヽ)》られんことを請求すること
  一委員は前項の目的を達する為め必要と認むるときは日本銀行及ひ正金銀行に対し協議を為す事
而して委員の撰定及ひ人員ハ本会の議長及常務委員長に一任すること《(と脱)》なし、其撰に当りたるものは左の八名なりとす
  尾張(奥田正香氏)  玉島(難波二郎三郎氏)
  岡山(谷川達海氏)  鐘淵(朝吹英二氏)
  天織(野田吉兵衛氏) 大阪(佐伯勢一郎氏)
  平野(金沢仁兵衛氏) 河州(俣野景孝氏)
棉糸輸出奨励案に就いては審議の末、調査委員十名を撰挙して之に付托したり、其社名は
 岡山・倉敷・伊予・名古屋・鐘ケ淵・東京・泉州・摂津・福島・三池
なりとす、然れとも本案は自から第二案と貫聯する所あるを以て、金融に関する決議執行の結果に因り更に再議することゝせり、此際又営業税法全廃建議案提出せられたるも緩急自から他案と異なるを以て之を延期したり、此次の会同は輸出奨励に対する紡績業者の挙動として大に世間の注視する所となりたり、去れは当下糸価の暴落を防き猶ほ政府請願の趣旨に副はんか為め、同業者中決然の処置に出て当分操業時間を短縮して製額を減少し、其協約方法は廿三年の例に傚はんとの建議をなすものありしか、地方により区々其利害を一にせす監督の困難にして会々一同の遵奉を得すんハ、之か為めに反つて孟買紡績業者の嗤笑を估はんかとの説あり、且無制裁なる為め議場の容るゝ所とならす、提出者より之を撤回せり、上京委員は直ちは《(に)》装を調へて東上し政府日本銀行及正金銀行の間を往復し、終に大蔵大臣に乞て一万俵に対する香港上海への輸出棉糸為替資金(正金銀行は各地支店の資本金に制限を置きたりしか、三十年に至り支那貿易の声高きに及ひ香港支
 - 第10巻 p.471 -ページ画像 
店に百五十万円(円銀)、上海支店に百五十万両を定給したり)として六ケ月を限り三百万円を極度として之か貸下を得、正金銀行と年利六朱を以て時価弐割五分差し即七掛半(八十円台七半九十円以上七掛とす)の約を締ひ、同業者を憂慮の裏に拯ひ大に其志気を鼓舞したり、而して当時請願及協議したる事情は此歳十二月廿五日をいて《(マヽ)》開かれたる臨時聯合会に於て、上京委員総代たりし佐伯勢一郎氏より詳細議場に報告せられたり此際調査委員は輸出棉糸奨励策に就て報告して曰く
 此度輸出棉糸に対する金融の便を得たるを以て今日は大に輸出の望ありといへとも、前途尚ほ奨励案の必要ありと認む、故に今直ちに調査の報告を為すへき筈なれとも未た其調査完備せす、由て充分調査の上追て提出すへし
と、是れ満場一致を以て是認したる処たりしか鐘淵紡績会社は左の決議案を提出し、同しく満場の迎ふる所となりたり、云く
 明治三十年十二月廿五日開会の大日本棉糸紡績同業聯合会臨時大会は、紡績業不振救済の為め、曩きに選定したる東上委員の報告を聞き、政府当局者並に日本銀行横浜正銀行《(金脱)》に於て本会の希望を容れ、輸出棉糸に対し今日の場合最も必要なる長期荷為替資金の融通に大に便利を与へられたるを謝し、聯合各社は自今一層進んて棉糸の輸出を増大ならしめ其厚意を空せさらんことを期すへし、又本会は東上委員に向て其労を謝し、併せて本件の為め直接間接に助力を与へられたる諸氏に向て其厚意を感謝す
以て同業者の歓喜如何を察すへし、未た幾ならすして上海市場の金融小康を告け、輸出の途差々開けたると共に内地の糸況も漸く衰勢を挽回し来り、活気は三十一年の春天と共に暢発せんとするの象あり、但た経済界の沈衰は日既に久しく金融は依然其渋滞を更めす、此際朝野収済策《(救)》を講して怠らすと雖も、対清為替相場は三月に及ひて猶ほ騰責《(貴)》の勢を挫かさりしなり、然るに他而《(面カ)》に於て清国政府は内地製棉糸に対し課税法を改め、華盛紡織総局官設製のものと同一の取扱をなしたれは、本邦棉糸は上海以外の開港場を経て販売する場合には清国棉糸に比し、半税即釐金税(一両五分)たけ多く負担せさるを得さるに至り、内外の形勢寔に利ならすといへとも、必らす輸出して其銷路を求めさるを得す、斯くて棉糸輸出の逐次に増加するに従ひ金融の利便を望むこと益々切なり、乃ち前清正金銀行《(マヽ)》より融通を得たる資金は未た之を使用せさるに拘らす、今復た清国償金収受の事あるを期し其幾部を割ひて紡績糸輸出資金の充実を補ひ、又之に関する貿易業者外国為替の利便を助けられんことを請願せんとの説あり、三十一年五月六日堺卯楼に開きたる第十一回定期総会の劈頭に於て、福島紡績外九会社より建議案として其意を漏らしたり、而るに之を償金に仰かんとするは穏当ならす、又之に局限すへきにあらさるを以て討議の末、満場一致を以て単に左記の要領を決議せり
 一本会は海外輸出入金融の利便を図る為め委員を撰定する事
 一委員は前項の目的を達する為め、政府其他に向ひ本会の名義を以て請願若くは交渉を為すことを得
 一委員若し臨時総会の召集を必要とするときは、何時にても常務委
 - 第10巻 p.472 -ページ画像 
員長に其召集を請求することを得
而して委員は七名となし、常務委員長の指名に一任し、尾張・岡山・三重・平野・鐘淵の各紡績会社及三井物産会社其撰に当り、且委員長大阪紡績会社は議場の希望により該委員中に加はることゝなりたり


〔参考〕大日本紡績聯合会月報 第一三六号・第三―六頁 〔明治三六年一二月〕 ◎大日本紡績聯合会沿革史(十三)(DK100044k-0008)
第10巻 p.472-474 ページ画像

大日本紡績聯合会月報 第一三六号・第三―六頁 〔明治三六年一二月〕
    ◎大日本紡績聯合会沿革史(十三)
悪棉の排除は従来主として支那棉に向ひて之か厲行を期し、着々実行の結果同国棉に対しては稍々其目的を達せんとせしに際し、印度より漸次粗悪の棉花を輸入し来り、将に其弊に勝へさらんとせり、於是大阪附近の数紡績会社は之が排斥法に就き講究する所あり、明治三十一年四月開会の十日会に提出して決議し終に印度棉花評定規約案なるものを起草し本会に献議したり、其案目の要に曰く、各種棉の標本を聯合会に備へ又予約売買の節は相互立会の上見本を事務所に呈出し、受渡当日の標準となし以て価格を評定せんと、蓋し此間に制裁を施さんとするに在るなり、従来の売買慣習に従れは棉花商は単に依托仲買人たる性格を存するに過きされは、往々にして之ある品質の相違せし場合に於て、紡績業者は之か弁償を要求するの途なく、会も其弊を増長せしむるの状ありたるを以て、即ち売買取引を確実ならしめんか為め此案を見るに至りたりしも、事重大にして棉花商の利害に関する浅少ならされは、終に本会員四名準会員三名の委員を指名し充分の調査熟議を遂けたる後、完全の契約を設くることに決したり
又従来棉糸の受渡期日は予め之を売買者相互の間に約定せるに拘はらす、其期日に至り工程の或は進ますして之を延ふるあり、或は相場の変動より之を受取るを拒む等至つて不規則にして、而も自然例習となり、売買両者迭に損害を被りしこと少なからす、殊に輸出棉糸に在りてハ授受必らす其期間に全ふするにあらすんは、我棉糸の信用に関する所少なからす、輸出貿易上の一阻碍たるへく現に天津上海等に輸出せし棉糸に就き、我輸出商の期日受渡をなすを得さりしか為めに過怠損害の厄に逢ひたる者あり、此等の弊を矯め期日厲行以て自悛の実を挙けんか為め、此定期総会(三十六年五月六日)に於て之に関する契約案を規定し、兼て輸出奨励に資せんとの建議あり、満場之を賛成し議長に於て五名(本三准二)の起草委員を指名し脱稿の後、聯合会事務所より各会員に通知し直ちに実行することに議定せり
彼の棉糸輸出奨励案に関しては亦此次の総会に於て昨年の原案に大修正を加へ、各社努めて其製糸を輸出すへきものとなし、毎俵金七十銭の奨励金を付与することゝし、之に対する費金賦課の方法をも併記して提出し、委員より既に正金銀行の関係もあり今日の場合此儘正案を実行するの機運に向へる旨を報告したりしに、同業者中其製品により又は地方により輸出に関係する所自から厚薄有無ありて、自然一二会員の反対を免れす結局継続案として猶ほ十分調査することゝなし、前委員の辞任を承諾し、更に議長の指名を以て七名の委員を撰定し之に付托したり
斯くて棉糸輸出奨励案は調査委員に於て左の如く修正し、此歳十一月
 - 第10巻 p.473 -ページ画像 
の臨時総会に提出して可決したり、云く
 一将来輸出する棉糸の数量を二十五万俵と見積り、一俵に付き弐円即一ケ年五十万円の奨励金下附を政府に請願する事
一右請願に関する委員は本会役員に一任する事
而して役員は之を請願するに当り如何の処置を執り、如何の結果を得しやは後節常務委員の報告を載せて之を示すへし
香港に輸入する本邦棉糸は、東京及広東を主なる販売地となしたりしか、此歳六七月比より東京は農産物の不作に会して購買力を失し、広東地方は土匪擾乱の為め商勢不況に陥り香港に於ける本邦糸の堆積は八月の初に方り、既に壱万俵に達したりと云ふ、棉糸輸出上此異象に会し同業者は意《(竟カ)》に晏如たる能はす、而も此形勢は十一月に至り渝はることなきなり
先是三十一年九月孟買紡績聯合会々頭は遥に書を本会に寄せ、操業短縮の時機に適せるを述へ孟買各紡績所と其挙措を同しくせんことを勧告せり、我紡績同業者は敢て之に聴くにあらさるも現下の滞糸を減少し、経営問題を解決せさるへからす、由りて夜業休止を為さんと欲し議案として当会に提出したりしか、協議の結果調査委員に附することとなり委員は更らに其趣旨を更めて休日増加となし、議場に諮りたるに多数を以て可決し昼夜業を為す会員の休日は之を増加して一ケ月四昼夜とし、翌年一月一日より実行することゝなしたり、蓋し夜業休止に就きては工業経済上其利害得失を審にする能はさるを以て、姑らく其識る所の休日増加に従ひたるも夜業の休止は勿論、審究の必要あるを以て此際明治紡績会社の建議を容れ、委員五名を撰み取調を了し明年の通常総会に報告すへきこととなしたり、尋て第十二回定式総会の三十二年五月を以て大阪商業会議所に開かるゝや、委員は連署して左の報告書を提出し
第一 夜業廃止利害の問題は最も関係広き問題にして、之か取調を為すには種々の点より観察して利害を判断する必要ありと雖、委員は協議の末、単に紡績会社自身の損益の上より其利害を調査すへしとのことに決せり
第二 委員は調査の方針を右の如く決したる上、充分精密なる調査を為して其報告書を提出せんと期し、更に協議を重ねたるも本問題たるや各社其情況を異にし、従て工場整理の度均しからさるか故に単に利害を判断するも、総ての会社に適合すへからさることを発見せり
第三 委員は前項の次第にて玆に精密なる調査報告書を提出し、利害を断定するの出来得へからさることを知り、寧ろ各社に於て取調へらるゝの適切なる可きを信し簡単なる意見を付し報告することに決議せり
第四 委員の意見にては各紡績会社中、其整理の度に応し夜業を廃止するの不利なるものと不利ならさるものとあるへき見込なり、其程度は各社に於て取調へらるれは比較上容易に利害を判断され得へしと信せり
第五 委員の見込にては夜業廃止の問題起る場合は常に糸価下落して
 - 第10巻 p.474 -ページ画像 
利益なき際なれは、夜業を廃止するの利益なる説、稍道理あるか如しと雖も相当の利益あるへきものとして調査するときは、総ての計算を為し昼業の利益、夜業に対し少くとも拾と七との割合に達せさる内は夜業を廃止するを不利なりと断定せり
且付記して曰く、以上は夜業廃止の利害を直接会社の損益上より打算し且壱梱に対する利益の割合同一と仮定し、意見を述へたるものにして、糸価恢復等一時の救済策より立論したるものにあらすと
又輸出棉糸に対する奨励金補助請願の件に就きて、常務委員より其顛末を報告して云く、爾来委員に於て数度上京、其筋に対し内意聞合せたる処、目下国家の費途多端にして容易に許容すへき義にあらさるか故に、斯る至難の問題を提出して之か運動を為さんよりは、寧ろ輸出棉糸に対する資金の充実を図り時機の到るを待つに如かすとの事を確認したり、仍りて専ら輸出棉糸に対する資金融通の事に鞅掌せし結果日本銀行より低利の資金を横浜正金銀行へ貸付け、此内に就きて斯業者に融通せしむることゝなれりと、於是同業者は輸出棉糸に係る資金に就き積日の困難を一掃し、又同業者反目の動機を減却し得たるに幾かし
然るに前年(三十年)来米棉の豊収にして価格の低廉(百斤十八円に下りたり)なりしと印度棉の又此勢に圧せられて廉価なりしは、大に我紡績の生産費を減することを得て経営に余地を与へしは顕著なる事実にして、之か為め輸出奨励の気勢を殺きたるの状なきにあらす、中央同盟会の存立は寧ろ事務を繁褥にするに過きされは、之を聯合会に合併することゝし、聯合会規約に修正を加へその付則となさんとの建議は三十一年十月に於て中国各紡績会社より提出せられ、大阪附近各紡績会社の同意する所となりしか、後形勢一変更らに歩を進めて此際之を廃止せんとの議あり、終に前年末の臨時総会に於て同会を解散するの決議をなすに至りたり、然るに此間に一種の感情は各地の聯合会員中に流伝し、大阪に中央紡織同盟会組織せられ、尾勢地方に東海紡織同盟会なるもの設立せられ、事意外に出てたり、於是感情の益々衝突せんことを恐れ之を融和せんか為め、第十二回総会に当り中国各紡績会社より旧中央同盟会規約に修正を加へ、聯合会の付則となさんとの建議をなしたりしも、情勢既に旧時と同しからす、適々以て其反目を激するの媒たらんとするの状ありしにより遂に之を撤回したり


〔参考〕大日本紡績聯合会月報 第一三七号・第七―九頁 〔明治三七年一月〕 ◎大日本紡績聯合会沿革史(十四)(DK100044k-0009)
第10巻 p.474-476 ページ画像

大日本紡績聯合会月報 第一三七号・第七―九頁 〔明治三七年一月〕
    ◎大日本紡績聯合会沿革史(十四)
明治三十二年五月第十二次定期総会に於て三十年度の収支決算を報告するに方り、之を調査委員に付せんとの議あり、是れ実に異数の説なり、其意に云く一は予算編成上の材料となし、一は当局者の信用を確実にするに在りと、適々此建議は少数にて消滅したりといへとも情勢揣摩に難からさるなり、尋て規約改正案は仮決議の認否に付議論発生したりしか、之を調査委員に托するに方り委員は融和の精神により緊急動議として提出したり、議場は之を容れたるも議事の進行上更らに之を委員に付托することゝし、新に尾張・知多・平野・福山・和歌山
 - 第10巻 p.475 -ページ画像 
の五会社を委員に撰みたり、委員は相会して之に修正を加へ最も簡実のものとなし議場に報告せり、議場は之を歓迎し全会一致を以て之を議決したり、今其改正に係る主要の節目を挙くれは左の如し
 常務委員を廃して会頭及副会頭を置き、評議員を増して十二名(二名増加)となすこと
 会頭は法律顧問を聘用し又は本会の事務を執行する為め、嘱托事務員を置くことを得ること
 信認金其他本会収納金円は総て之を日本銀行に預け、其引出を為すにハ会頭並に理事の連印を要すること
等是なり、於是役員を改撰し左の十二会社当選せり
 大阪・平野・尼崎・三重・岡山・福島・倉敷・鐘淵・日本紡・摂津・金巾・尾張
而して互撰の結果、平野紡績会社会頭に当選したるも社長の会沢仁兵衛氏重患の故を以て之を固辞したるを以て、次点者たる岡山紡績会社当選したるも是亦社務忙劇を辞とし之を辞したるにより、大阪紡績会社之に当り旧常務委員長佐伯勢一郎氏其任に上りたり、而して副会頭は福島紡績会社之に当選し、取締役渾大防芳造氏其職に就きたり、此際旧常務委員長及其他の役員に慰労金寄贈の議あり、満場一致にて之を可決し、其方法等は新役員に一任することゝせり
孟買委員も亦改撰を行ひ左の十会社当撰せり
 岡山・大阪・三重・平野・錘淵《(鐘)》・尼崎・金巾・三井・内外・日本
従来孟買委員の在任期は一ケ年となし郵船会社の契約と終始するの規定にして、その契約期限延長したるに及ひ、数年を通して在任するを見、爾来一二欠員あるも之れを補はさりしか、於是改撰を行ひ其数を充したり、又孟買委員として棉花商纔に一名を入れて同業者を代表せしめたりしか、其平を得さるを叫ふもの往々にして之れあり、此会に於て半数の委員撰出の説ありしも其議成立せす、前記の如く三名を出して之れに列せしむることゝなりたり
明治三十一年棉花業者は相結して日本棉花同業会なるものを組織したり、此会の成立するや棉花商は最早聯合会の准会員として加盟するの要を認めす、随つて従来聯合会にて取扱ひたる孟買棉花回漕の事務は之を新団体に引渡すへしとの議を唱へ前年の臨時聯合総会に提出せられたりしも、規約改正の論議に妨けられ纔に仮決議として存したりしか、此会に及んては其趣意を変し建議案として提出したり、調査の結果左の二項を決議要領に追加することゝなし之を可決せり
 一本要領中同盟棉花商は大日本棉糸紡績同業聯合会の准会員及特約同盟者にして、日本綿花同業会員たる者を云ふ
 一大日本棉糸紡績聯合会の利害に関し、日本棉花同業会の決議にして害あらは孟買委員の決議により改正すへきものとす
  但日本棉花同業会の決議は大日本棉糸紡績同業聯合会に通知するものとす
於是決議要領中第十四項但書は削除することゝなし、又要領中修正の個条其他実施期日等は新役員に一任したり
其他臨時会議案として岡山外十六会社より提出せられたる左の四件は
 - 第10巻 p.476 -ページ画像 
異議なく可決し、実行に関する手段方法の一切は亦之を新役員に一任することゝしたり
 一亜米利加航路に付政府及当業者へ交渉の件
 一北清航路拡張の方法を講するの件
 一棉花売買契約書を調製するの件
 一明治二十二年法律第二十号の改正及明治二十九年法律第十八号に依り定むへき港の増加を請願するの件
此会に於て聯合会は内事務の緊粛を謀ると共に外事業の施設を画したるものにして、時勢の促す所爰に機軸を一転し世と相推移するの挙に出てたるなり
 本会沿革史号を追ふて記述すること玆に拾四回、以下最近の事実に属し各自の記臆に新たなるを以て、一先つ本篇にて筆を擱くことゝなせり


〔参考〕杜峯丁丑随筆 (庄司乙吉著) 第一六六―一八一頁 〔昭和一二年一二月〕(DK100044k-0010)
第10巻 p.476-481 ページ画像

杜峯丁丑随筆 (庄司乙吉著) 第一六六―一八一頁 〔明治一二年十二月〕
    紡聯の五十周年を語る
 紡績聯合会の既往を跡づけることは、取も直さず我が国綿業の飛躍的発展史を辿ることに外ならない。周知の如く我国の綿業は其の輸出数量に於て断然英国を凌ぎ世界の王座を占め、昨年中○昭和一二年の綿布輸出高は実に二十七億碼といふ他の追随を許さぬ巨額な数量を示したのである。これ一に我が綿業者がその積極進取の気象と協和の精神とを以て不断の努力を続け幾多の困難を克服した結果である。我が国最古のカルテルとして、我が国綿業の主流を導いてきた紡績聯合会が、五十周年を迎ふるに当り、此の事実を想起して転た欣快に堪えないものがある。
 我が洋式紡績業は、幕末、薩摩藩主島津公が薩南の地に之れを創めたに濫觴を発する。其の後朝野の先覚者が斯業の有利なるに着目し政府も亦之を保護奨励したため、各地に紡績工場が起こり苦心惨憺経営これ努めたが容易に採算的事業たるを得なかつた。
 明治十年西南役の後、物価の騰貴著しく、為めに外国綿糸の輸入を誘致し、綿服常用の我が国としては是非共之れが輸入を防遏せねばならぬ必要に迫つた。当時我国の紡績工業は頗る幼稚で、その紡出せる綿糸は整斉・強力・光沢等に於て到底輸入糸の敵でなく、仮令物価が安くなり経済状態が回復しても、この儘に放置しては綿糸布の輸入減少は到底望まれない状態にあつた。偶渋沢子爵其他の主唱により最新の技術と経営とによる紡績会社を新設するの議が熟したが、之を実行するに当つて適当な技術者を得るの困難に打突かつたのである。当時其選に当つたのは英国に留学中の山辺丈夫氏であつた。山辺氏は渋沢子の依嘱を受くるや、終生を綿業に委ぬるの決心を堅め刻苦精励、紡績の技術を習得し、明治十二年七月帰朝し、同十五年四月地を大阪三軒屋に卜し大阪紡績会社の三軒家工場を創設したのである。幸にして山辺氏を始め創業当時の人々が、心血を注いで努力した結果、優良な製品も出来、採算もとれ事業が次第に隆昌に向つたのである。これが近代的紡績工場の元祖であると見てよからう。
 - 第10巻 p.477 -ページ画像 
 明治十九年には我国における紡績工場数は二十個処に達し其据付錘数は七万一千六百四錘となつたが元より微々たるものであつた。紡績聯合会が内容改組の声に促がされて名称を大日本綿糸紡績同業聯合会と改め、規約三十六条を定め今日の基礎を据えた明治廿一年には、工場数は廿四、錘数は十一万六千二百七十六錘となり、同業者間の競争は弗々表面に現はれ、業界は漸く多事ならんとした。此の時定められた規約は、廿二年の定期総会に於て団体の結合を鞏固にするため大なる修正を加へられ、更に廿三年五月、盟外者を掣肘のため、再度の修正を加へ常任委員三名を置き諸般の要務を執行することゝなつた。当時委員に当選した会社は大阪・尾張・天満の三社で、互選の結果大阪紡績会社が委員長に推された。
 明治廿三年には工場数三十、据付錘数廿七万七千八百九十五錘に達し、一ケ年の製産高十万四千八百卅九梱に上つた。此年、経済界の不振甚だしく、紡績事業も其影響を蒙り著しく難境に陥つた。かくて我が紡績業が漸く生産力を増し始めた矢先に、経済不況のため忽ち供給過剰の大問題に逢着したのである。そこで当業者は同年五月東京に於て協議会を開き、斯業救済について凝議を遂げ、同年六月十五日から向ふ三ケ月間、一ケ月につき定期休業日を八昼夜となすことに決議した。これが紡績史中に特筆すべき最初の操短決議である。果然此製額制限は予期の効果を奏し、実行未だ幾くならずして早くも市況が回復した。
 明治廿一年迄漸増の傾向を辿つた外国綿糸の輸入は、累年躍進を続けた我紡績業に押されて爾来漸次減退しはじめたが、明治二十三年には尚未だ十万六千三百六十一梱の輸入を示してゐた。一方内地における綿糸の供給過剰は、海外に販路を求むる熱心な運動となり、此処に対支輸出の端緒が開かれたのである。尤も同年中の輸出額は、朝鮮向を幾分含んで僅かに三十一梱といふ殆んどいふに足らぬ額であつたが其後連年増進し支那関税報告によれば明治二十九年には已に三万一千梱に激増して居る。これに関聯して起つたのが、綿糸輸出税及綿花輸入税の撤廃問題である。綿糸の過剰生産は内地の消費が増加せざる限り、そしてそれが多きを期待せられない以上、之を海外に捌く外に途がないのであつて、操短の如き消極的手段に偏依することは将に伸びんとする我が紡績業者のとるべき途でなかつた。海外に販路を拡張するためには極力製品のコストを低下せねばならぬが、棉花輸入税と綿糸輸出税とにより大なる製肘を蒙つたのである。
 原料棉花は紡績工業の創始時代には内地産棉花で事足りたが、間もなく支那棉花を輸入して使用する様になり、次いで印度棉花の輸入が行はるゝに至つた。一方内地産棉は農業経済上不引合のため、減少に減少を重ね殆ど絶滅の状態に瀕した。かゝる情勢下に於て我国としては極力安い外棉を手に入れねばならぬ必要に迫まられたのである。
 かくて紡績聯合会を中心とする両税撤廃運動は、かなり活溌に開始され、屡々当局に請願を重ねたるが、条約改正問題等に関聯して容易にその容るゝところとならなかつた。しかし聯合会理事者は不屈不撓の運動を続け、朝野の輿論を喚起するに努めた結果両税廃止案は遂に
 - 第10巻 p.478 -ページ画像 
法律案として衆議院に提出せられ、綿糸輸出税は明治二十七年七月、棉花輸入税は同二十九年三月夫々撤廃せらるゝに至つたのである。明治二十五年に三万斤、同二十六年に僅か三十余万斤よりなかつた綿糸輸出が、輸出税が撤廃された二十七年に至り一躍三百五十三万斤に達した事実に見ても、如何に此税の撤廃が綿糸の輸出促進に効果ありしかを看取し得らるるであらう。
 当時日印間の航路は英国ピー・オー会社の独占する所であつたが、印度棉花の需要激増につれ、同会社の跋扈跳梁甚だしく、当業者は尠からず不便を感じた。こゝに於て日印両国間の運輸機関を改善整備し棉花の輸入を自由且つ円滑ならしむることが、当面の急務となつた。
紡績聯合会は起つて本問題の解決を決意し、渋沢子爵の斡旋尽力を得て一面孟買の豪商タタ氏と提携すると共に、他面日本郵船会社と屡次の交渉を重ね遂に明治二十六年十月同社との間に協定が成立し、此処に始めて同社所有船舶によつて、印棉の回漕が開始されたのである。
その第一回船は広島丸で、同年十一月印棉積取のため、日章旗を檣頭高く掲げて孟買に向け神戸を出帆したのである。
 明治二十七・八年戦役は、我が紡績業に多大の好影響を齎らし斯業は竪実なる歩調を以て発展を遂げた。更に印度におけるペストの流行は孟買紡績に甚大の打撃を与へ、印度綿糸の対支輸出の激減は我綿糸の支那進出に絶好の機会を供与した等の事情から、紡績会社の新規計画が簇出して会社数は明治二十七年の四十五社より同三十一年には七十四社に達し、錘数は四ケ年間に六十一万六千余錘を著増して百十四万六千余錘となつた。しかし日露戦役直前に至りて斯業は再び困難な事情に見舞はれ、著しく萎縮した。即ち明治三十七年上半期は、原棉から云へば、前年以来米棉の不作とサリー氏買占めの結果相場が著しく奔騰し、一封度最高十六仙以上となり、綿糸から云へば経済界の不振と、戦争案じの為め需要は頓に減退し、加ふるに、北清一帯の需要が全く杜絶した等の原因から、全体の輸出高に於て、正に三・四割の減額を示さんとする状態であつた。かくて糸価は低落に低落を重ねて動もすれば生産費を償ふに足らぬ程な激落を告げた。紡績業者にとつては何一つ有利な条件は見出すことが出来なかつた。紡績聯合会にては各自相警め任意に操短を行ふ事とし、只管前途の成行観望の態度に出たが、同年下半期に入り形勢俄然一変し楽観的情勢は期せずして集中した。即ち、サリー氏の没落、原棉の暴落、戦時需要の激増等々を原因として、業界は遽かに生色を吹き返したのである。
 日露戦役中一つの重大な問題が、露国の手によつて投下せられた。即ち明治三十七年五月中、露国が棉花を戦時禁制品として宣言したことである。然るに世界の列強は之に対しても抗議を提起せなかつた。該宣言もバルチツク艦隊の東航が実現するまでは、単なる空文に過ぎなかつたが、バルチツク艦隊の東航実現と共に問題は現実性を帯び重大化した。此の時バルチツク艦隊と呼応して活溌な活動を開始し、本州の沿海を横行した浦塩艦隊の手によつて棉花を績載した英船カルチユアス号が拿捕せられたのである。棉花の戦時禁制品問題が重大となるに及んで、我が業者は棉花輸入の前途を懸念し、棉花の買入れを急
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き、明治三十七年下半期においては、内地在荷高約五十万俵といふ当時にありては驚くべき巨額に達した。バルチツク艦隊が日本海に殱滅されるまでの約半歳は、該宣言は世界の海運・保険・貿易業者にとつり《(て)》大きな恐怖であつた。明治三十七年七月上旬露国高等捕獲審検所は拿捕船カルチユアス号に対し「同船に搭載した棉花及び材木は戦争用のため積出されしものなるを以て之を没収す」といふ最終的決定を与へた。紡績聯合会は其不法を指摘し、我外務省に対して適宜応急の処置に出でられんことを要望したが、戦時中のことゝて当局も施すに策なく、兎角する中に平和が克復したのである。
 前述の如く卅七・八年戦役の勃発は、困窮裡に沈淪せる我が紡績業に一脈の生気を与へたが、明治四十一年には早くも反動的不景気に見舞はれ、斯業は操業短縮の継続に忙殺され会社の整理合併が引続き行はれて、会社数は明治卅七年の四十九社から、同四十二年には卅一社に減少した。かくて操業短縮の継続も容易に局面を好転することが出来ず、僅かに明治四十二年五月より同年九月に至る五ケ月間、辛うじてその撤廃をみたに過ぎなかつた。
 大正三年東欧の一角に放たれた一発の銃声は、やがて全欧を砲煙弾雨の中に埋めることゝなつたが、我が業界が欧洲大戦の好影響に浴し始めたのは、開戦後二ケ年を経過した大正五年の春からであつた。戦争は容易に終熄せず、ために船腹の不足を来たし、欧洲製品の東洋輸出は殆ど杜絶の状態に陥つた。此処に於て英領印度・蘭領印度其他の各市場に於て、本邦綿製品に対する需要を喚起し、価格躍騰の結果各紡績会社は何れも相当の利益を博し得たのである。業績の良化、株価の躍進は必然的に事業熱を刺戟し、新会社の創立、既設会社の拡張相次ぎ、大正六年より反動的恐慌が襲来した同九年に至る僅々三ケ年の間に新設計画は百四十六社、拡張会社は五十六社を算したのである。当時我が国の紡績機械は悉く之を海外、殊に英米に仰ぎつゝあつたが英国を初め交戦諸国は紡績機械の輸出を禁止し若くは制限を行ひたる為め拡張計画は遂行難に陥り、新設計画の多数は放棄の止むなきに立至つた。此の事実は痛く業界の覚醒を促し、機械製造業者の発憤となり、従来主として部分品の製造に従事してゐた機械製造業者は、紡績機全部の製作に力をそそぐことゝなり、かの豊田式自働織機の如き優秀なる機械の現るるに至つて、漸く此の方面に於ける海外依存の陋習を脱却するを得たのである。
 更に欧洲大戦を契機とする貿易方面の変化に目を転ずると、綿糸輸出は一転して綿布輸出に向つたことが窺はるゝ。我綿布輸出が今日世界市場を席捲するに至つたのは全く欧洲大戦の賜といつてよからう。当時綿布の重要輸入市場は、英国を初め主要供給国との接触を遮断され、勢ひ他国より代用品を求むるの必要に迫られたので、日本は恰かもその代用品を供給すべき唯一の新興綿業国として立つたのである。斯くて我が綿布輸出は大正二年の三千三百万円より同八年には約三億万円といふ驚くべき飛躍を遂げたのである。
 戦乱が収まると共に英国は俄然捲土重来の勢を以て旧市場の回復に乗り出し、此処に我が国との間に、劇烈な競争が開始されたのである
 - 第10巻 p.480 -ページ画像 
が、その結果は遂に日本の勝利に帰した。需要地に接近して居ること混棉の特技と操業の合理化とによつて品質の割合に価格が低廉なこと等は、日本品の非常な強味として数へられる。
 欧洲大戦は我綿業に躍進の機会を与へたが、其の急激なる膨脹は、戦後に於ける深刻なる恐慌の一素因ともなつた。大正九年三月株式市場の暴落を導火線として各種商品は一斉に低落した。綿糸布も勿論之に追随して惨落を続けた。斯くて綿糸布商は手持品の値下りと、荷捌不能に因る在荷激増と、代金支払難の為めに、異常なる苦境に陥り、綿業界は混乱状態を呈するに至つた。紡績聯合会は綿糸商の懇請により、五月十日より向一個月六昼夜休業の操短を実施したがそれのみでは到底混乱を鎮静に帰せしむる事が出来なかつた。斯くて五月末に至り綿糸の輸出増進により斯界を安定せしむるの議が熟し、綿糸輸出シンヂケート団の成立を見るに至つた。その際紡績聯合会は該シンヂケート団に対し損失の半額を補償することを約したのである。之が為め紡績聯合会の負担は八百万円以上の巨額に達したが、兎に角此等の応急措置により未曾有の難局を切抜けたのである。
 大正年間に於ける最後の災厄は、大正十二年九月の関東大震災で、紡錘九十余万即ち当時の紡績総錘数の約二割を一朝にして喪失したことである。併しながら翌十三年末には震災によりて失ひし処を回復せしのみならず、震災前に比し約五十万錘の増加をすら見るに至つたのである。
 昭和に入つてからの諸問題に就ては、未だ世人の記憶に存するが故に、詳述の要なからう。唯昭和四年七月一日より実施された深夜業の廃止は、就業時間の短縮による生産減少により、本邦紡績事業の休戚に大なる関係を有するものであつたが、当業者は予め周密なる用意を以て準備を整へたため、其の影響は殆んど問題にならなかつた。
 越えて昭和五年二月十五日より第十一次の操業短縮が開始され、爾来延長に延長を重ねて現在に及んで居るが、斯かる長期間の操短は従来に例がないのである。
 大日本紡績聯合会は既述の通り非常に古い団体であつて、斯業の健全なる発達の為めに凡ゆる努力を尽して来たのであるが、従来その取扱つた問題は主として国内的のものに限られたのである。然るに最近に至り日本の紡績業は、世界にその覇を唱ふるに至ると共に、世界の政治経済状勢も著しく変化し、紡績聯合会の使命は此処に一大飛躍を見るに至つたのである。即ち世界大戦以降の世界経済の混乱、殊に一九二九年勃発の世界恐慌は、各国をして程度の差こそあれ、等しく経済的鎖国主義に赴かしめた結果、通商貿易上の障害は世界各地に続発するに至つたのである。而も斯かる傾向の中に、我綿製品の輸出は躍進に躍進を続け、先進国たる英国をも凌駕したため、我綿製品は世界の各市場に於て物議の中心となり、日印会商をはじめとして、日英・日蘭・日埃・日米等の諸会商が、僅か四年余りの間に失継早やに繰返されたのである。日印会商は此種経済外交の最初の試みであり、且つ印度は我国綿布の最大市場でもあるので、我々当業者は政府当局との協調を保ちつゝ交渉の成立に最善の努力を尽したのである。殊に会商
 - 第10巻 p.481 -ページ画像 
継続中、印棉不買を断行して印度側の心胆を寒からしめたことは、紡績聯合会を核心とせる業者の結束の如何に鞏固なるかを如実に示すものである。
 其後引続き日英・日蘭・日埃の諸会商あるごとに、代表を遠く倫敦に或はジヤバに送つて交渉の衝にあたらしめたのである。本年一月大阪に於て開催された米国との綿業交渉は、民間当業者のみの間で行はれ、而も両者満足の裡に極めて短時日を以て成立したのであるが、此種経済外交の新例を作つたものと云ひ得よう。

図表を画像で表示--

  過去五十年間 本邦紡績錘数増加之趨勢  明治廿一年・卅一年ハ十二月末現在、其他ハ…六月末現在     一一六、二七六   明治廿一年   一、一四六、七四九   明治卅一年   一、六一一、七四二   明治四十一年   二、八一六、〇三一   大正七年   五、九二九、六一四   昭和二年  一二、〇一八、一九二   昭和十二年 



 紡績聯合会は従来我国紡績会社の殆んど全部を網羅して業界の統制にあたつて居つたのであるが、遺憾ながら未だ之に加盟せざる一部少数の紡績業者があつたのである。然るに海外市場に於ける我綿製品に対する圧迫は、内に於ける業者の鞏固なる結束を促がし、昨年八月に至り遂に全部の加盟を見るに至つたのである。本邦最古の生産カルテルとして、又業者の統制機関として、我国の紡績事業をして今日あらしめた大日本紡績聯合会は、今や本邦紡績業者の全部を網羅せる名実共に完全なる統制機関として、統制経済万能の今日、多年其の誇とする自治統制を以て益本邦産業の向上発展に資すべきである。
                    (昭和十二年六月十五日稿)


〔参考〕開国五十年史 下巻・第七〇七―七〇九頁 〔明治四一年二月〕 【○会社誌第三章 第四節 紡績事業 (男爵 渋沢栄一述)】(DK100044k-0011)
第10巻 p.481-482 ページ画像

開国五十年史 下巻・第七〇七―七〇九頁 〔明治四一年二月〕
 ○会社誌第三章
  第四節 紡績事業 (男爵 渋沢栄一述)
     棉花運質の低落
○上略
又是より先き、輸入棉花運搬費の低廉を計るが為に、明治二十六年紡績業者相聯合して日本郵船会社と交渉し、印度より輸入する棉花は総べて之を郵船会社に託し、郵船会社は之に酬いて運賃を低廉にするの条件を以て協約を締結し、終に孟買航路の開通を見るに至れり。抑々此事たるや、孟買の商人ターター氏来朝し、彼阿会社航路独占の弊害を慨し、日本に於て新に航路を開始せんことを希望したるに起因し、爾来紡績業者と郵船会社との交渉となり、余も亦初めより其協議に与りて聊か斡旋する所ありたり。然るに彼阿会社の之を聞くや、其歴史上の既得権を侵害し、宛も人の畑に鍬を入るるが如しと為し、特に其代表者を本邦に派遣して、我航路開始の計画を中止せしめんと努力し、余も其訪問に接して之を会見したるに、其説く所一に私利を擁護するに偏し、眼中復経済の原則なきものゝ如くなりしを以て、余は憤然大に之を論破したることありたり。而して郵船会社は従来彼阿会社の運賃一噸十七『ルービー』なりしに対し、其運賃を十二『ルービー』
 - 第10巻 p.482 -ページ画像 
と定め、弥々孟買航路を開始したるに、彼阿会社は一撃の下に之を破砕せんと欲し、酷烈なる競争を起し、其運賃を八『ルービー』に引下げ、更に一『ルービー』半にまで引下げたり。蓋し斯の如く無賃に等しき運賃を定めたるものは、日本に対する積荷は特約に基き、大抵郵船会社の取扱ふ所となり、実際之を彼阿会社に託するものなきを信じ、且つ此驚くべき声言により、我紡績業者の聯合を瓦解せしめんと欲したるが為なるべし。然れども此法外なる運賃は勿論一時の権略に過ぎずして、若し郵船会社にして航路を中止せば、再び非常に運賃を引上ぐべきや明かなり。故に我紡績業者は彼阿会社の詭謀を看破して益々其聯合を鞏固にしたるを以て、彼阿会社は遂に其競争を中止したり。而して之が為に棉花の運賃低廉となり、紡績事業に便益を与へたるのみならず、海運事業に於ても一層の進歩を来したるは、大に喜ぶべきなり


〔参考〕大日本紡績聯合会紀要 緒言(DK100044k-0012)
第10巻 p.482-484 ページ画像

大日本紡績聯合会紀要
    緒言
大日本紡績聯合会は、明治三十五年十月廿八日新に改称する所に係り、其前大日本棉糸紡績同業聯合会《(綿)》と呼び、明治二十一年来此称を用ひたりしが、更に遡りて明治十五年十月之を創設したる際は、単に紡績聯合会と唱へ、実に時の農商務省直轄愛知紡績所長岡田令高氏の主唱に成る所にして、氏は当時地方興産の諭旨を奉じ、各地に設立したる紡績工場の経理者が此利害共通たるべき事業に対し、秦楚相関せざるを憾となし、相互扶済して斯業の振暢を図るが為め、檄を移して其会同を促したり、於是同業者袂を連ねて来り会し各自盟を入れて本会は玆に設定せられたり
爾来六星霜、歳次会同を重ねたるも、主として其交を敦ふしたるのみ、明治二十一年に至り前年来各地に建設せられたる紡績工場少なからず、競争の端漸く啓き、我紡績業の発達を阻害せんとし、殊に同業者の前面に横はるの問題漸く滋からんとせしを以て、同業約束の必要を感じ、大阪玉島及尾張の三紡績会社首唱となり、更らに各社に移牒して其来会を求め、爰に聯合規約三十六条を協定して其目的を明にし、信認金を徴し、経費を課し又制裁を設けて規約の格守を責め、同時に幹事を置きて一切を掌理せしめたり、此会同たるや当初より正に第六次に属すといへども、聯合会史上にては一新紀元を作りたるものにして、其活動の姿態より観れば、寧ろ之を創立と言はざるべからざるなり、而して此時推されて幹事の任に膺りたるものは、大阪紡績会社の山辺丈夫氏にして、之が候補たりし者は玉島紡績所の難波二郎三郎氏なり、山辺氏は乃ち局を其社内に設け庶般の事務を督弁したり該規的は二十二年の定期集会に於て聯合の団結を鞏固にするが為め、大に修正を加へ、二十三年五月盟外に在る者を掣肘せんが為め、再び之に修正を施し、幹事制度の如き之を廃して委員組職となし、常任委員三名を置き、諸般の要務総て商議の上之を執行すべきものとなしたり、当時委員に当選したるものは大阪・尾張・天満の三社にして三社互選の結果、推されて委員長となりしものは大阪紡績会社なり、此際
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委員会商の便宜を図り、新に事務所を大阪市今橋一丁目に設置したり然れども委員の如き既に一社を担当する者は余間の他に及ぶなく、規約又は約束の往々にして其厲行を得ざるものあり、又輸入棉花関税免除其他に係る請願委員の如き、規約上其選を辞する能はざるを以て、空しく其名を掲ぐるものあり、会務の進捗甚だ期し難かりしかば、此歳○明治二三年十一月臨時総会に於て専務者を置き執行の任に膺り、委員長と相待つて会務を料理せしむることとなし、之を理事と命名したり、而して其責の大にして其任の重き、必らず其人を得て之れに衝らしめんと欲し、大に其選任を慎み、先づ選任委員七名を挙げ常務委員と籌議して之を選定せしめたり、此際其選に当りたる者は尾張紡績会社商務支配人にして、本会の創設者たる岡田氏なり、氏固辞するも可かず竟に十二月初三を以て就任せり
此総会に於て議題たりし悪棉排斥、棉花輸入税免除請願及綿糸販路拡張の諸案は又端なく棉花商及綿糸販売商を迎へて我会員となすに至り三井物産・内外棉・日本綿繰の三会社先づ入会し、尋て大阪綿糸商組合之に加盟したり、聯合会は之が為め規約を改め、此新来盟の会員に付するに准会員の名を以てしたり、是れ同業会員に対し之を別つに出でたりと雖ども、其負担に於ては経費の幾分を課するのみにて、信認金を徴せざりしなり
常務委員の任期は一年なるを以て、廿四年○六月一五日於大阪定期総会に於て改選を行ひ、大阪・金巾・平野の三社之に当選し、大阪紡績会社は互選の結果として復た委員長の綬を受けたり、蓋し、尾張紡績会社の衆望を荷ふの深き、既に又推選の議ありしか、代表者奥田正香氏は遠隔の地常務を視る能はざるの故を以つて之を辞したるに由り、特に大阪附近の会社中に選びしものにして爾来久しく其例を伝へたり
二十四年十月理事岡田氏の東京よりの帰途、名古屋に客次するや、卒然疾に冒され、復た起つ能はず、同業者は其の訃を聞き、好理事を喪ふたるを追惜せざるなく、相聚つて歛葬の事を畢へたり、岡田氏逝て後、委員長は委員と交替して事を視、以て二十五年八月第五回定期総会に至る、此会に於て金巾外六社の選定を以て菅沼政経氏を挙げて理事となしたり、氏は籍を自由党に置き、実業の関係踈薄なるも春来請願委員の代務者に聘せられ、綿糸棉花の関税免除に関し東奔西走、終に法律案として衆議院の議事日程に上らしめたる功労を多とし、猶ほ爾後氏の力を藉らんが為め強ひて其就任を求めたるなり
又常務委員は此回に於て金巾・平野の二社退きて天満・摂津之れに代り大阪紡続会社《(績)》は旧に依り委員長たりしが、山辺氏退ひて取締役佐伯勢一郎氏之を代表したり、而して委員は期満ちて尼崎・泉州の二社之に襲ぎ永く其任を重ねたり
廿六年十月日本郵船会社に孟買棉花回漕の契約を締結するや、新に相談委員五名を置き正会員四名准会員一名を以つて之に充て、専ら該棉回漕の商議に参与せしめしが、此際決議要領第十七項に拠り准会員にあらざる棉商の同盟に関する規則を制定したり、之に因りて新に発生したる同盟者を特約同盟員と称す、而して率先之に加盟したる外商はフレザー商会及びイリス商社なりとす
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織布営業の会社は同じく正会員として曩に之が入会を諾したりしが、廿七年二月撚糸会社も亦同業者として之を迎へ、経費も並び課し職工の取扱も全く同一となしたり、尋て廿八年五月定式総会に於て、浪華・平野・金巾三会社の建議を容れ、毛・麻或は絹若くは綿毛・麻絹等混交原料を以て紡織事業を作すものゝ特別加盟を許すこととなしたり、蓋し時運の進歩、工業の発達は是等紡織業も亦本会と利害の関係を有すること漸く切なるに至りたるに由る
廿七年六月輸出綿糸海関税免除に関する法律発布せらるゝや、聯合会は輸出綿糸の精良を期し、其検査を厳密ならしむるが為め規約を増補し、常務委員の顧問として更らに評議員三名及予備員二名を置き其評議に与からしめたり、後当時の評議員平野・浪華・金巾の三社に加ふるに三重・摂津の二社を以てし、朝日及鐘淵の二社を挙げて其予備員となしたり
廿九年六月、第九回定期聯合総会に於て、水気清国産棉排除規則を定め、聯合紡績会社は此規則に加盟せざる棉商より清国棉を買入ざることゝし、此際内商を第一賛成会員、外商を第二賛成会員と名け、之を取扱ふものゝ加盟を促し以つて其漏脱を防障したり
従来常務委員は無報酬にして全然名誉職たりしが、此会に於て委員長に参百円、他二名の委員に各壱百円の報酬を贈ることに決したり
尋て八月臨時総会を開き、第九回聯合総会に於ける約を践んで規約に大修正を加へ、常務委員三名の外、評議員五名及予備員二名を置き、役員を通じて十名となし又法律顧問を置くこととなし、常務委員以下評議員を挙げて改選したり、委員長は旧に依り、大阪紡績会社之に当り、顧問としては砂川雄俊氏其聘を諾したり
理事菅沼政経氏は就職以来五年、全力を挙げて棉花輸入税及綿糸輸出税免除請願の事に従ひ、遂に両税の免除を得るに至りしが、氏は是に至り固く辞職を乞ふて已まず、委員長は一日の寧処を氏に仮さんと欲して未だ許さず、其曾約の履行を迫らるゝに及び、此会に於て之を議場に詢り終に其請を聴すことゝしたり、其後を襲ふて理事の職に就きたる者は当時本会神戸出張所詰渡辺牧太氏にして、九月四日を以て就任せり
  ○大日本紡績聯合会ニ対スル栄一ノ関係ハ、以上ノ資料ニモ見ラルル通リ、所謂「事務上ノ相談役」トイフニアリ。栄一ノ紡績業ニ於ケル地位ヨリシテ、紡績業界ノ種々ノ問題ニ就テ、ソノ都度相談ニ預リ尽力セルモノノ如シ。従ツテ聯合会トノ関係ガ、何年ニ始マリ何年ニ終ルモノト判然ト劃スルヲ得ズ。只玆ニハ特ニ紡績業界ニ於ケル重要ナル問題トシテ、栄一ノ尽力厚カリシ綿糸綿布関税免除問題及ビ印度棉花輸入問題ヲ挙ゲテ、聯合会トノ関係ヲ見タリ。コレ等ノ外聯合会ニ対スル栄一ノ間接ノ寄与アリト見ラルルモノ数多アリ。例ヘバ明治三〇年ノ紡績職工争奪問題仲裁、大正三年ノ支那関税改修問題、及ビ大正十五年ノ印度国綿糸綿布関税引上問題等ナリ。然レドモコレ等ノ問題ニ於テハ聯合会トノ直接的関係ヲ判然ナラシムル能ハズ、又庄司乙吉氏ノ前掲ノ談話ニ於テモ之ヲ否定セリ。紡績職工争奪問題仲裁ニ就イテハ本巻第五二五頁参照。


〔参考〕東洋経済新報 第一四六四号・第六〇―六一頁 〔昭和六年八月二九日〕 大日本紡績聯合会論(一) 【其カルテル政策に就て (東京帝大助教授 脇村義太郎)】(DK100044k-0013)
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〔参考〕東洋経済新報 第一四六五号・第三九―四一頁 〔昭和六年九月五日〕 大日本紡績聯合会論(一ノ二) 【外国棉花への対策(東京帝大助教授脇村義太郎)】(DK100044k-0014)
第10巻 p.487-492 ページ画像

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〔参考〕東洋経済新報 第一四六九号・第三九―四一頁 〔昭和六年十月三日〕 大日本紡績聯合会論(五) 【其カルテル政策に就て (東京帝大助教授脇村義太郎)】(DK100044k-0015)
第10巻 p.492-496 ページ画像

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