デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
1款 京都織物株式会社
■綱文

第10巻 p.551-578(DK100050k) ページ画像

明治20年2月27日(1887年)

是月京都ニ京都染物会社・京都撚糸会社創立サル。栄一等京都織物会社発起人ハ此等二会社ノ当織物会社トノ関係密接ニシテ分離スベカラザルヲ知リ、此等二会社ニ謀ツテ合併ノ事ヲ議ス。是日三会社ノ合併成立シ資本金五十万円ヲ以テ京都織物会社ト称シ、同日田中源太郎・浜岡光哲等十二名ト連署シテ京都府知事ニ創立願書ヲ提出ス。


■資料

(京都織物会社) 実際考課状 第一回 明治二一年八月(DK100050k-0001)
第10巻 p.551 ページ画像

(京都織物会社) 実際考課状 第一回 明治二一年八月
    創立ノ事
明治十九年十二月十六日渋沢栄一・浜岡光哲外三十八名ノ発起者相会シ、資本金三拾五万円ヲ以テ京都織物会社設立ノ事ヲ計画シ、浜岡光哲・内貴甚三郎・中井三郎兵衛・渡辺伊之助・高木斉造ノ五氏ヲ挙ケテ創立委員トシ、同事務所ヲ下京区第三組玉蔵町第二十番戸ニ設置セリ、翌二十年二月他ニ京都染物会社・京都撚糸会社創立ノ計画アリ、然シテ染物撚糸ノ二業タル織物業ト相密接ノ関係アルヲ以テ、双方協議ノ上三会社合併シ、更ラニ資本金ヲ五拾万円トシ、五拾円株壱万枚ヲ発行スルコトニ決定セリ


渋沢栄一 書翰 京都織物会社創立委員宛 明治二〇年二月一二日(DK100050k-0002)
第10巻 p.551-554 ページ画像

渋沢栄一 書翰 京都織物会社創立委員宛 明治二〇年二月一二日
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                 (京都織物株式会社所蔵)
  明治二十年二月十二日
一翰啓上仕候、然者京都織物会社株高決定之為更ニ本月七日貴地ニ於て発起諸君御集会相成、其議決之件々荒川新一郎氏より報知有之承知仕候、就而右趣旨ニ従ひ、東京株主より申込候株高之義者先頃意見書ニ添ヘ差出置候ニ付、更ニ来ル十五日迄銘々申込等不仕候とも、過頃之書面を以其儘申込書と御看做し被下度候、尤も会社ニ予備いたし候浮株五千円を東京株主より引除候事も承知仕候
創立順序ニ付小生及株主(東京株主)之心附候件々ハ、廉書を以荒川氏迄申進置候、右者適宜之御取扱方可被為在事と存候得共、御参考之一助ニも相成候ハ、幸甚之至ニ候
定款修正ハ廿五日迄ニ御審案之上定整可致由、就而ハ東京株主中ヘハ右御修正之分早々御廻被下候ハヽ、速ニ意見相尋、御回答申上候様可仕と存候
右之段得御意度如此御坐候 匆々不一
                    渋沢栄一 (印)
    京都織物会社
     創立委員 御中
(別筆)
一資本金額ノコト
 資本金額増加ノ一案ハ東京株主ノ意見ヲ採用セラレ、可成ハ三拾万円ニ決定アリタシ、併地方入株望人ヲモ稍満足セシムル為メニ、不得止トキハ金五万円位ヲ増加スルモ妨ナカルヘシ
  但株高引受方ヲ各人平等ニスルト云フハ、公平ニ似テ却テ不公平ナリト思惟スルニ付、東京株主ノ引受高ハ先般書送シタル割合ニ定メラレンコトヲ望ム、而シテ西京株主中ニテモ相当ノ差等ヲ設ケテ、此引受高ヲ割付ル様ニスヘシ
一会社設立願書ノコト
 前条資本金ノ限額ヲ定メ、其引受高ノ協議ヲ得ルトキハ、即チ此会社ノ株主ハ、悉ク相定タル訳ニ付、速ニ会社設立願書ヲ府庁ヘ進達シテ其准允ヲ請フヘシ
一会社設立場処ノコト
 本社ノ工場設立ノ地ハ水土ノ適否ニ依リテ之レヲ定ムルコト勿論ナレトモ、運搬ト水利トノ便ヲ酌量スルモ亦要用ノコトトス、故ニ他日疏水工事落成後ノ景況ヲモ参酌シテ、之レヲ利用スルノ計画ナカルヘカラス
 右ノ考案ニ拠リテ試ニ其地位ヲ指定セハ、七条大宮西ヘ入ル所ノ高松屋敷ノ跡ハ相当ノ地位ナルヘシト思惟ス
  但地所ノ坪数ハ他日更ニ増大ニスルノ準備ヲモ見込ミテ、三千坪以上ノ場処ヲ得タキモノナリ、尤モ地価余リ高値ナレハ聊カ之レヲ減スルモ可ナラン、要スルニ諸工場ノ整備ニ充ツルノ坪数ヲ予算シテ之レヲ定ムヘシ
一織殿御払下ノコト
 織殿御払下ハ創立委員ニ於テ会社設立願書ヲ進達スルト同時ニ、此
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払下ノ願書モ共ニ進達シテ差支ナカルヘシ、而シテ其御払下代金ハ願クハ此会社ノ創業ヲ保護セラルヽ為メ可成丈ケ之レヲ低下ニシ、且一時ニ即納ノコトニ定メタシ、尤モ府庁ノ御都合ニヨリテハ三ケ年位ノ年賦ニテモ可ナラン
  但此代金ハ即納ニテ金壱万五千円位迄ニテ、地所建物及器械類等悉皆有形ノ儘御引渡相成ル様ニ取極メタキモノナリ
一会社役員撰挙ノコト
 役員ノ撰挙ハ前述資本金ノ協議決定セハ、直ニ定款議決及役員撰挙ノ集会ヲ催シ、定款ニ掲載シタル方法ニヨリテ先ツ委員ヲ推挙シ、当撰委員ノ互撰ヲ以テ委員長ヲ定メ、且委員中ノ引受事務(例ヘハ検査掛又ハ工務掛ノ類)ヲモ協議決定スヘシ
 技術方即チ近藤・稲畑ノ両氏ハ現ニ府庁ノ官員タルニ付、会社ヨリ之レヲ府庁ヘ請フテ織業染工等ノ技術長ニ任スル方可ナラン、且織殿ニ於テ試業ノ為メニハ、高松氏モ同シク会社ニ雇入レ、稲畑氏洋行ノ留守中ハ同人ヲシテ染工ヲ専任セシムル方便利ナラン
  但現ニ織殿ニ従事スル掛リ員中有用ノ人アラハ、更ニ会社ヘ雇入レテ同所ニ使用スル方便利ナルヘシ
 支配人書記会計方等ノ撰任方ハ、委員会ニテ熟議ノ上、必要ニ応シテ之レヲ撰任シテ可ナラン
  但支配人ハ当会社庶務ヲ担任シ、工業ト商業トニ関係シ、殊ニ会計ヲ専務トスヘキニ付、委員会ニ於テ厚ク此ニ注意シテ、殊ニ完全ノ人ヲ得ルヲ要ス
  附、荒川新一郎氏ハ既ニ株主トナリタル上ハ、投票ノ多数ニヨリテ委員ノ当撰ヲモ得ヘキ筈ニ付、其場合ニ至ラハ農商務省ノ方ハ休職相成、会社ノ専任委員タランコトヲ望ム
一欧洲派遣員ノコト
 会社ノ営業ハ目下染工場ト整理部トヲ創設シ、機業ハ凡ソ一ケ年位モ織殿ノ試験ヲ経テ其器械ヲ購入スヘキ見込ナリト云トモ、工場全体ノ位地ヲ定ムルハ彼此整備ノ考案ナカルヘカラス、故ニ工場ノ位地決定セハ其全図ヲ製シ、欧洲派遣人ニ附托シテ全体ノ計画ヲ彼地ニ於テ適当ナル工師ニ諮問シ、此際ハ先ツ染工整理ノ二部ニ必要ナル器械ヲ買入レ、且其建築モ之レニ応スルノ経営アリタシ、尤モ此建築ハ他日機場ヲ増設スル筈ナルニ付、工事ニ損耗ナキ様注意アリタシ
 右ノ都合ナルニ付、此際欧洲派遣ノ人ハ染工ニ関スル専務ノ人ヲ派出セハ可ナラン
  但此派出人ニハ詳細ナル命令書ヲ附与シ、且派出中電報暗号等ヲモ相渡シ、其往復ヲ便利ナラシムル様取計アリタキモノナリ
一器械買入方委托ノコト
 器械買入ハ今日何レノ地ト指定シ難キ由ナレハ、先ツ相当ノ代理店ヲ定メ、派出員ハ其買入ヘキ器械ノ品目ト代価ノ予算トヲ取調、委員会ノ許諾ヲ経テ、其出張先ニ於テ適宜ニ買取出来候様取計フ方便利ナラン
  但器械ニハ原価ニ対スル割引ニ種々ノ差等アルモノニ付、派出人
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ハ代理店ニ就テ之レヲ聞合セ、且運送荷作等迄モ勉メテ利益アル方法ニ就クコトヲ心掛クヘシ
一工場建築ノコト
 工場建築ハ派出人ヨリ全体ノ地図ニ対シテ、外国工師ノ意見ヲ審聴シ、其来報ヲ俟テ着手シテ可ナラン
一織殿試業ノコト
 織殿御払下受ノ上ハ、工場出来迄ノ間、其試業ヲ勉メタキモノナリ故ニ今般皇居御造営御用等モ当会社ニ於テ引受度モノナリ
  但織殿ニ於テ目下ノ営業ヲ充分ナラシメントセハ、染場ノ計画ナカルヘカラサルニ付、右等ハ技術者ノ考案ヲ諮詢シテ相当ノ措置アリタキモノナリ


京都織物株式会社五十年史 第八―二五頁 〔昭和一二年一一月〕(DK100050k-0003)
第10巻 p.554-564 ページ画像

京都織物株式会社五十年史 第八―二五頁 〔昭和一二年一一月〕
 ○第一部第一章 創立
    第二節 当社創立の経過
 維新後西洋風俗の輸入は、上下を通じて大に流行し、服制上に一大変革を及ぼし、更に家屋並に室内装飾も亦欧風に改まらんとした。加ふるに政府の欧化主義は極端に達し、明治十六年条約改正の必要上外人の歓心を得るため、鹿鳴館を日比谷に建設し、所謂鹿鳴館時代を現出するや、洋装は一般に風靡した。之によつて機業界亦洋風製織に繁忙を呈し、益々洋式新織機の設備を促進したが、京都は前述の如く府当局の勧業政策によつて、洋式織法に対しては大に進んでゐたので相当需要に応じ得た。然しながら織殿以外には未だ完全な洋式工場を見なかつた。織殿においては明治十九年十月、仏国里昂より新に蒸気力運転の新器機代価三万円を据付け、この前月雇入れた仏人チーヱル氏之を指揮して盛んに製出し、伊藤・西郷・井上・松方諸大臣より多数の注文品を受けた。特に西陣機業に一大改善を加へ、また大資本による大工場の設立を促したのは、実に皇居御造営用品御下命の栄に浴してからである。
 皇居御造営の御事は、明治六年五月五日炎上の後、同七年十二月仰出されたが同十年御延期あり、十二年九月更に御造営を仰出され、後十五年五月二十七日皇居造営事務局を置き、十六年一月十八日皇居造営事務局を改めて皇居御造営事務局と称し、その年八月九日工事分担を定め、十七年四月、聖上御親臨、地を検し、図を案じ、勅裁ありて事初めて定まり、その十七日起工の式を挙げ、二十一年十月工事を竣り、二十二年一月玉座を奠鼎せられた。然して宮廷御装飾用品は、国産織物を御使用あらせられたのである。
 京都に於て御用命を拝したのは、先づ府立織殿にして、織殿長近藤徳太郎氏、同雇稲畑勝太郎氏は、これより先き皇居御造営につき宮殿向装飾品取調の御用を拝し、又伊達弥助氏・川島甚兵衛氏・飯田新七氏・小林凌造氏等も、御下命の栄に浴した。当時、北垣府知事は時勢に鑑み、染織事業の如きは、官営又は公営によつて経営するの至難を洞察し、適当の機に於て民間に払下ぐるの底意があつたので、早くも之を看取した有力者は、払下げを策するところあり、之をもつて御造
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営用品の御用を奉ぜんとしたのであるが功を奏せなかつた。蓋し北垣知事が大規模計画を胸に蔵してゐたからで、その後東京の有力者渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏・益田孝氏・西邑虎四郎氏、京都の有力者田中源太郎氏・浜岡光哲氏・内貴甚三郎氏等に対し、国家産業のため模範的大工場を興し、以て斯業の発展を図られたいと民間会社設立の事を大に勧告し、この間農商務省技師兼皇居御造営局技師荒川新一郎氏も大に斡旋せらるゝところあり、こゝにおいて時勢に応ずべき一大設備を有する織物会社創立の機運は開かれたのである。
 織物会社設立の議愈々具体化し、明治十九年十二月十六日夜木屋町生亀楼に於て創立発起人会が開かれた。当夜の出席者は渋沢栄一氏・大倉喜八郎氏(以上東京側)・熊谷辰太郎氏(大阪側)・浅井文右衛門氏・三木要三郎氏・三井得右衛門氏・高木斉造氏・曾和嘉兵衛氏・渡辺伊之助氏・船橋繁之助氏代田村宗兵衛氏・池上弥右衛門氏・岡本治助氏・磯野小右衛門氏・中井三郎兵衛氏・新実八郎兵衛氏・芝原嘉兵衛氏・井上治左衛門氏・池田長兵衛氏・浜岡光哲氏・内貴甚三郎氏・山本利右衛門氏・河村清七氏・熊谷市兵衛氏・竹村弥兵衛氏・堀口貞二郎氏・村田嘉兵衛氏・市田理八氏・西村治兵衛氏・藤原忠兵衛氏(以上京都側)の諸氏、又農商務省技師荒川新一郎氏も特に出席した。かくて、(一)技術者試験の事、(二)織物会社を創設する事、(三)資本金を二十五万円以上三十万円以内とする事、(四)株式申込の事、(五)株金払込期限の事、(六)創立準備金の事、(七)創立委員選挙の事等を決議し創立委員は浜岡光哲氏・内貴甚三郎氏・中井三郎兵衛氏・渡辺伊之助氏・高木斉造氏の五氏当選、越えて同月二十一日、創立委員会を開き、爾後定款作成其他創立に関する諸般の準備を進めた。
 京都織物会社の資本金は発起人会に於て参拾五万円と決したが、其後京都側の意気込み頗る壮にして、撚糸業を併せ須らく五拾万円となすべし、若し東京側が不満ならば、有志者は断然分離して設立するも可なりとの意向が有力となつた。明治二十年二月二日、農商務省技師荒川新一郎氏は、東京側発起人総代の資格を兼ねて入洛、発起人一同と会合、資本金問題について種々協議を重ねた結果、当初の通り参拾五万円と定め、内十一万円を東京株主弐拾四万円を京阪株主の引受となし、一般公募を廃することに決定した。
 京都織物会社の創立に刺戟せられ、当市染織関係業者は大に発奮興起し、この際進取改良を断行するにあらずんば遂に落伍の運命に会すべしとなし、各方面に会社設立の計画が起つた。この内代表的のものは、京都染物会社と京都撚糸会社とである。両社の創立は京都織物会社が資本金額について協議を重ねつゝある間に、次第に具体化した。
 京都染物会社は資本金拾万円、発起人は西村治兵衛氏・小泉新兵衛氏・市田理八氏・竹村弥兵衛氏・山添直二郎氏・山田定兵衛氏・山田定七氏・山田卯八氏・下村忠兵衛氏・馬淵善兵衛氏・井上利助氏・熊谷市兵衛氏・小川伊右衛門氏・津田栄太郎氏・河村清七氏・川勝光之助氏・佐々木八兵衛氏・吉川庄兵衛氏・高田義助氏・小林久右衛門氏・安盛善兵衛氏・川合太兵衛氏の諸氏にして、下京三組三条通室町西入に事務所を設置、同年二月二十二日を以て発起人引受株残り六百
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株を一般公募に附した。申込期限たる同月二十八日を俟たず、二十四日までに申込株数は八十倍の多きに達した。
 京都撚糸会社は、資本金拾万円、内貴甚三郎氏・中村忠兵衛氏・西村嘉助氏・渡辺伊三氏、其他の発起にかゝり、当初京都織物会社に兼営せしめ、資本金を増加すべしとの要望ありしも、遂に之を営まぬこととなつたので、同社の経営如何に拘らず、同事業は織物業の発展に随伴し、欠くべからざるものであるとなし、こゝに創立発起を見たのである。二月下旬発起人引受株割当(半数)を終り、三月に入りて残額を一般公募に附することゝなつた。
 京都染物会社が応募株式の割当を終り、京都撚糸会社が発起人引受株数を決定するにいたり、創立中の京都織物会社では染物撚糸の二業が織物業と相密接なる関係に在り、且つ両社の発起人は同社と関係を有する人々が中心となれるを以て、こゝに双方協議の末、三会社の合併を決し、資本金を五拾万円に増加した。その合併方法は左の如し。
 一、資本金は織物会社より金参拾五万円、染物会社より金拾万円、撚糸会社より金五万円を持寄り、合計五拾万円を以て、資本総額とし、其一株金額を五拾円とし、合計一万株と定むる事。
 一、合併名称は京都織物会社と称する事。
 一、株主引受高は旧組織の各会社に於て既に定まりたる所の株高を以て、其儘新組織の会社株主となすべき事。
 一、旧三会社中染物会社に於ては、一株に付金壱円づゝ保証金を収入せるを以て、他の織物撚糸両会社に於ても染物会社に傚ひ、一株に付金壱円宛の証拠金を五日以内に収入し、其権利を平等均一に為すべき事。
 一、旧三会社にて収入したる保証金は、其額を平等にしたる後、之を新組織の京都織物会社に引渡すべき事。
 一、旧三会社とも合併以前にかゝる創業費は、五日以内に精算を遂げ、之を新組織の京都織物会社へ引渡すべし、織物会社は之を負担すべき事。
 一、旧三会社に於て発行したる保証金の受取証は、此際別に引換を為さゞるも、新組織の京都織物会社の証と見做すべき事。
 一、旧三会社に於て予定したる株金払込の金額及期日等は一旦之を取消し、更に其見積を定めたる後、各株主へ報告若くは広告を為すべき事。
 一、合併以前にかゝる執務上に対し、故障等之ある時は、其過失ある会社の創立委員其責に任ずる事。
 右は三会社合併決定とゝもに、三会社創立委員より同年三月十二日新聞紙上にこの旨を広告し、且つ株主に通知した。之より先き京都織物会社創立願書は、二月二十七日付を以て、府知事北垣国道氏宛提出せられた。
 「織物会社創立発起」(明治十九年十二月十八日、日出新聞記事)東京の渋沢栄一外一二の資本家が発起にて、織物会社組織の計画ある事は、日外の日出新聞に掲載せしが、今又聞く処によれば、元来此事は東京に於て農商務省の荒川新一郎及渋沢栄一・大倉喜八郎の
 - 第10巻 p.557 -ページ画像 
諸氏主として発起し、京都にては北垣府知事之に同意して、同会社を京都に設け、株主は東京・京都の有志者より成立せしめんとの意見なり。就ては、前に織殿を京都の商人二十名へ払下らるゝ筈なりしに、之を中止して、織殿をも右会社へ払下げ、其の一部に充つる事になれり。又此会社組織の要領を聞くに、同社の目的は西式の機械及製法を用ひ、汽力と人力との両種に頼りて、純絹織物及び絹綿交織々物を製するにありて、其製品の販路は内地を以て初めとし、漸次に海外に輸出すべく、工場は染色部・織物部・整理部の三区に分ち、織物部にて製造すべき品物は、汽力にて和服洋服用の裏地・繻子・傘地・厚甲斐地・琥珀婦人童女衣裳地・首巻・羽二重等とし、人力にては家具装飾物の各種、紋織等をなす。整理部にては織物部にて製出したる織物を整理し、余間に他の織場にて製造したる物の整理をも引受け、染色部は織物部に於て要する染物及び見込品を染製し、併せて、各地織屋の請求に応じ、其注文を染製すべし。(中略)其技術師にはさきに仏国へ留学し、織物又は染物を修業して目下京都府にある近藤徳太郎・稲畑勝太郎の諸氏を用ひ、尚当分外国人をも聘用し、又監督には此道に明かなる技師を以て充つる見込なり。(中略)其興業費は凡そ参拾万円なりと云へども、之に営業費を加ふれば五拾万円にも上るらん。(下略)
 「発起人の会合」(明治十九年十二月十九日日出新聞記事)一昨々夜木屋町生亀楼に集合ありて織物会社組織の事を議したり。(中略)右の如く創立委員を選定したれば、此度同会社の株主たらんと申込む者ありて、創立委員に於て然るべしと認定するときは之を株主とする都合なりと。又右当夜集会せし諸氏は同会社の発起人となり、無論既定の株主にして、此株主の受持株は一人参千円以上弐万円以内の範囲内にて夫々負担する筈なりと。又当夜集会せざりし人の内にて、東京には益田孝・西園寺公望・伊達宗城の三氏を初め、其他数名賛成同盟の人ある由。(中略)株高申込期限は、来る一月三十日限りにて、創立準備金は株主一同より一人に付金壱百円づゝ来る二十日まで差出す筈なり(下略)
 「渋沢氏の饗応」(明治十九年十二月二十一日、日出新聞記事)此程より京都に滞在せし渋沢栄一氏は、さきにも記せし如く、去る十八日洛東霊山なる鷲尾家の別荘に於て、織物会社創立に関係の人々を饗応せしが、各銀行員は予て同氏が来京あらば、懇親の宴を催ふさんとの計画もありしかば、翌十九日氏が伏見より帰るを待ち、木屋町生亀楼に於て其の報酬の宴を開きたる由。又昨日は午後早々より織物会社に関係の有志者が円山也阿弥楼へ同氏を招き、盛宴を開きたる由。
 「織物会社資本金」(明治二十年一月八日、日出新聞記事)同社の資本金は最初弐拾五万円のところ、其後五万円を増し参拾万円と決したる由かつて報じたるが、全体発起者中京都の重立ちたる人の意見にては、せめて八拾万円位に致したき趣なりしが、一昨日の委員会に於て遂に五拾万円とする事に決したる由。尤も撚糸の織物業と密着の関係あるものなれば、此の業も該社にて為す事に極り、其資
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本も右の五拾万円中に籠り居るものなりといふ。又此創立の事を聞き目下追々株入り申込のもの多く、委員は殆んど其処置に苦しむ程の勢なりと云ふ。元来此創立者は四十一名ありて、株式は総て発起者のみにて引受くる見込みなりしが、前記の如く追々申込もあり、且発起者のみにて引受くるとありては、何となく少人数の壟断に帰するが如き嫌なきにあらずとて、三分の二だけを発起者に引受け、三分の一は公けに同業者より募る事になりしやに聞けり
 「京都株主の熱意」(明治二十年一月三十日、日出新聞記事)同社の資本金は既に五拾万円と決定せしについては、元弐拾五万円に対する営業予算書は廃し、更に五拾万円に対する予算書を、目下取調中なるが、其中分業法取調の義は、曾て洋行せる何某氏等数氏を挙げて其起稿を委托したるに、委托者に於ては仏国の分業法を参照し撚・染・織の三分業は起稿既に整理せり。東京の発起人が来京するを待居りしに未だ来京の模様なき故、京都発起人の内より東上して決を採るべきや否やとの談論中なりといふ。又該社発起人の中、京都の株主は大抵織物商として父祖の遺業を永遠に保存すべき一大緊要の事業なり、且は京都一般の影響にも及ぶべき商会なれば、いよいよ成立したる以上は、一己の射利を目的として株券売買などに奔走せず事業拡張を以て目的とし、父祖に報ゆるの念を放つ事なかるべしとの議起り、発起人は大に此説を賛成し、中には株券売買について、一の検束法を設くべしとの説を主張する人もあるやに聞けり。
 「資本金の決定」(明治二十年二月四日、同十日《(マヽ)》、日出新聞記事)工務局の四等技師荒川新一郎氏は、今度設立する京都織物会社の事につき、東京発起人惣代の資格を兼ね一昨日来京し麩屋町姉小路上ル俵屋方に投宿せり。聞くところによれば、今回氏が来京については、其申立の如何により、京都の有志者は断然分離独立して、予て確定したる資本金五拾万円を以て設立する見込の由。尤も其五拾万円の資金も京都有志者のみの申込にても余る程なれば、分離する方却て都合よしとの噂あり。(以上二月四日掲載)。東京発起人惣代荒川新一郎氏が来京せしに付一昨夜下河原の種尾に於て発起人一同集会し種々討議ありしが、結局撚糸業を加へて、資本金を増して五拾万円とするの説を不可とし、金参拾五万円と定め、内拾壱万円を東京株主の受持とし、弐拾四万円を京阪株主の引受とし、公衆より募集する事は廃する事に決したる由。併し此決議は一同満足といふ好結果にあらず、此程も記せし通り、京都資本系のみの独立にて設立するを可とするもの多数の趣なれば、此一両日内に如何に変ずるやも知るべからずとの説あり(以上二月九日掲載)。
    第三節 創立願書の提出
 京都織物会社は染物・撚糸両会社を併せ資本金五拾万円に増加し、三会社合併成立の当日明治二十年二月二十七日を以て、北垣府知事に創立願書を提出した。創立趣意書並に会社組織要項に示されたる施設計画は、当時に於て実に劃期的のものにして、いかに意気の壮なりしかを察知するに足る。且つ当時に於て資本金五拾万円は稀有に属したのである。されば一般の人気亦熱狂的となり、証拠金壱円払込済株式
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申込証は遂に最高五十円を呼ぶに至つた。
 創立願書、創立趣意書、組織要項、定款等左の如し。
    織物会社創立願書○後掲(第五六一頁)ニ付略ス
    創立趣意書
 我国主要ノ物産ニシテ広ク海外ノ需要ニ応スルモノハ生糸ヲ以テ第一トス。然レトモ其性質尚ホ半製品タルヲ免レサルヲ以テ、更ニ一歩ヲ進メ、之ニ精巧ヲ加ヘ、撚リテ姿質ヲ整ヘ染メテ彩色ヲ成シ織リテ絹布トナサハ某価格生糸ニ倍蓰スルヲ得ヘシ。而テ今此ノ撚糸染工織業ノ事ヲ計画スルニ当テハ、宜シク先ツ染工ト撚糸ノ方法ヲ改良セサル可カラス。蓋シ従前染色ノ業タル旧法ヲ固守シテ慣習ヲ師倣シ、其職業ニアル者自ラ発色ノ何ニ拠ルヲ知ラス、絶テ学術ニ根拠シテ精究スルモノアルナシ。是ヲ以テ染彩鮮麗ナラサルアリ、縦令鮮麗ナルモ久シキヲ経スシテ褪色シ、或ハ水ニ入リテ色ヲ失ヒ或ハ物ニ触レテ光沢ヲ損ス。又撚糸ノ業ノ如キハ概ネ織業者ノ所属ニシテ其製品一定ナラス。且ツ精粗混同ヲ極ム、是ヲ以テ織物ノ地合常ニ粗悪ニ陥リ、染色屡々斑点ヲ生シ、品位曾テ一定ナラス。之レヲ海外諸国理化学日新ノ技術ニヨリテ、精緻ヲ極ムル所ノ染法撚法ニ比スレバ、実ニ宵壌《(霄)》ノ差異アルヲ見ル。染工撚糸ノ改良亦忽ニスヘカラサルナリ。
 既ニ染法撚法ノ改良ヲ以テ要務ナリトセハ、又進ンテ織業ノ改良ヲ謀ラサレハ、以テ其完全ヲ見ル可カラス。今日我国織業ノ方法ヲ視ルニ専ラ人力ニ依リテ機械ノ作用ニ借ルモノ少ナシ。近時或ハ西式ニ倣フモノアリト雖モ概ネ規模小ニシテ未タ以テ改良ノ実効ヲ奏スルニ足ラス、間々精巧ヲ極ムルモノアルモ、労費多大ニシテ製額僅少ナルカ故ニ、之ヲ博覧会場ノ見本トナスハ即チ可ナリ、之ヲ普通ノ売物トセハ其価格ハ以テ其労費ヲ償フ能ハス、織業ノ改良セサル可カラサル亦今日ノ急務ニ非スヤ。是ヲ以テ今三者ノ改良ヲ企図シテ其目的ヲ達セント欲セハ、規模宏大ナル撚糸染工織業ノ工場ヲ建築シ、都テ西式ニ倣フテ之レカ施設ヲナシ、其術ニ精練ナル事業ノ士ヲシテ其業ヲ執ラシムルニ如カサルナリ。
 夫レ撚糸染工織業ノ改良ヲ謀リ一会社ヲ組織シテ其工場ヲ建築セント欲セハ、宜シク三業ニ適当ナル地理ヲ撰ミ、之レニ就テ以テ計画セサル可カラス、而シテ余輩ノ審按スル所ニ拠レハ京都府下ヲ以テ最上ノ地トス、顧フニ我国絹布製造ノ業ヲ言フ者ハ主トシテ京都ヲ推シ其名久シク著ハレ、其業ニ従事スル者モ亦甚タ多キヲ見ルハ、自ラ地理ノ織業ニ便ナル所アルヲ知ルニ足レリ、且ツ夫レ此ノ会社創設ニ要用ナルハ、西式ノ織物法撚製法染色術ニ習熟シタル専業ノ人ヲ得ルニ有リテ、其適任タル人ハ此ノ地ニ在ルヲ以テ今京都府下ヲ会社創業ノ地ト定メ、其計画及予算書ヲ設ケ、以テ同志者ノ賛成ヲ仰ク、願クハ三業将来ノ得失ヲ推察シ改良ノ一着ニ共同セラレンコトヲ。
   京都織物会社組織要項
    第一章
     第一項 営業目的
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 第一条 本社ハ純然タル西式ノ機械及製法ヲ用ヒ、汽力ト人力トノ両種ニ頼リテ純絹織物及絹綿交織物ヲ製スルヲ以テ目的トス
 第二条 本社製品ノ販路ハ内地ヲ以テ初トシ、漸次海外ニ輸出ヲ為スヘシ
      第二項
 第三条 工場ハ染色部・織物部・整理部ノ三区ヨリ組成ス
 第四条 織物部に於テ織製スヘキ品物ヲ挙レハ概ネ左ノ如シ
  一、汽力ニ頼リテ製造スヘキ品 無地織物
   裏地  和服洋服用共
   繻子地 無地並ニ縞織
   傘地  純絹並ニ絹綿交織共
   厚甲斐絹地 無地並ニ縞織
   琥珀地
    但精巧ノ琥珀ハ手製トス
   婦人衣裳地並ニ童女衣裳地
   首巻地
   羽二重地
   リボン地
   其他類似ノ織物
    但以上ノ織物ニ各純絹ト織綿交織ノ二種アリ、而シテ亦此二種ニ各々織染ト染織トノ二種アリト知ルヘシ
  一、人力ニ頼リテ製造スヘキ品 紋織物
   家具装飾物
   衣裳用各種紋織物
    但以上ノ織物ニ各純絹ト絹綿交織ノ二種アリ、而シテ亦此二様ニ各々織染ト染織トノ二種アリト知ルヘシ
  一、本社ノ染色部及整理部ヲ利用シテ西陣桐生足利郡内等ニ本社ノ見込品ヲ織立シメ、其販路ヲ拡張スル事
 第五条 整理部ハ重ニ本場ニ於テ製出スル織物ヲ整理シ、余間ニ本社ノ見込品ト江湖ノ整理物ヲ引受クヘシ
 第六条 染色部ハ本場ニ於テ要スル染物及本社ノ見込品ヲ染製シ、併テ各地織屋ノ需求ニ応シ其注文ノ品物ヲ染製スヘシ
 第七条 織物場
   汽織機   三百台
   手織機   一百台
    但経糸梳整機械等ノ附属機械共
 第八条 整理場
   毛焼機械、捲布機械、糊置機械、整理機械、艶出機械等一式
 第九条 染色場
   練糸機械、染色機械、水洗機械、駆水機械、乾燥機械等一式
     第三項 位置名称
 第十条 本場ハ京都府下運搬ニ便利ニシテ且ツ染色ニ要スル水利ノ充分ナル地ヲ撰ビ、之ニ設置スル工場ヲ本社トシ、東京・横浜ニ大販売店ヲ開設スヘシ、別ニ会社経営準則アリ、就テ視ルヘシ
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   但シ東京販売店ヲ以テ支社トス
 第十一条 本社ノ名称ヲ京都織物会社ト称ス
     第四項 社員
 第十二条 本社ノ社員ハ織物事業ニ老練ナル同業者及本社ノ責ヲ以テ自ラ任スル熱心有志者ヨリ組成ス、其組織等ハ別ニ定款アリ、就テ視ルヘシ
     第五項 責任
 第十三条 本社ハ全ク民設ニ属シ社員ノ責任ハ有限責任トス
 第十四条 営業年限ハ営業初年ヨリ向フ三十ケ年トス
  但株主一同ノ決議ニ因リテ継続スヘシ
     第六項 資本金
 別ニ定款アリ、就テ視ルヘシ
     第七項
 第十五条 工場役員左ノ如シ
  染色部長  本邦人一名
  織物部長  本邦人一名
   但シ最初二年間外人ノ織物師ヲ聘スヘシ
  整理部長  本邦人見習一名
   但最初二年間外人ノ整理師ヲ聘スヘシ
  機械師   本邦人一名
   但汽織部整理部及総機械部担当
  監督    本邦人一名
  機械組立師 外人一名
   但一時雇入
 ○下略

織物会社創立願書
今般私共同志相謀リ織物・染色・撚糸ノ三業改良ノ為メ、資本金五拾万円ヲ以テ一社ヲ相結ヒ、別紙創立趣意書及定款ニ照シ、目下本社ヲ下京区第三組玉蔵町二十番戸ニ於テ設置仕度候間、御許可被成下度、此段株主一同ノ決議ヲ以テ奉願上候
  明治廿年二月廿七日
         発起人総代
           京都府下南桑田郡亀岡北町五十番戸
                    田中源太郎   (印)
           上京区第廿一組春帯町二十番戸
                    浜岡光哲    (印)
           上京区第三十組橘町廿五番戸
                    内貴甚三郎   (印)
           上京区第七組中ノ町六番戸
                    渡辺伊之助   (印)
           上京区第三十組丸屋町九番戸
                    山添直二郎   (印)
           下京区第十組風早町廿七番戸
                    馬淵善兵衛   (印)
           上京区第三組衣棚町十六番戸
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                    山田宇八    (印)
           上京区第二十九組御所八幡町十一番戸
             池上弥右衛門代理
           同  組丸木材木町十八番戸
                    益池政吉    (印)
           上京区第八組横大宮町廿五番戸
                    岡本治助    (印)
           下京区第三組三条町十五番戸
                    池垣与兵衛   (印)
           下京区第十九組西橋詰町廿五番戸
                    高木斎造    (印)
           下京区第四組梅忠町廿一番戸
                    中井三郎兵衛  (印)
           東京府深川区福住町四番地
             渋沢栄一代理
                    熊谷辰太郎   (印)
    京都府知事 北垣国道殿
(以下四行朱書)
 勧第一七一号
書面願之趣承認候事
  明治二十年五月五日
          京都府知事 北垣国道 
    京都織物会社定款
京都織物会社ヲ創立スルニ付其株主ノ衆議ヲ以テ決定スル所ノ定款ハ左ノ如シ
   第壱章 総則
第壱条 当会社ノ名称ハ京都織物会社ト称シ、本社ヲ京都府 原本・欠字 ニ置クヘシ、但追テ便宜ノ地ニ製造分社又ハ売捌所ヲ設クルコトアル可シ
第弐条 当会社ノ営業年限ハ開業ノ日ヨリ満三十年トス、但株主総会ノ決議ニ依リ、営業年限ヲ継続スルヲ得ヘシ
第三条 当会社ハ有限責任トシ、負債弁償ノ為メニ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金ニ止ルモノトス
第四条 当会社ハ純然タル西式ノ機械及製法ヲ用ヒ、滊力・水力・人力ノ三種ニヨリ織・染・撚糸及製理《(整カ)》ノ四業ヲ営ムヲ以テ目的トス
第五条 当会社ハ前条ニ掲クル事項ヲ以テ本務ト為スカ故ニ、工業上必要ナル物品ヲ買入レ、製品等ヲ売却スルノ外ハ、他ノ売買事務ニ干預セサルハ勿論、定業外ノ事件ニ関係ス可カラス
  但鍛冶木工場ハ本社ノ定業外ナリト雖モ、時トシテ社外ノ需ニ応スルハ此限リニアラス
第六条 当会社ノ業務ハ都テ委員ヘ委任シ、此定款ニ依リ処弁セシム可シ
第七条 工業上必要ナル物品買入レ及製品ノ売却ハ自ラ商事ニ属スト雖モ、工事上ヨリ生スル売買業務タルニ付、常ニ此ニ注意シテ普通商業ヲ営ムノ意念ヲ以テ之レニ従事ス可カラス
   第弐章 資本金ノ事
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第八条 当会社ノ資本金ハ五拾万円ト定メ、壱株ヲ五拾円ト為シ、総計壱万株ヲ内国人民ヨリ募集ス可シ
  但営業ノ都合ニヨリ、株主ノ衆議ヲ以テ、此株高ヲ増減スルヲ得ヘシ
第九条 此株金ハ大約ソ三十六ケ月内ニ全募スヘキモノトシ、各其引受高ヲ委員ノ指定スル期限ニ於テ入金スヘシ、而シテ其金額及時日ハ必ス三十日前ニ通知ス可シ
第拾条 株主第一回ノ払込ヲナシタルトキハ、当会社ヨリ仮株券ヲ交付シ、第二回以後ハ、其金額ヲ右仮株券ニ記入シ、委員長及支配人之レニ鈴印《(鈐)》スヘシ、但最終ノ入金ヲ為シタルトキハ本株券ト交換ス可シ
第拾壱条 株主若シ其払込金ヲ怠ルトキハ、其金高ニ対シ、一日百円ニ付金五銭ノ延滞日歩利息ヲ徴収スヘシ、而シテ此延滞日数六十日以上ニ及フトキハ、当会社ニ於テ此株式ヲ売却シ、其買受人ヲシテ補欠員タラシム可シ
  但此場合ニ於テハ売却ニ係ル諸費及延滞日歩利息ヲ計算シ、不足アレハ原株主ヨリ徴収シ、余金アラハ之レヲ還付ス可シ
   第三章 委員ノ事
第拾弐条 当会社株主ノ投票ヲ以テ、五拾株以上ヲ所有スル株主中ヨリ人員五名ヲ撰挙シ、之レヲ当会社ノ委員ト為ス可シ
第拾三条 委員ハ互撰ヲ以テ委員長壱名ヲ撰定ス可シ
第拾四条 委員長ハ委員会議ノ決議ヲ以テ当会社全体ノ事ヲ総理スルノ権アルヘシ、故ニ会社ノ業務ヲ整理スルニ於テハ、株主ニ対シテ其責ニ任ス可シ
  但委員長疾病事故アリテ欠席スルトキハ、委員中ヨリ其代理者ヲ撰任ス可シ
第拾五条 委員長ハ会社営業ノ都合ニヨリテ、委員会議ノ決議ヲ以テ一時限リ他ニ向テ負債ヲ起スコトヲ得ヘシ、尤モ其証書ニハ立会委員ノ連署ヲ要スルモノトス
第拾六条 委員ハ少クモ毎月二回当会社ニ於テ其会議ヲ開キ、会社一切ノ事件ヲ議定ス可シ、但其議長ハ委員長之レニ任スヘシ
第拾七条 委員長ハ委員会議ノ議決ヲ以テ当会社ノ支配人技術部長其他一切ノ傭員ヲ任免黜陟シ、及其給料旅費賞与金ノ配付等ヲ定ムルノ権アル可シ
第拾八条 委員長ハ委員会議ノ議決ヲ以テ当会社ノ営業ニ関スル諸規則ヲ制定施行スルヲ得ヘシ
第拾九条 委員ノ内壱名ヲ撰ンテ撿査係トナシ、当会社営業ノ景況及金銭物品ノ出納等一切ヲ点撿セシム可シ
第弐拾条 委員ハ上任ノ日ニ当リ、所持ノ株式五拾個ノ券状ヲ会社ニ預ケ置クヘシ、当会社ハ之レヲ確護シ、其券状ノ保護預証書ニ禁授受ノ印ヲ捺シ之レヲ渡スヘシ
第弐拾壱条 委員ノ任期ハ二年トシ、毎年全数ノ半ヲ改撰ス、第一期ノ改撰ヲナスハ抽籖法ヲ以テ其退任者ヲ定ム
  但再撰挙ヲ得タル者ハ重任スルヲ得ヘシ
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第弐拾弐条 委員中若シ不時ノ欠員アルトキハ、委員ハ株主臨時総会ヲ催シテ其代任ヲ撰挙セシム可シ
  但時宜ニヨリテハ委員中ノ衆議ヲ以テ補欠員ヲ撰ヒ、本員ノ年限丈ケヲ補塡セシムルヲ得ヘシ
第弐拾三条 委員ハ委員長又ハ同員中ニ職任不適当ノ所為アリト認ムルトキハ、同僚過半数ノ同意ヲ得テ株主臨時総会ヲ催シ、三分二以上ノ多数説ニ従ヒ、之レヲ退職セシムルヲ得ヘシ
  但此場合ニ於テ発議者ハ其行為不適当ノ理由ヲ総会ニ証明シテ、其許否ニ委スルヲ要ス
第弐拾四条 当会社ノ業務ヲ確実ナラシムル為メニ、特ニ五拾株以上所持セル在東京株主中ヨリ相談役三名ヲ投票撰挙シ、会社重要ノ事務ヲ商議シ、其全部ヲ監督セシムヘシ
  但シ此相談役ノ任期モ二ケ年間ト定ム
第弐拾五条 当会所委員長及委員ノ俸給手当旅費等ノ割合ハ総会ニ於テ之レヲ定ム可シ
   ○第四章以下略ス。
右拾壱章六拾六条ハ当会社株主ノ衆議ヲ以テ相定メタルニ付、一同記名調印シテ以テ証明致候也
  明治二十年四月
         発起人総代
           東京府深川区福住町四番地
               渋沢栄一代理
                    熊谷辰太郎 (印)
           南桑田郡亀岡北町五拾番戸
                    田中源太郎 (印)
           上京区第廿一組春帯町廿番戸
                    浜岡光哲  (印)
           上京区第三十組橘町廿五番戸
                    内貴甚三郎 (印)
           上京区第七組中之町六番戸
                    渡辺伊之助 (印)
           上京区第三十組丸屋町九番戸
                    山添直次郎 (印)
           下京区第拾組風早町廿七番戸
                    馬淵善兵衛 (印)
           下京区第三組衣棚町拾六番戸
                    山田卯八  (印)
           上京区第廿九組御所八幡町十一番戸
             池上弥右衛門代理
           同組丸木材木町十八番戸
                    益池政吉  (印)
           上京区第八組横大宮町廿五番戸
                    岡本治助  (印)
           下京区第三組三条町十五番戸
                    池垣与兵衛 (印)
           下京区第十九組西橋詰町四十五番戸
                    高木斎造  (印)
           下京区第四組梅忠町廿一番戸
                    中井三郎兵衛(印)

 - 第10巻 p.565 -ページ画像 

東京経済雑誌 第一五巻第三五五号・第二一四―二一五頁 〔明治二〇年二月一九日〕 ○京都織物会社の成行(DK100050k-0004)
第10巻 p.565 ページ画像

東京経済雑誌 第一五巻第三五五号・第二一四―二一五頁 〔明治二〇年二月一九日〕
    ○京都織物会社の成行
京都織物会社設立に付、三都の豪商等昨年十二月十六日の夜京都木屋町生亀楼に集会して、同会社組織の事を議決したる由は、昨年末の雑誌に記載したりしが、今又た同会社創立に付今日までの成行を伝聞するに、昨年の春京都府勧業課の勧誘に依り西陣織物市場の開設ありしに、未た幾ならすして瓦解の色を現はし、種々計画ありしも到底維持の見込なきより、板原勧業課長高木斉造氏其他市場買次の重立たる諸氏等申合せ、織殿の払下を受て一の織物会社を創立するの計画なりしが、兎角一同協決に至らざりしところ、曩に農商務省技師荒川新一郎氏が共進会に出張の節、府知事の依頼を受て西陣市場をも取調られ、其際西陣織物の改良をも談せられたると見へ、同氏帰京の後渋沢・大倉の諸氏と談し、客年冬東京織物会社創立の計画をせられたり、然るところ曩に計画ありし板原勧業課長高木斉造其他の諸氏は半年間も奔走し、今更当初の見込を失ひたれとも、致方なく東京発起者と共に設立することとなれり、然るに此時京都商工会議所会長浜岡光哲氏ハ此事を聞込や、西陣織物改良に就てハ曾て府知事より委頼もあれバ傍観し難しとて、進んて該相談会に臨み、恰も京都織物商惣代の資格を以て織物会社創立のことを談せられたり、爰に於て織物会社の組織ハ再変したり、(最初は勧業課長高木斉造其他買次商、第二ハ渋沢・大倉・荒川等の東京連中、第三浜岡其他商工銀行の連中か加ハりたるなり)其資本金ハ最初二十五万円の予定なりしに、浜岡氏等立入相談の後先三十万円となりしに、同社設立の報あるや、当業者にて株券申込続々有之、而して在京都の創立委員諸氏創立費用を取調られたるに、染物撚糸場等を付属にすれば資本金五十万円を要するに付、之を五十万円と為し、其の中の幾分ハ当業者の加入を許し、発起人ハ分頭株主たらんと協議し、東京発起人へ照会したるに、東京にてハ、之に不同意を唱へ、今回荒川氏を来京せしめ、撚糸場を付属にせず、資本金ハ三十五万円とし、十一万円を東京発起人持とし、二十四万円を京阪発起人持とせられんことを主張し、若し夫にて不同意なれば分離せんと迄談せられ、京都発起人中にてハ大人気なき申立とし、違論の人もあれ共、斯迄熱心のことなれバ、先づ一歩を譲り、其通りにせんとて此程決議したるか、内実ハまだグヅグヅ苦情ある由なり、何分にも組織の順序前述の通り再変し居れハ、互に多少猜疑もあらん、此末如何なり行くか、又東京発起人申立の要領を聞に、我々の営業をなすにハ織場染場さへ備れハ足れり、生糸の買入なり、其他に営業資本を要せず、原糸ハ産地より買入を望み、製品ハ先方より注文し来らざれハ、迚も営業の利益とならざるなり、且株金を増してハ、自然利益の配当か薄くなり、永遠に維持するの策にあらずといふにある由、又京都発起人の考ハ到底三十万円にてハ迚も盛大に致し難けれバ、今より当業者をも加へ充分にせんといふにあり云々と、同地よりの報知


東京経済雑誌 第一五巻第三五九号・第三五四頁 〔明治二〇年三月一九日〕 ○三会社合併(DK100050k-0005)
第10巻 p.565-566 ページ画像

東京経済雑誌 第一五巻第三五九号・第三五四頁 〔明治二〇年三月一九日〕
    ○三会社合併
 - 第10巻 p.566 -ページ画像 
曩きに京都に織物会社を設立するの計画ありしより、其発起人と同地商人との間に何か軋轢の状ありしよしハ、曾ても記せしが今又京都よりの通信に拠れば、織物会社苦情の余響にて京都発起人中の錚々たる人が主唱し、別に染物会社撚糸会社創立の企てありて、既に染物会社は先んして定款を作り株主を募集したるに、案外の好景気にて募集株金三万円には十九倍の申込ありたれば、織物会社の発起人ハ若し染物撚糸の両会社創立せられ相拮抗するが如きあれば、互ひの不利なりと思惟せしにや大に三社合併の策を運らし、過般来北垣府知事ハ自邸に各会社の重もなる人々を招き、種々合併の義に付周旋せられ、染物・撚糸両会社発起人も終に之を承諾し、本日(九日)は京都商工会議所に於て株主の総会を開き、田中源太郎氏其事情を述べ万一不服の人は株券を譲るより致方あらざる可しと告けしに 是は染物会社の資本中大半は発起人持なれは株主に於て異議を唱ふるも致方なきが故なり 一同異議なく合併するに決して退散したり、左れば此末は東西両派否な各発起人共に協力一致し隆盛を見るに至らん云々とあり果して然れば過般来の軋轢も目出度く玆に局を結び、弥々織物会社の成功を見るも近きにあらん歟


渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 明治廿年四月卅日(DK100050k-0006)
第10巻 p.566-567 ページ画像

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 (京都織物株式会社所蔵)
      ○
(別筆)
  明治廿年四月卅日
拝啓、春暖相加候処益御清迪奉賀候、再来織物会社事務ニ付而は諸事御配慮被下奉鳴謝候、此程荒川氏より定款稿送付有之、尋て又当行支店三木安三郎より創立願書其外書類之稿本御廻し被下、夫々落手仕候定款稿熟覧仕候処、第七章純益金配当之条ニ而準備金之項ニ通常小修繕費用ニ定額を設け、其定額内外を以而通常仕払と、此準備金ニ而之仕払と之別を立て候一項御除き相成候は、実際当任者ニ於而兼而其定度を設置候ハヽ、定款ニ明文無之候とも差支無之様ニは候得共、寧明文を設候方各株主ニ於而も常々其取扱振を領意致し居候功能は多少可有之ニ付、此一項は更ニ御添加相成候方可然奉存候、又第五章株主権理責任之条ニ而委任状之書式は相省き候而も、普通之文法有之差支無之、且相省き候方却而簡約ニ而可然候得共、株式譲替証書書式は到底一様ニ出て不申候而は不都合ニ而、其度々書式を示し候は煩雑ニ付此一項は矢張書式を掲載致し置候方可然奉存候、右之外は参考之料ニ充て候諸社之定款ニ比較致し字句之上処々変改有之候得共、右は却而行文円滑ニ相成候様相覚へ候間聊異議無之候、前条二項は尚御熟考之上敢而御異論も無之候ハヽ、掲載致し候様御取計可被下候
創立副願書ニ有之候近藤・稲畑・高松三氏を欧洲ニ派遣可致事は、実際如何之ものニ候哉、小子之考ニ而は今日会社実際之着手ニ於而は敢而三名相揃ひ欧洲行不為致も可然と存候得共、万一右之御意見通ニ不致候而は実際何々之廉々ニ於而差支、又何々之事務弁理相成兼候間申儀有之候ハヽ不得已事とも存候、其辺小子ニ於而は、未た詳悉不仕候ニ付、此段一応御質問を兼愚見申述候、実際之得失御意見御回示可被下候
織殿地処・建物・器械、払下願書中、代価之処ハ何程位ニ可定模様ニ
 - 第10巻 p.567 -ページ画像 
候哉、已ニ其辺は当路へ内稟等ニ運ひ相付置候事ニ候哉、夫是事情御示し可被下候
当会社之事務ニ付而は将来大小之事件、当方へ御協議之節は都而創立委員之名義ニ而直ニ当方へ御往復被下度、毎時其順序を異ニ致し候而は紛雑之虞も可有之ニ付此段申上置候、宜敷御了意可被下候
此程荒川氏来書ニ同氏も此頃出京相成候趣申越候間、前条貴兄ニ対し御答旁申上候儀ニ付、尤同氏面会之節は尚其段申通候様可致候、左様御承知可被下候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様
      ○

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 明治二十年五月十一日(DK100050k-0007)
第10巻 p.567-568 ページ画像

  明治二十年五月十一日
過日拝呈之一書ニ対し御回示之尊書、昨十日落手拝見仕候、且田中・内貴両氏も此際御出京ニ付、昨夕荒川・稲畑氏とも一会相催し貴方之近況逐一拝承仕候
定款ニ付而之意見ハ昨夜田中氏とも篤と御打合いたし、小生とても強而如斯無之而ハ不都合と申迄ニ主張仕候義ニも無之、只右様相成候方取扱上発輝と可致と心附候儘申上候迄ニ付、可然御取捨可被下候、又技術師洋行之事ハ委細事情承知仕候ニ付、不得已事と御同意申上候
織殿御払下之事ハ今日ニ至り地所家屋ハ見合と申ハ府庁之御処置少々不充分之義と存候ニ付、小生ハ再応知事へ出状致し尚御詮議被下度と懇々申上置候間、委細之事情ハ内貴氏より御聞取被下、老台よりも今一応知事へ御迫り被下度候、既ニ此一事ニ付而ハ最初知事ハ小生ニ口約し、又昨冬小生貴地へ罷出候時も予メ承諾之由、申聞有之又当春知事出京之時ニも何様ニも都合可致と前後三回迄口約せしを、突然都合有之只器械のミ払下と振替候と申ハ、余り知事之言詞信用無之様相成可申と懸念仕候間、押而再願仕候義ニ御坐候、もしも事実差支と申義ニ候ハヽ、せめて器械代之如きハ出格之低価払下相成様仕度ものニ御坐候(田中氏と打合候処ハ器械のミニ候ハヽ、五六千円位ニ仕度と存候、夫是御再案可被下候)
来ル十五日ニハ株主総会相催し候由、且此総会ニて定款議決、委員撰挙等御挙行之由、然時ハ東京株主へも銘々之御通達無之而ハ、撰挙之人名さへ相心得不申差支申候ニ付、昨夜も田中・内貴両氏へ申述候得共、最早時日も切迫ニ付致方無之候間、此度ハ当方株主へハ小生より夫々通達し、詰り小生之意見を東京株主一同之意見と御看做し有之度と御打合申上置候、併向後ハ何卒右等集会等之件ニ付而ハ各員へ夫々御通達相成候様仕度ものニ御坐候
荒川氏身上之事も昨夜本人も出席ニて、詳細打合全く決心従事之筈ニ相成候間、是又内貴氏より御聞取可被下候、且同氏貴方出張之都合ハ皇居御造営事務局之都合等承合候上、可成早く罷出候様心配可仕候
工場之位地ハ荒神口藤田組之所有地適当と存候、可成低価ニ引取同所と御決定相成度と存候
荒川・稲畑其外技術家俸給之事ニ付而も田中氏より愚見御質問ニ付、夫々御答仕置候、是又御聞取可被下候
 - 第10巻 p.568 -ページ画像 
来ル十五日総会ニハ熊谷辰太郎を以小生代理ニいたし、且右を以東京株主一同之意を見表し候都合ニ為致候間、是又御聞置可被下候
右等拝答旁得御意度、如此御坐候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様
      ○

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 明治二十年五月十二日(DK100050k-0008)
第10巻 p.568 ページ画像

  明治二十年五月十二日
拝啓、然者荒川氏身上之義ニ付更ニ吉田次官へ相伺候処、同人御申聞之趣旨ハ荒川も当省必要之技手ニ候得共織物会社創設之事も現下之要務ニ村、枉而其方へ相譲可申、就而ハ身分ハ休職といたし可申積との事ニ候、依而其俸給之事を伺試候ニ右ハ既ニ会社之事務ニ就候上ハ休職ニ対シ支給ハ仕兼可申、乍去尚一応取調候上確答可致と申事ニ候
又皇居御造営事務局之方も今朝杉氏ニ面会談話致候処、会社へ御用達を命し候事ハ多分出来可申ニ付其願書差出候様可致との事ニ候、依而不取敢別紙草案取調御廻申候間、尚御修正之上御差出可被下候、右草案ハ只今急遽之際起草せしニ付字句不穏当と存候、右等ハ充分御修正有之度候、又宛名之処ハ明日荒川へ承合、同人より尚可申上と存候
右之如く御用達被命候上ハ荒川ニ当分御用有之候上ハ、当会社より荒川を差出、御局御用掛といたし織物御用ニ関する事務取扱候様仕度旨をも杉氏へ申述候処、右ニて差支無之、尤御用中ハ相当之手当ハ支給可致との事ニ候、又目下織物之染方ニ必要有之候間、稲畑海外行ハ是非とも一ケ月延引之都合ニ致度、此事ハ既ニ局より府知事へ申通候との事も被申聞候、故ニ稲畑ハ不得已一ケ月出立延引候様致候方無之と存候
併既ニ御用達之下命を受、其上荒川氏此際御用掛と相成居候ハヽ、向後皇居之御用織物ニ付而ハ当会社ニて出来候分ハ無論引受候都合ニ可相成と存候間、先着手之順序ニハ上都合と相考申候
右者此間内貴・田中両氏とも御打合申候義ニ付、其後奔走之上承合候景況不取敢申上候 匆々
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様


渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 ○明治二十年五月廿八日(DK100050k-0009)
第10巻 p.568-569 ページ画像

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 (京都織物株式会社所蔵)
      ○
  明治二十年五月廿八日
貴方五月十五日附御状ハ十八日ニ落手、十八日附ハ廿一日、廿三日附ハ廿六日ニ拝披仕候、織物会社株主総会之義ニ付、先般田中・内貴両氏へも御相談いたし貴方へ書通仕候ハ、西京弊銀行支店之者ニ弥十五日開会の旨申来候間、右ニ而ハ東京株主へも表向通知無之而ハ不都合と存し申上候義ニ候、併十五日附尊書ニて右等委曲了解仕候
河原町織殿御払下之事ハ一旦器械丈ケニ被成候御見込之処、小生より申上候次第も有之、知事ニも強而地所払下を不相成と申訳ニも無之様子ニ付、矢張地所家屋器械共ニて金弐万円ニ御払下相願候由、廿三日附御状ニて承知仕候、小生ハ右代価なれは此際共ニ払下置候方会社之
 - 第10巻 p.569 -ページ画像 
利益と存候、尤も他日工場落成之後ハ地所ハ他へ売却候も相応之利益ハ相生し可申と存候
御造営事務局へ御用達御下命之出願書ハ早々差出候様可仕候、且尚杉氏へ依頼之積ニ候
追而本社工場ニ見込之地所、府庁管理之地ニて払下出願之義拝承仕候場処ハ至極最上と存候、水之性質さへ適当ニ候ハ、聊も異見無之候、早々相運候様御尽力可被下候
偖一事御相談申上候ハ荒川新一郎身上之義ニ候、先頃田中・内貴氏出京之際、一夕会同之上篤と取詰候処ニても必ス相任し可申と確答有之候間、小生ハ御造営局之都合も杉氏へ相願、又本人身上之事も吉田次官へ相伺夫々相運候ニ付其段申遣候処、其翌日ニ至り突然退身之事申来、実ニ何等之意見ニ候哉、更ニ了解難仕、依而至急面会之都合申遣候得共来訪も無之、漸十六日ニ至り面会之処、何か例之遅疑説のミ申居候ニ付、尚丁寧談判いたし折角是迄之行掛ニ付、可成ハ本人を従事為致《(度脱カ)》と存し精々説諭候得共、終ニ廿日ニ至り全く相断候旨来書有之候依而其段速ニ可申上之処、実ハ他ニ心当之人も有之候間右等も聊熟議之都合ニ迄いたし、夫是並而御相談申上度と乍存、右御報知を今日迄遷延仕候義ニ候
荒川之義は稲畑も出京中ニ付、前後之事情委細申含御伝言致候筈ニ付御聞取可被下歟、実ニ頼ミ甲斐なき人物ニて只困却と申外ニハ無之候乍去右様耐忍力ニ乏敷人ニてハ到底見込無之候間、寧ロ今日退身之方却而後来之面倒無之訳とも存候程ニ候
偖荒川義ハ右之次第ニ付、向後此会社ニ当面ニ相立充分引受担任仕候人物、貴方ニ於テ適当之人御考有之候哉、小生ハ農商務省ニ壱人相当之人物有之候間、吉田次官へ相願説諭を致し呉候得共、未タ聢と相応候旨申出も無之候、併到底相応之吏務ニ長し且技術上之大意も相心得計算文書等之事迄稍相熟し候専任者無之而ハ、此会社之業務将来ニ懸念不少候間、幸ニ貴方ニ其人物御見当御座候ハヽ来示被下度、又無之候ハヽ前書吉田次官へ頼入候現ニ農商務省奉職之官員を是非相勧申度と存候ニ付、至急御申越可被下候
稲畑洋行之事も杉氏ハ一ケ月延引可致と被申候、其上専任者を欠候今日ニ付、不都合千万ニハ候得共、暫時御見合之方可然と存候
荒川ハ多くハ農商務省も辞職いたし、御造営事務局へ御用掛と申様なる事ニ相成可申、然時ハ同局へ対する都合ハ縦令此度退身候とも聊便利を得可申と存候
右等之件々、疾出状御相談可致之処、小生頃日来殊ニ多事実ニ寸暇無之、執筆之余暇を得す乍思延引仕候、不悪御諒察可被下候、右貴方来信ニ回答旁要件得御意候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様
  尚々稲畑より只今電報ニて此書状催促之事申来候間、同人へも御伝声可被下候
      ○

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 明治二十年六月一日(DK100050k-0010)
第10巻 p.569-570 ページ画像

  明治二十年六月一日
 - 第10巻 p.570 -ページ画像 
拝啓、然者荒川氏身上ニ故障相生し候義は過日委細御通知申上、且右ニ付而ハ会社之主任者ハ貴方ニ可然人物有之候哉、もし御心当無之候ハヽ現ニ農商務省商務局次長佐野常樹と申人を相勧申度と相考候ニ付至急其辺も御回答被下度旨申上置候間、定而近日御回答相成候筈と存候
此程田中源太郎氏北海道より帰途、暫時当地御滞在之由小生ハ生憎駈違ひ面会不仕候得共、大倉氏より承及候処ニてハ田中氏大倉氏ニ面会委曲御伝言相成候旨承知仕候、而して田中氏之考案ハ荒川氏右様異変有之上ハ、平賀氏ハ如何との事ニ候得共小生ハ平賀氏ハ不適任と存候既ニ過日吉田次官邸ニテも富田局長抔相会し種々相談之際、先以佐野を第一之人物と相考候旨衆評有之、平賀ハ技術方ニハ相当候得共全体之事務ニ任し候ハ不長所と申事ニ御座候
又田中氏より之御申置ニ会社之主任者未定中ニてハ、技術者洋行ハ取急候方との事一応ハ御尤ニ候得共、もし佐野抔を以て専任者ニ使用候御考ニ候ハヽ、技術家欧洲行も今少し御見合被成、可成ハ主任者貴地へ罷越全体之事柄も呑込候上出立いたし候様仕度と存候、総而会社とて尚一家之行務と差別ハ無之候間、主人たる者未定前重要之事ニ着手致候ハ実ニ不好次第ニ候、今日ニ於て遷延いたし候ハ頗ル残念ニ候得共、畢竟荒川ニ誤られ候次第致方無之候
荒川も今日貴方へ出立之由ニ候、皇居御造営局御用達拝命之事ハ同人へも尽力を頼置申候、同人ハ多分同局御用掛ニ転し可申と存候間、既ニ当社ニ従事せさる事と相成候上ハ、余り他人ケ間敷御接遇ハ無之、却而懇親上之御引合被成下度候、右等御用向抔引受候為ニハ聊都合可有之と存候、御含ニ申上候
前陳主任者之事ハ何卒当方都合も有之候間、電報ニて御回報被下度候此段申進候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様
      ○

渋沢栄一 書翰 浜岡光哲宛 明治二十年六月十三日(DK100050k-0011)
第10巻 p.570-571 ページ画像

  明治二十年六月十三日
拝啓、然者貴方織物会社担任者之事ニ付此程高木斉造君出京相成、早早面会之上貴方委員諸君御考案之次第逐一拝承し、小生の愚見も篤と申述、種々御相談之末終ニ佐野常樹氏も今日強而農商務省より相頼候事ハ見合候筈ニ相決申候、尤も技術師欧洲行留守中之処も織殿御払下引受候上ハ、右等之雑務も数多可有之、又工場地所決定之上ハ器械到着之日を計りて、建築等之計画も無之而ハ不相成、其他株金募集等之事も常々専任者取極不申候而ハ自ら御繁忙之委員方ニて掛持之姿と相成候而ハ、自然疎漏之取扱無之とも難申ニ付、右等之庶務ニ相任し候為、船橋之手代田村宗兵衛を仮に副支配人位之積ニ雇入候事ニ打合、高木君より田村へ申談し同人も稍承諾之由ニ御座候、此段御了承可被下候、実ハ小生ハ今一層有力ニて且世間ニ名望も有之人を此際専任者ニ雇入候方と相考候得共、(器械到着前格別之要務無之ニもせよ)高木君より段々貴方委員方之御意見も相伺候ニ付、先其御説ニ従ひ右田村と申事ニ相成候義ニ候、但愚案之名声ある専任者雇入候とて現在織
 - 第10巻 p.571 -ページ画像 
物販売等ニ習熟せし田村之如き人も亦必要ニ付、小生も同人を雇入候義ハ固より同案ニ出候次第ニ御坐候
前陳重立候担任者之事ハ此際暫時猶予いたし、其中小生ニ於て篤と諸方聞合、相応之人も有之候ハヽ其時ニ御相談申上候筈、高木君と御約束いたし候、是又御承知置可被下候
御造営事務局より之御申聞ハ先日廉書ニて申上候通ニ付高木君へも相談仕候処、同君之考ニてハ右等之為稲畑氏出立延引候とて何之効も無之却而他人其御注文を引受、当方ハ其下働いたし候様之至愚之有様ニ帰し可申ニ付、寧ロ早々洋行為致候方との説ニ付是又其案ニ御同意申上候、兎角同局之指揮ハ取留らさる事多く随分困却之役所ニ御坐候
株主総会之事、一日も早く相開度との事ニ付東京株主へ之表向たる通達ハ此度限小生より申通し、総而熊谷辰太郎を東京株主之代理ニいたし候積夫々申通置候、就而ハ東京へ之往復時日等御心配無之、高木君御帰京次第早々開会御取計可被下候
近藤・稲畑等出立為致候ニ付而ハ、会社より命令書之様なるもの相渡し取扱振之大略夫々指揮致度、又滞欧中往復之電報抔ハ暗号を製し、双方ニ所持いたし候様仕度と存候、右ニ付而ハ熊谷辰太郎ハ大阪紡績会社ニて山辺を欧洲へ遣し候類例相心得候ニ付、御聞合之上可然御取究被下度候、但機械代為替送り方又ハ買入ニ付、製造所より割引之事荷造海上保険相付候手順、又ハ其器械日本着之時日都合等迄、前陳命令書ニ詳細認入置度と存候
先頃浜岡君へ申上候荒川へ附与可致株高之事ハ、既ニ同人辞退之上ハ不用ニ付、会社役員持之株ニ被成置、他日担任者撰定之時ニ配与候様仕度と存候、就而ハ払込金等之事も其都合ニ御取計可被下候
荒川氏ハ即今貴方滞在中と存候、先日も申上候如く同氏ハ川島之手ニ附き候様可相成とも相察申候得共、程能御持遇被成《(待カ)》、表面懇篤之御交際を以御造営局之御用向等も幾分か周旋為致度ものニ候、御如在なく御取扱可被下候
右等高木君帰京候ハヽ一々御承知之事とハ存候得共、不取敢一書申上候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    浜岡光哲様
    外創立委員御中


渋沢栄一 書翰 内貴甚三郎宛 ○明治廿年七月十四日(DK100050k-0012)
第10巻 p.571-572 ページ画像

渋沢栄一 書翰 内貴甚三郎宛(京都織物株式会社所蔵)
     ○
  明治廿年七月十四日
貴方七月六日附御状ハ同八日田村・近藤両氏持参拝見仕候、然者宮内省御用向之義ニ付先頃田村氏貴地へ罷越候節、愚案之次第伝言いたし候ニ村、貴方ニ於ても種々御評議之末兎角田村・近藤を出京為致、委員諸君決議之趣旨も当方へ貫徹せしめ、御造営局へ対し候而も不都合之答振ニ不相成様被成度夫是之御意味合逐一両人より承知仕候、元来最前小生之愚案ハ、折角御造営局之御注文此際ニ有之候上ハ、近藤氏之欧洲行ハ暫時延引いたし右御用引受候方当会社之面目とも相成可申
 - 第10巻 p.572 -ページ画像 
と思惟せし故ニ申上候得共、此程近藤出京ニて現在織殿ニ有之候器械等承合候処ニてハ、中々多分之御注文引受候程之整理無之由、然ル時ハ不充分之手続ニて枉而此際之御用引受候よりは、寧ロ早く技師を洋行せしめ他日完全之器械を以、真正之名声を得候方と存し、即田村・近藤両氏へも其旨を回示し御造営局之方ハ程能御断申上候義ニ候、然処其後同局より呼出しニて被申聞候処ハ別紙之通ニ候間、最早技師洋行留守中同局之御用引受候義ハ、先出来兼候ものと御承知被下度候
技師洋行ハ前陳之次第ニ付、可成御取急被成本月中ニも発足相成候様致度、右ニ付近藤始より伺出候書類も先日一覧之為、小生へ差出候間此処封入回却仕候、貴方ニ於て御吟味之上右伺書ニ対し相当之命令書会社より御渡相成且器械買入方順序、及其代金支払之都合、又ハ滞在中往復電報之暗号等迄、百事御注意御申含被下度候、尤右ニ付而ハ大阪紡績会社ニて山辺派遣之例も有之候間、熊谷氏ニ御聞合之上可然御取計可被下候
(欄外記事)
 技師より差出候伺書写ハ封入返上仕候
撚糸之事ニ付、今西氏も同様洋行云々ハ近藤より承合候而ハ不得已義と存候、此度之一行と共ニ派遣いたし万般之事務共々整理候様御取計之方と存候、右ハ電報ニて御返事申上候様との事ニ候得共、既ニ先日両人へも回答候間此書状ニて御答申上候義ニ候
当会社営業目的ニ付此間田村・近藤両氏へ愚案之次第、逐一申述尚貴台及委員方へ縷陳いたし候様伝言仕候、定而御聞取可被下右主要之点ハ将来之営業只面目のミニ拘泥せす、可成需用多き物品を多分ニ製出し会社の利益を計画致度と申趣旨ニ御坐候、総而美術等ニ属し候事業ハ兎角名声を博し候事を主とし、実益ニ注意少く相成候弊有之候得共既ニ合本会社と相成候而ハ詰り利益無之而ハ真実之幸福ハ得難き筈ニ付、其利益ハ却而美術品ニハ無之、普通需用多数之品ニ可有之候間、右等之主眼を以、営業仕度と申訳ニ候、就而ハ此度器械買入ニも自ら関係可致と存し、別而近藤氏へ其段申談候義ニ御坐候
織殿御払下之事、工場地御払下之事ハ拝承仕候、知事公へも一書御礼旁呈上仕候
先頃申上候荒川氏ヘ引宛候株之事ハ、先日田村ヘ伝言仕候、可然御取計可被下候
小生新築之織物注文之事ハ近藤氏ヘ委細相托申候、同人留守中も差支無之様、掛員御立御打合被下度候
株金払込之事ハ端書御通達ニて承知仕候、向後ハ今少々早く御通達被成下度候
右等拝答旁如此御坐候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    内貴甚三郎様
      ○

渋沢栄一 書翰 内貴甚三郎宛 明治廿年八月十六日(DK100050k-0013)
第10巻 p.572-573 ページ画像

(別筆)
  明治廿年八月十六日
去ル四日付十一日付之御状相達し落手拝見仕候、陳者東京株主三井取引之分を除く之外、各位払込金取扱方御相談之次第者便利之方法ニ而可然と存候処、右者各位之承諾可要ニ付、小子より早速各位へ照会致
 - 第10巻 p.573 -ページ画像 
し、其承諾取纏め候上尚可申上候間、左様御承知可被下候
又東京株主払込金者其時々西京支店へ付替ニ不致、本店へ預りニ致し置、外国為替買入之節、当方ニ而相弁し候様被成度旨承知致し候
技師洋行ニ付当地へ罷出候ハヽ諸事可然嘱示可致様承知致し候、過日来稲畑・近藤両生及浜岡・高木両氏も夫々出京相成候ニ付、去ル十一日右四氏ヲ拙宅へ相招き稲畑・近藤両氏ニ者彼地ニ於而研学可致事項諸器械買入方之注意、其外両氏ニ於而必用心得方等細大心付候廉々周詳申談候処、両氏共十分領意致し満足ニ相心得候旨申述候、浜岡氏ニ者貴社大体ニ関スル之小子之意見、及此度洋行ニ付監督方之注意等、是亦懇々談話致し内外之諸項十分協議を遂け、四氏一同其十三日ニ乗船出発致し候間、此段御安意可被下候
又右ニ付技師へ御渡し相成候命令書、及浜岡氏へ付し候委托書等も、夫々本人より承り且技師之分者一覧をも致し委細領意致し候間、左様御了知可被下候
高松長四郎氏事御先書ニ者一時延引可相成様子之処、其後同人担当之事項、勉励之為め都合能く整頓致し、弥諸氏と共に出行可致由を以而弥十三日之出船ニ乗込候趣、横浜より電報相接し候次第、是亦御安意可被下候
織殿御払下之儀も都合能く相運候趣、並ニ地所購入事情等も浜岡氏より委細承知致し候、此上尚夫々好都合ニ相運候様御取計被下度相願申候
此度御地支店三木安三郎之来信ニ拠れハ、頃日東京株主中其持株を他ヘ譲渡候哉之御聞込ニ而、御懸念有之候様之御話有之趣ニ承知致し候処、実際右様之事者有之間敷と存候、乍併万一を慮り尚小子より各位へ申談し、夫等之御心配不相成様ニ取計可申候間御安意可被下候
右者御答旁申上度如此御座候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    内貴甚三郎様
      ○

渋沢栄一 書翰 内貴甚三郎宛 明治廿年十月一日(DK100050k-0014)
第10巻 p.573-574 ページ画像

  明治廿年十月一日
客月九日附御状御状ハ《(日付脱カ)》其時々落手仕候得共、小生其後引続き多忙ニて拝答延引仕候、先般浜岡氏始技師洋行之際ニハ、幸ひ当地ニて緩々面会百事打合もいたし候、又近藤・稲畑両氏へも向後之心得方、小生之見込丈ケハ丁寧申談置候義ニ候、高松ハ漸ク乗船ニ間ニ合候迄ニて東京へ参り候時間無之面会不致候、併横浜より電報ニて一同乗船之事ハ申越候義ニ候
東京株主より株金払込之事ニ付而ハ、其取扱向区々ニ相成候而ハ向後とも面倒ニ付、先頃小生より一同へ廻状申遣し(別紙写之通り)一同右ニて承諾相成候間右之手続ニ御承引被下、最初之払込金よりして貴社之受取書(各員ニ分割して)当方へ御廻被下度候、而して此後之払込も其時日御通知之節、同様受取書当銀行へ御遣被下候ハヽ東京ニて其金額取集、弊行貴地支店より為替を以、貴社へ入金可致右之手続ニて払込相済候迄ハ株券ハ其儘貴社へ御預り置、右相済候後、受取書と引換ニ株券御交付可被下候、右者貴方より来示も有之候得共、前段之
 - 第10巻 p.574 -ページ画像 
取扱ニいたし候方双方之便利ニ付、当方ニ於て一同へ申談都而承諾相成候ニ付、右ニ御承引被下、最初及二回之払込ニ対する受取証早々御遣し可被下候
右之取扱方ハ為念、貴地弊支店三木安三郎へも申遣候ニ付御引合可被下候
撚糸場之地所適当之処無之、御困却之由折角将来之便否御熟案御取極有之度候
田村宗兵衛氏ハ先般より出京、未タ帰京無之由ニ付此程一寸弊行へ呼寄、面会之上向後充分当会社之事務尽力致呉候哉否其意見問合申候、同人之答ニハ東京之用事も四五日間ニて片付候間、十月十日前帰京いたし弥以飽迄会社事務ニ勉励可致と申事ニ候、為念申上候
先頃小林義雄と申者、小生より貴会社へ御注文申上候織物之事ニ付、貴方へ罷出実地も一覧之上御引合申上候由、同人帰後之話ニてハ即今織殿之有様ハ充分之主任者無之故か、其事務も余り整理せし様ニも不相見、且事業緩逸之姿ニ相見候云々噂有之候、右者他方より暫時間之見聞ニて素より信すへき事とハ不存候得共、外見右之説を受候ハ会社之体面不好次第ニ付、伏臓なく申上候、何卒技師留守中ニても旧織殿工事丈ケハ充分整理いたし、其仕事も器械之力ニ堪候限リハ相働候様仕度奉存候、右等拝答旁如此御坐候也
                         (朱印)
                     渋沢栄一 (印)
    内貴甚三郎様
(朱書)
  写

渋沢栄一 書翰 内貴甚三郎宛 明治廿年九月十六日(DK100050k-0015)
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(別筆)
明治廿年九月十六日
拝啓、然ハ京都織物会社第壱回払込済ニ付、御同様之株式券状ハ同会社ヨリ同地当行之支店へ渡置候旨申来候、右者今後時々払込も御座候ニ付、其都度当地より記入の為メ逓送致し候ハ、中々手数相掛り候処より右之便法相設候義と存候、西京支店ハ当地株主之代理者ト相成、払込之都度、株券を同社へ持参記入取計候ハ、取扱上迷惑之義も御座候ニ付而ハ、御同様之株式券状ハ一旦会社へ相戻し置き、先般払入候第壱回之受取証、並ニ向後払込ミ都度領収証書を取置、追而株金全額払込之上、該領収証を以て株式券状と引換候様ニ致し候ハヽ、双方之便利と被存候間、此取扱ニ而御異存も無之候ハヽ、同社へ其旨申遣し度と存候、又払込半ニて株券入用之節ハ受取証を送付致し候ハヽ、何時ニ而も株券相渡し候筈ニ有之候
第弐回払込之義ハ本月廿日ヨリ二十五日迄ニ、払入候事ニ同社より通知有之候義と存候間、右日限迄ニ御払込金ハ第一国立銀行へ御払入被下候ハヽ取纏メ西京支店へ付替、同処より入金之手続取計可申、此段御通知申上候
右之段申上度御意見も御座候ハヽ御示し被下度候 匆々不一
                    渋沢栄一
  西村虎四郎 様
  大倉喜八郎 様
  今村清之助 様
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  益田孝   様
  深川亮蔵  様
  西園寺公成 様
  浅野総一郎 様



〔参考〕田中源太郎翁伝 (水石会編) 第九〇―九二頁 〔昭和九年三月〕(DK100050k-0016)
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田中源太郎翁伝 (水石会編) 第九〇―九二頁 〔昭和九年三月〕
 ○第二章第一節 銀行及諸会社の経営
    七 京都織物株式会社
 明治五年、時の京都府知事長谷信篤氏は、早くも京都織物の生産改良に着眼し、佐倉常七・井上伊兵衛・吉田忠七の三人を選んで、世界織物の本場たる仏国リヨンに派遣し、優秀な技術を学ばしめた。翌年墺国ウインに開かれた万国大博覧会に、日本が賛同することになつたのを機会に、特に西陣の優良工中より、伊達弥助・中村喜一郎の両君を選みて仏国に留学せしめ、織物及染色の技術を練習せしむる所があつた。
 これ等留学生の帰朝と共に、ジヤカード織機を輸入し、明治七年六月、初めて織工場を設け(十年に織殿と改称)これ等洋式織機を使つて織物の製作を試みた。別に八年十一月には染殿を設け、従来の褪色し易き本邦の染法を改良して化学的な染方を伝習し、以てその頃の幼稚な当業者の啓発に努むる所があつた。
 一方八年三月には染織・撚糸・織物整理並に機械の技術を練習せしめたるため、学生数名を仏国に派遣した。この学生中には、近藤徳太郎・稲畑勝太郎・高松長四郎等、後年、世に名を成した人々もある。これ等の人々は帰朝と共に織殿・染殿に技師として採用され、欧洲新式の織物製作に従事すると共に、傍ら西陣を中心とする染織業者に学理の一端を教授説明する等実際の仕事によつて染織業の模範を示し、斯業の改善を図つたものであつた。然しその頃には当業者にも未だ守旧的の考へが多く、一足飛びに洋風に変更することは容易でない。従つて所期の効果を収むることはなかなか出来得なかつた。
 然るに明治十七・八年の頃から、家屋の建築頓に洋風を増し、宮中を始めとし諸官公衙・貴族紳士の邸宅などは、何れも欧風を加味し、殊に上流婦人の服装が宮中の御式典を始めとし、一般交際場裡に於ては洋装に変ずるやうになり、時代の要求は洋風万能の観を呈し、玆に端なくも染織業に一大革命を施こさねばならぬ時機が到来した。
 時の北垣知事は斯くの如き趨勢に鑑み、染織事業の如きは到底官営又は公営によつて経営するの困難であることを察知し、本市の有力者田中翁を始め浜岡・内貴の諸氏東京の渋沢氏等に対し、邦家の為模範工場を興して斯業の発展を図られたいとて、民間会社設立の急要を力説勧告して止まなかつた。
 仍つて田中翁は浜岡光哲・内貴甚三郎・中井三郎兵衛・渡辺伊之助・高木斉造氏等、市内の有力者及び予て先輩友人として親交のあつた東京の渋沢栄一氏にも諮り、全部で四十余名の同志相会し、逐一協議の結果、敢然として京都織物会社発起の事を決したのである。これ同社
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の濫觴である。時に明治十九年十二月十六日。
 かくて翌二十年二月二十七日、翁及浜岡氏等十一名は発起人総代として創立願書を京都府庁に提出し、之が認許を受けた。 ○下略
  ○時ノ京都府知事北垣国道ニ就テハ「田中源太郎翁伝」(第三三五―三三六頁)ニ拠レバ次ノ如ク記セリ。
   「北垣国道男は、明治十四年、高知県令から京都府知事に栄転して来た人で、爾来二十五年迄十一年間の長き本府に在職し、明治の中葉時代を一貫した京都府政振興の大功労者である。田中翁は恰も当時府会議員に挙げられ、男の来任後間もなき明治十七年以後六年間を通じて、府会議長及郡部会議長、常置委員等の要職に挙げられ、府政の実権に参与してゐたので、男とは常に府政上の問題につき交渉があり、公職上自然交誼を厚くし、所謂肝胆相照の間柄となつてゐた。従つて私的にも亦親交の度を加へ、何事によらず、無遠慮に胸襟を開き、腹の底を打ち明けて語り合ふといふ真友にして又益友といふ仲であつた。
    大正六年三月、男の薨去後一星霜を経た頃、相国寺で、追弔法要が行はれた。」


〔参考〕浜岡光哲翁七十七年史 第一五〇―一五二頁 〔昭和四年八月〕(DK100050k-0017)
第10巻 p.576 ページ画像

浜岡光哲翁七十七年史 第一五〇―一五二頁 〔昭和四年八月〕
    京都織物会社
京都織物会社は市に於いて明治初年織殿創始当時の真摯なる先覚者的精神を継承して、翁等の発企せしものにして、経営の規模は翁一流の企劃により極めて積極的に拡大せられ、その資本金五十万円は当時の業界稀有の大資本にして、恐らく現在一千万円の会社創立に相当し、或ひは夫れ以上に相当す。翁は田中(源)・内貴氏等市の富豪の外、渋沢・大倉・浅野氏等中央財界の巨頭を大株主に加へたるが、渋沢子は翁と親密にして最初より会社の設立に太く尽力するところあり。内貴氏を最初の社長とし、氏辞任の後、子は出でて社長となり、子の後田中源太郎氏の就任を見たるが、翁は単に一重役たるに止まり、依然表面に立たずして、その経営につき応援し、明治二十・二十一年の外遊中に於ても、専ら会社の設備を整ふるため奔走し、会社将来の発展を図るに余念なかりき。
 京都織物創立の趣旨は精巧の国産品を生産して、外国品の輸入を防遏し、進むで京都織物の精華を発揮して海外輸出の途を拓くにあり。当時、我が国策は条約改正問題を控へて、事毎に欧化政略を採用するに傾き、伊藤首相・井上(馨)外相等挙つて洋風を鼓吹し、政府者自ら、首相官邸に、鹿鳴館に、頻頻として夜会・舞踏会・仮装会等の催しを行ひ、国民の衣・食・住を挙げて欧米化せしめむとせし所謂西洋かぶれの時勢なりければ、翁や、渋沢子や、其の他発企人諸氏や、皆我が国に西洋婦人服の需要の将来必ず夥しかるべきを予想し、会社の営業科目を先づ高級婦人服地の製織に置きて、彼の仏国里昂府の織物に譲らざる優良品を生産するを理想とし、次いで羽二重・繻子等の生産に力め、染・再製をも製織に合せ行ふこととし、社内に之が各工場を設け、織物は近藤徳太郎、再製は高松長四郎、染は稲畑勝太郎の三氏各主任技師として当るに決定。三氏は共に織殿染殿時代、舎密局の伝習生にして、就中、稲畑・近藤両氏は明治十年、京都府より仏蘭西へ、化学工芸研究の為め派遣せられたる留学生団中の俊才なりし也。

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〔参考〕稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二〇三―二〇八頁 〔昭和一三年一〇月〕(DK100050k-0018)
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稲畑勝太郎君伝 (高梨光司編著) 第二〇三―二〇八頁 〔昭和一三年一〇月〕
 ○第三編第三章 京都織物会社と君
    三 織物会社設立さる
 斯くて織物会社の創立計画は、着々として進捗し、東京に於ては渋沢栄一を始めとし、益田孝・大倉喜八郎・今村清之助等多数の実業家の賛助を得ると共に、地元に於ては、内貴甚三郎・田中源太郎・浜岡光哲・中井三郎兵衛・渡辺伊之助・高木斎造等協議の上、明治十九年十二月十六日創立発起人会を開き、会社設立のことに決し、翌二十年二月十七日田中源太郎《(廿)》・浜岡光哲・内貴甚三郎等十三名発起人総代として、創立願書を京都府知事北岡国道宛《(垣)》に提出した。
 当時発起人一同が世間に発表した創立趣意書は左の如くであつた。
   ○創立趣意書略ス。
 斯くて前記創立願書は、明治二十年五月五日附にて認可され、翌六月二十二日創立創会《(総)》を開き、資本金五拾万円(内払込四十五万円)の京都織物株式会社は正式に創立の運びとなつた。
 その頃京都府下に於ては十数余の事業会社があつたが、資本金五拾万円の株式会社としては関西貿易会社と京都商工銀行の二社だけで、他は概ね二十万円以下に過ぎず、生産事業の幼稚であつた当時としては、五拾万円は相当の大資本であつたと云つてよい。
 而して会社役員には、委員長内貴甚三郎・委員田中源太郎・浜岡光哲・渡辺伊之助・熊谷辰太郎(検査掛)・相談役渋沢栄一・大倉喜八郎・益田孝等が就任し、内貴委員長の下に副支配人として、田村宗兵衛が任命されたが、会社の大株主としては地元の田中・内貴・浜岡等の外、東京の渋沢・大倉・今村・浅野等が加はり、明治二十一年六月末現在の株主総数は二百五十八名であつた。
    四 織物会社に入社
 君は前述の如く当初よりして織物会社の設立を目論見、屡々その意見を北垣知事以下関係当局に上申し、或ひは東京に於て渋沢等に勧説した関係もあり、此の新設会社とは因縁の浅からざるものがあつたのみならず、当時京都府の方針も極力此の会社を後援するにあつたので旁々以て会社創立と同時に京都府御用掛を辞し、技術方面の担当者として入社することゝなつた。
 往年君と共に仏蘭西に留学して、織物方面を研究した近藤徳太郎並に稍遅れて独逸に留学し、染色方面を研究した高松長四郎も、亦新会社の技師として入社した。即ち従来の専攻に依つて近藤は織物を、高松は整理を、君は染物を、各自主任として担任したのであつた。
 当時織物会社の将来に就ては、多少疑惧の念を抱くものもないではなかつたが、会社の創立者が渋沢栄一を始めとして、東西一流の実業家であつたゝめに前景気は頗るよく、最初参拾万円に限定せんとした資本金を五拾万円に増加した位で、その株式には多額のプレミアムが附き、証拠金壱円払込済株式申込証は、最高五十円を呼ぶに至つた。
 是より先京都織物会社では、創立認可の直後(明治二十年五月十九日)京都府知事に向つて、京都市内二条河原町旧角倉屋敷にあつた織
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殿の地所建物及機械設備等の払下願書を提出したが、同年七月一日その聴許があつた。払下価格は地所建物壱万円、諸機械壱万円合計弐万円で、時価より数倍廉きものであつた。