デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
1款 京都織物株式会社
■綱文

第10巻 p.542-551(DK100049k) ページ画像

明治19年12月16日(1886年)

栄一、洋式絹織物工業ノ必要ニ鑑ミ、従来織物ニ著名ナル京都ニ之ヲ起サンコトヲ企図シ、是日京都池亀楼ニ於テ高木斎造等三十二名ノ発起者ト相会シ、京都織物会社設立ノ事ヲ計画ス。後資本金ヲ三十五万円ニ決ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治一九年(DK100049k-0001)
第10巻 p.542-543 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治一九年
  京坂巡回紀行
○上略
十二月十四日 雨
朝三井銀行浅井氏・中井三郎兵衛・山岸嘉蔵等来テ織物会社創立ノコトヲ談ス。荒川新一郎氏来ル、織物会社ニ関スル書類調査ノコトヲ托シ、且来ル十六日午後地方発起者ト会合談話ノコトヲ約ス、高木斎造来ル、同シク織物会社ノコトヲ談ス、稲畑勝太郎来ル ○中略
東京佐々木ヘ郵書ヲ発シテ稲畑氏ヨリ借リ置キタル染物ノ見本逓送ノコトヲ書通ス
○中略
午後五時一力楼ノ宴会ニ赴シ《(ス)》、蓋シ大倉氏疏水工事ヲ引受ケタルニ付京都府知事及其吏員ヲ招請開宴スルモノナリ、坐間北垣府知事ト織物会社創立ノコトヲ話ス
十五日 晴
三井高朗氏来訪、中井三平氏来ル、十時三木安三郎ヲ伴ヒ北垣府知事ヲ訪フ、尾越書記官・荒川新一郎・浜岡光哲・板原等来会ス、午餐中織物会社創立ノコトヲ談話ス、午後三時三井氏ノ招ニ応シテ四条橋ノ劇ヲ観ル、後井筒楼ニ夜餐ス、劇場大倉氏・磯野氏ニ会話ス、夜大倉氏ヲ万東楼ニ訪フ
十六日 晴
朝中井三平来テ井口新三郎ノコトヲ話ス、中井三郎兵衛・山岸嘉蔵来テ織物会社ノコトヲ話ス、近藤徳太郎氏来話ス、大倉喜八郎氏来ル、午後二時支店ニ抵リ行務ヲ視ル、午後三時半木屋町池亀楼ニ抵ル、蓋シ織物会社創立ノ為地方同志者ト集会ノ約アルニ依ル、此日会同スル者三十三人会社創設ノ要領ヲ議定ス
午後七時去テ河東大嘉楼ニ小酌ス、大坂紡績会社山辺・蒲田二氏来ル熊谷・三木二氏モ織物会社創設ノ集会ヲ散シテ来会ス、夜十二時帰寓寝ニ就ク
十七日 晴
 - 第10巻 p.543 -ページ画像 
朝七時半北垣府知事ヲ訪ヒ織物会社ニ関スル集会ノ顛末ヲ話ス、九時三井高朗氏ヲ木屋町ニ訪フ、帰寓後浜岡光哲・荒川新一郎・高木斎造、内貴甚三郎・中井三郎兵衛・渡辺伊之助等来テ織物会社ノコトヲ談話ス、蓋此五人ハ昨夜創立委員ノ当撰者タルニ付、定款ノ草案其他創立着手ノ順序ヲ議スル為メニ来レルナリ
○下略
  ○明治十九年十二月八日午前ノ列車ニテ栄一、新橋ヨリ京阪地方巡回旅行ニ出発ス。其主タル目的ハ此月十六日京都ニ於テ開カルヽ京都織物会社ノ発起人会ニ出席ノタメナリ。十三日午後京都ニ着シ、此日ヨリ十七日迄ヲ主トシテ織物会社創立ニ関スル要務ニ費セリ。
  ○栄一日記、明治十九年ハ最後ガ京阪巡回紀行ニシテ、十九年十二月八日午前六時四十分ノ深川邸出発ヨリ始マリ、同月十七日京都在ニテ了リ其後ノ記事ヲ欠ク。


稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第一九六―二〇三頁 〔昭和一三年一〇月〕(DK100049k-0002)
第10巻 p.543-546 ページ画像

稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第一九六―二〇三頁 〔昭和一三年一〇月〕
 ○第三編第三章 京都織物会社と君
    一 織物会社設立を具申
 帰朝匆々○明治十年十一月京都府留学生トシテ仏国ニ留学、同十八年七月帰朝
京都府御用掛として勧業課勤務を命ぜられ、傍ら京都染工講習所の講師として、府下の染色業者に西洋新式の染法を学理と実際の両方面に亘つて教授し、その間宮内省から皇居御造営に就き宮殿内の装飾用織物及び染色事項に関し調査方を命ぜられた君は、明治十八、十九両年に亘つて、最も忠実に職務に勉励しその職責を完うした。
 而してその間にあつて、君の脳裡を絶えず往来した一つの事柄は、織物染物に就て既往数百年の古き文化と伝統を有する京都の土地柄に於て、近代的設備の下に欧洲新式の技術を採用した一大織物会社を創立し、時代の要望に応ずることであつた。
 特に当時南京繻子と呼ばれた絹綿交織の繻子が、盛んに我国に輸入され、その輸入額は年々増加する一方であつたが、南京繻子の原料となる絹糸は却つて我国から輸出してゐたので、我国にとつては国家経済上非常な不利益であつた。故に此の状態を匡救し、国家としての産業を起すの策は、我国にも欧米諸国に匹敵する一大絹布染織工場を設立するより外になかつた。
 前章にも記した如く京都府に於ては、明治初年以来西陣を中心として当業者の間に屡々織物染物製作技術の改良が企てられ、或ひは西陣よりして二三の機業家の渡欧を見、ジヤカード機械も輸入され、府当局に於ても織殿、染殿等を設け、専門技師を雇用して斯業の奨励に尽瘁したのであるが、染織界多年の因襲は一朝にして抜け難く、当業者の間にはなほ且つ従来の旧式作業を頑守して、時代の推移に眼醒めぬ者が多く、容易に所期の目的を達することが出来なかつた。
 然るに世は明治の中期に入つて、欧化主義全盛の時代となり、西洋の文物は駸々として輸入し、日常の生活も欧風化し、家屋の建築から衣服調度の末に至るまで、悉く西洋風を取入れ、宮中の諸殿を始めとして、諸官公衙貴顕縉紳の邸弟《(第)》は、概ね洋館に改築され、上流貴婦人の服装の如きも、従来の我が国風を変じて洋装に改められ、これに伴
 - 第10巻 p.544 -ページ画像 
ふ調度品の一切全部が欧米式を加味することゝなつたので、我が染織界の各方面に於ても、此の社会状勢の変化に順応する必要上、一大改革を断行するの機会に到達した。
 君は早くも此の形勢を看取して、京都府の首脳者であつた北垣知事を始め関係当局に対し、織物会社設立が時代の要望であることを上申し、その具体的計画に就ても進言したが、知事並に当局者も、西陣機業の不振等に鑑みて、夙にその必要を痛感してゐたので、君の進言に首肯はしたものゝ、当時の京都府の実情は此種の事業会社を新設するには、何は措いても東西有力実業家の賛助を得ることが、先決問題であつたので、未だその機が熟せないために、進んでこれに乗出すまでに至らなかつた。
    二 渋沢栄一を説く
 時偶々君は皇居御造営に関する用務を帯びて東上中であつたので、一日その知人である農商務技師荒川新一郎の紹介に依つて、当時我国実業界唯一の巨擘であつた渋沢栄一(後子爵)を事務所に訪問し、専門技術者としての立場から、時代の推移と染織界の状勢に就て述べ、近代的設備の下に最新機械を使用する織物会社創立の必要に及び、前後二時間に亘り縷々懇談し、その蹶起を促すところあつた。
 流石に渋沢は我国産業の将来に就ても、透徹した識見と十分なる理解を持つて居り、近代的設備を有する織物会社の設立は、予ての持論であつたので、君の意見には満幅の賛意を表し、国家のために模範工場を設け、斯業の発展を図るために、一臂の力を吝まぬことを即座に承諾した。
 特に渋沢は我国古来の織物の伝統から考へて、織物工場の新設地は京都を以て適当であると考へたので、此の計画に着手すると共に、みづから京都に出張して、北垣知事を訪問し、諸般の打合を為し、一方益田孝・大倉喜八郎・今村清之助等東都の一流実業家に向つても、その協力を求むるところあつた。
 渋沢等の財界巨頭の蹶起に依つて、北垣知事が本式に織物会社の設立に乗出したことは云ふまでもなく、最初前途の不安を見越して二の足を踏んでゐた京都の実業家も、東京実業家の支援を得ると聞いて、急に力瘤を入れることゝなり、傍ら府当局の熱心なる勧奨と相俟つて新会社の創立には、意外の人気が沸騰した。
 此の間の経緯に就ては、明治二十年一月中の『報知新聞』に左の如き記事がある。
    京都共同織物会社の詳聞
  同会社ハ渋沢栄一氏が去暮れ京都に赴き、其創立を計画したるものにして、其評判も甚だ高く、其株主たらんことを望むものも亦た余程多き趣きハ、京都通信に依て其大略を去月二十四日の本紙に記せしが、今は其首唱者たる渋沢氏の直話を聞くに、元来京都西陣は名にし負ふ日本第一位の織物場にて、良好の織物をバ夥しく産出して、広く世間に流布せしが故に、西陣と申せバ三歳の児童も猶ほ其織物場たるを知る程なりしも、近来ハ何故か此有名なる織物場も次第次第と衰微するの傾きあるに付き、同府にてハ府知事を始め其筋
 - 第10巻 p.545 -ページ画像 
の商人等も、百方其恢復方に心配し、織物市場を設くるなど昨年以来種々手を尽したれども、何分にも其効験なきより、同府の知事は一層其事に心を痛め、何とかして此の勢を挽回する工夫ハなきもの乎と打案じ、昨年上京の節其趣を渋沢氏に語りしに、恰も好し同氏も日本織物及び、其染色の不充分なるを憂ひ、如何にも工夫を凝して、此改良を仕遂げ度と心を其事に用ゆる際にてありけれバ、早速其事に同意せり。
  右に付知事ハ予め其筋にも稟議する所あり。帰京の後直に織物営業者に謀り、隠然同会社創立の事を奨励し、其下組に骨折居るに際し、渋沢氏は当地にて大倉喜八郎・益田孝・西園寺公成・深川亮蔵等豪商七八氏の同意を得て、京都に赴き、同会社創立の事に尽力する折しも、又農商務省より四等技師荒川新一郎の出張あり。其事業を鼓舞ありしを以て、さしも是迄織物改良に手を焼きて躊躇ひ居たる京都の人々も、大に奮起する所あり、日ならずして多少此業に関係ある屈指の豪商三十名程の同意者の出来たるのみならず、尚其上にも続々株主たらんことを望むものあるに及びたり。
  然れども渋沢氏の考へにてハ、此事業ハ、他の投機流の会社と違ひ、一時に非常の益あるベしとも思はれず、大阪貿易会社の如きハ創立以来非常の好景況にて、其株券が百円株が三百円近くに迄騰貴し、昨年更に資金三十二万円を増し、六十万円と為す迄に立至りたれど、此と彼とは同一に見做し難く、織物会社の方ハ時宜に依らバ創立後二三年間は、多少の損失ある哉も計られざれば、当会社の株主たらんと欲する者は、予め其覚悟なくては、叶はぬ旨を説きたれども、尚望人多きに付株主の数にも制限を置き、又株金申込高も三千円より二万円迄と限りたれども、昨今の様子にてハ京都の株主三十名は、孰れも其極度の二万円を申込んとするの勢あり、其申込高は多分七十万円前後にも登るなるべし。左れども同会社の資本を先以て二十五万円か若くは三十万円に限るの目的なれば、幾んど其申込高の半を割引せねばならぬ場合に立至るべしとのことなり。
  従来日本の織物は第一には其染色不充分にて、第二には其仕上げ方不手際なり。抑も此仕上げと云ふは、機場にて織出したる段物の糸筋を正し節を去り、或は練り或は延す等種々工夫を施して、其外観を美麗にすることにて、織物製造に取りて甚だ大切なる一科の仕事なるが、日本にては此工を施すに充分なる器械の備り居らず、重に手の熟練のみにて行ひ来りしを以て、織物の出来栄自から粗に流れ、外国品に比すれバ孰れも其観悪しくして、終にハ其直段も遥かに西洋の下位にある訳合に付き、今我国の織物を改良せんにハ此事最も大切なれバ迚、此共同織物会社にてハ在来京都府庁に属せる染殿を払下げ、其技手両名をも雇継ぎて、染色改良に着手すると同時に、此仕上げ事業に着手し、完全なる舶来の仕上機械を備へ、会社第一番の事業として、糸染仕上げの二科を開業し、機場の設置は器械の買入れ其他之が準備に多くの時日を要すれバ、之を第二番に譲る趣なり
  同会社の事業ハ実に遠大且新規にて、其組立方に熟練と経験とを
 - 第10巻 p.546 -ページ画像 
要すること多きに付き、株金集募の事を本月中に終り、一切の計画は尽く其事に長じたる外国人に委ねて組織せしむるの目的なれバ、実際事業に着手するハ、本年末か来年の春なるべし、目下の所にてハ其事業ハ日本技手にて経営する考案なりといへど、其の成績如何に依りてハ、外国人をも雇ひ入れ、良好の結果を示めして、日本織物の模範と為すの覚悟なりといふ。
 これに依つて見ても京都織物会社創立の中心人物が、渋沢栄一であることは多言を費やすを要しないが、而もその裏面に於て、彼を動かすに最も与つて力のあつたものは、実に当時の京都府御用掛であつた君に外ならなかつた。


東京経済雑誌 第一四巻第三四八号・第八六一頁 〔明治一九年一二月二五日〕 ○京都織物会社(DK100049k-0003)
第10巻 p.546-547 ページ画像

東京経済雑誌 第一四巻第三四八号・第八六一頁 〔明治一九年一二月二五日〕
    ○京都織物会社
京都織物会社設立の計画は荒川新一郎・渋沢栄一・大倉喜八郎の諸氏及び北垣京都府知事の発起に係り、其株主は東京・京都両府の有志者より成立せしむる見込みなりと聞く、右に付き先に京都の商人二十名へ払下る筈なりし織殿をも、右会社へ払下げて其の一部に充つることとなれりと云ふ、又同社の目的は西式の機械及び製法を用ひ、気力と人力との両種に頼りて、純絹織物及び絹綿交織物を製するにありて、其の製品の販路は内地を以て初めとし、漸次に海外にも輸出すべく、工場は染色部・織物部・整理部の三区に分ち、京都府下にて運搬に便利にして兼ねて染色に要する水利の充分なる地を選び工場を置き、東京横浜に大販売店を開設する積りなりと、然れども、其着手の順序は先づ染色場を創設し、次に整理場の幾分を創設し、又織殿は現今の管理上に多少の変更をなすに止めて其儘になし置き、他日滊力織機起工の準備とし、追ては本工場地の方へ移転し、手織機を加ふることゝし次て滊機の幾分も創設し、最後には予じめ定め置ける染色場整理場を設置し、滊機を増設せんとするに在りと云ふ、斯くて去る十六日の夜京都木屋町生亀楼に於て集会を開き同会社組織の事を議したるに、会合の人々は
 荒川新一郎。渋沢栄一。大倉喜八郎(以上東京)。熊谷辰五郎(大阪)。浅井文右衛門。三木安三郎。三越得右衛門。高木斎造。曾和嘉兵衛。渡辺伊之助。船越繁之助。代田村宗兵衛。池上弥左衛門。岡本次助。磯野小右衛門。中井三郎兵衛。新実八郎兵衛。芝原嘉兵衛。井上治左衛門。池田長兵衛。浜岡光哲。内貴甚三郎。山中利右衛門。河村清七。熊谷市兵衛。竹村弥兵衛。堀口貞二郎。村田嘉兵衛。市田理八。西村治兵衛。藤原忠兵衛。稲畑勝太郎。近藤徳太郎(以上京都)。
の諸氏にして、其の議決の条項は左の如し
(一)技術者試験の事、(二)織物会社を創設する事、(三)資本金を廿五万円以上卅万円以内とする事、(四)株高申込の事、(五)株高申込期限の事、(六)創立準備金の事、(七)創立委員撰挙の事
右の諸項議決の後ち、創立委員を撰挙したるに左の五氏当撰したり
 内貴甚三郎。浜岡光哲。高木斎造。渡辺伊之助。中井三郎兵衛
 - 第10巻 p.547 -ページ画像 
又た当夜集会せし諸氏は同会社の発起人となり、無論に既定の株主にして、此の株主の受持株は一人に付三千円以上二万円以内の範囲内にて夫々負担する筈なり、而して株高申込の期限は来年一月三十一日迄なりと(或は延期することもあるべしと)、又た創立準備金は同盟員一人に付百円宛、本月廿日迄に創立委員に差出す事に決したりと云ふ


新聞集成明治編年史 第六巻・第三七七―三七八頁 〔昭和一〇年一〇月〕(DK100049k-0004)
第10巻 p.547 ページ画像

新聞集成 明治編年史 第六巻・第三七七―三七八頁 〔昭和一〇年一〇月〕
  京都織物会社創立
    洋式に蒸気力も使用
〔一二、二六 ○明治一九年 東京日日〕東西両京の紳商輩が発起となり、京都府下に一大織物会社を創立するの目論見ある事は、曾て紙上に記せしことありしが、昨今聞く処に拠れば、該社組織の事も略ぼ纏まりたるよしにて、其創設の目的の要領を聞くに、総て洋式の機械及び製法を採用し汽力人力の二種を以て織物を製造し、其製品は絹布交織物等にして、技術家は其の道を修業せし内国人の外に、当分外国人をも聘雇し、専ら洋風の織物を製出し、販路は漸次海外へ輸出すべき見込なれ共、先づ差向き内地を専らとし、近時我邦婦人の装服は、追々洋風に変化すべき勢ひに付、其需用に応じて輸入も防がんとの見込にて、東京・横浜の両所に販売店を開設し、且本社工場中へ、特に染色部をおき、広く各地織屋の需求に応じ、傍ら本邦織物染色の改良をも謀るにあり、既に此程渋沢栄一氏の京坂地方へ赴かれたるも、該社創立の事に関しての用向なりと聞く。



〔参考〕京都織物株式会社五十年史 第三―八頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100049k-0005)
第10巻 p.547-549 ページ画像

京都織物株式会社五十年史 第三―八頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第一部第一章 創立
    第一節 当社創立前後の京都
 明治二年 車駕東幸の御事あり、一千有余年の帝都たりし京都の地位全く失はれたので、各方面とも深甚な打撃を蒙り、人心忽ち銷沈、百工また萎微不振に陥つた。至仁至聖なる明治大帝には畏くも御軫念あらせられ、庶民慰撫の御思召に依り、明治三年産業基立金として金拾万円を御下賜あらせられた。この恩命を拝した市民は唯々感泣し、同年四月十三日川東練兵場(現場本社所在地)に会して、恭しく聖上を遥拝し、賀茂神社に詣でゝ宝祚の無窮、京都の興隆を祈念した。
 時の京都府知事は長谷信篤氏で、剛毅なる槙村正直氏(明治八年七月知事に任じ同十四年元老院議官に転ず)権大参事として補佐し中央政府の殖産興業政策を遵奉して積極的に且つ大胆なる各種の新施設を敢行実施し、以て旧習を打破した。明治二年四月府は勧業方なる一分課を設け、諸営業の取締をなし、同四年二月河原町二条に勧業場を開き、府勧業事務をこゝに専属せしむるや、急激的進歩的政策のもとに産業の発展助長を図つた。
 これより先き府においては明治三年十二月舎密局を設置して理化二学応用の方術を教授し、次いで四年四月には養蚕所、同年十二月には製革場、五年二月には牧畜場(現在本社所在地)六年四月には伏水製作所(鉄具製作工場)同年十二月には製靴場、七年六月には織工場
 - 第10巻 p.548 -ページ画像 
(後に織殿と称す)八年五月には化芥所、同年十一月には染工場(後に染殿と称す)九年一月には梅津製紙場、十年七月には麦酒造醸所、十年七月には西陣織物会所等、いづれも産業上尖端を行く新施設をなし、欧米の技術家学者を招聘して技術を伝へ、又当業者の子弟生徒を海外に派して製法を伝習せしめ、帰朝後各官営工場に属せしめて、一般に海外新智識を普及した。これら新施設の経費は御下賜金拾万円ならびに会計官より下附の勧業基立金拾五万円、合計弐拾五万円を以て当てられた。
 京郡の産業は織物を以て最主要とする。然してその中心をなすものは西陣機業であるが、維新後朝廷の典礼貴紳の服装全く一変し、且つ株仲間制度廃止の影響を受けて忽ち衰頽に陥つた。明治二年府は西陣機業の発展を図るため、産業基立金の中より金参万円を西陣に貸与し、同年十一月油小路一条北に西陣物産引立所(後に西陣物産引立総会社と改称)を開設、こゝに府勧業掛り出張所を設置して、大に指導奨励するところがあつた。維新以後欧洲の織物染物は年を逐ふて輸入増加し、しかもその技術においてその価格において、本邦斯業の到底企及し得ざるものあり、殊に京都の織物染物は一に旧慣古習に拘泥し時勢の推移に伴はざること甚だ遠いので、前述の如く本府の積極的勧業政策実行とともに、先づ染織業に対しては新時代に順応する洋式工業に拠らしむべく、明治五年十一月府は佐倉常七・井上伊平・吉田忠七の三氏を選び、仏国里昂に遣して織物を伝習せしめた。佐倉・井上両氏は翌六年十二月帰朝し、吉田忠七氏は七年帰朝の途次、不幸乗船の遭難に殉じて伊豆沖に歿した。
 佐倉・井上両氏はジヤカード、バツタン等の新機械を里昂より携へ帰り、七年四月開かれた第二回京都博覧会に出品して世の機業家に紹介し、又明治六年澳国大博覧会開催に当り、佐野常民氏に従ひて同博覧会に赴いた伊達弥助氏は、佐野氏の購求した澳式ジヤカードを使用する等、製織上には漸次洋式機械が伝はり、七年六月府は西陣物産引立総会社の織工場を河原町二条下ル旧角倉屋敷跡に設立し、佐倉・井上両氏齎すところの新織法を広く世に紹介し、翌八年一月から生徒を募集し、両氏をして新織法を教授せしめた。明治十年西陣物産引立総会社廃せられ、同年七月智恵光院一条上ルに西陣織物会所の設立せらるゝや、織工場を織殿と改称し、新織法の普及模範品の製織に力を注ぎ、翌十一年には京都御駐輩中の明治大帝の御臨幸を辱うした。
 これより先き明治十年十一月、京都府は仏語学教場雇教師レオンジユリー氏の帰国するに際し、優秀生徒を選抜し、彼に托して仏国に留学せしめた。近藤徳太郎織物歌原重三郎鉱山横田万寿之助製麻今西直次郎製糸撚糸(以上教場出身者)稲畑勝太郎染色佐藤友太郎陶器中西米三郎機械横田某絵画図案(以上学校出身者)の八氏であつた。
 織殿は其の後収支償はず、永く官有となし得ないので、十三年磯野小右衛門・中井三郎兵衛両氏へ払下げられた。然し佐倉氏は佐々木清七氏工場へ、井上氏は伊達弥助氏に聘せられ、後継者は洋式製法に熟せず、ために経営は困難に陥つた。前記留学生八名の内、近藤徳太郎氏は、織物に関するすべてを習得通暁し、明治十五年五月十二日帰朝
 - 第10巻 p.549 -ページ画像 
したので、北垣府知事は民営後も依然振はなかつた織殿を再び官有となし、近藤氏をして整理に当らしめ、近藤氏は新智識をもつて新規優秀の製織をなし大に範を垂れた。
 織物の振興とともに染色に対しても、府は大に力を尽した。京都府は前述の如く舎密局を設置し、元長州屋敷後に現銅駝校の処に本局を置くワグネル博士を聘して理化学応用に関する方術を教授した。明治八年槙村知事は墺国博覧会の伝習生中村喜一郎氏を聘して舎密局内に染殿を起し、人造染料天然染料の法を伝習せしむ。これ本邦に於ける西洋化学的染法の嚆矢となす。同十年府は前記の如く稲畑勝太郎氏を仏国里昂に遣して染法を研究せしめ、十三年四月さらに染殿の伝習生三田忠兵衛氏更紗形高松長四郎氏糸染を独逸伯林に遣し、染法を研究せしめた。明治十五年舎密局の廃止とゝもに染殿も自然廃止せられ、海外伝習生は帰朝後織殿に入りて染物の試験に従事し、明治十九年五月京都四品共進会色染織物刺繍纐纈開会中、染織関係有志によつて京都染工講習所設立の計画あり、同年九月開所せらるゝや、前記三氏は同講習所に入り、染色改良に力を尽した。
 以上は当社創立以前に於ける当市染織業に対する本府勧業政策の概要であるが、転じて財界の情勢を顧みるに、明治十年西南役以後、漸次人心も安定し、京都財界は萎微沈衰の境地より漸く脱し、明治十五年十月、京都商工会議所現商工会議所の前身の設立あり、次いで市内の各商工業者は商工組合を組織し、今日に於ける実業組合の先駆をなすもの凡そ百、同十七年八月には京都取引所十二月開業十九年九月には京都商工銀行十月十七日開業京都倉庫会社、二十年には京都陶器会社、関西貿易会社、京都電灯会社などが相次いで創立開業せられ、京都財界人が躍進の第一歩をなした時代である。更に又京都府市民の全力を傾倒せる我が国屈指の大事業たる琵琶湖疏水工事は明治十八年六月を以て起工せられ、同二十三年四月一日盛大なる竣工式を挙行した。当社はこの動きに乗じ、範を絹織業界に示すべく、大規模経営を目標に、呱々の声をあげたのである。


〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第五七―五九頁 〔昭和三年一〇月二五日〕 仏蘭西留学者中の耆宿(稲畑勝太郎)(DK100049k-0006)
第10巻 p.549-551 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第五七―五九頁 〔昭和三年一〇月二五日〕
    仏蘭西留学者中の耆宿(稲畑勝太郎)
○上略
 私は明治十年、京都府から選抜せられて、富井正章等の七名と共にレオン・ジユリー氏に引率せられて渡仏し、明治十八年仏蘭西留学を了へて帰朝したのであるが、私は帰朝後、何とかして仏蘭西で学んだ所を実地に行ひたいと云ふ希望から、京都に於て、絹織物の機械的製織工場を設立することを企劃し、熱心に実業界の有力者を勧説した。然るに当時まだ進歩してゐなかつた京都人は、私の主張に耳を借して呉れず、私の計画も、努力も、空しく、画餅に帰せんとしたのであるが、私は当時、皇居御造営御用掛を命ぜられてゐたので、その用務の為めに東上した際、子爵に御目にかゝつて、我が日本は生糸の生産国であるから、此の生糸に加工して海外に輸出することは、我が国富増進の上から見て、極めて必要なことであつて、之が加工は私が里昂で
 - 第10巻 p.550 -ページ画像 
習得して来た方法に依ることが、最も適切且有利である。それにはどうしても此の種の会社を設立する必要があると思ふからどうか御賛成を願ひたいと云ふことをお話したところが、子爵は白面の一青年たる私の説に熱心に耳を傾けられ、且その場で賛意を表せられたのであつた。かうして京都に於て一年間かゝつて力説強調して、尚且容れられなかつた私の主張は、子爵にお目にかゝて、会談僅に一時間そこそこで賛成を得たのである。私は何時も乍らの子爵の達識と果断とに敬服すると共に、当時早くも我が実業界の泰斗として、朝野の尊敬の的となつて居られることの偶然でないことを悟つたのである。
 斯の如くにして、子爵は私の説に賛成せられ、且、当時の代表的実業家たる大倉喜八郎・益田孝・今村清之助等の諸氏を熱心に勧誘せられた結果、諸事著々として進捗し、遂に明治二十年、京都に於て日本最初の絹織物製造会社を創立することが出来た。これが今の京都織物株式会社である。
 此の京都織物会社が創立せられた為めに、我が加工絹業に大革命を起し、今日の染織界発達の因を為したことは、蔽ふべからざる事実である。例へば撚糸の如きは、これまでは所謂ブーブーと云つて居つた手操撚に依つたものであるが、此の会社で仏国から完全なる撚糸機械を輸入して手操撚に代へ、こゝに撚糸機械化の範を示したのである。染色の如きも、従来は鍋釜で煮て染めて居つたものを、始めて蒸気及び機械を使用するやうになつた。機織に於ても、これまでは西陣の織工が、機の上に上つて紋織をして居つたのであるが、此の会社で最も進歩したジヤガードの機械を輸入して、従来機械では到底不可能とせられて居つた紋織を、人手を要せずして而も完全に織り得るやうになつた。織物の仕上も、これまでは織り放しであつたのを、里昂の機械を購入して、仕上を施すことゝなり、こゝに仕上整理を創始するに至つたのである。
 このやうに、我が染織界の革命を促し、多大の、貢献を為した素因は、全く子爵が作られたのであつて、今日では世人はその源を忘れてゐるが、私は当事者の一人として、永遠に子爵の功績を記憶し、且証明するものである。
 上述の如く、私は京都織物会社創立に関して子爵の御世話になつたばかりでなく、一身上に就ても、常に子爵の教を仰いで居つたものである。私はかうした関係で、当時京都織物会社の技師長の職に在つたが、何分社会上の経験を有しなかつたゝめに、時々子爵を訪ふて教を乞ふたのであるが、子爵の教訓の中で、今尚深く肝に銘じ、自らも処世上の規箴とし、子弟に向つても常に力説してゐることがある。それは子爵が私に対して「君は鋼のやうな性質を持つてゐるが、一体此の鋼と云ふものは、堅くして、且貴重なものであるが、他の堅い物にぶつかれば直ぐに折れるものである、折れゝば幾ら堅くても用を為さない。だから今後は此の性質を改めてゴム玉のやうになるがよい。ゴム玉は物に当れば凹むが、それは一時的であつて直ぐ元にかへるものである。君も宜しく此のゴム玉を見倣ふべきである」と教へられた。又子爵は「人を利して然る後、己を利することが大切である」と教訓せ
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られたが、私は常に此の教訓を服膺して、之を終生の主義とし、世に処するに当つては、いつも此の教訓を思出して自己を反省することにしてゐるのであつて、私の今日あるは、子爵の教に負ふ所が極めて多いのである。此の意味に於て私は、子爵を師父と仰ぎ、常に尊敬して感謝してゐる次第である。
○下略
  ○京都織物会社ハ、当時明治十年代ノ末ヨリ二十年代ノ初頭ニカケテ簇生セル諸会社(明治十四年―十八年間深刻ナル不況、十九年ヨリ好況時ニ向ヒ諸産業俄ニ起ル)ノ内ニテモ織物業方面ニ於テハ劃時代的ナルモノナリ。
   恰モ栄一ノ発起創立セル綿糸紡績業部門ニ於ケル大阪紡績・三重紡績会社ガ当時新興ノ日本産業界ニテ革新的ナモノタリシガ如シ。即チ当会社ガ従来ノ伝統的手工業的織物業界ニ在リテ、而モ手工業的織物業ノ本場ナル京都西陣機業地ニ洋式織物機械製造ヲ標榜シテ創立セルハマコトニ劃期的ナリト云フヲ得ベシ。即チソレガ第一ニ株式資本組織ニヨレルコト、第二ニ新式機械生産ニヨレルコト、第三ニ新時代ノ洋風衣類ノ需要ニ大量的ニ応ゼントセルコト等ニ因レルガ故ナリ。
   服部之総・信夫清三郎著「明治染織経済史」ハ此京都織物会社ノ創立ノ意義ヲ評価シテ次ノ如ク記セリ。「ところで此原生的産業革命の行進曲の最中からりようりようと産業革命の序曲を吹奏しつゝ立ち上つたものは『織殿』のゆたかな遺産を受ついで明治廿年民営会社として結成された京都織物会社であつた。而もそれは単に西陣機業の産業革命を告知するものでなく、実に当年の日本機業の大産業化を宣言せんとする意図をもつて生れ出たものであつたと云へる。」(昭和一二年刊、第三五三―三五四頁)―傍点筆者―ト。此著書ノ斯ル評価ノ一ヲ以テシテモ当会社ノ歴史的意義ノ大ナルヲ察シ得ヘシ。