デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
5節 製帽業
1款 日本製帽会社
■綱文

第10巻 p.779-782(DK100075k) ページ画像

明治24年1月(1891年)

栄一、日本製帽会社相談役ト為ル。当会社ハ創業以来ノ損失巨額ニシテ、二十五年十一月遂ニ解散ノ決議ヲナス。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一七九―一八一頁 〔明治三三年六月〕(DK100075k-0001)
第10巻 p.779-780 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一七九―一八一頁 〔明治三三年六月〕
 ○第三十八章 帽子製造業
    第一節 日本製帽会社
○上略
同社ハ如斯ク事業不熟練ノ為メニ頗ル困難ヲ感セルノ際ニ当リ、不幸ニモ明治二十三年八月火災ニ罹リ工場悉ク烏有ニ帰シ、殆ント救フヘカラサルノ状況ニ陥リタリ
如何ナル困難ニ遭遇スルモ決シテ屈伏セサル所ノ青淵先生ハ、此ノ際ニ於テモ亦同一ノ勇気ヲ示シ同年九月ノ臨時株主総会ニ於テ熱心ニ其再興ノ必要ヲ説キ、遂ニ某議ヲ一決セシメタリ、明治二十四年一月先生撰ハレテ相談役トナルヤ、専ラ社業ノ整理ニ従事シ人物ヲ撰任奨励セリ、爾後職工モ亦多少ノ熟練ト経験トヲ積ミタルヲ以テ、稍々見ルヘキノ製品ヲ出スニ至レリ
明治二十五年三月ウートン満期ニ付解雇、五月マンソンモ亦解雇、何レモ帰国ス、以来同社ハ職工ヲ奨励シ、製品ニ注意ヲ加ヘ専ラ市場ノ嗜好ニ応スヘキ帽子ノ製造ニ従事シ、月々四五百打ノ仕上ヲ為スニ至リ、玆ニ始メテ当業者ヨリノ注文ヲ受クルニ至リ之ヨリ進ンテ一層製造ニ注意セハ、略ホ計算ノ取リ得ラルヘキ見込ニマテ達シタリ、然ルニ同社ハ創業以来今日迄ノ損失ハ第一、火災、第二、原料ノ撰択其当ヲ失シタルコト、第三、実験ノ費用其他製造ノ不熟練等ヨリシテ遂ニ七万余円ノ巨額ニ達シタリ、加フルニ火災以来建築其他ニ予算外ノ費用ヲ費シタルト、製造ノ整頓ニ従ヒ次第ニ原料ノ使用高ヲ増加シタルトニヨリ、著シク資金ノ必要ヲ感スルニ至レリ、然レトモ最早株金ノ徴収スヘキモノナク、不得止臨時借入ノ方法ヲ以テ一時ノ急ヲ凌カサルヘカラサルノ困厄ニ陥リタルヲ以テ、遂ニ明治二十五年十一月臨時株主総会ヲ招集シ、左ノ議案ニ就キ株主ノ決議ヲ求ムルノ止ムヲ得サルニ至レリ
  第一案 旧株ヲ半額ニ切捨テ更ニ四万円ノ新株ヲ募集スルコト
  第二案 営業相続者ヲ求メ之ニ会社ノ財産権利ヲ売却スルコト
  第三案 破産ノ処分ヲナスコト
 - 第10巻 p.780 -ページ画像 
然ルニ右第一案ハ株主多数ノ否決スル所トナリ、第二案モ亦容易ニ決セサリシカ先生ノ発議ニヨリ遂ニ第二案ニ一決シ、日本製帽会社ヲ解散シテ更ニ東京帽子株式会社ヲ組織スルニ至リタリ、蓋シ同社創業以来解散ニ至ル迄ノ損失ハ頗ル巨額ニ達シタリト雖モ、現今我国ニ於ケル製帽業者ノ祖先タリ指導者タリ、以テ舶来帽子輸入ノ大部分ヲ防止スルニ至ラシメタリ、先生ノ功労ハ豈ニ著大ナリト云ハサルヲ得ンヤ
  ○明治二十二年九月臨時株主総会及二十五年十一月株主総会ノ議事録共ニ未タ嘱目シ得ス。(東京帽子株式会社所蔵セス、同会社所蔵ノ日本製帽会社ノ旧蔵書類トシテハソノ第一回報告書明治二十三年七月写一部アルノミ)


国民新聞 〔昭和五年九月一二日〕 苦闘に打ち勝つた東京帽子の成功 創業以来渋沢子爵の後援で(DK100075k-0002)
第10巻 p.780 ページ画像

国民新聞  〔昭和五年九月一二日〕
    苦闘に打ち勝つた東京帽子の成功
       創業以来渋沢子爵の後援で
外国では数百年前からフエルト帽子(中折帽子)が用ひられてゐたがこれが我国に入つて来る様になつたのは明治維新後のチヨン髷がなくなつてからのことである、勿論その当時の帽子に対する鑑識などは極めて幼稚なもので、形から云つても種々雑多のものであつた、処が明治二十年頃益田孝男が欧洲に旅行した際、何か日本に持つて帰るべき有望な事業はないかと云ふので、時の三井物産ロンドン支店長渡辺専次郎氏に命じて、種々調査を行つた、その結果煉瓦・肥料・帽子の製造が最も有望であると云ふので、直にその収支に関し詳細に調査した処、帽子の製造は殊に有利で、三倍もの純益があることが判明した、然しこれは余り変だと云ふので、再調査した処、矢張り二三倍の利益は間違ひないと云ふので、之れを日本でやつて見ることになつた
    日本製帽の設立
此の調査を持つて帰つて来た益田男は、早速渋沢子に相談した処、直にその賛成を得、愈々明治廿二年二月渋沢子が一万円、蜂須賀侯が一万円、残りは益田男・馬越恭平氏等の有志が出資して十万円の日本製帽会社を設立、技師に米人ウイリアム、マンソン、英人ナサニール、ウートンの両氏を招いて、東京府小石川村(今の小石川区氷川下町)に工場を建築し、製造を開始したのは廿三年五月であつた、これが日本に於ける帽子製造の嚆矢である、こんな事で出来上つた有利な会社であつたが、製造に着手してから僅か三ケ月を経た八月十五日に、第一工場の二階より発火して、その工場及び染工場を全部焼失してしまつた、然しこのまゝで三倍もの純益ある事業を見棄てることはしなかつた、更に翌年同所に工場を新築して再び製造を開始したものゝ、一人として熟練工が居るわけでなく、職工としては村の植木屋の息子とか近くの娘連中が、面白半分にひやかし気分でやつて来るのを集めてやつたことゝて、この連中を外人技師が一から十まで手をとる様にして教へても、仲々思ふ様な成績が挙がらう筈はなかつた、且つ前年の火災で会社は打撃を蒙つてゐる折とて、経営は段々左前になつて来たのみならず、二十五年には金融の途も全く杜絶して、二進も三進も行かなくなつてしまつた

 - 第10巻 p.781 -ページ画像 

竜門雑誌 第四八一号・第二六〇―二六二頁 〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と帽子事業(土肥脩策)(DK100075k-0003)
第10巻 p.781-782 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第二六〇―二六二頁 〔昭和三年一〇月二五日〕
    青淵先生と帽子事業(土肥脩策)
 東京帽子株式会社は、明治二十二年渋沢子爵と益田男爵に因て創立されたもので、当時は日本製帽会社と云つて、資本金は十万円であつた、この日本製帽会社の起因は明治二十年頃益田男爵が欧洲に旅行された際、何か日本に起すべき有望な事業はないかと云ふので、当時三井物産の倫敦支店長であつた渡辺専次郎氏に命じ、種々調査された際煉瓦・肥料・帽子等の製造が最も有望であることに著目し、これならば日本でも必ず成功すると確信し、詳細に其収支について調査して見ると帽子の製造は特に三倍も純益があると云ふことであつて、それは余り利益があり過ぎるから、何か間違ひではないかと再三詳細な調査をして見たが、矢張り二三倍の利益は間違ひないといふことが判明したので、之を日本で遣つて見ることになつたのである。
 このことは大正二年私が倫敦に旅行した時初めて渡辺氏に聞いたのだが、英国では現今でも製帽業は手工に依ることが多いくらゐであるから、その当時にあつては尤も手工が多かつたに違ひない、而して其頃の英国の労働賃銀は日給二円位であつたが、日本では僅かに二三十銭、其頃壮年男工初給十二銭、女工五六銭の日給であつたから、単に賃銀の相違からでも、英国で十円で出来るものならば、日本では如何に高く見積つても一二円で立派に出来上る予算である、英国では手で遣つてゐるから材料代の割合に工賃が高くなるのだが、日本では賃銀が安いから幾ら高く見積つても折返しの利益は十分に得られる計算が出た訳である、此調査を持つて帰朝した益田男爵は早速渋沢子爵に相談して其賛成を得、いよいよ明治二十二年二月子爵が一万円、蜂須賀候爵が一万円、後は益田男爵・馬越恭平氏や其他の名士が出資して十万円の日本製帽会社が創立されたが、この株主中で最も面白いのは無帽主義を標傍してゐた医学博士の高木兼寛氏のあつたことで、後で私が高木博士に向つて「無帽主義の貴方が、何うして製帽会社の株主になられたか」と聞いたら、「イヤ、雑巾のやうになつた学生帽や鳥打帽を被つてゐるのは衛生上害があると云ふので、強がち帽子を被るのが悪いと云ふのではない」と云つて居られた、斯うした状勢で愈帽子製造に著手することになり、英米の技術者を招聘して小石川氷川下町に工場を建て廿三年五月十二日より事業に著手したのである、これが我国に於ける帽子(felt hat中折堅帽類)製造の濫觴であつたが、惜いことにはまだ製造に著手してより僅かに三ケ月を経過したる八月十五日第一工場二階より発火し其工場及染工場を全焼し汽缶室を半焼せしめた、然しその儘に事業は頓挫すること無く、更に翌二十四年同所に工場を新築し七月より再び帽子製造を開始したが、何しろ帽子を造る抔と云ふことは、まだ日本人の頭には全然なかつた時代で、職工としても附近の植木屋の息子とか、娘連中が物好き半分冷やかし気分でやつて来るのを集めて遺るので、全くの素人の寄合ひであり、外国人の技師が一から十まで手を取る様に教ても、短時日に多数の職工を一一教育することは困難であり、其上火事に遭遇した為め会社の営業は
 - 第10巻 p.782 -ページ画像 
段々左り前になり、明治二十五年始めには融通の途全く絶え経営困難に陥つたのである、当時会社の専務理事は益田克徳氏(益田男実弟)であつたが、私が入社したのは其年の三月で最早二進も三進も行かぬ状態であつた、そこで我々も鳩首方策を凝したが是れぞと云ふ名案も浮ばない、遂に子爵を煩はすことになり、子爵に工場までお出でを願つて、種々収支の報告を申上げ、到底工場が立行かぬ窮状を訴へ「新たに資本を募るか、他に経営者を物色するか、解散するか何れかお考へを願ひたい」と申上げたところが、子爵は「折角これまで骨を折つて手習ひをしたのに、清書しないで閉鎖するのは誠に残念である」とのことで、度々関係者を集めて寄会ひを遣つたが、従来の株主は会社が欠損のみを来たしてゐるのだから、もう一度金を出して遣つて見ようと云ふ人は殆んど無かつた、然し子爵はこの有望の事業を廃滅に帰するは如何にも残念だからと、頻りに再興を力説され、我々が作つた最少限度の資本金三万六千円の募集方は、子爵自ら其衝に当られ、結局子爵が一万円、蜂須賀侯が一万円、後は益田・馬越氏等の諸氏が出資し漸やく三万六千円に纏め、二十五年十一月前会社の株主には百円に付五円の手切金を交附して会社を解散し、その権利義務一切を継承して現在の東京帽子株式会社が生れたのである。
○下略