デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
5節 製帽業
2款 東京帽子株式会社
■綱文

第10巻 p.783-792(DK100076k) ページ画像

明治25年12月12日(1892年)

栄一、益田克徳等ト謀リ、元日本製帽会社ヲ買収シテ東京帽子株式会社ヲ創立ス。是日創立総会ニ於テ同会社取締役ニ選バレ、取締役長(後ニ取締役会長ト改ム)トナル。


■資料

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一八二頁 〔明治三三年六月〕(DK100076k-0001)
第10巻 p.783 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一八二頁 〔明治三三年六月〕
 ○第三十八章 帽子製造業
   第二節 東京帽子会社
東京帽子株式会社ハ明治二十五年十二月元日本製帽会社株主ノ創立スル所ニシテ其資本金ハ参万六千円ナリ、同社ハ日本製帽会社ヨリ其財産並ニ権利義務共一切有リノ儘ニ買受ケタルモノニシテ工場ハ元ノ場所ニ在リ、先生ハ取締役会長ニシテ益田克徳・藤本文策ハ取締役タリ
○下略


(東京帽子株式会社)報告 第一季 明治二七年二月(DK100076k-0002)
第10巻 p.783-785 ページ画像

(東京帽子株式会社)報告 第一季 明治二七年二月
 東京帽子株式会社第一季報告明治廿五年十二月一日ヨリ同廿七年一月三十一日ニ至ル
    事業報告
明治廿五年十二月十二日、旧日本製帽会社ヨリ同社ノ財産並ニ権利義務共一切有形ノ儘挙テ金四千百弐拾円(総株数八百弐拾四個ニ対シ一株金五円宛)ニテ譲受ノ約定完結シタルニ付、発起人ノ総会ヲ開キ、新会社ノ定款ヲ議決シ、取締役三名ヲ撰挙ス、其当撰人名左ノ如シ
  渋沢栄一  藤本文策  益田克徳
同廿五年十二月廿日ヨリ旧日本製帽会社株主ヘ向テ、譲受割賦金ノ仕払ヲ為セリ
第一回払込金トシテ同年十二月廿日限リ、一株ニ付金五拾円宛募集ス
第二回払込金トシテ廿六年二月廿五日限リ、一株ニ付金拾五円宛募集ス
第三回払込金トシテ同年四月廿九日限リ、一株ニ付金拾五円宛募集ス
第四回即チ最終ノ払込金トシテ六月廿六日限リ、一株ニ付金弐拾円宛募集ス
廿六年五月製品貯蔵ノ倉庫一棟、並ニ石炭庫一棟ヲ新築ス
同十二月十六日臨時株主総会ヲ開キ、左ノ通リ議決セリ
一定款改正ノ件
 右ハ取締役ニ於テ起草シタル条々ニ付、左ノ一項ヲ訂正シタル外、原案ノ通リ可決
  総則第二条 各種ノ帽子ノ下、及其附属品ノ五字ヲ加フ
一右改正ノ結果トシテ資本金増額ノ事
 右ハ全会一致ヲ以テ可決シ、更ニ其増株金募集ノ方法ヲ左ノ通リ議
 - 第10巻 p.784 -ページ画像 
決ス
 一増株金参万六千円即チ参百六拾株ニ対シテハ、旧株壱個ニ付新株壱個ヲ得ルノ権利ヲ有スルコト
一監査役撰挙ノ事
 右ハ出席株主ノ多数ヲ以テ、左ノ二氏ヲ指名撰挙シ、各其承諾ヲ得タリ
   喜谷市郎右衛門  馬越恭平
右終テ会社工場縦覧ノ件ハ、爾後取締役ノ承認ヲ経ザルモノハ一切其縦覧ヲ謝絶スルコトニ議決セリ
廿六年十二月廿九日改正定款認可ノ指令アリタリ
    製造並ニ売捌実況ノ事
一明治廿五年十二月一日ヨリ引続キ製造ヲ始ム
一当季間製造帽子ノ総数ハ壱万参千弐百拾九打拾個ニシテ、売揚総高ハ壱万弐千参拾弐打拾個ナリ
一当季間商況ノ概況ヲ挙クレハ、毎年当業者ノ海外注文品着荷ノ頃ヨリ、俄然為換相場ニ変動ヲ生シ、爾来銀ハ益々下落ノ一方ニ傾キツツアルニモ不係、概シテ舶来品一般ノ大不景気ヲ来シタル為メ、平常ヨリ却テ価格下落ノ実況ヲ呈シタリ、然レトモ会社製造品ハ幸ニ一般当業者ノ好評ヲ博シ、逐日其販売高ヲ増加シ、相当ノ利益ヲ得ルニ至リタルハ、売捌者ノ尽力与テ力アリト信スレドモ、一ハ製造ノ進歩ト為換相場変動前到着ノ原料ヲ以テ製造シタルノ結果ナリト云フベシ
   決算報告
    財産目録○略ス
    貸借対照表
  資産
一金参万六千円也            株金 未徴収高
一金弐千百参拾壱円也          地所
一金七千九百五拾壱円弐拾七銭也     家屋
一金八千弐百拾九円〇弐銭六厘也     機械
一金壱千参百参拾壱円弐拾七銭四厘也   器具
一金七百円九拾壱銭壱厘也        物品
一金拾八円九拾参銭八厘也        器具仕掛品
一金弐万壱千参百弐拾五円四拾参銭壱厘也 原料
一金四千四百四拾壱円〇六銭九厘也    仕掛品
一金六千弐百五拾八円七拾五銭五厘也   製品
一金六千五百参拾四円〇八銭弐厘也    売掛品
一金九百七拾六円四拾壱銭弐厘也     創業費
一金弐円七拾弐銭五厘也         消耗品
一金弐百参拾四円八拾四銭弐厘也     第一国立銀行当座予金
一金七千四百八拾四円七拾参銭九厘也   請取手形
一金弐百九拾九円壱銭七厘也       現金
合計金拾万参千九百九円四拾九銭壱厘
  責任
 - 第10巻 p.785 -ページ画像 
一金七万弐千円也            株金
一金四千円               第一国立銀行借入金
一金四千円               三井物産会社借入金
一金参百拾五円五拾六銭五厘       未決算勘定
一金壱千五拾八円参拾弐銭        買入品代未払高
一金壱万弐千九百五拾円四拾銭壱厘    仕払手形
一金九千五百八拾五円弐拾銭五厘     損益勘定
 合計金拾万参千九百九円四拾九銭壱厘
  損益勘定○略ス
右之通リ相違無之候也
              東京帽子株式会社
                副支配人 土肥脩策
                支配人  早速鎮蔵
                取締役  益田克徳
                同  藤本文策
                同  渋沢栄一
前記ノ計算調査ヲ遂ケ、其正確ナルヲ保証ス
                監査役 喜谷市郎右衛門
                同   馬越恭平
     株主各位御中

    株主名簿
 株数   払込金額    住所            氏名
 弐五〇 壱万弐千五百円 日本橋区兜町弐番地     渋沢栄一
 弐〇〇 壱万円     芝区三田綱町九番地     藤本文策
  五〇 弐千五百円   芝区西久保桜川町      馬越恭平
  参弐 壱千六百円   京橋区中橋広小路      野沢源次郎
  弐八 壱千七百円   日本橋区橘町四丁目     松林理助
  参四 壱千七百円   京橋区銀座三丁目      辻粂吉
  壱〇 壱千円     大阪市道修町四丁目     浜谷来太郎
  弐〇 壱千円     荏原郡北品川宿三百十二番地 益田孝
  弐〇 壱千円     下谷区下根岸町六十六番地  益田克徳
  弐〇 壱千円     京橋区大鋸町六番地     喜谷市郎右衛門
  壱〇 五百円     大阪市道修町五丁目     森上佐吉
   五 五百円     同東区本町一丁目      西村理兵衛
  壱〇 五百円     同淡路町四丁目       池田仁左衛門
  壱〇 五百円     京橋区銀座三丁目      服部金太郎
  壱六         京橋区木挽町九丁目     梅津精一
   五         小石川区久堅町七十四番地  早速鎮蔵
 七弐〇 参万六千円
  ○藤本文策ハ侯爵蜂須賀茂韶ノ家令ニシテ明治二十七年十一月十一日死去ス。仍テ同人名義株式ハ侯爵蜂須賀茂韶名義ニ改メラル。
  ○本節第一款「日本製帽会社」明治二十四年一月(本巻第七七三頁)ノ項参照。


庶政要録 工部会社乙明治廿六年(DK100076k-0003)
第10巻 p.785-787 ページ画像

庶政要録 工部会社乙明治廿六年 (東京府庁所蔵)
 - 第10巻 p.786 -ページ画像 
                       渋沢栄一
                         外弐名
右之者共当区内小石川氷川下町拾六番地ニ於テ東京帽子株式会社設立致し度届出候間、別紙書類及御回送候也
  明治廿六年六月廿四日
      東京市小石川区長 佐藤正興 長印
  内務部長
     東京府書記官 山県伊三郎殿
       ○
    東京帽子株式会社設立御届
今般旧日本製帽会社ヲ解散シテ、更ニ別冊定款ニ基キ東京帽子株式会社ヲ設立致シ、旧会社ノ地所家屋諸機械等一切有形ノ儘譲受ケ、従来ノ通リ帽子製造ノ事業ヲ営ム事ニ決シ候ニ付、此段御届申上候也
            東京市小石川区氷川町下町十六番地
             東京帽子株式会社
              取締役 益田克徳 
  明治二十六年六月廿四日 同 藤本文策 
              同 渋沢栄一 
  小石川区長
     佐藤正興殿
       ○
     東京帽子株式会社定款
   第一章 総則
第一条 会社ハ各種ノ帽子ヲ製造販売スルヲ目的トス
第二条 会社ハ帽子株式会社ト称ス
第三条 会社ノ本店ハ東京ニ設置ス
第四条 会社ノ責任ハ株高限リトス
第五条 会社ノ営業年限ハ二十箇年トス
   第二章 資本金之事
第六条 会社ノ資本ハ参万六千円トシ之ヲ参百六拾株ニ分チ壱株ヲ金百円トス
第七条 前条ノ株金ハ申込ノ節、半額ヲ払入レ其余ハ取締役会ニ於テ定メタル期限ニ入金スヘシ、而シテ其時日ハ必ス三十日前ニ通知スヘシ
  ○第八条―第十一条略ス。
   第三章 取締役之事
第十二条 会社ハ株主ノ投票ヲ以テ拾株以上ヲ所有スル株主中ヨリ、人員三名ヲ撰挙シ之ヲ会社ノ取締役トナスへシ
第十三条 取締役ハ互選ヲ以、取締役長一名ヲ選定スヘシ
第十四条 取締役ハ其決議ヲ以テ会社全体ノ事務ヲ総理ス
第十五条 取締役ハ其決議ヲ以テ会社ノ諸役員・雇員及職工ノ任免黜陟ヲ為シ、職務及工場規則ヲ制定シ給料・旅費・賞与等ヲ定ム
第十六条 取締役ハ此定款ニ掲ケタル職務権限ノ外、総会ノ決議ヲ要セサル事ニシテ定款及総会ノ決議ニ戻ラス会社ノ利益ヲ目的トス
 - 第10巻 p.787 -ページ画像 
ル限リハ臨機之ヲ処理シ、又ハ営業ノ為ニ必要ナル規則ヲ制定施行スルヲ得
第十七条 取締役ハ抽籖ニヨリ二ケ年目毎トニ株主総会ノ投票ヲ以テ其中二名ヲ改撰ス
   但シ再選挙ヲ得タル者ハ重任スルヲ得へシ
第十八条 取締役ノ勤務ニ対スル報酬ハ株主ノ協議ヲ以テ決定スヘシ
   第四章 株主権利之事○略ス
   第五章 株主総会之事○略ス
   第六章 利益金配当之事○略ス
   第七章 簿記計算報告之事○略ス
   第八章 印章並ニ記録之事○略ス
   第九章 株式売買授与之事○略ス
   第十章 定款増減更正之事○略ス
            東京市小石川区氷川下町十六番地
                     東京帽子株式会社


第三課文書類別 会社戊明治二十七年(DK100076k-0004)
第10巻 p.787 ページ画像

第三課文書類別 会社戊明治二十七年(東京府庁所蔵)
   定款認可願
            東京市小石川区氷川下町十六番地
                     東京帽子株式会社
右会社儀明治廿五年十二月一日東京府庁ヘ設立ノ御届致置候処、今般別紙改正定款ノ通リ総会ニ於テ決議候ニ付、両省ノ御認可仰度商法施行条例第十条ニ由リ此段奉願上候也
  明治廿六年十二月廿三日
            東京市小石川区氷川下町十六番地
               東京帽子株式会社
                  取締役 渋沢栄一(印)
       社印  取締役 藤本文策(印)
                  取締役 益田克徳(印)
  農商務大臣 伯爵 後藤象次郎殿《(後藤象二郎)》
  ○次ノ東京帽子株式会社定款ハ右ノ定款認可願ニヨツテ改正認可サレタルモノナラン。


(東京帽子株式会社)定款 第一―一八頁(DK100076k-0005)
第10巻 p.787-789 ページ画像

(東京帽子株式会社)定款 第一―一八頁
    東京帽子株式会社定款
   第一章 総則
第一条 会社ハ株式会社トス
第二条 会社ハ各種ノ帽子及其附属品ヲ製造販売スルヲ目的トス
第三条 会社ハ東京帽子株式会社ト称ス
第四条 会社本店ハ東京市小石川区氷川下町十六番地ニ設置ス
   第二章 資本金ノ事
第五条 会社ノ資本金ハ七万弐千円トシ、之ヲ七百弐拾株ニ分チ壱株ヲ百円トス
第六条 前条ノ資本金ノ内、三百六十株ハ既収株ニシテ残額参万六千
 - 第10巻 p.788 -ページ画像 
円、即参百六十株ハ明治廿七年二月二十日限リ其四分ノ一ヲ払込マシメ、残額ハ明治三十年十二月マテニ払込マシムルモノトス
   第三章 株式ノ事○略ス
   第四章 総会ノ事○略ス
   第五章 取締役及監査役ノ事
第廿五条 会社ハ株主ノ投票ヲ以テ拾株以上ヲ所有スル株主中ヨリ、取締役三名及ヒ監査役二名ヲ撰挙スヘシ
第廿六条 取締役ハ互撰ヲ以テ取締役長一名ヲ選定ス可シ
第廿七条 取締役ハ其決議ヲ以テ会社ノ業務ヲ総理施行ス
第廿九条 取締役及監査役ハ二ケ年目毎ニ株主総会ノ投票ヲ以テ之ヲ改撰スヘシ、再撰挙ヲ得タル者ハ重任スルヲ得へシ
   第六章 利益金配当ノ事
第三十二条 会社ハ二月一日ヨリ翌年一月三十一日迄ヲ以テ事業年度ト定メ、毎年二月ニ精算ヲ為シ、総収入金ノ内ヨリ営業一切ノ経費、並ニ損失金ヲ引去リ、其残高ヲ純益金トナシ、其季ノ総会ニ於テ積立金配当金ノ事ヲ議決スヘシ
  取締役其他諸役員ヘ配与スル賞与金ハ、純益高百分ノ十ヨリ二十マデノ範囲内ニ於テ、毎季総会ニ於テ其割合ヲ議決スベシ
右ハ株主総会決議ヲ以テ相定メタルニ付、記名調印シテ之ヲ証明致候也
  ○東京帽子株式会社取締役長ハ明治三十二年七月定款改正ニヨリ取締役会長ト改称セラル。
  ○コレヨリ明治四十二年八月辞任承認ニ至ルマデノ栄一ノ取締役重任年表左ノ如シ


図表を画像で表示--

 明治二八年二月二〇日   満期改選   重任   取締役長   (東京帽子株式会社報告                                  第二季                                  明治二八年二月) 〃 三〇年二月一三日    〃     〃     〃     (〃第四季                                   明治三〇年二月) 〃 三二年二月一〇日    〃     〃    取締役会長  (〃第六季                                  明治三二年二月) 〃 三四年二月一五日    〃     〃     〃     (〃第九季                                  明治三五年二月) 〃 三六年二月一四日    〃     〃     〃     (〃第一一季                                  明治三七年二月) 〃 三八年二月一四日    〃     〃     〃     (〃第一三季                                  明治三九年二月) 〃 四〇年二月二〇日    〃     〃     〃     (〃第一五季                                  明治四一年二月) 〃 四二年三月六日     〃     〃     〃     (〃第一七季                                  明治四三年二月) 〃 四二年八月二日   辞任      〃     〃 



○右在任中ノ該会社営業成績左ノ如シ

図表を画像で表示--

                 資本金      払込資本    製品売揚高    純益金    株主配当率(年)                     円        円        円       円   朱 第一季  自明治二五・一二  七二、〇〇〇   三六、〇〇〇   八九、二六二   九、五八五   八      至〃 二七・一 第二季  自〃 二七・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇   九一、九八二   九、二三三   八      至〃 二八・一 第三季  自〃 二八・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一三九、〇八〇  三四、八一二  一五      至〃 二九・一 第四季  自〃 二九・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一四二、〇二七  四三、四五二  二〇      至〃 三〇・一 第五季  自〃 三〇・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一二八、六一七  二一、五一二  一八      至〃 三一・一 第六季  自〃 三一・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇   八五、一八八   四、九二四  一〇      至〃 三二・一 第七季  自〃 三二・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一三七、五〇四  一〇、九三七  一五      至〃 三三・一 第八季  自〃 三三・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一五九、一三四  二〇、六二四  一五      至〃 三四・一  以下p.789 ページ画像  第九季  自〃 三四・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一二六、一三五  一七、六六四  二〇      至〃 三五・一 第十季  自〃 三五・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一五〇、七六九  一九、二八五  二〇      至〃 三六・一 第十一季 自〃 三六・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一三九、八〇七  一六、九四八  二〇      至〃 三七・一 第十二季 自〃 三七・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一一〇、二六七   六、七一二  一〇      至〃 三八・一 第十三季 自〃 三八・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  一六八、七五〇  二二、五〇四  二〇      至〃 三九・一 第十四季 自〃 三九・二   七二、〇〇〇   五四、〇〇〇  二〇三、七九〇  二三、〇七八  二〇      至〃 四〇・一 第十五季 自〃 四〇・二   七二、〇〇〇   七二、〇〇〇  二二一、五三〇  一七、〇四〇  二〇      至〃 四一・一 第十六季 自〃 四一・二  一五〇、〇〇〇  一五〇、〇〇〇  三〇六、七九三  一一、三五七   五      至〃 四二・一 



  右表ハ東京帽子株式会社営業報告書(自第一回至第一六回)ニ拠リ作製


竜門雑誌 第四八一号・第二六二―二六六頁 〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と帽子事業(土肥脩策)(DK100076k-0006)
第10巻 p.789-792 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第二六二―二六六頁 〔昭和三年一〇月二五日〕
    青淵先生と帽子事業(土肥脩策)
○上略
 爾来子爵は取締役会長として就任を承諾下されたので我々始め従業員一同も子爵の恩に悖らぬやうに努力した結果、何うにか世間に売出し得るやうな品物を製出し、この年始めて株主に八分の配当をすることが出来、翌二十七年には一割六分の増配が出来たが、その内に日清戦争が勃発したので、帽子の需要が急に多くなり、どんどん売れ出して来たので、三万六千円の資本では到底仕事が出来なくなつた、そこで倍額の七万二千円に増資したが、益々其売行が良好で二十八年から三十年頃には年に三四万円位の利益を得るやうになり、追々帽子製造も有望になつて来たので、戦後の好況につれて諸方に製帽会社が設立されるやうに成り、帝国製帽を始めとして、本所に明治製帽(現在の東京帽子本社の場所)大阪に浜谷帽子等続々として帽子製造業を開始したが、新設会社は何れも利益どころか、随分困難を嘗めたやうだつた、何しろ帽子製造は中々難業であるから、さう側で見るほど易々と利益を得られるもので無いことは、我々の以前の経歴を見ても能く解るのである。然し我社は此競争場裡に在つて、毎期二割位の配当をして明治四十年まで営業して来たが、前途を達観して尚一層拡張して見やうと云ふことになり資本金を十五万円にした、此時明治製帽から合併を申込んで来たが、合併するよりは買取らうと云ふことになり明治四十年に買収したのが現在本社のある工場である、次で四十二年には更に資本金を二十二万五千円に増額し大に事業の改善に努めた。
 然るに本社創立当時から取締役会長として何くれとなく我々を指導し、且つ本邦帽子製造業のために尽力された子爵が、この年実業界を引退されると云ふことになり、斯くの如く密接な関係にあつた本社の会長をも同時に辞任されて終つた。
 翌四十三年には関税改正問題が持ち上つたが、我が中折帽子も内地で何れほど安く製造しても、伊太利からより安い製品がどしどし這入つて来るので、どうも思はしく行かない、何しろ従価五分と云ふ、有るか無しの税率では、内地の製造業者が何の様に勉強しても、到底競争に堪へ得ぬのである。そこで此機会に大蔵省に向つて左の如き提案を致した。
 帽子(felt hat)一打ニ付金七円五十銭ノ輸入税ヲ課スルコト
 - 第10巻 p.790 -ページ画像 
 こゝで説明を要するが、フエルト帽子の品種はウール(羊毛)とフアー(兎毛)との原料に依つて分類され、其頃の輸入帽子の価格は、ウール一打ニ付十円、フアー一打に付二十五円位であつた、フアー帽子の製造はまだ不完全を免れなかつたが、ウール帽子の方は我々同業者が立派に製造してゐたから仮令輸入がなくとも需要者が困るやうなこと無く、又それが絶対輸入の必要を認めない、で前項の税率七円五十銭はウール帽に対しては殆んど禁止税に等しきも、フアー帽に対すれば約三割の従価に当る税額なるが故に、内地の製帽業者を保護する主旨からすれば決して不当のものに非ずと、主張したるに大蔵省では伊太利の輸入を防遏したなら、内地品の一人天下となるから好機逸すべからずで、我々が大いに暴利を貪るであらうと云ふことゝ、今一つは仮に右様の税率に依て外国品を防遏するも、将来我製品を輸出する場合に外国に於て、他国の製品と裸で競争は出来まいと、猛烈に反対されたが私はそれに対して、如何に外国品が入らなくなつたとしても我々は決して暴利を貪るものではない、寧ろ同業者の競争に依て益々製産費の減少を来たし、今日よりも遥かに安価な帽子を、提供し得べく、従て内地品でも外国の市場に出し、決して伊太利品と競争が出来ぬことは絶対にない、我邦帽子業が創立以来二十年も経過して、尚大なる発展を為し得ないのは、全く関税の低率に原因するものと数次交渉を重ねた結果、遂に大蔵省当局も諒解がつき、一方衆議院委員会の方にも陳情して時の予算委員長鳩山和夫君の賛成を得、兎に角私の主張通り七円五十銭の関税を掛けることが帝国議会を通過した。
 其後伊太利との協定が行はれて一打五円六十銭と云ふことに決定されて終つたが、今日から観れば誠に当を得たる英断であつたと思ふ、斯うなつて見ると全く独逸・伊太利よりのウール帽子輸入は完全に防止されて、為に内地品の売行が漸次増加して来た、越て翌四十四年十一月頃に至り、平常なれば段々売行が不振に赴くべき時分に、突然ウール帽子が売れ出し十二月、一月と益々好況を呈するので、不思議に思つて詮議をして見ると図らずも支那に革命が起り、断髪令が施行されて古来支那人特有の辮髪が、片つ端から断髪されることになり、往来する者まで強制的にチヨン切られた為めに帽子の需要が起り、それで日本の帽子が輸出されることが解つた。
 我々は支那に対しては以前より此機会を狙つてゐたのであるから、好機逸すべからずと直ちに資本金を五十万円に増加し急速に工場の増築をなし多数の職工を増員して一意製産の増加を謀りしか、それも束の間で大正三年に至り急に売れゆきが止つて、折角の製品もウンとストツクを持つことゝなつた。そこで遂に現場を維持することが困難となり、折角増員した職工を解雇すると云ふ状態で、結局七万二千円の大欠損を来したが、大正四年に至つては御大典があつたので、帽子の売れ行きも多少活気がつき、それに次で欧洲戦争では大いに好景気を盛り返し、大正七年になつては資本金を百万円に増加して大阪に分工場を設けると云ふ盛況を呈したが、大正九年から段々と下り坂となつた、併し好況時代に不規律に増設したる機械類の整頓を期する為め、工場の改築に迫られ且つ資金の充実を謀る目的を以て大正十一年には
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資本金を二百万円に増加し、現在は百五十万円の払込済になつてゐるが、大正十二年には大震災に遭遇して四十余万円の大損害を蒙る等、一進一退長い経営をして居りながら未だに安心と云ふ程度に達しないのは慚愧に堪へざる次第である。
 斯うして我々の帽子製造業も日に月に種々なる難関と戦つて今日に至つたのだが、若し明治二十二年の苦境に陥つた際、子爵に見放されてゐたなら二十七八年の好景気にも会はなかつたでもあり、今日の如く我国に於ける帽子製造業も発達してゐなかつたでありませう、私は斯く思ふ毎に深く子爵の先見の明と再生の恩恵とに感謝せざるを得ないのであります。現今我国の中折帽子の年産額は約三十万打で、内十万打は支那及南洋方面に他の二十万打が内地の需要に充てらるゝ状態で、其外フアーも製造して居るが、伊太利を始め英米のフアーは依然として年に一万打位は輸入される。此金額が約百万円であるから、支那南洋に輸出して居るウールの十万打(一打約十円)百万円と結局差引なしと云ふ計算になつて居る、尤も昨年秋より鳥打帽子の流行が漸次中折に移り、低級の中折帽子は全盛を極め正確なる統計を知る能はざるも、目下の産額は支那輸出の増額とも併せて一ケ年五十万打以上に達する模様である。
 四十三年の関税改正は成功であつたと思つてゐます、目的通りウール帽子の輸入は絶無となり、大蔵当局が心配された輸出も立派に海外で外国品と競争してゐるから、今度はフアーの帽子につき、ウール同様、一打に付き四十五円の関税を課し、其輸入を防遏したいと考へ、いろいろ骨を折つて見たが意の如くならず、漸やく昨年の議会で十五円八十銭と云ふことになつたが、伊太利の協定が其侭で、何時改正案が実行されるか判らない有様である、フアー帽子も、もう現在では外国に如何なる品物が現はれやうとも、技術に於ては一歩も譲らないのみか、堂々と外国品を駆逐するだけの腕はあるが、なかなか総てが思つたやうには行くべき筈もない、私の会社だけでも現に四万打の生産を示してゐるが、景気が好くなつて来たら五六万打の生産をする設備は充分ある。
 斯うなつたのも結局子爵の御尽力の然らしめたもので、子爵が我社の会長となられ、職工規則から職工手当等の割振りに至るまで、一々眼を通して下されたことは洵に敬服に堪へません、現に私の会社の資本の三分の一は渋沢家でお持ちになつてゐるのを以て見ても如何に子爵が我会社の事業を御後援下されてゐるかゞ判り、その御好意に対しては実に感激せざるを得ない。
 最後に子爵は事業と御自分とを結びつけて居られるのである。他人の到底及びもつかない処は此の点にあると思ふ。好況時代に新会社を起し、創立委員長某と堂々名乗りを挙げて置きながら、偖て会社が出来た時分には委員長は疾に利益を得て株を売飛ばし、本人は影も見せぬといふ不徳の行為を敢て為した例は多々あるが、子爵のやうに幾年配当無からうとも、御自分発企された事業に対しては、何処々々までも面到《(倒)》を惜まれぬ御行為は真に稀れであると同時に頽廃せる我国世相に唯一の模範たる大偉人であることを私は深く感じてゐる。
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 尚これは余事ではあるが、私が昨年の夏、富山県の黒部に旅行した際、宇奈月の延待寺と云ふ旅館の床の間に掛けてあつた、実に珍らしいものを見て来た、それは左の通りである。
 富山県に遊びけるに高岡なる知人の延待寺と云ヘる酒楼にて歓迎の宴を催されし時、其席に打ちつどひて立舞ふ芸技のいと艶麗なるを見て
                栄一
  あなたうと名も高岡の延待寺
    歌舞のほさつのいろそろひか那
と云ふ掛物があつたが、かゝる繁忙な子爵をして、又斯うした閑日月もあると感じ入つたのである。