デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
2節 蚕糸絹織業
3款 富岡製糸場払下問題
■綱文

第10巻 p.648-667(DK100059k) ページ画像

明治10年10月(1877年)

是ヨリ先、原六郎在英中、同地ニアリシ井上馨等ト本邦貿易振興策トシテ生糸ノ生産改良ノ急ナルヲ論ジ、富岡製糸場ノ払下ゲヲ画ス。依ツテ是年五月、原ハ急遽帰朝シテ該件ニツキ奔走ス。

是月井上馨ハ、横山孫一郎ニ托シテ、富岡製糸会社設立ニ当ツテハ栄一並ニ益田孝ヲ加入セシメ、栄一ヲ頭取、益田孝ヲ支配人トナスベキ旨ヲ伝フ。

然レド当会社ハ遂ニ設立ヲ見ルニ至ラズ。


■資料

原六郎翁伝 (原邦造編) 上巻・第二三九―二八三頁〔昭和一二年一一月〕(DK100059k-0001)
第10巻 p.648-661 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 上巻・第二三九―二八三頁〔昭和一二年一一月〕
 ○後篇第一章 貿易事業に対する翁の貢献
    第一節 富岡製糸場払下計画
 明治四年、翁が鳥取藩の官選留学生として軍事研究の為め初めて米国に渡つた時は、宛かも南北戦争の後を受けて同国の経済界は過度の紙幣発行に苦しみ、朝野を挙げてその善後策に腐心してゐる最中であつた。紙幣の価は騰降常なく、政府は各地に国立銀行(ナシヨナル・バンク)を設立してその作用により紙幣の回収、整理に余念が無かつた。翁が旅費として日本から持参した貨幣を残らず紙幣に換え、同国の銀行に現物保管を依頼して置き、後に紙幣の価格が騰貴したために巨利を博したのはこの時である。翁の興味は軍事研究から離れて次第に財政・経済の方面に移つて行つた。事実米国当時の財政状態は、維新動乱の後を受けて財政上非常の苦境に陥つてゐた我国にとり、他山の石とするに充分であつた。殊に翁が軍職にあつて杖とも柱とも頼んでゐた大村益次郎が、不慮の死を遂げてからは、日本の軍部は薩長藩閥の専制に帰し、明治政府そのものゝ実権すらも薩長出身者によつて壟断せられる日が来ようとしてゐた時である。直接これらの藩閥に深い関係を持たない翁が、軍人としての将来は最早や行詰つてゐたのである。翁が潔く中央を辞して鳥取藩に帰つた時、既にその胸中には軍人を見限り、平和の戦士たらんとする堅い決意が蔵されてゐたものの如くである。米国渡航後間もなく廃藩置県のため藩よりの旅費支給は杜絶したが、翁は決然軍職を辞して彼の地に留まり、紙幣買占めで儲けた金を学費に充て、米国のみならず英国に迄経済学、就中銀行・金融論修業の遍歴を続けたことは前編に述べた通りである。
 併し乍ら明治十年三月、翁が海外留学から急遽帰国した直接の目的は、銀行業とは関係のない官設富岡製糸場の払下げを受ける為であつた。即ち翁はキングス・カレツヂにおいてレーヴイ博士指導の下に経済学を研究する傍ら、当時ロンドンに滞在してゐた井上馨・沖守固・
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横山孫一郎の諸氏と共に明治政府の財政的危機を打開する積極的方策として貿易事業を企て、特に日本生糸の生産方法を改良してこれを海外に輸出し、国際市場における欧洲生糸を駆逐しようといふ遠大なる計画を進めてゐた。
○中略
 宛もその頃井上馨氏は欧洲各国に於ける財政経済事情を調査研究すべく政府の指命を受け、家族・随員と共に本国を出発し、米国経由、明治九年九月十二日に倫敦へ到着した。当時井上氏は既に齢不惑を越えてゐたに拘はらず、著英後における勉強の態度は真摯を極め日夜読書に親しんだ。なほ毎土曜日には同地に留学してゐた日本人学生を自分の宿舎に集めて経済学書の輪読を行ひ、それによつて得たる学理を我が国の実際問題に照応しつゝ研究を進めた。
 この井上氏を中心とする読書会に集る顔触には、横山孫一郎・沖守固・中上川彦次郎・小泉信吉等の諸氏があり、翁も亦かうして井上氏から直接薫陶を受けた邦人留学生の一人であつた。国家革新の理想に燃えるこれら留学生の急進思想が社会・経済に対する実証的研究の進むにつれて次第に穏健、着実かつ実際的になつて行つた消息は、当時井上氏が親友木戸孝允氏に送つた手紙の一節にも窺ふことが出来る。
 「従来日本に在る時は、フリイ許りをロジカルに唱へ候者も、近来は大いに悔悟候て、至つてコンソルベーチーブと相成り、民撰議員杯《(抔)》も中々行はれ難きことも相分り、プラクチースに無之ては、国の第一たるウエルスを増殖する等出来ずと云ふ説を起し、毎サチユーデー毎に生の居処へ集合候て、ポリチカルエコノミーの書を輪読仕候て、夫より其書を日本の実事に宛てはめ論じ、大なる益と奉存候位に候故、真の学問を志す人、又真に憂国心ある人は、追々コンソルベーチーブに趣き、中々相楽み居申候。愈以て急進することは不宜様相考へ候。(世外井上公伝第二巻)
 翁等がかねて計画してゐた生糸直輸出の振興による商権奪回の運動が、この研究会における格好な問題として取りあげられたことは勿論である。研究はやがて実行へと発展し、玆に井上氏を顧問とし、翁並びに横山氏等が中心となつて貿易商社設立の相談が纏つたのである。
 併し乍らこの計画を実行に移す為には、先づ日本生糸の生産方法を改良し欧洲生糸にまさる良質・安価なる製品を大量に生産するに足る設備を持たなければならぬ。そこで翁は既に明治政府が近代的模範製糸工場として上州富岡に建設した富岡製糸場の払下を受け、これを欧洲最新の設備を参考にして改組し、その生産品を輸出する貿易商社を作り、倫敦にその支店を設けて英国商人との間に直取引を開殆しようといふ案を立て同志の承認をえた。特に富岡製糸場の払下に関しては同工場の創立に深い関係のある井上氏に斡旋方を依頼し、直接交渉は勿論翁自らこれを担当することに決した。かやうにして翁は幼少の頃佐中の生家で家業を手伝ひ、繭や生糸の売買に鍛えた商才を今は国際貿易界の檜舞台で発揮する時が来たのである。
 翁等が払下げを受けようとした富岡製糸場は大隈重信氏の大蔵大輔時代に創設せられ、大蔵大丞渋沢栄一氏がその創立委員長であつた。
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最初仏蘭西人技師ブリユーナーを招聘して奥州・信州・上州の各地を視察研究せしめた結果、結局岩鼻県の管内に属する上州富岡を最も適当と認め、明治三年十二月四日この地に製糸場建設の布告が出されたのである。この製糸場は初め民部省の庶務司で管轄してゐたが、明治四年七月官制改革の時に大蔵省勧業司の管轄に移され、ここに始めて当時大蔵大輔となつた井上侯との関係が生じたのである。井上侯はかねてから生糸の貿易を重要視し、その奨励の為に資力を惜まず富岡製糸場を模範工場たらしめようと努力した。この工場が落成開業するに至つたのは明治五年である。同年六月五日井上侯が勧農寮に起草せしめて全国に令達した告諭文に云ふ
  日本之産物ニテ、交易ノ大ナルト金高ノ上ルトハ、生糸ニ過ルモノナシ。外国人モ之ヲ貴ビ、御国中ノ利潤トナル事之ヲ以テ第一トス。然ルニ御国ノ生糸カクノ如ク上品ナルハ、土地ノ宜布故ニテ、其製法ニ至リテハ只人々ノ覚ヘシ手心ヨリ出来セルモノニテ、其法未ダ精シカラズ。近年交易ノ繁昌スルヨリ、粗悪ノ品次第ニ多ク、其上、御国中一様ナラズ、品柄宜シカラザレバ、外国人モ之ヲ貴バズシテ値段モ次第ニ下落シ、交易ノ利分モ大ニ減少ス。此損失ハ唯生糸ヲ製スルモノ而已ニアラズ、自然総体之不融通トナルナリ。然ルトキハ、御国産第一之品格ヲ落シ、其害全国ニ及ビ、貧困ノ基ヲ生ズ、歎クべキ事ナラズヤ。右ニ付、朝廷万民ノ為ヲ被思召、此貧困ノ基ヲ去リテ、家々富饒ノ利ヲ得セシメントノ御趣意ヲ以テ、上州富岡ヘ多分ノ入費ヲ掛ケ、盛大ナル製糸場ヲ御建被遊、仏朗西ヨリ生糸製造之師ト男女之職人数名ヲ雇ヒ入レ、当夏ヨリ無類精好ナル生糸ノ製造ヲ御始メ被成、御国中製糸ニ志アル者ヘハ士民ヲ不論熟覧ヲ許サル。此製糸場ニ於テ、女職人四百人余御雇入相成、製糸ノ法ヲ学バセラルベキニ、右女ハ外国人ニ生血ヲ取ラルル杯《(抔)》ト妄言ヲ唱ヘ人ヲ威シ候者モ有之由、以テノ外ノ事ニ候。右女職人ハ糸製ノ術伝習ノ上ハ、御国内製糸ノ教師ニ被成度御趣意候バ、決テ無疑念伝習ノ為メ差出シ可申、妄言ニ惑ヒ候テ御趣意ニ悖リ候様ノ儀無之様可致。此製糸場ニカク迄入費ヲカケ盛ニ開カセラレ候御趣意ハ、前文ノ如ク、御国生糸ノ品万国ニ勝レ、永遠ノ御国益ト相成、全国ノ民ヲシテ皆富饒ノ利ニ潤ハセンガ為ニテ、只上ヨリ御世話被成候儀ニテ、決テ下民ノ利ヲ上ヨリ奪候様ノ訳ニ無之、御場所悉皆成就、製糸ノ術習熱ニ至候ハバ、民間望ノ者ヘ御払下ゲモ被仰付度御趣意ニ候間、郡村製糸ノ者ハ不及申、四方ノ人民厚ク御趣意ヲ弁ヘ、製糸ノ術ト伝習ニ心ヲ入レ、精好ノ品多分出来候様有之度候也。(大蔵省布達全書)
 その後この製糸場において、ブリユーナー技師は繭の乾燥法を伝授し、機械製糸の範を全国に示し、将来我国における私立製糸工場勃興の誘因を作つた。(世外井上公伝第二巻四五七―九、四六九頁)
 しかるに他の官設模範工場がさうであつたやうに、この富岡製糸場も亦経費のみ蒿んで、営業の点では到底採算のとれよう筈はなく、たださへ窮乏の極にある政府の財政を一層苦しめる許りであつた。やがて西南戦費のために明治政府の財政が破綻に頻《(瀕)》するや、政府はこの算
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盤のとれない国営産業を全くもて余すやうになつた。かうした事情に最も通じてゐた井上氏がこの製糸場の民間払下に双手を挙げて賛成したことは勿論である。
 そこで翁は先づ工場施設改善の参考に資する為、明治九年夏にはランカシヤの機業地を訪ねて同地方の模範大工場を視察し、或は同年の秋から明治十年の初頭にかけて仏蘭西に渡り同国における絹織物の生産状態を視察したりした。ランカシヤへの旅行は恩師レーヴイ教授と一緒であつた。この時レーヴイ氏は行く先々でこの地方の労働者に対し同盟罷工、工場閉鎖等の問題について講演を試みたが、翁はこれらの講演会には必ず出席して師の所説を傾聴した。(附冊外遊日記一頁参照)それと同時に貿易上必要なる知識を得る為、プライス教授の、「通貨と銀行」を読んだり、統計学(算数表書) 保険学 (受合組立書)等を勉強したりした。就中ミルの「経済学原論」は最も愛読したものらしい。後年帰国の途中香港で汽船を乗り替へる際に、前の船の甲板に該書を忘れて「実に遺憾極まる次第也」と嘆いて居る。
 かやうにして将来の目的を達成するに必要な理論上・実際上の識見を高めることが出来、且つ在英邦人有志の賛成を得たので、予め蜂須賀公使や井上馨氏を通じて本国政府の要路者特に右大臣岩倉公に了解を求めて置き、愈々翁は帰国し富岡製糸場の払下に着手することになつた。
 明治十年三月三十一日、翁は同志井上・沖・横山の諸氏に見送られて倫敦を出発し、蒸汽船ヴオルガ号に乗つてヴイクトリヤ・ドツクから出帆した。この時の同航日本人は菊池大麓氏唯一人であつた。途中ジブラルタールに上陸して同地の要塞設備を詳細に調べ、かつての軍人原六郎の面目を躍如たらしめてゐる。
 船がポートサイドに近づいた時、はじめてこのヴオルガ号が予定の五月廿三日迄に、横浜に入港しないことがわかつた。若し然りとすれば、同年の初めに製糸場を買入れようと云ふ、最初の計画に齟齬を来し、在英の同志に迷惑を及ぼすことになる。慌てた翁はポートサイドで実に苦心惨憺して、菊池氏と共に、仏蘭西の郵便船アバ号に乗り替へ、航海を急いだ。アバ号には仏国公使館附一等書記生兼松直稠氏・曾根荒助氏及び一人の仏蘭西学生が乗り合せてゐた。兼松氏は翁の出帆後倫敦に渡り、井上氏や横山氏等にも会つてそれらの人達から製糸場払下の事を聞いてゐたので、翁は兼松氏について其後の倫敦に於ける同志の情勢を詳しく聴取することが出来た。そこで翁はポートサイドから横山氏等にあて書状を送り、今年度に於いて仕事を始めることは既に時期遅れなること、若し時機至つて仕事を始める場合には各自金策に奔走せられ度きこと、又依然技師ブリユーナーを雇入れるにしてもその給料は純益金の十分の一以上を同人に与へてはならぬこと等の意見を伝へてゐる。
 四月廿九日朝、翁等一行を載せた船は、セイロン島のガレ港に入つた。丁度露土両国が戦端を開いたあとで、糸相場が乱調子なる旨、倫敦の横山氏から電報で報告して来た。翁はこれに対し製糸場買収を目論む自分等にとつてはこの両国が戦争をして糸相場が下落するならば
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反つて好都合であらうとの返事を出してゐる。
 五月八日、西貢へ着くと、同地からも先便と同様の趣旨の手紙を書き、製糸場買収の件に関しては嚮きに兼松氏から倫敦におけるその後の事情を聴いて、明年に延期するやう意見を述べたのであるが、その後露土戦争が起つたとすれば製糸場買収を掛合うには最も好都合であり、糸相場の下落は決して心配するに足りない。依つて若し再び相場が沸騰するやうな事があれば至急電報で知らせて呉れるやうにと頼んでゐる。
 偶々同船した仏蘭西学生の兄も亦日本において富岡製糸場にブリユーナー氏と共に勤務してゐることを知り、仏蘭西語に堪能な兼松氏を通じて同人の兄の動静を探らしめた。翁等の抱く製糸場払下計画の漏洩を懸念したからである。
 五月十二日午後一時、船が香港に入るや、翁は直ちに同地の日本領事館を訪ね、そこではじめて「鹿児島一揆」の事情を精しく聞いて深く驚き、且つ慨嘆せざるをえなかつた。即ち全国打つて一丸となり外国との経済競争に進出せねばならぬ重大時局に当り、一巡警が内務卿の命令を受けて西郷翁の暗殺を企てたと云ふやうな真偽の程もわからぬ事を理由として、同胞相食むが如きは翁にとつては如何にしても堪えられない出来事である。まして翁の熟知する大久保利通・西郷隆盛程の大人物が今日に至つてかゝる不始末を仕出かそうとは、翁にはどうしても信じられなかつた。香港では再び船をアバ号からチーブル号に乗り替へた。ミルの経済原論を置き忘れたのはこの時である。この船はアバやヴオルガに比較して至つて小さくその後の航海は余程難儀だつたらしい。
 同年五月二十一日、船は無事横浜へ入港した。明治四年六月廿三日翁が同港を米国郵便船アメリカ号に便乗して出帆して以来、丸六年振りに郷国の土を踏んだわけである。
 船が横浜に入港するや、翁はその日の夕刻直ちに、先づ六年前出発の折同航した親友池田徳潤氏を築地の自邸に訪ねて上京した。同氏の宅に暫く落ちつくつもりであつたからである。しかるに訪ねて見ると同氏は当時熊本に出征中であることがわかり、独り留守宅に世話になるわけにもゆかず同夜は仕方なく築地の精養軒に一泊した。
 その翌日から旅の疲れを休めるいとまもなく、翁は直ちに活動を開始し、先づ岩倉公と関係の深い原保太郎氏・松田道之氏及び岩倉公自身等多数の人々を歴訪して帰朝の挨拶を述べ、かつ井上氏から託せられた手紙を手交した。その折松田氏にだけは密かに自分が今回帰朝した真の目的を打ちあけ、その協力を懇願したのであつた。
○中略
 六月七日愈々在京の関係者との間に相談が纏るや、翁は大蔵省本局橋本正人氏の紹介状を持ち、出野楽氏を同伴して上州富岡へ向つた。九日製糸場に出頭来意を告げ、場内を一覧し、工場の景況・収支計算等に亘つて精しい調査を行ひ、種々貴重な材料を得て翌十日に帰京した。帰京後これらの材料に基いて一気に書きあげた報告書が「製糸営業概見」である。
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    製糸営業概見
 富岡製糸場設立の本旨は、我国産蚕糸の製方旧慣に因依して粗悪に安んじ、随て其価値の下劣なるを患ひ、之を精製に誘致せんと企望し遠く法国より教師を雇入れ、彼の器械を以て、我婦女に習学せしめ、我産物を良好の極に至らしめんが為にして、今や其試業五年にして初めて其方を全ふし、現に昨年の計算の如き純益拾余万金を出し(伊・法の不幸、本邦の幸福となるとも)偉功を奏するに至る。此れ乃ち官の斯民を愛誨利尊するの深旨炳乎とし仰戴す可し。然りと雖も斯の業をして永年官府の手に存するは亦以て妥当たらざるに似たり。故に今人中結社戮力して此場を官より買取し、拮据経営更に事務の拡伸するを得るに至らば、乃ち官民相待て能く工産の事を遂ぐると云ふ可き歟因て爰に其営業の方法を概見し、其要を分て三款として之を開陳すること如左。
      第一款 買繭方
 繭は生鮮なる上好品成繭五日以内の物を選み買取る可し。蒸燥貯置の方は之を略す決して旧慣によりて太陽に曝し、其質を損じたる物を買ふ可からず。是れ該業の要旨にして尤も注意す可き事也。近来本所より買人を派出し弘く此義を主張したるに依て、世間日光に曝すことなく、生鮮なるを貯へて本所の買人を待つ者多し。
   買繭地方
 富岡  吉井      富岡より二里余
 安中  弐里半     松枝  同弐里半
 南蛇井 同       下仁田 同三里半
 新町  富岡より五里半 藤岡 富岡より五里
 尾嶋  同一十里    境   同十二里
 沼田  同十七里    以上上野国
 児玉  同七里     本荘  同八里
 深谷  同十一里    寄居  同十里
 熊谷  同十四里    以上武蔵国
 松井田、岩鼻、馬山、倉ケ野
 野沢  同十四里    高野町 同十五里半
 小諸  同十五里    上田  同二十里
 浦野  同廿三里    以上信濃国
  右之内其豊凶に因て酙酌し、豊作の地方に就て多く買ふ事を要す。
 其価位高低は変化窮りなし。唯其機に投ずるに在る也。
買方は繭糸商人の才幹ある者を各地方にて選み、之に委任し、手数料として原価百分の三、若くは四を払ふ事を約し、日々買取の繭を輸入し、壱口二三石より十石位を限り数品を合し代金何々とし之を精鑑して其品位価格不当なるを除き相応なるを認め受取る也。其買入に付て費用蒸繭費並に運繭費其他予め支出す可き費途は、分別して特に之に給す可し。
 右買入を委任せし商人或は偽価を申状するの疑問を有する一説あれども、既に其引取の際に於て品位価格を論じて之を取捨し、且もし不相当なれば速に買入を停むるの権全く我にあり。豈敢て慮んはかるに足らんや。品位価格之当否を知るは容易也。日々各方より引取る処の
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繭を一々目力を以て之を鑑定し、目的を立て直ちに工女に命じ繰せしめ、其糸量品位を較量せば即日明了なる可し。鑑定事務の者を一名雇入れて可なり。
 繭を一時に買へば要売せられて時価より高く買はざるを得ざるの恐れあり。故に之を酙酌して、徐々と日光に曝したるをも買ふ可し、と云ふ一説ありと雖も、決して然らず。生鮮ならざれば上好なる品にても不用なりとし、確乎不易なれば、売人も亦競ふの気味ありて、買方に権利あるは嘗て経験せし所也。況んや、其品たる日光に曝すは全く方法を知らざる者の為す処にして、天物を殄損するに帰する者なるをや。
      第二款 傭使工女方
工女は四百五十名を要す。
    繰糸  三百人
    検査  十弐人但 実は十八人を撰定し其内六人は交替にて繰糸に
    揚糸  三十六人方今は十人
    同検査 弐人
    束糸  四人方今は八人
    試験  壱人
    同補兼束糸検査 壱人
    撰繭  六十人方今凡百人
    病気休予備 三十四人方今凡七八十人
           工女取締其他世話掛も此中と見る
 明治九年の末迄は右之内四百人計寄宿し、五十人計は通勤也。然り是れ順次通勤の者増殖するを要す。故に先づ工女の上等なる者は其父母の家を移し、或は相応の配偶を得せしめ、夫妻共に該業に従事せしむるやう致す也。幸にして此方漸く行はるれば、全工女通勤するに至る可し。元来法国人建策の工女仕役の方は通勤する積りなりしに、其寄宿方あるは遠国人を用ゆるに付て設けたるものなり。
 寄宿工女壱名に付壱ケ月入費金凡そ四円とす。
   此訳
  金弐円七拾銭  賄料
  金四拾五銭   壱ケ年夏冬両度に金五円を給するの割
  金五拾銭    雑費
  金三拾五銭   薬代見込
 右は必用の費にして本人には些も益する処なし。然るを通勤を為すときは之を節減するに付、壱人に付壱ケ月金三円を其給料の外に附与する時は、壱ケ年三拾六円となるを以て自他の便利を起すを得可し。
 後来総て通勤となる時には月給は左表の通り改定す可し。


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 等級      壱等     弐等     三等      四等     五等     六等       七等     八等       九等     十等     十一等    十二等    総計 月給      八円     七円五拾銭  七円      六円五拾銭  六円     五円五十銭    五円     四円五拾銭    四円     三円五十銭  三円     弐円五十銭 人員      十人     三十人    卅人      五十人    五十人    六十人      七十人    七十人      五十人    十人     十人     十人     四百五十人 一ケ年総合計  九百六十円  弐千七百円  弐千五百廿円  三千九百円  三千六百円  三千九百六十円  四千二百円  参千七百八十円  弐千四百円  四百廿円   三百六十円  三百円    弐万九千百円 



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 繭撰は其撰高を以て等級に比例して給す。但休日も給する也。通勤にても仕役雇入は半年より壱ケ年を約す可し。然らざれば緩急共に不便なり。
 休日の前より病気なれば、休日も同様と見做して無給たるべし。
 休日の翌日病気の者は仮令休日より病気にても休日の分を給す。
工女の勤怠と能否を観察して進級退等する法。
 第一、製糸品位の良否と試験糸の量細大なきや否
 第二、繭より繰取り糸の多寡
 第三、繭の多寡
右三条の内、品位良にして細大なきを第一進業精勤とし、糸量多く出すを第二とし、繭を多繰するを第三として其進度を精察し、之を督責して毎月末昇級或は賞誉を行ふ。
 但退等を行ふは右三条共否寡なること両月に及べば之を退く。尤も篤諭を加ふるを要す。
 三条を督する内、最も品位の否なると細大を誤まるとを責む可し。
 此れは全体之名に関すればなり。
 繭糸の寡なきは其損失現場に止まる故に之に次ぐ。
      第三款 幹事方
幹事
 長    壱名。性温和世事に敏にして糸繭商業に通達せし者を撰んで之に専任す可し。月給八拾円《(七カ)》、一年八百四拾円。
 会計   壱名。算筆明了して西洋簿記方に熟る者を用ゆ可し。月給参拾円、一ケ年参百六拾円。
 会計補  壱名。工女入出給料調方を専務とす。月給拾五円、一ケ年百八拾円。
 工督   二名。一切工業より繭糸を出納するに至る迄一名宛一月交番にて工部と繭糸部とに分つて之を監督す。月給各拾五円、一ケ年参百六拾円。
 工男   拾名
       壱等弐名  月給拾円宛、一ケ年弐百四拾円
       弐等参名  月給八円宛、一ケ年百九拾弐円
       参等五名  月給六円宛、一ケ年参百六拾円
           月給合計七百九拾弐円
      工女の業を助け併せて其勤怠巧拙を認め、工督に進告するを掌る。
 小使   弐拾名
       壱等五名  月給六円宛、一年参百六拾円
       弐等五名  月給五円五拾銭宛、一年参百参拾円
       参等拾名  月給五円宛、一年六百円
           月給合計千弐百九拾円
       右廿名は事務所、工業所、門衛、糸繭取扱方其外一切の事に仕役す。
 器械方  弐名     日給四拾銭宛、一年三百日にて弐百四拾円
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 鍛冶方  壱名     日給四拾銭宛、一年三百日にて百弐拾円
 鍛冶手伝 壱名     月給参拾銭宛《(日)》、同参百日にて九拾円
 焚夫   参名     日給参拾銭宛、同参百日にて百八拾円
 傭夫   五名     日給弐拾銭宛、一年参百五拾日として金参百五拾円
  此傭夫は石炭を運搬し、掃除外臨時雑事に仕役す。但常傭は弐名にして一ケ年両週工場大掃除等を見込み参名を備ふ。
 幹事方給料合計金四千八百弐円。
賄方入費は寄宿工女五百人を目途とし、入札せしめて定めたる請負法なれば、後来通勤法行はれて順次寄宿人減員する中は随て賄料を増さざるを得ざるの理あり。然しながら前款概算の賄料中より工女給料に充て尚贏余あるに付き、此増方を補足するは之を信憑す可きに依りて右の件々は別に調記せざるなり。
   繭糸売買得益概算
 一金拾四万千百七拾六円四拾銭
   生繭六千石 壱円に付四升弐合五勺
 一金壱万千弐百九拾四円拾銭
   繭買入れ手数料外運送蒸燥等一切入費
 一金弐千四百円
   糸売方に付運賃手数料其外一切入費
  合計金拾五万四千八百七拾円五拾銭(元金とす)
 一金弐拾万円
   此れは撰繭五千石製糸壱升に付八匁宛合計四千貫目。此斤弐万五千斤百斤に付八百弗壱弗金壱円として売払糸代也。
 一金九千円
   此れは慰斗糸壱万斤百斤に付九弗。
 一金八千参百参拾参円参拾銭
   此れは繭撰出之内上繭五百石壱円に付六升にて売払ふ代金也。
 一金四千弐百八拾五円七拾銭
   此れは前同断中繭参百石壱円に付七升にて売払繭代金なり。
 一金弐千円
  此れは前同断下繭弐百石壱円に付壱斗にて売払ふ代金なり。
 合計金廿弐万参千六百拾九円(売上高)
元金を差引残金六万八千七百四拾八円五拾銭
   入費利益比較調
 一金六万八千七百四拾八円五拾銭 売買による益金
 一金四千八百弐円        幹事方給料合高
 一金弐万九千百円        工女給料合高
  臨時費は此内病工女無給の分を輸用す
 一金九千五百七拾円       石炭代
  但壱日に付壱万斤弐百九拾日にて合計弐百九拾万斤、壱万斤にして金参拾参円(当時の相場也)
 - 第10巻 p.657 -ページ画像 
 一金六百円壱ケ月五拾円宛    事務所入費
 一金弐千円           器械修繕費
 一金四百五拾円         口立箒壱鍋に付金壱円五拾銭
 一金五百円           器械用油類代
 一金弐千四百円         諸営繕入費
 一金六百円           蒸繭釜修覆
  合計金五万弐拾弐円     入費
 一金壱万弐千円         資本金拾五万円壱ケ年利息
  合計六万弐千廿弐円     入費利子共
差引残金六千七百廿六円五拾銭
   此内拾分の弐
 金千参百四拾五円卅銭     幹事方一同に分与す
残金五千参百八拾壱円廿銭    純益
 右富岡製糸場営業概見は創業以来五ケ年間実際の経験によりて其得失を按算し、極めて確実の目的を以て調査するものなれば、向後之れに依つて此工場を管理せば、非常抗拒す可からざるの変災に逢はざるよりは決して此目的を失することなく、製糸を今一層進歩することを得可しと信ず。然りと雖ども只一年の計算を以て之を概見す可からざるに付、三年又は五年の積算によりて此予算の当否を較量せざれば或は失当を覚ゆることなしと云ふ可からず。要するに此予算を以てせば一年の計算に於て僅に五千円余の純益あるのみなれば、今官府より此工場を引受け製糸を精良に至らしめ且此工場を永続せしめんには、上納金高多夥なれば、恐くは此目的を達し不能に依て、将来の進歩を見込み該工場譲り受け金額を金拾弐万円と定め、弐万円を今年上納し残金拾万円を明治十一年より廿ケ年賦に上納するか、或ひは総て代金額を金拾四万円と定め壱万円を本年上納し、余す向後五ケ年間営業純益の半額を上納し(年々計算官の検査を受くるも妨げなし)、斯くて総代金額の残金十三万円より差引き、尚残る所の若干金額を十五ケ年賦に上納するものとせば、或ひは営業の蹉跌なきに近らん歟。
 明治十年六月調

   買入繭糸直段一覧表(明治五年より九年迄)
  年号   買入相場壱円に付  糸百斤ニ付         熨斗糸百斤に付平均
  明治五年 三升〇五勺     八百三十弗         百十五弗
    六年 三升壱合五勺    七百三十弗         九十五弗
    七年 三升五合      七百六十弗         九十弗
    八年 四升九合五勺    七百六十弗         同
    九年 四升六合五勺  千弗実は千三百五十枚を評価せり 百八十弗
  五年平均 三升八合六勺
   富岡製糸所経費収入概書《(マヽ)》
  明治七年分明治七年一月より同十二月迄
 一金拾八万三千百六十円六十六銭八厘洋銀三万九百四十四弗十六セント 経費
   内訳
   金拾壱万八千九拾弐円六十九銭八厘 繭代並購入諸費手数料共
 - 第10巻 p.658 -ページ画像 
   金六万五千六十七円九十七銭、洋銀三万九百四十四弗十六セント 諸費
 一金拾弐万四千八百四拾参円六十銭弐厘 生糸其他屑繭物共売払代
  差引
   金五万八千三百十七円六銭六厘 洋銀三万九百四十四弗十六セント 損高
    明治八年分一月より六月迄
 一金八万五千四百五十円五拾七銭壱厘 洋銀四千九百五十弗 経費
   内訳
   金五万六千四百五十壱円弐銭弐厘 繭代並購入諸費手数料
   金弐万八千九百九十九円五十四銭九厘 洋銀四千九百五十弗 諸費
 一金六万六千八百八拾九円廿四銭四厘 生糸其他屑物等売払代
  差引
   金壱万八千五百六十壱円三十二銭七厘 洋銀四千九百五十弗 損高
    明治八年度分
 一金拾五万弐千百五十八円十五銭六厘 経費
   内訳
   金八万九千四百五十九円五十弐銭弐厘 繭代並購入諸費手数料共
   金六万弐千六百九十八円五拾八銭四厘 諸費
 一金拾四万三千四百六十円八十九銭壱厘 生糸其他売上高
  差引
   金八千六百九十七円廿六銭五厘 損高
    明治九年度分
 一金拾八万七千四百八十六円八十八銭壱厘 経費
   内訳
   金拾弐万六千九百拾九円四十八銭壱厘 繭代並購入諸費手数料
   金六万五百六十七円四十銭 諸費
 一金弐拾三万五千四百八十七円三拾七銭三厘 洋銀五万千四百三十七弗四十三セント 生糸其他売上高
  差引
   金四万八千円四十九銭弐厘 洋銀五万千四百三十七弗四十三セント 益高
 右(但此計算中に官員月給等も籠れりと云ふ)
  明治十年九月調
 その後も倫敦に在る横山孫一郎氏とは絶えず連絡をとつて双方の状況を通信し合ひ、着々計画実現の準備を進めた。又翁は富岡製糸場改組の参考に、当時我国における著名の民間製糸工場を視察旁々歴訪した。その中には、郷里新井村の太田垣義亮氏等が経営する姫路製糸場(玉振社)も含まれてゐた。愈々生糸輸出を開始するやうになればこれらの生産地に対しても製品の補給を仰がなければならなかつたからである。殊に太田垣氏並びに家兄進藤氏へは既に翁が在英時代にこの事業計画を打ち明け協力を求めて置いた筈である。七月末には太田垣氏が、九月中旬には進藤氏等がはるばる上京して翁に会ひ、本邦生糸の海外進出につき種々協議を遂げて帰つた。
     姫路製糸場(玉振社)計算概略(翁の手記による)
  生糸壱担を製するに荒繭壱貫目即ち撰繭八升を以て、上中下参等の生糸平均五拾六匁を製するとき七匁宛凡生繭弐百八拾五貫七百拾四匁を要す
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 一荒繭弐百八拾五貫七百拾四匁余
  右代価金参百五拾七円拾四銭(但生繭壱貫目金壱円廿五銭)
 一金弐百円拾銭  壱担の入費
 此訳
  金百円八拾銭  工女九拾六人日給金拾五銭と見做七日分実は六日弐時間也
  金七円     教女四名壱人に付日給廿五銭宛
  金壱円七拾五銭 束糸教女壱名
  金壱円七拾五銭 撰繭教女
  金拾四円    撰繭並予備工女拾人日拾廿銭宛平均
  金廿円     器械修覆見積
  金卅円     繭買入手数料及び蒸殺其他諸雑費
  金弐円八拾銭  束糸弐人内壱名教女
  金拾弐円    教師壱名但壱ケ月給凡五拾円の見積
  金拾円     小使其他雑費
売上高壱担に付   金六百五拾円
 内金五百五拾七円廿四銭 繭代及入費
差引 金九拾弐円七拾六銭 純益
 右は参ケ月以上熟したる工女上中下参等の繭平均壱升に付七匁の見積なれども、更に不熟工女を以て壱升に付き生糸六匁五分を製すると見做すとき
 一、生繭参百七貫六百九拾弐匁 代金参百八拾四円六拾弐銭五厘
 一、金弐百円拾銭 壱担の入費
 合計金五百八拾四円七拾弐銭五厘
生糸売上高壱担に付平均 金六百五拾円
 差引金六拾五円廿七銭五厘
  此外大繭弐割の撰繭あれども、此れは工男女予備其他非常の諸費に備ふ
壱年参拾担を製するに生繭九千弐百参拾貫七百六拾目を要す
 此代金壱万千五百参拾八円七拾銭
生糸代金 壱万千五百参拾八円七拾五銭
同 入費金六千〇〇参円
 通計 金壱万七千五百四拾壱円七拾五銭
売上高金 壱万九千五百円
 差引 金千九百五拾八円廿五銭
  内金六百円 拝借金壱万円の利子
   金壱千参百五拾八円廿五銭 純益
 元来翁の郷里但馬から出る生糸即ち所謂但馬糸は長糸にしても浜糸にしても、品質頗る粗悪で、到底輸出品たるの価値は見出しえなかつた。しかるに、かやうにして翁の勧誘指導を受け、又その後内務省も商務局員を派して、連りに生糸の改良、直輸出の利益を説いたので、進藤家をはじめ山口村の太田垣義亮氏のみならず、梁鹿村の日下安左衛門氏のやうな土地の素封家は奮つて製糸場を創設し、器械製糸をはじめ、品位の向上海外直輸出に努力した。尤も直輸出は海外市場の盛
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衰によつて時に損益のあることは免れないが、しかしそれでも京都の西陣や丹後のやうな国内市場を目当にしてゐた頃に比較するとその利益は莫大で、一時不正の徒が射利を目的に造つた疎悪な生糸が市場に現はれ、但馬糸の声価を大に害したことがあつたが、明治十九年に生糸検査法が施行せられてからは其弊も防止せられ、但馬糸の声価は漸く高く、明治二十二・三年頃には、長野・福島に相伯仲するやうになつた。(木村発、朝来志、巻二)
○中略
 さてそのうち横山孫一郎氏が井上馨氏の腹案を齎して明治十年十月英国から帰朝するや、玆に愈々「富岡製糸会社」の設立準備に着手することになつた。井上氏の計画では三井組並に大倉組と提携し、渋沢栄一氏・益田孝氏等をも加入せしめようといふのである。この両氏は共に井上氏とは浅からぬ関係があり、即ち渋沢氏は明治四年官制改革の当時大蔵大輔をしてゐた井上氏の下に、大蔵大丞を勤め、造幣・統計・駅逓等の事務を管掌してゐた。又益田氏は井上氏の推輓によつて明治五年五月造幣権頭に就任し、爾来、造幣寮の刷新に努力して来たが、明治六年四月十日井上氏が挂冠すると同時に、益田権頭もその職を辞した。渋沢氏と益田氏とも亦その頃から親しく、現にこの年の春(明治十年一月二十七日)には清国政府の借入金の問題で渋沢氏は第一国立銀行を代表し、益田氏は三井物産会社々長の資格で相携えて上海に渡航し、日清通商上に大なる効果を収めて帰つて来た許りのところである。両名のわが財界における地位は当時既に確固たるものがあつた。井上氏が曾て自分の部下であつたこの二人に翁を紹介し、彼等をして翁の事業を援助せしめようと考へたことに不思議はない。翁はこの間の事情を左の如く日記に書きとめてゐる。
 「十年七月二日 横山孫一郎より五月十二日の書面並第二号四月廿七日の写を受取れり。書中伊国の通信あり、同国の養蚕当年も昨年よりは不宜、殆んど同様の景況にして且つ互に利益を共にせんとすることを申来れり。
  七月三日 右書面の返答当日の英国メールに托す。其主意は当時の糸相場、前橋上四百七八拾弗、八王子四百四五拾弗なるを報知せり。自分よりも同氏の糸相場電報並に不絶通信し互に利益を計らんことを申遺せり。
  七月五日 午前第四時前南鍋町を発車、午後第七時上州新町駅に着く。同駅湊屋に止宿、翌朝四時発車、第八時富岡に至り青木氏方に止宿。午拾弐時製糸場に行き河瀬秀治の書面を山田に渡し中山氏に面会、工場之景況及計算等を詳にす。同夕中山氏に招かれ同氏の宅にて酒を酌て十時半迄語れり。
  七月七日 午後第二時製糸場に到る。兼て河瀬氏に依頼せし書面四通速水堅曹より山田氏迄来れり。
      速水堅曹より左の四名へ
   上州前橋大渡町製糸場 加藤俊蔵殿へ
   同 勢多郡関根村製糸場 桑島新平殿
   同 勢多郡水沼村 星野長太郎 殿
 - 第10巻 p.661 -ページ画像 
   同 田村 田島武平殿
  此夜中山某・熊谷・青木氏来りて酒を酌みながら製糸を講ぜり。富岡に滞留二日にして前橋より高崎に出車す。
  七月九日 第四号の書面を井上・横山に送れり。七月十日外国郵便にて送る
  七月十七日 第五号の通信井・横両氏に送れり。
  七月廿五日 太田垣義真来訪、八月二日迄和田屋へ止宿。同日出帆、八月七日石田貫之助より太田垣氏に書面一通来到。直ちに一書を認め、書面在中せしめ但馬新井村へ宛て送書す。糸相場の不景気及び先日の概算書は固より想像算なることを太田垣に再告せり。
  八月六日 竜動横山氏よりサイゴンよりの返書を受取る。其の日付五月廿二日なり。同氏大倉氏と約定注文書云々を承知せし趣を申来れり。
  八月十一日 米国郵便にて横山氏及び井上氏へ製糸場云々の景況を報知す。横山氏へは注文のビール五十箱の催促を為す。
  九月十八日 進藤・橋本・大野・僕壱人出京来訪す。同月廿七日東京出発東海道より帰国せり。進藤氏へ金時計壱つを譲れり。代金廿円、尤修覆料壱円五十銭引くの約也。
  十月二日 横山孫一郎、英国より帰朝、同月五日午後第五時大倉組二階に於て同氏に面談せり。同氏の帰りたる目的及び井上氏よりの伝言を聞く。井上氏の企は渋沢・益田両氏に富同製糸会社に加入せしめ吾輩を『リツプリジデント』と為し三井組の名を有し、渋沢栄一氏を頭取とし益田孝氏を支配とかにするの目的なり。但し三井の名を有する所以は井上氏・益田氏等を三井物産会社の株主にせんとの策あれば也(横山氏も加入は勿論なり)。然るときは自らクレヂツトも増殖せん。
 井上氏の伝言には彼工場談判には気長くして怒らざること緊要なりと云へり。
 併し肝腎の富岡製糸場払下の件は翁の懸命の努力にも拘はらず、大隈氏の勢力が支配してゐた当時の政治的事情は薩長藩閥関係者の企業に対して比較的冷淡であつた為、長藩井上氏の参加せる翁の事業も思ふやうに進捗せず、同時に内外共に不況に見舞はれた財界の状勢も亦かうした新事業を創設するに適せず、そのうち翁は第百国立銀行の創立を担当することになつたので、この富岡製糸会社の設立計画は遂に実現を見るに至らなかつたのである。○下略


原六郎翁伝 (原邦造編) 下巻・第一一―二九頁〔昭和一二年一一月〕 【○別篇第一 海外出張日記 竜動より横浜港へ航海日記 [原六郎]】(DK100059k-0002)
第10巻 p.661-663 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 下巻・第一一―二九頁〔昭和一二年一一月〕
 ○別篇第一 海外出張日記
    竜動より横浜港へ航海日記
○上略
四月十五日○明治一〇年
 午前第五時半にイスメリヤ港に着す。併、自論偏に十分不行ば此面倒実に甚し。第七時半、水先船に乗てアバ船を迎えに出で、漸く同船に乗込みたり。此日の苦心口伝に非ざれば説明し難也。此日の朝、乗船の節兼松〔兼松直稠氏〕、曾根〔曾根荒助氏〕、及び一の法学生《フランス》と
 - 第10巻 p.662 -ページ画像 
面会す。其節委細承知アバに乗込み一日も早く帰朝することを得るに至る(凡て十四日斗ボルガ船よりはアバ船浜港着早し)此日第五時半、"Suez"港に着く。同所に停止すること凡二時間程、スウエズ港にて竜動へ書面三通を郵便に托す、(蜂須賀、沖、横山氏の三人へ出す)右三通の内横山氏に送りしを最も要用とす。其趣意は兼て竜動に於て同人並に井上氏と相計りし製糸場の事也。全体此書面はポートセイド港より発郵便の積りに考へ認め置候処、前文に云し如く同港に於てはアバ船に乗込みし為、其趣を書面に書し、其上に種々の乗替の変遷を書加へ、又アバ船に乗込み、兼松氏に面談の節、同人、生の竜動出帆後同府に渡り製糸場に付、井上氏並ニ横山氏との委細談を聞き、大いに安心す。夫等の事も横山氏への書面に書加へ、実に混雑したる書面を送れり。横山氏への書面の大眼目は、第一ブルーナ氏雇入給金はネツトプロヒツトの十分の一より以上同人に与ふ可からず云々、及び今年彼の仕事を始むるには時おくれなることを書き、且若し時宜に依り始むる時は各員出金の事を加へ、若し横山氏夫に付気付きあらば報知致呉候趣を云遣す。
此日始て紅海に出て同海を航す。
○中略
四月廿九日
 朝第六時十五分Pt.de Galle着(同日は日曜日)英国在留の沖氏に一書を認む。横山氏及び井上君へ商売上に付き伝言す。且魯土両国兵端を開き候に付て糸相場模様の変りし次第、横山氏より電報を相待候趣、及び製糸会社の件等を付言す。右両国の戦争は生等の為め都合宜敷条々を申遣す。
○中略
五月八日 Saigon 港より横山氏に再び一書を送れり。其大意左の如し。
製糸場買入之儀、兼松氏へ面会以来竜動評議を聞く。今年手始めを明年に延引せしことは先便(スウエヅ港にて認)に報知せし如くなれども、生出帆後魯土両国開戦に付ては、製糸場掛合云々に付、大いに都合宜敷きことを喜び、糸相場の下落せんこと疑無し。且再び相場沸騰せし時に同人より速に電報致呉候趣を申遣せしこと大趣意なり。沖氏へは処々港に着く毎に書面を送り、及び横山氏へ商用伝言を為せり。
附記
横山氏への書中に同人と商売を組むに付て未だトルム(条件)の約束無之。依て其辺のことは大倉氏と相談して取極むるか、又は本人と相談す可哉を書中に書加へたり。
○中略
五月十一日
 金曜日、晴天。緯度は十度余。航海せしこと三百廿一里。香港迄三百〇五里。本日の順風及び海流実に出帆以来の速さ也。此夜兼松氏仏人某と暫時語れり。同人の兄は本邦に在てブルーナ氏と富岡製糸場に勤めたりと云へり。依て兼松氏に告ぐるに、製糸云々に付き同人の兄よりインホルメーシヨンでもなき哉を問ふ。未だ其返答なし。本日も曾根氏引続き不快。殆んど絶食せり。同航連フイバルならんことを恐
 - 第10巻 p.663 -ページ画像 
る。
  香港緯度二十二度余也
○中略
六月七日
 出野氏同道にて東京出発上州富岡に赴き、同日熊谷に止宿す。翌八日富岡に到る。同九日朝九時出野同道本県橋本正人の手書を以て所長山田某に面会す。製糸場を一見し書物等を調べ、同十日朝七時富岡出発同夜十時帰京浜町に到る。
○下略
  ○原六郎ハ鳥取藩官選留学生トシテ、明治四年五月六日横浜ヲ出帆、米国ニ留学ス。同七年更ニ英国ニ渡リ、レヲン・レヴイニ就キ経済学・社会学ヲ攻ム。同十年三月三十一日ロンドン発帰朝ノ途ニツキ、五月二十一日横浜ニ着ス。「竜動より横浜港へ航海日記」ハ、帰朝船中ノ日記及ビ余録ヲ収ム。


富岡製糸所財産見積代価 附営業収支損益調会社組織之大意(DK100059k-0003)
第10巻 p.663-665 ページ画像

富岡製糸所財産見積代価 附営業収支損益調会社組織之大意
                            (渋沢子爵家所蔵)
   富岡製糸所財産見積代価
一地所凡壱万五千六百〇六坪             地価之通
  此代価金千八百拾八円四拾銭三厘
一繰糸所壱棟坪数凡六百拾五坪            即今見積代価
  此代価金五千円
一東西繭庫弐棟坪数凡八百九十弐坪          前同断
  此代価金壱万三千五百円
一蒸汽鑵室坪数凡百六拾三坪             前同断
  此代価金千六百三拾円
一燥殺所坪数凡五拾坪                前同断
  此代価金五百円
一大廊下坪数凡百廿五坪               即今大破ニ付
  此代価金三拾円
一門衛所坪数凡弐拾三坪               即今見積代価
  此代価金三拾円
一工女部屋坪数凡三百九十坪             前同断
  此代価金六百円
一賄所坪数凡弐百廿弐坪               前同断
  此代価金弐百円
一壱号館坪数凡弐百三十九坪     官舎《(朱書)》 前同断
  此代価金千弐百円
一弐号館坪数凡九拾坪        同       前同断
  此代価金八百円
一三号館坪数凡四拾八坪       同       前同断
  此代価金五百円
一四号館坪数凡七拾八坪       同       前同断
  此代価金百五拾円
一五号館坪数凡弐拾五坪       同       前同断
 - 第10巻 p.664 -ページ画像 
  此代価金三拾円
一病室坪数凡七拾三坪                前同断
  此代価金百円
一廊下雪隠坪数凡五拾坪               即今見積代価
  此代価金五拾円
一予備器具                     前同断
  此代価金六百円
一興業器具                     前同断
  此代価壱万三千弐百六拾円
     内
     金三千円    蒸汽鑵六基
     金五百円    五馬力器械一組
     金千五百円   繰糸器械三百基附属品共一切破損有之ニ付
     金八百五十円  旋盤其外器械修繕具及鍛冶道具一式
     金三拾円    非常用喞筒二組護謨管共大破ニ付
     金弐百五拾円  大小権衡十九箇並生糸試験器械四組
     金弐百円    燥殺器械二箇
     金百円     繭運送車廿四及起重器二箇
     金七百円    鉄水溜大小三箇
     金六千百円   繭蒸籠凡六万枚小ノ分同大ノ分千枚
     金三拾円    束糸器械大小三箇小道具共
一横井戸及並井戸三ケ所木路等            即今見積代価
  此代価金三百円
総計金四万弐百九拾八円四拾銭三厘
  外製糸業ニ属スル必要ノ品ニシテ心付カザル分、脱落又ハ庁中備品当所ニ必要ノ品有之モノト見做シ、此予算金九千七百壱円五十九銭七厘《(消)》
右之通ニ付当所一切ノ代価ヲ以テ金〇《(朱丸)》五万円トナス

   明治二十一年度へ越高
一金弐拾九万千八百八拾九円三拾九銭八厘
   内
  現金六万六千百五円九拾七銭
  物品代価弐拾弐万五千七百八拾三円四拾弐銭八厘
     内
   金三千百七拾円弐拾七銭弐厘     現存金
   金六万二千九百弐拾九円九拾壱銭八厘 正金銀行預入
   金弐円三拾壱銭           郵便切手
   金三円四拾七銭           仮出金
   金四万七千五百三拾九円廿九銭四厘  生繭
   金三万三千弐拾円弐拾壱銭      製糸
   金四千四百九円四拾銭九厘      需用品
   金拾四万七百五十五円七十七銭弐厘  製糸未売品
   金五拾八円七拾四銭三厘       罹災紛失ノ分
 - 第10巻 p.665 -ページ画像 
  〆金弐拾九万千八百八拾九円三拾九銭八厘
     内
  拾五万六千四百円           正金銀行ヨリ借入
(朱丸)
 ○拾三万五千四百八十九円三拾九銭八厘  資本金
   営業収支損益調
 年度      営業費          営業収入           損           益
             円            円    *      円
 十二年  二五四、八八二・八六五  一九二、〇四九・九〇七  六二、八三二・九五八
 十三年  二三八、六八三・一七八  二四五、五一二・五九二               六、八二九・四一四
 十四年  二一一、二五七・五五七  二一二、四七八・三九一               一、二二〇・八三四
                                **
 十五年  二三二、三七四・五二八  一八四、六二七・六二六  四七、七四六・九〇二
 十六年  二〇三、六二六・九四五  一六一、八七〇・八七一  四一、七五六・〇七四
 十七年  三六一、二〇三・〇二六  三四五、七八八・五一六  一五、四一四・五一〇
 十八年  一五二、七六三・一五六  一七一、九九二・二三九              一九、二二九・〇八三
 十九年  一六八、七六五・六〇四  一八三、二三四・二九六              一四、四六八・六九二
 二十年  二一四、一六七・〇五四  二〇二、六七五・二三五              一一、四九一・八一九
 (* 貼紙)此損失ハ十年十一年十二年三ケ年ノ損ノ合計也
 (**貼紙)此十五十六十七三年間ノ損ハ銀貨変動ノ為メ多額ノ損失ニ及ヒタリ
   会社組織之大意
此会社ハ尋常ノ営業ト違ヒ、多人数ノ衆合体ニテハ議論多クシテ十分ノ運動難相成ニ付、一株金千円ツヽト定メ弐百株ニ止メ、合金高弐拾万円トス
  此払込ハ最初金弐百五拾円ツヽ入、以後年々壱株ニ付金三拾円ツツ向弐拾五ケ年賦トス
一最初ノ集金五万円ヲ以、地所建物等御払下ケノ代価及資本金ノ補充ニ宛ツ
一営業費ハ目今ノ儘ニテ拝借ノ上継続シ、年々払込ノ株金ヲ以返納金ニ宛ツ
一営業利益金ヲ生スルトキハ純益ノ十分ノ二ヲ役員及工男女ノ賞与金ト為シ、十分ノ三ヲ本社ノ積金トナシ、十分ノ五ヲ株高ニ分賦配当セシム
一若商況ニ拠リ損金ヲ生スルトキハ、直ニ株高ニ分賦負担セシメ集金ノ上、元ノ資金高ニ補塡セシム



〔参考〕原六郎翁伝 (原邦造編) 上巻・第二八三頁〔昭和一二年一一月〕(DK100059k-0004)
第10巻 p.665-666 ページ画像

原六郎翁伝 (原邦造編) 上巻・第二八三頁〔昭和一二年一一月〕
 ○後篇第一章 貿易事業に対する翁の貢献
    第一節 富岡製糸場払下計画
○上略
 尤も翁はその後○払下計画頓挫後と雖も、富岡製糸場のことはあきらめ切れず、明治二十三年あたかも翁が横浜正金銀行頭取を辞した時にも、翁は同伸会社に関係してゐた新井領一郎氏・河瀬秀治氏と再び富岡製糸場払下の件を協議したことがあつたが、(明治二十三年六月三十日日記)これも遂に
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成就せず、結局明治二十六年十月に三井の手へ払下げられ、同三十五年九月更に原善三郎氏の経営に移り、原富岡製糸所として現在に及んでゐる。


〔参考〕中外商業新報 第二五一四号〔明治二三年八月七日〕 富岡製糸所払下の風説に付て(DK100059k-0005)
第10巻 p.666 ページ画像

中外商業新報 第二五一四号〔明治二三年八月七日〕
    富岡製糸所払下の風説に付て
富岡製糸所払下一件に付て、渋沢・益田両氏に其示談調はんなど一二新聞は記載せしが、是れは全くの誤聞にて今聞く所によれば、農商務省に於て該製糸所払下の内議あるは事実に相違なきも、此払下人に至ては未だ何れとも定らざる趣なるが、右渋沢・益田両氏へ払下云々の説世上に伝はりし原因とも云ふべきものは、先日陸奥農商務大臣が上野にて博覧会残品始末方に付、府下紳士の面前にて例の大声にて富岡製糸所は本省にても厄介物なれば払下たく思ふなり、渋沢・益田等の両君にて十万円許に買求め呉れては如何と語り出でられしより、両氏は其は真平御免なり、乍併其価格は二・三万円位のものならんと答へしより、陸奥大臣は松方大臣に右製糸所の払下代価は若干位と問はれたるに、矢張り二・三万円に売れんには上都合ならんと答へられたるより、陸奥大臣は或る時右等の諸氏に松方伯は存外に能く物を知り居るなどの一笑話ありしが、遂に誤り伝て尾に尾を附けて云ひ合へることゝなりしが、実際二・三万円にても右両氏は買求むる気込は更に之なきやに聞けり


〔参考〕中外商業新報 第二五五三号〔明治二三年九月二一日〕 富岡製糸所払下の事(DK100059k-0006)
第10巻 p.666 ページ画像

中外商業新報 第二五五三号〔明治二三年九月二一日〕
    富岡製糸所払下の事
同製糸所払下のことは其筋の議、既に一決したる由なるが何分重大のことにてはあり、旁た初期の帝国議会に附して後決定するやの説もあれど、是さへ臆説に過ぎずして真偽は今に於て之を断言するを得ず、さればと云ふて近々の内に払下げらるべき模様ありとも覚へず、併し乍ら其筋の方針既に一定し居ることは疑なきことなれば、何れ遠からざる内に如何様の結果を見るべき歟は、判然することなるべしと思はる。


〔参考〕中外商業新報 第二五五五号〔明治二三年九月二五日〕 富岡製糸所の払下に就き(DK100059k-0007)
第10巻 p.666-667 ページ画像

中外商業新報 第二五五五号〔明治二三年九月二五日〕
    富岡製糸所の払下に就き
同所払下の事に就ては前号の本紙上にも一寸記載せし如くなるが、尚愈々払下となる以上は何れ先つ払下望人の資格等をも定めて、公売に附せらるべき筈ならんが、今其事に就き製糸当業者の噂する処を一、二取撮みて記さんに
果して資本を投ずるの人あるや否 政府が同製糸所創立の当初より為めに費やしたる金額は決して少々にあらず、恐らく其高二十五万円以上にも及びたることならんと察する処なれども、之を公売に附せらるる暁に至ては果して幾何を以て払下げらるゝものなるか、姑らく其代価に要する所謂固定資本は全く別の勘定として、現今の事業を維持継
 - 第10巻 p.667 -ページ画像 
続せんには各製糸場の釣合より、ドウしても其流通資本として概ね十五万円以上を要するなるへし、果して其金額を投するの人あるや否、世間広し此資本家は幾何も見出し得らるべきなれども
果して当業の経験に富めるの人あるや否 恐らく此人物を見出すの一事は資本家を見出すの比にあらざるべし、如何に資本に富めるも其人にして製糸の業に経験なくんば、収利の有無如何に殆んど頓着なきが如き官業を支配するとは相違し、其利害得失の関する処直接にして又た大なり、一寸手早く一例を挙けなば、同所に於て一ケ年中
製造の原料四千石 を要すると聞く、若し其人にして此業に経験あると無きとに依ては、此買入一事のみの上に於て一万円や二万円を失ふことは何てもなき事ならん、尚ほ之を他人に任さんか、経験ある人こそ任すを得へけれとも、経験なき人之れを任さは一層の不利を見ることあらん、左りながら今もし資本にも経験にも富みたる人ありて之が払下を為し、愈々民間の営業と為すに就き
果して釐革改良を施すべき処あるや否 と云ふに現今の理事者鋭意熱心以て改良を施したれば、唯だ多少役員の人数を減じ得らるゝ位に止るならんと云ふ、当時同製糸所の釜数は三百個にして、又た女工三百人を使用せる割合には何を申すも官業のこととて、自然種々様々の役員あり、民業には先づ冗員とも認むべきものもありとす、尚ほ第一着手に改良せざるべからざるものは
同製糸所の蒸滊機・滊鑵 なるべき歟、何も老朽用に足らざるものなりとは決して言ふべきに在らざれども、唯だ僅々三百釜の器械を運転せしむるには、少しく不釣合なるが如くにして製造工費の上に余程の関係あるべきが故なり、其他家屋の構造余りに大に過ぎ、却て不便を覚ふると云ふの噂もあれども、又所謂大は小を兼ぬるの便もあり、唯だ修繕の費用少しく多きを要するの憂ある等に過ぎざるのみ、然るに同製造所払下人が充分の価格に見積り得べきものは
同製糸所製品の声価 なりとす、同製品は重に仏国に、又米国に直輸し、彼地に於ける同伸会社支店専ら之を得意の機屋に売込むものにて其声価頗る高く常に我が製糸の最高価に売行くものなりと云ふ、左れば所謂此得意はお株にして事業継続者に対しては余程の価直を有せるものたること勿論なれども、若し之を横浜市場に於て切れ切れに売らんか、其価値は或は得られざるべし、然れども其得意を大切にし製造に注意して、何事もなく無事平穏に其事業を維持して進まば
一ケ年一万五千円の利益 を収むるは、敢て困難にあらざるべし杯頻りに噂せし者ありしが、実際果して如何にあるべき歟