デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

2編 実業界指導並ニ社会公共事業尽力時代

1部 実業・経済

3章 商工業
6節 製紙業
1款 抄紙会社・製紙会社・王子製紙株式会社
■綱文

第11巻 p.32-45(DK110006k) ページ画像

明治8年6月(1875年)

抄紙会社工場成リ業務ヲ開始ス。然レドモ成績挙ガラズ、栄一苦心経営スルコト半歳、稍成功ノ域ニ達セルヲ以テ十二月開業式ヲ行フ。此間本社ヲ王子ニ移シ、第一国立銀行内仮会社ヲ東京分社ト改称シテ、印刷・製本並ニ本社製紙ノ販売ヲ掌ラシム。


■資料

抄紙会社記事 第二 自明治八年一月至同年十二月三十一日(DK110006k-0001)
第11巻 p.32-38 ページ画像

抄紙会社記事 第二  自明治八年一月至同年十二月三十一日
                   (王子製紙株式会社所蔵)
     同○明治八年一月八日
○上略駅逓寮ヘ郵便取扱所設置ノ儀ニ付促シ願書差シ出ス、然ルニ是ニ不及ノ趣ヲ以テ下戻ス○下略
     同○二月八日
○上略明後十日九時頃紙幣寮ヨリ王子工場見分トシテ出張ニ付、渋沢氏
 - 第11巻 p.33 -ページ画像 
ヨリ王子建築掛ヘ書翰遣ハサル
谷氏ヘ会社ヨリ右ニ付書翰差出ス○下略
     同 十日
○上略今日紙幣寮ヨリ工場ヘ出張之役員都テ九名也
 五等出仕 渡辺弘   六等 須藤時一郎
      矢島作郎     一川研三
      藤島正健     加藤済
      神田義次  十等 石井
      藤野実      以上
○下略
     同 廿六日
○上略大川平三郎採用ノ条申来ル工場往復第七十号○下略
     同○三月二日
○上略大川平三郎ヘ辞令ヲ渡タス○下略
     同 八日
鹿島万平ト千川用水ノ定約書相成リ、王子ヘ送ル約第弐第廿号○下略
     同 十日
○上略千川用水ニ付、鹿島万平ト約定取結ベリ約第二ノ第二拾号○下略
     同 十九日
紙幣寮ヨリ王子工場余地借受度旨相達セラル官府上申第二ノ第四十五号○下略
     同 廿日
紙幣寮ノ達書写並筧掛ノ書類絵図面状袋等工場掛ヘ送輸ス○下略
     同 廿八日
谷氏・渋沢氏分社ヘ撿査ニ出張セリ○下略
     同 廿九日
渋沢氏横浜ヨリ帰京○下略
     同○四月五日
○上略明後七日大蔵卿王子工場ヘ出張ノ達シ有之ニ付、渋沢氏ヨリ工場掛ヘ書翰ヲ送クラル○下略
     同 七日
○上略今日王子工場ヘ大蔵卿出張ノ約アリシニ、差支ノ趣ニテ明八日十時ト相決シヽニ付、此条工場ヘ申送ル○下略
     同 八日
○上略渋沢氏王子ヘ出張セリ
大蔵卿王子工場ヘ出張有レリ○下略
     同 廿八日
印書局青木重義ヨリ渋沢氏ヘ洋紙ノ儀ニ付、来翰アリ雑第三十六号○下略
     同○五月十五日
谷氏紙幣寮手漉紙ノ儀ニ付来社ス○下略
     同 廿六日
○上略此日岩倉大臣・大隈参議、王子当抄紙会社ヘ枉駕ス○下略
     六月一日
○上略今日トーマス・ボツトムリー、抄紙会社ト傭続ノ条約ヲ取結ヘタリ○下略
 - 第11巻 p.34 -ページ画像 
     同 二日
○上略第一銀行ト抄紙会社ト金銀貸借預ケ金等ニ付、約定ヲ今日ヨリ来ル明治九年六月二日迄一ケ年間取結ベリ約第弐之第廿七号
同銀行本店ヨリ金弐万円借用ノ稟議相済証書ヲ製セリ○下略
     同 四日
渋沢氏今朝出帆大阪ヘ往ケリ○下略
     同 五日
○上略紙幣寮手漉場建築地処ノ稟議書工場ヨリ差出セリ回議第四第四十四号○下略
     同 八日
○上略本月二日銀行ト取結ヒタル約定書銀行ニ於テ、不都合ノ廉有之ニ付、七月二日ヨリ明治九年六月三十日迄ト取極ハメ、日付ヲ改革セリ○下略
     同 十二日
○上略渋沢氏駿州ニ於テ三俣楮六貫目個六ツ買入レ、見本トシテ東京ヘ廻ハスノ段伝言アリタリ○下略
     同 廿三日
○上略東京府ヨリ紙幣寮所用トシテ当社ノ紙品差出タスヘキ趣相達セリ○下略
     同○七月六日
昨夕六時渋沢氏、大阪ヨリ帰京セリ○下略
     同 十二日
渋沢氏ヨリ青木重義ヘ書翰ヲ送レリ
○中略
今日王子工場ニテ初メテ紙ヲ漉ケリ○下略
     同○八月七日
○上略今日ヨリ東京分社ト称○下略
     同 八日
○上略斎藤純造氏第一国立銀行ノ方辞職ニ付、是迄抄紙会社株主惣代ノ検印等永田・斎藤両人ニテ務メ来リシモ、同所ヘ出身無之ニ於テハ永田氏壱名ニテ差支無之哉ニ見込筋有之候ハヽ、速ニ申越有之段掛合状差出ス襍ノ第三十九号
即日同組ヨリ回答セリ襍ノ第四十号○下略
     同 廿五日
○下略又渋沢氏ヘ谷敬三外坪内・加福・小野寺連名之書翰到来ス○下略
     同 廿七日
渋沢氏ノ名前ヲ以テ静岡ノ野呂整太郎ヘ三ツ俣楮ノ直段問合セノ書差出ス
髙島嘉右衛門ヘコークノ断状ヲ同氏ノ名前ヲ以テ差出ス
渋沢氏ヨリ王子工場詰ノ者ヘ掛合往復書数通被相渡○下略
     同 三十日
○上略静岡野呂整太郎ヨリ渋沢氏ヘ楮之儀ニ付、来翰アリ襍ノ第四十壱号○下略
     同○九月十八日
○上略紙幣寮ヘ御用ニ付、社員壱名出頭セシニ調度課ニ於テ紙ノ出来始メ等諮訊セシノミ○下略
 - 第11巻 p.35 -ページ画像 
     同 十九日
渋沢氏ヨリ福地源一郎ヘ書翰ヲ沿ヘテ羽毛田ヲ差出ス、但日報社入用洋紙納方定納ノタメ也雑第四十三号○下略
     同 廿二日
○上略工場用水ノ儀ニ付、谷敬三ト王子村外廿三ケ村ト示談整ヘリ回第五ノ第百九拾二号○下略
     同 廿五日
○上略紙幣寮ヘ侍郎出頭紙ノ見本三種受取、直ニ王子ヘ郵便ニテ差送レリ
同上紙価ノ儀ニ付稟議ニ及ヘリ回第五ノ第百九十四号○下略
     同 廿八日
谷氏来社紙幣寮ヘ紙価之儀ニ付出頭ス○下略
     同○十月四日
○上略羽毛田侍郎紙幣寮ヘ出頭ス、即命令書相渡サル
同上ニ付侍郎王子ヘ行ク○下略
     同 五日
○上略紙幣寮ヨリ昨四日御達ノ趣ニ付、請書差出セリ○下略
     同 七日
○上略紙幣寮ヘ羽毛田出頭受書差出ス、又紙ノ見本及ヒ煮爛ノ札払下等ノ儀上申ス
○中略
明八日正午十二時出門ニテ大蔵卿紙幣頭王子工場ヘ賁臨ノ沙汰有之、渋沢氏ヨリ是旨支配人迄達セリ、右使節トシ鈴木氏王子ヘ往ク○下略
     同 九日
○上略本日九時紙幣寮ヨリ御用ノ条御達ニ相成レリ
同寮ヘ差出タセシ紙ノ見本御下戻シニ相成レリ
同上ニ付王子工場ヘ羽毛田侍郎出張シ諸事打合セ帰レリ○下略
     同 十五日
○上略羽毛田氏紙幣寮ヘ出頭シ紙ノ見本差出方、来ル十八日迄御猶予願差出ス○下略
     同 十七日
○上略谷氏紙幣寮用紙見本ヲ携テ来社ス○下略
     同 廿日
○上略日報社並紙幣寮ヘ当社所抄ノ洋紙見本ヲ差出ス○下略
     同 廿三日
○上略羽毛田氏紙幣寮ヘ出頭シ、和製洋紙廿七万五千枚ノ抄造方請負ヘリ
同上ニ付、羽毛田氏王子工場ヘ往ケリ○下略
     同 廿五日
日報社条野伝平ヘ新聞紙用ノ紙見本ノ儀、書面ヲ以テ照会ニ及ヒシ処紙幣寮御用済ノ上ニテ差支無之旨回答ニ及ヘリ
谷氏来社ス、紙幣寮ヘ出頭ノタメ也
○中略
紙幣寮ヘ紙ノ見本持参ニテ羽毛田出頭セリ○下略
 - 第11巻 p.36 -ページ画像 
     同 廿八日
○上略工場ヨリ坪内来社、紙幣寮ヘ出頭シテ紙ノ見本ヘ契印ヲ取リ帰レリ○下略
     同 三十日
○上略紙幣寮ヨリ紙ノ見本弐種御下渡ニ相成、同処ヘ差送ル、又明卅一日出来スル丈ノ紙不残同寮ヘ上納スベキ段御達ニ相成レリ○下略
     同 三十一日
○上略紙幣寮注文ノ紙五千枚上納ス、羽毛田氏之ヲ行フ○下略
     同○十一月四日
紙幣寮用紙ノ儀ニ付、早朝石井範忠ノ邸ヘ羽毛田氏相伺フ、午前十時久次郎紙幣寮ヘ出頭ス
久次郎ニテ分リ兼タリシニ付、羽毛田氏出頭ス
午後三時久次郎同寮ニ出頭シ、紙ノ寸法等問合ス○下略
     同 五日
○上略紙幣寮ヘ見本紙差出ス、不納○下略
     同 七日
○上略紙幣寮ヨリ二回注文紙見本紙抄造セシニ出来栄不宜ニ付、請負カタキ旨上申ス
谷氏来社
初度御注文紙壱枚並所納五千枚ノ代価受取トシテ紙幣寮ヘ伊東久治郎出頭《(マヽ)》ス○下略
     同 十日
○上略紙幣寮ヨリ午後三時五分ニ及、即刻拾リーム丈ケ相納メ可申旨達セラル、然ルニ時間無之ニ付、明後十二日相納メ可申旨企願ニ及ヘリ
     同 十一日
印書局ニ於テ、抄紙会社ヘ壱手売捌所可被申付内意ニ付、願書可差出段、稟議書差出タリ回議第五ノ第二百十六号
紙幣寮ヘ三拾三リーム、羽毛田氏出頭上納ス○下略
     同 十二日
紙幣寮於テ急御用ニ付、羽毛田氏出頭セシ処、来廿日迄ニ兼テ命スルトコロノ料紙可相納段、御達シニ相成レリ○下略
     同 十三日
紙幣寮ヘ三万枚ノ御注文紙、羽毛田氏相納ム
同寮ヘ代価受取トシテ久次郎罷リ越セリ○下略
     同 十五日
紙幣寮ヘ壱万五千枚上納ス、外ニ弐百五拾枚引換紙上納ス、但シ代価ハ其壱割引ニテ買上クヘキ旨被相達
尚同上壱割引之紙二百五拾枚、明十六日迄ニ可相納段被申付、此外五拾枚ハ舎蜜科《(密カ)》ヘ相納ム
昨十四日坪内安久、紙幣寮ヘ出頭シ罰金ノ御受申上タリ
但紙納方遅延ニ及候節ハ《(マヽ)》
     同 十六日
納紙六千枚ヲ紙幣寮ヘ取計フ
○中略
 - 第11巻 p.37 -ページ画像 
今霄十一時三十分ヨリ紙幣寮ヘ出頭シ、而後王子ヘ出張セリ、粗紙五種見本受取リ帰レリ、即紙幣寮ヘ差出ス
     同 十七日
○上略紙幣寮ヘ七千枚上納ス
昨夜紙幣寮ヘ差出セシ見本粗紙不残差戻サル○下略
     同 十八日
紙幣寮ヘ五千枚ヲ上納ス
伊東久次郎、紙幣寮ヘ代金受取ノタメ出頭ス
王子ヨリ五千枚ツヽ三回紙幣寮ヘ上納ス
     同 十九日
王子ヨリ本日午前迄ニ壱万枚ノ用紙ヲ紙幣寮ヘ上納ス
午後九千枚ヲ同寮ヘ上納ス○下略
     同 廿日
紙幣寮ヘ紙壱万六千枚上納ス
○中略
同上車力洋紙持帰リ、紙幣寮ヘ納ム
王子ヨリ午後四時ニ六千枚ヲ送リ来ル
     同 廿一日
和洋紙壱万四千枚ヲ紙幣寮ヘ上納ス
     同 廿二日
○上略紙幣寮ヘ壱万五千五百枚外ニ五百枚引換紙ヲ上納セリ、紙幣寮ヨリ明廿三日正午十二時ニ無相違紙上納スヘク段、申達セラル○下略
     同 廿三日
○上略壱万六千枚上納ス、但紙幣寮調度課ヘ○下略
     同 廿四日
○上略壱万五千枚紙幣寮ヘ上納セリ○下略
     同 廿七日
○上略紙幣寮ヨリ紙三千枚引換ノコト申達セリ
四百三円拾弐銭五厘紙幣寮ヨリ受取レリ
     同 廿八日
○上略昨夜紙幣寮ノ紙質ノ儀ニ付、堀内晋助来社
○中略
日報社ノ紙ノ儀ハ来ル十二月一日ヨリ抄造ノ事申送ル
○中略
昨廿七日付ヲ以テ米国博覧会事務局ヨリ、当社所抄ノ洋紙ヲ差出スヘク段、被相達○下略
     十二月一日
○上略紙幣寮ヘ上納紙、昨卅日六千枚今八千枚王子ヨリ差送リ越セリ
○下略
     同 二日
本社ヨリ紙幣寮上納紙送リ来リ直ニ相納ム
紙幣寮上納紙二拾七万五千枚ノ口不残相済メリ○下略
     同 三日
紙幣寮ヘ上納紙代価受取ノタメ久次郎出頭ス
 - 第11巻 p.38 -ページ画像 
支配人ヨリ当社開業ニ付、新聞紙ヘ掲載方並廻文案及東京府ヘ届書等稟議差出タセリ○下略
     同 五日
活版局ヨリ拾三万零百九拾三個御渡シニ相成レリ
紙幣寮調度課ヨリ御達ニテ羽毛田氏出頭セシトコロ、百二十リーム注文可致旨御達シニ相成レリ、然ルニ機械営繕中ヲ以テ辞ス
諸新聞紙ヘ活字売捌所ノ広告ニ及ヘリ○下略
     同 八日
○上略紙幣寮ヘ全紙五百枚引換ニ出シ藤野氏ヘ渡セリ○下略
     同 九日
紙幣寮ヘ全紙三千枚引換トシテ差出シ、粗紙三千百枚受取リ来ル、伊東久次郎之ヲ取扱フ○下略
     同 十日
○上略東京府ヘ開業式ヲ届ケリ、飯塚氏ノ掛リ也○下略
     同 十二日
紙幣寮ヨリ紙抄造方命セラレ、受書差出タセリ○下略
     同 十三日
○上略紙幣寮ヨリ紙ノ見本、第壱号ヨリ第六号迄相下カレリ回議第五ノ第二百二十七号○下略
     同 十四日
○上略紙幣寮ノ達書並見本、第壱号ヨリ六号迄王子ヘ送ル○下略
     同 十六日
王子工場開業ニ付当社役員出張セリ○下略
     同 廿三日
○上略紙幣寮ヨリ三百リーム上納ノ達シ有之レリ、但紙寸法ハ不同於最前之紙質○下略
     同 廿六日
○上略昨廿五日渋沢君ノ差図ニテ王子工場ヘ紙幣寮ノ抄帋方ノ儀、可成丈勉強可被致ノ条申送ル、右ニ付同処ヨリ今日返書来ル、渋沢氏並第一銀行ヨリ王子工場ヘ書状差出タセリ、但坪内安久持帰レリ○下略
     同 廿七日
紙幣寮三百リーム注文ノ儀ニ付、羽毛田氏同寮ヘ出頭セリ○下略
     同 廿八日
紙幣寮御用紙九百リーム御注文ニ付、羽毛田氏出張シ御受書差出タセリ回議第五ノ第二百三十一号○下略
     同 廿九日
○上略紙幣寮ヨリ御達ノ洋紙製造方九百リームノ儀、今日羽毛田氏出頭ノ上決定ス


王子製紙株式会社回顧談 (男爵 渋沢栄一) 第一七―二六丁(DK110006k-0002)
第11巻 p.38-41 ページ画像

王子製紙株式会社回顧談 (男爵 渋沢栄一)  第一七―二六丁
    四、敷地選定と工場建築
○上略
工場建築のことは英国から傭うたチースメンといふ技術師が指揮してやる訳で、敷地の決定と共に基礎工事に着手した。それで又此の西洋
 - 第11巻 p.39 -ページ画像 
建築といふものが当時の人の目には非常に珍しかつた○中略却説建築界なぞも左様な状態の時に、抄紙会社は英国から大工を傭うて西洋造りを建てるといふのであるから、当時の人目を聳動せずには居なかつた。建築工事は鹿島組が請負ふことになつた。これは鹿島岩蔵といふ人がやつて居た請負業者で、非常に勉強する一派で、今の清水組なぞは未だ今日の如き組織ではなかつた。建築請負業といふことも其の頃漸く其の風が起つたのであるが、幕府時代の請負といへば人も知る如く棟梁制度であつたが、維新以来西洋の風習を見習つて分業的の請負なるものが始まつたのである。それで此の請負建築といふことに就いても抄紙会社なぞは殆ど頭初の試みであつたと云つてよい。偖て大概の仕事は鹿島組がやるので、英国から来た技師は工事の指揮者であつたが、此のチースメンの建築の仕方を見て居ると、彼は最初に敷地と定められた場所に縄張りをして、田圃の土を深く掘り返さした。従来の日本式建築でゆくと礎石を置いて其の上へ高く柱を立てゝゆくのであるのに、敷地を深く掘り起させたから、全く不思議に思ふた。あんなことをして地中へ家を建てるのではあるまいなど評して居る中に、今度は煉瓦を以て頻りと地中に積み重ね方形に地表まで築き立てた。後に思ひ合せれば此が土台の工事であつたが、嘗て見たことの無い仕方であるから一時は皆変なことをすると思つたのも、其の頃の人の思想としては寧ろ当然であつたろう。それから段々上へ上へと煉瓦を組立て、次第々々に箱の様な家の形が出来た。何しろ本式の西洋建築といふものは此が東京附近では初めてのものであつたから、世人の評判は中々にゑらかつた。併し此の工事に就いても当事者は随分と困難の思ひをした。王子の地は根が溝田であるから仕事が容易でない。技術の進歩した今日では左まで感ぜぬであらうが、これが日本で最初の仕事であるから、経験も工夫も一度にやつて行くわけ、其の困難は一通りでなかつた。殊に其の地は単に溝田といふばかりでなく地盤も誠によくなかつた。それを切開いて煉瓦を組立てゝゆく技師の苦心も察してやらねばならぬ。幸にもチースメンといふ人は相当なる技術者であつた所から、予期通りにはゆかなかつたが聊かの遅延位で工事も恙く進行し、翌八年六月に至り、全く竣成を告ぐるに至つた。斯かる間に外国へ註文した機械類も次第に来着したので、順次に其の据付けをも終り、玆に辛くも日本第一の工場は落成を告げたのである。
○下略
    五、増資と両分社
○上略
此の間に同年の九月桜井漸といふ人が島田組の代表者として入社し、副支配人の名目で横浜の抄紙分社の事務を執ることになり、専ら活版印刷の業を営んで本社の事業を間接に助けることにした。又翌八年八月には第一国立銀行内に置いてあつた仮会社を東京分社と改称して矢張り印刷製本の事業を経営し、本社の製紙と並び立つて文運の発達に貢献した。特に東京分社は創業後十年間は本社製紙の販売をも兼ねて居たが、此の間其の一切の衝に当つた者は星野錫氏で、製紙の販路拡張には大に努力したものである。此の両分社は後明治二十九年六月に
 - 第11巻 p.40 -ページ画像 
至り分裂して、同時に創立された東京印刷株式会社に合併した。玆に至つて全く製紙会社と印刷会社とは別物になつたのであつた。
    六、創業と失敗の惨苦
外国から傭つた二人の技師を王子の工場附近に住居させる方が都合よいといふので、王子の亀山へ家屋を新築してそれへ移住させたのが明治七年の十二月であつた。チースメンもボツトムリーも共に其の家に住居して工場建築の監督をして居たが、翌八年の六月には全く落成を告げたから、其の月から直に蒸汽機関に拠つて元車の運転をなし、又破布鍋の使用を始めた。此の頃紙の原料としては専ら襤褸を用ひたもので、藁だの木材だのを用ひるやうになつたのはずつと後のことである。それで襤褸の買収は其の以前から手を下して居たが、五月から襤褸撰りにかからせて、工場の竣成と共に機械を運転させるだけの用意をして置いた。此の襤褸から白紙を製造するといふことも其の頃には一つの問題で、これ迄楮や三叉でなければ紙にはならぬと考へて居たのに、あの汚れた真黒な襤褸から如何にして紙を造るであらうか。第一染め着けてある色を落して白くすることが出来ようかなぞと、孰れも不可思議に思ひ同時に幾分危ぶみもしたのである。
扨て段々用意が整うて愈々紙漉きに掛り、専門技師のボツトムリーを首領に日本の相当の人々を附随させて紙の漉出しを試みて見ると、機械は動くがどうしたものか紙はとんと出ない。たまたま少しづゝは出るが長くは続かず直に切れて仕舞ふ。今日少し出てよい案配と思つて居ると又翌日は切れる。初めの間は自分も大に心配であるから、殆ど隔日位に出張して見たが、余りに切れるのみで俗に云ふ気の引ける位な有様であつた。自分も呆れ返りて、一体これはどうしたものであらうか。将来は見込みある事業には相違ないが、斯う云ふ具合では仕方がないと思ひ、遂に主任技師ボツトムリーに厳重なる詰問を試みた。自分は技師に向つて君は経験ある外国の紙漉技師である。それであるから相当の給料を以て傭入れたのである。当時傭ふた時に私は君に何んと曰つた。此の機械は横浜の「亜米一」ウオールスホール・コンパニーに約束して買入れた機械である。フオーゾニアマシーネと云ふ英吉利に普通行はれて居る所の最良の機械であると言はれた。果して左様であるかと君に問うたら、君は其の時答へて、お説の通り完全なものであると答へた。然らば君は永い間の経験を基として其の事に従事し、且つ原料も水も薬品も皆君の好む所に従つて具備してありながら此の紙が機械に乗つて抄出せぬといふのは如何なる訳か。それとも君の技術の未熟であるといふことを証明したのか。何故紙は出ぬのであるかと、自分は随分ひどく突込んだ。すると彼の云ふには、機械も原料も亦自分の技術も完全である積りだが、職工が悪いのだ、職工が命令を用ひぬから結局こんなことになつて来たのであると答へた。自分は更に、職工が君の云ひ付け通りにせぬといふことは無い筈である。想ふに此は君の技術が巧みで無いからであらう。従つて原料の製造が悪いとか、若しくは薬品の調合が宜しくないとかいふことから、紙が都合よく出ないのではないかと段々責めた所が、彼も最後に云ふにはどうぞ一週間待つて呉れ、一週間待つてそれで工合好く出来ないなら
 - 第11巻 p.41 -ページ画像 
拠ろないから自分は会社を退く。よし又放逐されても敢て怨とは思はぬとまで申出でた。其の責めた為であつたか若くは時期が来つたのか其の中に紙が漸く少しづゝ延び出す様になつたが、併し決して完全なものではなかつた。其の漸く紙らしいものゝ漉き出し得らるゝ様になつたのは明治八年の八・九月の交であつた。扨て左様に種々なる苦心をして紙は漉上げて見た所で、其の出来た所の紙はどういふ種類であるかといふと、漸く荷包みをするやうな粗末な厚い紙である。渋紙の様なものを漉出す為に左様に云ふ可らざる程の苦心をした。苦心したのはよいとしても其の漸く得たるものは価の安い粗末なもので、迚も計算して引合ふものではない。それで丁度明治八年の末頃までに段々の営業試験費等の損耗が積んで、其の額が凡そ四万円以上になつた。会社の工場建築、或は紙の漉立方等前に述べた如く初めから苦しんでやつと仕事が出来上ると其の製品たる紙は時好に適ふ品物ではなく、而して其の間の損失といふものは四万円以上の巨額に上つた。斯かる有様であるから、其の当時を見た者は何人でも会社の前途は見込みなきものと考へたに相違ない。併し乍ら根本は自分が勧誘して始めた事業である。株主の多くには自分が勧めて出資を仰いだ。前にも述べた通りの理由を述べて賛成を求めた所が、人々は至極尤もであると云つて其の勧誘に応じて呉れた。表面は兎も角、事実は自分が担当してやつたと同様で殆ど三個年を経過し来つた暁が前陳の始末。玆に至つて自分は殆ど面目ないと言はうか。赧然に堪えぬと言はうか。俗に云ふ穴があらば這入り度いとは斯かる場合のことを云つたものだらうと思はれた。殊に自分が一番心を痛めた所は、仮令事業は小なりと雖も、外国から機械を仕入れ技師まで傭うて工業を起したのは日本に於ては殆ど此が始めてである。然るに若し不幸にして此の企業が中道に挫折する様なことでもあつたならば、自分が申訳の立たぬ位は第二としても、今後に於ける我が国工業の発達に一大打撃を与へるであらう。泰西の文化を輸入して大に商工業を起さうとする矢先き、其の先覚者を以て任じた抄紙会社が頓挫したとあつては、今後当分機械工業に手を下す者がなくなるであらうと、此の難局に当つた自分は様々の感想に駆られて非常に困難した。自分は四十年後の今日に至つても尚其の当時のことが想ひ出されるのである。けれども其の頃如何に悶へ煩へばとて一旦発表して着手した事業を中止する訳にはゆかぬ。又自分としても心に期してかゝつた仕事を中途で屈撓するは快くない。どうしても遣り遂げたい。宜しい。決して屈するには及ばぬ。目下は損を重ぬるとも、機械はある。原料はある。詰り需用は今後日と共に進むに違ひない品物であるから、一時の困難に遭遇したからとて直に此の事業の目的が悪るかつたとは決して云はれない訳である。斯く心を取り直して専心其の事に従事したのであつた。所が其の年の十月に入つて始めて白紙が漉ける様になり、十二月には新聞用紙の抄造を試みた。依つて同月開業式を挙行するの手順にまでなつたのであつた。


竜門雑誌 第四八一号・第八六―九〇頁〔昭和三年一〇月二五日〕 青淵先生と製紙事業―偉大なる其の人格―(大川平三郎)(DK110006k-0003)
第11巻 p.41-44 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第八六―九〇頁〔昭和三年一〇月二五日〕
  青淵先生と製紙事業 ―偉大なる其の人格―(大川平三郎)
 - 第11巻 p.42 -ページ画像 
 青淵先生は製紙事業の父である。而して製紙事業は先生が工業に手を染められた冒頭第一の事業であると私は思ふ。明治六・七年の頃先生が当時の東京に於ける大資本家三井組・小野組・島田組を説いて資本金弐拾五万円の抄紙会社を起されたのが、現在の王子製紙株式会社の起源である。当時は明治新政の所謂創業時代で色々な社会的変転の絶え間がなかつた。抄紙会社の出資者たる島田組・小野組が会社創立後三四年の間に相踵いで破産して、残る者は三井組のみとなつた次第であるから、資本関係に於ける困難は容易でなかつたらう。若し其際会社の中心人物が青淵先生でなかつたならば、抄紙会社は半途にして挫折して居たかも知れない。延いては我国製紙事業も今日の発達を遂げ得なかつたかも知れぬ。
 煙草の吸殻が大都会を灰燼にして仕舞ふこともある。物の動機は不思議な力を以て働く事を考慮せねばならぬ。囲碁で捨石を打つと云ふが、巧妙な捨石はよく全局面を転換する。此意味を念頭に置いて、青淵先生の製紙界の創業に於ける御尽力を顧ると意義の頗る重大であつた事が思ひ当る。小野組が倒れた時、私は渋沢家の玄関番であつたが当時先生が同組の番頭であつた古河市兵衛氏其他の人々と小野組の挽回策に就て協議されて深更に及んだ事が屡々あつたのを覚えてゐる。実際小野・島田の両組が倒れて抄紙会社は三分の二の資本主を失つた訳であるから、事態の急なる事は此上もなかつた。
 凡て創業の人は産みの悩みを経験せねばならぬ。新事業の創立者然り、荒蕪地の開墾者亦然り、或ひは人跡稀な新島開発の如き最も困難なるものであらう。而もよく艱難を経て初志の達成を得たものは上乗の人とせねばならぬ。其成功の域に至らずして斃れた人に至つては挙げて数ふる事が出来ない程であらう。社会の発展、事業の進歩は偏に此等創業家の賜と云ふべきである。後人は創業の苦難を理解し、創業の人に深き感謝を捧ぐるが当然である。抑々創業難とは何であるか。それは人を得る事の困難を第一に数ふべきである。所謂適材を適所に配置することの出来ぬ困難である。完璧を得た工場も人ありてこそである。それでは抄紙会社に適材があつたか。資本金弐拾五万円の会社今日にしては何でもなき小会社であるが、当時は先づ東京一の大会社であつた。其支配人は腕前の慥なる経験家、科学の知識と経理の才を併せ有する人でなければならぬ、其人物の選択は可成り苦心せられた事であらう。大阪の造幣局に権助といふ重き御役人たりし谷敬三君が其の任に当る事になつた。谷君は有名な蘭学者坪井信道君の息、化学の造詣頗る深き分析学者であつた。又算数簿記学にも精通せる注意周到綿密極まる頭脳の持主で当時之以上の人物は得難かりし事と思ふ。けれども冶金学の大家も製紙術に対しては手腕を施す道がない。製紙術も其道の熟練家でなければ迚も宜くは行かぬ。かく人が無ければ仕事が出来ないのは動すべからざる原理であるのに、抄紙会社は先づ人を作らずして工場を急いだ。玆に間違があつた。為めに青淵先生が創立家として第一の困難を嘗められたのであつた。事業は経験家が無ければ物にならぬ。資本の力許りでは何事も出来ぬと云ふ事は至極簡単であるけれども人は容易に此処に思ひ及ばぬが常である。私も十数年
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前に漸く簡単なる此原理を深刻に悟り得た次第である。斯様な事を申して先生の事業を、後世より批判するのは憚り多き事であるが、あの当時に於ては如何なる賢と雖も外に踏むべき途が無かつたのである。而もそれが全然止を得ざる事実であつたとすれば、其事理を明かにして置く事が興味ある事柄ではあるまいか。其頃外国へ機械を註文するには横浜に於ける外国商人と交渉するの外途が無かつた。就中ウオルシ・ホール・エンド・コンパニーと称する商会が最も有力で、これはアメリカ一番館の意味から通称アメ一と云つて、其処の主人はウオルシユ(Walsh)兄弟で兄をトーマス弟をジヨンと呼び両方とも非常に日本人を愛し且義気に富んだ人達であつた。話は脇道にそれるが三菱の岩崎弥太郎君も此の商会に出入し絶えず其保護援助を受けられた。三菱の今日あるは、ウオルシユ兄弟大いに与つて力ありと云ふべきである。後年私も米国に於いて、ジヨン君の援助を受けた事は一通りではない。全く自己の子供を愛する様に外国の一書生たる私を愛し、暑中休みせよとて、私を自宅に宿泊せしめ、海水浴場に同遊せしめ、研究資料たる書物又は趣味深き小説等を与ふる等、親身も及ばぬ恩恵には時々其知遇の不思議を感じた位であつた。其頃のアメリカの富豪中には我等外国の青年を愛撫する温情極めて深き人多く、今も尚忘れ難き尊敬と感謝とを捧げ居る人が沢山あつた。今日の米国では気風一変し排日論者等と云ふ忌々しき輩も簇出し、真に「今昔の感に堪へぬ」とは此等の事をいふのであらう。話は前へもどるが抄紙会社は此商会に製紙機械買入の仲介を依頼したのである。当時私は年少にして、此製紙機械買入を依託した内情の詳細を審かにしなかつたけれども、製紙事業に精通せざる抄紙会社が斯様に全く素人のアメ一に製紙機械を註文した事は先づ第一歩の過であつた。アメ一は又これを倫敦のエゼントに移したが、之亦製紙業には丸素人である。此エゼントが製紙機械に対しては、経験なき素人の機械製造会社に註文したのである。其の頃でもマンチエスター方面には製紙機械専門の工場が二三あつた。若し此専門工場に註文したならば抄紙会社に於ても創業の困難を左程にせずとも済んだかも知れぬ。然るに素人の製造所に註文したのは不思議の事で、註文する人も受ける人も不都合の次第だ。かくして抄紙会社の機械が総て素人の手で出来たのである。素人の眼には実に完全に出来上つて居た。そして丁寧親切な絵図面が添へてあつた。そこで抄紙会社では此絵図面の写しを作りこれを工場へ渡して、元図はこれを保存する事にしたのであるが、其時私は此絵図面復写の為めに月給五円で雇はれたものである。機械の組立てには英吉利からフランク・チイースメンと云ふ技師が派遣されて来た。所が此人は大学出のゼントルマンで学理の蘊蓄は相応にあつたが、プラクチカル・エンヂニヤーではなかつた。私は此人がスパナーを手にして少々難しい仕事をする時、手が震へてゐるのを目撃して是は変だなと思つた。此人は素人だかも知れぬと感じた。昔の所謂紙漉と云つた手工業ならば兎も角、進歩した複雑極まる機械作業による製紙事業に於て、実地に疎い技師一人に対して万全を期し、之に依つて機械を満足に組立てゝ運転しようとしたのは余りに無理な計画であつた。それを経験のない一技師チイ
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ースメンに委して満足しようとした抄紙会社に幾多の間違が起つたのは止むを得ない次第である。実際絵図面は一見微細を極めたもので、之に依つて機械を組立てたならば其後の運転作業の如きは簡単に出来ると考へて、大学出の一技師を派遣して恬然として居つた英国の機械会社も不親切か無智か何としても不可解の事である。扨て愈々機械組立てを完了して製紙作業に取り掛る運びとなつた。製紙作業と云へば先づボイラーの火夫、エンヂンの運転手、原料を煮上げる人、原料を仕上げる人、紙漉の技術家等、数へると可成りの分業になつてゐる。之に対して会社は米人技師トーマス・ボトムレー氏一人を聘して是に一切を管理させたのであるが、是も一人では迚も出来る筈のない仕事を一人に委せたのが大なる間違で、果して製紙工場は作業を開始しても紙は出来ない、一月経つたが機械から紙は出て来ない。二ケ月を経過した。それでも駄目である。私は其時最早絵図引の仕事を終へ工場に入り、此の有様を見て、これでは大変だと思つた。斯んな事では終には会社が潰れると云ふ感じがした。私は此時勇気勃々、一番此機械の取扱に精通して会社の苦境を一掃したいとの希望が起つた。此の六ケ敷い機械に精通しさへすれば、終いには此会社の支配権を握る事も出来ると思つた。そこで死力を尽して此希望貫徹に猛進する堅い決心を定めた。当時会社の周章の様は大変なもので、青淵先生は屡々王子へ出張せられ外国教師両人に対し厳重なる談判をなされた事も度々であつたが、原料の製造は僅かに知つても製紙機械の事はまるで素人たる彼等には、幾度厳談されても別段解決の附く返事の出来る筈はない青淵先生が非常にお心を悩ませられたのも御責任の上から左もあるべき筈である。○下略


社事要録 第一巻(DK110006k-0004)
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社事要録 第一巻           (王子製紙株式会社所蔵)
明治七年
九月 ○上略鹿島岩蔵ノ請負ニテ建築起工ス、曩ニ注文セシ諸般機械漸次到着ス
明治八年
一月 曙新聞社ノ依頼ニヨリ同新聞ヲ印刷ス、後印刷機械ヲ同社ヘ貸渡ス
 依願桜井副支配人ヲ解傭ス
五月 始テ破布ヲ撰ル
六月 蒸汽缶ニ拠リ元車ノ運転ヲナシ、及破布鍋ノ使用ヲ始ム
八月 王子ヲ以テ抄紙本社トシ第一銀行内仮会社ヲ東京分社ト改称ス包紙ヲ始抄ス
十月 始メテ白紙ヲ抄出ス
十一月 工場内藁納屋焼失ノ為メ、右取調中谷支配人ハ王子副戸長ニ預ケラル
十二月 始メテ新聞用紙ヲ抄造ス
 開業式ヲ挙行ス
年末株金総入金高 弐拾壱万六百円也
  ○明治七年十二月及ビ明治九年五月ノ項参照。

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〔参考〕渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治八年)三月六日(DK110006k-0005)
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渋沢栄一 書翰  大隈重信宛(明治八年)三月六日  (大隈侯爵家所蔵)
○上略抄紙会社之拝借願も国債寮ニさし上候、是又至急御許容奉願候○中略
  三月六日                 渋沢栄一
    大隈大蔵卿閣下